両親の反対

 しかし家では、芝居へかかわることは反対されていたのです。
 女子高で、同級の工藤さんや、のちに詩人となった吉原幸子さんたちと芝居をすることまでは、許してもらえました。
 しかし大学に入り、こんどは演劇研究会でやるとなると、もうダメでした。早稲田や一橋、東大の〈劇研〉の男性たちといっしょに 芝居を演じたりするのは、たしなみがないということで、当時の常識にしたがって反対されたのです。
 親は、私の仕事も本当には理解してくれなかったのかもしれませんが、さすがに母親はあたたかく、いつまでたっても、「弘子 がお金をとってお客さんを呼ぶなんて、そんなだいそれたことをして大丈夫なのかねえ」などと心配してくれたものです。舞台に 毎回来てくれただいじな母も、しぱらく前に亡くなりました。
 きびしかった父は、じつは読書が大好きでした。いろいろな本や雑誌、新聞などを、声に出して読んでいたものです。思い出す のは、父が書斎の大きな机にすわって、小さな声で講談本を読みあげていた姿です。「イヤーぽんぽん、俺の頭をなぐったな」 などと読み、子供心にも本当におかしかった記憶があります。
 誰もが、声に出して読んでいました。もしかしたら、きちんと理解するために音読し、ゆっくりゆっくり、納得しながら読んでいた のではないでしようか。頭でなく、体にしみこむ日本語。
 道を歩いていたら朗読の声が聞こえる、そんな「古き良き時代」だったことは間違いあません。