両国高校定時制
この戦争により、他の先生がたや生徒にどのような被害が及んだでしょうか。それは分からないことです。過ぎてしまったことですが、できるだけ被害が少なかったことを願うばかりです。
このようなときには授業はできません。教育活動は休止せざるを得ません。
人々は生きるだけで精一杯だったはずです。でも、この年の3月に先生がたの努力により卒業式が挙行されました。式は屋根のない体操場で行われました。ただ、卒業証書はありませんでした。
創立80周年記念誌に、昭和20年卒業のある卒業生が思い出を寄せています。
それによると、「卒業式は屋根の無い体操場でおこなわれました。私たちの記憶にある卒業式は、屋根の無い体操場から見上げた青い空でした」と記しています。
このころは、学校の一番苦しい時期だったと思います。戦時下に、こんなに苦労して学んだなんて、今では想像することも難しいことです。
8月には、広島と長崎に原子爆弾が投下され終戦を迎えます。私は広島と長崎に行ったことがあります。原爆資料館に入ると、そこには目を覆うばかりの惨状が広がります。この戦争の被害はじつに大きなものでした。日本は焼け野原になりました。多くの国民が犠牲になりました。人々はゼロからのスタートを余儀なくされました。また、近隣のアジア諸国にも大きな被害を及ぼしました。日本国民はこのことを深く反省しなければならないと思います。
なお、80周年記念誌によると、国語科のHO先生は、府立三中二部で国語教師として勤務されていたところ、昭和19年に召集令状が来ました。先生はいったん郷里に帰った後にあわただしく戦地に向かいました。他の先生がたや生徒に十分な挨拶をしたくても残念にもできませんでした。先生は中国のアムール川近辺の国境警備に配属されました。アムール川を隔ててソ連軍と対峙しました。
終戦を迎え、先生はソ連に抑留されバイカル湖近くの収容所に収容されました。そこで、森林伐採などの過酷な強制労働に従事させられました。先生はそこで、大変苦しい日々を過した後、3年後に帰国されました。先生は東京に帰ってきました。そのとき、東京の惨状や焼けおちた校舎が先生の目にはいります。先生はその惨状をみてどう思ったでしょうか。
先生は、その後定時制の国語教師に復帰され再び教壇に立たれました。
なお、創立80周年記念誌に掲載されている卒業生の思い出を一部引用させていただきました。 (2007.8.19)