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5月5日、端午の節句です。熊公の家には甲冑胴が1つ有ります。2年ほど前に我が家に来ました。私の高校の恩師のご実家を整理するに当たって、刀剣・甲冑類を処分されました。その時に「骨董的価値がない」と、骨董屋さんから言われた甲冑胴を私に下さったのです。
この恩師、数学の先生でした。熊公は高3の時、一応理科系のクラスにいて、この先生に担任をしていただいたのです。ある日、「お前は理科系より好きな鎧兜を研究するようにした方がいいんじゃないか・・・・」と言われ、急遽文科系に転進しました。まっ、理数系に向いていない!!と言うことだったわけでしょうね。熊公は歴史大好きで、理系で有れば林科に進んで、山で仕事をしようと考えていたのですが、同じくらいのウエートで史学科も考えていたのです。
高校の修学旅行は萩・津和野・宮島・大三島・尾道がコースで、熊公は旅行企画員をしていました。大三島は、日本の甲冑の国宝・重要文化財の8割を収蔵する、大山祗神社(おおやまずみじんじゃ)が有ります。この見学用に甲冑の事を「しおり」にしました。これを恩師は認めてくださって、それ以来「甲冑=熊公」という感じでお付き合いしてくださっています。史学科に入学してすぐにご実家の甲冑類を見せてもらいました。
この恩師の先祖は渡良瀬川で水運事業をされた旧家です。お祖父さんが骨董を集められたと言うことで、古い物が沢山ありました。ご実家はお姉さんが引き継いでいらしたのですが、年齢もかさみホームに入所すると言うことで、ご実家の整理をなさり、その時に熊公のことを思い出してくださり、この甲冑胴が我が家に来たわけです。
この甲冑胴には少々不思議なことが・・・・・。まず見てください。
ご覧の通り、刀傷が14ヶ所も有るのです。正面に5つ、背面に9つ。背面の首回り(押付という)の左側はかなりの切れ込み(2.5cm)があります。この甲冑を着用した武士は、ここの箇所でかなり怪我をしたものと思われます。他の13ヶ所はすべて刃を防いでいます。この形式の甲冑(当世具足)の場合は首の防護に「マンチラ」と言う物をつける事もありますから、この刀傷がすぐに致命傷となったかは分かりません。
腰取りの桶側胴を革包みにしたもので、室町末期の甲冑だと思われます。気品を感じるもので、かなり位の高い武士の着用になると思います。作りも丁寧です。
恩師のご実家では他の甲冑はきちんと鎧櫃に入っていましたが、この胴だけは白い布にくるまれた状態でありました。いわく付きの甲冑胴と言う感じですね。草摺や袖、籠手がないのは分かりますが、不思議なのは「相引」(胸の前で甲冑を接続する紐)同士を連結する金具がないことです。そこで現在は左の写真のように紐(緑色)で結んでいます。
恩師の家に残された文書類でこの甲冑にふれた物はありませんが、天正年間に佐野方面の合戦後、武士をやめ帰農した先祖があると言うことです。
ひょっとするとその方の着用した甲冑で、合戦で大怪我をし、武士をやめたのか・・・・・? そして、自分を守った甲冑を胴の部分だけ保存した・・・・・。なんて、ちょっと小説的な想像もしてしまう甲冑胴です。同様に刀身だけ布に包んで1振り有ったそうで、それとセットだったのかもしれません。
この甲冑胴を見ていると、戦のすごさ、背面の9ヶ所の傷は合戦で殿(しんがり)をつとめた武士の勇猛さと、恐怖感みたいなことを思わざるを得ない物です。
我が家の坊主達は、「気味が悪い!!」と言いますが、甲冑は防具であって、人を殺める物ではないし、きっと思いが込められ、これまで伝世してきているのですから。それに、恩師からいただいた甲冑胴ですから、大切に我が家で伝世させたいと思っています。
話は違いますが、熊公はこの先生の姿を見ていて、教師を目指したのです。すごくすてきな先生です。
(2002.05.04.)
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