熊公の独り言 V




◆ 紀伊半島一周の旅 A ◆
 第4日目 8月19日(火) 走行距離:110.0km 通算:1071.6km

 今日は堺、大仙古墳が最初の目的地、紀の川市から堺までは山越えの道を取りました。神通温泉を越え大阪府に入り、熊取に出て高速4号湾岸線に乗ります。大阪の街を走るのは高速以外は初めて、堺の街をゆっくり眺めながら運転してきました。カーナビは本当に便利ですね・・・。街を眺める余裕が持てます。

 大仙古墳の駐車場に車を止め、まずは博物館に行きました。堺は鉄砲の街でしたからやはり銃身の作り方の工程が示されていました。昔の鍛冶屋の技術凄いですね。

 
       短甲・眉庇付冑の試着                 銃身造りの工程 一度チャレンジしてみたいものです

 短甲や珪甲は学生時代の研究テーマ、試着は嬉しい体験でした。短甲はそれこそコルセットをはめている感じです。(熊公が太っちょだからですが・・・・)く(^.^)ノ

 
    拝礼所前(前方部)で                   自転車で一周 半分走って 後円部

 大仙古墳の大きさを実感するためには周囲を歩くか自転車に乗って廻る事です。およそ2.8kmですから自転車にしました。大きさを実感出来ました。ついでなので隣の御廟山古墳にも行ってきました。ここは全長200m位の前方後円墳。埼玉古墳の二子山古墳位の大きさ、これも一周して自転車を戻しました。大仙古墳で予定よりも1時間半オーバーしてしまいました。

 大仙古墳の後は法隆寺です。今度は西名阪道に乗ります。法隆寺は本当に久しぶりです。

 
法隆寺 −世界最古の木造建築物−

 
   夢殿                               中宮寺 弥勒菩薩

 法隆寺はやはり世界一古い木造建築物としての威厳のようなものを感じます。いつまでも残って欲しい寺院ですね。お隣の中宮寺にも行きました。この寺の弥勒菩薩は慈愛に満ちた優しいお姿、心洗われますね。何時間でも側に居たい気持ちになる仏像です。
 門前で葛切りを食べ、遅い昼ご飯、そして橿原に向かいました。神武天皇陵を見学したかったのですが時間が無く、車から眺めて終了。その足で橿原考古学研究所 付属博物館へ行きました。

 
 奈良・京都は葛切りですね

 橿原考古学博物館の資料は一級品です。関東の古墳と比べたら何十倍もの資料の量です。一日居ても飽きないだろうな・・・。今回は50分程度しか滞在できませんでした。

    
短甲


ヤットコ・鎚頭・鉄丁

 
南郷遺跡群の鍛冶関係の資料 5世紀の鍛冶職人の仕事の記録です

 南郷遺跡群の鍛冶関係資料が展示されていました。鍛造剥片・羽口・鉄滓普通の人は「ふ〜〜ん」と通り過ぎちゃうでしょうが、じっくり見てしまいました。

 橿原を後に明日香に入りました。既に4時を過ぎていましたから、石舞台古墳のみを見学することにしました。

 
石舞台古墳   蘇我馬子の墓と言われますが封土を剥がされちゃうなんてよっぽど恨まれたんだな〜〜

 石舞台古墳は本当に大きい石が使われています。羨道の入口に立つワイフからその大きさ分かりますね・・・。つい二週間くらい前、ピラミッド形の古墳として話題になった都塚古墳はここから500m位の所ですが、この時間では調査は終わってしまって、シートで覆われているでしょうから、行かずに宿に入ることにしました。


4日目の夕食 またまた鮎 嬉しいな!!


 第5日目 8月20日(水) 走行距離:503.0km 通算:1574.6km

 いよいよ最終日、明日香には最大11時半まで滞在できると考えています。朝食後出来るだけ早く出て、まずは甘樫丘に登り、明日香全体を眺めることにしました。


 二上山 畝傍山                                  耳成山          香具山

 畝傍山の後ろ側二上山の裏が堺、大仙古墳の有る百舌鳥古墳群になります。写真の真ん中辺りが藤原京があった場所ですね。明日香板葺宮は甘樫丘の東側、本当に狭い場所です。


飛鳥寺と板葺宮推定地

 甘樫丘の後は石像物郡の見学、亀石・鬼の俎・鬼の雪隠を見学します。明日香を廻るのであれば自転車かバイクが良いですね。車であれば駐車場を見つけるのが大変だし、料金も掛かってきます。今回はホテルの方にお聞きして、無料の駐車場に止めながら見学しました。

 
ユーモラスな亀石

 
 鬼の俎                               鬼の雪隠

 亀石はユーモラスな石像物です。鬼の俎・雪隠は古墳築造を放棄したか、破壊した感じ。『雪隠』の写真の後ろ側の森の中に『俎』が有ります。明らかに石室の底とそれを覆う蓋ですから、雪隠は俎の位置から転がり落ちてきた訳で、その理由が知りたいものです。
 昔の人はこの辺りに鬼が住んでいて、霧を起こして旅人を道に迷わせ、捕まえてこの俎で料理して、雪隠で用を足したと考えたそうです。頷けますね。
 谷を隔てた反対側に『天武・持統天皇陵』が有りますから、このお墓に入るべき人、または入っていた人もかなりの有力人物だったと想像されますね。
 とにかく大阪・奈良は古墳だらけ、学生時代、千葉県我孫子市の古墳群の調査を手伝っていましたが、そこに来られた奈良文化財研究所の方が、「関東の古墳は座布団古墳だな・・・」 と、言われましたが、まったくその通りです。

 次に聖徳太子誕生の地『橘寺』に行きました。静かな境内でした。現在の本堂は明治時代廃仏毀釈で聖徳太子を祀るために寺院の形式ではなく神殿形式で作られたと言うこと。その後前側にお寺の形で付け足されたと聞きました。もともとあった本堂は、東側に移されたそうです。

 
          橘寺                        橘寺の向かいにある川原寺跡と弘福寺

 
  橘寺現本堂                           移築された旧本堂

 
          六臂の観音様                    大化の改新の時一畝の基準になった『畝割塚』

 
境内に有る二面石                         三光石と阿字池

 境内には大化の改新の時に『一畝』の基準にしたという『畝割塚(蓮華塚)』や『二面石』、『三光石』や『阿字池』などが有りました。二面石は右が善面、左が悪面と言うことです。三光石は聖徳太子が勝鬘経を講讃したときに光ったという石です。三光石の後ろ側が阿字池、これは太子が作ったと言われているそうです。

 橘寺の向かいは川原寺跡があります。この金堂跡に弘福寺が建てられています。川原寺は天智天皇が開山したお寺、消失後に建てられた弘福寺は嵯峨上皇が空海に賜与したお寺と言うことです。

 橘寺拝観の後は『飛鳥寺』へ向かいます。ここには日本で一番古い仏像、『飛鳥大仏』が本尊になっています。

 
飛鳥寺

 
        飛鳥大仏                         蘇我入鹿の首塚 後ろの丘が甘樫丘

 飛鳥大仏で当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2 第4指のみだとされています。でも、現存像の大部分が造立当初のものである可能性が高いという研究も有るようです。
 何度か火災に遭いながらも、蘇我馬子が建てた当初の場所に安置されているのは凄いことです。額の下、鼻から上の部分ですが、左右が非対称、見る角度できついお顔と、柔和なお顔になります。やや右を向いているのは橘寺の方向を見ていると言うことでした。これを作ったのは鞍作鳥(止利仏師)その当時の技術ではこの重さの像を銅の台座で受け止める事は出来なかったと言うこと、その為石の台座に安置されているそうです。奈良の大仏建立までの間に技術が向上するわけですね・・・。
 飛鳥大仏は重要文化財、国宝にしても良いような感じです。「どうぞ写真を撮って下さい。」と言われて沢山撮らせて頂きました。

 そして、お寺の脇にひっそりと蘇我入鹿の首塚が有ります。蘇我氏の居宅が有ったと言われる甘樫丘を1369年間眺めているわけですね・・・。

 飛鳥寺拝観終了の時刻が10時半を廻っていました。明日香滞在のタイムリミットが近付いています。最後の見学は明日香見学のまとめ、『明日香資料館』です。しかし、ここで『飛鳥川』の写真を取り忘れていました。さっそく甘樫丘の麓に撮りに行きました。

 
          飛鳥川                      甘樫丘とよく走ってくれる愛車ノア 『熊幸』

  采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く    志貴皇子

 この和歌の意味は
 『都が藤原宮に遷ってしまった今、旧都である明日香に立ってみれば、華やかな采女の袖をひるがえしていた明日香の風は、ただ空しく吹きぬけるだけだ』

 というものですが、何故か『飛鳥川』を眺めるとそれを感じてしまいます。この川の下流に『藤原京』が作られるわけで、強くそれを感じるのかもしれません・・・。
 『万葉散歩』(http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/)のホームページに甘樫丘で、畝傍山・藤原京を背にする采女姿の女性の写真が掲載されています。この方のイメージと熊公のイメージはピッタリ同じです。

 さて、飛鳥川の写真を撮ったら急いで資料館へ、時間がありません・・・。

     
出迎えてくれる飛鳥の噴水石像 資料館のシンボルです

     
珪甲    短甲→珪甲へと変化していくわけです

 飛鳥の噴水石像は外国人のような雰囲気です。ロマンを感じちゃうな〜〜〜!! 珪甲は大鎧に変化していく、日本の甲冑の原型、こんな感じであったというのがもの凄くよく分かります。資料館には高松塚やキトラ古墳の壁画の様子なども展示され、水落遺跡で発見された漏刻の模型などもあって面白いものでした。

 

 
明日香の里にたたずむ石像達(レプリカ)

 明日香は沢山見るものが有りますから、こんな短時間なでは無理ですね。庭に置かれた石像(レプリカ)はどれもユーモラスであったり化け物のようであったり・・・。7世紀頃のもののようですが、土地の区画や魔除けに用いられていたようです。古代の人の考え方、ロマンを感じちゃいます。
 資料館の見学およそ30分間で終了です。来年は山口県を回るつもりですが、そのうちに、熊野本宮大社に行って、そこから十津川に入り、明日香・橿原に旅してみようと思っています。

 明日香を後に最終見学地伊賀上野の『忍者資料館』へ向かいます。明日香から初瀬を通り針ICで名阪国道に入り伊賀に向かいました。IC手前の針テラスという道の駅で、夕食用の『柿の葉寿司』を購入、一路伊賀上野に向かいました。

 
    忍者屋敷のカラクリの説明                忍者屋敷三階構造になっているそうです

 

     
色々な忍具

 忍者の屋敷は地下で繋がっていたということ。凄いですね・・・。そして、色々な仕掛けワクワクしちゃいました。そう、駐車場に戻ってくる子供達がみんな刀を持っていて、半分忍者になって歩いているのが面白かったです。まったく忍者装束で歩いている子供達も居ました。中には大人の人も忍者になりきっていました・・・。
 実際に忍具を眺めて来ましたから、忍具造りには役立つと思います。


手裏剣打選手権大会の案内

 柔兵衛親方の愛弟子『サスケ』君が出場する手裏剣打選手権の案内がありました。是非一等の金の手裏剣をゲットしてもらいたいものです。
 伊賀上野では忍者の携行食『かたやき』を買ってきました。木槌が付いていてこれで割って食べるのですが、素朴な味で気に入りました。

 さて、伊賀上野を出発したのが1時半前でした。亀山ICで伊勢道に入り、亀山JCTで東名阪道です。御在所SAで遅い昼食をとり、ここからグングン四日市から離れていきますから、次男にメールを送りました。
 四日市JCTから伊勢湾岸道、豊田JCTで東名高速に入ります。この豊田JCTに入る直前前方に異常な黒煙が上がりました。何だ何だ?と、注意していると、何とトラックが火災を起こしています。しかも、火が付いたばかりという感じ・・・。運転士さんは外に出て電話を掛けていました。初めて車両火災の現場を見ました。


清水で目の前に富士山

 今年は新東名で帰ってくることにしました。清水付近で真正面に富士山が・・・。やっぱり富士山を見ると関東が近いと感じます。
 おきまりの秦野中井−横浜町田間の25km位の渋滞に巻き込まれ、通過におよそ90分を要しました。この場所は本当にどうにかならないものでしょうか・・・。登り坂でスピードが落ちることで起こる渋滞ですから、もっと車線を増やすとか、別ルートを作るとか必要ですね。圏央道もこの渋滞の中での分岐だからあんまり役に立っていない感じ、やっぱり新東名を延ばし、首都高に連絡しないと駄目ですね・・・。

 帰宅は予定より10分早い8時20分でした。走行距離1574.6km 愛車『熊幸』はよく走ってくれました。運転自体はそんなに大変なことはありませんでした。しかし、この後の山口県周遊や四国・九州の沿岸周遊には、行きか帰りにフェリーを使うこと考えないといけないかと思います。
 それにしても、伊能忠敬は凄い人だと毎回思います。16年間で日本の沿岸を全て測量して歩いたわけです。熊公は車で高速使ったりしても紀伊半島一周に3日掛かっているわけです。伊能忠敬は信念の人だったと思います。

 今回の旅行、車に乗って居るときは雨が降ったりしましたが、降りて見学するときは晴れてくれて傘を一度も使いませんでした。しかし、京都府の福知山や兵庫県の朝来の方では川が氾濫したり、広島では地滑りで沢山の方が亡くなっる惨事が起きています。熊公達が旅行を楽しんでいる間にも、自然災害で苦しまれている方がいらっしゃること。しっかり肝に銘じてお祈り致します。
 こうやって毎年恒例になっている旅行を無事に終えることが出来たこと、感謝です。そして、旅でお世話になった方々、本当にありがとうございました。日本はまだまだ見るところがありますね。
  (2014.08.23.)






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