両国高校定時制

厳島合戦逸話より
「名を惜しむ人といえども身を惜しむ 惜しさに代えて名をば惜しまじ」
この和歌は戦国の世の「厳島合戦逸話」に収められています。“名を惜しむ”とは名声や名誉が失われるのを恐れることをいいます。毛利元就が厳島合戦の際に捕虜に和歌を詠ませ、よい和歌ならば助けたという故事があります。その捕虜は「名を惜しむ人といえども身を惜しむ 惜しさに代えて名をば惜しまじ」という和歌を詠み、毛利元就から優れた和歌だとして命を助けられました。「陰徳太平記」には人々が美談としてこの話をもてはやしたと記されているそうです。
両国高校定時制は大正13年4月に私立東京三中夜学として開校されました。今からおよそ80年前のことになります。開校以来、勤労学生の学び舎として多くの生徒が学びました。
そこで、生徒たちは忘れがたい4年間の日々を過しました。つらいときもありました。充実したときもありました。4年間勉強して卒業しました。やがて、学校は心のなかの大きな部分を占めるようになりました。その両国高校定時制の名がまもなく消えていきます。
(平成21年3月を以って閉課程)
残念な思いがこみあげます。でも、校名の維持にこだわることは避けたいと思います。名を惜しんではなりません。学校の名は消えてもそれに代わるものが生まるはずです。名を惜しまず、身を惜しむ考えこそ求められると思います。・・・(2007.10.16)
私は、「陰徳太平記」のなかで、この話をもてはやしたとされる部分が、長い間分からなかったのでインターネットで質問したところ、以下の回答をいただきました。これで確認できたことになります。回答を寄せてくれました方には感謝します。
「寄せられた回答」
東京大学史料編纂所データベースから、大日本史料総合データベースで調べると、弘治1年10月1日 毛利元就、子隆元、小早川隆景、吉川元春等を率ゐ、陶晴賢を安藝厳島に襲撃す、晴賢、敗績して、自殺す。
【史料綜覧】の項に「吉田物語(吉田記)」を引用した稿本(画像 0031.tiff)があり、陶カ同朋宗阿弥、名ヲ惜ム人トシイヘト身ヲ惜ム惜シサニカヘテ名ヲハ惜マズ トヨミケリハ是モ命ヲ助リケルとありました。(同朋衆とは「たいこもち」みたいなのでしょうかね。皮肉な見方をすれば、口先で命拾いしたともいえる)・・・(2009.3.8)