天武天皇の年齢研究

kamiya1@mta.biglobe.ne.jp

 

−目次−

 ホーム−目次 

 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

−拡大編−

 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

image007

 

2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

image008

 

2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

image009

 

 

 

舎人皇子の年齢 とねりのみこ

First update 2008/03/15 Last update 2011/01/29

 

         735天平7年11月14日薨去 続日本紀

676天武5年生〜735天平7年没 60歳    公卿補任

 

父  天武天皇

母  新田部皇女(天智天皇の娘)699文武3年9月25日没(続日本紀)

子供 大炊王(おおい)淳仁天皇733生−765没(母は当麻山背)第7子

   三原王、三島王、船王、池田王、守部王、三使王、室女王、飛鳥田女王など

伯母 飛鳥皇女 ? − 700文武4年4月没 万葉集A196

 

阿倍倉梯麻呂

    ―――橘娘                 681没

    女    ――――飛鳥皇女 (姉)     700

         ――――新田部皇女(妹)     699

               ―――舎人皇子   735没

       天智天皇   天武天皇         686没

         |      ―――弓削皇子   699

         |      ―――長 皇子   715没

         ――――大江皇女         699

         ――――川島皇子         691没

         ――――泉皇女          734没

忍海造小竜――色夫古娘

 

600 777777777888888888899999999990年

年   123456789012345678901234567890齢

天智天皇 46

天武天皇―――――――――――――――崩

飛鳥皇女 PQRS―――――――――30―――――――――40――――45

新田部皇女OPQRS―――――――――40―――――――――50――53

舎人皇子     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――60

大江皇女 RS―――――――――30―――――――――40―――――46

川島皇子 OPQRS―――――――――30――――35

 

【関連年表】

676天武5年  1歳 舎人皇子誕生

686朱鳥1年 11歳 父、天武天皇崩御。

695持統9年 20歳 無位から浄広弐位を賜った。

699文武3年 24歳 母、新田部皇女薨去。

702大宝2年 27歳 持統天皇崩御。

704慶雲元年 29歳 二品の長親王(38歳)、穂積親王(36歳)とともに

            二百戸加増される。

707慶雲4年 32歳 文武天皇崩御(25歳)

714和銅7年 39歳 さらに二百戸加増。

715霊亀1年 40歳 6月一品長皇子薨去(本稿推定46歳)

            7月知太政官事一品穂積皇子薨去(本稿推定44歳)。

718養老2年 43歳 二品から一品に叙せられる。

            この頃には新田部皇子とともに皇室の長老各になっていた。

720養老4年 45歳 舎人親王ら日本書紀を完成、奏上。

            8月、右大臣藤原不比等(63歳)の死去

            知太政官事を任じられた。

724神亀元年 49歳 聖武天皇(24歳)即位に際し、五百戸加増。

            この時点で、合計二千五百戸に及んだとされる。

729天平1年 54歳 2月長屋王の変の窮問使として新田部皇子らと邸を訪問。

            8月光明立后の天皇の勅を新田部皇子と伝える。

733天平5年 58歳 犬養橘邸を藤原兄弟らと訪れ橘三千代に従一位を贈る。

735天平7年 60歳 11月14日薨去。太政大臣と追贈される。

759天平宝字3年   子の大炊王が淳仁天皇(733〜764)として即位する。

            舎人皇子に追贈して、崇道尽敬皇帝と称せられる。

 

新田部皇女の子、舎人皇子は日本書紀編纂の事業を総裁し、また大宝令制施行で親王名を残しました。

公卿補任によると天平7年60歳が没年としていますから676天武5年に生まれたことになります。現在も一般的にこれが通説として通されています。本稿もこれを採用します。仲がよかったと言われる異母兄の弓削皇子と2歳差であり、蔭位により20歳で受位したことになり問題はないようです。

続日本紀では、舎人親王として天武天皇第3子と記しています。第1子を草壁皇子、第2子を大津皇子と考えられ、天武皇子たちのなかでも年若の彼が第3子に格上げされたのは、息子大炊王が舎人皇子の死後に天皇昇格されたことが理由と考えられます。

 

天武天皇の男性皇子のなかで一番長生きした舎人皇子です。天然痘の蔓延で藤原四兄弟全員が死ぬ737天平9年の2年前、天平7年まず新田部皇子(本稿推定55歳)が9月30日に亡くなり、11月14日にこの舎人皇子が最後に亡くなったのです。葬式も天武皇子のなかでは最大級のものです。続日本紀によれば、知太政官事・一品として、従三位の鈴鹿王を遣わして、葬儀を監督・護衛させた、とあります。またその葬列は太政大臣に準ずるものであり、皇族の男女はすべて葬儀の場に参列させた。中納言・正三位の多治比真人県守らを遣わして、邸で詔を宣べさせ、太政大臣の官職を贈ったとあります。

 

ちなみに皇女を含めた15名の天武天皇の子供達で一番長生きしたのは託基皇女で当耆皇女ともあだ名されたようです。

707慶雲4年舎人皇子が32歳のとき、文武天皇が6月15日25歳で崩御されました。

疫病が蔓延した年です。前年の11月に文武天皇は病に陥り、母である阿閇皇女に位を譲ろうとしますが母は固辞しています。その翌年崩御される2ヶ月前4月に何を思ったか、藤原朝臣不比等に莫大な5千戸を新たに加増すると詔されました。不比等は断っています。そして崩御。秋7月17日に阿閇皇女はやむを得ず元明天皇として即位します。度重なる要請により気の毒になり、文武天皇が亡くなる6月15日に受けたと言っています。

次期天皇を誰にするのか。このとき、藤原不比等の遠大な計画がスタートします。文武天皇の皇子、首(おびと)親王を将来、聖武天皇にするためその間天皇位を引き継いでほしいと愚図る阿閇皇女を説得したのです。阿閇皇女は文武天皇崩御後も天皇になるのを拒み続けていたのではないでしょうか。辛抱強い藤原不比等に説得させられたというところが真実のように思えます。

首親王こと将来の聖武天皇の母は藤原不比等の娘です。そしてその将来聖武天皇の皇后にやはり藤原不比等の娘がなるのです。

 

天智天皇―――――――元明天皇

             ――――元正天皇

天智天皇――持統天皇   ――――文武天皇

       ―――草壁皇子    ―――聖武天皇(首皇子)

      天武天皇         |    |

       |   藤原不比等――宮子娘   ―――孝謙天皇

       |     ―――――――――光明子

       |   橘宿禰三千代

       |

       ―――舎人皇子

天智天皇――新田部皇女

 

しかし、このとき藤原不比等以外の人々は次期天皇を誰だと思っていたのでしょう。天武天皇の皇子で生存しているものは、長皇子(38歳)、穂積皇子(36歳)、舎人皇子(32歳)、新田部皇子(27歳)の4人がいました。そしてその中で有力なのが、天武天皇が天智天皇の娘から得た、長皇子と舎人皇子でした。はっきり言って、その長皇子は無能で、穂積皇子は素行が悪く、新田部皇子はまだ30歳に至っていません。このとき誰もが舎人皇子を注視していたのではないでしょうか。

万葉集も詠っています。

 

獻舎人皇子歌二首

舎人皇子に献じる歌二首

H1704

捄手折 多武山霧 茂鴨 細川瀬 波驟祁留

ふさたおり たむのまぎり しげみかも ほそかわのせに なみのわけ

ふさ手折り 多武の山霧 繁みかも 細川の瀬に 波の騒ける

ふさふさに手折れる多武の山の霧が深いからこの細川の波も騒いでいる

要旨:多武山の藤原の里の謀略が深いからこの辺りまで騒がしいようです。

 

H1705

冬木成 春部戀而 殖木 實成時 片待吾等叙

ふゆこもり はるへをこいて うえしきの みになるときを かたまつわれぞ

冬こもり 春へを恋ひて 植えし木の 実になる時を 片待つ我れぞ

冬ごもり 春にはと思い 植えた木に 実が成る時を ひたすら待つ私です

要旨:冬を耐え春になれば成就できるときをひたすら時を待つ私です。

折口信夫氏は「皇子が天子にならるる時の、早く来るのを願った歌らしく見える」

と書いておられます。(口訳万葉集)

 

舎人皇子御歌一首

H1706

黒玉 夜霧立 衣手 高屋於 霏微麻天尓

              (「微」は「雨」冠を要す)

ぬばたまの よぎりはたちぬ ころもでを たかやのうえに たなびくまでに

ぬばたまの 夜霧は立ちぬ ころもでを 高夜の上に たなびくまでに

夜の霧は一面に立ち昇った。衣の袖を濡らし屋敷の高殿の上まで長く掛かるまでに

要旨:恐ろしい霧は大変深く、もはや私の屋敷の内の隅々にまでしみ込んでいるようだ。

 

万葉集にこんな解釈をしてはいけないのでしょうか。これらは舎人皇子の屋敷で催された宴席でのものと言われます。舎人皇子の天皇擁立の動きかあったことは否めません。その中にあって、このとき舎人皇子はじっと動きませんでした。動くことができなかったのかもしれません。

 

ところで文武天皇崩御に伴い行われた殯宮での行事に従事したもののなかに、天武天皇の皇子の名前は一人も載せられていません。唯一、二品の新田部皇子が火葬のため、御竈を造る司に任じられているだけです。翌年正月、元明天皇による初めての叙位においても天武系の皇子の名前は一人もありませんでした。

 

その10年後、元明天皇から娘の元正天皇が即位し藤原不比等が描いた天皇制の流れが確立するとやっと二品から一品に叙せられました。43歳になっていました。その2年後、藤原朝臣不比等が亡くなります。そのとき故穂積皇子の職を継いで知太政官事に任じられました。その後の彼は不比等の魂が乗り移ったかのように天皇家のため、それが藤原家の繁栄に繋がることになると知りながら文字通り身を粉にして働き尽くしています。薨去されたときには合計二千五百戸に及んだとされ名実ともに天皇に次ぐものでしたが、死んで初めて太政大臣と追贈されたのです。その後、息子の大炊王が淳仁天皇(758天平宝字3年)として即位すると、父を思い崇道尽敬皇帝と言わしめます。父の心の思いをこの息子だけはわかっていたのかもしれません。ここではじめて舎人皇子は最高権威者と称せられます。しかしそれでも天皇にはなれませんでした。死後天皇の称号を得ることができたのは、11年後770宝亀1年光仁天皇により追尊された、天智天皇の生き残り施基皇子の春日宮天皇です。この淳仁天皇は力がなかったようです。

 

以下の歌は、前に、但馬皇女、後に弓削皇子に挟まれた相聞歌です。そのためか非常に明るく健全な歌に感じます。なぜなのでしょう。彼の人心掌握力といいますか、取り巻きの豊富な人材を感じます。舎人集団の長といった観が見えてきます。

 

舎人皇子御歌一首

A117

大夫哉 片戀将為跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里

ますらをや かたこひせんと なげけども しこのますらを なほこひにけり

ますおや 片恋せむと 嘆けども 醜のますらを なお恋にけり

大夫たるもの片思いはしないと言い聞かせるけれど自分はみっともなくもまた恋してしまう。

 

舎人娘子奉和歌一首

A118

嘆管 大夫之 戀礼許曽 吾髪結乃 漬而奴礼計礼

なげきつつ ますらをのこの こふれこそ わがかみゆひの ひちてぬれけれ

嘆きつつ ますらおのこの 恋ふれこそ 我が結ふ髪の 漬ちてぬれけれ

嘆きながら ますらおが 恋いするので 私の結った髪が濡れなめらかになりました。

穏やかな若い男女が集う宴会風景といえます。明るい笑い声がこだましています。

 

 

本章先頭へ       ホーム目次へ

©2006- Masayuki Kamiya All right reserved.