熊公の独り言 W




◆ 比企地域 鎌倉街道の小さな旅 ◆
 去年につづき新型コロナ感染拡大のため旅行はままならない状況です。そこで今年も義妹夫婦と小さな旅を計画していましたが都合が合わないで居ました。ワイフは退職後東京都の学校関係の有期採用の仕事に就きました。これまでと違い夏休みはタップリと取れたのですが、やはり東京都の新規感染者がグングンと増加して、5000人超えが連続する状態になってきて、『緊急事態宣言』の延長・拡大が気になり旅に出ること出来ないで居ました。一泊で戸隠に行こうと話していたのですが・・・。

 いよいよワイフの夏休みも本日24日が最後になりました。そこで義妹夫婦と行こうかと考えていた、埼玉県比企地域の鎌倉街道を巡る旅をすることにしました。
 この地域の旅は50年程前、熊公が中学生だった当時、社会科の担当だった『H先生』とフィールドワークをした思い出の場所です。社会科が好きだった熊公は『H先生』の色々な脱線話などにもの凄く引きつけられるものが有って、先生のところに授業とは別の話を聴きに良く行きました。その時、「1/25000の地図に色分けできるか?」 といわれ、もともと地図が好きだったので、田・畑・桑畑・集落・・・と指定された色で、一週間がかりで塗りおえて渡しました。そうしたら、「今度フィールドワークに出るから一緒に行くか?」 といわれ、即答で行くことにしました。

 仲の良かった友達を誘い、オフクロ様に『お稲荷さん』を沢山作って貰って、先生の車でこの地域を走り回りました。田と畑の色分けで等高線に現れない50cm位の段差の違いを読み取ることや、自然堤防を昔の人達が上手く利用していたこと等、実地に教えて貰いました。そして、鉢形城・菅谷館跡・慈光寺・・・等を巡りました。まだ関越道など無かった時です。川越街道(R245)をひたすら走り、比企の地域をあちこちと廻りました。「ここが畠山重忠の居宅だったといわれている場所だぞ・・・・」 と草むした土塁をよじ登り、その上でお弁当のお稲荷さんを食べたことが昨日のように思い出されます。社会科がより好きになったのはこれがきっかけだったように思えます。
 あの当時地図を色分けした時にはこんなに住宅が密集する様子はまったく有りませんでした。50年という歳月はもの凄い変化をもたらすものですね・・・。w(゜o゜)w
 それに、現在の学校教育では教師がこんな風に個人的に現役の生徒と付き合うことは許されないでしょうね。教育というものは教師の全人格でなされるものだと思いますから、今の教育は欠けているもの多いと思います。

 教師になる事を考えたのは高校3年の時の担任、数学の『T先生』の姿を見てですが、この『H先生』は常にワクワクするものを持って生活しろということを教わったと思って居ます。とにかく、脱線話が面白かった・・・。
 先生は学生時代山岳部で、スキー登山していて雪崩に追いかけられ、下手くそなスキーだけど直滑降で助かった話とか・・・。授業内容よりも覚えてること多い感じです。
 『H先生』のお父様は新幹線の開発をされていた方という話を聴きました。模型を作り走行テストをすると時速 250kmを超えると振動が起きるんだと話してくれたこと思い出します。東海道新幹線開業して6年目位の頃です。

 前置きが長くなりましたが、義妹夫婦とこの思い出の地、『比企地域』を歩いてみるのも楽しいかと、7月頃から考えて居ました。
 そうこうしている時に『嵐山の史跡の博物館』で『実相 忍びの者』 という企画展をしているという事を同僚だった先輩からメールを貰いました。これはなんとしてでも行かなければならない訳で、ワイフの夏休み最終日に実行することにしました。


◎ 8月24日(火)
走行距離:122.2km  歩数:8420歩  およそ6.7km
小さな旅コース図
 1 杉山城跡  2 鎌倉街道遺構  3 埼玉伝統工芸会館
 4 嵐山史跡の博物館(菅谷館跡)  5 大蔵館跡  6 笛吹峠(鎌倉街道)

 今回の旅のコースはコース図の通り、関越道で『嵐山小川IC』まで行き、そこから杉山城趾−菅谷館跡−大蔵館跡−鎌倉街道(笛吹峠)を周り『坂戸西スマートIC』で帰ってくる計画です。

 朝、オフクロ様の調子がイマイチのようでした。「大丈夫?」 と聞けば、必ず「大丈夫だから・・・」 と答えること分かっていますから、少し様子を見ました。大丈夫と判断して予定より1時間ほど遅く、9時半過ぎに出発しました。
 高速は渋滞なく、最初の見学地『杉山城趾』には11時チョット過ぎには到着しました。ここは『H先生』とは来ませんでした。

 
杉山城跡案内板

 杉山城跡は中学校の校門から入っていくような感じです。熊公は退職直前には防犯の校務分掌を受け持っていましたから、ある意味セキュリティーにのんびりした学校だなと思いながら歩きました。この城跡は『築城の教科書』と評価される場所です。規模はそんなに大きくないですが、遺構をハッキリと見る事が出来ました。

 
大手口に向かう途中からの郭の遠望                    城内の空堀の様子    

 
    杉山城趾本郭で                        大手口より鎌倉街道を望む

 丘陵の尾根筋・斜面を巧みに利用した縄張りでした。鎌倉街道が南側に通っていて、この城が交通の要所を押さえていることが良く分かりました。

 帰り道、中学校ではブラスバンド部が練習中、『SYNGE SYNGE SYNGE』の演奏が聞こえてきました。元音楽科の教員であったワイフは「この環境、どんなに音を出しても文句言われないで良いな・・・」 と、羨ましそうでした。

 杉山城跡の次は八和田地区の鎌倉街道の遺構を見に行きました。しかし、これが確実にそれだという確信は持てませんでした。

 
八和田地区の鎌倉街道?                      埼玉伝統工芸会館  

 
 細川紙(小川和紙)の展示室                 小川町の小麦粉で打った 『うどん』

 八和田地区の鎌倉街道の遺構見学のあとは『埼玉伝統工芸会館』へ行きました。埼玉県内の工芸品の展示がされていて、特にこの地域『小川』は和紙すきが盛んですから、小川和紙(細川紙)の展示が広めに取ってありました。
 見学後、この地域の特産品をお土産に購入しました。熊公は久々に秩父ワイン『源作印』の赤を購入しました。その他、生キクラゲ等も買いました。そして、小川町の小麦粉で打った『うどん』を昼食として食べました。コシが強くて歯ごたえがある美味しい『うどん』でした。

 『埼玉伝統工芸会館』のあとは今日のメイン見学地、『埼玉県立嵐山史跡の博物館』です。菅谷館跡の一角に建てられています。現在企画展で『実相 忍びの者』が開催されています。ここで展示されている忍具(忍器)類をしっかり見ることが今回の旅のメインです。残念ながら撮影禁止でした。でも、カタログを購入してきました。この写真と、実物を見たことで今後の作業に役立てられるものと思います。

 
『埼玉県立嵐山史跡の博物館』の入り口                  ゲットしたカタログ      

 
カタログの『忍器』についてのページ

 展示された忍具(忍器)、昔の鍛冶屋の製作する際の考えが分かる感じのものが幾つかありました。最後の展示は『つぶて』でした。各地の城の発掘などで出土した物で味深いものでした。手で投げる物は全て『手裏剣』というと聞きました。石や焼き物を投げやすい大きさにして使っていたようです。中には焼き物の撒き菱もありました。
 忍具を観察するのが目的でしたから他の展示はじっくり見られなかったのですが、忍者の活動を武士達がどのように見ていたのか分かる資料など有りました。カタログをゲットしましたから、ゆっくりと読んでみようと思って居ます。

 博物館の見学後は『菅谷館跡』を見学しに行きました。畠山重忠の住んでいた場所と考えられていて、その後も城郭として使用された場所です。50年前『H先生』と訪れた時にはほとんど何もない場所でした。現在のように周りに色々な施設などなく、土塁を登り切って、ポカポカした日だまりでオフクロ様の作った『お稲荷さん』を先生と友達の3人で食べました。食べた場所などはまったく思い出せませんでしたが、懐かしい思い出がよみがえってきました。

 
 重忠公の像の前で                       二の郭から南郭を望む

 
畠山重忠の説明文                       本郭中央で記念撮影

 菅谷館跡も鎌倉街道に接する形で存在しています。その為、城郭として手を加えられていたわけです。監視・防御に優れた立地でした。

 菅谷館跡の見学後は『大蔵館跡』に向かいました。ここは木曽義仲の父、源義賢の住んだ館です。義賢の力が増大するのを怖れた兄の義朝は息子の義平に攻め込ませ、義賢を討ち取りました。この時幼かった駒王丸(後の義仲)は木曽に落ち延びました。
 木曽義仲は平家物語では惨めな感じに描かれますが、巴御前との仲の良さ、軍略のすごさなど好きな武将の一人です。

 現在は畑や住宅、神社だけで、館跡を示す説明板と、平成2年に建立された供養塔がある程度です。今回は道路工事をしていて車を横付けすること出来ませんでしたが、熊公だけ歩いて見てきました。

 
   大蔵館跡の説明板                     平成2年に建てられた供養塔


館の中心施設が有ったと考えられる神社の森

 この大蔵館跡も鎌倉街道に接するように作られています。今回『鎌倉街道』を巡る旅ですが、この鎌倉街道は数ある鎌倉街道の中でも『上道』と呼ばれ、武蔵国府と上毛野・信濃・越後を結ぶ重要な道で、『兵馬の道』とも呼ばれていました。杉山城跡・菅谷館跡・大蔵館跡はその道を押さえるポイントになった場所です。

 古代律令時代には武蔵国府と上野国府とを結ぶひたすら直線で作られた官道が通っていた場所でも有ります。今回は官道についてはパスしましたが、ほど近い西吉見には官道が発掘されています。
 古代のハイウエー『官道』が直線で作られたのは口分田を正方形で作って行く必要があり、その基準線として使われたこと、軍兵の移動、租庸調の平城京への集積のために作られたわけです。西国分寺近くで発掘された官道は幅12mあります。その官道の北側の延長線がこの地域を通り、実際に確認されています。大化の改新(乙巳の変)で天皇中心の国作りが始まりますが、実際に律令が発布されたのは55年ほど後、その間にその基本となる口分田の整備が行われていったわけです。古代人の壮大なプロジェクトを肌で感じるものです。

 各所に『駅』が設けられ、都からの使者は『駅鈴』を鳴らしながら馬で官道を突っ走り、駅毎に馬の交換や食事の提供がなされました。祖などを都に運ぶ民や防人に選ばれた民が悲痛な面持ちで歩いた道、そんなことを考えるとロマンを感じます。
 鎌倉街道 上道はこの官道に沿う感じにある道、新田義貞も鎌倉攻めで通りました。南下して小手指ヶ原・久米川・分倍河原・霞ヶ関・・・と合戦を繰り返しながら鎌倉に向かったわけです。それを考えて居るとワクワクしてきます。

 大蔵館跡の見学後は鎌倉街道を南下して笛吹峠を越えて鳩山・毛呂山を通り、関越道の坂戸西スマートICから関越道に入るコースで帰ることにしました。笛吹峠に向かう途中に源義賢のお墓がありますが今回はパスしました。

 
鎌倉街道 笛吹峠                           峠上の説明文

 笛吹峠は正平7年(1352年)に新田義貞の三男 義宗等が宗良親王を奉じて足利尊氏と小手指ヶ原で戦い、退却して最終的にこの峠で決着が付いたという場所です。新田義宗等は越後に落ちて行き、尊氏は関東を完全に制圧しました。
 現在はのんびりとした峠道です。この周辺からは国分寺瓦を焼いた窯跡が見付かっています。ここから武蔵国分寺まで運ばれたわけです。古代官道はここを通っていたのでしょうか?

 笛吹峠の見学で今日の見学はお終いです。坂戸西スマートICに向かいました。道は渋滞も無く気持ちよく走れました。スマートICから高速へ入るのは初めてでした。ゲートが2重になっていて、前車が2つ目のゲートを通過して初めて開くようになっていました。本線への進入路があまり長くないので、渋滞が有ったりすると大変かも知れないです。

 自分の趣味にワイフを連れ回しましたが、それなりに楽しんでくれたようでした。義妹夫婦と廻ったらどんなだっただろうと話したら、「義弟は歴史が好きだからきっと楽しんでくれるんじゃない?」 と話してくれました。草の少ない冬場や春に一緒に旅が出来たら楽しいかも知れないです。

 自宅には4時前に到着しました。ワイフは明日からまたお仕事です。26日に親方の娘さん達が工房に来ることになっているので、『実相 忍びの者展』の話をしてあげようと思っています。
 (2021.08.24.)






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