天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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御名部皇女の年齢 みなべのひめみこ

First update 2008/09/06 Last update 2011/02/10

 

658斉明4年生 〜721養老5年没    64歳没     本稿

660斉明6年生 〜728神亀5年以前 没 69歳以下

 

父   天智天皇

母   姪娘   蘇我山田倉石川麻呂の娘

同母妹 阿閇皇女 後の元明天皇

夫   高市皇子 天武天皇皇子

子   長屋王  684天武13年生〜729神亀6年没46歳(扶桑略記など)

 

 姪娘

  ―――――――――――――――御名部皇女(姉)

  ――――――――阿閇皇女(妹)  |

天智天皇        ――軽皇子  |

  ―――鸕野皇女  ―――――――|――――吉備内親王

遠智娘    ―――草壁皇子     |     |

      天武天皇          ――――長屋王

       ―――――――――――高市皇子

      尼子娘

 

【御名部皇女の関連年表】

658斉明 4年 1歳 御名部皇女降誕。

661斉明 7年 4歳 妹、阿閇皇女、後の元明天皇降誕。

67天武 15歳 壬申の乱

678天武 7年21歳 高市皇子の愛した十市皇女が薨去。

683天武12年26歳 妹、阿閇皇女が草壁皇太子の子、後の文武天皇を出産。

684天武13年27歳 御名部皇女が高市皇子の子、長屋王を出産。(略記等)

686朱鳥 元年29歳 天武天皇崩御。

            高市皇子は太政大臣に任じられる。

689持統 3年32歳 草壁皇子(28歳)薨去。

690持統 4年33歳 持統天皇となる。

691持統 5年34歳 穂積皇子と但馬皇女との密通事件

696持統10年39歳 高市皇子日薨去。

701大宝 1年44歳 文武天皇に首皇子(聖武天皇)産まれる。

702大宝 2年45歳 持統天皇崩御。

704慶雲 1年47歳 息子長屋王、無位から正四位上に叙せられる。

            御名部皇女、封百戸を加増される。

707慶雲 4年50歳 妹、阿閇皇女こと元明天皇即位。文武天皇崩御。

708和銅 1年51歳 万葉集@77の歌

709和銅 2年52歳 息子長屋王 従三位宮内卿となる。

721養老 5年64歳 妹、元明太上天皇崩御(61歳)。

724神亀 1年    聖武天皇即位。長屋王正二位左大臣となる。

728神亀 5年    皇太子快癒祈願から長屋王が神亀経を奉納。

 

600  55666666666677777777778888888 年

年    89012345678901234567890123456 齢

阿閇皇女(妹) @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――61(続日本紀)

皇子(文武)                       @ABC―25

御名部皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――27―――

長屋王                            @AB―43

 

御名部皇女の存在は独特のものです。

日本書紀には、生年も没年さえわかりません。没年の知れない皇子、皇女は天智天皇と天武天皇を通して名前が記された中で4名しかおりません。天武天皇の皇子では、磯城皇子と紀皇女の二人ですが、天智天皇の皇子ではこの御名部皇女だけです。当然特別な事情があったと考えています。あの続日本紀が御名部皇女だけの没年を書き漏らしたとはとても思えないからです。

 

御名部皇女は天智天皇の皇女として、蘇我山田石川麻呂の娘、姪娘から生まれました。同腹の妹、阿閇皇女が661斉明7年の生まれですから、これ以前の生まれのはずです。一般的には658斉明4年生まれと言われます。阿閇皇女が地名に由来するといわれます。御名部皇女も同様でこの年、斉明天皇の牟婁温湯(白浜温泉)行幸時に紀州国日高郡の南部(みなべ)で生まれたといわれます。

一方、阿閇皇女の2歳年上とする660年生を妥当とする説もあるようですがよくわかりません。

 

御名部皇女は天武天皇の長男、高市皇子に嫁ぎ、長屋王を産んだとされています。

 

一代要記 甲集

長屋王

左大臣正二位

母近江朝天皇女御名部皇女

天平二年二月十日依謀反誅年四十六

 

根拠のひとつは一代要記によるもので、長屋王について「母近江朝天皇女御名部皇女」とあるからです。つまり、長屋王の母は天智天皇の娘、御名部皇女である、となります。

公卿補任にも「母近江天皇女」とあり、「高市親王第一(二イ)子」で高市皇子の第一子(二子説もある)としています。

 

本朝皇胤紹運録

長屋王

左大臣正二位。

天平二九依謀反讒言為聖武天皇被誅。

号佐保左大臣。

母夫持娘御名部親王女。

 

しかし、本朝皇胤紹運録によると長屋王の「母夫持娘御名部親王女」とあります。尊卑分脈にも同様の記述があるといいます。

文章を素直に読み下すと、高市皇子の母は、御名部親王の女(むすめ)、夫持娘ということになるのでしょう。「御名部内親王」ではなく「御名部親王女」とあり、この御名部親王とは誰なのか、夫持娘とは誰なのかわからなくなります。

本朝皇胤紹運録は幾多の歴史書を集約大成させた良書といわれています。本稿ではこれを正しい表記として次のように解釈しました。つまり、「母は夫持娘といわれた御名部王女(みなべのおおきみ)」と訳してみました。

壬申の乱の敗亡による大津の都の混乱の中、まだ幼い阿閇皇女とは違い御名部皇女は身分の低い男性と関わり、身分を落としたものと考えられます。夫持娘とあだ名され、これが皇女や内親王ではなく女王と書かれた理由であり、続日本紀が彼女の没年を記されなかった原因です。女王とはたとえば天皇の三世の孫以降に使われる表現として多く見られるものです。いわば、御名部皇女は戦乱の犠牲者でもあったのです。

 

一方、高市皇子の夫人として知られる女性を列挙するとその特異性が露わになります。

一人目が十市皇女です。高市皇子と同じ父、天武天皇を持つ額田王を母とする娘です。万葉集に「十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首」とあることから二人が結ばれていたとするものです。夫婦というよりはまだ恋愛段階であったものと思われます。

もう一人が但馬皇女です。これも高市皇子と同じ父、天武天皇を持つ氷上娘を母とする娘です。万葉集に「但馬皇女、高市邸に在るとき、窃かに穂積皇子に接し、すべてが露見して作った歌一首」とあり、高市皇子の邸に居たことから高市皇子の妻の一人と言われています。しかし、但馬皇女はすでに穂積皇子のものであり、高市皇子とは夫婦関係になかったと思われます。

どちらも高市皇子にとって幸せなものではなかったようです。

そして、御名部皇女がそれに加わります。その経緯はわかりませんが、結果をだけをつなげると、身分を捨ててまでしてある男のもとに走った御名部皇女をその後、高市皇子は引き取り、その結果、長屋王をもうけたというものです。

御名部皇女も身分の低い母をもつ高市皇子でしたが、その妻になることで救われたのです。一方、妹の阿閇皇女は皇太子である草壁皇子の妻になりました。

そのとき、但馬皇女もかつて御名部皇女が苦悩した恋愛関係と同様な体験をしていました。持統5年のことですから、若い但馬皇女を心配した持統天皇が高市皇子、御名部皇女(このとき34歳くらい)夫婦二人に頼んだのかもしれません。その結果、但馬皇女は高市皇子に引き取られたのですが、但馬皇女の穂積皇子への深い思いは変わらなかったようです。

 

御名部皇女の生んだ長屋王の享年は46歳、684天武13年生まれ〜729神亀6年薨去としました。これは扶桑略記、一代要記、公卿補任などで採用された年齢です。一部、懐風藻などに54歳説がありますが、本稿はこれを採りません。詳細は高市皇子の項で述べました。

つまり、戻ってきた御名部皇女は高市皇子の子供を27歳という遅い年齢で出産したことになります。次男、鈴鹿王はその6年後生まれています。鈴鹿王も御名部皇女の子という説があるのですが、蔭位制の初叙位が従四位下で、長屋王の正四位上と叙する側の意識が違うことから、他の女性の子と考え除外しました。

 

その後、夫、高市皇子を39歳で、力となってくれた持統天皇を45歳の年に次々亡くしました。

 

704慶雲1年正月7日、御名部皇女47歳のとき、息子長屋王21歳となり蔭位制に基づき無位から正四位上に叙せられました。普通は従四位下から始まる初叙位のはずですが、2段階も上の位を得たことになります。そして同月16日に今度は御名部皇女自身が、石川夫人と共に封百戸を加増されたのです。石川夫人とは蘇我赤兄の娘、天武夫人である太蕤娘のことです。御名部皇女にとって晴れがましい年となりました。続日本紀に「御名部内親王」とあることから、天智天皇皇女として再度、返り咲くこともできたのです。文武天皇の伯母への粋な演出となりました。

 

万葉集 巻第一 雑歌

和銅元年戊申 天皇御製

@76

大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母 

ますらおの とものおとすなり もののふの おほまへつきみ たてたつらしも

ますらをの 鞆の音すなり 物部の 大臣 楯立つらしも

軍人たちの弓音がする。石上朝臣がその的の大楯を並べ立てているらしい

 

御名部皇女奉和御歌

@77

吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓

わがおおきみ ものなおもほし すめかみの つぎてたまえる われなけなくに

我が大王 物な思ほし すめ神の 継ぎ賜へる 我なけなくに

我が大王様 気遣いなさいますな。お守り役としての私がいるからには。

 

健康に不安のある文武天皇は母、阿閇皇女に相談しながら、御名部皇女の息子、長屋王に大きな期待を掛けていたと考えられます。

その3年後、文武天皇が重い病となり、母親の阿閇皇女が元明天皇として即位しました。そのまま文武天皇は崩御され、その翌年がこの歌の歌われた和銅元年です。藤原不比等の強い勧めにより天皇となった元明天皇です。不安でいっぱいです。大臣藤原不比等の思惑はあくまで自分の娘が産んだ首皇子の皇位継承のはずです。

 

天智天皇        藤原不比等――宮子娘

  ―――――――――元明天皇    ―――首皇子(聖武天皇)

  |          ―――――文武天皇

  |          ―――――元正天皇

  |   鸕野皇女   ―――――吉備皇女

  |    ――――草壁皇子    ―――膳夫王

  |   天武天皇          ―――桑田王

  |    ――――高市皇子    ―――葛木王

  |   尼子娘    ―――――長屋王

  ―――――――――御名部皇女

 姪娘

 

一方、御名部皇女にとって、天皇となった妹、元明天皇は大恩人です。自分の皇族復帰はともかくとして、息子昇進の破格の扱いは御名部皇女をして、元明天皇を守り抜く覚悟をあらためて感じていたことでしょう。

御名部皇女のこの歌を長屋王の暗い将来を考えると不用意な発言の歌という人がいます。わたしというものがおりますからご安心くださいと、豪語したというのです。

しかし、このとき御名部皇女にはそんな野心の欠片もないし、息子長屋王の大きな後ろ盾を前提にした歌などということもなかったと思います。これらはすべて彼らの将来を知っている我々の思惑です。

 

没年は未詳です。長屋王が皇太子病気快癒祈願のために奉納した神亀経は目的の一つに父母の菩提を弔う、とすることから、神亀5年以前には亡くなっていたものと考えられます。しかし、吉備内親王こと自分の妻に向けたものともいわれます。よくわかりません。

ただ、続日本紀にはその没年がやはり記載されませんでした。これはその後、息子長屋王が謀反との汚名で殺されたことにより再度、その母である御名部皇女は再度、皇族として扱われないことになったと考えました。

 

本稿では、御名部皇女の享年を64歳と仮定しました。この年721養老5年は妹、元明太上天皇61歳が崩御された年に当たります。さらに前年、側近である中臣不比等63歳が亡くなっています。この頃の死亡原因のほとんどが病死か事故死です。老衰などの自然死はほとんどなかったでしょう。天皇の周囲にいたものが次々亡くなったのです。流行病だったと仮定します。御名部皇女もこれに感染したと思います。皆60歳代の親しい間柄でした。

 

 

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