ダライ・ラマ法王の
ノーベル平和賞受賞記念講演
1989年12月10日、ノルウェー、オスロ大学での公開講演
今日ここで皆さんとお会いできて光栄です。世界申から駆け付けて
下さった多くの古い友人達、また新たな友人達にお会いできて本当に
幸せです。これからも度々お会いしたいと思います。世界の各地から
来られた方々にお会いすると、私達人間は根本的には皆同じなのだと、
いつも思い知らされます。服装は違っているかも知れません。肌の色も、
言葉も違っているかも知れません。しかしそれは表面的なことです。
根本的には、私達は同じ人間なのです。それが、私達を互いに結び
付けるのです。それこそが、互いに理解し合い、友情や親近感を育てて
いる根源なのです。
今日、皆様に何をお話しようかとあれこれ考えたのですが、結局、
現在、私達が人類家族の一員として直面している共通の問題について
お話しすることにしました。
私達はこの小さな惑星を共有しているのですから、人間同士互いに、
また自然とも調和し合って平和に暮らせる方法を学ばなければなりません。
それは夢物語ではなく、現実に必要な話なのです。私達は互いに幾重にも
依存し合っています。ですから、孤立した社会に生きることはできません。
共同体の外で何が起きているかを無視して生きることはできません。
困難に直面した時には、互いに助け合うことが必要です。幸運に恵まれた
時には分かち合うことが必要です。今、皆様に、皆様と同じ一人の人間
として、また平凡な僧侶として、話をしています。もし、私の話の中に
何か有用なことを見つけられたら、どうかそれを実践して下さるように
お願い致します。
また、チベット国民の苦境と彼らの念願に対する私自身の考えも、
お話したいと思います。チベット国民は、過去40年間、外国によって
支配されて来ましたが、その勇気と強靱な意志はノーベル賞に価すると
言えましょう。囚われている我が同胞の為に、自由に発言できる立場に
いる私が、彼らに代わって発言することは私の義務なのです。
私達の国を、家を、文化を破壊し、我が同胞にとてつもない苦しみを
与えた人々に対する怒りや憎しみでこう言っているのではありません。
彼らも同じ人間であり、幸せを求めているのですから、私達の慈悲の対象
なのです。私の国がいま置かれている悲惨な状況と、我が同胞の念願とを
皆様にお知らせする為に、私は話しをしています。と言うのも、自由を
求める私達の闘いにあっては、真実こそが私達が所有する唯一の武器
だからです。
根本的には、私達は皆同じ人間であって、苦を逃れ楽を求めるもので
あることを理解することは、人類愛、つまり他人に対する愛情のこもった
暖かい思いやりや慈悲心を育てる助けとなります。このことは、私達が
揺れ動く現在の世界に生きて行く為には、無くてはならぬものです。
そうでなければ、私達は自分の利益になると思い込んでいるものを、
他人のことを意に介さずに、がむしゃらに求め続け、他人ばかりでなく、
自分自身をも傷つけてしまうことになります。この事実は、今世紀に入って
よりはっきりとして来ました。たとえば、核戦争を今起こしたら、
それはそのまま自殺行為です。あるいは、目先の利益を求めて、大気や
海を汚染すれば、それは私達の生存の基盤を破壊していることになります。
個人や国家が、次第に相互依存の度を増せば増す程、私が宇宙的責任感と
呼ぶものを、育てるより他に道はありません。
今日では、私達は本当に地球家族なのです。世界の一地域で起きたことが、
私達全員に影響を及ぼします。もちろん、否定的な事ばかりでなく肯定的な
事についても同じことが言えます。現代の非常に進歩した通信技術のお陰で、
どこか遠くで何かが起きたことを知るばかりでなく、その影響を直接受けます。
東アフリカで子供達が飢えているのを知れば、私達は悲しみを感じます。
ベルリンの壁で何十年間も隔てられていた家族が、再会をしたと聞けば、
喜びを感じます。はるか遠くの国で原子力エネルギーの事故が発生すれば、
作物や家畜が汚染されます。大陸を隔てて敵対する国々の間に平和が
もたらされれば、私達自身の安全もより確かなものになります。
戦争か平和か、自然の保護か破壊か、人権と政治的自由の侵害か促進か、
貧困か豊かさか、道徳あるいは精神的価値の欠如か奨励か、人間性理解の
欠落か促進かは、それぞれ、孤立した問題ではないので、別個の問題として
分析したり取り組んだりできることではありません。それらはすべて、
様々な次元で相対的なものであり、そういった理解を持って取り組むことが
必要です。
戦争が無いという意味での平和は、飢えや寒さの為に死に瀕している人
にとっては、ほとんど何の価値もありません。拷問を受けている政治犯の
苦痛を取り除くこともできません。隣国が非常識な森林伐採をした為に起きた
洪水で、家族を失った人を慰めることもできません。
平和とは、人権が尊重され、食べ物がふんだんにあり、個人と民族が
自由でいられる所にのみ存在するものです。個人や私達を取り巻く世界に
とっての本当の平和とは、内的な平和を育てることによってのみ達成されます。
先に取り上げた他の様々な問題も、同じように相対的なものです。したがって、
汚染のない自然環境や豊かさや民主主義は、戦争とくに核戦争の前では、
何の役にも立ちません。また、物質的な進歩は人間の幸福を保証するには
不十分なことも明らかです。
物質的な進歩は、もちろん人類の向上の為には重要なことです。チベットでは、
科学技術や経済的発展に、余りにも注意を払いなさ過ぎました。これが大きな
間違いであったことを私達は認めています。
同様に、精神的な向上の伴わない物質的発展も重大な問題を引き起こします。
余りにも外的なことにのみ注意が向けられ過ぎて、内的な向上にはほとんど
関心が払われていない国もあるようです。私は、両方が共に重要であり、
両者の調和を図る為にも、両々相まって発展すべきであると思います。
チベット人は、よく外国の観光客から、幸せで陽気な人々だと言われます。
これは私達の国民性の一面であり、人間や動物といったすべての生き物に対する
愛情や優しさを育むことによって、内的な平和を獲得するという、文化的
宗教的な価値観によって培われて来たのです。内的な平和こそが鍵です。
内的な平和があれば、外的な障害はあなたの心の奥深くにある平和や落ち着きを、
掻き乱したりはしないでしょう。心がそういう状態にあれば、内的な幸せを
保ちながら、落ち着きと理性をもって、問題に対処することができます。
これはとても重要なことです。内的な平和がなければ、どんなに物質的に
恵まれていても、環境に左右され、うろたえ脅えて、不幸せになります。
ですから、様々な現象の相対性を理解し、様々な側面を考慮に入れながら、
調和の取れた方法で問題を解決しようとすることは、とても重要なことです。
もちろん、それは簡単なことではありません。しかし、一つの問題だけを
解決しようとしても、それは余り益のあることではありません。何故なら、
同じように重要な別の問題を引き起こすことになるからです。
私達には、本当に、宇宙的な責任感を養成するより他に選択の余地はない
のです。宇宙全体のという意味だけでなく、私達の惑星が直面している多くの
個別の問題に対しても、そう言っているのです。
責任は、国々の指導者や特別な仕事の為に選ばれた人々にのみ存在する
のではなく、私達個人個人にあるのです。たとえば、平和は、私達一人一人の
内から始まります。内的な平和があれば、周囲の人々と平和に付き合えます。
私達の社会が平和であれば、周囲の社会とも平和を分かち合うことができます。
他人に対して愛や優しさを持つならば、それは他人を幸せにするだけでなく、
自分自身の内的な幸せや平和をも育みます。そして、愛情や親切心を意識的に
育てる方法が幾つかあります。ある人々にとっては、宗教的な修行が最も
効果を上げる方法でしょう。また他の人々にとっては、非宗教的な実践が
そうである場合もあるでしょう。
最も大事なことは、お互いに対する、あるいは自然環境に対する責任を
真剣に果たそうとすることです。最近私達の周囲で起きている進歩向上に、
私は大変に励まされています。多くの国々、とくに北欧の若者達が、経済
発展の名の元に行われて来た危険な環境破壊をやめさせようと繰り返し
呼びかけて来ました。今では世界の指導者が、この問題に対処しようと
しています。『環境と開発に関する世界委員会』が国連の事務総長に提出した
報告書が、この問題の緊急性を各国政府に認識させました。戦争によって
疲弊した地域に、平和をもたらし、民族自決の権利を行使させようとする
真剣な努力が、アフガニスタンからのソ連軍の撤退につながり、ナミビアの
独立につながったのです。
現在一大潮流となっている非暴力による運動は、フィリピンのマニラから
東ドイツのベルリンまで、多くの国々を本当の民主主義に近付けています。
冷戦の時代が終わろうとしている今、世界中の人々が、新たな希望を抱いて
います。悲しいことですが、中国で同じような変化をもたらそうとした勇気ある
人々の努力は、昨年六月、暴力で打ち砕かれてしまいました。しかし、彼らの
努力も無駄ではありません。軍事力は、中国人の自由を求める気持ちやそれを
実現しようとする決意までも、消し去ってはいないのですから。私は、特に
次の点を高く評価したいと思います。それは、若者達が
「権力は銃口から生まれる」と教えられ続けて来たにも拘わらず、
彼らの武器として非暴力を選んだということです。
これらの望ましき変化は、理性、勇気、決意、そして自由を求める強い願いが、
最終的には勝つということを示しています。戦争、暴力、抑圧側と、平和、理性、
自由側との戦いでは、後者が優位に立とうとしています。この事実は、
チベット人も、いつの日か、必ず自由になれるのだという希望を与えてくれます。
遠いチベットから来た平凡な僧侶に過ぎない私に、ノーベル賞を授与して下さる
ことは、これもまた、チベット人に希望を与えます。暴力的な手段で、私達の
置かれている苦境に関心を引こうとはしませんでしたが、私達は忘れられて
いなかったことを示しています。
また同時に、私達の価値観、特に生きとし生けるものを大事にし、真実の持つ
強さを信頼するという価値観が、今日認められ励まされたことを示しています。
そしてまた、これは、私が師とも仰ぐマハトマ・ガンディーのお陰でもあります。
彼の先例が、私達を力づけているのです。今年度の賞は、宇宙的責任という
考え方が広まっていることを示しています。この地で、チベット人が被っている
苦難に対して真剣な関心が高まっていることに、私は深く感動しています。
これは、チベット人だけでなく、すべての虐げられている人々にとっても朗報です。
皆様もご存じのように、チベットは過去40年間、外国の支配下に置かれて
来ました。今日でも、25万人以上の中国軍がチベットに駐屯しています。
ある情報筋によれば、中国軍の兵力はこの倍に達しているかもしれないとも
言われています。
現在でも、チベット人は、基本的な人権をほとんど奪われています。生存権、
移動の権利、言論、信仰の権利などが侵害されています。600万のチベット人の
6分の1以上(100万人以上)が、中国による侵略と、占領の、直接的な
犠牲者となりました。
文化大革命以前に、既に、チベットの多くの僧院や寺院、それに歴史的な建物が
破壊されておりました。残った建物も、ほとんどすべてが、文化大革命の間に
壊されてしまいました。この点については、記録が残されていますので、
これ以上お話しするつもりはありません。しかし、理解して戴きたい重要な点は、
1979年以降、幾つかの僧院を再建するなどの限られた自由の回復があり、
他にも開放政策の兆候があったのですが、チベット人の基本的な人権は、今日も、
組織的に侵害されているという事実であります。
注:チベット人の大量虐殺を直接指揮したのは胡錦濤。本当に悪い奴である。
この二、三か月の間にも、事態はきらに悪化しています。もし、世界各地の組織や
個人から援助を受け、またインド政府とインドの人々の支援によって温かく守られた、
亡命チベット人の社会が無かったら、我が民族は滅亡した過去の遣物で
しかありません。私達の文化、宗教、そして民族的独自性(アイデンティティー)は、
巧妙に消滅させられて来ました。しかしながら私達は、亡命の地に、学校を建て、
僧院を作り、人々に奉仕する為に民主的な制度を確立して、私達の文明を存続
させようとしています。その経験をもとにして、将来の自由チベットでは
完全な民主主義を実施したいと思っています。このようにして、亡命社会を現代的な
基準に沿って発展させるだけでなく、私達自身の独自性と文化を大事にし、
チベットにいる数百万の我が同胞に希望をもたらそうとしています。
現時点で最も急を要する問題は、中国人入植者が大量にチベットに移住している
ことです。占領後の十年間に、膨大な数の中国人が東チベットに送り込まれました。
東チベットとは、チベットのアムド地方(現青海省)、カム地方(そのほとんどが、
近隣の中国の省に編入された)地域です。1983年以降、未曽有の数の中国人が
彼らの政府にけしかけられて、中央チベット、西チベットを含むチベット全域に
入植しました。(中央、西チベットとは、中国がチベット自治区とよんでいる地域
です。)チベット人は急速に減少し、自分自身の国において取るに足らない小数民族に
なろうとしています。チベット民族の生存そのものを脅かし、文化と精神的な伝統の
維持を困難にしているこの政策は、まだ止められますし、ひっくり返すことが可能
です。しかし、今すぐにそれをしなければなりません。手遅れにならないうちに。
チベットにおける抗議デモと弾圧のイタチごっこは、1987年9月に始まり、
今年3月のラサ戒厳令でその頂点に達しました。それも、大筋においては、中国人の
大規模な流入に対する反発であったのです。亡命している私達に届く情報では、
抗議行動に参加したチベット人は逮捕され、非人道的な取り扱いを受け、厳罰に
処されながらも、ラサを始めチベットのあちこちで、デモや、その他平和的な
手段による抗議行動が続いているということです。
3月のデモで、武装警察軍によって殺されるか、あるいはその直後に逮捕されて
殺されたチベット人の数は、はっきりしないものの、200人以上であろうと
考えられます。さらに数千人が逮捕、拘留され、拷問を受けています。
このように悪化する状況に鑑み、流血の惨事が続くことを防ぐために、私は
『五項目の和平案』と一般的に呼ばれている提案をしました。
それは、チベットにおける人権と平和の回復に狙いがあります。昨年、
ストラスブールにおける演説の中で、その提案について詳細を述べました。
この提案は、中華人民共和国との交渉において、合理的で現実的な枠組を提示して
いると思います。しかし、これまでのところ、中国の指導者たちは、建設的な
回答を避けて来ました。今年6月に、中国の民主化運動が残虐な弾圧を受けた
ことは、チベット問題のいかなる解決も、十分な国際的保証が得られなければ、
意味を持たないという私の見解を裏付ける結果となりました。
『五項目の和平案』は、私がこの講演の最初の部分でお話しした原則や
関連する事項を提示したものです。
第1項目は、カムやアムドといった東チベットを含む、チベット全体を、
アヒンサー地域(非暴力の聖地)とすること。
第2項目は、中国の人口移住政策の廃止。
第3項目は、チベット人の人権と民主的自由の尊重。
第4項目は、チベットの自然環境の保護と回復。
第5項目は、チベットの将来の地位と、チベット人と中国人の関係について、
真剣な話し合いを開始しよう、というものでした。
ストラスブールにおける演説の中で私が提案したことは、チベットは完全に
自主的な統治をする民主的政治統一体になるということです。
この場をお借りして、『五項目の和平案』の基本理念となっているアヒンサー地域、
つまり平和の聖地についてご説明しましょう。この提案は、チベットの為だけでなく、
アジアの平和と安定の為に、非常に重要だと思います。チベット高原全体を、人間と
自然が調和して、自由に平和に暮らして行ける保護区にしようというのが、
私の夢です。世界中の人々が、世界各地の緊張や圧力から逃れ、自分自身の
内にある平和の真の意味を捜し求める地区としたいのです。チベットは、本当に、
平和を振興し、発展させる拠点となり得るのです。
以下が、『アヒンサー地域』の主要な点です。
@チベット高原全体を非武装地域とする。
Aチベット高原における、核兵器及びいかなる兵器の生産も実験も備蓄も、
これを禁止する。
Bチベット高原を、世界最大の自然公園あるいは生命保護区域とする。
野生動物や植物を守るために、厳しく法的に規制する。資源の開発は、生態系を
破壊しないように注意深く規制する。居住区域においては、継続性のある開発政策を
取る。
C危険な廃棄物を生み出す、原子力エネルギーや他の科学技術の、生産使用を
禁止する。
D資源の開発、及び、自然保護政策は、平和と環境保護を積極的に振興する方向で
行う。平和の促進とすべての生物の保護を目的とする機関が、チベットで安心して
暮らせる故郷(ふるさと)を造る。
E人権の保護と促進をする為の国際機関あるいは地域機関を、チベットに設立する
ことを奨励する。
チベットの高度と広さ(ヨーロッパ共同体の広さがある)、それに、ユニークな
歴史と深みのある精神的な伝統は、アジアの戦略的な中心にあって、平和の聖地
としての役割を果たすに打ってつけです。しばしば敵対関係を引き起こすアジア
大陸の強大国の間に位置する、平和的な仏教国として、中立地帯を形成することが、
チベットの歴史的役割にも適っています。
アジアに存在する緊張を緩和する為に、ソ連のゴルバチョフ書記長は、
中ソ国境を非武装化し、「平和と善隣の前線」とすることを提案しました。
ネパール政府は、それ以前に、チベットに隣接するヒマラヤ国家としての
ネパールを、平和地帯とすることを提案しております。しかし、その提案には
国家そのものの非武装化は含まれていません。
アジアの平和と安定の為にも、敵対関係に陥り易い強大国を引き離す、
平和地帯の設立が不可欠です。モンゴルからのソ連軍の完全撤退を含む、
ゴルバチョフ書記長の提案は、ソ連と中国の間の緊張と対立の危険性を緩和する
のに役立つでしょう。世界でも最も人口の多い2大大国、中国とインドを引き離す
為にも、真の平和地帯が設立されなければならないというのは、明らかなことです。
アヒンサー地域の設立の為には、チベットから、軍隊と軍事施設を撤退する
ことが必要です。そうすれば、インドとネパールにも、チベットに隣接する
ヒマラヤ地域から軍隊と軍事施設を撤退させることが可能になります。
これは、国際的な同意によって実施されなければならないでしょう。それが実現
できれば、アジアのすべての国々に最高の利益を与えるばかりでなく、
特にインドと中国にとっても、遠く離れた山岳地帯に軍隊を張り付けておくという
経済的な重荷が軽減され、しかも安全性は増進するのです。
チベットは、最初の戦略的非武装地域となる訳ではありません。エジプト領土で
あるシナイ半島の一部は、イスラエルとエジプトを引き離すため、非武装地域と
なっています。コスタリカは、完全な非武装国家の一番良い例でしょう。
またチベットは、最初の自然保護地域、生命保護地域になるのでもありません。
世界中に多くの公園が設立きれています。幾つかの戦略的に重要な公園は、
『自然平和公園』となっています。二つの例を挙げましょう。コスタリカー
パナマ国境にあるラ・アミスタッド公園、コスタリカーニカラグア国境にある
シ・ア・バズ計画です。
今年私はコスタリカを訪問し、そして国家が軍隊を持たずに、平和と自然環境の
保護に貢献して、安定した民主国家となっている実例を見ました。そのお陰で、
チベットの将来に対する私の願いが単なる夢物語でなく、現実的なものだと
確信できました。
皆様方と、ここにおられない友人達に感謝の言葉を捧げて、今日の講演を
終わりたいと思います。皆様方がチベット人の苦難に対して示して下さった
関心と支援は、私達全員に感動を与えてくれました。また武器に頼らずに真実と
決意を有力な武器として、正義と自由のために闘い続ける勇気を与えてくれました。
チベット人全員の代理として、皆様方にお礼を申し上げます。
と同時に、チベットは、我が祖国の歴史に照らしても今ほど危機的な状況に
置かれたことはありません。そのような時に当たって、どうかチベットのことを
忘れないで下さいとお願いをする次第です。私達も、もっと平和で、もっと
人間的で、もっと美しい世界を実現するために貢献したいと思います。
将来の自由チベットは、世界中の困っている人々を助け、自然を保護し、
平和を推進します。私達チベット人は、精神文化を現実的で実用的な姿勢で生かす
才能に優れています。この才能を生かして、たとえ僅かではあっても、特別な
貢献ができると感心しています。これは、私の願いでもあり、祈りでもあります。
最後に皆様方と共に、勇気と決意が湧いてくる短い祈りを捧げましょう。
世界に苦しみがあり、
生き物が残っている限りは、
私も、残ります。
世界の苦難を消すために。
出典:ペマ・ギャルポ著 『チベット入門』 第240頁〜第252頁
HisHoliness The 14th Dalai Lama's
Acceptance Speech,
on the occasion of the award
of the Nobel Peace Prize
in Oslo, December 10, 1989
Your Majesty, Members of the Nobel Committee, Brothers and Sisters:
I am very happy to be here with you today to receive the Nobel Prize
for Peace. I feel honoured, humbled and deeply moved that you should
give this important prize to a simple monk from Tibet. I am no one special.
But, I believe the prize is a recognition of the true values of altruism,
love, compassion and nonviolence which I try to practise, in accordance
with the teachings of the Buddha and the great sages of India and Tibet.
I accept the prize with profound gratitude on behalf of the oppressed
everywhere and for all those who struggle for freedom and work
for world peace. I accept it as a tribute to the man who founded
the modern tradition of nonviolent action for change - Mahatma Gandhi
- whose life taught and inspired me. And, of course, I accept it
on behalf of the six million Tibetan people, my brave countrymen
and women inside Tibet, who have suffered and continue to suffer
smuch. They confront a calculated and systematic strategy aimed
at the destruction of their national and cultural identities.
The prize reaffirms our conviction that with truth, courage and
determination as our weapons, Tibet will be liberated.
No matter what part of the world we come from, we are all basically
the same human beings. We all seek happiness and try to avoid suffering.
We have the same basic human needs and concerns. All of us
human beings want freedom and the right to determine our own destiny
as individuals and as peoples. That is human nature. The great changes
that are taking place everywhere in the world, from Eastern Europe to
Africa, are a clear indication of this.
In China the popular movement for democracy was crushed by brutal
force in June this year. But I do not believe the demonstrations were
in vain, because the spirit of freedom was rekindled among
the Chinese people and China cannot escape the impact of this spirit
of freedom sweeping many parts of the world. The brave students and
their supporters showed the Chinese leadership and the world
the human face of that great nation.
Last week a number of Tibetans were once again sentenced to prison
terms of up to nineteen years at a mass show trial, possibly intended
to frighten the population before today's event. Their only "crime" was
the expression of the widespread desire of Tibetans for the restoration
of their beloved country's independence.
The suffering of our people during the past forty years of occupation
is well documented. Ours has been a long struggle. We know our cause
is just. Because violence can only breed more violence and suffering,
our struggle must remain nonviolent and free of hatred. We are trying
to end the suffering of our people, not to inflict suffering upon others.
It is with this in mind that I proposed negotiations between Tibet and
China on numerous occasions. In 1987, I made specific proposals
in a five-point plan for the restoration of peace and human rights in Tibet.
This included the conversion of the entire Tibetan plateau into a Zone
of Ahimsa, a sanctuary of peace and nonviolence where human beings and
nature can live in peace and harmony.
Last year, I elaborated on that plan in Strasbourg, at the European
Parliament. I believe the ideas I expressed on those occasions are both
realistic and reasonable, although they have been criticised by some of
my people as being too conciliatory. Unfortunately, China's leaders have
not responded positively to the suggestions we have made, which included
important concessions. If this continues we will be compelled to
reconsider our position.
Any relationship between Tibet and China will have to be based on
the principle of equality, respect, trust and mutual benefit. It will
also have to be based on the principle which the wise rulers of Tibet
and of China laid down in a treaty as early as 823 A.D., carved on
the pillar which still stands today in front of the Jo-khang, Tibet's
holiest shrine, in Lhasa, that "Tibetans will live happily in the great
land of Tibet, and the Chinese will live happily in the great land of
China".
As a Buddhist monk, my concern extends to all members of the human
family and, indeed, to all sentient beings who suffer. I believe all
suffering is caused by ignorance. People inflict pain on others
in the selfish pursuit of their happiness or satisfaction. Yet true
happiness comes from a sense of inner peace and contentment, which
in turn must be achieved through the cultivation of altruism, of love
and compassion and elimination of ignorance, selfishness and greed.
The problems we face today, violent conflicts, destruction of nature,
poverty, hunger, and so on, are human-created problems which can be
resolved through human effort, understanding and the development of
a sense of brotherhood and sisterhood. We need to cultivate a universal
responsibility for one another and the planet we share. Although I have
found my own Buddhist religion helpful in generating love and compassion,
even for those we consider our enemies, I am convinced that everyone
can develop a good heart and a sense of universal responsibility with
or without religion.
With the ever-growing impact of science on our lives, religion and
spirituality have a greater role to play by reminding us of our humanity.
There is no contradiction between the two. Each gives us valuable
insights into the other. Both science and the teachings of the Buddha
tell us of the fundamental unity of all things. This understanding is
crucial if we are to take positive and decisive action on the pressing
global concern with the environment. I believe all religions pursue
the same goals, that of cultivating human goodness and bringing
happiness to all human beings. Though the means might appear
different the ends are the same.
As we enter the final decade of this century I am optimistic that
the ancient values that have sustained mankind are today reaffirming
themselves to prepare us for a kinder, happier twenty-first century.
I pray for all of us, oppressor and friend, that together we succeed
in building a better world through human understanding and love, and
that in doing so we may reduce the pain and suffering of all sentient
beings.
Thank you.
From Nobel Lectures, Peace 1981-1990
第156頁
第183頁・第184頁
第276頁
276
嘘(ウソ)をつき、約束を守らず、基本的人権を徹底的に
無視する中国の指導者たち!
第306頁
中国はいかにチベットを侵略したか
マイケル・ダナム著 山際素男訳
第5章 大虐殺と菩提樹(抜粋)
ラサの民衆デモ
1956年正月、ラサで発生した民衆のデモは来るべき嵐の到来を告げる
一陣の突風であった。デモの先鋒を切ったミマンの3人のリーダー、
アロチョゼ、ブムタン、そしてラブチュは、逮捕、投獄された。ラブチュは
獄中で急死した。中国側は自然死だと発表したが、市民は承知しなかった。
中国軍は、これ以上犠牲者は出すまいと、アロチョゼ、ブムタンの二人を
釈放し、チベットから追放した。
民衆の怒りは収まるどころか、チベット政府閣僚にも向けられていった。
「チベットを中国に売り渡したのはあの閣僚たちだ。ポタラに巣くう閣僚や
貴族階級はいったい何をしているのだ」と。「ポタラ宮殿の下を通る時、
私の胃はぎゅっと痛んだものです。とても恥ずかしく思いました」とキルティ・
ルンドブは語っている。
ゴロク族の惨劇
同じ頃、ゴロク地方では、もっと激しく反中国の嵐が吹きまくっていた。
毛沢東はラジオで1,000万人の中国人をチベットに移住させると高言していた。
中国と国境を接するゴロク族の居住地がその最初の犠牲にされた。
毛沢東は、まず数千人の中国農民をゴロク族の牧草地帯に入植させた。
しかしゴロク族は、ラサ市民と違ってデモなんかやらなかった。部族民も僧侶も
一斉に武器を取り、移住してきた中国農民に情け容赦なく襲いかかったのだ。
中国軍は、すぐさま、反撃を開始した。ゴロク族を武装解除するため、
3,000人の軍隊が投入された。あっという間に、戦いのニュースがゴロク族中に
伝わり、この地域の2,000人のゴロク族が、刀や口こめ銃を振りかざしながら、
最寄りの中国軍兵舎を襲撃した。この時、約800人の中国兵が殺害された。
ゴロク族は、中国軍の銃などを分捕った。ゴロク族側の被害は軽微だった。
しかし、勝利はそこまでだった。
中国軍は、大挙してゴロク族の居住地を襲撃した。家畜の群れを略奪した。
人家をことごとく焼き払った。数千人のゴロクの老若男女を殺戮しまくった。
生き残った者は山に逃げ込み、以後は、ひたすら中国人を殺すためにのみ
生き続けることを誓ったのだ。しかし、このゴロク族の惨劇も、他地域の
チベット人は長い間知ることもなく、諸外国にいたっては、何年もの間、
気づいた者は一人もいなかった。
外部への通信手段がまったく無かったためである。
中国軍のチャテンク族虐殺
南カムの奥地でも事態は深刻だった。中国の土地改革に従わなかった
チャテンク族は、直ちに中国軍の攻撃を受けた。チャテンク族の人々は、
サムペリン僧院に逃げ込んだ。僧院は包囲された。中国軍の飛行機がビラを
投下して投降を促したが、人々は拒否した。すぐさま、爆撃が開始された。
中国軍にとっては、地上戦よりも、ずっと、味方の犠牲が少なくて済む方法である。
あっという間に、僧院は跡形もなく破壊された。少なくとも、2,000人以上が殺された。
生き残ったサムペリン僧院の僧だった19歳のテンジン・ギュルメは
こう述懐している。
「私の一家は特に惨めでした。父と叔父は反乱者のリーダーと目されて逮捕されました。
一族の土地も財産もすべて没収されました。母や小さい弟妹たちは、丸裸で巷に放り
出されました。
逮捕された父や叔父は、町の広場で、皆の前で、中国兵たちに、散々殴られました。
爆撃を免れた倉庫に、僧侶を含む何百人ものチャテンク族人びとと一緒に閉じ込められました。
父は、僧院長を罵ることを拒否した罪で8日間食事を与えられませんでした。
父は、そんな状態で1年半も監禁されてから、他の市民や僧侶たちと10キロ離れた所に
移されました。そこで、道路工事の強制労働を強いられました。父は、こうして3年間、苛酷な
道路工事労働を強制され、最後は衰弱死しました。
私の他の家族は重労働を課されました。1日の重労働が終わると、毎晩、タムジンという
教習会に出席させられて、共産主義教育を強制されました。このタムジン教習会は、
中国がチベット人に課した最も残忍な仕打ちです。
町の広場に晒し台を作り、毎晩、違った「犯罪人」を引き出してきて、晒し者にするのです。
晒し台に上げられる前に、「犯罪人」は、男女を問わず、中国兵に徹底的に殴られて、
いかにも罪人らしく、うなだれ、弱り切っています。顔を上げようとすると、中国兵に銃の台尻で
殴られるのです。首には、「人民の敵」と書かれた板をぶら下げています。
教習会参加者は、この「犯罪人=人民の敵」を糾弾しなければならないのです。
そうしなければ、次は、自分が晒し台で晒されることになるのです。やがて、誰しもが、
隣人を信用できずに、疑心暗鬼になっていくのです。私の兄の一人も、この晒し台で、
拷問にかけられ、殴り殺されました。三人の従兄弟は、殴り殺されはしなかったけれど、
度重なるタムジン教習会で、殴られ続けたことと栄養失調で死亡しました。」
ニャロン地区の女闘士
ニャロン地区のドルジェ・ユドンという若い女性は、ニャロン地区で虐殺された人びとの
仇を討つべく、自分の夫と共に中国へ戦いを挑むよう部族に向かって訴えた。
彼女は男の服装をし、腰にピストルを差し、馬を駆って部隊の先頭に立ち、ニャロン地区に
駐屯していた中国軍を攻撃した。各地の部族も立ち上がり中国軍を包囲し攻撃した。しかし、
中国軍の「牡竜の城」は堅固で、小銃攻撃ではびくともしなかった。しかも、「牡竜の城」には、
食糧、弾薬ともたっぷり用意されていた。城内には新鮮な水の湧く泉まであった。
1か月間の籠城を耐え抜いた中国軍は、援軍の到着をまって反撃を開始した。しかし、
女性闘士ドルジェ・ユドンは、600人の中国軍のうち、400人を血祭りに上げた。
残った中国軍兵士、200名は、辛うじてドルジェ・ユドン軍の包囲網を突破して、城内に
逃げ戻った有様であった。
しかし、その後、中国軍は大量増援に踏み切った。2万人もの部隊が次々に投入された。
さすがの女闘士ドルジェ・ユドンも撤収を余儀なくされた。この戦いで中国軍は、将校200人、
兵士2,000人以上が戦死したとされる。ニャロン地区のチベット抵抗勢力は、その後、
山岳地帯に入って、さらにゲリラ戦を展開していった。
女闘士ドルジェ・ユドンは、中国の出した賞金目当ての殺し屋に眉間を撃ち抜かれ、
非業の最期を遂げたといわれる。
リタン族の反乱
中国軍が「最悪の反乱者」とよぶリタン族は、1956年春、大暴動を起こした。中国軍が、
いちばん狙ったのはリタン僧院長のカンサール・リンポチェだった。彼は、僧院の財宝を渡すのを
拒否してきたからというだけでなく、何年もの間、反中国運動の柱であったからである。
リタン族は、僧侶も部族民も、一丸となって中国との戦いに備えた。
ゲリラの戦士 アタは次のように語った。
「 失うものは何もなく、戦えぱ勝つチャンスはありました。はっきりしているのは、もし屈伏すれば、
皆殺しにされるか、奴隷になるかの、どちらかしかないということでした。2万5000人の
中国軍が向かってくるという情報に、我々は、隠していた武器を取り出しました。ゴンポ・タシの
ような有力者は武器庫を開きました。僧院も、倉庫を開いて戦闘準備を整えました。
ユンリ・ポンポという指導者の一人は、遊牧民を大勢集めました。ユンリは私の友人でした。
二十五歳と若く、カンパではそれほどの豪族というわけではなかったけれど、とても尊敬されて
いました。戦いでは、一歩も退かないので有名でした。最高の騎手で、地方きってのガンマンでした。
それまでも、中国軍を度々襲って、武器を奪っており、中国軍も何とかして彼を倒そうと躍起に
なっていたのです。
ある時、中国軍は、ユンリ・ポンポを待ち伏せし、一斉射撃を加えました。硝煙が晴れ上がった後、
倒れていたのは、わずかな人数のユンリ・ポンポの部下と、その何倍もの数の中国兵でした。
中国軍は、ユンリ・ポンポをやっつけたと公表して勝利宣言をしましたが、死んだのは彼の使用人
だったことが後で分かりました。
リタン僧院は、カム随一の寺院で、高い山の上に建てられ、周りは6メートルの壁で囲まれて
いました。門が8つありました。僧侶たちは、まずこの門を固め、一夜にしてリタン僧院は一大
軍事拠点になりました。
500人の僧侶たちが、屋根の上で周囲を監視しました。リタン僧院決起のニュースは、
たちまち広がりました。「僧院が立ち上がったぞ。お寺を守れ」と、数千人の村人が、武器を手に
集まりました。さらに、何百人という遊牧民、数百人の農民も駆けつけたため、リタン僧院は、
まるで一つの大きな町のように膨れ上がってしまいました。かつて、これほど大勢の人間が
この僧院に集まったことはありませんでした。
ユンリ・ポンポが指揮を執っていました。女性も子供も、水を運んだり、バリケードを作ったりと
働きました。彼らは、恐怖心は隠せなかったにしろ、かつてない何かをやっているという昂揚心に、
どの顔も輝いていました。」
別の若い僧侶ドルジェ・シェラプは次のように語った。
「 翌日、20キロ以上も向こうに、荒野を進んでくる中国軍がはっきりと望見できました。
何千人くらいいたのか分かりませんでした。彼らは、僧院からずっと離れた所に陣を張り、
暫壕を掘り始めました。彼らは、大砲をはじめ、ありとあらゆる火器を持っていました。
こちらはお粗末な武器ばかり。でも、食糧だけはたっぷりあって、長期間の籠城に耐える
用意をしていました。包囲は約二か月続きました。時々、中国軍が攻めてきましたが、
いつも、痛い目に遭わせて追い払ってやりました。
そのうち、夜陰にまぎれて、カンパ族たちが中国軍の包囲網を突破し、僧院の近くを流れる
渓流をせき止めて中国軍の飲料源を閉鎖しました。10日ぐらいしてダムを開くと、渇き切った
中国兵たちが、我先勝ちに川に殺到してきました。そこを狙い撃ちして、いったいどれだけ
倒したか分からないくらい中国兵たちを血祭りにしました。」
ゲリラの戦士 アタは再び語る。
「 何年間も中国側に協力しているラマの高僧がいました。二か月の包囲後、中国軍は、
この高僧を使者として僧院に送り込んできました。「今夜もし降伏しなければ、明日爆撃が
行われるはずだ。これは間違いない。私を信じてくれ。今夜中に降伏するか、逃げてくれ。
他に助かる道はない。」 高僧が去った後、実際に、僧院の上空を飛行機が旋回しました。
高僧の言葉は本当だったのです。
ユンリ・ポンポは大集会を開きました。その結果、日が暮れてから、村民の半分以上と
大勢の僧侶たちが裏門から脱出して行きました。しかし、ユンリ・ポンポは、僧院を死守すると
断言し、部下たちがどんなに説得しても応じませんでした。「たとえ一時逃れられたとしても、
いずれ中国軍の弾に当たって死ぬか、降伏して殺されるだけだ。俺はとことん戦ってここで死ぬ。
さあ、他の者は、皆、今のうちに逃げてくれ。」
翌朝、大砲が城壁をぶち壊し、壊れた大穴から中国軍が乱入してきました。正に、血みどろの
白兵戦が展開されました。チベット人、中国兵、双方の死体がいたる所に転がっていました。
ユンリ・ポンポたちは、山の中腹の大きな礼拝堂に立て籠もり、弾の尽きるまで戦い続けました。
他の建物でも同じような凄絶な戦いが繰り広げられていました。
最後に、ユンリ・ポンポは使者を出し、個人的に降伏するのを許されれば武器を捨てて降伏
してもいいと中国軍の司令官に伝えました。この司令官は奇妙な風貌の持ち主でした。顔じゅうに
黒いほくろがあり、手の指には「水かき」があったのです。チベット人は、彼をガラクと呼んで
いました。
「私がユンリ・ポンポだ。これから貴官に降伏する。」 ガラクはその言葉にすっかり喜んで
ユンリ・ポンポのいる建物へ走り寄りました。ユンリ・ポンポは、お守りの入っているガウを
首に巻きつけていましたが、それを取り、手首まで覆う寛衣を身につけました。つまり、
敵意がないことを示す姿を装ったのです。しかし、袖の下には拳銃を隠し持っていました。
ガラク司令官は、衆人が見守る中、最大限の敬意をもって敵将ユンリ・ポンポを迎えました。
「 .あなたは勇者の中の勇者だ。さあ私と一緒に来てください。あなたの仲間が囚われている
建物に案内しましょう。そこでゆっくり休んでください 」、「 いや、私は中国軍の獄舎に入る気は
ない。」
いうや否や、ユンリ・ポンポは拳銃を取り出し、6発の銃弾をガラク司令官に撃ち込んだ。
その場は、一瞬凍りついたように静まり返りました。と、周囲の兵士たちの銃口は一斉に火を噴き、
いつまでも鳴り止みませんでした。
鳴り止んだ時、そこにあったのは原形も留めない肉片の塊りでした。
中国軍は、直ちに作戦を変更し、まだ隠れているはずの残留者の捜索を中断して、徹底的な
爆撃で報復しました。3機のロシア製イリューシン28戦闘爆撃機が飛来し、リタン僧院は、
文字通り、廃墟と化しました。貴重な古い教典、美術品、彫刻、仏塔、チベット最大の仏像、
何もかもが粉微塵に粉砕されたのです。この時の戦いでどれだけのチベット人が殺されたかは
はっきりとは分かりません。少なくとも、3,000人から5,000人が死んだと聞いています。
その日のうちに、同じロシア製イリューシン28戦闘爆撃機がマルカム地区にもやってきて、
リタン僧院と同様、一切を破壊し尽くしていきました。
この頃、私はラサにいて、実際にカム地方がどうなっているのか分からなかったのですが、
状態が悪化の一方なのは知らされていました。ラサの町を歩いていたら、リタンが反乱を起こして
徹底的に破壊されたとの報が拡声器から流れてきました。これ以上、僧侶の誓いを守っては
おれない。「戦うのだ」と、その場で決心したのです・」
国際社会は中国の残虐行為を知らなかった!
読者は、なぜ、国際社会は、こんな中国の残虐行為を止めさせられなかったのか?
少なくとも、大量虐殺に対して抗議の声を上げなかったのか? と疑問に思うだろう。
答えは簡単だ。国際社会は何も知らなかったのである。
1950年代、外国のカメラマンもジャーナリストも、誰一人、チベットに入国できなかった。
チベットの情報は、唯一、インドとの国境から漏れてくるものしかなかった。カリンポンにいた
亡命チベット人の集団だけが生々しい状況を伝えていたが、インドに滞在するわずかな
外国人ジャーナリストたちが、時折、それらの噂を取り上げるくらいで、その真偽も確かめようが
なかった。
インド政府に問い合わせても、インド政府の役人はそんな事実はないと否定するだけであった。
インド政府の役人らによれば、噂はカリンポンにいる反中国分子の流す情報であり、信用できない
という。インド政府は、情報について北京に問い合わせてもみたが、反中国プロパガンダに
過ぎないと、にべもなく否定された。
ネールやその部下たちにとってはそれで十分であった。チベット人民蜂起の事実は、
インド国境を越えて伝わってはこなかったのだ。何世紀もチベットを守ってきた鎖国は、
20世紀になって、最も忌まわしい悪夢を招いてしまったのである。
ゴンポ・タシの言葉に従えば、1956年は、中国の約束事が、耳をかす値打ちもない
大嘘だったことを、明確に、事実をもって証明した、忘れることのできない年
だった。
民主的改革 ?→暴力 土地改革 ?→飢餓 援助 ?→脅迫 進歩 ?→死
民主的改革 ? 土地改革 ? 援助 ? 進歩 ? それらはすべて、暴力、飢餓、脅迫、死に
言い換えてみればずっと分かり易い。それはすべて、中国式共産主義への道だった。
チベットを乗っ取り、完全にわが物にするのが中国の目的だった。これが毛沢東のいう
「大家族の一員としてチベットを抱擁する」という意味だ。
アムド、ゴロク、カム、リタン、どこの村でも中国の虐殺を経験した。抵抗の狼煙を
最初に上げたのは自分たちの村だったというだろう。誰も間違ってはいなかった。
ほんの数週間のうちに、東チベットの抵抗勢力は吹き荒れる嵐となって広がったのだ。
中国兵たちの女性陵辱と僧侶・住民に対する残虐行為
中国兵たちも負けてはいない。チベット人の人妻、娘、尼僧たちを繰り返し強姦した。
特に尊敬されている僧侶たちは狙いうちされた。僧侶たちは人前で尼僧と性交を強いられた。
僧侶たちは、人前で、そこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。あくまでも拒否した
ある僧侶は、中国兵に腕を叩き切られた。中国兵に「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。
僧院は馬小舎にされた。
大勢のチベット人が、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、
馬や車で引きずり殺されていった。
アムドでは、高僧たちが、中国兵たちに散々殴打されて穴にほうり込まれた。中国兵は、
村民に、その上に小便をかけろと命じた。さらに、高僧たちは、「霊力で穴から飛び上がって
見せろ」と中国兵に嘲られた。揚句に、高僧も村人も、中国兵たちに全員射殺された。
怯える子供たちの目の前で、両親は、中国兵に頭をぶち抜かれた。大勢の少年少女が
家から追われて中国の学校や孤児院に強制収容されていった。
貴重な仏像は冒演され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られた。経典類は
トイレットペーバーにされた。僧院は馬小舎や豚小舎にされるか、リタン僧院のように
跡形もなく完全破壊された。
リタン省長は村人の見守る中で、中国兵に拷問され、射殺された。何千人もの村民は
強制労働に駆り出され、そのまま行方不明になった。
僧院長たちは、自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたんだ?」と中国兵に嘲られた。
国際法曹委員会報告書は、「1956年終わり頃までに、ある地域では、ほとんどの男は
断種された。女性は中国兵に犯され妊娠させられた。ある村では、25人の富裕な村人が
人ぴとの前で生きながら焼き殺された。また別の村では、24人の親が、子供を中国の
公立学校へ行かせるのを拒んだ罪で、目に釘を打ち込まれ、虐殺された」と記述している。
チベットにおける中国の恐怖政治は止むことなく続いた。毛沢東の中国は、まったく新しい
残酷社会をチベットじゅうに浸透させていった。
この中国の残虐行為を止める者は一人もいなかった。
もし、地獄がこの世に存在するとしたら、それは、正に、1956年の東チベットであった。
ゲリラ部隊は、緒戦では、中国に対する憎しみに駆られて、むしゃらに挑んだ。戦術も何もなく、
敵よりも、自分たちの被害を大きくしていった。だが、暫くすると、戦い方は改良されて、
組織立っていった。チベット人は、元来、戦さ巧者である。不意討ちや、熟知した地形を、十分、
計算に入れた戦い方が功を奏し始めた。
僧院やミマンは、武器と情報をどしどし提供した。ゲリラを支援する住民は日に日に増えていった。
裏切り者は、ほとんどといっていいくらい出なかった。
さらに、対中国抵抗戦の主役は、いつしか女性に移っていった。男たちは厳しい中国の追究の
手を逃れて村から離れており、その穴埋めは女性がやるしかなかった。
カンパ・ゲリラの一人、ナワン・チェンモは述懐する。
「 昔からカンパ戦士は、戦さの最中でも自分たちの家族と一緒に移動していました。ですが、
今度のゲリラ戦ではそんな余裕はなく、常に姿を暗まし隠れていなくてはなりませんでした。
こういう時は女の出番です。我々の隠れ場を知っているのは彼女たちだけですから、
山岳地帯に潜んでいる我々に、いつも敵の居場所を知らせたり、色んな情報を運んだり
してくれました。
我々が村に近づく時には、周辺に中国兵がいるかどうかいつも分かっていました。
敵がいれば、女性たちが、必ず、赤い衣服や布を干して教えてくれました。中国軍は、
そんなことに気づいていませんでした。女性たちが食糧を運んでくれなければ、1週間も
山に立て籠もってはいられません。」
中国軍に対するゲリラ戦
1956年の終わり頃は、東チベットの何万人ものチベット人が、中国軍に対するゲリラ戦に
従事していた。何千平方キロメートルものチベットの地に、中国兵は、単独では足を踏み込め
なかった。強力な軍事拠点以外には、中国軍にとって安全な場所はなかったのだ。
最も重要な、カム地方のチャムド ー ラサ間の幹線道路は、襲撃が余りに頻繁過ぎたため、
護衛兵付きの40〜50台のトラックで武装輸送隊を組むしかなかった。どのトラックにも、
重装備の兵士が数人乗っていて、輸送隊は、のろのろと徐行するしかないのだ。
道を曲がったとたん、道路が爆破されていたり、頭上から岩石が転がってきたり、
いつチベットのゲリラ決死隊に襲われるかしれないからだ。中国軍のトラック運転手は、
この地域の道路を「死の道」と呼んでいたが、正にその通りだった。
. ロジャー・マッカーシーはその著書で、「騎乗したゲリラは東チベット地方で、度々、
中国軍拠点を奇襲し、多大な損害を与えた。カムやアムドでは襲撃された中国軍陣地から
上がる火の手や煙が、何週間もつづくのは少しも珍しくなかった 」 というゲリラ指導者の言葉を
記述している。
中国軍にも騎兵隊があった。しかし、死ぬのを何とも思っていないチベット・ゲリラ騎兵隊には
なす術もなく蹴散らされた。急坂もものかは、大刀を振りかざし、銃を放ちながら、突然、
殺到するゲリラの前で、中国兵は逃げ惑い、我勝ちに逃走していった。
ラサ市の窮状
カム、アムド、ゴロク地方からラサに流れ込んでくる避難民の数は日に日に膨れ上がった。
それに加えて、4万人の中国兵が、ラサと、ラサ近辺に群がっていた。そのため、食糧、燃料の
供給が逼迫した。今や、食糧と燃料の確保は、ラサ市民の大問題となった。ラサ市民と避難民の
窮状は深まる一方であった。ラサ市は、正に、一触即発状態になっていった。
中国人民解放軍のチベット人大虐殺:
1949年〜1979年
(中国の極秘資料より抜粋)
@
中国人民解放軍は、1950年10月7日〜25日にかけて、東チベット各地で
5,700人以上のチベット反乱軍を「根絶=殺害」した。さらに、
2,000人以上を投獄した。その後も、東チベット各地で、チベット人に対する
拷問・殺害、僧院への砲撃、遊牧テント一掃などの残虐行為を継続して行った。
A
中国人民解放軍は、1952年〜1958年にかけて、アムドのカンロ地区で、
996件の反乱を鎮圧した。10,000人以上のチベット人を「根絶=殺害」した。
アムドのゴロク地区では、1956年には130,000人であった人口が、
1963年には、およそ60,000人にまでに減った。
B
パンチェン・ラマ10世はこの地域について次のように語った。
「 青海省での中国人民解放軍の残虐行為を報道する映画があれば、
その映画を見た者は大きな衝撃を受けるに違いない。ゴロク地区では、
多くの人たちが殺された。死体は丘の上から濠に投げ込まれた。
中国人民解放軍の兵士たちは遺族に向かって、「反乱が一掃された。
お前たちはお祝いをしろ」と言って、無理矢理、死体の上で躍らせた。
最後に、遺族に向かって機関銃を掃射し、皆殺しにした。 」
「 アムドとカムにおいて、人々は筆舌に尽くしがたいほどの残酷な
仕打ちを受けた。10人ずつ、あるいは20人ずつに分けて銃殺された。
中国人民解放軍こうした行為は、人々の心に深い傷を残した。」
「1959年3月10日にラサで発生した民族蜂起が弾圧された際には、
3日間で10,000〜15,000人のチベット人が殺された。中国人民解放軍
チベット軍区政治委員会の1960年の秘密文書によれば、1959年3月〜
1960年10月までの間に、中央チベットだけで87,000人のチベット人が
殺された。」
C
中国のチベット侵略による、1950〜1976年の間のチベット人犠牲者数は、
次のように推定されている。合計 1,207,387人である。
A. 173,221人 が、刑務所もしくは強制収容所で死亡。
B. 156,758人 が、処刑死。
C. 342,970人 が、餓死。
D. 432,705人 が、戦闘もしくは暴動中に死亡。
E. 92,731人 が、拷問死。
F. 9,002人 が、自殺。
合計 1,207,387人 (1980年代以降の犠牲者数は含まれていない)
D
1980年から、現在、2010年までの30年間にも、焼身自殺などのニュースが
数多く報じられている。中国人民解放軍のチベット人に対する残虐行為が
続いていると思われる。
国際法律家委員会のチベット報告書
Report on Tibet AND THE CHINESE PEOPLE'S REPUBLIC
by International Commission of Jurists
Legal Materials on Tibet
ICJ Report on Tibet and China (excerpt) (1960) [Total Pages 346]
(EXCERPT)
REPORT TO THE SECRETARY GENERAL
The Legal Inquiry Committee on Tibet has the pleasure to submit
to the International Commission of Jurists its Report on those
aspects of events in Tibet which the Committee was called upon
by its terms of reference to consider.
The Committee came to the following conclusions:
GENOCIDE
According to the Convention for the Prevention and Punishment
of Genocide, which was adopted by the General Assembly of
the United Nations in December, 1948, human groups against which
genocide is recognized as a crime in international law are national,
racial, ethnic and religious.
The COMMITTEE found that acts of genocide had been committed
in Tibet in an attempt to destroy the Tibetans as a religious group,
and that such acts are acts of genocide independently of
any conventional obligation.
The COMMITTEE did not find that there was sufficient proof of
the destruction of Tibetans as a race, nation or ethnic group as such
by methods that can be regarded as genocide in international law.
The evidence established four principal facts in relation to genocide:
(a) that the Chinese will not permit adherence to and practice of
Buddhism in Tibet;
(b) that they have systematically set out to eradicate this religious
belief in Tibet;
(c) that in pursuit of this design they have killed religious figures
because their religious belief and practice was an encouragement and
example to others; and
(d) that they have forcibly transferred large numbers of Tibetan
children to a Chinese materialist environment in order to prevent
them from having a religious upbringing.
The COMMITTEE therefore found that genocide had been committed
against this religious group by such methods.
HUMAN RIGHTS
The COMMITTEE examined evidence in relation to human rights
within the framework of the Universal Declaration of Human Rights
as proclaimed by the General Assembly of the United Nations.
The COMMITTEE in considering the question of human rights took
into account that economic and social rights are as much a part of
human rights as are civil liberties. They found that the Chinese
communist authorities in Tibet had violated human rights of both kinds.
The COMMITTEE came to the conclusion that the Chinese authorities
in Tibet had violated the following human rights, which the COMMITTEE
considered to be the standards of behavior in the common opinion
of civilized nations:
ARTICLE 3
The right to life, liberty and security of person was violated by acts
of murder, rape and arbitrary imprisonment.
ARTICLE 5
Torture and cruel, inhuman and degrading treatment were inflicted
on the Tibetans on a large scale.
ARTICLE 9
Arbitrary arrests and detention were carried out.
ARTICLE 12
Rights of privacy, of home and family life were persistently violated
by the forcible transfer of members of the family and by indoctrination
turning children against their parents. Children from infancy upwards
were removed contrary to the wishes of the parents.
ARTICLE 13
Freedom of movement within, to and from Tibet was denied by
large-scale deportations.
ARTICLE 16
The voluntary nature of marriage was denied by forcing monks and
lamas to marry.
ARTICLE 17
The right not to be arbitrarily deprived of private property was
violated by the confiscation and compulsory acquisition of private
property otherwise than on payment of just compensation and
in accordance with the freely expressed wish of the Tibetan People.
ARTICLE 18
Freedom of thought, conscience and religion were denied by acts
of genocide against Buddhists in Tibet and by other systematic
acts designed to eradicate religious belief in Tibet.
ARTICLE 19
Freedom of expression and opinion was denied by the destruction
of scriptures, the imprisonment of members of the Mimang group and
the cruel punishments inflicted on critics of the regime.
ARTICLE 20
The right of free assembly and association was violated by the
suppression of the Mimang movement and the prohibition of meetings
other than those called by the Chinese.
ARTICLE 21
The right to democratic government was denied by the imposition
from outside of rule by and under the Chinese Communist Party.
ARTICLE 22
The economic, social and cultural rights indispensable for the dignity
and free development of the personality of man were denied.
The economic resources of Tibet were used to meet the needs of
the Chinese. Social changes were adverse to the interests of
the majority of the Tibetan people. The old culture of Tibet, including
its religion, was attacked in an attempt to eradicate it.
ARTICLE 24
The right to reasonable working conditions was violated
by the exaction of labour under harsh and ill-paid conditions.
ARTICLE 25
A reasonable standard of living was denied by the use of the Tibetan
economy to meet the needs of the Chinese settling in Tibet.
ARTICLE 26
The right to liberal education primarily in accordance with the choice
of parents was denied by compulsory indoctrination, sometimes after
deportation, in communist philosophy.
ARTICLE 27
The Tibetans were not allowed to participate in the cultural life of
their own community, a culture which the Chinese have set out
to destroy.
Chinese allegations that the Tibetans enjoyed no human rights before
the entry of the Chinese were found to be based on distorted and
exaggerated accounts of life in Tibet. Accusations against the Tibetan
"rebels" of rape, plunder and torture were found in cases of plunder
to have been deliberately fabricated and in other cases unworthy of
belief for this and other reasons.
THE STATUS OF TIBET
The view of the COMMITTEE was that Tibet was at the very least
a de facto independent State when the Agreement of Peaceful Measures
in Tibet was signed in 1951, and the repudiation of this agreement
by the Tibetan Government in 1959 was found to be fully justified.
In examining the evidence, the COMMITTEE took into account events
in Tibet as related in authoritative accounts by officials and
scholars familiar at first hand with the recent history of Tibet and
official documents which have been published. These show that
Tibet demonstrated from 1913 to 1950 the conditions of statehood
as generally accepted under international law. In 1950 there was a people
and a territory, and a government which functioned in that territory,
conducting its own domestic affairs free from any outside authority.
From 1913-1950 foreign relations of Tibet were conducted exclusively
by the Government of Tibet and countries with whom Tibet had foreign
relations are shown by official documents to have treated Tibet
in practice as an independent State.
Tibet surrendered her independence by signing in 1951 the Agreement
on Peaceful Measures for the Liberation of Tibet. Under that Agreement
the Central People's Government of the Chinese People's Republic gave
a number of undertakings, among them: promises to maintain the existing
political system of Tibet, to maintain the status and functions
of the Dalai Lama and the Panchen Lama, to protect freedom of religion
and the monasteries and to refrain from compulsion in the matter
of reforms in Tibet. The COMMITTEE found that these and
other undertakings had been violated by the Chinese People's Republic,
and that the Government of Tibet was entitled to repudiate
the Agreement as it did on March 11, 1959.
On the status of Tibet the previous inquiry was limited to considering
whether the question of Tibet was a matter essentially within
the domestic jurisdiction of the Chinese People's Republic.
The COMMITTEE considered that it should confine itself
to this question and it was therefore not necessary to attempt
a definitive analysis in terms of modern international law of
the exact juridical status of Tibet. The COMMITTEE was not concerned
with the question whether the status of Tibet in 1950 was one of
de facto or de jure independence and was satisfied that Tibet's
status was such as to make the Tibetan question one for the legitimate
concern of the United Nations even on the restrictive interpretation
of matters "essentially within the domestic jurisdiction" of a State.
Purshottam Trikamdas, Chairman
Arturo A. Alafriz
T.S. Fernando
K. Bentsi-Enchill
Ong Huck Lim
N.C. Chatterjee
R.P. Mookerjee
Rolf Christophersen
M.R. Seni Pramoj
ラサ
ポタラ宮殿
チベットの僧院
西寧(シーニン)Xining: 北緯36度33分:東経101度45分
ゴルムド 北緯36度37分:東経 94度92分
タングラ峠 Tanggula Pass:北緯33度00分:東経91度39分
ラサ Lhasa: 北緯29度39分:東経 91度07分
青蔵鉄道−西寧〜ラサ間の全長は1,956キロ、所要時間は約25時間である。
2007年1月2日、NHKから特別番組『青海チベット鉄道〜世界の屋根2,000キロをゆく』が
放送された。広大な崑崙山脈、長江の源流・トト河、天空さながらのタングラ高原等の映像は
驚きであつた。通過する最高地点・タングラ峠の標高は5072メートル、鉄道通過地としは
世界最高である。中国の経済的・技術的実力が窺える興味深い番組であった。
パイク湖一帯
チベット、パイク湖、ヒマラヤ山脈、エベレスト、ネパール、カトマンズ、インド北部
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