熊公の独り言 W




◆ 埼玉古墳群ドライブ ◆
 2020年は新型コロナウイルスの感染拡大によって夏の旅行は計画すらせずにきました。数日前、ワイフが「妹夫婦とドライブしない? 埼玉古墳群とかに・・・」 と、ポツリと言いました。『古墳群』を引き合いに出したのは熊公がそれを言えば話に乗ってくると考えたらしいです。熊公が同意するとさっそく義妹に連絡、義弟は古墳という物を意識して見たことが無いと言うことで、そのまま埼玉古墳群にドライブに行くことになりました。
 埼玉古墳群のある行田市は暑さで有名な熊谷のお隣ですから、猛暑覚悟でのドライブです。

◎ 8月13日(水)
走行距離:114.6km  歩数:8410歩  およそ6.7km

,川島屋  ,埼玉古墳群  ,古代蓮の里  ,八幡山古墳  ,川の交差点

 自宅からの距離はおよそ50kmくらいです。ただ、羽生−熊谷辺りで有名な『ジャンボいなり寿司』をゲットすべく、行きは加須の『川島屋』に寄ることにしました。高速を使っても下場を走ってもそれ程時間に違いはないので、国道17号を使って行きました。
 9時少し前に義妹夫婦と合流、義妹夫婦の車を熊公の駐車場に止め、9時少し前に出発しました。新大宮BPでは予想以上に車の出が多く、17号は桶川・北本・鴻巣の駅前辺りで渋滞に遭い、予定より30分遅れることになりました。

 川島屋さんには予約をしておきましたから売り切れの心配はありません。川島屋さんの少し手前で梨の直売をして居るところがありましたから、梨をゲットしました。菖蒲・加須周辺は梨の産地です。
 川島屋さんでいなり寿司をゲットして埼玉古墳群に向かいました。いなり寿司や梨は保冷バックを発泡スチロールの箱で覆いそれぞれに保冷剤を入れて置きます。

 埼玉(さきたま)古墳群は県名『埼玉』の由来の地、115文字の金象嵌のある国宝の鉄剣が出土した稲荷山古墳があることで有名です。
 現在は前方後円墳8基と円墳1基が残されていますが、かつては35基の円墳がありました。昭和初期の沼地の干拓で取り壊されてしまったのは残念なことです。国宝の鉄剣が出土した稲荷山古墳も前方部は取り壊されてしまっていました。40数年前に熊公が訪れた時には後円部のみしか残っていませんでしたが、現在は復元されています。
 5世紀末から7世紀にかけて造営されたと考えられますが、それまで何もなかった地に突如畿内に匹敵する中型の前方後円墳が現れたのは色々な説がありますが、熊公は、この地は『屯倉』が置かれた地であり、利根川を挟んで群馬県、昔は上毛野国(のちの上野国)があり、上毛野氏は強大な力を持つ氏族であったわけで、それに睨みをきかせる地で有ったように考えています。
 鉄剣の銘文に『ヲワケ』の父の名に『カサヒヨ』と出てきますが、『カサハラ』とも読める事から、『鴻巣市 笠原』を本拠地とする武蔵国国造の墓ではないかという説もあります。コース図の1,近くの青の四角マークが笠原の地です。

稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文
 (表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比?其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多
加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

 <訓読>
 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の
児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名は
ハテヒ。
 (裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

  <訓読>
 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 『日本書紀』によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされています。
 辛亥の年は471年と考えるのが定説のようですが、531年とする学者もいます。
 471年と考えると大王は21代雄略天皇と考えられます。531年とすると26代継体天皇となります。

 銘文には獲加多支鹵大王斯鬼宮に住まわれたと刻んであります。獲加多支鹵大王=大長谷若建(おおはつせわかたける)命・大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)・雄略天皇と考える学者が多いようです。しかし、雄略天皇は泊瀬朝倉の宮に居住した事になっていて、斯鬼宮とは異なります。
 学者によっては獲加多支鹵大王は関東の王であり斯鬼宮=志木では?と考えている人もいます。

 埼玉古墳群には11時に到着、まずは博物館の見学からスタートしました。新型コロナ対策として、入り口で手の消毒、検温、そして、入館の人数、連絡先、時刻を記入して入館しました。

   
     馬型埴輪の前で                        国宝 金象嵌鉄剣

 熊公とすると、国宝の太刀や金象嵌鉄剣も素晴らしいですが、端に置かれている金箸に惹かれるものが有ります。このヤットコを使って農工具や武器武具を作っていたのかと思うと、古墳時代の職人のことが想像されます。

 博物館で出土遺物や古墳群のあらましを勉強したあと、いよいよ古墳巡りに出ました。瓦塚−奥の山−中の山−鉄砲塚−二子山−将軍山−稲荷山−丸墓山と見学していきました。残念だったのは将軍山古墳の石室展示館が新型コロナの影響で休館中であったことです。


 
二子山古墳                            丸墓山古墳
 
    稲荷山古墳後円部上で                  丸墓山古墳墳丘上から眺めた忍城

丸墓山古墳下 石田堤の上で

 暑さはかなりでした。汗がポタポタとしたたり落ちる状態、時々木陰で休みながら古墳を巡りました。ワイフは一度来たことがあると言うことですが、義妹夫婦は初めての埼玉古墳群、そして、意識して古墳を見るのも初めてということで、興味深そうに散策していました。

 丸墓山古墳の墳丘上からは忍城が眺められました。400年前石田三成もこの墳丘上に陣を張ったということですから、同じような景色を眺めたのでしょう。むろんこんな建物が多いわけではないですが・・・。遠く赤城山など北関東の山々が眺められました。
 丸墓山の下には『石田堤』が残されています。三成が忍城を水攻めする為に作った28kmに及ぶ堤の一部です。忍城は最後まで落ちず、返って堤を壊されて豊臣軍側に死者が出ています。小田原城が陥落し、後北条氏が滅亡したことで、降伏のすすめによって開城しています。

 駐車場に戻ってまずは保冷の確認、これまでの夏の旅行でゲットしてきた保冷の技は完璧でした。次の目的地は『古代蓮の里』です。花の盛りは過ぎていますから今日は昼食を摂るために寄る感じです。

 
 古代蓮の里                         まだ咲いていた蓮
 
昼食:ぶっかけ蓮きんぴらうどん                    購入したお土産 etc  

 『ぶっかけ蓮きんぴらうどん』を注文しました。うどんはコシがあって美味いものでした。そして、この暑さ、梅干しを付けてくれたのが何とも嬉しいことでした。
 売店でお土産を物色、『うどん』とオフクロ様が大好きな『十万石饅頭』をゲット。行田は足袋の町ですから、『まめたび』という足袋の底を模ったお煎餅、それに『五家宝』を買いました。行田のB級グルメ『ゼリーフライ』というものは売り切れていて食べること叶いませんでした。

 最後の見学地は若小玉古墳群の『八幡山古墳』です。ここも近くの小針沼の埋め立てに墳丘の土を使ってしまったのですが、全長16.7mの石室が露わになっているので案内しました。古墳の規模としては直径は65〜80mくらいの円墳と推定され、噴高は9.5mといわれています。

 
  羨道入り口前で                          玄室横で記念撮影

 ここの石室は天井石が崩落してしまって修復されています。土日は石室内に入ることが出来ますが、今回は外から眺めるだけでした。3つの部屋がある石室で『関東の石舞台古墳』とも呼ばれています。
 近くには装飾古墳の地蔵塚古墳がありますが石室内部は見学出来ませんから今日はパスしました。

 この一連の古墳見学で義弟は古墳を再認識したようです。途中のコンビニで飲み物などを購入、帰路につきました。利根大堰で取水した水を荒川に流す『武蔵水路』に沿って17号まで走りました。途中、元荒川と交差する箇所があるので案内しました。

  
@          武蔵水路と元荒川の交差点         A



 写真では分かり難いので地図も示しますが@Aの写真の位置、『武蔵水路』が元荒川の下に潜り込んで流れています。
 利根大堰で取水し水を荒川に流し、荒川の秋ヶ瀬取水堰で利根大堰で取水した分だけ取水して、朝霞浄水上に送り、そこから三園浄水場や東村山浄水場にも送り、浄水して、都民の飲み水にしています。古墳群の方から走ってくると上越新幹線の高架を潜ってすぐの場所です。

 義妹は今年3月末に桜を見に工房に来ましたが、義弟はまだ来たことがないので工房に寄ることになりました。鴻巣と北本の中間地点『深井』の交差点から『埼玉鴻巣線』を使って圏央道『桶川北本IC』を通って上尾道路に入り工房に行きました。

 
     工房入り口で                      川口・板橋方向に沢山雷が落ちる

 お隣の『埼玉の村の鍛冶屋』さんの工房にもお邪魔して、彼が今作っている精密模型を見たりして、4時少し前に帰路につきました。荒川右岸コースで帰って来ましたが、空はどんどんと暗くなり、川口・板橋の方向に稲妻が沢山見えました。志木市に入る辺りから雨脚も激しくなりました。
 朝霞の柊塚古墳のすぐ下を走りますから義弟に知らせると、「古墳は意外と身近に有るもんなんですね・・・」 と、驚いていました。
 和光市から板橋区に入る頃から雨は小降りになってきましたが、かなりの水たまりが出来ていて、相当な雨が降ったことが分かりました。しかし、駐車場に着いた頃は傘は不要な状態、お日様も顔を出しました。
 オフクロ様はさっきまで怖くなるくらいの雷雨だったと話していました。本当にラッキーな状態で帰宅できました。


二重の虹が出た!!

 義妹夫婦の家は平和台にあります。帰り道『二重の虹』が出たということで写真が送られてきました。

 義妹夫婦とのドライブは面白いものになりました。ふだんであれば義妹夫婦は海外へ旅行に行きます。熊公夫婦は日本の各地を旅する時期です。来夏はどんなでしょう・・・?
 義妹夫婦もこのドライブけっこう楽しんでくれたようで、今度は戸隠に連れて行って欲しいと言われました。来年の春あたり、新型コロナはどんな状況になっているでしょうか・・・。

    (2020.08.15.)






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