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次に彼が出てくる場面は、バガラチオン公爵指揮下の部隊にあって、フランス軍の追撃から逃れて撤退する場面だ。ロシア軍はフランス軍の襲撃をうけ散々な目にあっていた。ロストフが属する軽騎兵中隊は正面からフランス軍と戦い血路を開く以外に脱出する方法がなかった。
指揮官はデニーソフだ。デニーソフは“神は我らとともにあり!”と叫んだ。
“前進しろ”と命令が下った。
ロストフは軍刀を握り締めて“敵を切りまくってやる”と思いをかためた。このときのロストフも戦が分かっていたとはいえない。
“敵を切る”ことなど簡単にできるものではない。
「桜田門外の変」(吉村昭)にも、水戸の浪士たちが彦根藩士と刃を交えた際に“双方ともつばぜり合いがほとんどだった。刀をやたらふりまわしていて、日ごろの剣術の稽古はあまり役立たなかった”と記されている。
ロストフはまだ経験が不足していた。・・・
馬を疾駆させながら前方に敵のような影を見た。他の騎兵が彼の横を通り過ぎた。
ロストフは速度を上げた。次の瞬間、ロストフは同じ場所に留まっている自分を感じた。彼は置かれている状況を理解できなかった。
ようやく彼は落馬したことを悟った。左腕が動かなかった。そのとき、彼に向かって数人の兵士が近寄ってきた。
青い服を着ていた。ロストフは自分を助けにきたのだと思った。だが、その兵士たちがフランス語を話すのが聞こえた。彼は立ちあがり必死に走った。銃弾が空を切り裂き彼の背後をかすめた。ロストフの背中に恐怖が走った。彼は後ろを振り返った。フランス兵が銃を構えていた。ロストフは、もう振り返るのは止めようと思った。ロストフは猟犬に追われて逃げまどう兎のような心境だった。彼は、やっとの思いで藪を横切って森に逃げ込んだ。その森にはロシアの狙撃兵が潜んでいた。彼は助かった。でも、彼の腕は感覚がなく動かなかった。錘りがぶら下がっているように感じた。
その晩、彼は焚き火で負傷した腕を暖めていた。ひとりの兵士がこう言った。
“今日は大勢の人が死んだ。恐ろしい1日だった”と。
ロストフはその言葉を聞いていなかった。彼は、焚き火の上を舞う粉雪を見つめていた。“ロシアの冬は暖かく、家の中は輝いている。暖かい毛皮のコートを着て、軽やかなそりに乗って、家族の中には愛情や心遣いがあふれている”
ロストフはそれらのことを思いだしていた。
また、“私はどうしてここに来たのだろう?”と自問自答していた。 (2008.8.29)