私がかなり以前に読んだ「富岡日記」は心に残る一冊です。ある時、書店に入ると所狭しと本が並べられていました。その多くの本のなかから、なぜこの一冊を手にしたのでしょうか。その理由は自分でもはっきりしません。何故か読みたいと思いました。
作者の和田英は、信州松代旧藩士の次女として生まれます。武士の支配が終わり、民主主義が始まろうとする時代でした。
明治政府は国家の近代化を図るため、フランスの援助の下に群馬県富岡に官営富岡製糸工場を作ります。全国から工女(女性労働者)が富岡に集められます。その一人に和田英がいます。彼女は最初、人身御供にでも上がるように思ってか、かなり心配したようです。
だが、和田英の祖父は、
「女子であっても、天下のためになるなら行くがよい。向こうに行ったら、いろいろなことに心を配り、一生懸命に励みなさい」といってくれたので、和田英は心配が消えてしまいとても喜んだようです。
和田英は富岡製糸工場ではフランス人技師の下で技術の習得に努め、後に伝習工女(指導者)も勤めます。なお、彼女の姉は18歳の妹の富岡行きを案じ、紙切れに餞別として和歌を書き送ります。その和歌とは、
「乱れても月に昔の影は添う など忘るなよしき島の道」
とあります。この和歌を読むと、姉が妹を心配する心情が伝わってきます。また、当時の家族の絆の強さも窺えます
現代からみると明治初期は、かなり貧しい時代だったと思いますが、この本では貧しさをものともせずに積極的にいきる工女たちのすがたが生き生きと描かれています。
また、和田英は夕食後、他の工女たちと夜学に通います。今とちがって定時制高校などはありません。おそらく、そこは塾のようなところだと思います。そこでは「読書習字」や「習字と珠算」などを学びます。
彼女は珠算を学ぶときに、「私は他人より覚えが悪う御座います」などと言いながら、部屋に帰ってからも遅くまで練習に励んだ様子などが記されています。
ところで、在校生のみなさんは元気で浅草高校に通学していますか。毎日の授業をしっかりがんばっているでしょうか。・・・・・・・・・
努力なしには将来が開けないのはいつの時代でも同じだと思います。
明治政府は国家の近代化を急いだが、それは待っていれば誰かが与えてくれるものではなく、紡績の技術を学んだり、読み書きを学んだりする地味な努力の積み上げによって得られるものではないでしょうか。この文庫本には、広く外から知識をとり入れて伸びようとする人たちの姿が描かれていました。また、自分が携わった仕事を少しでも改善したいという人びとの意欲が感じられました。・・・・
なお、和田英は安政4年に生まれ、富岡で製糸技術の習得に努めました。その後は、長野県製糸工場の製糸教授に任じられ昭和4年9月(72歳)に死去しました。
この本には明治を生きた一人の人間の努力が描かれていました。その姿は地味ながらも理想的なもののように映りました。できたら、真似をしたいと思えるように感じました。しかし、そうはならないのが現実です。
この本の舞台となっている明治はかなり遠く感じられます。でも、私は昭和の生まれなので、和田英の生きた昭和初期には手を伸ばしたらもう少しで届きそうに感じます。
(2007.6.6)
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