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スターリンの死去から3年がたった19562月、フルシチョフ(ソ連共産党第一書記)は第20
党大会において、スターリンを批判する演説をおこなった。
それはこのようなものだった。
スターリンは自らを個人崇拝の対象にした。これは大きな誤りだった。また、
17回党大会で党の
中央役員
139名のうち、70%の98名が彼のために処刑された。
大会代議員
1,966人中1,108人が同様の運命をたどった。彼らに科せられた反革命の罪状は、大半
が根拠がなく濡れ衣であった。これらのことは党や社会主義に重大な障害をもたらした。スター
リンの弾圧は、おびただしい数の市民にまで及んだ。彼らに科せられた
“人民の敵”の罪状はまったくのでっちあげだった。
また、スターリンは祖国防衛の準備を怠り、有能な軍指導者を多数追放処刑した。そのため、独
ソ戦の初期の段階では赤軍の敗退を招いた。これらはスターリンの責任だった。
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この演説は驚きをもって迎えられた。なぜなら、これまでそんなことは考えられなかったからだ
。彼は、絶対的な君主のように国民の上に君臨していたから。ロシアのこと、すべては彼の意の
ままだったからだ。
スターリンの死去、それは“雪解け”といわれた。(ウィキペディア)
その“雪解け”で、これらの反省の言葉を聞いても、すでにラーゲリの露と消えた多くの人びと
はどうなるのか。・・・どうにもならない。
濡れ衣だといわれてもいまさらどうにもならない。スターリンを批判するだけでよいのか。さら
には、それだけですまないもっと根本的な問題があるのではないか。・・・・・
ところで、どのようにしてスターリンは絶対的な権力を取得していったのだろうか。
その権力は独ソ戦によって更に強固なものとなった。その事情を見てみる。
1941年、ドイツはソビエトに侵攻を開始した。
開戦当初はドイツ軍がソビエト軍を圧倒し進撃を続けた。ソビエト軍の抵抗はあったが、その多
くはドイツ軍に撃破された。
ドイツ軍は進撃し村々を焼き払い人々を虐殺した。そのことは返ってロシア国民の憤激をかい国
民を結束させることにつながった。ドイツ軍はソビエト軍の抵抗にも手を焼いたが、ロシアの気
候や大地も彼らを苦しめた。ロシアは広い。春と秋は道路が泥のようになる。夏は乾燥して、冬
は酷寒の土地だ。ロシアの大地そのものが要塞だった。その上、ドイツからは遠く離れている。
弾薬や食料などの物資の輸送も大変なはずだ。ソ連への侵攻はドイツの将軍たちは反対だったと
いわれる。すでにヨーロッパを支配したとはいえ、イギリスは健在だ。ロシアに侵攻するとなる
とあまりにも戦場が広がりすぎる。国力が分散されるのが懸念される。でも、ベルリンにいる一
人の人間に逆らえなかったということなのか。進撃してきたドイツ第6軍はボルガ川に進路をとり
、スターリングラードを目指した。ここでの攻防は両軍の運命を分けることにつながった。
 
(2008.8.14)