中村先生と朗読

 大晦日の夜、恒例の樋口一葉の『大つごもり』を朗読して、家路につきました。帰途、以前の青山の中村先生のお宅の前を通り ながら、3日前に熱海の山の上でお別れした先生を、しきりに思い出しました。
 「薔薇と百合匂へよみぢの夕影に」と、先生は数年前にそんな「辞世の句」をお() みになっていらっしゃいましたが、12月28日、 熱海から十国峠に出る山道には、年の暮れというのに、信じられないほど鮮やかな紅葉が残り、雨に洗われた木々の艶やかさ がひときわ目にしみました。
 紅葉の隣りには白梅と紅梅が咲きそめ、桜の(つぼみ) までほころびはじめたようです。季節が重なって、先生のお別れを美しく飾って いるようでした。
 「死ぬ時は華麗にというのが、老叟の夢なのである」と先生は書き残していらっしゃいますが、山中の眺めはこの世のものとは 思えない、華麗な彩つでした。これほど心にしみる風景は、見たことがありません。
 中村先生にはじめてお目にかかったのは、いまから40年近く前のことになります。以前、文学座にいらっしゃった金子信雄、 丹阿弥谷津子さんご夫妻と、劇評家で劇作家の戸板康二さんが「演劇集団マールイ」をつくったころからのおつきあいです。
 先生のお書きになった「疑惑」や「人形の贈り物」はマールイで上演されましたし、私も何度かマールイの舞台に立ったことが あります。
 先生の亡くなった最初の奥さま、俳優の新田映子さんが文学座で活躍され、金子さん、丹阿弥さんと親しかったこともあって、 先生はマールイによくいらっしゃいました。そのつど、芝居のこと、文学のこと、外国のこと、いろいろなことをうかがいました。 マールイは先生と金子さんを中心とする楽しいサロンでもありました。私もこの気のおけない、しかしきわめて知的なサロンで、 じつに多くのものを教えていただきました。非常に貴重な時間でした。
 私は20年前から、舞台で一葉をはじめ、文学作品を朗読する会をつくり、定期的に公演を続けていますが、そのたびに先生の お力をお借りしています。「幸田弘子の会」の小冊子に原稿をお寄せいただいたり、私との対談に何回も出ていただきました。
 1992年に、森鴎外の『即興詩人』を朗読したときにも、対談をお願いしました。
 この長編のどこを何分くらい読むのかと聞かれて、「いまは1時間ぐらいですが、50分ほどにしたいと思います」と申し上げると、 「それは無理よ。まあ、みんながわからない顔をしたら、あなたのことだから、そのあたりで切り換えればいいか」。「そんな、 とんでもない」と笑ったのですが、公演が始まると、さっそく劇場にいらしてくださって、「よかったよ。面白かった。あっとい う間に終わって、20分ぐらいにしか思えなかった」とおっしゃってくださいました。中村先生は『即興詩人』を中学2年のときに はじめて読んで感激し、暗記したそうです。
 そのあと、「これはご褒美」とお持ちくださったのが、鴎外の『即興詩人』と『美奈和集』の初版本です。
 とんでもない、とお断りする私に、先生は、「この本をそばにおいて、見るだけでもきっと朗読が違ってくると思うの。でも、これで 稽古しちゃ駄目よ。これは芥川(龍之介)さんが亡くなる1週間前に、谷崎(潤一郎)さんにあげたものなの。谷崎さんからぼくに 伝わった。いまは幸田さんが持っているほうがいいと思うからあげます。大事になさい」とおっしゃいました。
 重ねてご辞退する私に、先生は「これで鴎外を読みなさい」とおっしゃり、けっきょく、「だいじな宝にします」とお預かりしました。 そのとき、「まさか形見のおつもりでは」と不吉な思いがして、「縁起でもない」とあわてて心の中で打ち消したことを、きのうのこと のようにおぼえています。
 いただいたのは、明治35年9月1日発行の二冊本『即興詩人』と、明治25年7月2日発行の『美奈和集』、ともに発行は春陽堂 です。本をひもとくと、中村先生のぬくもりが伝わってくるような気がします。
 先生は私に、「ぼくにいちばん近いタイプは漱石ではなく鴎外」と、よくおっしゃっていました。先生の鴎外への傾倒は、並々ならぬ ものがあります。先生は、漢文というのは、東洋におけるラテン語のような普遍的な言葉と言い、「鴎外の文体はいよいよぼくには 親しいものになってきている気がします」と語っていました。
 先生は、鴎外が激賞した一葉の文体を高く評価し、単なる和文ではなく、西洋文学を学んだ文学界の若い作家たちの影響を 指摘していました。私は、先生のお言葉をかみしめながら、これからも舞台での朗読を続けようと思います。いずれ、『即興詩人』も、 必ず。