毎日のように放送させていただきましたが、やはり反応のとぼしいことがものたりませんでした。ほとんど唯一の例外は一葉を 読んだときで、ひとりの聴取者の方から、「ラジオを聞きながらエプロンで涙を拭いています」というお便りをもらいました。あまりに うれしくて、プロデューサーに、一葉だからこういう反応が返ってきたのよ、と語ったものです。 反応のないのは放送の宿命ですが、そのために不安にかられることもよくあり、別のかたちの朗読がありえないものか、気持ち のうえでだんだん模索するようになっていきました。 いま私がたどりついた舞台朗読では、聞いてくださっている方がちゃんと見えます。表情も見てとれます。読み手である自分が 送り出した言葉が矢のように聞き手に達し、反応として即座に送つ返される。それが、痛いほど伝わってきます。 舞台と客席を、ピンポンの球のように行き交う言葉。その軌跡が、はっきり感じられるのです。舞台朗読を続けているのは、 この楽しさがあるからかもしれません。 こんなぐあいで、反応が返ってこない放送にあきたらず、私はしだいに朗読を生で演じる、つまり舞台で演じる方向へと進んで いきました。 しかし最初の舞台は、一葉とは関係なく、いろいろな作品を何人かで読むというかたちで始まりました。NHK・FM朗読の プロデューサーであった遠藤滋さんが企画し、放送劇団の有志、浜田 紀伊國屋ホール、砂防会館、金属会館と、あちこちで有志の方たちとともに舞台をもったものです。これはしかし、今でいう 「群読」とか、数人で分担して「輪読」するといった、演出優先のものが主体でした。作品としては、漱石の『夢十夜』などをとり あげています。 舞台ではユニークな構成がありましたが、ある公演の幕開きに、私と浜田さんとで百人一首を読む場面がありました。 そのとき、私は短歌五・七・五・七・七の一部を忘れるという、大きなミスを犯してしまったのです。上の句を読んでいるあいだに、 次の句の何文字かがどうしても頭に浮かんでこない、という恐怖感は、いまもありありとおぼえています。 じつはそのとき、私はお客さまとして、尊敬する国文学者であり、芭蕉研究の第一人者でもあった ともかく、恥をかいておぼえていくことが大切だとは、このとき身に染みてわかった〈教え〉のひとっです。 |