咸臨丸冒険成功させたブルック大尉
                                        2012年2月 志村英盛

激しい暴風雨と荒れ狂う北太平洋に乗り出した
満載排水量625トンの小型帆船軍艦・咸臨丸の操艦で必要であったのは、
的確な状況判断力と、時々刻々変わる状況に対応する適切な帆の操作と
舵取り
であった。咸臨丸は蒸気機関を装備していたが積んでいた石炭は
わずか3日分であった。

人格・判断力・技量・経験に優れたブルック大尉が
艦長として、この小型帆船軍艦・咸臨丸の操艦指揮をしなかったならば、
往路において、咸臨丸は海の藻屑となり、乗組員全員が溺死したと思う。

咸臨丸に乗り組んだ、木村摂津守喜毅、勝麟太郎海舟を始めとして、当時としては、
最も海事について視野広く、海事技能習得に強い意欲を持っていた、いわば、
幕末の幕府海軍のエリート士官たちが、咸臨丸の太平洋横断往路航行から
学び取ったことは、危機的状況においては、家柄とか、身分とか、禄高とか、
面子(メンツ)とか、従来のしきたりは、まったく役にたたないということであったと思う。

そして、何よりも重要なことは、指揮官の的確なリーダーシップであることを
痛感したと思う。

危機的状況に直面した場合、変化を的確に認識できない、
旧来の体制の組織風土では対応できないことを学び取ったと思う。

往路において、彼らは、ブルック大尉から数多く学び、
帰路は、日本人士官たちが中心となって航行し、無事、日本に帰り着いた。



ちなみに、「咸臨」とは、易経から引用され た言葉で、 「お互いに感じあって、心を一つにして
臨むとき、その臨むところが正しけれ ば結果良し」で、「君臣、互いに、親しみ、協力せよ」との
教えである。



咸臨丸(かんりんまる)は、1860年2月10日(旧暦 安政7年正月19日)
浦賀港を出港、37日間の難航を乗り切り、3月17日(旧暦 安政7年2月25日)
サンフランシスコの湾頭に日本軍艦初の日の丸を翻した(ひるがえした)
(注:安政7年は3月17日まで、万延元年は3月18日から)

しかし、この往路は、航行中、ほとんど毎日、暴風雨と北太平洋の荒波に悩まされ、
まさに、苦難の航行であつた。

戦前、1938年(昭和13年)に出版された文倉平次郎著『幕末軍艦咸臨丸』には、
勝海舟の『海軍歴史』における述懐として、「出帆後、洋中に在る事、37日。此の内、
暗天・日光を見るは僅に5、6日。其の苦難、想うべし」(第134頁)とある。

1635年、徳川幕府は国際社会への絶縁状ともいえる鎖国政策(鎖国令)を実施した。
現在の北朝鮮と同様、以降、日本人が外国に行くことは犯罪とされ、厳しく処罰された。
外洋を航行できる大型船の建造も禁止された。

鎖国令以来、実に、225年ぶりに、日本の軍艦・咸臨丸が外洋へ乗り出したのである。
これは、まさしく、歴史的な快挙であった。

日本の軍艦が太平洋を横断して、米国のサンフランシスコに到着できたということは、
それまでの日本の歴史でかってなかったことである。日本史上特筆すべき冒険であった。

注:軍艦以外では、1610年(慶長15年に、徳川家康がウィリアム・アダムスに建造させた帆船で、
田中勝介が
太平洋を横断してメキシコへ渡り、翌1611年(慶長16年)に帰国している。

この3年後、1613年には、伊達政宗が派遣した支倉常長が
太平洋を横断してメキシコへ渡っている。
彼はさらにスペインからイタリアに行き、ローマ法王に拝謁している。帰路、
再び太平洋を横断して日本へ帰国した。
5年にわたる大航海であった。




出港の
翌日から第9日までの8日間、
咸臨丸は記録的な暴風雨に遭遇した

第2日 西暦1860年 2月11日(旧暦 万延元年正月20日)

(勝海舟・航米日誌)

我、10日前より風邪腹痛ありしが、出帆前、多事なりを以て、病を養うの暇なく、
勉強して今日に到りしに、この風涛に当りて発熱苦悩甚し。

亜船主
(ブルック大尉のこと)これを見て、我、ここにあり、病に激して宜しからず、
必ず一睡して可ならんと、せわし立って置かず、其親切なりしかば、臥床申に入りしに、

忽ち
悪熱肉皮間に発し上発せず、胸間閉塞甚しく、支体心の如くならず、
嘔吐せんと成すも能わず。


解説:勝海舟は、10日前から風邪で腹痛があったが、出航準備に忙殺されて
養生する暇がなかった。ブルック大尉は、勝海舟の様子を見て、自分がここにいるから、
構わず休めと親切に言ってくれたので、中に入って横になったが、

忽ち悪寒(おかん)がして発熱甚しく、胸がつまって身体が自由に動かず、
嘔きそうで嘔けないという容態であった。)
     

(齋藤留蔵・亜行新書)

正月廿日(西暦2月11日)、早暁より風猛強、
波濤、甲板上に灌ぐ(そそぐ)事、三尺、或ひは四尺、
舟の動揺も、又、従って甚しく、其の傾く事、凡そ、廿七、八度、
而も、波濤の高さ、凡そ、四、五丈を下らず。

我が同船の人員、初めて、此の騒擾(そうじょう)に逢いて、皆、大いに疲労し、
人々、互いに狼狽し、不撓の規模をも失し
多人数の中、甲板上に出て、動作をなすものは、唯、僅かに、四、五人のみ。

此の時に当つて、帆布を縮長上下する等の事は、一切、亜人(米国人水兵のこと)
助力を受く。彼等は、此の暴風雨に逢うと雖も(いえども)、一人も恐怖を抱く者なく、
殆んど、平常に異る事なく、諸働き(しょばたらき)をなす。

之に(これに)継ぐ者は、我が士人にて、唯、僅かに、
中浜(万次郎)氏、小野氏、浜口氏の3人のみ。

其他は、皆、恐懼し、殆んど、食糧を用うる事、能はざるに至る。

夜に入り、江天黒陰、四方寂寞たり。戌時(五ツ時)より雨降る。
風益強く、帆は僅かに縮短して二帆となして、以て走る。

帆柱船舷に風波の狂激する事烈しきを以て、其の響き、大いに轟く(とどろく)

(津本陽・著書『勝海舟』)

天候は晴天であった。方向を東北にとり、潮に逆らい大洋に50里ほど出たが、
黒潮にかかったためか潮流がきわめて急で、艦は遅々として進まず激浪に
翻弄されるままである。

(ブルック大尉の航海日誌)

午前1時5分、パテント・ログ16.1/4マイル。洲崎が見えてきた。
大島も見えてきた。船は南東微東の風で進む。

洲崎と大島の間の航路筋に入ったので、私は北からの強い風を期待している。

明け方目を覚ました。船は激しく縦揺れしている。デッキに出てみると、
2段縮帆した大檣トップスルが裂けていた。その帆を畳む(たたむ)
フォアスルの半分も破れている。それも畳む(たたむ)
スパンカーを絞ったが裂けて流れてしまった。

海は大荒れであった。船は、しばしば、波に呑み込まれる有様。
日本人たちは全員船酔だ。今、船は大檣トライスルで走っている。
蒸気機関も焚いている。陸地はどんどん遠ざかる。黒潮に入ったらしい。

船は北東微東に向っている。風が西に変りそうだ、変るとよいのだが。

12時15分、パテント・ログは、昨目の午後8時15分より、66マイル走行を
示している。万次郎の観測によれば、緯度は34度51分。風も海も穏やかに
なってきた。帆を再び揚げる(あげる)。12時15分、パテント・ログをセットする。

午後4時、パテント・ログは16.1/2マイル。風が非常に弱いので、
トライスルとヘッドスルを巻き上げ、北東に転舵する。

12時から4時の間に、水温は55度から62度に上った。
水温からみて黒潮に入ったと思われる。
流れに乗ったのならよいのだが。
そうなれば北ないし東に向け速度も加わるだろう。

天候はかなりよいのだが、風は真向いだ。午後7時、パテント・ログは28マイル。
風が西向きになる事を切に望んでいるが、まあ、このくらいで満足していよう。
日本人たちは船酔から回復しつつある。
私は、夕方お茶の時間に、お茶というよりは、ご飯と烏賊(いか)を食べた。

木村提督はまだ自室にいる。勝艦長も、同様、まだ自室にいる。

私は随分疲れたので寝ようと思う。積雲が出た。日没のころか、そのちょっと前に、
北西の方向に、陸が非常に遠くに見えた。

(幕末軍艦 咸臨丸 渡米記録)







第3日 2月12日 (旧暦 正月21日)

(勝海舟・航米日誌)

「21日、病苦先日に増し、殆ど人事を弁えず。之に加えて、高涛、風強、
人々、船酔いを発し、然らざる者は、甲板上にありて万事を指揮するを以て、

唯、一人、問う者なく、両日、両夜の間、飲食を絶し、
船内に簸揚(はよう)せられ、
其の苦、生来かつて、この如きをしらず。

解説:万次郎、小野、浜口、福沢の4人以外の日本人は総倒れであったから、
勝を見舞う者もなく、勝は2日2晩、飲まず食わずで、
しかも、船の揺れはひどく、生れてこの方、こんな苦しみは初めてだと、
流石の勝も、気息えんえんであった。)

(津本陽・著書『勝海舟』)


21日も北の強風が吹きつのり、山のような激浪が艦上になだれ落ち、
艦は、しばしば、大きく傾く。

(ブルック大尉の航海日誌)

今朝は雨模様、水銀晴雨計は水銀の動揺のため役にたたない。
小さいアネロイド晴雨計はかなり調子がよい。午前9時、風は東から南東に変った。
新しいコースを北東にとる。

9時半、気圧はアネロイドで760。トライスル、ジブ、スパンカーを揚げて(あげて)進む。
東から風が吹いているので、万次郎は天候を気づかっている。
昨日の気圧(アネロイド)650。

正午、ログ100。新たにセットする。

午後2時45分、気圧750.34、天候定まらず。風が北に変った。小雨。雲多し。
帆を畳む(たたむ)
3日分の石炭しか持っていないので、午後3時には蒸気機関を止めよう。
しかし、じき西風が吹くだろうと思う。
もし米国の石炭を積んでいたら、
順風の吹きはじめるまで6日か7日は蒸気機関で走れるのに。

午後7時40分、雨を含んだ強風が北々西から吹く。
気圧750.20。フォアスルを畳み(たたみ)、船はトライスルと
前檣の中檣ステースルで進む。

(幕末軍艦 咸臨丸 渡米記録


第4日 2月13日 (旧暦 正月22日)

(勝海舟・航米日誌)

「22日、中浜生、粥1椀をめぐまる。これよりして、同人、時々問尋、湯水薬等を与う。
また医生も来たつて、其病を察し、薬を与うこと、しばしばなり。

同日、下血なすこと1合はあり。これよりして、胸間の愁苦、漸く軽きを覚えたり。
熱、神経に著せんかと日夜愁苦す。


(津本陽・著書『勝海舟』)

22日には豪雨が加わり、風浪のため甲板は川のようで、後檣の帆がついに破れた。

(ブルック大尉の航海日誌)

夜のうち、非常に強く風が吹いた。
北々西の疾強風を受けて、船はトライスルと前檣の中檣ステースルを張って進む。
フォアスルを張り、大檣のトップスルを二段縮帆にする。波高く船は7ノットで進む。
陰鬱(いんうつ)な天候で、雲が濃く寒い。

日本人たちもだんだん船酔から回復してきた。
私はひどい風邪を引き、横にならざるを得なかった。頭痛がする。
木村提督も、勝艦長もまだ病気である。

第5日 2月14日 (旧暦 正月23日

(幕末軍艦 咸臨丸 渡米記録

23日は、波高く、艦の動揺甚しく、端船を吊りたる綱が切断された。
依つて、之を船中に取入れた。午後6時に至つて、猛風、愈々(いよいよ)
甚しく、前檣の帆が吹破られた。

夜に入り、風、少しく滅じ、月出で、波も静になつたが、
昨日來の猛風のために炊事も出來ず、漸く、干飯を二度程蒸して食した。

船夫は、皆、疲労して、倒臥者過半を出した。
木村の從者、長尾幸作の日記には、
「我乗船、激しく波間に出没、船中、皆、水に浸る。
余、寝衣一枚を海に投ず。船中、皆、病み、
暫く(しばらく)12、3人を以て船を便ず。
実に、余、出生以來、初めて、命の戦に、恐ろしきを知る。
衆人、皆、死色。唯、亜人之輩、言笑する」云々とある。

また、勝の海軍歴史にも、

「此の行時、猶、初春なるが故に、
海風烈しく、激浪、面を撲りて(なぐりて)、向う可からす。
其の鍼踏、大抵、北極出地、37、8度より
43度前後に出づるを以て、其の風、常に西北、曇天、美日少なく、
日夜、霰(あられ)、雹(ひょう)、雨雪を捲き、
時としては、濃霧降りて、咫尺(しせき)を弁ぜず。

また、湿気、雨衣を透し、加うるに、船、動揺、簸揚(はよう)して、
正しく歩行する事、能はず。

(勝海舟・航米日誌)

23日
、熱発せざるも、煩悶、先日と同じく、
これより2月2日に到るまで
少し許りも食すること能わず。
蕎麦、芋等少々を食し食を継ぐ。

(津本陽・著書『勝海舟』)

23日は、波浪がさらに高くなり、バッティラを吊った綱が切れたので艦中に
収容した。暮れ六つ(午後6時)頃、風勢が猛り立ち前檣の帆が破れた。
夜が更けて風がやや納まり、月が出て波も静まったが、炊事がまったくできず
干飯(ほしい)を蒸して食う。
水夫たちは疲れ切って身動きのとれない者が多かった。

(ブルック大尉の航海日誌)

船は、夜の中、よく進んだ。午前8時30分、約120マイル走っていた。

船は南東微東に変針を余儀なくされた。

右舷中部甲板のボートを取り入れる。

日本人がキャビンの天窓を踏み破って粉々にしてしまったので、
我々は円窓の灯りだけになってしまった。

富蔵が、今朝、姿を見せた。にこにこしていたけれど、まだ全快してないようだ。

万次郎は、ほとんど、一晩中起きていた。彼はこの生活を楽しんでいる。
昔を想い出しているのだ。昨晩、私は、万次郎が、年取った方のスミスに
物語りをしているのを聞いて面白かった。万次郎の物語は、函館の領事と、
3人の若い娘の話であった。次に歌をうたって聞かせていた。

昨日はアホウ鳥を見た。今日は黒いカモメを見た。

曇り、水平線はくすみ、視界は低い。

午前10時、針路、東北東。

日本人が無能なので、帆を充分に揚げる(あげる)ことができない。

士官たちは、まったく、もう、完全に無知である。
多分、悪天候の経験が全然ないのだろう。

命令は、すべて、オランダ語で下される。
私は、日本人が、彼等自身の航海用語を持つべき必要を強く感じる。

舵手は、風を見て舵をとることが出来ない。
操桁索や、はらみ索に、全く気を配らない。


非常に不愉快な天気だ。天測のチャンスなし。

午後4時。この3時間は南よりに向っていた。
ほぼ東南東だったが、今は東北東に向っている。

非常に強い風。気圧は低い。雨。

甲板が非常に滑りやすいので、私は転んでしまった。
この船は砂を積んでいない。航海のはじめから不愉快な事だ。

日没。北風が強い。船は安全な限りの帆をあげている。
フォアスルを縮帆したいのだが。
あのままでは、もし突風がくれば、帆を緩めねばなるまい。

パテント・ログがロープにからんでしまった。装置し直す。

4時半には約16マイル進んでいた。

日本人たちは、なかなか良い外套と手袋を持っている。
彼等はだんだん船乗りらしくなってきている。

天候はひどい荒模様。

大檣トップスルを取り入れようとしたら帆綱が切れた。
日本人は帆を畳む(たたむ)ことができない。
我々の部下を登檣させ、帆を畳ませた。

稲光(いなびかり)がするが雷鳴は聞えない。

船を東微南に向ける。トップスルを畳む間、南東に走る。

(植松三十里 『桑港にて』(後記)抜粋)

2日後には波が高まり、翌日からは大時化(おおしけ)となった。

甲板は波をかぶり、船が傾くたびに、海水が川のように流れ込んだ。

咸臨丸は船室に下る入口(ハッチ)の防水が甘く、
梯子段(はしごだん)を伝って、滝のように海水が押し入った。

乗員は、士分が27人、水夫、火夫(かまたき)などが69人、
それに、操船指南役として、アメリカ海軍士官と水兵の11人が
乗り組んでいた。

アメリカ人と士分は、個室のベッドで寝起きしていたが、
水夫は、船倉の床に布団を敷いて雑魚寝だった。
そのために、浸水の被害をまともに受けた。

行李や長持ちの上に、布団と着替えを乗せて水を避けたが、
結局、何もかも、水浸しになった。

第6日 2月15日 (旧暦 正月24日)

(ブルック大尉の航海日誌)
夜の中、風は西に変った。ほぼ北西。
日本人達が、前帆桁を風にあわせて動かさなかったので、
思ったほど進まなかった。雨と霙(みぞれ)を伴った強いスコール。
波が荒い。

9時に、2段縮帆の大檣トップスルを揚げる(あげる)。天測をする。

カーン氏が、キャビンを転がっている重たい箱を片付けてもらいたいと言った。
我々は、その箱には、日本人の食物が入っているのだろうと考えていた。

ところが、本当に驚いた事には、その箱には、キャビンを吹き飛ばすに充分な
4万個もの雷管が一杯つまっていた。私は万次郎の助けを借りて片付けた。

現在、船は非常に調子よく走っている。太陽が見えてきた。

日本人は火に関してまったく不注意だ。昨夜は料理室から火を出した。

正午の天測によれば、キング岬(房総半島南端野島岬)から480マイルである。

万次郎がいうには、昨夜、彼が日本人の水夫たちに登檣を命じたら、
彼らは、万次郎を「帆桁に吊すぞ」と脅した(おどした)そうだ。

彼らが、もし、その脅しを実行に移すようなことをしたら、すぐ、私に知らせろ。
命令に反抗する奴ら(やつら)は、勝艦長が、私に権限を与えてくれ次第、
すぐ吊してやると万次郎に言っておいた。

夜。今日は一日中スコール模様で、時々雨が降った。
夕方トライスルを張る。

日本人はデッキでの当直の仕事をきちんとやっていない。
3〜4人の例外を除いて、彼らは、皆、船室に閉じ籠もって(とじこもって)おり、
当直のためデッキに出てくるのに、予定時間より15分から20分も
遅れて出てくる。

今日、非常に美しい虹が見えた。

ほんのわずかの時間であったが、勝艦長も甲板に出てきた。

木村提督は、こんな状況の中で、私が操艦の指揮をすることに
感謝の意を表した。

第7日 2月16日 (旧暦 正月25日)

(ブルック大尉の航海日誌)
夜中の北々西の強風が朝には西北西に変った。

船は波に揉まれて(もまれて)いる。
まず大檣トライスルを畳み(たたみ)、前檣トライスルも畳む(たたむ)
前檣の中檣ステースルを付け、帆桁を風の方向に合わせる。

今、物凄い(ものすごい)波があるが、舵はよくきく。

正午、パテント・ログ、昨日以来144マイル走行と示す。

この波では、東半南以上に舵をとることができない。

船は風上後半部に波を被り(かぶり)、キャビンが洪水になった。

我々、米国人の乗組員が、操舵や見張りなど、
日本人当直士官のなすべきことを、全部やっている。

今朝、前檣のトップスルを畳む(たたむ)ことを日本人がやっとできた。

(あられ)や雪を伴った強いスコールが時々くる。
非常に強い嵐(あらし)となった。

午後1時、気圧は766。船は約9ノットで進んでいる。

風は今のままで、波がもっと低いとよいのだが。

万次郎は緯度を測った。北緯36度18分。
同じく万次郎が測った経度は、東経152度29分。

午後6時、気圧は770。午後8時、気圧は771。

時々、星が見える。しかし、雲の流れが早いので、
すぐに星は雲に隠されてしまう。

風は西北西だが、絶えず、強くなったり弱くなったりする。
また、突然、猛烈に吹きつけてくる。

海は非常に荒れている。

頻繁に、しかも突然に襲うスコールの間に、
船はとかく風上にそれるので、私は船を北に向けることが心配で出来ない。

(あられ)が降ってきた。モリソンは、今日、少し酒に酔っていた。

日本人たちは、完全に、我々に頼りきっているようだ。

このような深刻な状況でなかったならば、
日本人たちが、操艦のすべてを、完全に、我々米国人の2人〜3人に
委せきっているのを見るのは面白いことに違いないのだが。

この船の中では、秩序(order)とか規律(discipline)とかいうものが
まったくなかった。

我が国の海軍におけるような、きちんとした秩序と規律は、
日本人の生活習慣に馴染まない(なじまない)ものらしい。

日本人水夫たちは、船室で、火鉢と、熱いお茶と、タバコの煙管(きせる)
そばに置かなければ満足しないのだ。酒を飲むことも禁止されていない。

これに加うるに、命令はすべてオランダ語でなされるが、オランダ語の命令が
分かる水夫は数人しかいないのだ。

大部分の水夫は、どんな命令が下されたのかを理解できないで
仕事をしている状態である。


秩序と規律を欠いた毎日の仕事がどんな有様なのか、部外者にも想像できると思う。

勝艦長は、まだ寝台に寝たきりである。木村提督も同様である。

士官たちはドアを開け放しにしている。、それが風でバタンバタンと
煽られる。士官たちは、自分たちが使ったコップ、皿、ヤカンが
床の上を転げ回るに任せている。まったくだらしのない、散らかし放題の乱雑状態だ。

しかし、我々は、この航海は、彼らにとっては、生まれて初めての遠洋航海であり、
天候も悪く、また、彼らの教官はオランダ人だったという事を忘れてはならない。

日本の海軍は、どのような改革が必要であるかについて、意見を持っているのは、
全乗組員中、万次郎ただ一人である。

船内にあったオランダ製の調理場は取り除かれて、米を炊く2個の大釜が据えられた。
我々は、天候の許す限り、火鉢で炊事をしている。

今日、私は、御飯と塩漬けの魚を日本人たちと一緒に食べた。日本のお茶はすぼらしい。

ビナクル(羅針箱)の灯りには大変苦心している。油と芯が悪いのだ。
蝋燭(ろうそく)は不細工なもので芯の直径が1/4インチほどもある。

現在、我々は2段縮帆の大檣トップスルとフォアスル全部を揚げて、
6ノットから9ノットの速さで走っている。

晴雨計では苦労している。アディーは船が揺れるごとに1インチ程も上下する。
その上、1人の日本人がアネロイドのガラスに手をついて、つき破ってしまった。
私は、今、自室にその残骸を持っている。

他の日本人の1人は天窓を踏み破ってしまった。

今日、船は大波を被って(かぶって)、クロノメーターがもう少しで水に浸かる(つかる)
ところであった。えらい航海だ。しかし珍奇な事も悪くない。

私は日本の海軍を改革する事に努力しよう。そして万次郎を援ける(たすける)のだ。

第8日 2月17日 (旧暦 正月26日)

(ブルック大尉の航海日誌)
真夜中ごろに風が衰え、我々は午後5時まで進めなかった。
精密な天測をする。万次郎、友五郎と一緒に高度を測った。
私は万次郎の六分儀を調節してやった。

海はしだいに凪いで(ないで)きた。

木村提督が、わずかの間だが、甲板に出て来た。
彼は、長い間、船室に閉じ籠もっていたので、健康状態が極度に悪いようだ。

正午の緯度は北緯36度08分、経度は東経156度2分8秒。
南からの心地よい風がふいている。星が出てきた。積雲。

水温は正午に57.2度。気圧は午後7時には依然高く771。

日没に際しトプスルを二つ縮帆した。日本人は自分たちで縮帆できない。
我々が耳索(みみづな)その他をたぐってやる。

ケンダルは、まだ寝たきりの、勝艦長に薬を調剤した。

現在、海は全く静かである。船は北東微東に向っている。

私はあまり北に行きたくないが、海の具合で南航を余儀なくされることも予想し、
なるべく大圏航路で行かねばならない。

万次郎は風邪で具合が悪い。今日、豚を一頭を屠殺した。日本人水夫たちは
非常に面白がった。ちょっとした事が彼等を大いに喜ばせる。

第9日 2月18日 (旧暦 正月27日)

(幕末軍艦 咸臨丸 渡米記録)

27日は、暁(あかつき)より、南風、烈しく、
波浪、高く、甲板に打揚げ、一圓、水となつた。

午後より、風は西北西に変じ、夜に入るや、
益々烈しく、帆を畳み、これを避けんとすれども、
水夫、皆、疲労して、働くこと能わず。

船は、簸揚(はよう)して、半ば海に沈まんとし、
其の危険、言うべからず。

(ブルック大尉の航海日誌)

万次郎の天測では北緯37度04分。東経157度22分。

昨夜、すっかり暗くなる前に、風が南東微東から非常に強く吹いたので、
私は前檣トップスルを畳み、夜中にスパンカーと大檣トライスルを畳んだ。

午前10時ごろ北東に船を向けて波を避けながら(よけながら)
左舷中部甲板のボートを固く縛り(しばり)つけた。
我々は、このボートを何回となく流しかけた。
今ボートは、捕鯨船でやるように、半分ひっくり返えしになっている。
これはフランシスの救命ボートの一艘である。

太陽が雲から出た。風は南々東、または、南東微南から非常に強く吹いている。
友五郎は、今、緯度測定のために太陽の高度を測っている。

正午には北緯37度に入るだろう。この南東寄りの風が吹いても、
我々はまだ北寄りに進む余裕があるのは嬉しい。
私はあまり南に寄りすぎたと思っていたところだ。

左舷の船尾に小さな穴が空いている。
右舷開きで走ると、何時も、この穴が私の個室の床を濡らす(ぬらす)のだ。
サンフランシスコで徹底的な検査をすれば、腐った木材が何本か発見されるだろう。

ただし、これは、米国海軍の造船技師が、フェニモア・クーパー号を検査して、
この船は、まるで樫の実のように堅牢であると断言した時よりも、
もっと職務を良心的に行えばの話であるが。

午前9時、気圧は764。
午後1時には気圧は762。
午後2時、風が強い。太陽は出ているが、巻雲が空に散っている。
水平線には、雲の層の堆積が見られる。

ジョー・スミスの具合が悪く、役にたつ舵手は3人に減ってしまった。
海は非常に荒れている。強い風が南々東から吹き続いている。
この悪天候では料理をする事はまったく難しい(むずかしい)

夜がふけるにつれて、風はさらに強まり、激しいスコールが来る。

船は、今、帆が出過ぎているが、畳もうとすれば、必ず、
吹き飛ばされてしまうだろう。

(津本陽・著書『勝海舟』)

27日から28日にかけて大時化(しけ)となった。

27日の夜明け方から南風が吹きつのり、波浪は甲板を覆った。
午後から、風は西北西に変わり、夜になると烈しくなる一方で、
帆を畳もうとしても、水夫たちは皆疲れ切って働くことが出来ない。

船はうねりの上に持ち上げられては、横倒しのまま海に沈むかと見え、
危険は身に迫った。

第10日 2月19日
 (旧暦 正月28日)

(津本陽・著書『勝海舟』)
28日になっても、波が甲板へ打ち上げる音が凄まじく、
昇降口も終日閉ざしたままで、船内は闇夜のようである。
衣服、寝具はズブ濡れで、器具の破損する響きだけが凄まじい。
夕方になって風は西に変わり、ようやく和らいだ。

ブルック大尉たちは、万次郎と共に航海の経験を積んでいるので、
意気の衰えは無かったが、彼らも言った。
「これは20幾年来の大時化(おおしけ)だ」

(幕末軍艦 咸臨丸 渡米記録)
28日になりても、波の甲板へ打揚ぐること絶えず、
昇降ロも、終日、閉じたる儘(まま)にて、
暗夜の如く、衣服も寝具も、皆、づぶ濡れで、
器具の損傷する音が凄まじかった。

(ブルック大尉の航海日誌)

真夜中まで南々東の風が非常に激しく吹いた。
何度も、帆が帆桁から千切れる(ちぎれる)のではないかと思った。

午後12時(At12PM)雨が滝のように降ってきた。
空気が白く見える。

風は西に変り、やがて、また、強く吹き出した。
これが最後の変化だろうと思われるので私はホッとした。

3時に就寝(At3 turnd in)

正午から真夜中までに96マイル進んだ。

横になるやいなや、また、呼ばれる。

強いスコールがくる。

この日の夕方、私は日本人たちの無神経さ(apathy)に本当に驚いた。

暴風の兆し(きざし)がはっきり現われているのに、
ハッチをしっかりと閉めていない。羅針箱の灯りも非常に薄暗いままであった。

当直士官は船室に帰り、2〜3人の水夫たちが甲板にうずくまっていた。

私は万次郎を呼びにやり、やっとのことで、当直士官のみならず、
士官たち全員を船尾に呼び集める事に成功した。
彼等もやっと重大事態がわかりかけてきたのだ。

船はスコールにのって、船体のそこかしこで大きく震え(ふるえ)ながら、
暗闇の中を疾走している。

私は、
トップスルとフォアスルが、今にも吹き飛ばされるのではないかと思った。


真夜中、この凄まじい暴風の中で、船室にもぐっている日本人は、
砂の中に頭だけをつっこんで、全身を隠しているつもりのダチョウとよく似ている。

真夜中に、日本人乗組員中の最も有能な士官「空白で誰であったか不詳」
デッキに上って、形ばかりの当直を始めた。しかし、これは幸であった。

というのは、風が、突然、北西に変ったので、転桁が必要になったからだ。
もし、横帆桁をそのままにしておいたならば、船は横波を受ける事になったであろう。

正午。パテント・ログ 169.1/2

万次郎の天測によると
緯度 北緯39度22分
経度 東経160度04分

今日、我々は、食事の準備がたいへんであった。
船室内で、キャンプの時のように、火鉢で料理しなくてはならなかった。

昨夜、日本人が我々の豚肉を盗んだ。これは恥知らずの悪党の所業だ。
しかし、我々は、今、うまい家鴨(あひる)のシチューを作っている。

この3日間虹がよくでる。

推測によると、現在、緯度は北緯39度11分
経度は東経159度39分
天測による緯度は北緯39度22分
クロノメーターによる経度は東経160度03分

1日中ひどい波だった。
夕方、風は大体西微北。
灰色のカモメが沢山飛んでいる。

船は東北東に針路をとる。
身のひきしまる天候だ。

新しい前檣帆脚索を結びつける。

今夕、万次郎が、私に、士官たちの当直の組分けが出来たと報告した。
そうか、今まで、当直士官は決められていなかったらしい。
2月11日 (旧暦 万延元年・正月20日)〜2月19日 (旧暦 正月28日)・9日間の日誌は以上


(注:安政7年は3月17日まで、万延元年は3月18日から)

余は生まれて初めて、死の怖ろしさを眼前にした。
人々は皆死人のような顔色である。
米国人だけが談笑していた」

勝麟太郎の記録にも次のように述べられている。
海風は激しく、激浪は顔を打って前を向いていられない

針路は大体、北緯37、8度から43度で、風は常に西北風、
日光を見ることなく、日夜霰(あられ)雨雪が降り続き、
しばしば濃霧が周囲を閉ざし、一寸先も見えなくなってしまう。

湿気は合羽を透し、船の動揺は凄まじく、歩くこともできない。

出帆して後、洋中にあること37日で、その内、
日光を見たのは
僅かに5、6日であった。」



咸臨丸の太平洋横断往路において
操艦の指揮をしたのはブルック大尉

海洋探査の専門家として、ブルック大尉は幾つかの太平洋探検ミッションに参加した。
測量船フェニモア・クーパーの艦長としてサンフランシスコを1858年9月26日に出航、
太平洋の島々を調査し、1859年8月13日に横浜に到着した。しかし8月23日、
台風に遭遇して艦が座礁した。乗組員は全員無事で、積荷もおおむね回収できたが、
船体の破損は著しく、修理不能として破棄された。その後、ブルック大尉は横浜に滞在し、
創設間もない幕府海軍に対し、カウンセリング、および技術指導を行った。

1860年2月、幕府が米国に使節団を送る際に、一行を乗せたポーハタン号に加え、
その護衛という名目で咸臨丸が太平洋を横断することになった。

ブルック大尉は技術アドバイザーとして咸臨丸に乗り組んだ。
出港直後に嵐に会う不運もあったが、
日本人乗組員は、捕鯨船の副船長まで務め、太平洋航海経験豊富な
中浜ジョン万次郎を除いて

艦長の勝麟太郎海舟以下、日本人乗組員全員は、
激しい暴風雨荒れ狂う北太平洋航行する技量はまったくなかった。
しかも、勝艦長は、航行中、病気のため
艦長室に閉じ籠もって、デッキに出てこなかった。

ブルック大尉が、
やむを得ず、事実上の艦長として、操艦を指揮し、
米国人水兵10人を中心として艦を航行させた。


ブルック大尉は、このことを航海日誌に記載しているが、
勝海舟や日本人士官たちの名誉を傷つけることがないようにとの配慮から、
航海日誌を公開しなかった。さらに、
死後も、50年間、航海日誌の公開を禁じていた。

1960年、この日誌が公開されて、咸臨丸太平洋横断往路航行の実態が
明らかになった。

ブルック大尉の往路航海日誌・
第11日 2月20日
 (旧暦 正月29日)

西北西のそよ風が絶え間なく流れている。気圧は高く、上がり続けている。
雲が多い。積雲だ。波がかなりある。

トップスルの縮帆を解く。日没時、二つ縮帆する。

今日、私は、士官たちと水夫たちの担当部署を決め、当直を割当てるよう提案した。



しかし、予期しなかった困難にぶつかった。尉官級の6人の士官の中、
何人かは、船の航行に必要な職務内容をまったく知らないのである。
つまり、職務について、まったく無知無能なのである。

しかも、木村提督は、能力のある者を当直につけたがらない。
理由は、能力のある者の身分が低いからだというわけである。

結局、木村提督は、
誰にも担当部署と当直を割当てずに、現状のままにしておく
ことを望んでいる。

もっとも、木村提督自身も、船の運用に関して、何一つ知っていない。
彼は、私が船を動かすことができるのだから安心だと思っている。
それで、差当り、現状維持で、万事変りなしということになった。

とはいえ、私は、下船するまでに、この点を議論して何とか改めさせよう。

万次郎は、船の現状に、ひどくうんざりしている。
彼は、仕方なしに木村提督に従っている。

しかし、彼は、当直がどうしても必要だと、やっとのことで士官たちを納得させた。

私は、彼に、「もし、私が米国人の部下を当直から外し、米国人に船の
仕事をさせることを拒否したら、木村提督はどうするだろうね」
と聞いてみた。

(木村提督はどうすることもできないし、勝艦長は職務遂行不能状態なので)
「船は海の藻屑(もくず)となり、日本人乗組員は船室に閉じ籠もった状態で、
全員、溺死ですね」
と彼は答えた。

そして、万次郎は、
「自分は、あなたに見捨てられて、ここで死ぬのは無念です」と言った。

士官たちの間で、初めて、もめ事が起こり、勝艦長と木村提督の判断を
仰ぐことになった。

夕刻、私は、縮帆している船の絵を描いて、水夫たちに番号さえつければ、
縮帆等をさせるための配置がわけなく出来ることを士官たちに示した。
士官たちはこの絵の説明が気に入ったようだ。

万次郎は自由に話しているが、また同時に、何か不安そうだ。
彼はとても危険な立場にあり、もめ事や軋轢(あつれき)を避けねばならないと
何時も非常に用心深く振る舞っている。
2月20日の日誌は以上

参考サイト:ジョン万次郎資料館




往路航行中、30日あまり、
勝海舟は、
寝たきり状態であった



未来社ホームページ:『咸臨丸海を渡る』


本書は、咸臨丸に木村摂津守喜毅の従者として乗り組んだ長尾幸作
その後、土居咲吾淳良と改名の曾孫にあたる伝記作家の土居良三氏が、
長尾幸作の日記『亜行日記・鴻目魁耳』を基に、資料を詳細に参照して
書かれた本である。1994年に和辻哲郎文化賞を受賞している。

本文523頁。咸臨丸の冒険・太平洋横断に関心を持つ人の必読書である。

往路航行中、勝海舟は、病状重く、船室に閉じ籠もったままであった。

当然、艦長としての職務は何一つできなかった。完全に職務遂行不能状態であつた。

土居良三氏は、本書、及び『幕臣 勝麟太郎』(文藝春秋 1995年3月発行)において、
勝海舟が、咸臨丸浦賀港出航前の、さまざま困難解決に奮闘苦心した状況を
詳しく述べ、咸臨丸の往路航行中、勝海舟が、【寝たきり】であったことは、
やむを得なかったと、非常に好意的に述べている。

第135頁〜第141頁青字は勝・航米日誌、黒字は土居・著書)

遡って(さかのぼって)1月9日の勝の日誌を見てみよう。

9日、また再命、亜人、13日神奈川に来らざれば万事不都合、
期に後れんと、万事を置きて13日払暁出帆すべしの命なり。

この「再命」とは、その前4日の日に、咸臨丸は13日に出帆せよと
幕命があったとき、勝は、「船内の修造いまだ整わず、面々の支度整わざるもの
半ば」であるから、とても無理だと奉行を通じて断ったのに対して、
万難を排しても13日に出帆せよとの厳命であった。

「亜人」とはブルックを指すこと言うまでもない。

これは推測であるが、前にブルックが7日付の日記に、
「咸臨丸が一両日に横浜に来るとよい。ポーハタン号よりも早く、
少くとも1週間前に、出発せねば面白くない」と書いたことを
思い合せると、ポーハタン号の出帆を20日と見て、
その1週間前の、13日をギリギリの線として出して来たものと思われる。

実際にポーハタソ号が横浜を出帆したのは22日であるが、
正使一行が品川でポーハタン号に乗込んだのは18日であったからである。

咸臨丸に決まってから出帆までに20日間しかなかったこと自体無理であった。
赤松もその『半生談』の中で次のように述べている。
咸臨丸は神奈川入港の翌日、12月24日、早くも品川に回航して、
船体の修理、船具の装備、食料薪水の積込と、それからは、
昼夜の別なく、非常に多忙を極めて遠洋航海の準備を取急いで運んだが、
固より応急の事に過ぎなかった。

しかし、勝としては、命令に従わざるを得ない。
風邪で引込むことは出来ない。

勝は風邪を押して、翌々日、咸臨丸を見に行く。

以下、続いて『勝・航米日誌』より。青字は勝・航米日誌、黒字は土居・著書)

11日、船に到り一見す。
百物、甲板上に蝟集し、足をたつるの地なく、
俗吏は到らず教授方一人も到る者なし。何とも為す能わず。


積荷が乱雑に甲板に溢れ、足の踏み場もない中で、
勝が独り呆然と立つ姿が浮ぶ。

それでも、何とかしなけれぽならない。

この日より、勝は家に帰らず、積荷を点検して、
これを分配して、船底に収めて、固定させた。

初め、俗吏に請し、船内に積む処の諸品は、予め品物を区別し、
送り帳と受取帳とを定め、何はここ、彼は、彼処に何程、
何日にして何程を費せしというに到るまで、
簿に記して我に点見せしめよと、彼これを約しぬ。

しかるに、ここにいたりてこの事なく、しかも、
これを扱う俗吏、今にして、一人も到ることなく、
困難、はなはだしく、品物、重複、或は、到らざるもの多く、
如何ともなすこと能わず。

「如何とも仕難い」と、再々、嘆きながらも、
勝は、そのまま家に帰らず、水夫たちを指揮して積荷を整理させた。

赤松たち「面々」も、追々駆けつけて来たであろう。

12日、終日にして、稍、荷物片附きぬ。

夜に入り、奉行、教授方乗船、我、其の無律にして、
航海覚束なしというを論じぬ。

この12日の夜、幸作たち従者と共に咸臨丸に乗込んだ
木村奉行や士官たちを前にして、
「こんなだらしのない有様で太平洋の航海など出来るものか」
論難した勝の胸中を察すれば、まことに同情に堪えない。

風邪を治すには先ず静養であるが、
勝には、とても静養など出来る状態ではなかった。

季節も今日の陽暦で言えば二月上旬である。
風邪から胃腸をやられ、悪化したのであろう。

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出航前の荷物積み込みについて
植松三十里氏の『群青
(ぐんじょう)(文藝春秋 2008年8月発行)
第140頁〜第143頁には、
『勝・航米日誌』土居良三氏の記述とは正反対に
次のように描かれている。

矢田堀景蔵(幕末の幕府海軍創設者の一人で最後の幕府海軍総裁を務めた)
江戸と長崎を往復している間に、観光丸は小笠原諸島経由で、
サンフランシスコに向けて出航しているはずだった。

だが、矢田堀景蔵が安政7年の正月が明けてから江戸に戻ると、
観光丸はまだ品川沖にいた。アメリカ人の意見で、渡米艦が再度変更になり、
最終的には成臨丸で出航するのだという。

矢田堀景蔵は渡米艦の乗員選出には、いっさい関わらなかったが、
この時、初めて乗員の顔ぶれを知った。

木村摂津守が軍艦奉行、勝麟太郎が艦長、小野友五郎が航海方、
佐々倉桐太郎(ささくら・とうたろう)が帆前方をつとめるという。
医者や従者を含めて士分が26人、水夫や火夫が68人、
そしてアメリカ人が11人、乗員は全部で105人だった。

小笠原諸島を経由しなかったとしても、サンフランシスコまでひと月半はかかる。
その間、勝麟太郎と佐々倉桐太郎が狭い艦内で、ずっと顔を突き合わせて、
うまくやっていかれるのか。68人の水夫や火夫が暴動を起こさずにすむのか。

咸臨丸は今ごろ、まだ横浜で、石炭の荷積みをしている頃だと聞いて、
矢田堀景蔵の気持ちが揺れた。もう渡米艦には関わるまいと思っていたが、
もう一度だけ、木村摂津守や佐々倉桐太郎に会っておきたかった。
もしかすると今生(こんじょう)の別れになってしまうかもしれないのだ。
矢田堀景蔵は朝陽丸の錨を抜き、そのまま横浜に急行した。

案の定、成臨丸は、横浜で石炭の荷積みの最中だった。艀舟に乗り換えて
漕ぎ寄せると、木村摂津守や士官たちが、船縁から身を乗り出して迎えた。

「矢田堀、見送りかッ。よく来てくれたな」
木村摂津守が顔をほころばせた。そして出航までに間があると言って、
木村摂津守は矢田堀景蔵に、同乗のアメリカ人たちを引き合わせた。
ブルックという大尉以下、全員が太平洋横断の経験を持つ海軍軍人で、
信頼がおけそうだった。

だが紹介が終わると、佐々倉桐太郎が矢田堀景蔵に近づいて、不機嫌そうに
言った。「あいつらのおかげで、水夫たちは、えらい目にあったんです」

矢田堀景蔵が朝陽丸で長崎を往復している間に、ブルック大尉が観光丸の
検分をして、外輪船は太平洋横断には向かないと指摘したという。
その結果、渡米艦が再び変更になり、最終的に成臨丸に決まったのだった。

「だが外洋航海には外輪船よりも内輪船の方がいいのは確かだ」
矢田堀景蔵がなだめると、佐々倉桐太郎もうなずいた。

「それはわかってます。でも荷の積み替えが3度ですよ」

船の荷積みは重労働だ。米俵や長持ちを、ひとつひとつ艀舟で運んで、
綱で甲板まで引きあげ、さらに船倉までかついで運ぶ。

それを最初は朝陽丸に運び入れ、次に朝陽丸から観光丸へ、
最後は観光丸から成臨丸へ、すべての荷物を載せ替えたのだ。



「それもアメリカ人の意見だって聞いて、水夫たちが騒ぎ出して、
仕事を放り出したんです」

水夫たちが腹を立てるのも致し方ない状況だった。

「その時、騒ぎを収めたのは、木村さまでした。
木村さまは水夫たちに頭を下げられ、今度の航海は、御公儀の御威光を
取り戻す好機だから、どうか力を貸してくれと、懸命に諭されたんです」

矢田堀景蔵には木村摂津守の必死な姿が、目に見えるようだった。

佐々倉桐太郎は悔しそうに続けた。
その間、勝麟太郎先生は何をしていたと思いますか。

雲隠れですよ。
すべて木村さまに押しつけて、自分は出航直前になって現われやがって」

矢田堀景蔵は最後まで聞かずに言った。「佐々倉、わかってはいるだろうが、

こらえてくれ。長い航海だ。我慢が肝心だぞ」

「わかってます。今、ここでぶちまけたら、それで、この件は終わりです」
佐々倉桐太郎は笑顔を見せた。

「俺が乗らなきゃ、水夫たちは動かねえ。だから乗ったんです。
乗った限りは、だれが艦長だって、命令にゃ従いますよ」

矢田堀景蔵は佐々倉桐太郎の肩を軽くたたいた。
「佐々倉、無事に帰ってこいよ、必ず」

佐々倉桐太郎は冗談めかして応えた。
「勝麟太郎先生と同じ船で沈むのは、まっぴらですぜ。
あの世でも喧嘩しなきゃならねえ」



植松三十里氏の『群青(ぐんじょう)(文藝春秋 2008年8月発行)
第149頁〜第150頁は
勝麟太郎の病気
について次のように述べている。

井伊直弼の死が公表され、実行犯が捕縛されるなど、
桜田門外の変の騒ぎは尾を引いた。その最中に、
成臨丸は太平洋を往復して、無事、品川沖に帰ってきた。

矢田堀景蔵は番船で漕ぎ寄せて、威臨丸に乗り込んだ。
そして木村摂津守に心からの祝いを述べた。
木村摂津守から詳しい話を聞いて驚いた。

勝麟太郎は出航当時、熱病に冒されていたというのだ。
そういえば矢田堀景蔵が見送りに行った時、何か具合が悪そうだった。

勝麟太郎は船酔いだと言っていたが伝染性熱病であった。
伝染性熱病を隠して乗船したのだ。そしてサンフランシスコ
到着直前まで病気が回復せず、艦長室から出られず、
操艦の指揮も取れなかったという。

結局、往路の操艦の指揮はブルック大尉が取ったのだった。
それに反発した佐々倉桐太郎や水夫たちが操船作業を放棄した。
人間関係がこじれにこじれて、アメリカ人が短銃を取り出す騒ぎも
あったという。

そのうえ勝麟太郎が持ち込んだ伝染性熱病が
水夫たちに蔓延し、常に半数が寝込んでいたという。


結局、操艦は、ほとんど、アメリカ人まかせだったのだ。そして
サンフランシスコ到着早々、熱病の数人が現地の病院に担ぎ込まれた。
回復した者もいたが、まもなく塩飽水夫二人が命を落としたという。
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ブルックは、咸臨丸に乗船した17日、直ぐに気づいた。
「勝艦長は、何だか気分が悪いようだ」と日記に書いている。

勝は、それでも、航海にとって最も重要な水の積込督促のため
18日午後、上陸した。『勝・航米日誌』には次のようにある。
青字は勝・航米日誌、黒字は土居・著書)

16日、水到らず。我、上陸して水の可否を見る。
夜8時に至って終業。


浦賀での水補給の手配がうまくいっていなかったので、
湾内の小舟を総動員して、夜までかかって積込んだのである。
すべての準備を完了して、遠洋航海に乗り出したその夜、
勝は、遂に、病に倒れた。

我、10日前より風邪腹痛ありしが、
出帆前、多事なりを以て、病を養うの暇なく、
勉強して今日に到りしに、この風涛に当りて
発熱苦悩甚しく、亜船主(ブルックのこと)これを見て、
我、ここにあり、病に激して宜しからず、
必ず一睡して可ならんと、せわし立って置かず、
其親切なりしかば、臥床申に入りしに、
忽ち悪熱肉皮間に発し上発せず、
胸間閉塞甚しく、支体心の如くならず、
嘔吐せんと成すも能わず。

ブルックは、勝の様子を見て、自分がここにいるから、
構わず休めと親切に言ってくれたので、中に入って横になったが、
忽ち悪感がして発熱甚しく、胸がつまって身体が自由に動かず、
嘔きそうで嘔けないという容態であった。

10日前から風邪で腹痛があったが忙しくて養生する暇がなかったのである。

20日、21日、病苦先日に増し、殆ど人事を弁えず。
之に加えて、高涛、風強、人々、船酔いを発し、
然らざる者は、甲板上にありて万事を指揮するを以て、
唯、一人、問う者なく、両日、両夜の間、飲食を絶し、
船内に簸揚
(はよう)せられ、其の苦、生来かつて、
この如きをしらず。

万次郎と小野、浜口、福沢以外の日本人は総倒れであったから、
勝を見舞う者もなく、勝は、2日2晩、飲まず食わずで、
しかも、船の揺れはひどく、生れてこの方、
こんな苦しみは初めてだと、流石の勝も、気息奄々(きそくえんえん)であった。

そこに万次郎が姿を見せる。

22日、中浜生、粥1椀をめぐまる。これよりして、
同人、時々問尋、湯水薬等を与う。
また医生も来たつて、其病を察し、薬を与うこと、しばしばなり。

同日、下血なすこと1合はあり。これよりして、
胸間の愁苦、漸く軽きを覚えたり。
熱、神経に著せんかと日夜愁苦す。

23日、熱発せざるも、煩悶、先日と同じく、
これより2月2日に到るまで少し許りも食すること能わず。
蕎麦、芋等少々を食し食を継ぐ。

3日、吐剤を用ゆる二帖、大いに吐す。
ここに到って、熱、分離せしや、気分快を覚う。食べざるは同断。

この後、次第に快方に赴くといえども、
絶食、醤水の咽
(のど)に通さざる事一両日、
また、絶えて食気なし。

13、4日の頃迄、日々、わずかに蕎麦粉を泥し、
之を食すのみ。

故に
気力無く、精神もまた減耗し、絶えて人間に念なし

身心に余裕のある万次郎が気遣って見舞に現われ、
度々足を運んで同乗の医者も連れて来た。

病状を見て薬も与えられたが、なかなか良くならない。
その中、多少快方に向ったが食欲は全くなく、
従って気力もなく、精神的にも張りが失せて、
人間社会に係わる意欲も絶えて無いと、
これが、あの勝海舟の言葉かと思うほどの落込みようである。

その日誌を見る限りにおいては、この状態が2月の半ばまで続くのであるから、
37日の航海の中、約三分の二は、完全に病人であった。
以上

出典:植松三十里 『桑港にて』(第27回 歴史文学賞 受賞作)
第7頁〜第10頁 新人物往来社 2004年3月発行

毎朝、サンフランシスコ港には、決まって深い霧が立ちこめる。
昼近くには嘘のように晴れ渡り、湾内に投錨した咸臨丸の甲板からも、
緑の丘陵や島影が、紺碧の海を取り巻くのが見渡せる。

いつもなら2町ほど離れた埠頭から、丘に向かって、
まっすぐな坂道が伸びているのが見える。

目抜き通りのブロードウェイである。その両脇から煉瓦づくりの
美しい街並みが、丘全体を覆いつくすように広がる。

それが今は、すぐ隣の帆船さえ白く霞んでいる。
白一色の世界で、船縁に寄せる波音に、時おり、
かもめの鳴き声が混じる。

安政7年閏(うるう)3月も15日になるというのに、
首筋には冷気が流れ込む。

吉松は精桿な顔をくもらせ、オーバーコートの衿を立てた。

コートは先日、水夫全員に支給された毛織物である。
その下は黒木綿の筒袖に股引きという火消装束で、頭は町人髪、
足元は、やはりこの地で支給された編み上げの長靴(ブーツ)だった。

咸臨丸の甲板には、同じような出で立ちの水夫が集まっていた。

屈強な男たちの前に、小柄で羽織袴姿の勝麟太郎(海舟)が進み出て、
声を張り上げた。

「いいかッ、おまえたちは、こんな汚れた布団で寝ているから、
病気になるんだ」

勝は咸臨丸艦長である。その後ろには、水夫の船室から運び出された、
大量の布団が積み上げられている。

いやな臭いがして、かびだらけのものもある。
「こんなものは海に捨てろッ」

そう怒鳴られて、吉松をはじめ、水夫衆は一様にたじろいだ。
汚れたとはいえ、大事な布団である。
急に捨てろと命じられても、今後、寝具はどうするのかと困惑する。

勝が大声で続けた。

「今からブランケットというものを配る。いいか。今後は汚れた布団を使わず、
このハンモックという網を天井に引っ掛けて、ブランケットにくるまって寝るんだ」

勝の言葉を、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)が、かたわらの
若いアメリカ人に伝えた。チャールズ・ブルックスというサンフランシスコ在住の
貿易商で、入港以来、細々した必要物資の手配を請け負っている。

ブルックスは木箱から毛布を取り出し、笑顔で水夫衆に配り始めた。
公用方の小永井五八郎も手を貸した。

「ありがたく頂戴するのだぞ」小永井は、ひとりずつに声をかけて、手渡していく。
公用方は船の運航以外の、あらゆる雑用をこなす。小永井はそんな役目に相応しく、
何事にもまめな男で、少し下がり気味の眉が人のよさを表している。

吉松が頭を下げて受け取ると、水夫仲間の大助が近づいて、
不満そうにささやいた。

「あんな魚採りの網みたいなもので、どうやって寝るんや。
俺たちは魚並みか」と、憮然(ぶぜん)として言った。

「ハンモックは船室の床が水浸しになっても平気だ。
それにブランケットはイギリス製の毛織物で、1枚、2ドル半もする。
これだけで湿った布団よりもはるかに暖かい。
西洋の水夫は、みんなそうして眠る」

そして、いまいましげに布団を蹴りあげ、もういちど言った。
「こんな不潔な布団に寝ているから、病人が何人も出るんだ」

3か月前の1月19日、咸臨丸は幕府初の海外渡航軍艦として
浦賀を出港した。

2日後には波が高まり、翌日からは大時化(おおしけ)となった。

甲板は波をかぶり、船が傾くたびに、海水が川のように流れ込んだ。

咸臨丸は船室に下る入口(ハッチ)の防水が甘く、
梯子段(はしごだん)を伝って、滝のように海水が押し入った。

乗員は、士分が27人、水夫、火夫(かまたき)などが69人、
それに、操船指南役として、アメリカ海軍士官と水兵の11人が
乗り組んでいた。

アメリカ人と士分は、個室のベッドで寝起きしていたが、
水夫は、船倉の床に布団を敷いて雑魚寝だった。
そのために、浸水の被害をまともに受けた。

行李や長持ちの上に、布団と着替えを乗せて水を避けたが、
結局、何もかも、水浸しになった。

航海中、空が晴れる日は滅多になく、湿ったものを乾かす間がなかった。

まして、冬の大圏航路である。寒さは生半可ではない。
そんな環境で寝起きしたため、
水夫衆に、悪性の熱病(インフルエンザ)が流行った(はやった)

咸臨丸が過酷な航海を乗りきり、37日間の太平洋横断を終えて、
サンフランシスコに入港したのは、2月26日のことだった。

しかし、到着早々、熱病の重症者が、海岸沿いの海員病院に
担ぎ込まれた。

以来、サンフランシスコ滞在も2か月近くになる。
その間に、重症者のうち、2人が亡くなった。

今も、1人が重体、ほかにも、新たに6人が、帰国を前にして入院した。

浦賀を出てからの大荒れの航海で、
一時、艦長以下、士官、水夫まで、船酔いで、総崩れとなった。

その間、帆を操作したのは、ほとんど、操船指南役のアメリカ人だった。
日本人水夫の中では、大助と吉松だけが、アメリカ人に混じって
甲板の作業に出た。

参考サイト:歴史時代小説家・植松三十里(うえまつ みどり)の公式サイト



往路での乗組員は、日本人94人(96人であったとの説もある)、米国人11人の計105人であった。
米国上陸後、日本人11人が治療を受けた。まもなく、2人が死亡した。
航行中の悪天候と
初めての外洋航行で衰弱した水夫たちの間に熱病が蔓延した。その後、さらに1人が死亡した。
死亡者は合計3人であった。


咸臨丸乗組員たちにとってアメリカははるか遠い異国であった。死亡した富蔵、峯吉、源之助は
いずれも苗字を持たない身分で、志願したのではなく、幕府に雇われて乗り組んだのであった。
死亡した3人は、当時は、サンフランシスコ市街を見下ろす丘の上に葬られた。その後、墓地は
コルマに移された。コルマは墓の町。19世紀末、サンフランシスコ市の都市開発計画によって、
市街地にあった墓地は次々とコルマに移転された。現在サンフランシスコ市内に墓地を設けることは
禁止されている。コルマはこの地域の死者を一手に引き受ける墓の町となっている。

往路
品川−サンフランシスコ・・・・・航行距離 4,920海里:9,112キロメートル 航行日数 40日
帰路
サンフランシスコ−ホノルル・・航行距離 2,286海里:4,234キロメートル 航行日数 16日
ホノルル−品川・・・・・・・・・・・・航行距離 3,800海里:7,038キロメートル 航行日数 29日
出典:橋本進『咸臨丸 大海をゆく サンフランシスコ航海の真相』第199頁・第200頁 海文堂 2010年7月発行

参考サイト:著者 橋本進氏「咸臨丸、大海をゆく サンフランシスコ航海の真相」

万延元年3月18日(西暦1860年5月8日)、咸臨丸はサンフランシスコ港を出航して
帰路についた。帰路には、米国人5人が同行したが、日本人中心の航行だった。
往路とは違い、波も荒れずに順調だった。万延元年5月5日
(西暦1860年6月23日)
咸臨丸は、無事、浦賀港に入港した。


病気のためと、病人の看病・付添のために、サンフランシスコに残っていた残留組10人が
日本に帰国したのは翌年、
西暦1861年1月19日であった。


浦賀湾−観音崎一帯:高度約3000メートル上空のANA機より撮影


  (登り口-184段-咸臨丸碑・招魂碑-77段-頂上スポット-約1500歩-撮影適地)






愛宕山公園(浦賀園)−浦賀奉行所跡一帯(NASA衛星画像)


(以下にブルック大尉の往路航海日誌・日本語訳文全文を、
 本稿末に英語原文全文を記載)


出典:日米修好通商百年記念行事運営会・編
万延元年遣米使節史料集成 第5巻
風間書房 昭和36年8月発行 日本語訳文第81頁〜第119頁 咸臨丸日記
注:日本語訳文の一部は志村英盛が補稿。

咸臨丸航海日誌 1860年2月10日〜3月16日
                      ジョン・マーサー・ブルック
1860年 (旧暦 万延元年)

第1日 2月10日
 (旧暦 正月19日)

午後3時、浦賀港を出港。出港の際、日本船の間を縫って行く。
日本船が小帆で浦賀湾に入ってくる。右舷ウイスカーが落ちて流れてしまった。
浦賀湾の中で西南西の強い風に乗る。

午後8時15分、万次郎の推測によれば、城ヶ島灯台(1678年設置)
本船の北西約4マイル半になると。コースを西微南半南から南西に変える。
船は約4ノットで進む。船底の汚水bilge waterが臭い。海は穏やか。
風は西から北西に変った。日没後、雲が出たが、今は雲は北西方に散って
しまったようだ。

午後8時40分、城ヶ島灯台は6マイル北方になった。

午後10時45分、パテント・ログを投入した。船の位置を推算した結果、
コースを南西から「空白」に変えた。城ヶ島灯台は北々東13マイルになった。

勝艦長は下痢(diarrhea)を起し、木村提督は船酔い(sea sick)である。


2月11日〜2月20日分は前述



第11日 2月21日 (旧暦 正月30日)

緯度は39度45分43秒
経度は166度40分30秒

12時30分、左舷斜め後方に横帆装の船が見えた。
咸臨丸は東北東に向っているが、その船は北々西に向っているようだ。

夕方、4時ごろ、南東微東のそよ風が吹くまで、おだやかな、向きが
変りやすい風が吹いていた。

さっき見た船は我々と同じ針路をとっている。
多分、サンフランシスコに向う商船であろう。

薄暮、トップスルを2段縮帆し、舵柄を邪魔していた木切れやごみを掃除した。

今夕、私は、当直やトップスルの縮帆の時の水夫の配置を万次郎に教えた。

非常に強い風でも出ないかぎり、朝にはあの船は見えなくなっているだろう。

日本人の乗組員を効率よく配置することができそうな状況になってきた。

気圧が少し下った。好天気。風は強まりそうだ。

第12日 2月22日 (旧暦 2月1日)

真夜中に船の様子がおかしいのでデッキに行ってみた。
万次郎が指揮していた。

私は、彼に、ジブを降ろし、後檣と前檣のトップスルを巻き上げて畳むようにいった。
南東の非常に強い風がいまにも吹き始めそうだ。寝室へ戻った。

午前4時、大檣トップスルをいっぱいに縮帆し、フォアスルを畳む。

船は縮帆した大檣トップスルと、前檣の荒天用ステースルと前檣トライスルで走る。
荒天用ステースルが吹き飛ばされた。大檣トライスルを畳む。
船は前檣トライスルと、きつく縮帆した大檣トップスルで走る。

風に逆らって舵をとるのは難しい。
船首に帆をたくさん張り過ぎているからだ。
しかし、帆を吹き飛ばされると、船は風上に船首を向けて止ってしまうだろう。

夜明けに例の船が、きつく縮帆したトップスルと、
縮帆した大横帆で走っているのが前方に見えた。

今、即ち、正午には、例の船は大横帆を畳むか、進路をそらしたらしい。
私は、風が西か南に変るのを待ち、それから、うんと走ろうと思う。

今は雨が降っている。気圧は非常に低く、午後1時、740.8。

日本人たちは、確かに、外洋航行とは何かを学びつつある。

気圧は南東や北西の強風の時非常に変化する。

昨日正午の気圧はオランダ読みで775。

午後4時には742。風は南東微南から南西微南に変った。
気圧は変らない。

この船はきつく縮帆した大檣トップスルと前檣荒天用ステースルの場合、
船首を風上に向ければ見事に停船させることが出来る。

4時30分、船の方向を変えるために私はデッキに出た。
万次郎は私と一緒に来たが、他の日本人たちは命令してもテキパキと動かない。

さらに、悪天候について、あまりにも無関心で、デッキに出てきたのは
1人か2人だった。私は、彼らの他人任せの無関心に腹がたったので、
船室に戻り、モリソンに日本人たちが完全に部署に就く(つく)までは
船の方向を変えてはならないと命じた。面倒な事が起るかもしれないが。

間もなく、万次郎が降りてきて、皆をデッキに集めたと報告したので、
私もデッキに上って行き、船を北東微東に向けた。

3/4ポイントの変差がある。ログは午後5時、我々が方向を変えた時に
19マイル半を示した。

フォアスルを張る。気圧は、今、徐々に上昇している。

風は、今に、恐らく西から北に変るだろう。
安定した南東の疾風が西や北に変る。風の回転とでもいうか。

私は、時々、我慢(がまん)できなくなる。日本人たちの動作はのろますぎる。
日本人たちは、荒天候に対してまったく無経験である。しかも、
担当部署を割当てられていない。

従って、私は、万事にわたって、注意を怠ることができない。
また、できるだけ帆を少くして走行しなければならない。
腕のよい乗組員さえいれば、今でも、1段縮帆のトップスルと
トップガンスルで船を走らせることができるのだが。

まあ仕方がない。「確実にゆっくり」というのがよい考えだと思っていよう。

午後8時、西風。10時半、気圧は743.5。
西から強いスコールが来る。時々、星が見える。
帆はこれで充分。正午、ログは111マイル。正午にはセットせず。

第13日 2月23日 (旧暦 2月2日)

一晩中、西から強い風が吹いた。今朝、前檣トップスルを2段縮帆にする。
9時半 気圧 750.9
12時 気圧 750.9
ログ 141.1/2

昨日の午後5五時から131マイル進んだ。雪が降っている。

この24時間、船は、大体、東微北の方向に進んでいる。

12時45分、気圧が下り始めた。

風がこれ以上北にならなければよいが。
気圧が上昇しなけれぽ、このまま、西風が続くであろう。

第14日 2月24日 (旧暦 2月3日)

一晩中、西または西微北からのそよ風(breeze)があった。
今朝は大檣トップスルを解帆した。

気圧は非常に安定している。10時半には750.9。気圧は少し下がりかけている。
クロノメーターの寒暖計は53度で、これは平均気温なみだ。

空は雲に覆われ(おおわれ)、水平線は霞んで(かすんで)いる。

乗組員の当直も担当部署もまだ決まっていない。

今日、大檣の中檣帆桁を調整しメインスルを取り付けた。

我々は帆の出し入れに手間取って、ずいぶん時間を無駄にしている。
現在の気象状況では、トップガンスルを張り、メインスルの風下側の帆耳を
引いて半帆とし、スタンスルを張るべきなのだが、この船ではそれが難しい。
帆綱が滑車に比して大き過ぎ、しかも固い。縮帆部の滑車装置は滑りが悪い。

正午のログ、159。東微北に進む。
午前1時半、西から絶え間なく風あり。
午後、昼寝をした。トップガンスルを揚げ、それで走ることを考える。

午前1時半、気圧は750.65。
雲が多い。この黒雲はこの辺によく出るらしい。

船は大檣トップガンスルで着実に走り続けている。
前檣トップスルを一つ縮帆す。明日にはメインスルを張れるだろうと思う。

デッキに行ってみたら、年取った方のスミスが悲しい調子で歌を唱い、
水夫長や舵手に聞かせていた。

彼は歌を止め、自分はあらゆる手段で皆を元気づけているのだと言った。
恐らく、私が立ち聞きしていたと思ったのだろう。
また、彼が言うには、今夕、日本の士官たちは大檣トップガンスルを畳み、
トップスルを縮めるよう、彼にしつこく言ったそうだ。
それを、スミスは私に伝えたかったのであった。
私は帆を張っておくようにいった。

気圧は南と北の間の風の時は非常に安定しており、
風も西から一定して吹いてくるので、私は突発的なスコール等を
全然気に掛けていなかったからである。

とはいえ、もうすぐ明け方である。現在8ノットぐらい出しているだろう。

真夜中のログは82マイル。船は東微北に向っている。
今夜あたり経度は180度を越すと思う。

正午前、経度観測を行なったが、緯度が不明なのであまり自信がない。

今日で出帆してちょうど14日目である。
この航海の後半は前半よりよく走れることを望む。

ハッチはまだ当て木をしたままになっている。
日本人たちは、この間、船が波を被って(かぶって)から、
かなり外洋航行の経験を身につけてきた。

興右衛門が甲板にいる。
緯度を42度と仮定した時の経度観測は、正午に東経179度8分だった。

       

第15日 2月25日 (旧暦 2月4日)

午前10時30分、気圧は750.85。
昨夜はずっと、さわやかな西風であった。今朝は太陽が出ている。

視界は極めて良好であった。メインスルを取り付けるのに苦心している。

太平洋の日付線以東では天候は良いだろうと思う。

午前10時、ログは152マイルだ。
現在の位置は、北緯40度39分23秒。進路を東北へ取る。

今日、午前10時半と正午に天測した。
この2〜3日の万次郎の天測に、少し間違いがあるようだ。

少し遡って(さかのぼって)やり直さねばならない。

どうも、日本人操舵手はうまく舵をとれないようだ。

やっとのことで、我々はメインスルを取り付けた。
風下帆耳も結び付けた。

気圧が上昇している。午後7時には760.05になった。
風が弱まりつつある。風が止んでしまうことはあるまい。

勝艦長は、今日は、いくぶん、元気になった。しかし、
まだ、寝たままである。彼にスープとブドー酒を持って行った。
木村提督は部屋に籠もり(こもり)きりである。

日付変更 
第16日 2月25日 (旧暦 2月5日)

註。この時、日付変更線を過ぎたので、再度、2月25五日になっている。しかし、日本人たちの日記は、
すべて、日付変更を無視しているので、その後の日付は1日ずつ違っている。本航海日誌においても、
日本人たちの日記と対照する便宜のため、旧暦は2月4四日を繰返さず、旧暦は2月5日とした。


午前10時、気圧は760.7。
午後5時半、気圧は760.8。
昨夜は軽い西風が絶え間なく吹いていた。東微北半北に舵をとる。

正午、ログは134マイル。朝と夕方に天測する。
午前に緯度観測。午後に経度観測。

勝艦長は快方に向っている。今日、スープとブドー酒を贈った。
私が彼のキャビンの扉を開けた時、彼は寝床の上に坐っていた。
彼は、私に、非常に感謝しているようであった。

たいへん穏やかな(おだやかな)人で、今まで私は、こんなに穏やかな人に
会ったことがない。彼の声を聞いたことがない。

士官たちは、彼を非常に畏敬しているが、滅多に彼に近寄らない。

今日は非常によい天気だ。西北西から大きなうねりが来るだけである。
太陽が出た。木村提督はこの好天気を利用して荷物の整理をさせた。

木村提督は、今日、私の贈ったシナ・スリッパを履いてデッキに現われた。

我々は、今日、スタンスルの索具の取り付けを始めた。
私は準備を始めた甲板士官のところへ行き、次に、艦長代理のところにも行き、
モリソンに彼らの作業の手伝をさせて、彼らの作業を急がせた。
モリソンは、出会った士官たちと、甲板に出てきた士官たちに、
この作業を手伝うよう強く要求した。

士官たちは、このモリソンのうるさい要求から早く逃れるには、
作業をやってしまった方がよいと思ったらしかった。

そして、この我々の積極的な作業完遂方針がうまくいったことにより、
12時間得をしたことに、私は満足している。

今日、事務長が甲板に出て食料などの検査をしていた。

今夜、空は晴れているが、西の方に、北から南へかけて雲の堤ができており、
その端には巻雲がかかっている。雲の堤は段々層積雲になってゆく。

午後7時、気圧は760.8。

万萬次郎はこの4〜5日、身体の具合がよくない。
今朝、彼は緩下剤(Seidlitz Powder)を飲んだ。

琉球と清国の間を通う清国の商船は、島津藩が秘密に行なっている取引の
荷物は運ばない。万次郎は、度々、将軍から意見を求められている。

彼は熱心に米国人の手助けをしている。しかし、彼は、米国公使には決して
近づかないことを信条にしている。彼は、嫉妬(しっと)深い日本人に
中傷されるのを恐れて、自分のする事を他人に知らさないようにしている。

友五郎は優秀な航海士である。私は彼にスマーの方式を教えている。

午後10時15分、気圧は760.9。
午後10時30分。空はすっかり雲に覆われ(おおわれ)
風は次第に南微東に変ってきた。

低く、覆い被さった(おおいかぶさった)ような空は、東の方が西の方より
幾分明るい。

気圧は高い。今夜は天候が落着くまで、油断なく見張りを続けよう。
船は大檣トップガンスル、ジブ、メインスル等を出して走っている。
正午以降、平均4ノット半の速力である。

第17日 2月26日 (旧暦 2月6日)

午前9時、気圧は770.10
午後10時半、気圧は770.20
昨夜はずっと軽い西風があった。

夜が明けると、右舷側斜め後方の西微南半南の方向に船が見えた。
その船はローヤルスルを揚げて走っており、正午には下檣スタンスルの先端が見えた。
我々は、前檣の中檣スタンスルと上檣スタンスルを揚げる。
下檣スタンスルも張る。それからは、その船は追いついてこなくなった。
その船に最も近づいた時、檣の高度は5分00秒であった。

私は最初、ポーハタン号かと思ったが、ローヤルスルをはっきり見て、
そうでないことが分かった。

日没に上檣スタンスルと下檣スタンスルを畳んだ。

万次郎は病気だ。

今日、私は経度を充分に天測することができた。
午前中はうまくいったが、午後はあまりよくなかった。正午近く緯度を測った。

海は、西から小さいうねりがあるが、穏やかである。風もさわやか。

木村提督が起きている。
勝艦長に、スープとブドー酒を持っていった。朝食として玉子も持っていった。

日本人たちの舵のとり方が、あまりにも下手なので、
航跡を信頼して潮流を割り出すことが出来ない。

咸臨丸の砲座は重過ぎる。今のように、海が比較的穏やかな時は、
その影響を感じとることができる。船は嫌な(いやな)横揺れをする。
すなわち、一度傾くと、なかなか回復しない。船は、懸命に立ち直ろうとして、
不安定な無理なる横揺れをするのだ。

明日になれば、例の船と話をすることができそうだ。
私が思うに、あれは、21日に見たのと同じ船だ。
暴風の後で、あの船の船長は、帆を大きく張ることを恐れていたらしい。

午後12時30分、風は南ないし東に変った。

大檣スタンスルを閉める。完全な曇天だが、気圧は770.20と
高く安定している。

午後10時以後も変らず。水平線は遠く、あの船は見えない。

第18日 2月27日 (旧暦 2月7日)

夜中、ずっと南と東からのそよ風であった。

風上の船尾方向から、例の船がだんだん近づいてきた。

東南東からの変りやすい風は弱まった。
大横帆を揚げねばならない。例の船は、今は、風下の船首の方向になった。

航行を妨げぬよう距離を保つ。向うから信号してきたが、
こちらの信号辞典はオランダ語で、私は読めないから、返答することができなかった。

その船の船尾につく。その船は我々に追いつかれたくないらしい。

前檣・檣頭に米国国旗を掲げ、大声で挨拶した。向うから「ハロー」と答えてきた。
私は「風上に出て速度を落とせ」といった。向うが「何か用かと」と尋ねるので、
話がしたいと答えた。その船は、私の要請通り、風上に出た。我々は風下に行った。

この船は、香港から、サンフランシスコへ向うシナ人を乗せた、
ニューヨークのフローラ号とのこと。

フローラ号の船長は、デッキに群がっている乗客の騒音で、
私の言っていることがよく聞えないと嘆いていた。

フローラ号は、速力を落とすために大檣トップスルを操って風をそらした。
我々は、速力を落とさず、フローラ号が船尾の方へ来た時、方向を変え、
二艘の船はみごとに並行して走った。

私はフローラ号の船長に、日本の使節を乗せて10日に出帆したはずの
ポーハタン号の話をした。また、私の名前や、フェニモア・クーパー号の
9人の乗組員がこの船に乗船していることを話した。

船長は、もし、咸臨丸が先に着いたら、自分のことを報告しておいて欲しいと
言った。私も、彼に、同じ事を頼んだ。彼はよい航海を祈るといった。

私が、この船には、とても偉い乗組員がいるのだというと、
彼は、見たところ、本当にそうらしいと言った。

咸臨丸は、日本の船として、その上、蒸気船としてはなかなかよく走るというので、
私は、日本の船に負けるなと言ってやった。

彼は風の調子さえよければ負けはしないと答えた。

我々は、急速に、フローラ号を引き離した。南と東に変った風は、夕刻には、
フローラ号を我々の風上の船尾方向に持って行った。
最後に、フローラ号は我々を追い越して先に立ち、
現在では風下の船首方向にいる。フローラ号の灯りが時々見える。

日没にトップガンスルを畳んだ。あの船は香港から42日目だそうだ。
22日の嵐の最中に、我々を見たと言っていた。

今日、勝艦長が船室から出てきたが、まだ、弱々しく、デッキには立てない。

大砲の砲口栓を全部失くしてしまった。

今は午後10時15十五分である。東南東の風が吹いてきた。

船はclose hauledで、船首を北東又は北東微東に向けて走っている。



風は荒模様で、時々、さっと強く吹きつける。だんだん、積雲が雨雲に変わりつつある。

スパンカーを索で絞り、ジブを引き降す。約5ノット半の速力で進む。
気圧は770.25で変わらない。星が出ている。時折、南の水平線がはっきり見えてくる。
新月が、かすかながら、行く手を照らしてくれる。

日本人たちは米を炊いて、夜も昼も食べている。
我々は、今日、新しい豚肉を食べた。万次郎は豚肉を炭火で焼いたのが大好ぎだ。

風が東から北に変った。

サンフランシスコから800、ないし600マイルの所へ来た時に、
サンフランシスコと同じ緯度圏に到達しているのは賢明であったと思う。
今日は、不思議な程穏やかな波だった。

私は、今日、シャープスのライフルを練習した。
200ヤード離れたビンを8発目に割った。

年上の方のスミスが一番当直になっていた。
彼は、あらゆる種類の物語をして私を楽しませてくれた。例えば
囚人船に乗組んでいた時の話等である。

この年とった水夫は、自分の家のあるサンフランシスコに帰ることで、
すっかり有頂天になっていた。
「自分の家ほど良い所はない」というのだ。私も彼に賛成だ。

真夜中。今、空は、非常によく晴れている。星も、この上なく輝いている。
フローラ号は(最短路を)無事、航海していることだろう。

しかし、私は危険は犯さない。安全にゆっくり行こう。

とはいうものの、私は焦れったくってたまらない。
北東微北半北に針路をとる。

第19日 2月28日 (旧暦 2月8日)

風が吹いてきた。あいにく、東微北からだ。前檣と大檣のトップスルを二段縮帆した。
朝方、メインスルを畳む。海はあまり荒れていない。
9時半、メインスルを揚げる。天測をする。

勝艦長が起きてきた。彼は、私と一緒にワシントンに行きたいという。
それはよい計画だと答える。

太陽が霧で霞んで(かすんで)いる。視界ゼロ、何も見えない。

夕方、午後6時45分。今日は一日中、東微北から強い風があった。
朝のうち空は晴れていたが、今は曇ってしまった。
気圧は770.25から660.75まで下った。

船は二段縮帆トップスル、大檣トライスル、及びフォアスルで走っている。
気圧が下るに従って、風が南に変るとよいのだが。
フローラ号は北の方へ行ってしまった。今日は見掛けなかった。

万次郎と事務長が、今日、私に、木村提督の身分について説明し、
私の意見を求めた。

2人は、米国で、彼の身分を何と説明したらよいか考えつかないので、
木村提督の職務の幾つかを私に話し、意見を求めた。

第1、木村提督(Commodore)は神奈川奉行と同格である。
彼は日本の全海軍を指揮している。士官を選抜し、将軍の承認を得て任命する。
私は、木村提督は、幕府海軍の海軍長官(Admiral)であるとの結論を出した。

夕刻、船は北東半東に向った。私は、間もなく帆を大きく掲げることができるような
安定したほどよい風が吹くことに望みをかけている。雨が降っている。
気圧は午後11時半、760.6で安定している。

第20日 2月29日 (旧暦 2月9日)

一日中、靄(もや)が濃く垂れこめた天気だった。
風がだんだん変り、船の向きが北東微束となる。
午後になると、今度は風が止んでしまった。
東南東から大きなうねりがおしよせて来る。
暗くなって、北からそよ風があった。

12時、4ノットで進む。霧深し。

木村長官と勝艦長は、一日中、部屋に籠っていた。

船の傍ら(かたわら)を何頭かの鯨が潮を吹きながら泳いで行った。

日中、少しばかりの雨。

第21日 3月1日 (旧暦 2月10日)

夜のうちに風が止んだ。我々は、現在、舵効速度(steerage way)で航行している。
カリフォルニアの天候のような濃い霧と大波だ。

日本人大工に、棒付き雑巾の作り方を教えた。彼は私にオランダ製のものを
見せてくれた。まったく厄介(やっかい)で役に立たない代物だ。

風が期待したように吹かない。失望。我々の現在位置より南の方では、
よい風が吹いているようだ。水温は非常に低く49度である。

木村長官と勝艦長は、揃って部屋に籠もりきり(こもりきり)だ。

一昨日、私は、クロノメーターを全部、比較してみた。
2817番は10分早い。最も正確な7個の平均より、
10分も西の方に船を位置させることになる。

午後、しばらく凪いだ(ないだ)後、東からそよ風が来たが、
すぐに、また、南東微南に変った。霧が深い。

第22日 3月2日 (旧暦 2月11日)

濃霧。南東微南の風が吹く。まことに陰鬱(いんうつ)な日であった。
船は東微北半北に針路をとる。太陽が顔を見せるとよいのだが。
この、じめじめした、霧深い天気は非常に不愉快だ。

私は風邪を引いた。

昨日、飲料水を検査した。10のタンクの水を使い果していた。
13個のタンクの水は全部残っている。

今吹いている東からの風はまったく頑固(がんこ)だ。
何時までたっても風向きが変らない。

夜、強い風が吹いてきたが霧はまだ深い。
月は、どうやらあたりが見える程度の明るさ。
トップスルを一段縮帆し、メインスルを畳む。

風がすっかり穏やかに(おだやかに)になった。

約5ノット半の速度で進む。
退屈な航海になってきた。新しく体験することが無くなった。
港は、まだ、遙か(はるか)彼方(かなた)であるが。

我々は、多分、ヒアワサ号を求めてヴインセンス号が調査した地点の近くを
通過するだろう。

第23日 3月3日 (旧暦 2月12日)

今朝、風は南と西に変った。帆の縛りを解き(shaking out reefs)
トップガンスルの桁を装備して帆を張り、スパンカー、メインスル、
及び右舷前柱の中柱スタンスル等に帆を張り、帆を拡げる。

これから、日本人たちが、トップガンスルの桁を下ろさないよう気をつけよう。
トップガンスルの桁の装備に時間がかかりすぎる。

3月1日、私と、勝艦長・士官たちと、私の指図について話し合いがついた。

これまで、日本人士官たちがあまりにも無能力であったため、
私自身が、常時、状況の変化を警戒しなければならなかった。
また、私の米国人の部下を当直に立たせなければならなかった。

向い風になった時、私は士官たちに、針路変更の技術を教えようと申し出た。

ところが、彼らは、非常に物ぐさで、あれこれと言い訳をして、
デッキに出て来ない。
(つまり、ブルック大尉の指図に従わないということ)

そこで私は、米国人部下全員を集め、私の承諾なしには何もするなと言い渡し、
彼らを船室に入らせた。

そして、勝艦長に、士官たちが私の指図に従わないなら、
私は、もう、この船の面倒をみないと申し入れた。


勝艦長は、士官たちに訓辞して、

(事実上、勝艦長は艦長としての職務ができないので)

私が艦長として指図することを正式に認め、
士官たちに、正式に、私の指図に従うよう命じたので、

私も当直をデッキに送った。
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志村注:
帆船遠洋航海時代、一般的に、時化(しけ)のような悪天候時の
操艦・操船の指揮は、艦長・船長、あるいは副艦長・副船長が行うが、
天候も海も、比較的安定している時は、操艦・操船の指揮は、
当直につく上級士官に任せられる場合が多い。

ところが咸臨丸の場合、勝艦長も、
万次郎・小野・浜口の3人以外の
上級士官たちも、
完全に職務放棄の状態であった。

鋭い観察眼を身につけていたブルック大尉は、

上級士官たちの職務完全放棄の原因
は、
彼等の技量不足と大洋航行未経験だけではなく、
勝艦長に対する強い不信感によるものと見抜いていた。
また、木村提督と勝艦長との不和も見抜いていた。

原因はどうあれ、職務完全放棄は許されることではない。

ブルック大尉は、浦賀出港直後から頻発した暴風雨は、もう起こらないと
見極めた上で、
帰路の航行のことを案じて、この時点において、

木村提督、勝艦長を含めた上級士官たち全員に、
反省・自覚させるため、

このような強い申し入れを行ったものと思われる。

ブルック大尉の強い使命感に深い感銘を受ける。

出典:橋本進『咸臨丸還る−蒸気方 小杉雅之進の軌跡』
第3頁 (中央公論新社 2001年1月発行)

ブルック大尉はサンフランシスコで下船することになるが、
彼はそれまでに、咸臨丸の復路航海−日本人のみによる
初めての北太平洋横断航海−を憂慮し、
往路航海の途中から綿密な計画をたてて、
咸臨丸乗組員に対するシーマンシップ教育を実施した。

またメーアアイランド海軍工廠
(海軍艦船の建造・修理や、
兵器・弾薬等の軍需品を製造修理する海軍直属の工場)
での
咸臨丸の徹底修理を司令官に依頼した。

さらに、咸臨丸士官たちに、復路の航海計画まで指導していた。

このことは、ブルック大尉の『咸臨丸日記』と、小杉雅之進の
復路の「航海日記」原文を解読することによって明らかになった。
日本人のみによる初の北太平洋横断航海成功の裏には、
ブルック大尉の綿密に計算された布石があったことを見逃してはならない。

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晩。前檣の中檣スタンスルを掲げるのに丁度よい強さの南東微東の風が吹いた。
海が非常に穏やかであるのは霧のためであるかもしれない。
私はいつも霧が海を和らげ、穏やかにするのを観察する。

船は約7ノットの速度で進んでいる。
日本人の使うオランダ・ログによると9ノットである。

航行に好都合な、よい風を期待できそうだ。
1日に160マイル走行できれば、12日以内にサンフランシスコに
楽々到着できる。

フローラ号は、我々の北方にいると思われる。そして、
この南東の風が続きさえすれば、フローラ号に大きく差をつけられるはないだろう。

木村提督と勝艦長は、まだ、自室に閉じ籠もっている。
木村提督の方は、今夕、2〜3分、デッキに出て来た。

よい月夜だ。霧が深い。

第24日 3月4日 (旧暦 2月13日)

気持のよい夜だった。風はだんだん西風に変った。

午前8時、東半南に向っている船の左舷の方向から激浪が押寄せた。

沢山のアホウ鳥が飛んでいる。日本人が一羽捕らえた。

ほどよい風だ。すべての帆を揚げて6ノットで進む。

この良い状態を保ちながら、船を走らせていきたいと思う。
もっとよい風に恵まれそうだ。

午後観測。正午のクロノメーターによる経度は、西経160度26分。

日本人たちは、彼らが身につけているやさしい心から、
捕らえたアホウ鳥を逃がしてやった。立派な特質である。

我々は、現在、サンフランシスコから約1,650マイルの所にいる。

第25日 3月5日 (旧暦2月14日)

朝のうち、風はほとんど凪いで(ないで)いた。
空は晴れ渡り、素晴しい太陽が輝いた。
日本人たちは、この機を利用して寝具類を干した。

南と東から吹き始めた風が、日中、次第に強まり西に変った。

真夜中、南西の風となった。月の周りにカサがかかっている。
空は曇っている。海は非常に穏やかである。

右舷の下檣スタンスルを張った。

万次郎は、日本の西海岸には、よい港がいくつもあると言う。
しかし、幕府の直轄領地ではないので、大名が港を(外国に)開きたいと
望んでも、将軍は、それが直轄領地でないので許さないとのことだ。

我々は、浦賀に建設したいと思っているドックについても長時間話し合った。
浦賀湾は広く、7〜8尋(ひろ:1尋は約1.8メートル)の深さがある。
岸の近くでも3尋はある。

第26日 3月6日 火曜日 (旧暦 2月15日)

一晩中、よい風が吹いた。
正午、ログ、121マイル。東微北(コンパスによる)に針路を取る。
霧が深く、鬱陶しい(うっとうしい)天気だ。

船は約6ノット半の速度で走る。
プロペラの位置がわるく、十分に水を掻きわけている状態にない。
プロペラの羽根が船の速度を落とし、その傾斜が舵の働きを妨害している。

私は、勝艦長に、サンフランシスコで、プロペラを十分に働かせるため
改良工事をするよう提案した。

大檣、中檣、上檣の索具を装置する。スタンスルを張る。
下檣スカイスルは一晩中張っておいた。
経度は155度55分
緯度は42度09分

夕刻。風が、相当強くなってきた。だが、安定して南西から吹いている。
霧が晴れ、雨雲が満月のそばを非常に早く流れていく。

下檣スタンスルが下桁を持ち上げているので、その帆を畳んだ。

空気が比較的乾燥しているので、海が荒れると予想されるが、
帆を畳まないで行こう。両方の檣の上檣および中檣のスタンスルは、
神の加護が続くかぎり(as long as providence permits)、付けたままで行こう。
何故なら、私はできる限り早くサンフランシスコに着きたいのだ。

万次郎がデッキにいる。羅針箱の灯が二つとも消えてしまったが、
その灯りが再び灯される(ともされる)まで、
彼は月の光で実に器用に舵を取っていた。

プロペラの羽根が、水中に深く入っているので、
それが船体をかなり震動させている。
もし、あれが水に触れていなければ、もう1ノットか1ノット半位、
早く進めるだろうに。

この船には、随分多くの改善すべき点がある。帆は、すべて、
帆桁に対して小さすぎる。さらに、新しいボート、帆脚索等のための
木釘(cavels for sheet braces)、新しい大砲(battery)などが必要だ。

しかし、別の観点から見ると、咸臨丸はとても優れた船である。
頑丈な、よい海洋船である。私は、プロペラの羽根が、船の操舵を
それほど妨げないのに驚いている。

気圧が少し下りつつある。アブストラクト・ログに記録した。

万次郎は、江戸で、砲艦として使うため、36ポンド砲を装備した
小型スクーナーを造った。

鹿児島では、小型蒸気船が造られたと。
日本人は、鉄より銅を扱うのが得意だ。
万次郎によると、勝艦長はこの船の鉄のボイラーを銅のボイラーに
取り替えたいと願っているとのこと。

真夜中。海が荒れ出した。スタンスルとスパンカーを畳む。

正午より90マイル進んだ。

第27日 3月7日 (旧暦 2月16日)

あけ方、風が西微南に変り、次に西に変った。
左舷中檣のスタンスルを張る。風は次第に北に変わりつつある。

正午、北緯41度56分
西経151度21分

午後7時、風は北西に変った。スタンスルを畳み、午後10時には
トップガンスルを畳む。雲が流れ、雨を伴った軽いスコールが来る。

この24時間、船はよく走り、181マイルも進んだ。

今は真夜中に近い。極めて快調。今、船は進むべき方向に、真直に進んでいる。
北や西からの風が強い。

第28日 3月8日 (旧暦 2月17日)

北西から強いスコールを伴った風が吹き出した。

左舷前檣の中檣スタンスルの下桁が吹き飛ばされた。

新しいのを出して、それに帆を付ける。

海は荒れている。海が浅い海のような色をしている。

4時半、私が、ちょうど、経度を算出し終った時、
友五郎と何人かかが、「陸が見える」と言いながら、
非常に興奮して、私の部屋に飛び込んできた。

私はデッキに駆け上った。

すると檣頭から下りてきた、私の部下のフランク・コールが、
自分も、右舷船首に、低い陸と白波を3個所見たと言った。
それから、風上の左舷船首にも見えるといった。

そこで、私は船を下手廻しにし、スタンスルを下し、
帆をすべて正常に直した。

何か危険なことが起こったのかと、日本人たちがデッキに上ってきた。

私は、風に乗って、船の針路を南微西に取った。それから、檣に登った。

ジョー・スミスは、風下の方角に低い陸地と砕ける波が見えると
言い続けていたが、私が双眼鏡で見たところ、水平線のあたりが
やや白く見えるだけで、陸を見つけることはできなかった。

何羽かの鳥が見えた。通り過ぎた雪のスコールのためか、
はっきりと見えるものは何もなかった。

私は、船を2マイル半だけ南微西に進め、
そこで再び下手廻しにして、もとの東微北のコースに向けた。

これで、もし、暗礁(reef)があれば、船はその傍(そば)を通るはずだ。

その方角の空は幾分晴れてきたが、波の砕けるのや陸地らしいものは
何も見えなかった。

皆も、もし陸地があるなら、コース変更で、はっきり見えた筈だということを認めた。
(陸地はなかった。誤認であったということ)

今は午後九時ごろであるが、風は北又は東に変り、船は方向を東微南にとる。
しかし、この後、風は東に変り、再び強まるだろうと思われる。

先刻、陸が見えたという報告を受けた時、私はジョン・ロジャースが探していた島
ではないかと思った。われらの発見という希望を持ったが、多分、雪スコールだった
のだろう。

雲は濃い積雲で、低く垂れこめている。

第29日 3月9日 (旧暦 2月18日)

真夜中、強い嵐になった。
左舷の真横と右舷の船首に真黒なスコールが見えた。

トップガンスルとメインスルを畳む。

今夕、風は、北西ないし西の、変りやすい風で、雪や霰(あられ)を伴う

スコールが来る。トップガンスルとメインスルを、また、拡げる。
11時、メインスルの風上側の帆耳を引上げる。東微北に針路をとる。

第30日 3月10日 (旧暦 2月19日)

夜中に風は弱まった。しかし、風向きが変りやすい。北西から強いうねりが来る。
正午、東微北から吹く風は、次第に船の行く手を遮る(さえぎる)ので、
針路を西向きにする。

正午、私の天測によれば、北緯40度19分、西経141度53分である。
北西の水平線上1度の高さにある

高さにある一か所の晴れ間を除いて、重苦しい嫌な色の雲が空を覆っている。

船は北西に向かっている。
船を下手廻しにして、次第に、南へ、さらに東へと向きを変える。
気圧は740.7。非常に荒模様の空である。

トップスルを2段縮帆し、フォアスルも縮帆し、メインスルを畳み、
ジブを下ろし、前檣の中橋ステースルと大檣トライスルを張る。

船は次第に方向を正し、午後7時、東微南に向う。
小さい低気圧らしい。もしそうなら、その南側を東方に向って
船を進めよう。

今夕、フォアスルを縮帆しようとした時、私は、特に万次郎に、
最初にメインスルを引くように頼んだ。彼は士官たちにそのように言ったが、
驚いたことには、私が第一に見たのは、フォアスルが引かれたことだった。

咸臨丸は、風上に向って突然方角を変える癖(くせ)がある。
船が廻りかけた時、危機一髪、危ないところで、私は舵手に注意することが出来た。

メインスルの帆綱を緩め(ゆるめ)、舵を強く取った。
そこで、日本人たちが帆を引き上げた。

今、雨が少し降っている。スコールを除けば、今日の大気は大変澄んでいた。

北西の水平線に積雲の頂きが見えた。風は強くならず、雲も今までより薄い。
この季節には、嵐に出会す(でくわす)ことがよくある。
それに備えねばならない。

今、だいたい、午前2時。
たいへん強い風が来た。第1当直の時に前檣のトップスルを畳む。

左舷船尾に風を受けて走る。大檣のトップスルを縮帆して、トップスルと
大帆桁をまわす。

フオァスルを畳もう。そして、この強風が衰えるか、風向きがよくなるまで、
船を止めよう。

雨。万次郎が出てきた。寒さを防ぐため、薩摩芋(さつまいも)の
お粥(おかゆ)を食べている。スメドボルグが登檣している。

第31日 3月11日 (旧暦 2月20日)

夜の中、非常に強い風があった。
強風は、午前4時、北西に変った。
6時、総ての(すべての)帆を揚げ、思いきり風をはらませた。

波が荒い。日中、風が弱まった。夕刻、黒雲が出てきた。
風向きの変りやすい風が吹く。気圧はゆっくり上昇している。

東微北に針路をとる。真夜中、トップスルで走る。天候が定まらない。
昨夜のは本当のサイクロンであった。

第32日 3月12日 (旧暦 2月21日)

昨夜は、ほとんど風がなかった。朝方、風が吹き出した。
午前4時ごろ、風向きが定まったので、すぐに帆を揚げた。
午前中は、大体、西風であった。その後、風は、南西微西の風に変った。

日没直前、激しいスコールが来た。帆脚索を引き、上舵に取り、
大檣トップガンスルを下ろし、前檣の中檣スタンスルを畳んだ。

運よく、我々は、他の中檣スタンスルと前檣トップガンスルを
少し以前に畳んででいた。今まさに、沈まんとする太陽の光を通して、
スコールを見た。素晴らしい忘れられぬ景観であった。

午後8時、空は雲一つなく晴れわたっていた。

真夜中、空は完全に雲に覆われ(おおわれ)
風が強まり、嵐の様相だ。気圧は高い。

メインスルを畳み、トップスルを2段縮帆し、前檣トップスルを畳む。
これで、この強い追風に対して、丁度よい帆になった。
この小雨が海を鎮めてくれることを願っている。

咸臨丸は帆の操作をするのが難しい船だ。
滑車が綱に対して小さ過ぎる。潤滑油が全く不足している。
トップスルの帆桁受けには輪型ローラが付けてある。

縮帆している間、万次郎はデッキにいた。登檣していたコールと
スメドボルグとの間に、何か強い語調のやりとりがあった。

舵を取っていた年上のジョー・スミスが、霧の中から昇ってくる
月を見て、舷側に寄って来る船の灯りだと思ったのだ。

彼があまりにも大声で叫んだので、私は、ほんの一寸、
船室に入っていたのだが、そこまで、彼の声が聞えてきた。
私はデッキに急いで上っていった。

灯りが、霧の中から、ギラギラと、こちらを睨んで(にらんで)いる
ようだったので、あわてて、上舵を取り、警告灯を相手に示す準備をした。

私は、日本人士官が、ハッチを上ってくるのを掴えて、
その着物を、もう少しのところで、破るところだった。

私は、彼に警告灯を取って来て欲しいと言いたかったのだ。

ラッパを取ろうとした時、私は、突如、その灯りは、
(寄ってくる船の灯りではなくて)月の光であることに気づいた。

昔、ジョーンズ提督は、フリゲート艦に乗っていた時、
木星を見て、(それを敵艦の灯りと見まちがい)
乗組員を戦闘部署に着かせたことがあった。

真夜中までに75マイル進んだ。あまりにもスコールが多いので、
帆を多く揚げていることが出来ない。

私はお茶を一杯飲んだ。これから寝よう。日本のお茶はすばらしい。
このお茶は、輸出のために作ったものではなく、最高級品だ。

第33日 3月13日 (旧暦 2月22日)

あけがた、風が和わらいだ(やわらいだ)
南西微西からの風が絶え間なく吹く。

トップガンスルと前檣の中檣スタンスルを張る。
ジブの下桁は、先夜の嵐で、ひどく裂けたので、
ジブをあげることができない。下桁はもう駄目だ。
この船の船首の操帆装置はまったくお粗末だ。

私の天測によれば、正午に、緯度は北緯39度28分である。
昨夜、我々はリードの岩の約120マイル真北を通過した。

水が通常以上に暖かい。正午には54度であった。
思うに、南西からの潮流があるらしい。

ゴニーが幾つか飛んでいる。舵柄の鎖があまりにもすり減っているので、
今日、私は、舵の鎖に索具をつけて、舵柄の鎖が切れた時に備えた。
すばらしい風だ。積雲が飛んで行く。ジブを付けられないのが残念だ。
正午、ログは158.1/4マイル。海は少し荒れている。

万次郎が言うには、彼がかつて指揮していたスクーナー船は、
1854年、戸田において、ロシア人が造ったものだそうだ。
その船は一番船」と呼ばれていると。

咸臨丸70,000はオランダポンドの石炭を積み(英トン32.77トン)、
1日に12,000ポンド焚く。

午後11時30分、南から疾風。大榴トップガンスルを揚げる。
どんよりした、雲の多い空模様。この風が続くとよいが。

日本人士官たちは真夜中に食事する。デッキに火鉢や座ブトン等を持ち出し、
テーブルに向わず、テーブルの脇に坐り込み、お茶や他の暖い飲物を飲み、
大根、米、魚、菓子等いろいろな物を食べる。

船は約8ノットで進んでいる。灯はよく燃えている。

第34日 3月14日 (旧暦 2月23日)

日中、南および南々東からそよ風が吹く。海は穏やか。
正午、私の天測によれば、ファラロン諸島より375マイルの地点にいる。

第35日 3月15日 (旧暦 2月24日)

南から心地よいそよ風あり。

正午、南ファラロンより245マイル。アレナ岬よりは190マイル。

風は船を北東微北に向ける。鬱陶しい(うっとうしい)雨模様。
朝と正午、いずれの天測時においても、太陽を観測するのが困難だった。
北西から、かなり大きなうねりが来る。

私は、温度の変化に伴って起るクロノメーターの誤差の図表の構造を、
万次郎に説明した。彼にコピーを与える。

万次郎は、将軍が、江戸の米国公使を通じて、私に贈物をするだろうと言う。
私は、そんなことを期待して来たのではないと答えた。

木村長官も、他の士官たちも、もう直ぐ、サンフランシスコに到着するという見通しに、
大変、元気になった。

ポーハタン号は、8日か9日前に着いているだろう。
フローラ号は、多分、我々のことを報告しただろう。

我々は灯りを明るく灯し続けている。
この、どんよりした、霧の深い天気では、油断のない警戒が必要だ。

第36日 3月16日 (旧暦 2月25日)

夜のうちに、風に針路をそらされ、午前6時ごろには、
船は、北々西に向っていた。

上手廻しに針路を変える。風は次第に北に変っていく。
午前8時、東微南に針路を取る。

一日中、素晴しい風。

午前と午後に天測をした。12時20分過ぎ、緯度をはかる。

帆を最大限に拡げ、西の方へ向っている二艘の船とすれ違う。
多分、オレゴン行きの材木運搬船であろう。

雲のような濃霧。午前中に雨。

明日、サンフランシスコに着くという予想に、
日本人たちは、大変、陽気になっている。

中檣スタンスルを付ける。

日没直前、風が非常に強まった。
トップガンスルを畳み、煙突を立てるためにメインスルを取り外し、
トップスルを二段縮帆し、プロペラを下し連結した。

午後6時、北ファラロンより15マイルの地点にいた。

万次郎が、私の部下の名前と、階級を調べに来た。
彼に教えてやる。彼は帰国する咸臨丸のために、
米国人乗組員を8人雇いたいと言う。

コールとスメドボルグは行くという。勝艦長は、何事かを、
心配しているように見える。

ブルック大尉の航海日誌は以上





出典:
第130頁

同年12月20日、乗組諸士の俸給が定められた。

教授方頭取   1日 金 壱両と永126文
教授方      1日 金 3分
教授方手伝い 1日 金 壱分と永125文

同晦日(みそか)には、水夫等の手当も定まり一同へ渡された。

万延元年正月12日、木村摂津守等は、登営、暇乞し、
それより操練所に集まって、薄暮、端舟を出し、
品川沖の咸臨丸に着せしは、夜の第8時であった。

乗員は、初めての遠洋航海なれば、生還も期し難く、
家族と水盃を交わして立ったのである。

翌13日午前11時より蒸汽を焚付け、
1時に錨を揚げ、横浜へ向け出帆すれば、
朝陽丸には指揮役、矢田堀景蔵、其の他の士官等、
告別のため、横浜迄見送り、夕7時頃、また江戸へ向け帰帆した。

木村摂津守は、神奈川奉行、竹本図書頭に書を贈って、
米国測量船の人々を速やかに乗船させるよう促した。

吉岡勇平を運上所に遣わして其事を談ぜしめた。

然るに、翌日は日曜日で、米国人の荷物積入は出來ず、
14日積入るべしとの米国人等の返事であつた。

第131頁

1月14日、神奈川奉行は、ブルックを奉行所に招き、
「今度、大尉に、咸臨丸水先を委嘱致し候に就いて、
柳営より、その委託の印として、目録の通り賜る旨なり。
今、之を、付予せんため招きたり」とて、船将ブルックへは
白木の台に、白鞘刀一口、縫箔絹三巻を載せたるを、
士官には、大和錦二巻、蒔絵食籠一個、水夫等へは、
郡内縞二反宛、鶏三十羽、野菜一台壷を賜ったので、
ブルックは、深く恩を謝して退いた。

此日米人等一同乗船につき、ジョセフ・ヒコは、
米国領事の命にて、咸臨丸に出張、通弁をつとめた。

ヒコは、此時、木村摂津守、勝麟太郎、及び通弁の
中浜万次郎等に面識となつた。

元米国測量船フエニモア・クーパー号の残員は、
15日午前10時に咸臨丸に乗込んだ。
其の人々は、

甲比丹    ブルック大尉
図工士官  デー・エム・カーン
事務長    チャールス・ロージェル
砲手     チャールス・ファルク
外科医    ルシアン・ヱッチ・ケンダール
水兵長    チャールス・ヱム・スミス
賄方     ダビッド・バルク
舵手     アレキサンダー・モリソン
帆縫工    フランク・コール
水夫小頭  ジョルジ・スミス
水夫小頭  アケール・ランドバーグ
合計11名

第132頁

船は午後1時に浦賀へ向け出帆、5時に同港に錨を下ろし、
薪水、野菜等買入のため一両日停船した。

此処は、佐々倉、山本、浜口、岡田等の郷里故、
速に上陸を許し、帰省せしめた。

水夫等も、交代して上陸を許し、また、鮮魚数十尾を買い、
一同に食せしめた。

16日夜は、士官より、水夫、火焚へ、
金15両の御褒美金を給わった。

薪水も十分に取入れ(飲水は20石入24桶、15石入3桶に貯う)
其の他の買入も終わったので、万延元年正月19日
(西暦1860年2月10日)午後3時に浦賀港を解纜した。

折柄(おりから)、西風強く、蒸汽を焚き、第5時、
相州城ヶ島の南東の方に至り、夫より西に走り、また、
南西に向って走ること5里半、それより、帆を用いて南東に
向かい大島の沖に至り、夜半、針路を東南に転じ、
いよいよ、太平洋に乗出した。

西の強風で、激浪は舷を打ち、甲板へ漲り(みなぎり)
最初から、その難航が予想される有様であった。

第133頁

第4節 難航を続くる咸臨丸

咸臨丸は、正月19日、浦賀を出帆して、針路を東南に向け進航した。
今、主要なる事件のみを述べる。

正月20日晴、方向を東北に取り、潮に逆い大洋に田ること50里許(ばかり)
黒潮に掛りしためか、潮流急にして、艦の進行、遅々として進まず。

21日も、風は、北の強風にて、逆浪、山の如く艦中に打入り、
艦の傾くこと屡々(しばしば)であった。
午後に至り、麦酒瓶の内に、此処の実測、北緯36度34分、
東経142度16分と記し、また、年月・船号・測量者の姓名等をも記し、
ロに油を塗着し、洋中へ4本投入した。

是は、後に航走の者が拾い取って、其処の経緯に拠り、潮流の方向、
潮力の遅速を知るためで、此の後も、数回、斯くの(かくの)如き事をなした。

22日より雨となり、此日も、風浪のため、甲板は川の如く、
終に(ついに)後檣の帆が破れた。

23日は、波高く、艦の動揺甚しく、端船を吊りたる綱が切断された。
依つて、之を船中に取入れた。午後6時に至つて、猛風、愈々(いよいよ)
甚しく、前檣の帆が吹破られた。

夜に入り、風、少しく滅じ、月出で、波も静になつたが、
昨日來の猛風のために炊事も出來ず、漸く、干飯を二度程蒸して食した。

船夫は、皆、疲労して、倒臥者過半を出した。
木村の從者、長尾幸作の日記には、
「我乗船、激しく波間に出没、船中、皆、水に浸る。
余、寝衣一枚を海に投ず。船中、皆、病み、
暫く(しばらく)12、3人を以て船を便ず。
実に、余、出生以來、初めて、命の戦に、恐ろしきを知る。
衆人、皆、死色。唯、亜人之輩、言笑する」云々とある。

また、勝の海軍歴史にも、

「此の行時、猶、初春なるが故に、
海風烈しく、激浪、面を撲りて(なぐりて)、向う可からす。
其の鍼踏、大抵、北極出地、37、8度より
43度前後に出づるを以て、其の風、常に西北、曇天、美日少なく、
日夜、霰(あられ)、雹(ひょう)、雨雪を捲き、
時としては、濃霧降りて、咫尺を弁ぜず。

また、湿気、雨衣を透し、加うるに、船、動揺、簸揚(はよう)して、
正しく歩行する事、能はず。出帆後、洋中に在る事、37日、此の内、
暗天・日光を見るは僅に5、6日、其の苦難、想うべし」とある。

第134頁

而して、此航海中、尤も困難を極めし事は、
27日より28日に及ぶ大時化であった。

27日は、暁(あかつき)より、南風、烈しく、
波浪、高く、甲板に打揚げ、一圓、水となつた。

午後より、風は西北西に変じ、夜に入るや、
益々烈しく、帆を畳み、これを避けんとすれども、
水夫、皆、疲労して、働くこと能わず。

船は、簸揚(はよう)して、半ば海に沈まんとし、
其の危険、言うべからず。

翌28日になりても、波の甲板へ打揚ぐること絶えず、
昇降ロも、終日、閉じたる儘(まま)にて、
暗夜の如く、衣服も寝具も、皆、づぶ濡れで、
器具の損傷する音が凄まじかった。

夕方に至り、風は西に転じて少しく和いだ。

此航海に、甲比丹ブルック等の乗組める事は大いに力となった。

併し、小なる測量船で、太平洋の怒濤を蹴破りたる経験ある
ブルック船長が、是は、20幾年の大時化と称する位であったから、
海事の経験浅き伝習生を初め、長崎、塩飽の水夫等の困苦せし事は、
察するに餘り(あまり)ある。

此頃は、北米太平洋沿岸も雨期であるから、何れにしても、
愉快な航海では無かった。

赤松大三郎の談話に、

「米国の測量船長ブルックに、監督かたがた、咸臨丸へ
乗り組んで貰おうという話があった時、日本の海軍士官たちは
承知しない。日本人だけで航海し得る自信があるのだから、
便乗者として乗るなら仕方が無いが、監督などは、
御免蒙ると云う訳(わけ)で、便乗者の名義で乗せて行った。

ところが、大洋中へ乗出して見ると、暴風やら、大浪やらのために、
日本の水夫たちは、中途で弱ってしまって、遂には、行くのは嫌だ、
日本へ帰りたいなどと言出し、まるで、コロンブスのアメリカ発見の話にでも
ある様な騒ぎになりそうであった。其の時に、此の便乗者の米国水夫が
大変役に立った」と、彼等を誉めている。

第135頁

乗組員で、割合に平気なのは福沢諭吉独りであった。

彼は洋行希望のため、幕府の蘭医、桂川甫周の築地の塾に学んでいた。
木村摂津守が渡米の命を蒙るや、彼は木村の妹婿なる桂川甫周の紹介状を
以て木村に会い、其の従僕となりて渡米の許可を得し事なれば、
木村には主人の如く仕えて居った。

彼は身体強健のため、此の大時化にも自若として
「これは何の事はない、牢獄に入って、毎日毎夜、大地震に遇っている居ると
思えばいいじゃないかと笑つて居った」と福翁自伝に書いて居る。

また、木村の談話に、「勝は大閉口で、キャビンの中に寝たきりの
船暈(ふなよい)を起こしたので、大将なくして船をやる騒ぎであった。

殊に(ことに)諸藩から、従僕名義で乗組んだ連中など、皆、
へとへとになって役に立たぬ中に、独り福沢のみ、平然として船に酔わず、
私の介抱をして、飲食衣服の世話をなし、熱心に働いて居たのには感心した。

また、桑港に上陸した後も、始終、小まめに働いて、私が風邪などの時には、
附添きりで看病した。

いよいよ日本へ帰帆となりし時は、用事が多くて、とても土産などは買えないと
諦めて居たが、福沢が気を利かして、それぞれ、相応な物を購求して呉れたので、
帰朝の後に面目を施した」と言つて居る。

福沢は、船中で始終、木村の用を弁じて居ったが、或朝、木村の部屋へ
行って見ると、何百箇とも数え切れぬ程の貨幣がそこら中に散乱して居た。
どうした訳かというに、袋に入れて戸棚の中に積んであった貨幣が、
前夜の大暴風雨で船の動揺が甚しかったため、戸棚かち落ちると共に、
袋が破れて外に散乱したものらしい。

第136頁

直に、公用方の吉岡勇平に其の事を報告すると、大いに驚いて其の部屋に
駈けつけ、福沢も手助けして、貨幣を拾い集め、元の通り戸棚に入れた事が
あるというのでも、船の動揺が如何に甚しかつたかが判るであろう。

福沢の自伝に「勝という人は、至極、船に弱い人で、航海中は病人同様、
自分の部屋の外に出ることは出來なかった」と書いてある。

勝が船に弱いのは当時の海軍部内でも有名なもので、勝という男は
陸では大気焔を吐いているが、船に乗ると、直ぐに、弱ってしまうと
いうていたそうである。

しかし、勝の航海日記を見ると、浦賀出帆の10日前より風邪のため腹痛ありしも、
出帆前、極めて多事であったため、養病の暇もなく乗船、風濤を冒したので、
発熱、苦痛甚だしく、数日間絶食して、殆ど人事を弁ぜざる程に疲労したが、
着港前より、漸く快方に赴いたと書いてある。

正月30日頃からは、風波も静かとなり、見ゆるものは、毎日、唯だ、
波と雲霧のみなりしに、此の日、艦の左方に当たって、遙かに、
3本檣の艦を見る。暮に至り順風を得た。其の後数日、曇天勝ちであった。

2月5日、方向東北北半、暁(あかつき)、南西の方に虹が見えた。
須臾(しゅゆ)にして小雨來る。午後に至り出帆初ての快晴であった。

2月7日、天、麗かにして風弱く、海面、平にして、船、更に進まず。
今朝より、船尾に三本檣の船を見た。次第に近付けば米国旗を掲げて居った。
彼船より4910の信号旗を引上げ、何船なりやと問いし故、
此方にて5472の旗を掲げ、日本軍艦なる由答えた。

第137頁

両船、間近に相接し、甲比丹ブルックは、ルーフルを以て問いしに、
香港より桑港へ渡海の米国商船にして、支那人多人数乗組み居り、
カリフォルニアの金山、或は、夫々渡世のため、米国へ相越す由を答えた。

注:此の船はニューヨークの帆船フロラ号なる由、後、桑港のヘラルド新聞に掲げてあった。

2月10日、風北小東にして微なり。霧深くして咫尺(しせき)を弁ぜず。
夜は、月色、皎然(こうぜん)、甲板上を散歩し、頗る適意を覚えた。

2月11日、風東南東。此の日も天、陰り、霧、深くして雨の如し。
食用水を点検せしに、猶ほ、10個の水函を餘した。

2月13日、風西小北。此の日、水夫は一羽の鳥を獲た。灰色で、
大きさ鴻の如く、舟人、「トウクロウ」と称した。夜、微風のため、船進まず。

2月14日、風南西。此の日、天気晴和なれば、船中、衣服を曝し、
掃除をなす。連日の風雨のため、湿熱に侵さるる者、少なからず。
依つて、予防として、火酒に薬を投じ、水夫等に飲ましめた。

2月15日、微雨。方向東小北、風南西、極めて快し。
1小豚を調理して食す。長尾の日記に「午前豚肉1片を7人に賜わる。
午前、ブルックは、砲を10発す」とある。

注:7人とは従者名義の、齋藤、秀島、福沢、大橋、長尾と、医師の従者2人にて、1室に雑居して居った。
ブルック発砲の事は他書に見えず。或いは、浪静かに成りしを以て、発射の練習を試みしに非ざるか。


第138頁

2月16日より数日間、雨雪、交々到り、浪高くして、船は動揺した。

21日に到り、風波穏かとなる。上陸数日前より、長尾を初め、水夫・源之助、
その他の病人が続出した。勝頭取より、水夫、火焚の労を慰い、金10両を給わる。

2月25日、方向東北東。風、南東11時。3本檣の船見ゆ。暫時、我船の南を
駛せ過ぐ。米国の商船である。また同時、船の北に当たり3檣船が見えたが、
遠くて弁じ難い。

今日、払暁から北米大陸の西岸見ゆべしと乗組員一同注意して居ったが、
海霧断続の間に、連山波濤の如く、其の中の峻峯は雲間に聳ゆるを認めた。
愈々、明日は上陸とて勇み立ち、是より針路をサンフランシスコの門戸なる
ゴールデンゲートへ向けた。

勝海舟の家に、彼が即興的に描いた咸臨丸に次の詩を賦した一軸がある。
瓢花無眼界 烟浪一維船 遙膽鷲嶺月 不似故山天 海舟

              
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第7章 咸臨丸桑港に入る

万延元年2月26日 (西暦1860年3月17日) 快晴

咸臨丸は方向を東南東半南により、夫より東小南に転じ港口に近づいた。
午前5時、艦の左に一点の山見る。すなわち、カリフォルニアの地である。

8時より蒸気を用い次第に近づき、右の方に島嶼五つ程見え,其上に灯台がある。

9時に至るや前方よリスクーナー船が来た。是は港案内の者なる故、船足を止めて
教導者を我艦に乗移らした。また、小船に数人乗って野菜・魚類・薪水等を
売らんことを求めた。

其の内の1人、艦に来たって、乗組人員、航海日数等を問うた。
是は官より派遣の者と見えた。

湾に入らんとする時、右方の高山に沿って砲台があり、皆、煉瓦にて
築き上げ、城塁の如く砲を3層に置き、凡そ、370門を備え、
また、山上にもカノン砲数台あり、港の中央、アルカトラス島にも
堅牢なる砲台を構え、砲250門を備うという。

我艦に対して合衆国の旗章を上下せしをもって、此方も受旗をなし3度上下した。

1時、サンフランシスコのバレホ町埠頭を距たる2町許りに投錨した。

此の地に、我軍艦の来たのは未曾有の事なれば、市人、群をなして遠望した。

3時半、甲比丹ブルックと倶に、佐々倉、濱口、吉岡、中濱等を上陸させ、
此の地の役人に通知せしめ、また、水夫等の上陸を許した。
此者等が市中を見物せしに、米人より懇切なる取扱を受けた。

以上

出典:
日米修好通商百年記念行事運営会・編
万延元年遣米使節史料集成 第5巻
風間書房 昭和36年8月発行 英文の部・第67頁〜第96頁 咸臨丸日記
(日本語の訳文は第81頁〜第119頁に記載されている。)

    
第67頁



第68頁


第69頁

    three young girls.

第70頁


第71頁

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第87頁
  

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第89頁
  

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第96頁
  



浦賀奉行所与力・中島三郎助と浦賀園(愛宕山公園)の招魂碑



愛宕山公園は、1891年(明治24年)7月5日に、幕末、浦賀奉行所与力として
日本の開国と浦賀町の繁栄に貢献した中島三郎助の招魂碑を置くために開園された。
開園当初は「浦賀園」と呼ばれた。


箱館戊辰戦争余話  



561頁

562頁

572頁

573頁

574頁

以上

関連サイト:視野を広げる、視点を変えて観察する