虚業教団・第1章

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5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:33
「虚業教団」5  第1章 「ささやかな、けれども爽やかな第一歩」
○ 「大川青年との最初の出会い」
 1989年(平成元年)の夏、私はロンドンに滞在していた。そこから東京の
幸福の科学本部事務局宛に、一通の封書を出した。封書には、〈幸福の科学〉
への別れの挨拶ともいえる私の辞表が入っていた。
 この別れに、淋しさがなかったと言えば嘘になる。
 自分は〈幸福の科学〉を創りあげた一人である、という自負があった。
人生を懸け、ともに歩んできた3年半。時間としては短いかもしれない。
しかし命懸けでのめり込んできた日々は、私には長く、重いものだ。
 それまで私は自動車販売会社を経営していた。同業者からも羨ましがられた
ほど順調だった会社を人に譲り、自社ビルは売却した。妻子とも気まずく別れる
ことになった。主宰・大川隆法に強制されるかたちで、“神託結婚”もした。
それでもまだ、人生を懸けたと言うにしては、3年半は短過ぎるだろうか。
 そのような会との別れは私の胸を締めつけた。
 しかし一方では、晴々とした気分だった。
 ロンドンの空は、連日爽やかに晴れ渡った。お世話になったイギリス在住の
Tさんによると、ロンドンでこんなに快晴が続く年は非常に珍しいという。
抜けるようなその青空に似た清々しさを、私はー人噛みしめていた。
 “これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう”
 軽やかな陽射しを浴びながら、私はロンドンの街を、公園を歩きまわった。
その心をさまざまな思いが心をよぎる。

6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:35
「虚業教団」6 (第1章−2)
 “幸福の科学は、ほんとうに幸福を科学したのだろうか。会員は幸せになれた
だろうか。職場や家庭で、彼らは真に素晴らしき人になり得ているのだろうか”
 “碓かに愛の理論はあった。だが、愛の実践はともなっていたか・・・”
 “会員を集めることに走り、最初の志を忘れてきたのではあるまいか”
 東京にいたときも、繰り返し浮かんできた問いである。
 一ヵ月の休暇を無理やりもらってイギリスヘ渡ってきたのは、3年半の激務
でボロボロになった体の治療が目的だった。それは、遠く離れて会を見つめ
なおすいい口実になった。
遠くに立ち、胸にわだかまるいくつもの問いに答えを出したかったのである。
 一日置きに治療を受けに通った。そのあい間にハイドパークの公園へ出かける
のが、いつしか私の楽しみになっていた。陽射しに暖められた柔らかな芝生に
体を横たえ、胸一杯に新鮮な空気を吸う。ちょうど日本の初夏のようで、
あちこちに陽炎が踊っていた。
 会で重責を背負っているときは、何かに憑かれたように、いつも忙しく動き
まわっていた。自然とゆっくり接することもなかった。会の方針や自分の
かかわり方についても、落ちついて考えるヒマもなかった。しかし、こうして
遠くから眺めてみると、大川隆法という人物や〈幸福の科学〉が次第に見えてきた。
 絶対と信じ切っていたものが、今は陽炎のように揺らいでいた。
″私の辞表に大川先生は何を思うだろうか″そんな vいも幾度となくわいてきた。
 私と大川隆法の最初の出会い。それは3年前にさかのぽる。

7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:37
「虚業教団」7 (第1章−3)

正確な日付は忘れたが、86年の確か4月下旬だった。
私はその日、新宿7丁目の割烹料理店「作古」の2階で、一人の青年と
向き合っていた。
青年は肉付きのいい体に背広を着て、座敷の上座に座っていた。彼の名は中川隆。
後の〈幸福の科学〉主宰、大川隆法である。
 当時は、総合商社トーメンの東京本社国際金融部に勤めるサラリーマンだった。
東大卒、大手商社社員という経歴はエリートと呼べるだろう。その一方では、
善川三朗編の「日蓮聖人の霊言』「空海の霊言』に登場する“霊能力者”でもある。
しかし、その名前はまだ世間にほとんど知られていなかった。
 エリート・ビジネスマンと霊能力。この取り合わせは、今までの宗教にない、
新しい何かを感じさせた。
 私もすでに、この二冊の霊言は読んでいた。むろん、現在のように書店に
コーナーがあったり、ベストセラー入りすることもなかった。その頃、
私が通っていたヨガ教室の先生に勧められ、何気なく手にしたのである。
 じつに奇妙な本だった。日蓮や空海の霊が、大川隆法なる人物の口を借り、
宗教の本質や天上界の様子を語って聞かせる。一種の霊界通信である。
その内容は、現世的なご利益を求める従来の宗教とは明らかに違っていた。
 事業がある程度成功し、お金には不自由ない生活の中で、当時の私は何か
満たされないものを感じていたのだと思う。この本は、そんな私の心に強く
訴えたきた。
 “宗教とは、こんなにすごいものだったのか”
素晴らしい精神世界の一端に触れた気がして心臓が高鳴った。
大川隆法に引き合わせてくれたのも、このヨガの先生、中原幸枝だった。
「大川さんは大変な霊能力を持つ、偉大な先生なんですよ。」
彼女は常々そう言っていた。

8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:39
「虚業教団」8 (第1章−4)
 あの頃、中原は都内に20カ所 ゜いヨガ教室を持っていた。何冊の自著も出版
されていた。この世的な成功にも一切目をくれず、一途にヨガの修業に打ち込ん
でいる彼女には、何か突き抜けたような爽やかさがあった。ひと言で言い表すなら
“尼さん”が一番ピッタリかも知れない。整った顔立ちも手伝い、ヨガ教室の
スタッフや生徒には男女を問わず中原信奉者が多かった。
 中原は大川隆法を前にして、いつになく興奮していた。
 だが、私の目にはこの小太りの青年はごくありふれた若者の一人としか
写らなかった。これが本当にあの大川隆法なのか・・・。霊言を読み、どんなにか
すごい霊能力者が現れるかと期待し、恐れてもいた私は少々意外だった。
 私の会社の番頭格で、やり手の営業部長だったIとどこか似ていた。年長者の
私をさし措き、平然と上座に座るところもIを思わせた。しかしそれも、この
年代としては、まあ普通のことだろう。
私も、中原にならい、青年を「先生」と呼ぶことにした。
大川も中原も酒には口をつけなかった。私だけがときどき杯を口に運んだ。
 話の端々から、青年の頭のよあが感じられた。こ 、いう人材を持った会社は、
営業成績をぐんぐん伸ばしていけるだろうな、と私は思ったことを覚えている。
長年営業畑を歩いたきた私は、有能な営業マンとしてバリバリ仕事している彼の
姿を、すぐイメージすることができた。
 仏陀の生まれ変わりである主宰先生を営業マンにたとえるとは何事か、と
〈幸福の科学〉会員には叱られそうだ。しかし、悲しいかな、これが長年の仕事
によって培われた、私のカンである。
幸か不幸か、このカンは外れてはいなかったようだ。精力的な会員獲得戦略
と、その結果として爆発的に増えた会員数を見れば、あのカンはまさしく的中
したことになる。

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:40
「虚業教団」9 (第1章−5)
 その年の男性にしては高い声で、大川青年は理路整然とよどみなくしゃべった。
「先生の目は冷たい」というのが、私がいた頃の教団職員の一致した見方だった
ように記憶するが、そんな冷たさも感じなかった。笑うと、いかにも田舎の
青年らしいはにかみが浮かんた。
 私に失望があったとしたら、その目に″ある種の眼差し〃が欠けていたことであ
る。偉大な芸術家や霊能力者が持つ、奥行きのある神秘的な眼差し。残念ながら
彼の目には、その眼差しがなかった。中原は「大変な霊能力」と言ったが、
大川の前に座っていても、自分の一切を見抜かれてしまうような恐れは感じ
なかった。要するに、頭のいい、平凡な青年というのが私の第一印象である。
 “そんなはずがない。あれだけすごい霊言をするのだから、私などには到底
うかがい知れない何かがあるに違いない。きっと、特大の超能力者なのだ”
 そんなふうに考えてみた。“そんなはずがない。きっと・・・”という思いを、
私はこれ以降、3年半のあいたに何十回、何百回と抱くことになった。だが、
あのときはそんなことなど思いもしなかった。
 やがて、神理探究の学習団体をつくろうという方向へ話題は進んでいった。 「大川先生には500人もの高級霊が降りてくるんですよ」と中原は言った。
「世の中の宗教団体は、そのうちの1人を神として拝んでいるんです。
どれもこれも、ご利益をも 轤ヲると説く宗教ばっかり。私たちは新しい時代へ
向けて、本当の神のみこころを学習する集団をつくりたいんです。是非、
つくっていきましょうよ!」
 座敷にいたのは二時間ほどたったと思う。
 私か支払いを済ませ店を出ると、4月下旬というのに夜気は思いのほか
冷たかった。しかし、そんなことなど気にならないほど私は高揚していた。
神のみこころを学習する団体!・・・この言葉を心の中で何度も繰り返し
つぶやいた。
 大川隆法、30歳。中原幸枝、年齢不詳。私が51歳。3人ともまた若かった。
 この夜から、何かが勤きだしたのである。

10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:41
「虚業教団」10 (第1章−6)
 ○ 6畳ひと間の事務所からのスタート
 大川の本を読み返してみると、86年6月に諸霊から「会社を辞めよ」と
勧告され、神理に生きる決意を固めたことになっている。4月下旬の「作古」
での話は、たぶん諸霊の勧告を迎えるための根回し、ということにでもなる
のだろう。
 中原幸枝が嬉しそうな声で電話してきたのは、しばらくたってからだった。
 「関谷さん、学習会の名前が決まりましたよ」彼女の声は弾んでいた。
 「大川先生の案で、〈幸福の科学〉とすることに決まり、今日から会員募集
に入りました。関谷さんも、会員番号を登録して一緒に学んでくださるでしょう?」
 コウフクノカガクという言葉に少し戸感ったが、即座にOKした。幸福の科学、
なかなかいいじゃないか。宗教臭くないその名前に、私も好感を持った。
「今度、入会申込み書に記入してくださいね。関谷さんの会員番号は18番ですよ」
「エッ、18番? もう、そんなに大勢人ったんですか」正直に言うと、たった
1日で10人も20人も同志が集まるとは思いもしなかった。しかし考えて
みれば不思議ではないのだ。中原の周辺には、その人柄や考え方を慕う人たち
が大勢いたのである。ヨガのスタッフや生徒がその後も続々と参加し、
会はたちまち100人にも膨れあがった。
 今あらためて〈幸福の科学〉の順調なスタートを振り返るとき、中原幸枝の
道を求めるまっしぐらな熱意によるところ ェ、いかに大きかったかを痛感する。
彼女の純粋で強烈な求道心。良くも悪くも、それがまわりを巻き込んでいった
のである。
 大川の霊言を読んで参加した山田篤、安岡一男のような人たちもいた。
しかし全体としては、大川隆法の会というより、中原が中心の会という感じが
あった。ただ中原は、「大川先生、大川先生」と最大限の敬意を込めて持ち上げ
ていた。「中原さんがあれだけ尊敬するのだから、さぞかし立派な先生だろう」
 初期の会員の多くは、おそらくそんな気持ちだったのではないかと思う。
 ここに陥穿があった。 

11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:42
「虚業教団」11 (第1章−7)
中原や私が望んだものは、信仰に凝り固まった宗教団体ではなかった。
私たちは学習の場をつくろうとしたのである。大川隆法という宗教的天才を
先生として、歴史に現れた神の理法を学び、実践していく学校。そう、学校だ。
霊言や「作古」での話し合いから、私はそんなものをイメージしていた。
この点では、少なくともその言葉を信じるかぎり、大川の考えもそんなにかけ
離れたものではなかっただろう。
 「幸福の科学は、いわゆる宗教にはしたくない」
 ハッキリと彼は断言していた。しかし私たちは、中原の大川賛美を無条件に
受け入れることで、個人崇拝への道を敷いてしまったのではなかったか。
自分の写真を宗教法人〈幸福の科学〉の本尊とし、自らを仏陀の生まれ変わり、
宇宙の最高霊エル・カンターレであると称するような、ある種の″狂気″に
道を開いたのではないか。
 仏陀は涅槃に入る前に、弟子たちを集め、「これからは人を師とするのでなく、
法を師とせよ」と説かれた。噺愧の念なしに、私はこの教えを思い出せない。
悪評を買った91年の“御生誕祭”に、「星の王子さま」さながらの姿で演壇
に登場したエル・カンターレ。冷やかし半分のテレビでそれを見せられ、
複雑な思いを味わった人も、初期の会員には多かったに違いない。
 だが当時、そんな日がやってくるなどと誰が想像しただろうか。

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:44
「虚業教団」12 (第1章−8)
その夏、中原は軽井沢にある父親の別荘へ大川を案内した。すでに大川は
7月半ばでトーメンを退職していた。中原家の別荘で、大川は「正心法語」
「祈願文」の二つを書きあげて戻ってきた。覚えやすい七五調の現代語で
会の指針を説く「正心法語」は、今でも会の「お経」になっているはずである。
 −大宇宙に光あり 光は神の命なり
   命によりて人は生き、命によりて歴史あり
   命は永遠に不変なり・・・
 言葉は今でもスラスラ口をついて出る。学校の校歌みたいだと、意地の悪い
ことを言う人もいる。しかし私たちは、そこに霊性時代の幕開けの声を聞いた
のである。指針は示された!
誰もがワクワクしていた。特に若い会員は熱っぽく語り合い、イキイキと働いた。
彼らの手で、『正心法語」「祈願文」はワープロ打ちされ、コピーされ、紐とじ
されて、表紙には金色のスタンプが押された。
「手作りのこの2冊が、将来はとても価値あるものになるのね」
 誰もが中原のそんな熱意に動かされ、喜んで作業に 繧cZ。新しい価値を
自分たちの手で創り出しているのだという感動を、みんなが共有していた。
そしていつの間にか、この会なしに神理の探究は不可能である、と思い込んで
いったのである。
 最初の事務所は、杉並区西荻窪にある中原の自宅を改造した6畳一間だった。
中原は改築のために、なけなしの貯金をはたいた。デスク代わりの小さな
ちゃぶ台がーつに、茶碗が5、6個。部屋の一部がカーテンで仕切られ、
そこで大川が相談者の話を聞くことになっていた。
 そこに息苦しいほど籠もっていた若者たちの熱気を、私は懐かしく思い出す。

13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:46
「虚業教団」13 (第1章−9)
 ○ 「86年11月 発足記念座談会」

 いよいよ会として、第1回の会合を開くときがきた。「幸福の科学発足記念
座談会」がおこなわれたのは、この年の11月23日である。場所は、
中原ヨガの教室があった日暮里の酒販会館。後の〈幸福の科学〉のイベント会場が、
あの東京ドームで ることを考えると、いかにも慎ましく、ささやかな出発だった。
 私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時
間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったよ
うだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験は
なかったから当然だろう。気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、3人は喫茶
店で一服してからビルの4階にあるヨガ教室へ上がった。
 会場は、会員の手できれいに飾りつけられていた。手作りの暖かさに私はホッと
し、会の成功を確信したのを覚えている。
左端に屏風が立ててあり、大川と中原はその陰へ入った。ビデオ録画を担当する
ことになっていた私は2人と別れ、聴衆の後ろから演壇ヘカメラを構えた。
 そこには、7、80人が集まっていた。
 まず司会役の中原が登場し、開会の挨拶をした。彼女はかなり緊張し、
アガっているように見えた。最初は言葉もしどろもどろだった。しかし
最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えていないが、
一つだけ強く印象に残っている言葉がある。
「大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います」
 中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:48
「虚業教団」14 (第1章−10)
 いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、
聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。
 大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、
何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。
誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。
「炎を見て、モーゼは炎を見て火事だと思うんですね。でも119番できないんですね。
電話がないから……アッハ、ハ」
 人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぽえる。
 その目は、GLA教団の教祖である故・高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、
前もって間いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、
張りのある高橋の声は、言霊(ことだま)と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。
テープで聞く高橋の早口を、大川はマネしているように聞こえた。
 “おかしいな”と私は思った。“霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の
肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。霊言と指導が違うなら、
なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど・・”
 心の中でこうつぶやいた。“やっぱり、大川先生ご自身のお考えで話されているのかな”
しかし講演の内容は素晴らしく、誰もが霊的世界を実感できるようなものだった。
 会場には、やがて〈幸福の科学〉の局長となる細田勝義、大沢敏雄らもいた。
後に四代目の活動推進局長になる大沢が最後部から、熱血漢らしい質問をぶつけて
いたのを思い出す。削価学会の会員集めに辣腕を振るったと言われ、〈幸福の科学〉
でも89年からの拡大路線では強力な推進力となった人物である。
 その大沢が、「リュウホウ先生、リュウホウ先生」としきりに発言した。
 それまで“大川隆法”は、大川タカノリであった。本にもそう書かれていたし、
私たちもそう呼んでいた。しかしこの日の大沢の発言をきっかけに、タカノリはリ
ュウホウに変質していったのである。
 ともかく、発足記念座談会は成功に終わった。帰りはレストランで食事し、今日
の話題に花を咲かせた。大川も中原も私も一様にホッとしていた。これから楽しい
ことがはじまりそうだ・・・私は嬉しくてしかたなかった。

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:50
「虚業教団」15 (第1章−11)
 ○ 「仕事を捨てて(幸福の科学)へ飛び込む」
 私はまだ〈幸福の科学〉に夢中というほどではなかった。
 当時私は、世田谷の環八通りに自動車販売会社を持っていた。1967年の3月
3日に、ほとんど無一文でスタートしてから19年。一度の赤字もなく、順風満帆
で伸びてきた会社である。2年前にはそれまでの借地を買い、4階建ての自社ビル
も新築した。
 「どうしたら、関谷さんみたいになれるかね」仲間からはいつも羨ましがられて
いた。 ビルもさることながら、小さいながら楽しい職場であることが私の誇りだ
った。お客さんも、友人の家のようによく遊びにきてくれた。
“次の3月3日は、20周年記念だ。関係者を呼んでドーンと花火を打ち上げてや
ろう”そう思ったとき、私の心はすでにーつの決意を秘めていた。
 3月3日20周年記念パーティの当日。青山ダイヤモンド・ホールで開いた祝賀
会には200人もの人が集まった。その中に大川隆法と中原幸枝の姿もあった。自
動車業界の社長さんたちは、まだ無名の大川隆法には当然目も留めなかった。
パワフルな実業家たちの熱気あふれる中で、二人はやはり異色だった。二人がたた
ずむそこにだけ、静かな、清涼な空気が漂っているように見えたものだ。
 パーティーは愉快に楽しく進行した。琴とバイオリンの二重奏あり、木遺り歌あ
り。木遺り職人のショーには、取引銀行の支店長が飛び入もする盛り上がりだった。
 最後に、感謝の意をあらわすために私が壇上に立った。
 「みなさんのおかげで、我が社もここまで成長することができました。ところで、
私にはこの人生でもう一つやってみたいことがあります。残りの人生は、それに打
ち込んでみようと思います」誰も予期しない爆弾発言だった。
 友人や知人、業界仲間は一斉に驚きの声をあげた。順調な仕事を放り出し、50
男の関谷が、いったい何を始めるのか・・・。誰もが不思議がった。この人生でも
う一つやってみたいこと。それを明言したら、驚きはさらに大きくなっただろう。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 14:51
「虚業教団」16 (第1章−12)
 振り返ってみれば、経済的安定のみを求めて生きてきた私の半生である。
その結果、ひと通り必要な財産は造りあげた。豪邸とはいかないが、そこそこの
住宅を建て、4階建ての粋な自社ビルも持てた。人間関係にも恵まれたほうだろう。
 “これで充分さ。このうえ何がほしいんだ”何度も自分に問いかけた。
 当時の私は、互いのわがままから妻や子供と別居し、別々に生活していた。
 “気楽な独り暮らしじゃないか。金もあるし、ある程度の社会的地位もある。男
なら、一度は夢見る生活だぞ。何が悲しくて、居心地のいいポジションを投げ捨て
るんだ”私の「常識」はそうささやいていた。
 しかし、私にはこの人生でもっと大切な仕事が待っていると感じられた。
その仕事を成し遂げるために、今までの幸せが与えられていたのではないか。
妻や子供との別居さえ、そういう天のはからいではないのか。
 20周年記念パーティーでの爆弾発言の裏には、こんな自問自答があった。
 私は決して空想的な男ではない。地に足のついた生活をしてぎたし、現実的な
人間関係を何より大切にして生きてきた。だが心の底には、この現実を超える素晴
らしき価値が、必ずどこかにあるはずだという漠然とした思いがあった。
 顔を出してみた宗教団体も、今までに二つほどあった。けれどご利益専門の宗教
は、弱い人間の集まりとしか思えない。私が求めるものはそこにはなかった。
 漠然とした思いが、〈幸福の科学〉の創設に加わることで急にハッキリした形を
とり、私自身にも信じられないほど膨らんできたのである。

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 15:18
「虚業教団」17 (第1章−13)
 この年、87年は〈幸福の科学〉の胎動期だった。
 活動推進委員が選ばれ、委員を中心に会の基礎造りがおこなわれた。委員に任命
されたのは、前川節、細田勝義、高橋守人(後に退会)、太田邦彦(後に退会)、
そして私の5人である。そこに、秘書室長の中原幸枝を加えた6人が、大川主宰を
囲んで会の方針を話し合った。〈幸福の科学〉は次第に形を成していった。
 お気づきのように、中原と私を含めた初期の幹部6人のうち、すでに4人が退め
ている。4人という数が多いか少ないか、私にはわからない。しかしホンモノの神
理なら、どうして苦楽をともにしながら会をつくりあげた仲間の半数以上が去って
いかなければならないのか。これでは大川が豪語するように、すべての日本人を会
員にするなど到底不可能だろう。不可能というより、誇大妄想と呼ぶほかない。
 この時期、私はメルセデス・ベンツの新車を購入した。もちろん、会の活動に役
立てるためである。講演会のたびに主宰の送り迎えをし、徳島在住の顧問・善川三
朗の上京に際しては、羽田からホテル、ホテルから会場へと文字通り大車輪の活躍
だった。そのたびに私が運転した。
人間とは面白いものだと、つくづく思う。何が人生を変えてしまうかわからない。
このベンツが、私を全面的に〈幸福の科学〉へと走らせるきっかけの一つになった
のである。 何を求めて私はあんなに走ったのだろう。
 かつて自社ビルの工事が始まり、クレーン車が最初の鉄柱を目の前で設置したと
きも、その夜の棟上の宴席で仲間におだてられたときも、特別嬉しいとは感じなか
った。ニコニコ顔で酒をついでまわりながら、心のどこかで強く思っていた。
“これが何だというのだ。おれの一生は、こんなことのためだけにあるんじゃない
ぞ”
 2000人いる東京の同業者のうち、自社ビルまで建設したのはたった3人と言
われていたのに。


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 15:19
「虚業教団」18 (第1章−14)
○ 「真摯だった発足記念講演会」
 かねて フ予定通り、徳島から善川三朗顧問が上京してきたのは、会社の創立20
周年パーティーが終わって3日後、3月6日のことだった。その2日後には、
“幸福の科学発足記念講演会”が迫っていた。
 ここで、大川主宰と善川顧問の関係に触れておかなければならない。
 すでにお話ししたように大川隆法の初期の霊験集は、大川の著作としてではなく、
善川三朗編として上梓されている。善川と、大川の兄にあたる富山誠の質問に、大
川に降りた日蓮や空海の霊が答えるという問答形式である。
 世間では、霊言がホンモノの霊の言葉なのか、それとも大川の言葉なのかを取り
沙汰している。だが、私にはどちらでもよかった。この点では中原幸枝や、ほかの
初期の会員より醍めていたのかもしれない。
 霊の言葉か自分の言葉か、たぶん大川隆法自身にもわからないだろう。
 霊言集には、これまでの聖人の教えやその意義が、まったく新しい角度から光を
あてられ、万教帰一、ただーつの神理という視点で、わかりやすく書かれていた。
この世的な価値である金とか名誉、地位を超える壮大な霊的世界! それで充分だ
った。大川隆法を先生と仰ぎ、素晴らしい神理をもっともっと学んでみたかったの
である。


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 15:20
「虚業教団」19 (第1章−15) 
 ところで、〈幸福の科学〉に関心をお持ちの方はご存じと思うが、善川三朗とい
うのは大川の父、中川忠義のペンネームである。富山誠は兄の中川力にあたる。
 理由はわからないが、大川は意識的にこの事実を隠していた。親子ではあまりに
も世俗的だ。四国のどこかで、たまたま善川が出会った不思議な霊能力者。そんな
神秘的な演出がねらいだったらしい。このことは、大川のごく身近にいた私たちで
さえ、しばらくは知らなかったぐらいである。
 87年9月に一通の手紙が私の会社へ送られてきた。差出人は、「幸福の科学」
拝読者となっていた。
「大川降法という人物が同じ四国出身というだけで素性がわからないことに、『不
思議だなぁ』と思い、『人の魂を救う者がそれで責任が果たせるか』と思っていま
した。また、『大川隆法』という人物と『善川三朗』そして『富山誠』のこの3人
がいかにも劇的な出会いをされたかのように言うが、それはほんとうだろうか」
 疑問を抱いた拝読者氏は、労もいとわず大川の身元を調べ、その結果を驚きとと
もにこんなふうに書いている。
 「私も驚きました。本当に親子だったのです。なぜ心・魂等を説く人間が自分の
素性を隠して、実の父と子であることを隠してこんな芝居をする必要があるのでし
ょうか」
 さらにご丁寧にも中川家のあまりかんばしくない近所の評判まで書いてある。
 会が大きくなれば、当然こんなことも起こってくる。大川も善川も、霊言集の出
版を思いついた頃は、今日のような大教団をつくるなどとは考えもしなかったのだ
ろう。それで、二人の関係を劇的に、神秘的に創作してみた。たぶん、そんなとこ
ろだろう。話をもとへ戻そう。
 中原幸枝に依頼され、講演会の2日前に徳島から上京した顧問を羽田に出迎えた。
純朴な田舎の老紳士、というのが善川三朝に対する私の印象である。このおっとり
した先生が、あのようにすごい神理の本を書かれるのか。それが、私 ノはひどく嬉
しかった。さすがにホンモノは淡々としていると感じ、いっぺんに好きになった。
“神理を求めたから、このような偉大な先生と直接お話しすることもできる”
そう考え、自分はなんという幸せ者だろうと感謝した。


20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 15:20
 「虚業教団」20 (第1章−16)
 私は大喜びで料理屋へ接待した。
“明日は、中原の自宅にできた事務所も見ていただこう。その次の日は、いよいよ
記念すべき講演会だ。いったいどんな講演会になるのだろう”楽しさで胸がワクワ
クしていた。
 翌日の夜は、東京では珍しい大雪になった。しかし講演会当日の朝はカラリと晴
れ、降り積もった雪に朝の陽が眩しく反射していた。
 雪に気をつけながら.ベンツを走らせ、まず中原の自宅へ。そこで中原を拾い、
大川、善川両先生を迎えに行くはずだった。しかし、待っているはずの中原の姿が
ない。玄関のベルを押したが返答もない。待ち合わせの時間は刻々と近づいてくる。
しかたなく、 謔ノ両先生を迎えに行った。
 後になってわかったことだが、緊張のあまり前夜寝つかれなかった中原は、私が
押したベルの音にも気づかず、まだぐっすり寝ていたのである。
 会場の牛込公会堂には、400人ほどの聴講者が人っていた。400人!大成功
ではないか。大雪を押して集まった人々の熱意に私たちは感動した。
 〈幸福の科学〉の初期の講演会では、今と違い、講師はいつも大川隆法、善川三
朗の二本立てだった。しかしいつ頃からか、二人が同じ演壇に立つことはなくなっ
た。父親は父親、息子は息子で別々に講演会を催している。その経緯に関して、私
の知ることは後で書くことにしたい。


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 15:22
「虚業教団」21 (第1章−17)
 今、当日のプログラムをめくってみると・・・
  開会の挨拶・・・・・・・・・・・・ 太田邦彦
  講演「幸福の科学発足によせて」・・・善川三朗先生
  講演「幸福の原理」・・・・・・・・ 大川隆法先生
  閉会の挨拶・・・・・・・・・・・・ 前川節
  司会・・・・・・・・・・・・・・・ 中原幸枝
 会は滞りなく進んだ。大川も中原も、今回は座談会のときより落ちついていた。
 いい講演会だった。広い会場が水を打ったように静まり返り、誰もが真剣に
耳を傾けていた。子どもたちが騒ぎ回ることもなかったし、感極まって泣きだす
などということもなかった。
「今日は先生から、こんな色の光が発していた。私にはちゃんと見えたが、
あなたにはあれが見えましたか」そんなことを自慢げに話しながら帰っていく人も、
当時はまだいなかった。
 みんなが真摯に道を求めている。そういう引き締まった空気がピーンと支配して
いたのが、初期の講演会である。
 この夜の食事は、楽しい思い出として残っている。みんなが会の成功を喜び、
次回はもっと盛りあげようと誓い合った。はじめて会から費用をいただいての
会食でもあった。会員からの貴重な会費だと思うと、少し心苦しかった。
しかし、その心苦しさにも私たちは次第に慣れていった。
 翌日は、また善川をホテルヘ迎えにいき、首都高を羽田まで送った。
一昨日の雪がまだあちこちに残っていた。講演会の成功に善川はとても満足している
ように見えた。
 こうして私は三年半のあいだに、羽田と西荻窪を30回ほど往復しただろうか。
それは決してイヤな仕事ではなかった。〈幸福の科学〉の発足時に、こうして
誰にも見えないところでお手伝いできたことを、私は今でも誇りに思っている。


22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 15:23
「虚業教団」22 (第1章−18)
○「(幸福の科学)に集う純真な求道心」
 1987年(昭和62年)は、〈幸福の科学〉が本格的活動を開始した年である。
 この年は、牛込公会堂での第1回講演会をかわ切りに、講演会が確か5回、合宿
による研修会が2回、ほかに上級、中級、初級セミナーが計画、実行された。4月
からは会の月刊誌も発行されている。
 中原幸枝はまさに八面六臂の大活躍だった。ヨガスタッフの山田篤、中村恵子(後
に退会)、五十嵐真由美、安岡一男(本年退会)などが、中原の手足となって献身
的に働いた。会場の手配、会員への連絡、パンフレットや機関紙の編集・出版の作
業に、喜々として取り組む彼らの姿は私にも気持ちのいいものであった。
 しばらくすると、阿南浩行(後に退会)、高橋秀和、福本孝司(後に退会)、
河本裕子といった初期の優等生たちが読者の中から現れた。
 なかでも、阿南は28歳という若さながら霊的に非常に覚醒していた。仏教やキ
リスト教など宗教全般に詳しく、大川の霊言集に関してはどんな角度からでも、理
路整然と解説できた。理論では会員中随一だったろう。一部上場企業の社員だった
が、上司が止めるのを振り切って退職し、会の活動をしてきた。
 純粋な求道心を持つ中原とはウマがあったようだ。
 大川は、この阿南を釈迦の十大弟子の一人、アーナンダ(阿難)の生まれ変わり
であると宣言していた。釈迦が亡くなるまで25年間にわたって師につかえ、最も
多く教えを聞いていたことから、「多聞第一」と呼ばれたのがアーナンダである。
仏典結集に際しては、亡くなった師の代わりに教えを語って聞かせたとされている。
 不思議なことに、阿南も霊言集の編集に携わっていた。テープに吹き込まれた霊
言を文字にし、整理する仕事であるが、これは阿南と中原だけがタッチすることの
できる最重要の仕事だった。
 しかし、このアーナンダはある事件がきっかけで、間もなく〈幸福の科学〉を去
った。もし大川と阿南が、大川主宰の言う通り、真の仏陀とアーナンダだったとし
たら、どうして袂を分かつなどということがあっただろうか。この事件は、中原と
私の心に深い傷を残した。いや、当時の会員すべてに、言いようのない衝撃を与え、
大川主宰に対する疑念を生じさせたのである。
 事件については、もう少し後に譲ろう。


23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 15:24
「虚業教団」23 (第1章−19)
 阿南についてだけでなく、事あるごとに大川は“生まれ変わり”の話をした。
私はといえば、中国の天台開祖・智の高弟の一人を、前世として大川から頂戴し
た。もっとも私には、そんなものはどうでもよかった。大切なのは現在である。
 しかし後に、大川夫妻のあいだに誕生してくる子が、天台智の生まれ変わりだ
と聞かされたときは、前世話のご都合主義にさすがに首をかしげた。
 阿南より少し遅れて、やはり本がきっかけで高橋秀和が参加してきた。実直で、
とくに事務処理には大変たけていた。おかげで、会の仕事はテキパキと進んだ。
会議録の整理、レジュメ、マニュアル作りをさせたら天下一品。ただ、あまりにも
狂信的で、融通が利かず、頭の固いところがあった。最も初期の仲間には、いなか
ったタイプの人物である。後日、阿南事件が起こると、阿南の電話をすべてメモし、
主宰先生に逐一注進に及ぶという実直ぶりを示した。大川は、高橋を十大弟子の中
でも筆頭格のマハーモンガラナー(大目蓮)と呼んでいた。
 新しく参加した阿南や高橋が厚遇される一方で、発足記念講演会で開会の挨拶を
した太田邦彦などは冷遇されていた。前世の話でも彼一人が除け者にされた感じだ
った。「あなたはまだまだ霊格が低い。この人たちは後から来たけど、あなたより
ずっと魂が大きいんだ」大勢の前で大川が太田をやり込めたことがある。しかし今
にして思えば、太田という人は、大川を神格化しようとする人たちと一線を画して
いたにすぎない。それが主宰先生には気にいらなかったのか。結局、太田は最も早
い脱会者の一人になった。
 こうした話を聞いて、ワンマン社長が牛耳る中小企業を連想する人がいても不思
議はない。つまり、どこの集団にもある人間関係のさまざまなトラブルや軋轢が、
ここにもあったということである。その意味では、現実世界を超越した集団でもな
く、〈光の天使〉の集まりでもなかった。
 それどころか現在の宗教団体は、ほかのどんな集団よりも、露骨に権力や金の問
題が現れてくる、極めて世俗的な場所であると言ったほうが正しいだろう。


24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 15:28
「虚業教団」24 (第1章−20)
 だが、ここでお話ししている最も初期の段階では、そうした問題も
まだハッキリとは現れていなかった。専属の職員などー人もいなかったし、
一般会員から区別されるような幹部も存在しない。言い換えれば、
全員がボランティアだったのだ。
 昼間は会で働き、夜はアルバイトする。そんな会員たちの情熱が会を
支えていた。
 誰もが新しい時代を予感しつつ、神理を学ぶことを第一の目的と考えて
いた。
 87年の5月、第1回の研修会が催された。琵琶湖湖畔のホテルでの
3日間にわたる研修会には、110名の参加者があった。
 研修会は後に、講師を養成する場所となっていった。3日間は、講義と
ディスカッション、意見発表の連続だった。それは、素晴らしく、そして
楽しかった。大川主宰や善川顧問に親しく接し、神理を学べることが
嬉しくてならなかった。
 もっと学ぼう、もっと学びとろう。参加者のそんな思いが最高潮に達した
ところへ、あの最終日がやってきた。
 第1回研修会における大川隆法の最終講義は、〈幸福の科学〉では、
今日でも語りぐさになっている。「正心法語」の解説だったが、それは
力強さと格調に満ちていて、私たちの心をワシづかみにした。
高級神霊が語るとはまさにこれなのか。朗々と響く大川の声に圧倒され
ながら、私はそう思った。
 その時まで私たちはまだ比較的冷静で、大川を見る目もどちらかと
言えば客観的だった。神様あつかいしたり、妄信していたわけではない。
しかしあの講義は、私たちの心に何かの火を灯したのである。
 私たちは魂を深く揺さぶられ、感動を通り越してほとんど呆然自失
していた。
 そのときの大川の言葉を引いてみても、私の筆力では、その感動の
万分の一も伝られないのがもどかしい。
 「我々は一致団結し、霊性時代の新しい価値をつくり出さなければ
ならない。ここに集まっているのは、そのために目覚めたエリートなのだ。
いまだに物質欲や金銭欲に縛られているほかの人間とは違う。
素晴らしい時代をつくっていく、光の天使である」
私たちは、天の進軍ラッパを聞いたのである。
“我々の手で新しい霊性の時代を樹立する! ここにいる一人ひとりが、
みんな光の天使になって世の中を変えていくのだ!”
 みんながそう考えた。勇気が体を満たし、希望に心が燃えあがるのを
感じた。



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