日付 : 26 Oct 2000
[名前] ****
[メールアドレス] ****
[信者の別] 信者
[性別] 男性
[年代] 30代
[回答] 初めて
[どこで知ったか] 検索
[幸福の科学に対する意見]
私が入会したのが1995年3月です。生後一才位のとき、命にかかわる大病をしたこともあり、その話を聞くにつけ「人は死んだらどうなるのだろうか?」と「人としてどう生きるのがよいのだろうか?」という疑問を幼稚園ぐらいのときから時折、考えていました。その答えを二十代半ばにして『太陽の法』という本によって得られたとき、感激で涙を流したのですがそれは今でも鮮明に覚えています。このことに対しては残念ながら経験した人しかわからないのかもしれません。長年、求めて求めていたものを得た喜びはなんて表現したらよいのでしょうか。そういう意味では私は「この教え」を手放せないでしょう。
私は人目がなければ手を抜こうとはしません。なぜかいつも神様が見守ってくださるという感覚が小さな頃からありました。もちろん人間ですから、悪いことはしたし、考えたこともあります。その時は、胸が痛みますがその思いはいつも変わることなく持ちつづけていました。だから人として道をはずしたり、人から後ろ指をさされる真似をしたことがありません。いわゆるクソ真面目タイプです。なぜか子供に好かれるのは同通するところがあるかもしれない。
幸福の科学の入会にあたって当時は書籍を最低10冊は読んでいることと、入会決意の提出がありました。これはある程度、幸福の科学の教えのアウトラインを理解することが目的だったのでしょう。三帰式というものがあってこれは、三宝(さんぽう、「仏」「法」「僧」のこと)に帰依して入団を許可されるということで仏教の伝統に則った儀式です。三宝とは「仏」とは悟りを開いた人、「法」とは「仏」の説かれた教え、「僧」とはその教えを学ぶために集まった人々の集団、となります。
他人に迷惑をかけたりすることが当たり前だとか反社会的な考えをお持ちでない方で普通の頭脳で読めば、「幸福の科学」で説かれる教えが本物であることが理解できると思う。これが実践できれば誰でも一流の人格者となれます。それが難しいのですが・・・。私もきっとすばらしい人が集まっているものと期待してまた、自分を磨こうとを一代決心して入会しました。が、まだ「僧」の部分がしっかり確立していないことがわかりました。偉大な人格を築くためには長い長い時間が必要なのですね。会が発足してまだ月日が浅いので仕方がないのでしょう。自分を含めてまだまだ未熟な人が多いので世間から見れば口達者でコジツケが上手でたいしたことがないと見られていますが、だから逆に私が幸福の科学の教えが正しいことを証明する生き証人として見つづけて欲しいのです。
今まで見てきて悲しいことは、会員を増やすことは幸福の科学が世界宗教になっていくために大切なことなのですが、十分納得しないうちに入会を勧め、会員になったらそれでおしまい。大きな行事の時だけ声をかける程度で後のフォローがないのです。他の宗教と比べて「人情」が希薄であることは否めないことです。これは自分の所属している支部だけのことかもしれませんが、今のままでは人は寄り付かないでしょう。
自分の活動は教団の方針、流れをみて、自分の学んだ「法」と照らし納得できた時に行動しています。だから、ばりばりの人から見たら野狐禅(やこぜん=ひとり悟り)に見られるかもしれませんが、心の思いが仕事をするというならば、苦しみを感じたり、変だなと思いながら行動したら相手に見抜かれます。この世では目に見えないものはわからないはずだけれど人は皆、霊感をもっているからなぜか分かってしまうのです。
前にも書きましたが、私は「仏」「法」に帰依をしました。そして決して離さない信仰のロープをしっかりとつかんでいます。「僧」の部分はこれから「愛」の思いをもった会員さんたちと自分たちの心を磨きながら創っていきます。
[ホームページへの要望等]
幸福の科学に対して、賛成、反対の内容を扱っているホームページの存在に驚きました。会員として、元会員の意見が聞けることは幸いです。何故、会を去っていったのかを知る貴重な資料となります。私の知らない時期、方便の時代のことですがそれが終わった時に辞められた方の意見は十分理解できます。この中に「地獄に落ちる」とか「不幸になるぞ」と退会者を怖がらせた会員がいたことに少しショックを覚えました。ただ、その時代が良かったと言う人たちに一言、その後に入会した私がいるということは、その部分がなくても十分惹かれる「教え」があるのではないのでしょうか。
諸行は無常なり。いつまでも同じ状態ではいられない。時代の要請にこたえるために変貌するのもまた仏教の考え方なのです。
退会された彼らのほとんどが「法(おしえ)」の正当性を理解しているのですが、それを捻じ曲げて理解している力の強い会員さん(仙人、天狗系かな)に追い出されてしまったようですね。非常に残念なことです。
正直、「仏」の教えの一番の根っこは「人は永遠の生命をもち、あの世とこの世を心を磨くために転生輪廻している存在である」と私は理解しています。
それを基準にしていままでのことなど全てを見直してみると必ず何か発見できると思いますよ。
日付 : Tue, 31 Oct 2000
[幸福の科学に対する意見]
私が幸福の科学の会員になったきっかけは私の兄嫁が会員でして、時々月刊誌や、書籍を置いていかれました。自分としては、物事を深く考える方でして、書かれている文章など非常にためになることばかりでした。教えの中に説かれる「正しさ」の基準が自分の感覚に非常に近いものがありました。もし、これらのことを実践できれば、本当に一人前の人間になれるものだと確信しました。そして、この教団の主宰者(当時)はさぞかしすばらしい人なんだと実感したのでした。
当時、私も世間の人々と同じく宗教というものに対して恐れを感じていました。そして、宗教をやっている人は人の心が読めるんだと思っていました。だから幸福の科学の支部に入るときは心の中をのぞかれたらどうしようとヒヤヒヤしていました。(後で、霊能力者の集まりではなく普通の人達が集まっているとわかりましたのでほっとした。)
入会にあたって三帰誓願式を受けるのですが、この式の後でたまらない不安を感じました。これからの自分の人生がどうなるのか?幸福の科学の活動をメインにしたら仕事など出来なくなるのではないのか?親や兄弟になんて言われるのだろうか?などいろいろなことが頭の中をめぐっていました。しかし、自分が決めた道、後戻りは出来ないと自分に言い聞かせました。
その後すぐに両親にばれて、こっぴどく叱られました。「宗教をやる子を育てた覚えがない」と、きつい一言。当時の支部長が「半年、耐えなさい。必ず周りが見る目が変わるから。」とアドバイスを受けそれに従いました。その苦しい時期に涙を流して読んでいた本が「仏陀再誕」でした。
そして何ヶ月たつと、周囲もあきらめたらしく、何もいわなくなりました。一つには、前とあまり変わらなかった私だったことで安心されたのかもしれません。
私は幸福の科学の会員ならば、先生の教えに惹かれて入会されたもので、すばらしい人の集まりだと信じていました。が、もちろんすばらしい人もいますが、女性会員同士の確執、嫉妬心の強さ、いない人の陰口など、本当にこの人たちは先生の教えを実践するために会員になったのだろうかと疑問をもちました。はっきりいってしまえば勉強嫌いで教えを自分の生活に生かそうとしない人たちなのです。そして困ったことがそれらの人が会の中で大きな顔をしているのでそれを「幸福の科学」の顔だと思われてしまうのです。彼女たちの特徴は、幸福の科学の教えからいえば唯物的(?)で、先生が「愛」の思いをもっての活動をしなさいといっているのに数字が先に立って目に見える成果をすぐに求める傾向があります。(会員が会員を裁くような発言で嫌なのですが、彼女らに気づかせるために敢えて書きました。)
チームごと、伝道の目標を立てていましたが、正直こんな集まりの中では初めての人が来ても逃げてしまうじゃないかという、ピリピリした雰囲気がありました。だから、私個人としては、どうしてもこの支部の方針に従いにくいところがありました。幸い、私の休みが水曜日しかなかったので、他の会員さんたちと行動を共にする機会が少なかったので無理な活動に参加しなくてすみました。なにかおかしいと感じていた頃に、組織の大幅な改革があったのでした。実際、大川先生の意図されていた方向とは違う方向に事務局が活動を推進したことで先生自ら軌道修正を宣言されたのです。
その後、組織の変革で私の支部も少しは丸くなりましたが、まだまだ会員同士の中傷などの名残りがあります。 大川先生の教えが本当に人々の役に立つすばらしいものだと証明できる会員がもっと頑張らないと、幸福の科学のこれからの発展はないものだと感じています。
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