天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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高市皇子の年齢 たけちのみこ

First update 2008/11/03 Last update 2011/01/29

 

          696持統10年7月10日薨去 (日本書紀)

654白雉5年生?〜696持統10年7月没 43歳?(扶桑略記 他)

661斉明7年生 〜696持統10年7月没 35歳 (本稿での主張)

 

父 天武天皇

母 尼子娘   胸形徳善の娘

妻 御名部皇女 天智天皇皇女。一代要記に長屋王母とある。

  夫持娘   本朝皇胤紹運録に長屋王の母とある。御名部皇女のことか?

  十市皇女  万葉集

  但馬皇女  万葉集

子 長屋王 684天武13年生〜729神亀 6年没 46歳(扶桑略記など)

  鈴鹿王 690持統 4年生〜745天平17年没 56歳(本稿)

  矢通王?(一代要記に「大津皇子將謀叛賜死」とある。)

 

 姪娘

  ├――――――――――御名部皇女(姉)長屋王の母?

  ├―――――――――――阿閇皇女 妹)後の元明天皇

天智天皇           ――――氷高内親王(後の元正天皇) 第一子

  ――鸕野皇女      ――――軽皇子  (後の文武天皇) 第二子

  | (後の持統天皇)   ├――――吉備内親王         第三子

遠智娘   |―――――――草壁皇子    ―――膳夫王など

    天武天皇              |

     ||――――――高市皇子―――長屋王

     ||尼子娘     | |

     |――――――十市皇女|

     |額田王        |

     ―――――――――但馬皇女

     氷上娘

 

 

高市皇子の夫人はよくわからないのが現状です。

高市皇子の子、長屋王の母には二人の候補者がいます。

ひとつは一代要記によるもので「母は近江朝天皇の女(むすめ)、御名部皇女」とあります。御名部皇女は天智天皇の娘で、元明天皇の姉にあたります。

もうひとつは本朝皇胤紹運録によるもので「母は夫持娘、御名部親王女」とありますが、「御名部内親王」ではなく「御名部親王女」とあり、これが誰なのか、書き間違いなのかはわかりません。

 

一方、万葉集に高市皇子の夫人と思われるような表現が二つ見られます。

ひとつが十市皇女のことです。高市皇子と同じ父、天武天皇を持ち額田王を母とする娘です。万葉集に「十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首」とあることから二人が結ばれていたとするものです。夫婦というよりはまだ恋愛段階であったものと思われます。

もうひとつが但馬皇女のことです。これも高市皇子と同じ父、天武天皇と持ち氷上娘を母とする娘です。万葉集に「但馬皇女、高市邸に在るとき、窃かに穂積皇子に接し、すべてが露見して作った歌一首」とあり、高市皇子の邸に居たことから高市皇子の妻の一人と言われています。しかし、但馬皇女はすでに穂積皇子のものであり、高市皇子とは夫婦関係になかったと思われます。

どちらも高市皇子にとって幸せなものではなかったようです。

 

現在の定説は43歳です。これは扶桑略記、一代要記による43歳に基づくもので、公卿補任も没年42、43歳とあることによります。654白雉5年生れになります。これに従うと、彼が活躍した?壬申の乱のときの年齢が19歳であり、いかにもと思われる年齢です。しかし、ここは即断せず、高市皇子の息子や孫の代の年齢から検討していきたいと思います。

まず、高市皇子の長男といわれる、長屋王の年齢から確定させます。

 

長屋王の年齢

ながやおう

 

684天武13年生まれ〜729神亀6年没 46歳

             (扶桑略記、一代要記、公卿補任等)

676天武 5年生まれ〜729神亀6年没 54歳(懐風藻)

本稿では、46歳説を採用します。

 

父 高市皇子

母 御名部皇女   一代要記   に「母近江朝天皇女御名部皇女」とある。

  夫持娘     本朝皇胤紹運録に「母夫持娘。御名部親王女」とある。

妻 吉備内親王   草壁皇子と阿閇皇女(後の元明天皇)との子

        子 膳夫王(かしわで)、桑田王、葛木王、鉤取王ら 729年没

  石川夫人  子 桑田王 従五位下729年没(吉備内親王の子との説あり)

  藤原長蛾子   藤原不比等の娘

        子 安宿王(あすかべ)従五位下 天平9年737年没

          山背王、黄文王、教勝

  智努女王  子 円方女王

  阿倍大刀自 子 賀茂女王

 

高市皇子の長男と言われる長屋王は729神亀6年に自尽されました。その年齢には二つの説があります。一つは懐風藻が主張する54説で、もう一つは46歳説で扶桑略記に始まり一代要記を初め多くの史書がこれを採用しています。懐風藻だけが主張する54歳説がなぜ否定されないのかには大きな理由があります。高市皇子43歳没説に従うと長屋王46歳説では高市皇子はこの長男出産年齢が31歳で遅すぎように見えるからです。懐風藻の54歳説のほうが高市皇子23歳のときの子供としてふさわしく見えるのです。

 

600 7777777888888888899999999990 年

年   3456789012345678901234567890 齢

高市皇子S――――――――――31―――――――――――43       扶桑略記等

長屋王    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――54 懐風藻

長屋王            @ABCDEFGHIJKLMNOP―46 扶桑略記等

 

しかし、本稿では、46歳説を採用します。その理由は次のとおりです。

 

理由その1

長屋王の第一夫人の年齢によるものです。

長屋王の第一夫人は吉備内親王です。天智天皇の娘、阿閇皇女にして、後の元明天皇が生んだ3人の子供の末娘がこの吉備内親王です。姉、後の元正天皇が680年生まれ、兄、後の文武天皇が683年生まれ、この兄姉の年齢比較から吉備内親王が685年前後の生まれと考えるのが相応しい。そんな位の高い女性を妻に迎えた長屋王の年齢もそう違わないものと考えるのが自然です。また、後に長屋王の変で夫、長屋王とともに死を分かちあい、少なくとも一緒に死んだ4人もの子供達がおり、こうした事実からも相思相愛の似合いのカップルだったはずです。

 

草壁皇子        662天智 元年生〜689持統 3年4月13日没28歳

阿閇皇女(後の元明天皇)661斉明 7年生〜721養老 5年12月7日没61歳

氷高皇女(後の元正天皇)680天武 9年生〜748天平20年4月21日没69歳

軽皇子 (後の文武天皇)683天武12年生〜707慶雲 4年6月14日没25歳

吉備内親王       生年不明     〜729神亀 6年2月12日没

 

ここで、吉備内親王の年齢は兄、文武天皇より2歳年下としてみました。685天武14年生まれとすると夫、長屋王とは1つ違いとなります。

 

600 77777778888888888999999999900000 年

年   34567890123456789012345678901234 齢

草壁皇子KLMNOPQRS―――――――28

元明天皇  NOPQRS―――――――――――――――――――――――――61

元正天皇       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――69

文武天皇          @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――25

吉備内親王(妻)        @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―

長屋王(扶桑略記)      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――46

長屋王(懐風藻)ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――54

 

理由その2

長屋王の初冠位の年は704大宝4年1月7日、無官から正四位上を授けられています。規定に従い21歳と考えます。684天武13年生まれとなります。ただし、一説に親王の子がはじめて受ける官位は従四位下なのに、正四位上を授かったのは通常より遅いはずで、懐風藻説の29歳だろうという説があります。しかし、天皇の娘婿なのだから、長屋王の子供たちを特別視しているところからも長屋王を21歳に特典を与え、従四位下でなく従四位上を授けたと考えたほうが自然です。

 

理由その3

さらに長屋王の長男 膳夫王(膳王とも書かれる)の年齢です。上記のように、長屋王と吉備内親王の間に生まれた長男といわれます。715和銅8年2月、吉備内親王の男女を皇孫(二世王)の扱いとする詔が発せられこの膳王に適用されます。724神亀元年、従四位下に初叙されます。21歳とした初叙の規定から、生まれは704慶雲元年となります。するとこのとき長屋王21歳、吉備内親王20歳のときの子となりすっきりするのです。

 

600 990000000001111111111222222222 年

年   890123567890123456789012356789 齢

長屋王 NOPQRS―――――――――――――――――――――――没 46

吉備内親王NOPQRS―――――――――――――――――――――――没 42

膳夫王       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――没 26

 

理由その4

高市皇子のもう一人の息子に鈴鹿王がいます。長屋王の異母弟になります。生年不詳〜745天平17年没です。710和銅3年、無位から従四位下に官位を授かります。彼の場合は規定通り従四位下です。そのとき21歳のはずですので6歳下の弟ということになります。745天平17年まで生きていましたから56歳没となります。懐風藻の長屋王の年齢説ではこの兄弟の年齢差は14歳にもなり、離れすぎているように思えます。

 

600 8888888889999999999000000000 年

年   12345678901234567890123567890 齢

高市皇子―――31―――――――――――43(扶桑略記等通説)

長屋王 EFGHIJKLMNOPQRS―――――――――――――54(懐風藻)

長屋王    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――46

鈴鹿王          @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS

 

理由その5

懐風藻だけが54歳説です。しかし、その懐風藻の各種類ある写本には「年54」とされるのが基本ですが、唯一、「年46」とある写本、寛政本も存在するといいます。懐風藻自身の写本が一定していないのです。(林古渓著「懐風藻新註」P156)

 

以上の理由から、長屋王の年齢は46歳と判定しました。

 

高市皇子の長男、長屋王の年齢にここまでこだわる理由は、高市皇子の年齢がもっと若いと考えるからです。通説の696持統10年43歳死亡説に従うと、高市皇子は31歳で長屋王を、また37歳で鈴鹿王を得たのでしょうか。高市皇子にしては高齢すぎるように思えます。

 

600 77777778888888888999999999900000 年

年   34567890123456789012345678901234 齢

高市皇子S――――――――――31―――――――――――43(扶桑略記等通説)

長屋王            @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――46

吉備内親王(妻)        @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―45

鈴鹿王(異母弟)             @ABCDEFGHIJKLMN―56

 

 

それでは、高市皇子は何歳だったのでしょうか。

結論を先に述べれば、朝鮮出兵時の伊予熟田津の高市郷で産まれたと本稿では考えています。

 

死後に、後皇子尊(書紀)と称されるように、天武天皇の最年長の皇子です。

壬申の乱では、近江にいた高市皇子は父、天武に呼び寄せられ、伊賀で合流し、のちに全軍の統帥を委任され活躍します(?)。そして美濃の不破道の防備にあたるのです。壬申の乱に触れる前に、乱以降の高市皇子を中心に天武天皇の皇子たちの行動を年表にしてまとめてみました。

 

【高市皇子の関連年表】

661斉明 7年  1歳 伊予熟田津で高市皇子降誕。(本稿)

672天武 1年 12歳 壬申の乱。高市皇子、天武天皇と合流する。

676天武 5年 16歳 高市皇子以下小錦以上のものに、衣・袴など及び机・杖を賜った。

678天武 7年 18歳 十市皇女が宮中で薨じた。

679天武 8年 19歳 吉野会盟。草壁(18歳)、大津(17歳)、高市

             河嶋、忍壁、芝基の6皇子が参列した。

680天武 9年 20歳 舎人王に対し高市皇子を遣わす。卒したので、高市、川嶋を遣わす。

             僧恵妙の病を草壁皇子が見舞う。「三皇子」を遣わし弔わせる。

681天武10年 21歳 草壁皇子(20歳)を皇太子とする。

             川嶋・忍壁皇子らは帝紀編纂に参加させる。

682天武11年 22歳 大津皇子(20歳)が初めて朝政を執る。

             膳臣摩漏の病気を草壁(21歳)、高市皇子が見舞う。

684天武13年 24歳 高市皇子に長屋王が生まれる。(扶桑略記等)

             胸方君ら52氏に朝臣姓を賜る。

685天武14年 25歳 官位改定。草壁(24歳)に浄広一、大津(23歳)に浄大二、

             高市に浄広二、川嶋・忍壁に浄大三。

686朱鳥 元年 26歳 高市皇子は出題された「無端事」に正しく答え賜り物があった。

             草壁・大津・高市、川嶋・忍壁、芝基・磯城に食封を加増。

             天武天皇崩御。

689持統 3年 29歳 草壁皇子(28歳)薨去。

             高市皇子は太政大臣に任じられる。

690持統 4年 30歳 持統天皇となる。

             高市皇子は10月、公卿百宮を従えて、藤原宮予定地を視察。

692持統 6年 32歳 高市皇子は封戸合計5千戸を得る。

693持統 7年 33歳 高市皇子は位階も亡き草壁皇子に並ぶ、浄広壱を授けられた。

694持統 8年 34歳 藤原京に遷都

696持統10年 36歳 高市皇子7月10日薨去。

697文武 元年     持統天皇は孫(後の文武天皇)15歳に天皇位を譲る。

 

高市皇子は皇子の中では特出して年長者と思われていますが、年表でみる限り、草壁皇子、大津皇子と共に「三皇子」と言われ、加増が三人同じだったりしているように身分の違いだけでない存外近い年齢の兄弟だったのではないでしょうか。一人年の離れた長男などではないと考えました。

 

一般に高市とは関西の高市郡を示すと漠然と考えられています。しかし、高市の名は伊予国(愛媛)や備後国(広島)にあり、母の尼子と関連深い土地です。

 

尼子浦は、徳島、阿波国勝浦郡小松島町の旧称。平家物語勝浦合戦の条に見えるといいます。

高市郷 伊予国越智郡高市郷、または、備後国(広島県)神石郡高石郡高市郷

 

母、子の名からは瀬戸内海、北九州の匂いがただようようです。まさに、宗像一族の地で生まれた形跡が色濃いと思われます。特に、伊予国越智郡高市郷は熟田津と近いのです。斉明天皇はここで、天武天皇らと3ヶ月滞在しています。九州男児、高市皇子はここで生まれたのです。熟田津や石湯は高縄半島の西側の道後温泉ではなく、東側の朝倉付近にあったと思われます。

その後、大海皇子は母、斉明天皇とともに、斉明7年661年3月25日に大軍とともに、博多に着いています。この九州の地で草壁皇子や大津皇子が生まれています。草壁皇子は高市皇子の1年後の662年の生まれ、大津皇子はその翌年に生まれます。この二人の皇子の名前の由来にも、土地の名称が深く関わっているといいます。

 

また、熟田津はこの朝倉郷の付近にあったと仮定できるのかもしれません。潮の流れ逆らわない場所であり、一説に現在の四国随一といわれる松山道後温泉では本当の意味で大変な寄り道になってしまうからです。また、天武13年の大地震により伊予では湯が出なくなるのです。今の熟田津はその後の温泉なのかもしれません。

また、向井毬夫氏が図に示された「古代山城分布図」でも、松山市にはなにもありませんが、朝倉郷側には国府推定地(今治市上徳)、国分寺(今治市国分)神籠石系山城(西条市永納山)があった重要拠点の地でもあるのです。石湯もこの地に湯ノ浦温泉があり石風呂という場所もあります。何もない道後の地よりふさわしいのです。

なお誤解しやすいことですが、日本書紀の「朝倉宮」は九州にあります。この四国の朝倉ではありません。しかし、だからこそ同名の朝倉と名付けられたこの地に斉明天皇の息づかいを感じないではいられないのです。

道後はあくまで「道のうしろ」であり、当時として遠方の流刑地であったのではないでしょうか。有名な允恭天皇の皇太子、軽皇子をはじめとして、日本後記などでは、延暦21年、伊予国へ配流されている五百枝王(いおえおう)が伊予国府付近に住むことを許した、といった事例があります。おそらくは道後あたりに居た五百枝王が朝倉の地に遷ったことを意味するのではないでしょうか。朝倉の地こそ斉明天皇の行宮にふさわしく、また聖徳太子が訪れた地ではないのかと思います。

 

600 56666666666777777777788888888889 年

年   01234567890123456789012345678901 齢

高市皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24――――――――35(本書)

長屋王(長男)                     @ABCDEFG―43

鈴鹿王(異母弟)                          @A―56

大伯皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――――41

草壁皇子  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――28

大津皇子   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24

 

高市皇子が長屋王を生ませた年は24歳になり穏当なところとなりますが、35歳ではずいぶん早く亡くなったものです。もっとも、彼が活躍する時期は壬申の乱だけで、その生涯でも、晩年の藤原宮造営事業を除いて、それといった大きな業績を残さず亡くなっています。

若くして亡くなったからだと思います。

 

高市皇子には暗殺説がつきまといます。その真意は不勉強な私には何ともいえませんが、通説を8歳も年齢を押し下げたことが、さらに暗殺疑惑に拍車をかける結果なのかもしれません。その根拠となる二つの事実、すなわち、万葉集で歌われる柿本人麻呂の年齢が親しい高市皇子と同年齢同士になること、もう一つは、高松塚古墳被葬者はたくましい壮年いう遺骨分析に高市皇子の年齢が下がることで高市皇子の墓説を後押ししていように思えるのですがどうでしょうか。高松塚古墳被葬者の163cmの身長は当時としてはかなり背だけだったと思われます。

 

また、高市皇子の壬申の乱以降での目立った活躍はありません。

葬式などの冠婚葬祭行事の記事だけです。

これは十市皇女が亡くなられたことに無関係でなかったと思います。

翌年679天武8年1月5日に「諸王は母であっても王の姓の者でなければ拝礼してはならぬ。諸王もまた自分より出自の低い母を拝礼してはならぬ」という、まるで高市皇子に対するような詔を発しています。九州宗像の娘、尼子娘は宗像三女神を代表する者の一人として崇め奉られていたのではないでしょうか。

天武天皇は高市皇子など息子たちが母として敬意を示すのはよいが、一族郎党が挙ってこの母を崇めることは許さないと釘を刺されたのです。九州の大きな宗教団体の台頭を恐れたのです。天武天皇は全国の神々の一本化も視野に入れていたと思われます。

 

天武天皇が亡くなる最後の年の年頭の宴席で天皇直々に突然、褒められるのです。

そして天皇崩御からは、太政大臣就任、藤原宮造営の推進者と表舞台で昇っていきます。

 

壬申の乱

それにしても、当時の高市皇子の年齢を19歳から12歳に引き下げることは、壬申の乱の高市皇子の活躍に水をさすものです。

12歳の少年に勤まるとはとても思えない行動記録が壬申の乱に残っているからです。その一つ一つを日本書紀の記録から紐解きます。

 

まず、吉野を離れ、野上の地(関ヶ原)に着いた天武天皇を迎えた高市皇子が天武天皇に謁見するとき語られた、天武天皇の言葉が日本書紀に残されています。

 

日本書紀 天武天皇紀(上)

其近江朝、左右大臣  それ近江朝には、左右大臣、

及智謀群臣、共定議  智謀群臣、共を定む

今朕無與計事者。    、共に事をなし

唯有幼少孺子耳。    幼少き子供有るのみなり

 

「近江朝廷には左右の大臣や智略すぐれた群臣がいて、共に謀ることができるが、自分には事を謀る人物がいない。ただ、年若い子供らがいるだけだ。

 

と高市皇子に言われた言葉が残されています。「お前、高市皇子のように、年若い皇子たち」といったと解釈ができます。決して、高市皇子だけが高齢であったからの発言とは思えないのです。

 

それに対し、高市皇子は、

皇子攘臂按劔奏言、       皇子、臂を攘りて劔を案りて奏言さく、

近江羣臣雖多、         近江の群臣、多なりといえども、

何敢逆天皇之靈哉。       敢へて天皇の靈に逆はむや。

天皇雖獨、           天皇、獨りのみましますといえども、

則臣高市、頼~祇之靈、     臣高市、~祇の靈に頼り、

請天皇之命、引率諸將而征討。  天皇の命を請けて、諸將を引率て征討たむ。

豈有距乎。           豈、ふせぐこと有らむや。

 

爰天皇譽之、携手撫背曰、    ここに天皇、譽めて、手を取り背を撫でて曰く、

愼不可怠。           ゆめ不可怠(なおこたりそ)とのたまふ。

 

「私、高市が神々の霊に頼り、大海皇子の勅命を受け、諸将を率いて戦えば、負けることはありません。」と腕まくりして剣を握り締め、言ったという。

「皇子、攘臀、案劔、奏言。」<直訳:皇子は臀をまくりあげ、剣をなでおさえ、奏上した。>

これも若々しい幼い12歳前後の素直な子供らしい態度とみえないでしょうか。

 

さらに、大海皇子は高市皇子のこの言葉を褒め、手を取り、背を撫でて「しっかりやれ」と言われた。

「爰天皇誉之、携手、撫背、曰、慎不可怠。

この表現は、皇子がひざまずいたからではない。高市皇子の背丈が低いと想像されます。小さな子供を抱きしめ、頭をなでるイメージを感じさせます。

 

このように日本書紀の編者は高市皇子をはっきり幼いものとして表現しているのです。幼い子供の言葉だからこそ、天武が感動したのです。幼い高市皇子が天武天皇とともに闘うと言ったからこそ意味があります。成人に達した高市皇子が語ったのではニュースにはなりません。幼い高市皇子がおもいもよらない言葉を述べたことに天武天皇は感動したのです。幼い子供でもこのくらいの言葉は親や高市皇子の重臣が教えれば、簡単に言える常套句です。

大海皇子はこの高市皇子の軍を次の日も次の日も訪問して、自らこと細かく指揮したとあります。高市皇子を独立した男とは扱っていない感じがするのです。それにしても、天武天皇にも40歳とは思えない若々しい行動力を感じています。天武天皇はこのとき30歳代と考える根拠の一つです

さらに、高市皇子の側近として、最前線で活躍する三輪高市麿はこのとき16歳です。高市皇子は彼より若かったはずです。わたしはこのときの高市皇子を12歳と設定してもおかしくないと考えています。

不思議なことに、日本書紀では、壬申の乱で一言も語られていない宗像氏の活躍が影のごとくつきまとっています。三輪氏は三輪山西麓に本拠を置く氏族といわれますが、後に大神氏を名乗ることとなる彼らが九州出身の氏族だったからと考えられます。また、天武天皇の舎人として活躍する大分恵尺も九州の出身です。12歳の高市皇子を支えた九州の宗像氏。一族ぐるみで、財力と人力を壬申の乱に投入したことは間違いないところです。吉野宮を出た天武天皇が、高市皇子と再会したときの喜びは、高市皇子に随行したバックの力を得た喜びの方が大きいといえるでしょう。

 

今少し、詳細に日本書紀にあらわれる高市皇子の壬申の乱での行動記録を検証していきます。

 

6月28日、前日野上で謁見され、和蹔(わざみ)に戻った高市皇子を今度は天武天皇が和蹔を訪れ、その軍隊の様子を検閲されています。さらに翌日も和蹔を訪れます。天武天皇のきめの細かい指示徹底がなされたわけですが、高市皇子へというよりその側近達への指示と感じます。野上で天武天皇→高市皇子→和蹔軍へとの指示系統を採らず、自ら和蹔に何度も赴き、天武天皇→和蹔軍への直接指示形態をとったと思えるのです。

北山茂夫氏も言っています。「当時の従軍舎人の日記によれば、このころ、前太子(天武天皇)は、前朝にこの地に土着させた唐人を出頭させて、当面の戦術について所見を徴したという。それだけでなく、すでに進攻部隊の編成、配置の準備が着々と行われた様子がよくうかがわれる。高市皇子らにそれを委ねたのではない。」

しかし、自分の息子、高市皇子を立てることを忘れません。

 

己丑、     己丑(29日)に、

天皇往和蹔、  天皇和蹔に往でまして

命高市皇子、  高市皇子に命して

号令軍衆。   軍衆に号令したまふ

 

高市皇子に命じて、軍衆に号令させています。

私ごとですが、幼い頃、学校の生徒会長の代理で朝礼を仕切ったことがあります。後ろで先生がうるさいほど「ああしろ、こう言え」という言葉をオウム返しに壇上でマイクに向かって号令した経験があります。できないことではありません。

また、大人の軍衆がこの幼い長の号令に不安に感じるどころか、自分たちがこの幼い長の号令に従うことに、感動し団結力を深める効果があったのではないかと思うのです。むろん高市皇子の隣に立つ天武天皇の存在も目撃できたでしょう。

話は唐突ですが、この地、不破関は天下の要害の地として現在は関ヶ原の地名としてご存じの方も多いと思います。1600年の関ヶ原の戦いのとき、石田三成らは西軍の総大将として、豊臣秀頼を引きだそうとしたことがあります。しかし、母、淀君の反対にあい戦場に秀頼が出陣することはありませんでした。このとき秀頼は9歳です。一方、本節の高市皇子は12歳です。天武天皇の名代として天武軍の旗頭になったとしても不思議ではありません。

 

閑話休題、この日、大伴連吹負は計略をめぐらし、自ら高市皇子になりすまし数十騎で敵軍をよこぎり、高市軍の大軍がきたぞと叫ばします。その言葉に敵軍はちりぢりに逃げ去ったとあります。

なぜ、天武軍ではなく高市軍なのでしょう。この行動にも2つのことが考えられます。一つは敵軍も九州宗像氏を代表する高市軍団の勇猛さを知っていたということです。だから高市軍の大軍来襲の叫びに恐れおののいたのです。また高市皇子になりすますということは、遠くから望む高市皇子は誰が見てもわかる身体的特徴、また服装に特徴があったということです。つまり背が低いのです。おそらく大伴連吹負も背が低かったのではないでしょうか。また、九州の海の男の姿、褌に半纏姿だけの格好だったのかもしれません。

 

その後の戦渦のなか、天武天皇は野上で指揮し、高市皇子も和蹔から動いていません。19歳の高市皇子なら天皇を野上に据え、自らは最前線に飛び出していったことでしょう。時代と場所は異なりますがアレキサンダー大王は20歳でマケドニアから世界へ飛び出したのです。

しかし、実際の高市皇子は草壁皇子らとともに天武天皇のもとを離れることはありませんでした。

8月25日、壬申の乱も終結し、天武天皇は高市皇子に命じて、近江方の群臣の罪状と処分を発表させます。こうして、天武天皇らは9月12日に大和に戻ることができたわけです。

 

 

 

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