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両国高校定時制

都立両国高校定時制

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 そのころに、2.26事件が起こり、日中戦争が起こります。昭和13年には国家総動員法令が公布されます。日本は徐々に危険な道を歩み始めます。明るい話題としてはこのころに江東楽天地が設立されました。
 そんな中でも、学校は先生がたの営々とした努力により多くの卒業生が巣立っていきます。昭和16年にはいると校名が東京府立桂友中学と改称されました。また、この年には悪化しつつあった日本とアメリカの対立は頂点に達します。そして、日本軍のパールハーバー奇襲攻撃により、日米は開戦しました。緒戦こそは優勢を保っていた日本軍ですがミッドウエー海戦の敗北を契機として、次第に米軍に追い詰められていきます。
 そんな中でも先生がたの教育への努力はつづけられます。校名も第一学年は東京都立第三中学校第二部に第二学年以上は東京都立桂友中学と改称されます。しかし、この戦争が国民や学校に影響を及ぼさないはずがありません。
国民が受けた被害はじつに大きなものでした。日本の敗色が濃厚となった昭和20年にはB29による東京大空襲がありました。墨田区近辺は特に被害がひどく町は焦土と化しました。町が燃えています。人々は猛火の中を肉親の安否を気遣い逃げ惑います。子供の泣き叫ぶ声が聞こえます。でも、どうすることもできません。多くの住民が恐怖と苦痛の中で命を落としました。
 浅草一帯も燃えました。町は火の海と化していました。地を這うようにして火炎が迫ります。折からの秒速30メートルの強風にあおられ火勢がさらに激しくなります。人々は必死に逃れようとしましたが多数の人が命を落としました。特に言問橋付近は猛火が激しく多くの人が犠牲になりました。
 学校も例外ではありません。事務室と体育館を除き、校舎が全焼してしまいました。そんな中で悲劇が起こりました。体育科のK先生が殉職されました。そのとき、どんなことが起こったのでしょうか。残念ですが、今となっては分からないことです。
また、このときに、A校長先生も負傷されました。戦争はすでに過去のものになってしまいましたが、残念な思いがこみあげます。
その後、A校長先生は学校再建のために尽力されたことだと思います。
(大空襲の被害についてはインターネットによる) (2007.8.19)