天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
山辺皇女の年齢 やまべのひめみこ First update 2008/06/01
Last update 2011/02/10 663天智2年生〜686朱鳥1年没(24歳) 本稿 正式には「邊」ですが、「辺」の旧字体として通用していますから、本稿は「辺」で通します。 父 天智天皇 母 蘇我赤兄の娘、常陸娘 夫 大津皇子 義母 大田皇女 蘇我赤兄―――――――太蕤娘(妹) ├―――穂積皇子 ├―――紀皇女 ├―――田形皇女 天武天皇 | 蘇我倉山田石川麻呂――遠智娘 ├―――大津皇子 ├――大田皇女 | 天智天皇 | ├――――――――山辺皇女 蘇我赤兄――常陸娘(姉) 年齢根拠 山辺皇女の祖父は蘇我赤兄です。記録の残る蘇我赤兄の娘は二人、一人が太蕤娘(おおぬのいらつめ)で天武天皇に嫁ぎました。 もう一人がその姉、常陸娘で天智天皇に嫁ぎ、この山辺皇女をもうけました。 その後、天武天皇の息子、大津皇子の妃となります。この娘の最後は壮絶。天武天皇が亡くなってすぐ発覚した夫、大津皇子が謀反の疑いで死を賜ったのです。妃山辺皇女は髪振り乱して素足で磐余の譯語田(おさだ)の家に走り赴き、夫に殉じたので、見る人が皆すすり泣いたと日本書紀に記載されています。 夫の死にやっと間に合うというあわただしい死でした。それほど愛していた夫に殉じたこの夫人も相思相愛の年齢と考えたい。このとき、大津皇子は24歳で死んでいますから、同年齢としました。 600 555555555566666666667777777777 年 年 012345678901234567890123456789 齢 天智天皇―――――――――――――38―――――――46 46 蘇我赤兄――30―――――――――40―――――――――50― 50(扶桑略記) 常陸娘 FGHIJKLMNOPQRS―――――――― ? 山辺皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOP―24 大津皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOP―24(日本書紀) これを検証するには、天智天皇の左大臣、父蘇我赤兄の年齢が参考になります。扶桑略記によれば671天智10年正月、右大臣から左大臣に転じたとき49歳。又、公卿補任によれば、天武元年672年壬申の乱で大友皇子側について破れ、配流されたとき50歳とあります。両者は同じ年齢を指し示しており、天智天皇より3歳年上と考えていいと思います。天智天皇に納められた常陸娘は赤兄22歳の時に生まれた子供となり、その娘にとって父と同世代の天智天皇は18歳も年が離れていました。 天智天皇の蘇我氏の嬪たちが産んだ子供の年齢比較 また、日本書紀の天智天皇の四人の嬪の記載序列を見ると、遠智娘、姪娘、橘娘、常陸娘の4人です。父は蘇我山田石川麻呂大臣、阿倍倉梯麻呂大臣、蘇我赤兄大臣です。日本書紀の后妃の順は同じ嬪のなかにあっては年齢順と考えられます。少なくとも蘇我氏の娘たちの序列において、天智天皇の子供の年齢は大田>御名部>山辺の順に生まれたはずです。 大田皇女>鸕野皇女>建皇子 母は蘇我山田石川麻呂の娘、遠智娘(姉) 御名部皇女>阿閇皇女 母は蘇我山田石川麻呂の娘、姪娘 (妹) (飛鳥皇女>新田部皇女 母は阿倍倉梯麻呂大臣の娘、橘娘) 山辺皇女 母は蘇我赤兄大臣 の娘、常陸娘 600 444444555555555566666667777777777 年 年 456789012345678901234567890123456 齢 天智天皇―20―――――――――30―――――――38―40―――――46 46(書記) 大田皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24 (本稿) 鸕野皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――――――58(書記) 建皇子 @ABCDEFG (書記) 御名部皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQR―? 阿閇皇女 @ABCDEFGHIJKLMNO―61(続紀) 山辺皇女 @ABCDEFGHIJKLM―24(本稿) 上記の年齢表は天智天皇の年齢がほぼ確実とされる皇子たちの一覧です。 これを見ても、日本書紀の序列通りの記載に矛盾はありません。 大津皇子は天武天皇の息子達のなかでも年長組に属します。とういうことは、この山辺皇女も上記、草壁皇子とほぼ同年齢の大津皇子の妻、阿倍皇女とも同世代の女という仮定がなりたつと思います。 少し煩雑なのでもう一度まとめます。 蘇我赤兄は自分の娘を自分と同世代の主人、天智天皇に納めたのです。娘の夫は父と同世代の年齢です。 そして生まれた山辺皇女は天智天皇の最晩年の娘の一人でなければなりません。 大田皇女も山辺皇女も天智天皇の娘ですが、大田が生んだ大津皇子の妃に山辺皇女がおさまるからです。 また、蘇我赤兄は天武天皇自身にも娘を納めています。常陸娘の妹太蕤娘(おおぬのいらつめ)です。天智天皇と同様に親子ほど離れた男に娘を娶せたのでしょうか。違うと思います。今度は娘に相応しい年齢の男、それが若い天武天皇だったのではないでしょうか。 蘇我赤兄は蘇我馬子の孫、倉麻呂の子です。赤兄の兄には、蘇我倉山田石川麿がいます。この兄は天智天皇に遠智娘と姪娘の二人の娘を嫁がせました。天武天皇には娘を嫁がせてはいません。弟の赤兄は天智天皇と天武天皇にそれぞれ娘を一人ずつ嫁がせています。 山辺皇女の母、常陸娘は、663天智2年ごろ、天智天皇晩年38歳前後に山辺皇女を生んだことになります。それは斉明天皇が亡くなり、中大兄皇子が天智天皇として立とうとするときに、蘇我赤兄より捧げられた女となります。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |