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無 題

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(15)
左腕を負傷した士官候補生ニコライ・ロストフは傷が癒えて前線に復帰した。あのコペリニッツ、ソーコリニッツ両村後方の敵陣攻撃にかかる作戦計画においても、バガラチオン公爵の伝令将校として働いた。この戦いではロシア軍は大きな損害を受けた。アンドレイ公爵も傷つき倒れ捕虜となった。ロストフはその戦場を駆け回った。・・・
彼は少しずつ成長した。ナポレオンがロシア領内に侵攻したあたりには、ロストフはすでに自分の心を制御できるようになった。恐怖を抑える術を知った。これまでの彼は臆病だったが、今では、恐怖を感じることはなくなった。・・・・・
ロストフの騎兵中隊が前進しているときに銃声が聞こえた。下の方の斜面で何かが起こっていた。青い服のフランス兵がロシア兵を追って攻め上ってくるのが眼下に見えた。
ロストフは冷静に敵の動きを見た。そして、攻撃のチャンスを計っていた。ロストフは中隊の前に踊り出た。この動きを見て他の兵士もつづいた。ロストフは“突撃命令”を叫んだ。これを知ってフランス兵は退却に転じた。ロストフは一人のフランス兵に馬で体当たりして軍刀を打ち下ろした。
彼の一撃は相手のひじにわずかにあたっただけだった。ロストフは相手を見た。彼の表情は恐怖にゆがんでいた。次の一撃を予測して怯えた目でロストフをにらんだ。ロストフは、軍刀を振り上げ再び打ち下ろそうとしたとき、一瞬、相手の兵士の表情が目に入った。彼は純朴そうな若者だった。頬にえくぼが見えた。怯えた顔は敵とは思えなかった。青い目でロストフを見上げていた。ロストフがなお、敵に迫ろうとしたとき相手は
「降伏する!」と叫んだ。
ロストフはこの戦いを勝利に導いた。その戦功により勲章を授与された。彼の評価は高まり軽騎兵大隊をゆだねられた。でも、ロストフは漠然とした不安のような感情を抑えられなかった。あの頬にえくぼが浮かぶ兵士の表情が消えなかった。彼の恐怖に満ちた表情が消えなかった。彼に何の罪があるのか。彼に軍刀を打ち下ろそうとしたそのとき、一瞬、ロストフの心にも躊躇が浮かんだのだ。あの兵士は殺されると思った。何のために彼を殺そうとしたのか。これが祖国を守ることなのか。・・・
ロストフには答えが見つからなかった。
一方そのころ、ロストフの妹、ナターシャは病に臥せっていた。症状は、食欲がなく、眠れなくて、せきが出て、いつも心がふさいでいた。症状は重かった。医者の投薬でもなかなか治らなかった。そこで、伯爵夫人は投薬より祈りの方が好ましいと思うようになった。ナターシャは祭壇にぬかずき司祭とともに祈りをささげた。
ナターシャは「わが身を神にささげます。何ごとも神の御心のままに・・・」と祈りながら心に深い感動が満ちてくるのを感じた。そして、ナターシャは快方に向かっていった。またそのとき、彼女は、戦場の兄ロストフを案じていた。・・・

戦後、
60数年が経った。まわりにいるのは戦争を知らない人ばかりだ。私も小さかったころは戦後の混乱のなかで飢えに苦しんだが戦争は知らない。もし、人が戦場でロストフのような場面に陥ったとしたらどのような行動をとれるだろうか。軍刀を振り上げられるだろうか。軍刀を振り上げて敵に迫れるだろうか。平和な社会に暮らしている私たちには想像もつかない。
 (2008.9.2)