天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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尼子娘の年齢 あまこのいらつめ 

First update 2008/05/11 Last update 2011/01/29

 

生没不詳

641舒明13年生 〜 699文武3年崩 59歳 本稿の仮定

 

 胸形君徳善の娘

母 不詳

子 高市皇子 696持統10年7月薨去 続日本紀

 

 鏡王――――――額田王

          ├――――――十市皇女

         天武天皇

          ├――――――高市皇子

 胸形君徳善―――尼子娘

 

【尼子娘の関連年表】

641舒明13年  1歳 尼子娘降誕 (本稿)

661斉明 7年 20歳 1月 朝鮮遠征軍、大阪難波宮海路に出立。

                大田皇女が大伯皇女を産む。

                伊予熟田津で高市皇子生まれる。(本稿)

662天智 1年 21歳    鸕野皇女が草壁皇子を産む。

663天智 2年 22歳    大田皇女が大津皇子を産む。

672天武 1年 31歳 壬申の乱。息子、高市皇子、天武天皇に合流。

676天武 5年 35歳 高市皇子以下小錦以上に、衣・袴など及び机・杖を賜る。

678天武 7年 37歳 十市皇女が宮中で薨じた。

679天武 8年 39歳 1月 諸王と母との拝礼関係を詔される。

             5月 吉野会盟に息子高市皇子(19歳)が参加する。

684天武13年 44歳 高市皇子(24歳)に長屋王が生まれる。(扶桑略記等)

             胸方君ら52氏に朝臣姓を賜る。

685天武14年 45歳 官位改定。高市皇子に浄広二を授かる。

686朱鳥 元年 46歳 天武天皇崩御。

689持統 3年 49歳 草壁皇子(28歳)薨去。

             高市皇子は太政大臣に任じられる。

690持統 4年 50歳 持統天皇となる。

692持統 6年 52歳 高市皇子は封戸合計5千戸を得る。

694持統 8年 54歳 藤原京に遷都

696持統10年 56歳 高市皇子7月10日薨去。

699文武 3年 59歳 尼子娘没(古代氏族人名辞典の本稿抽出平均没年齢より算出)

 

600 666666666777777777788888888889 年

年   123456789012345678901234567890 齢

尼子娘 S―――――――――30―――――――――40――――――――――59

高市皇子@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24―――――3035(本書)

長屋王(長男)                    @ABCDEF―43

鈴鹿王(異母弟)                         @―56

大伯皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――――41

草壁皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――28

 

年齢根拠

以下で示す、息子高市皇子の年齢により、20歳で出産したとして年齢を定めました。

高市皇子の項で高市皇子の若さを証明し、本項の以下の部分で、具体的年齢を定めています。結論を先に示すと、朝鮮出兵時、熟田津の高市郷で産まれたとしました。

また、没年はまるでわかりません。ただ、伊予の朝倉郷に朝鮮出兵後、尼の姿が見受けられること、九州宗像市周辺に尼子伝説があるらしいことなどから、高市皇子が亡くなった以降に、母、尼子娘は大和を離れ、出産地を経由して母国、九州にもどったと仮定しました。そのうえで古代氏族人名辞典にのる当時の有名人の没年齢の平均59歳を尼子娘の没年齢として仮設定しました。

 

もう少し原点に返って話を進めます。

尼子娘は胸形徳前の娘です。年齢はほとんどわかりません。

天武天皇の后妃を紹介する天武2年の記事が唯一の手がかりとなります。

 

 天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女。

 次納胸形君徳善女尼子娘、生高市皇子命。

 次宍人臣大麻呂女穀媛娘、生二男二女。其一曰忍壁皇子〜

 

この3行から尼子娘について次のことがわかります。

1.高市皇子は十市皇女より遅く、忍壁皇子より早く産まれた。

2.尼子娘は高市皇子一人を産み育てた。

3.尼子娘は胸形徳善の娘である。

4.尼子娘は額田王と違い「娶」合うではなく「納」められた。

 

さらに最小限の推測が許されるのなら、

5.本稿の前提により生年不明の場合、母の出産年齢を20歳とし、

  尼子娘は額田王より年下、穀媛娘より年上である。

6.尼子娘は九州最大の豪族の一つ宗像氏の娘である。

7.額田王、尼子娘、穀媛娘の年齢が近いと思われること。

 

母、尼子娘(アマコノイラツメ)は胸形君徳前の娘です。宗像氏は九州備前において宗像三女神を代々奉斎してきた歴史にたびたび登場する大豪族です。「胸形」と卑しいイメージを残す日本書紀独特の言い回しですが、本来は大船団をひきいていた九州を代表する大豪族だったはずです。「宗像三神」の権威の上からも、権力、富、また大陸の知識を豊富にもつ大豪族です。支配地域は、船舶を用いた九州北部はもとより瀬戸内海から出雲に至る各所に拠点を持ち、天皇家を中心に畿内で勢力争いを続ける氏族とは異なり幾外で西海道を中心に海の外にまで活躍していました。尼子とはこの頃は宗像氏の支配下域で現在の徳島あたり。斉明天皇遠征の瀬戸内海を通る大移動はその通過点になります。さぞ九州では大変なさわぎとなっていたことでしょう。そんなおり、天皇の子息、大海人皇子に捧げられた娘が宗像氏の尼子娘であった可能性は十分にあると考えられます。高市の名も伊予国(愛媛)や備後国(広島)にあり、尼子と関連深い土地です。

 

尼子浦は、徳島、阿波国勝浦郡小松島町の旧称。平家物語勝浦合戦の条に見えるといいます。

高市郷 伊予国越智郡高市郷、または、備後国(広島県)神石郡高石郡高市郷

 

ここでは、伊予国越智郡高市郷に注目します。朝倉村郷土史家の関連部分を引用しますと、

○「斉明天皇は下向時に朝倉に3ヶ月逗留した」とあります。

○「斉明天皇の御宇に創立された」という朝倉村の須賀神社(天王宮)は「もと朝倉天皇又は野田宮とも称した」といいます。

○朝倉村にある樹ノ本古墳には「現在では、古墳の盛り土の上に、天武天皇時代の浄禄寺開祖・輝月妙鏡津尼」の墓が釈迦三尊の碑と共に建っている。」

○竹林寺は「天武天皇の頃、越智大領小千守興(おちもりおき)が願主となり、僧観堂によって開基した」ものです。

○円久寺のある宮ヶ崎村は高市郷という。

○伏原八幡大神社は「天智天皇の木丸殿の旧蹟であるという。」

○この木丸殿は伊豫温故禄によれば「朝倉上村字行司原に在り。日本紀斉明天皇巻曰、七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就于海路、甲辰御船到于大伯海、太田姫皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女、(中略)、四月天皇遷居于朝倉宮、同天皇巻曰く、五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮、是時斬除朝倉社木・・」

○八幡大神社は社記に云うには「斉明天皇行幸の時行宮を此地に営み・此の社に於いて天下太平の御祈あり」「村内に神ノ木之木之本等の地名あり其所は行宮の用材を伐りたる故に此名ありといひ伝えへたり」と言い伝えています。

ホームページ「こたろう博物学研究所−朝倉村−」より引用

 

母、子の名からは瀬戸内海、北九州の匂いがただようようです。まさに、宗像一族の地で生まれた形跡が色濃いと思われます。特に、伊予国越智郡高市郷は熟田津と近いのです。斉明天皇はここで、天武天皇らと3ヶ月滞在しています。九州男児、高市皇子はここで生まれたのです。熟田津や石湯は高縄半島の西側の道後温泉ではなく、東側の朝倉付近にあったと思われます。

その後、大海皇子は母、斉明天皇とともに、斉明7年661年3月25日に大軍とともに、博多に着いています。この九州の地で草壁皇子や大津皇子が生まれています。草壁皇子は高市皇子の1年後の662年の生まれ、大津皇子はその翌年に生まれます。この二人の皇子の名前の由来にも、土地の名称が深く関わっているといいます。

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また、熟田津はこの朝倉郷の付近にあったと仮定できるのかもしれません。潮の流れ逆らわない場所であり、一説に現在の四国随一といわれる松山道後温泉では本当の意味で大変な寄り道になってしまうからです。また、天武13年の大地震により伊予では湯が出なくなるのです。今の熟田津はその後の温泉なのかもしれません。

 

また、向井毬夫氏が図に示された「古代山城分布図」でも、松山市にはなにもありませんが、朝倉郷側には国府推定地(今治市上徳)、国分寺(今治市国分)神籠石系山城(西条市永納山)があった重要拠点の地でもあるのです。石湯もこの地に湯ノ浦温泉があり石風呂という場所もあります。何もない道後の地よりふさわしいのです。

なお誤解しやすいことですが、日本書紀の「朝倉宮」は九州にあります。この四国の朝倉ではありません。しかし、だからこそ同名の朝倉と名付けられたこの地に斉明天皇の息づかいを感じないではいられないのです。

 

道後はあくまで「道のうしろ」であり、当時として遠方の流刑地であったのではないでしょうか。有名な允恭天皇の皇太子、軽皇子をはじめとして、日本後記などでは、延暦21年、伊予国へ配流されている五百枝王(いおえおう)が伊予国府付近に住むことを許した、といった事例があります。おそらくは道後あたりに居た五百枝王が朝倉の地に遷ったことを意味するのではないでしょうか。朝倉の地こそ斉明天皇の行宮にふさわしく、また聖徳太子が訪れた地ではないのかと思います。

 

高市皇子 661斉明7年生〜696持統10年7月10日没 35歳

 

高市皇子が長屋王を生ませた年は24歳になり穏当なところとなりますが、35歳ではずいぶん早く亡くなったものです。もっとも、彼が活躍する時期は壬申の乱だけで、その生涯でも、晩年の藤原宮造営事業を除いて、それといった大きな業績を残さず亡くなっています。

若くして亡くなったからだと思います。

 

高市皇子には暗殺説がつきまといます。その真意は不勉強な私には何ともいえませんが、通説を8歳も年齢を押し下げたことが、さらに暗殺疑惑に拍車をかける結果なのかもしれません。その根拠となる二つの事実、すなわち、万葉集で歌われる柿本人麻呂の年齢が親しい高市皇子と同年齢同士になること、もう一つは、高松塚古墳被葬者はたくましい壮年いう遺骨分析に高市皇子の年齢が下がることで高市皇子の墓説を後押ししていように思えるのですがどうでしょうか。高松塚古墳被葬者の163cmの身長は当時としてはかなり背だけだったと思われます。

 

679天武8年1月5日に「諸王は母であっても王の姓の者でなければ拝礼してはならぬ。諸王もまた自分より出自の低い母を拝礼してはならぬ」という詔を発しています。九州宗像の娘、尼子娘は宗像三女神を代表する者の一人として崇め奉られていたのではないでしょうか。天武天皇は高市皇子など息子達が母として敬意を示すのはよいが、一族郎党が挙ってこの母を崇めることは許さないと釘を刺されたのです。

天武天皇は九州のこの大きな宗教団体の台頭を恐れたのです。天武天皇は全国の神々の一本化も視野に入れていたと思われます。

 

高市皇子の業績は壬申の乱以降、天武天皇が死ぬまでありません。やっと天武天皇が亡くなる直前に気弱にでもなったからか、胸形一族に朝臣の称号とも言える姓(かばね)を授け、公式の席で、高市皇子を褒めるなどの行為が目立ちます。

 

 

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