熊公の独り言 W




◆ 中国地方兄弟旅  @ ◆
 今年は台風の当たり年のようです。15号による被害で屋根の瓦が剥がされブルーシートでしのいでいる方達が沢山居るところに、台風19号が来襲しました。大型の強い勢力を保ったまま、関東地方を直撃しました。今回は雨がもの凄く、千曲川・阿武隈川・越辺川・・・等の堤防の決壊が起き、決壊しないまでも越水により氾濫が起きたりと大変な事になりました。13日の午前2時過ぎには熊公の住んでいる地域にも氾濫警戒の警報が出されました。浸水想定地域ではありませんが、今回浸水が想定されるところは熊公の家のすぐ側まで来ていました。幸い荒川の氾濫は起こらず助かりましたが、緊張するものが有りました。亡くなられた方々は70名を超え、避難生活を余儀なくされている方達が沢山いらっしゃいます。ご冥福をお祈りすると共に、一日も早い復旧が行われる事を祈るばかりです。
 そんな中、15日の夜から旅行に出かけました。この旅行は8月初めに計画したものでした。兄貴が遊びに来た際に話が盛り上がり、それじゃ計画を立てようという事になりました。計画は、呉−奥出雲−出雲−境港−余部−甲賀−伊賀をまわるものです。少し被災された方々に申し訳ない気持ちを持ってのスタートです。



◇◇◇旅行のコース◇◇◇

1日目:自宅−−−−掛川PA−−−−土山SA−−−−三木SA−−−−呉−−−−雲南吉田
2日目:吉田−−菅谷山内−−加茂岩倉遺跡−−古代出雲歴史博物館・出雲大社−−−境港
3日目:境港−−美保神社−−−安来和鋼博物館−−−−−余部
4日目:余部−−甲賀望月家(忍者屋敷)−−伊賀上野
5日目:伊賀上野城−−鍵屋の辻−−−御在所SA−−−−静岡SA−−−−−自宅

 ◆ ◆ ◆ 見学地 ◆ ◆ ◆

 1,大和ミュージアム  2,鉄のくじら館  3,鉄の歴史館  4,菅谷山内 高殿
 5,加茂岩倉遺跡  6,古代出雲歴史博物館  7,出雲大社  8,境港  9,和鋼博物館
 10,鳥取砂丘   11,余部橋梁  12,甲賀 望月家(忍者屋敷)
 13,伊賀上野城(忍術資料館)

 第1日目 10月15・16日(火・水) 走行距離:988.0km  延べ走行距離:988.0km  歩数:9402歩

 台風19号によって中央自動車道・上信越自動車道が通行止めになっています。その為、西に向かうトラックなどは全部といって良いくらい東名・新東名自動車道に回ってくる事になります。おまけに大井松田の左ルートは工事のため使えないので、ここがボトルネックになり渋滞が発生していました。15日は昼から寝て4時頃に起きる予定でしたが3時少し前に保険の勧誘電話で起こされてしまい、そのまま出発に向かう事になりました。
 兄は4時過ぎに到着、渋滞の事もあるので18時出発を1時間早める事にしました。

 首都高速は大橋JCTを頭に西新宿辺りまで渋滞、その後海老名の先までは順調でしたが、大井松田の左右ルートの分岐を頭にした渋滞に遭いました。ロス時間は2時間くらいでしょうか・・・。掛川PAまで走るつもりでしたが、静岡SAで夕食を摂る事にしました。しかし、レストランは9時まで、殆どしまっていて、結局『桜エビのかき揚げうどん』と『静岡おでん』を食べました。

 
『桜エビのかき揚げうどん』と『静岡おでん』                 朝食用 『柿の葉寿司』    

 大井松田を過ぎると順調に流れましたがやはりトラックはメチャクチャ多く、PA・SAでは小型車の駐車スペースにも入り込み、止まれないトラックは進入路や本戦合流手前の路肩にも止まっている状態でした。高速道路が物流の動脈になっている事が良く分かりました。

 順調に流れるようになり『オートクルージングシステム』をONにしました。本当に快適で疲れが出ません。アクセルを踏まないだけで疲労感は半分以下になる感じです。
 滋賀県の土山SAで朝ご飯用の『柿の葉寿司』を買って、兵庫県の三木SAで夜食に『ぼっかけうどん』を食べました。この『ぼっかけうどん』は三木を通る際に必ず食べたい『うどん』です。関東ではまず食べられないものと思います。
 今回も三木SA手前2km位の所、日本標準子午線東経135度を通過する際、雄叫びを上げました。

 
三木SAの『ぼっかけうどん』                     呉 大和ミュージアム到着

 夜通しの運転は4時頃に眠気が出ます。今回も4時過ぎた頃に眠気が差しましたから、それから一番最初の瀬戸PAに車を止めて1時間半位眠りました。これくらい眠るとスッキリとします。
 6時前に瀬戸PAを出発して、時間調整のために福山SAに入りました。大和ミュージアムは9時からです。福山からは1時間半位で到着します。トイレに行ったり、売店をのぞいたり、柿の葉寿司を食べたりして40分位、7時20分に呉に向かいました。
 高屋JCTで東広島呉道路に入り大和ミュージアムに到着したのは8時50分でした。夏とは違い駐車場はかなり空いていました。
 今回の企画展は『海底に眠る軍艦』でした。引き上げられたものが展示されていました。

 
企画展の展示物の一部

 大戦中に撃沈された艦戦の沈没地点が地図に示されていました。そこで何万という将兵が亡くなったわけです。戦争はしてはいけないものだとまたまた心を新たにしました。
 兄貴の知っている方で大和乗組員だった方がいて、その方の写真を見付けて教えてくれました。人を殺し合う事が合法になる戦争は絶対に起こしてはいけないですね。

 
零式艦上戦闘機 六二型                      特殊潜航艇 『海龍』

 
   1/10大和の後方からの全景               タンカーの後ろ側が大和を建造したドック

 大和ミュージアムの見学のあとは向かいの『鉄のくじら館』に行きました。海上自衛隊の広報館です。ここは掃海の資料が展示され、潜水艦『あきしお』の見学が出来ます。二階の掃海の資料の展示室の入り口には大戦中の機雷の除去数が示されています。
 大戦の末期に熊公のオヤジ様は陸軍 特輸潜水艦に乗艦して物資輸送をする事になっていました。一回だけ潜水艦の見学に入った事はあるそうですが、自分の乗る潜水艦は来なかったという事、その為、毎日のように落とされる機雷を掃海する任務に当たっていたという事でした。機雷を爆破すると魚が沢山浮かんできて、それを捕って食べたという事でした。20分位すると魚は気絶から覚めて泳いでいったそうです。「魚だけはふんだんに喰ったな〜〜〜!! もう一度境港に行きたいな!!」 と話していました。その為に今回の旅行では境港に訪れます。大戦中に境港では143発の機雷が掃海されたようです。その中の幾つかはオヤジ様の掃海したものと考えて良いかと思います。今回の旅行は兄弟でオヤジ様を偲ぶ旅行でもあります。何だかオヤジ様は一緒に旅している感じでした。

 
2階の掃海の資料室

 3階は潜水艦の資料室です。魚雷や隊員の居住空間などの紹介があり、最後に潜水艦の中に入る事が出来ます。夏と違って見学者は少ないのでゆっくりと見学できました。

『あきしお』の内部
 
隊員が出入りする 『中部ハッチ』                    潜水艦の頭脳部 『発令所』

 
潜望鏡の眺め                             潜望鏡と海図台

 
   発令所下の魚雷発射管室                 お昼に食べた 『広島お好み焼き』

 潜水艦にはそう簡単に入る事は出来ませんから、この展示はワクワクするものです。大戦中の潜水艦戦の記録は随分読みました。その当時とは設備や大きさは違うと思いますが、やはり普通の船とは違います。海の忍者ですから、耐える事が随分有るんだと思います。

 『鉄のくじら館』の見学のあとは隣の『YOU me』ストアー? デパート? の3階にあるレストラン街に行き、『広島お好み焼き』を食べました。以前、自分で作ったとき、我が家にあるホットプレートでは一枚しか作れず、15分かかりました。5人家族でしたから最後の私の物が出来上がったときには1時間15分経過していたわけで、最初に食べた息子や妻はてんで別の事をしている状態、一人淋しく食べました。それ以来我が家では作っていませんから、今回は楽しみにしていた一つです。

 『お好み焼き』を食べたあとは『海軍カレー』を食べたいと思っていたのですが、目星を付けていたお店はお休みでした。仕方有りませんから、レトルトの海軍カレーをお土産にすることにしました。

 お土産を買った後は一気に日本海側を目指します。呉を出発したのは1時20分でした。今日宿泊する場所は『たたら製鉄』を最後まで続けていた田部家の企業城下町? 雲南市吉田町です。呉から山陽道に出て、中国道と連絡する広島道で中国道に出て、大阪方面に戻るように走り、三次で松江道に入ります。

 雲南吉田ICを降りたのは3時20分でした。ICすぐの道の駅によって吉田の名物などを物色し、宿に向かいました。途中ガソリンを給油、ガソリンスタンドよりも宿側に『金屋子神社』が有ると思っていたら、逆でした。そこで見学を諦め、宿の目の前の『鉄の歴史館』に行きました。ガソリンスタンドから300m位で田辺家のお膝元のメインストリートに到着でした。
 道は緩い坂になっていて、入ってすぐのところに田部家の土蔵群がありました。そこから200m位のところに『鉄の歴史館』が有りました。ここは元はお医者さんのお宅だったと言うことでした。
 到着は3時50分前でしたが、資料館を閉めようとするタイミングでした。でも、快く見学を受け入れて下さり、ビデオをじっくり拝見して、展示物をゆっくりと見学しました。

 
   各地『野だたら』からの出土品                『永代たたら』 から出るズク・ヒ・ノロ等

 2階には高殿で操業をする前の『野だたら』の跡から採取されたヒやズクが置かれていました。普通、鉄に興味の無い人にとってはただの石ころに見えちゃうでしょうね・・・。

 
左下場での本場作業の様子                     小鍛冶の仕事場の様子

 2号館には『包丁鉄』を作り出す『左下場』での作業の様子が原寸サイズで展示されていました。『たたら』での製鉄から道具を作る鍛冶屋におろす鉄を作るまでが『大鍛冶』、熊公のように道具を作り出す鍛冶のことを『小鍛治』と呼びます。隣には『小鍛治』の仕事場が原寸サイズで作られていました。
 『包丁鉄』というものは炭素量が低い鉄で。ズク(銑鉄)や部ヒ(鋼の品質の悪い物)を使って炭素や不純物を鍛造によって絞り出した物です。炭素量を下げる作業を『左下(さげ)』と呼びます。

 宿はこの『鉄の歴史館』の斜め向かいでした。宿泊するのは熊公兄弟だけでした。到着一番に台風19号による被害を心配されている言葉を受けました。熊公家も兄貴家も問題無かったことをお話しして、お部屋に案内されました。創業100年の旅館でした。一人一部屋ずつ準備していて下さり、昔の作りですから襖を開くと一部屋になる感じでした。

 少し早く着き、『鉄の歴史館』を見学できたことで明日の行動に少し余裕が出来ました。お風呂に浸かり、美味しい食事を地酒を飲みながら味わい、一日目の感想など話し合いながら夜を過ごしました。この旅館は『会席料理』のお店もされていて、お料理は本当に美味しく、とてもアットホームな雰囲気の宿でした。


 第2日目 10月17日(木) 走行距離:136.9km  延べ走行距離:1124.9km  歩数:18969歩

 今日は歩き回る1日です。朝、目を覚ましたら朝食までの間『田部家土蔵群』を見に一人で出かけました。雲南吉田、田部家の企業城下町のメインストリートは200m位でしょうか、しかし、この田部家は鉄師として、大正時代まで『たたら創業』をして、大戦中も2年ほど『たたら創業』をしています。中国山地の殆どの山林を保有する家です。しかし、江戸末期に失火を起こし町全体を焼いてしまったと言うことで、手前の土蔵群は長者の雰囲気が有りますが、奥の母屋は質素に感じました。田部家は昭和20年代に島根県知事を何期か務められています。

 
        田部家土蔵群                    吉田公園中腹から眺める吉田の街並み

 メインストリートを下まで降りたところの向かいに丘があり、その丘の上に子安観音堂があるということで、登ってみました。『つつじの小道』というのが有ったので行ってみると、蜘蛛の巣やら雑草やらに悩まされ、水霜で濡れた葉っぱでズボンの裾がかなり濡れてしまいました。
 帰りは広い道を降りてきましたが、この町の人達の祈りの場になっていることが分かりました。道の脇に石の仏様が並んでいました。そこに泊まった旅館の名前の方が奉納したものが有ったので、宿に戻って聞いたところ、やはりそうでした。

 
       子安観音堂                      観音堂までの広い道に並ぶ石仏

  
      吉田公園                           田部家土蔵群奥の母屋

 朝ご飯も美味しく頂き、9時過ぎ、2日目の行動に入りました。最初の見学地は『菅谷山内の高殿』です。カーナビにあらかじめコースを打ち込んでありますからそれに従って動き出すとどうも自分の考えているコースとは違います。おかしいぞと車を止めたところが前日に行きたかった『金屋子神社』の下でした。さっそく神社を見学に行きました。前日ガソリンスタンドで聞いたとき、「神社はもっと手前です。行っても何にも有りませんよ、それより土蔵群をご覧なさい・・・」 と、言われました。確かに何も有りませんが、『たたら操業』には欠かせない神様です。本社は吉田から30km位東の安来市広瀬町に有ります。司馬遼太郎の『街道をゆく』の『砂鉄の道』の中にも登場する場所、徳川8代将軍の頃元文5年(1740)に建てられた神社です。彫刻など本当に綺麗でした。

 
吉田の金屋子神社                     神社からの眺め

 
 本殿の彫刻                            神社参道入り口

 神社の参道入り口自然の丘の状態ではないですね・・・人為的に削られています。熊幸 U世のすぐ後ろに石垣があります。これは雲南吉田ICへのアクセス道路を整備するために削ったことは分かりますが、参道の石段本来であればこの斜面にこのように斜めに作るでしょうか・・・。この地形ヒョッとしたら『鉄穴流し(かんなながし)』の遺構では無いかと考えました。そして、神社の下に広がる結構広い田んぼ、『鉄穴流し』の結果できた広い場所に作られた段々田では無いかと考えました。
 この地形を見せるためにカーナビのルートどりがおかしくなったと思います。金屋子様に呼ばれた感じもします。これは本当にラッキーなルート違いになりました。
 此処でカーナビのセットをし直し、菅谷山内の高殿に向かいました。



 金屋子神社から菅谷山内までは4km程、宿の北側の峠を越えたところでした。上の写真は『山内生活伝承館』前の道から撮影したもの、広角レンズで撮影したので歪みが出ていますが、矢印のところが『たたら操業』をする『高殿』その前の大木は金屋子神が降臨すると言われる『桂』の木です。赤丸のところは現在修復中の村下達の生活した長屋、覆いの屋根の中で修復作業が行われています。

 
「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」の観光バス           高殿の内部 中央がたたらの釜 両脇が箱鞴

 『山内生活伝承館』から徒歩で降りて高殿に向かうと下の駐車場に濃い緑色の観光バスが出発しようとしていました。「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」で旅行中の方達がこのバスに乗り見学に来ていたのでした。宿の方が「今日は木曜日だから10時過ぎに『田部家土蔵群』を瑞風のバスが見学に来ます。」 と話されていました。高殿に着くと説明される女性が、「写真だけなら今のうちに撮影して良いですよ、説明がご入り用ならお一人310円です。今、瑞風のお客様が来られたので掃除きちんとしてありますから綺麗ですよ・・・」 と、話されました。そこで説明を受けることにしました。

 
     鞴から釜に送風する木呂の様子             出来たヒ塊を引き出す出入り口と冷却用の池

  
大戦中に行われ出来上がったヒ塊の写真               ヒ塊を割る 『大銅場』

 
鑪(たたら)の地下構造                       高殿とその前の桂の木

 古来砂鉄から鉄を得るのは『野だたら』という露天で行われました。中国山地には至る所にその遺跡があるということです。次は『野だたら』を巡る旅を考えたいと思っています。
 『百日の照りを見て、野炉を打つ』という古い言葉があるそうです。鑪(たたら)の操業で一番の敵は湿気です。露天であれば雨が降ったらお仕舞いなわけです。そこで、天候を見定めて野だたらの操業をするという意味の言葉です。天候の影響で操業が不安定だったのを解消したのが、中世末から行われるようになった屋内での操業です。その鑪を覆う建物が『高殿』です。

 『もののけ姫』の映画の中で、もののけ姫が駆け下りてくるあの屋根の場所です。この高殿の中の鑪の下には地下に湿気を防ぐ工夫がなされています。深さ4mにも及ぶものです。釜を作り替えるだけで繰り返し操業できるので、『永代たたら』とも呼ばれます。菅谷の高殿は文化財に指定されていますから操業することはありません。その為、ここの下流で実際に地下構造から再現して鑪操業をしたことがあるそうです。『鉄の歴史館』で見たビデオがその時の様子ですが、その鑪は保存しないで取り壊してしまったと言うこと、本当にもったいないことです。そこを地下構造の見える場所として保存展示したらどんなに良かったか・・・。

 鉄関係の方達が信仰する神様は『金屋子神』という女神です。播磨から白鷺に乗って出雲 野義郡の黒田之奥非田の山村に着き、「桂之一樹ノ枝末ニ休羽(はねやすめ)テ坐ス」と有るそうです。その為、金屋子神の降臨を願うため『桂の木』を植えます。鉄関係の仕事をする人にとっては桂の木は『聖木』です。高殿の前にも大木がそびえていました。そして、金屋子様の小さな祠がありました。
 説明では、桂の木は地下の水分を吸収する力が非常に強いと言うことで、高殿の地下の湿気を吸い取るのに役立つのだとか・・・。古人の知恵を感じます。

 ちなみに、金屋子神は『血』を嫌いますが、『死体』が大好きという不思議な神様です。そのため、たたら操業で上手く鉄が沸かないとき、高殿の柱に亡くなった村下の骨を掘り出し括り付けたり、死体を括り付けるなどすると良く沸くようになるなどの不思議というかチョット気味の悪い話が伝わっています。

 説明を受けたことで兄貴はもの凄く刺激を受けたようでした。また、朝見学した金屋子神社の周りの地形のことを聞いてみるとやはり『鉄穴流し』が行われた跡の地形と言うことがハッキリとしました。砂鉄を比重選鉱する鉄穴流し、その元となるのは『真砂』と呼ばれる花崗岩等が風化して出来た砂です。中国地方にはこれが沢山あるので、それを掘り取っていったわけです。江戸時代にバブル期があったそうで、山が一つ無くなるようなこともあったそうです。ただ、元々鎮守の杜や墓地など神聖な場所を削らずに残した『鉄穴残丘(かんなざんきゅう)』というものが出来る事があるのですが、金屋子神社がそれだったわけです。
 『鉄穴流し』は確かに下流に土砂が堆積していくことになり、お城の堀が浅くなる事もあり、秋の彼岸から春の彼岸までと操業期間が定められたりもしたそうですが、山間には開けた土地が出来ることになり、そこには田んぼや畑が作られていったわけで、米の増産が出来たとも言えるわけです。

 高殿見学のあと、『元小屋』を見学して、そこに販売されていた砂鉄とヒ片が小瓶に入ったものを購入しました。これは貴重なお土産です。元小屋の下流250m位の所に鉄穴流しの遺構が残っていると聞いたので行ってみることにしました。


鉄穴流し場全景
−ため池   −大池   −中池   −乙池

 
−『ため池』 から下流側を望む                 −『大池』 から下流を望む

 
-『乙池』から上流を望む                   『鉄穴流し』の説明の図

 写真のように石組みのため池や水路が残っていました。実際には板で樋を作りそこに真砂を入れて水を流して砂鉄を沈殿させていったわけです。ワクワクする遺構を見ることが出来ました。2時間もこの菅谷山内の見学に使いました。
 この鉄穴流しの途中で真砂と母岩をゲットしました。資料にします。

 山内を後に、次の見学地『加茂岩倉遺跡』に向かいました。此処は松江道の『加茂岩倉PA』に車を止めて、外に出て見学することになります。

 
      セキュリティーゲート                 パーキングに熊公達の帰りを待つ『熊幸U世』

 ゲートを出る際は鍵を100円で借りることになります。コインロッカーのように100円を入れると鍵が抜けて、その鍵を使ってゲートを開け外に出ます。遺跡までは700m位です。

 
湧き水鉄分が多いのが分かります                 加茂岩倉遺跡の復元展示  

 遺跡に向かう途中湧き水が出ていました。その下は赤く染まっていました。この地域は真砂土地帯です。鉄分が多いわけです。まず復元展示されている銅鐸発掘地点に登ってみました。現場に立つというのは重要です。何故このような場所に埋納したのか、本当に不思議です。

 
     ガイダンス館                      ガイダンス館から眺める遺跡全景

 遺跡からガイダンス館まではほぼ水平に歩いて行くことが出来ます。ビデオを見て、係の方と色々話しました。農道建設工事で重機を使って斜面を崩している際に発見されたもの。39個の銅鐸が発見されました。重機で壊れてしまった銅鐸もあります。ここから3km位の所には銅剣が358本出土した『荒神谷遺跡』が有り、その不思議さにはロマンを感じてしまいます。農道工事は中止され、現在のように保存されています。此処でも往復の時間も含め2時間ほど使いました。本来なら『荒神谷遺跡』に寄りたいところでしたが、パスしました。
 PAに戻る際、直線的にいける山道を使いました。人が殆ど通らない道、至る所に今し方イノシシが餌を探して掘ったであろう穴がありました。時々大きな声を出しながら歩きましたが、イノシシが掘った穴から転げ落ちている真砂の塊、此処でも真砂を少し採取してきました。

 加茂岩倉遺跡見学のあとは『古代出雲歴史博物館』と『出雲大社』の見学です。やはり夏休みとは違い『古代出雲歴史博物館』の駐車場は空いていました。此処に車を止めてまずは『出雲蕎麦』を食べに行きました。しかし、2時をまわっていましたから、目星を付けておいたお店は昼の営業を終えていました。そこで大社門前のお土産屋さんが集まる所で食べることになりました。

 
出雲蕎麦 五段を注文                            出雲大社神殿  

 その後は『出雲大社』に行きました。旧暦の10月は出雲は『神有月』です。今年の旧暦の10月朔は28日ですから出雲に参集する神様達が泊まられる『十九社』は神職が掃除をしていました。

 
神職が掃除をする 『東十九社』               『八足門』 前の『宇津柱』発掘地点

 出雲大社を見学のあとは古代出雲歴史博物館に行きました。時間が随分押してきているので、歴博は見たいポイントだけ見ることにしました。まずは何と言っても荒神谷遺跡の銅剣・銅矛群です。そして、加茂岩倉遺跡の銅鐸群。そして安来市の『かわらけ谷横穴墓群』から出土した『金銅装双龍環頭大刀』です。この大刀は大正14年に発掘されたもの6〜7世紀の大刀ですが、発掘時に刀身が鞘から抜ける状態で出土した奇跡の大刀です。学生時代考古学の授業で聞き、見たかったもの。これで三回目の対面です。
 1400〜1500年間殆ど錆びなかったなんて本当に奇跡です。

 
鎌倉期の 『宇津柱』                       荒神谷出土の銅剣・銅矛群

 
            加茂岩倉遺跡の銅鐸群            安来市 『かわらけ谷横穴墓群』 出土の 『金銅装双龍環頭大刀』

 もったいないですが見たいものだけを見て、一旦大社前を通り稲佐浜に向かいました。ここは『神有月』の時に神様が上陸する場所です。また、国譲りの伝説の舞台でもあります。

 
   稲佐浜 遠くに三瓶山を望む                 国譲りの話し合いが行われた『屏風岩』

 日本地図を見ると長崎〜出雲の間は朝鮮半島から漂流する感じに来たとき、漂着しやすい場所です。稲佐浜はその一番北側に当たるわけです。当然、古来色々な文化がたどり着いたし、おそらくは権力を持つ者が来たとも考えられます。
 司馬遼太郎の『砂鉄のみち』の中で『「神代紀」によると、スサノオは新羅(シルラ)のソシモリという土地に住んでいたが、やがて土の船をつくって海にうかび、出雲国簸川(ひのかわ)の川上の「鳥上之峯(とりかみのたけ)」にやってきた。』という箇所があります。素戔嗚尊し新羅の人で、良質な真砂砂鉄を産出する『鳥上山』を目指してやってきていることになります。

 『簸川』は『斐伊川or日野川』と考えられ、鳥上山は現在『船通山』で、この川は共にこの山を源流にしています。斐伊川沿いのの『奥出雲町稲原』には『稲田姫の産湯の池』と言うところがありますし、その上流の『大呂』には『安来製作所鳥上木炭銑工場』があります。現在も良質な真砂砂鉄を産出しているわけです。
 司馬遼太郎の仮説には面白いものが有ります。興味のある方は『砂鉄のみち』を読んでみて下さい。

 稲佐浜をあとに境港に向かいました。朝晴れていた天気が次第に雲がましてきて、今にも雨が降り出しそうな感じに成ってきました。
 境港に早く行き着くには山陰道に乗り、松江から中海に掛かる『べた踏み坂』の別名を持つ『江島大橋」』を渡って行くのが早いのですが、鉄道オタクの兄貴が喜ぶかと思い、また、熊公も初めての道を走りたいので、宍道湖・中海の北岸を通るルートにしました。一畑電鉄と松江まで平行して走ります。

 
宍道湖と一畑電鉄

 境港には6時15分に着きました。宿は駅前のホテルまずは『水木しげるロード』を散策しながら目星を付けておいた海鮮料理のお店に行きました。しかし、予約客でいっぱい断念して、以前次男と来たときに入ったお店に行きました。

 呉でも書きましたがこの境港はオヤジ様が大戦末期にいた場所、ホテルの部屋からは水道が眺められました。散策の後半は水道近くまで行き雰囲気を味わいましたが、オヤジ様がすぐ側にいる感じがしました。兄貴も同じ事を言っていました。

 『水木しげるロード』は日が暮れてから本領発揮する感じです。昼間の雰囲気とはガラッと違い、妖怪の世界を演出していました。街路樹への照明が不気味な感じ、街路灯が時々ペカペカッとなってすうっと消える。そしてまたともるをあちこちで繰り返します。また、歩道に妖怪の影が現れたり消えたり・・・。境港に『水木しげるロード』を見に行くのであれば一泊されることをおすすめします。

 
 
 
夜の『水木しげるロード』

 以前来たときと妖怪達の像の位置が変わっているものが有りました。また、数も増えているような感じがしました。

 2日目の夜はオヤジ様のことを偲びながら過ごしました。境港のどの辺で寝起きしていたのか分かればその場所に立ってみたいものです。
 今日は本当に良く歩きました。18969歩 およそ15.2km歩きました。

『中国地方兄弟旅 A』につづく
(2019.10.22.)






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