日本戦争経済の崩壊
-The United States Strategic Bombing Survey
                    2012年3月 Minade Mamoru Nowar
出典:

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第1章 真珠湾への道

1.政治的方向

日本の戦争能力をほんの一瞥(いちべつ)しただけで、日本が米國との戦争を
決意したのは、そもそも、正氣の沙汰だったのかという疑問がすぐに浮んでくる。

だが、国の諸政策の実施においては、誤算ということと、冒険的狂氣の沙汰
との間に、はっきりとした線を引くことはいつも困難である。日本を1941年
12月7日(米国時間)の対米開戦という破局へと引きずっていった日本の諸政策の
跡を顧みるとき、政策全部が、日本軍部の誇大妄想的膨脹主義者のせいだと
大雑把に片付けてしまいたくなる。

そして、日本の軍部や経済企画家たちが持っていたのかも知れないところの
合理的な企画を探って見ようとする氣もなくなり勝ちである。

けれどもそのような態度は全く適切ではない。

というのは、それでは、日本の戦略を理解することができなくなる。
また我々がほとんど4年間も戦ったところの、敵・日本の性質が明かにされない
からである。

日本の支配者たちが、過去15か年間、重大な誤りを犯していたことには
疑問の余地はない。

そして、彼等の犯した誤りの最大なものが対米戦争であったことは、
今更、論ずるまでもない。

日本国民を大きな不幸に追い込んだものは、責任ある地位にあった
特定個人の狂気の沙汰とか、失敗とかだと断定すべきではない。

日本の支配者たちが熟慮したはず国策が日本国民を大きな不幸に
追い込んだのである。

熟慮されたはずの国策の欠陥は十分に吟味されなかった。
熟慮されたはずの国策が成功するチャンスの有無の測定が正しくなかった。

このことが日本国民を大きな不幸に追い込んだのである。

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2.膨脹主義の根源

日本の膨脹主義の起源は遠く明治維新から始まっている。

日本の杜会の政治機構が、その経済成長のための必須條件に合致する
ように調整されたのは、この明治の目まぐるしい産業革命の時期であった。

そして、この調整の條件こそが、すこぶる重要なのであった。
それは全国的封建支配の完全なる破壊を含まなかった。
特に封建的地主の地位を実質的には打破しなかった。
一口に言えば、日本は「プロシアのたどった道」を進んだわけである。

明治・日本に新しく生れ出た産業資本家は伝統的な封建的支配階級と
妥協した。彼等は近代資本主義経済を支障なく発展させるために必要な
制度上の諸改革を大部分獲得した後、大小の封建的地主に譲歩した。

それは、軍隊に対する実際上は無制限の支配力や、国家行政における
支配的地位などであった。こうした妥協の結果、国家の政策が、いつも、
新旧両勢力間のはてしのない取引の過程に変化するという、ユニークな
抑止と均衡の仕組を生み出した。

天皇制は対抗する勢力の闘争における統合的要因となった。

個々の政治.的決定は狡猾な黒幕共の複雑な取引で決まるのだが、
それらの政治的決定が国民の前に提示されるときは、討議や批判を
超えた天皇の最高意志として示される。

天皇を神格にまで高め、天皇の公正無私が強調され、天皇は
いかなる圧力や利害からも独立であるとされることによって、
天皇の中に国家的象徴を創作し、それが内部闘争から
頻繁に更迭される政府に安定感と権威を与えるのに役立った。

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深く根ざした政治的、経済的闘争の激しい利害対立の真っ只中にも、
上昇期の産業家階級と古い軍事的官僚的支配階級の双方から、
無條件で熱烈に支持され、国民全体も好意ある支持を惜まなかった
ただ一つの共通目的があった。

このただ一つの共通目的とは、対外膨脹によって日本の拡大強化を図り、
アジアの諸国家のうちにあって支配的な地位を占めようとすることであった。

この方向への圧力はすこぶる大きなものであった。日本の過剰人口は
すでに不安を醸す(かもす)ほどの比率に達していた。国内諸資源の
貧弱なことは、生産や所得の進展をきびしく制約するようにみえた。

産業上の熟練をつみ、これによって、原料を輸入し、加工品の輸出を
はかる工業を育成することだけが、経済的エネルギーの唯一の
捌け口(はけぐち)であり、低い生活水準の継続的悪化を防止できる
只一つ(ただひとつ)の方法と考えられた。

したがって、日本の産業家にとって、原料供給地の支配と輸出市場の
獲得は、この国の経済繁栄のための根本條件と思われていた。

日本の軍事的支配者たち=軍部も、この対外膨脹論にすぐさま同意した。
対外膨脹論は巨大な軍事施設の維持が保証されることであったし、
軍部に政治的権力地盤をもたらし、軍部の指導性を政治の中央舞台に
及ぼすものであった。

日清戦争のすばらしい成功によって、日本は台湾と朝鮮の支配を確保した。

それにもまして劇的な1905年の日露戦争の勝利は、この国策=
対外膨脹論が根本的に正しいことを立証するようにみえた。

日本は開国・明治維新後、数十年をいでずして世界の強国となり、
アジアにおける政治的経済的闘争において、一際(ひときわ)目立つ
存在となるに至った。

第1次世界大戦では、日本の地位に若干の後退があった。
戦争中の経済の繁栄はかなり顕著であった。国際的地位も向上したかに
みえたが、ヴェルサイユにおいて日本のかち得た直接の利益は乏しいもの
であった。領土は一寸も獲得できなかった。経済的利権はほとんど
得られなかった。

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このような第1次世界大戦の結果は、日本の軍事的官僚的支配階級に
根深い悔い(くい)を残すことになった。それは1920年初頭における
イタリア人のセンチメントに非常に似かよって(にかよって)いる。
ヴェルサイユの悔い(くい)をはらすことが、その後20年間における
日本の外交政策の底流として残った。

この底流は、いささかも日本の国策=対外膨張の方向を
変えるものではなかった。変えるどころか、反対に、数十年来の、
日本の拡大強化、経済的膨脹傾向に拍車をかけることであり、
さらには、それに、道徳的憤怒の刺激をつけ加えた。

しかし、この膨脹主義イデオロギーは日本杜会においては、
政策を作る上層階級に限られ、対外膨張主義が国民の一般的運動の
形をとることは、大恐慌の時までなかった。

この意味で、1930年代初頭は、日本歴史における重要な転回点で
あったといえる。世界恐慌によって引き起された厳しい経済的困難は、
日本の中産階級、特に、田舎から徴募された陸軍士官たちをして、
この経済的危機から脱出すべき、何らかの急進的な行動の必要を
目覚めさせた。

この年若く、精力的な陸軍士官たちは、日本が急激な貧窮化の危険に
曝されて(さらされて)いるにもかかわらず、日本の旧来の経済的・社会的
秩序にあっては、問題の積極的解決の見込はないと知るや、
国内病弊の伝統的な萬能薬たる対外膨張主義に身を投じた。

1932年5月の犬養首相暗殺までの数年間の、若い陸軍士官たちの
動きをファシズムというべきかどうかは、ただ定義の問題である。

かれらの動きには、ファシズム、特にイタリア型のファシズムと非常に
似通った(にかよった)点があるが、同時に、いちじるしい相違点もあった。

ヒトラーとムッソリー二の思想は、たしかに、この動きの理論的裏付けに
ずいぶん役立っていた。対外関係においては、リッペントロップや
チアノのやり方を容易に真似る(まねる)ことはできた。

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だが日本のナショナリストがヨーロッパにおける彼らの先駆者と
非常に違っていたのは、彼らの国内勢力であった。多数の日本の市民が
徒党政治に登場し、国策の形成に積極的に参加しようと試みたことは、
明治維新後の60年で、おそらく初めてのことであり、また青年将校団の
急進派には大衆の支持が集ったといっても間違いではない。

1931年の日本の政治的事件の中心に活動した軍国主義者や
ナショナリストは、ファシスト的意味における組織された大衆の支持
持っていなかった。

したがって、政府を転覆し、ファシスト独裁制を樹立することはは不可能
であった。急進的要素を持つ人物でも、一旦(いったん)、権力の地位に
上ると、どうしても伝統的勢力との妥協という結果にならざるをえなかった。

軍部は侵略的膨脹政策を遂行しつつあるのに、議会に有力な根拠を持つ
大財閥と旧来の保守政党指導者たちは、依然、国内問題における支配を
続けることを保証されていた。

天皇はここでも再び共通の分母となった。天皇の人気ある立場は、
以前の勢力結合を支えたと同じように、この新しい勢力結合を支持した。
急進分子は大部分馴化されて、日本政治の伝統的な流れの中に
溶け込まされてしまった。

ヒンデンブルグやビクトル・エマニエルが、ヒトラーとムッソリーニとの関係で
成し得なかったところの、すなわち、彼らを「ノーマルな取引」の鋳型に
誘導することを、天皇はさしたる因難なくしてやりおおせた。

ヒンデンブルグやビクトル・エマニエルと違って、天皇は片隅へ
押しのけられることはなかった。日本では、天皇の認可を得ることは、
大衆の認可を意味していた。

天皇の支持を得ることは、ほとんど全部の国民の支持を得ることを
意味していた。ほとんど全部の日本国民は天皇を心から崇拝していた。

神道の実践たる神社で祈願することは日本国民の生活の欠かせない
伝統的習慣であった。

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その結果として日本政府が政治的にも法制的にも継続することは、
支配階級として歓迎するところであった。新しい勢力は、様々の圧迫や
利害グループがはりめぐらした蜘蛛の網によって再びとらえられて、
現存の杜会及び経済秩序の脅威として発展することにはならなかった。

しかし、その結果、新たに登場したナショナリストによって口火(くちび)を切られた
領土拡大熱は、大半は当初の力と目的の単一性を矢わざるを得なかった。

いかなる政治的措置をとるべきか、いかなる軍事作戦を準備すべきか、
いかなる経済手段によるべきか等、それらのすべては、密室における取引の
目標とされ、競争する仲間同志の絶えざる闘争によらざるを得なかった。

今後の戦略や戦術の特質を、いつも、はっきりさせられないような国内政治
状況のまま、日本は「決心のきまらない」侵略者として、再び世界の闘争の
舞台に立ち現れたのであった。

注.華北は現在の中国の北部、満州は現在の中国東北部。

3.満州の併合

満州への遠征はこの軍部・大財閥・保守政党連立政権の最初の事業であった。

この動きにからまるイデォロギーはしばらくおき、また、満州に王道楽土の輝かしい
模範国を建設するのが目的という、「国民社会主義」の国家を建設するのが目的という、
国際社会向けの宣伝を無視して、実態を把握しようとするならば、日本の満州征服の
目的はきわめて明白である。

戦略的にみて、満州を支配すれば、日本はアジア大陸に確固たる基地を
得ることができる。

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それから先の作戦が、対華であれ、対ソであれ、いずれにしても、満州は、空軍や、
地上部隊、及び補給のために、欠くことのできない作戦基地になることができた。
満州の経済的資源は、日本の膨脹主義の兵器廠として有望と考えられた。
豊富な石炭、鋼、非鉄金属は、投資に対する十分な報酬が期待された。

さらに、満州で産業が開発されれば、日本ではあふれている労働力の重要な
捌け口(はけぐち)になることができよう。それと同時に、陸軍は、その国内における
地位を一層強化するための堡塁(ほうるい)をかち得ることを望んでいた。

国際情勢もまた、この一撃にとってまことに絶好であった。中国は内乱によって
分裂しており、ソ連は5か年計画の真っ最中で、軍事力と経済力は、共に低調であった。

国内問題に没頭して外交政策についての共同歩調がとれなくなっていた西欧諸国が、
日本の満州への一方的進出に際して、強硬に抵抗するとは思えなかった。

軍事的にも政治的にも、この冒険は容易な勝利に終わった。満州占領は急速に進み、
ほとんど戦闘らしい戦闘もなく終了した。傀儡(かいらい)政権が樹立されたが、
これに対しても大きな反対はなかった。

国際的紛糾は、一時は目立ったが、結局、さしたることなくてすんだ。
軍国主義グループの主力部隊であった関東軍は全満州を占領し、急速に
その独占的支配を打立てた。

しかし経済的には、満州での実験はまもなく失敗であることが判った。
関東軍によって作られた半ファショ政権は、保守的=投機的な大財閥が
満足するものではなかった。大財閥が満州への投資をよく調べてみると、
収益があがるのは遠い先であることがすぐに判った。

地方の経済的開発の前には、相当大がかりに鉄道や道路をつくり、建物を建て、
その他、企業的経営に必要なさまざまの分野での根本的な改善をしなければ
ならなかった。国際貿易で、比較的早期に収益をあげるのに慣れていた日本の
大財閥は、満州での長期投資に莫大な資金を固定さす気にはなれなかった。

だがもっと重要なのは、日本には海外投資に向けられるような余剰資本が
ほとんどないことが、すぐに明かになったことである。

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経済学者や政治的企画者の内で共通の信念となっていたところの、
日本は資本を輸出する帝国主義の時代に入り、資本の捌け口(はけぐち)
必要となったのだというのは、まったくの誤りであった。

日本の産業に欠けているものは、輸出商品の市場と低廉な原料の供給であり、
長期海外投資の機会ではなかった。海外投資は、将来の潜在的競争のもとに
なるから、日本にとっては不利だとするのが現実であった。

だからといって、日本政府自身が必要な海外投資をできるような情勢は、
もともとなかった。

帝国主義的一派の侵略的事業に、いやいや片棒を担がされ、大財閥や官僚たちの
強い影響下にあった東京の内閣は、断乎として経済的膨脹政策に邁進することは
できなかった。

そのようなわけで、満州占領後、最初の5か年間から、日本は経済的には、ほとんど、
何も得るところがなかった。

強いていえば、関東軍が、自分の軍需品補給を確保するためにやり始めた大規模な
開発だけであった。日本の大財閥は満州で企業経営をやるのをひどく澁った。

それで、鮎川や、日産グループのような新興企業が先駆者の役割をつとめた。
彼らは、銀行や実業界から決して好い顔をされなかった。新参者扱い、侵入者扱いを
された。彼らは、その事業の金融に、管理に、必要な人材を得るのに、
固定資本を調達するのに、資材の獲得、等々に、常にさまざまな因難に直面していた。

それにもかかわらず、急進的分子の間では、満州遠征は大きな政治的期待の的と
なっていった。関東軍および軍部全体が、日本の国策を決定する上で、満州は
ますます重要な要素となった。

日本の満州支配は、巨大な政治機構を軍部の手に委ねる(ゆだねる)ことになった。
政府の企業庇護機能を軍部の手に委ねる(ゆだねる)ことになった。

軍部の満州支配によって、そこから直接に利益を受けているもののほかに、
なお多数の中小工業者や、あらゆる商人等は、軍部の庇護の下に入った。
彼らは、軍部の政権要求に対して有力な支援を行った。

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多くの政治家たちは、はじめは用心深く、軍部の膨脹政策に疑問を持っていたが、
軍部と密接に協力した方が政治的に有利だというふうになっていった。
東京の政界の空気は、軍部の急進的分子や、その取巻き連中によって
著しく影響されるようになっていった。

大東亜共栄圏のスローガンは、日本の国策=膨張主義の公式標語となった。

近衛公のごとき旧派の政治指導者の優れた代表者たちさえ、
大東亜共栄圏に組み入れるべく、侵略が予定されている国に関係する組織の
委員会に名を連ねることになった。

1933年−1937年、世界各国の経済状況が改善された。同様に、
日本の経済状況も改善されたが、これは膨張主義の直接的効果であったと
広く解釈されている。

4.華北(かほく)への進出
注:華北は現在の中国の北部。

1936年になると、更に次の進出のための舞台が用意された。
国際状勢は日本の側から見ると更に好転していた。

10年以上もくり返されている内乱のため、中国は軍事的に無能力であった。
不安定な国民党政権は、国内の反対派と外国の圧迫とに、同時に耐えられる
とは思えなかった。

日本の満州進出や、その後の、ドイツ、イタリアの同種の意図に対する
大国の反応に徴しても、日本が、もし、侵略行動をもっと押進めても、
何等、重大な反日行動がとられる懸念はなさそうに見えた。

かくて、1937年の華北への進出は、大戦争になるという予想なしに行われた。
このことは、本調査団が行った多数の日本軍将校の訊問によって確証された。

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当時、日本の国策の遂行に責任のあった者たちが、固く信じていたことは、
中国政府は直ちに日本の要求に屈して、日本の傀儡(かいらい)の地位に
自らを調整していくであろうということであった。

中国全土を占領することは、必要とも、望ましいとも、考えたことはなかった。
軍隊は中国に派遣されたが、軍事的決意を強行するためにではなく、
ただ日本の権力の象徴として役立たせるつもりであった。
交渉で、あるいは威嚇(いかく)で、万事(ばんじ)かたがつくと考えていた。

中国への進出の動機は、日本を満州へ導いたものとほぼ同様であったが、
陸軍の当面の利害は、もっとはっきりしたものだった。大規模な海外派遣部隊が
ぜいたくに生活できるような、すばらしい牧草地を確保したいということであった。

小商人や、有象無象(うぞうむぞう)の輸出入業者が占領地へ流れ込んで、
日本軍司令部に、政治的経済的な影響を及ぼすようになった。

かくて、華北の支配は、日本の政治的有力者や、海外利権あさり企業にとっては、
不断の幅祉の基礎をなすものになった。

しかし、中国における海外利権あさり企業は、ごく初期のうちに行詰りに逢着した。
それは、日中戦争を軍事的勝利で、あるいはより重要なことなのだが、政治的勝利で
終結させることができなかったことである。

日本には、4億人の中国を軍事的に支配することは、到底、できなかった。

日本には、中国を支配する人材力も、資源もなかった。万一、仮に、できるとしても、
中国を軍事的に屈服させることは、日本の侵略戦争目的を失わせてしまう。

万一、仮に、中国が完敗した暁(あかつき)には、必然的に、蒋介石政権は
崩壊するだろうが、日本は蒋介石政権に代る、自己の行政機関を作り得るとは
考えられなかった。

日本が望んだのは中国市場の独占であった。しかし、それがゲリラで荒らされ、
そして敵意にみち、恐らくは、共産主義が支配する中国となってしまったなら、
日本の経済的エネルギーの捌け口(はけぐち)としては意味がなくなってしまう。

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従って、日本の意図を成功させる唯一つの(ただひとつの)解決策は、中国の
民衆に十分な人気があり、そして同時に、侵略者・日本と好意的に協力するような
中国政府をつくることであった。

このような解決を求めることが日本の対華戦略を決定づけた。
中国の抵抗を粉砕するための全面的な軍事的努力は一度も計画されなかった。
重慶の蒋介石政権を恐怖させるための断続的な打撃を加え、そのあとで交渉すると
計画していた。実際に交渉を行った。しかし、蒋介石との交渉は完全な失敗に帰した。

国内的理由と、一部は国際的理由から、蒋介石は降伏を拒んだ。南京における
傀儡政権(かいらいせいけん)の樹立は、情勢を悪化させたにすぎなかった。
蒋介石を、一層、非妥協的にならざるえないことに追い込んだ。

かくて、日中戦争は終結の目途なく、だらだらと延びるばかりであった。
そうかといって、日本は中国から派遣軍を撤退させることができるかといえば、
これも不可能なことであった。なぜならば、陸軍の政治的地位というものは、
中国の要地を確保しているということに基くからであり、また、日本における
政治権力の均衝というものが、陸軍の地位を土台にして保たれていたからであった。

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5.世界戦争への介入

日中戦争終結の希望が見えかけたのは、1939年9月に欧州の戦争が始まってからの
ことであった。欧州にあがった戦争の火の手は、西欧の注意をアジアから転ぜしめた
のみではなく、蒋介石自身が、優勢な枢軸連合に傾こうとする可能性を生んだ。

新しく生まれたこのような状況にあっては、欧州での戦争を利用して、日本は、更に、
拡大強化を図らねばならぬということは、日本の軍民連合政権の、あらゆるグループに
とっては、自明なことであった。問題となるのは、手段と行動の時期だけであった。

フランスの没落は、仏印を格好な目標たらしめた。日本は1940年には、ヴィシイ政権を
脅迫して、北部仏印についての譲歩をかち得た。更に1941年7月、南部仏印に
軍事基地を得るためにペタン政権と「仏印進駐協定」を結ぶ手筈をすすめた。

日本は、仏印進駐は、大きな敵対行為を引き起こすことはないだろうと予想していた。
このことは、文書や、日本軍将校の訊問から明らかにされている。

仏印進駐を背後から推進したのは海軍の急進的分子であった。彼らは、日本の
太平洋における覇権を維持するためには、十分な石油を持つことが絶対に必要だと
考えていた。だからこの行動は、中国に対する日本の戦略的地位の改善を目的とする
のみで、他意はないとの日本政府の公式説明は、米国、英国、ソ連を騙すものであった。

日本の最終的目的は、シンガポール、ホンコン、及び蘭印にあった。
仏印は、最終的目的を達成するための必須な基地と位置づけられていた。

米国政府の強烈な反撃には、日本は、どちらかといえば、不意打を喰った形であった。
というのは、ドイツはソ連を攻撃し赫々たる(かくかくたる)成功をおさめていた。
米国は対ドイツ戦において英ソを支援する態度を明かにしていたが、英国は
すこぶる危険な状態にあった。このことを考えれば、米国が日本の行動に対し、
真剣に反抗するだろうとは思わなかったからである。

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ルーズベルト大統領の命令による日本資産の凍結と、これに続く石油禁輸は、
日本が予想した報復の程度を越えたものであった。かなり長い間続けられてきていた
日米交渉は、突然、最大の緊迫状態に入った。

石油の輸入を絶たれたので、日本海軍は、借りものの時間の上に活きることになった。
非常に近い将来、おそらく、1年か1年半の内に、貯蔵されていた石油は消耗されてしまう
であろう。そうなれば、日本の手中にある最も重要な切札たる太平洋における海軍力の
優勢は破れてしまうであろう。

こうして中国での行き詰りが日米関係の行き詰りを導いた。行き詰まり打開のための
交渉で、米国は、日本軍の仏印からの撤兵を要求した。

陸軍と一緒になって国政を弄していた海軍の急進的分子にとっては、彼らが最初に
始めた大仕事で面子を潰すことなので、仏印からの撤兵は、海軍の威信にかけて、
できなかった。

交渉における、もう一つの米国の要求は、日本軍の華北からの撤兵であった。

だが、これは、一層強力な陸軍の利益と衝突した。日本政府の基礎である
軍部と保守政党の連合政権としては、その主要な、かつ最も強力な構成分子の
政治的破局をもたらすような方策はとれなかった。

石油禁輸に続く数か月間は、ただただ、全戦線での不安と政権の構成分子間取引に暮れた。
連合政権の一方の保守政党が、米国に対して、より温和なコースを支持していたことについて、
信ずるに足る理由があった。彼等は、もう一方の捧組・軍部のやった一つ一つの行動に裏書を
与えたが、どの場合にも、当面の方策が戦争へのきっかけにならないことを望んでいた。
彼らは、ドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結んだが、それは、西欧強国が枢軸国の力と
連帯の強さに圧倒され、それ以上の抵抗の無効を知るようになるのを希望したのであった。

彼らは、今度の仏印への侵略行爲も、以前と同じく、やすやすとやりおおせるとの予想で、
この冒瞼に賛成した。

米国の日本の在外資産の凍結と禁輸に直面し、日本として「釣り上げるか、
針をきるか」のどたん場になったとき、保守政党の政治家は時局収拾の力を失った。

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保守政党の政治家たちは、米国政府を満足させると同時に、日本政府内部の
急進的分子をも納得させるような提案は、一つとしてつくりえなかった。
保守政党の政治家たちは、主義として戦争に反対というわけではなかったが、
戦争すべき時期が熟しているとは信じていなかった。

保守政党の政治家たちは、1914年〜18年の第1次世界大戦時のやり方を
踏襲して、勝者の側に立って参戦したいと思っていた。

保守政党の政治家たちは、ドイツ、イタリアが勝者だということを確信しては
いなかった。欧州の軍事情勢の評価について、保守政党の政治家たちは、
軍部の急進的分子と違っていた。

ポーランド、フランス、ベルギー、オランダ、さらにはソ連におけるドイツ軍の成功は、
日本のナチス信奉者の間に、ドイツ軍不敗の神話をつくり上げた。

ナチス信奉者であった軍部の急進的分子は、ソ連の敗北は時間の問題であり、
ドイツのソ連に対する勝利は、今次戦争における枢軸側の圧倒的勝利を意味する
のだと信じていた。

軍部の急進的分子は、英国と米国は、最後には、欧州におけるドイツの支配的地位を
認めることになるのは明らかだとし、英国が、もし、ドイツの欧州支配を認めないならば、
ドイツ軍は、直ちに英国に進攻して、力づくで、英国政府に、ドイツの欧州支配を
認めさせるだろうと考えていた。

日本の国策を、この欧州の緊迫した状況に適合させねばならなかった。
日本の膨脹主義者は、思想的にはヒトラーに親近感を持っていた。
ヒトラーの行動は日独の協力を固める上に重要であった。しかし、日本は
ヒトラーの仲間のドイツ帝国主義者に対しては、根深い不信感を持っていることを
隠さなかった。日本政府は、ヒトラーが、日本を犠牲にして、英国・米国と妥協する
かもしれぬという可能性を十分承知していた。

大英帝国とオランダ帝国の統一性を尊重し、擁護するというドイツがたびたび行った
提案は、日本の膨脹主義者の野心と全く一致しないものであった。ヴェルサイユの
前例をくりかえし、媾和会議から手ぶらで戻ることは、日本のナショナリストの
気に入らぬことであった。

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それを避ける唯一の道は、ヒトラーのお慈悲にすがる代りに、日本が欲する
どんな領土でも、征服し、戦利品として併合してしまう外にはない。

こうした考え方は、ドイツの早期勝利の期待を根拠としていた。
フォン・リッペントロップ・ドイツ外相と、大島浩・駐独日本大使は、
独ソ戦について、楽観的な報告を送っていた。

日本政府の中の軍部の急進的分子たちは、必ずしも戦争と決めていたのではないが、
このような、日本にとっては絶好と思われる国際情勢の時に、日本が米国に
譲歩をする必要を認めなかった。

日本政府の中の軍部の急進的分子たちは、仏印や華北の問題で譲歩することによって、
彼らの国内の政治的地位を危殆(きたい)ならしめるようないかなる協定をも断乎拒否した。

一方、保守政党は、いつもの流儀で、巧妙な外交手段によれば、軍部の急進的分子の
要求も確保しうるのではあるまいかとの希望を最後まで捨てなかった。彼らは国務省と
交渉し、ルーズベルト・近衛会見を提案し、特使をワシントンに派遺した。しかし米国側の
見解もある程度に容れ、同時に、日本政府内の急進的ファシスト分子の賛同も得られる
ような提案は、一つも提示することはできなかった。

戦争の決意が最終的に決まったとき、軍部の急進的分子が政権を引き継いだ。
天皇はこの決定を承認した。天皇は、以前にも、諸グループ間の取引の結果、
決定が提示されると、何でも承認した。今回も同じであった。

そして型の如く、この採用された決定は、天皇自身がよく熟慮された上での
最良の決意であると発表された。

これに至るまでの闘争がどんなものであったにせよ、1941年12月7日(米国時間)
という日は、日本の連合政権を形成する軍部の急進的分子と保守政党と大財閥が、
再び手を握り合つた「統一」の日であった。

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6.日本の戦略

日本の対米戦争とその戦略は、上述の背景を知ることによってのみ、よく理解しうる。

日本の対米戦略は、日米の戦力を周到に勘案した上で考えられたものではなかった。

戦略策定の主たる判断材料は、わずかばかりの過去の成功例とか、
欧州においてドイツの勝利は確実で、しかも間近であるといった
日本の戦略策定者たち(陸軍参謀本部・海軍軍令部・企画院)の思いこみであった。

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外務省内部資料
この資料は外務省外交史料館の許諾をいただいて掲載しています。コピー・転載は禁止します。

軍部及び政府の最高指導者たちを、対米開戦に踏み切らせた1941年10月10日の
建川美次駐ソ大使
(陸軍中将)、及び10月11日の大島浩駐独大使(陸軍中将)
独ソ戦についての報告。この後、1941年11月5日に、日本は御前会議を開いて
対米英蘭開戦を決定した。






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何よりも、日本の戦略策定者たちは、今度の戦争は長期戦にならないだろうという
楽観的な見通しに固執した。

日本軍部の戦略の中には、全面戦争とか、敵の徹底殲滅とか、
さらには、米国本土占領というようなことは、
ただの一度も戦略策定において考慮されなかった。

1回か2回かの大決戦で、戦争の帰趨が決まるだろうとの予想であり、
太平洋戦争も、1905年の日露戦争と同じ型を踏襲すると予想していた。

真珠湾強襲は米太平洋艦隊に対して壊滅的打撃を与えるだろう。
さらに、ソ連の敗北と英国の不可避的悲運(敗北)で、
米国は進んで平和交渉を求めてくると予想していた。

そうなれば、日本の要求の大部分を満足させるような平和解決が
6か月以内に見込めるだろうと考えていた。

上記の英語原文
JAPAN'S WAR PLAN
Japan's decision to go to war with the United States
and the war plan upon which it counted to achieve
its objectives can be understood only in the light
of the background sketched above.

The tradition of success, with limited commitments,
the imminence of Germany's victory on the European Continent
- these counted for more in the minds of Japan's war planners
than any careful balancing of Nipponese and American war potentials.

Above all, they biased the thinking of the high command
toward the notion that the war would not be a lengthy enterprise.

Total war, annihilation of the enemy,
and occupation of the United States
never entered the planning of the Japanese military.

One or two crucial battles were expected to determine
the outcome of the conflict.

The Pacific war, was to follow the pattern set
by the Russian-Japanese hostilities in 1905.

A terrific blow at Pearl Harbor would inflict
a disastrous Cannae on the American Pacific fleet.

Combined with Russia's defeat and England's inevitable doom,
this would assure American willingness to enter peace negotiations.

A settlement satisfying most Japanese demands
would be in sight within 6 months.

これほど楽観的ではない戦局の見通しは、戦争がもう少し長期になると
予想していた。しかしながら、どちらの予想も、最終的には、日本は、
米国に必ず勝利すると確信していた。

すなわち、12月7日(米国時間)の奇襲攻撃によって、
日本は、米国の海軍力の大半を壊滅させる。これによって、
太平洋において優位に立ち、戦略的に重要な太平洋の諸島を占領する。

そしてこの占領した諸島に、いかなる米国の攻撃に対しても不敗の防壁
をつくる。この太平洋諸島の防壁を要塞化し、連鎖することによって、
日本本土を永久に防衛できる・・・・・、

というのが日本軍部の予想と戦略であった。

第17頁
日本の総合的戦力は、要塞化した島々を連鎖した【太平洋防壁(Pacific wall)】を
十分に維持できると考えられた。米国は、この【太平洋防壁】を突破することは
不可能である(impossibility)ことをすぐに悟るに違いない。米国は、何度か、日本を
軍事的に屈服させる決戦に失敗した後、進んで、日本との和平を考えるだろう。
大東亜共栄圏の無條件承認と若干の領土併合を米国が認めるのと交換に、日本も
最初の占領地の若干は返還する用意があると。

南太平洋における当初の成功は、【太平洋防壁】に対する米国の包囲作戦に
対抗するために必要な日本の戦力を大幅に強化すると期待されていた。

供給の乏しい原料、特に、石油とボーキサイトは、大量に南方の資源地域から
獲得できるようになる。日本海軍は、最早、乏しい石油予備量が尽きることを
心配する必要はなくなる。戦争が本格的消耗戦となれば、形勢は逆転して、
米国は全面的に対日攻勢にでてくるであろうか?おそらく、それはありそうにない。

国際情勢や、アメリカン・デモクラシィの腐敗、並びに、米軍の惨憺たる敗北や、
効果のない反撃に次いで生じるであろう米軍の士氣の頽廃(たいはい)の結果、
米国政府も、ついには、勝つ見込みのない戦争を継続することができなくなるであろう。

米国と日本の経済的戦争能力の対比は、一度はとり上げてみたが、
じきに、日本の軍部の念頭から消えてしまった。なぜならば、問題は、長期間にわたる
潜在的戦力の優劣ではなくて、当面の局面における優劣であるからだ。

たとえ米国の武器生産力が日本の何倍か大であろうとも、それがこの戦争において
大きな役割を演ずるのは遙か先のことである。米国が、その戦争能力を開発し、
使用するまでには、国際的諸要因は、日本に有利に展開して戦争の帰趨を決定
しているであろう。

日本は12月7日と定められた大胆不敵な奇襲攻撃のための軍事的手段を持っていた。
陸・海・空で同時展開できる攻撃軍は非常に強力で、緒戦の成功を保証するものであった。
緒戦の作戦だけで戦争の帰趨を決することができると期待されていた。

日本が米国と戦い得るとすれば、このような、緒戦において成功し、それで戦争を
終わらせるというやり方しか考えられなかった。日本の国民経済は、緒戦において
成功するだけの力は十分にあった。しかし、戦争が長引き、かつ戦争規模が拡大
していく場合に、日本経済には戦争を続けていく力はなかった。

第18頁
7.日本の経済戦力

占領後の5年間において、満州は日本の経済力及び軍事力に何も寄与しなかった。
しかし、膨脹主義者のイニシアティブの間接的影響力は顕著なものであった。

すぐに日本は国家非常事態に投げ込まれた。戦争準備動員のためにとられた政策の
影響がすぐに経済生活において現れ始めた。

政府は大規模な軍備計画に着手した。軍事費は国家予算の中でどんどんその割合を
高めていった。赤字財政経済は、急激に、生産水準と所得水準を押上げた。

日本とほとんど同時に始められたヒトラーのドイツにおいて生じた軍拡景気と
同じように、軍拡に支えられた経済繁栄が日本の国策の方向を決定した。

それは先ず、日本の政界において、大財閥と保守政党、及び陸海軍の急進的
侵略主義者との結合を強化した。

そして、この3者の連立政権に、日本の軍事力は強くなりつつあるという
強い意識を植え付けることになった。この軍事力強化意識が領土拡大意欲へ
繋がっていったのである。

1930年代における日本の軍事力の強化が熱狂的な帝国主義者たちに
過大評価されていたことは疑いない。しかし、この楽観主義も、この期間における
日本のめざましい経済成長を知れば容易に理解できることである。

国民総生産が、毎年5パーセント内外の率で成長したこと自体が非常に力強い
現象であったが、さらに経済力拡大の源泉を考えた場合、その軍事的意義は
明白となってくる。生産拡大が最も著しかったのは、軍事力の核心となる重工業に
おいてである。これは日本経済の産業基盤が急速に拡大されたためであった。

第19頁


重工業への移向は第2表の資料にはっきりと示されている。このような産業の
顕著な発展と軍事能力の増大とをもたらした産業上の施策をみると、
以下のように、いずれも重要な諸経済計画から成っていた。

@
軍需の増大に備えてなされた工場及び設備の披張計画
A
原材料増産計画と非常時貯蔵計画
B
当面の作戦(満州、支那)を支持するための完成兵器の増産
C
原料の十分な供給に備える船舶の拡充計画
D
農業から工業へ移動させるべき労働力の配置計画

日本の経済計画立案者が、これらの部分的には競合する諸計画に、
諸資源を最適配分したかどうかは答えかねるが、これらの計画は、
生産膨脹期の10年といわれるほどの顕著な成果をあげたことには
疑う余地はない。

(1)
工場や固定設備にどれだけ投資されたかの的確な資料は欠けている。
しかし上記2表や、本調査団の各産業班が作成した個別産業報告等から
得られた推計によると、1930年〜1942年に6ける産業設備の建設は、
当時の日本の状況からみて、すこぶる膨大なものであった。

たとえば1941年には、年産7,000機以上に達した航空機工業は、
全部、この期間に創られたものである。

また戦車工業と自動車工業もこの期間に創られたものである。

上記の英語原文

第20頁
(2)
この工業の膨脹は、もちろん、原料が得られるかどうかにかかっていた。
工場や設備の建設には、相当大量の鋼材や石炭や木材が必要である。
継続的生産を確保するためには、更に大量の原料やその他の資材が
必要であった。そこで国内の原料の増産に大きな努力がなされた。
この努力は、部門によっては相当の成果が得られた。

たとえば、石炭の生産額は、1931年の2,800万トンから、
1941年には5,560万トンにまで増えた。
国内の鉄鉱石採掘高も目ざましく上昇した。

それにもかかわらす、日本ほど原料が自給自足できない国はなかった。
アジア大陸からの補給が軍備計書の要(かなめ)をなしており、
満州及び華北の原料資源開発が日本の経済政策の中心問題であった。

1936年頃には、満州の原料資源を組織的に開発するための準備工作が
完成した。この準備工作を土台として、満州の原料の対日輸出を目的とする
満州5か年計画が始められた。

華北と共に、満州は、ある種の必須原料の唯一の供給地であり、また、
その他の国内生産だけでは不足する原料の重要な供給地域であった。

満州・華北から食糧、特に大豆の供給を受けることが、日本の食糧の
需給バランスを維持するために必須であった。

1930年代の終りには、日本の塩の需要の大半は、満州と華北からの
輸入によって賄われた。満州及び朝鮮から供給される、多種類の非鉄金属
フェロアロイは、年々、増えていった。

日本の製鉄業は、良質のコークス用石炭の大部分を華北から輸入していた。
1938年〜1941年の間に、華北・蒙古の石炭生産量は1,000万トンから
2,400万トンに上昇した。満州の石炭生産量は、1,600万トンから、
2,400万トンに上昇した。

満州における銑鉄生産量は、1934年の50万トンから、
1941年の141.7万トンに増えた。満州における鋼鉄の生産量は
1934年の13.7万トンから、1941年には57.3万トンに増加した。

この結果、満州の銑鉄の対日輸出量は、1935年の38.3万トンが、
1941年には55.7万トンとなった。

第21頁
1937年に中國は日本の鉄鉱石輸入の14パーセントを占めていたが、
1941年には50パーセントを供給するに至った。

満州や華北における資源開発の進捗は日本の原料不足を緩和するのに
大いに効果があったとはいえ、各種原料の不足は依然として日本の
工業生産を制約する要因であった。ある種の原料については、
満州と華北の占領は、何ら日本の原料不足問題を解決しなかった。

石油とボーキサイトは、日本本土、朝鮮、台湾、及び満州・華北では
ほとんど産出しなかった。日本のアルミニウム地金生産量は
1933年の19トンから、1941年には71,740トンに
増えたが、その90パーセントはボーキサイトから作られた。

人造石油を作る計画とか、国内にある低品位アルミナ原料から
アルミニウムを作る計画などがあったが、満足できる結果は得られなかった。

南太平洋の石油産出地やボーキサイト産出地を占領して、
資源開発を行うことができない以上、これらの必須原料を
日本国内に貯蔵することは不可避であった。この事情は
フェロアロイ、鉛、亜鉛などの非鉄金属についても同じであった。

ボーキサイトと石油の貯蔵は実際に行われた。

1941年末におけるボーキサイトの在庫量は25万トンであった。
この量は1941年の消費実績ではアルミニウム換算で9か月分弱になる。
1942年の消費実績では約6か月分であった。

1941年末における日本の石油貯蔵量は920万キロリットルであった。
これは、戦争中に生産した量と輸入した量の合計より230万キロリットル
多かった。

(3)
工業能力の拡張や国内工業への原料供給の拡大は、軍需生産を
増加させるためだけに使われた。1941年12月には、日本の航空機
工業は、月550機を製造した。日本は、各タイプの航空機、約7,500機を
持つ空軍力を保持するに至った。

海軍の造艦計画も過去最高の建造量に達した。1941年度〜1942年度は
331隻、45万トン弱が新たに艦隊に加わった。

第22頁
1942年1月における弾薬貯蔵量は1942年の生産量の5か年分であった。
地上武器は6か年分の生産量を越えていた。
同時点では81,000台の自動車があった。これは1942年の生産高の
5か年分強であった。しかしながら戦車の保有台数はわずか1,180台で、
これは1942年の生産高を少しばかり超えた程度であった。

軍需工業は航空機生産と造船とが中心で、自動車工業の発達は極めて遅々たる
ものであった。重戦車はついに1台も作られなかった。それは日本の軍備計画が
太平洋諸島おける戦闘を目的として作成されて、日本本土での作戦は
想定されていなかった。中国本土で行われたような地上作戦の補給は、
大部分、満州の工業によって行われた。

(4)
年々激増する日本と諸外国間の貨物輸送を取扱うための商船隊拡充の必要は、
戦前の日本の軍備計画の大きな一面をなすものであった。

戦前10か年を通算すると、2,136,245トンの商船が建造された。
船腹は約3分の1膨脹した。生産のピークは、1937年より1939年にいたる
各年次で、その間、1,027,514トン建造された。

1940年、1941には、合計491,886トンが商船隊に追加された。
日本は、外国貿易の必要に応じうる商船隊をつくろうとして、
真剣に努力した。しかしながら、平常の輸入や輸出においても
日本は外国船に依存しなければならなかった。

たとえば、1938年に日本の諸港に入港した船舶は18,490隻で
62,230,000トンであった。この中、日本の国旗を掲げたものは、
11,456隻、36,689,000トンであった。

その他は、日本の船舶業者の傭船か、外国業者の外国船であった。

第23頁・第24頁
(5)
1930年代の工業の膨脹に伴い、工業労働力もかなり増加した。
1930年から1940年までに、製造工業における男性労働者総数は
440万人から610万人に増加した。

女性労働者総数は140万人から200万人に増加した。

この増加した労働力のほとんど全部が人口の増加によって賄われた。
農業の有業人口、1,140万人は、この10年間に、わずか50万人減少したに
すぎなかった。

工業化の始まって久しいにもかかわらず、日本は依然として農業国であった。
人口の約半分が国民を養うために農業に従事していた。しかもなお
必要な食糧の10パーセントから20パーセント〜を輸入しなければならなかった。

同時に「潜在失業者」から成る労働力のクッションが存在し、
それが相当大きな徴兵が行われたにもかかわらず、
労働力の欠乏が産業を制約するのを防止していた。

この時期の日本の経済的成果は、日本の大きな努力の賜物であり、
成果の大きさは称賛に値するものであった。もし、この経済的成果が
なかったならば、日本の戦争計画立案者たちは、真珠湾奇襲攻撃以後、
数か月間になされた軍事行動を考えてみることは不可能であったに違いない。

しかし、この大きな経済的成果にもかかわらず、日本は、依然として、
重大な経済的弱点を抱えたままであった。

すなわち、食糧の何割かと、重要な基礎的原料と、近代工業国の
血液ともいうべき石油を海外に依存しなければならなかった。

食糧、原料、石油の海外依存は、もし、敵国が経済封鎖作戦に成功すれば、
日本は絶望的危機に陥るということである。

さらに、日本の軍事工業は、比較的小規模で、かつ新しく建設されたもので
あるから、その能力には余力というものがなかった。

また兵器生産の経験も少なく、大量生産を行っていた企業も少ないので、
日本は、工業的機械学的に熟練した労働力を作りあげることができなかった。
これは、後日、経済が大規模な戦闘のため逼迫したとき、熟練の不足、
創意の不足、即席にものをつくる能力の欠如を意味していた。

要するに、日本という国は、本質的には小国で、
輸入原料に依存する産業構造の弱体な国であって、
あらゆる型の近代的攻撃に対して無防備だった。

手から口への、まったく、その日暮しの日本経済には
余力というものがなく、緊急事態に処する術がなかった。

原始的な構造の木造都市に密集していた日本人は、
彼らの家を破壊された場合、住む家がなかった。

日本の経済的戦争能力は、限定された範囲で、
短期戦を支え得たにすぎなかつた。

蓄積された武器や石油、船舶を投じて、
まだ動員の完了していない敵に対し痛打を浴せることはできた。

しかし、それは、1回限り可能だったのである。

この貴重な1回限りの攻撃が平和をもたらさないときには、
日本の運命は、すでに、決まっていた。

日本の経済は米国の半分の強さを持つ敵との長期戦であっても
支えることはできなかった。

上記の英語原文

 





 



 

第5章 
日本の戦争経済に対する空襲の効果

第113頁
4.労働力

1944年の春までは、軍隊の需要(徴兵)が労働力の供給上に
及ぼした影響は主として質的な面であった。だが、1944年の夏以降と
1945年には、軍隊の徴兵は、質的にも量的にも、労働力の供給を
左右する主要要因となった。

空襲は、海上封鎖の効果をさらに大ならしめた。それによって、
日本の労働力の生産性の削減に重要な役割を演じた。
海上封鎖と空襲の結果、1944年の初頭から、日本では、
食糧の配給が減り、食糧を探すために、労働者の欠勤が増加した。

労働者の栄養状態が悪化した。栄養状態の悪化に加えて、
過酷な長時間労働、機械設備の消耗、品質が低下した原材料の
加工などの事情が加わって、労働能率が著しく低下した。

日本では労働生産性を示すところの正確な記録をとっていなかったので、
労働生産性が全般的にどれほど低下したかを正確に推定することは
できないが、入手できた資料から判断すると、本土空襲以前において、
戦争経済にとって重要な産業のうちで、労働者の時間当たりの
生産高の減少が著しかったのは、石炭鉱業、兵器製作工業、電気機械、
航空機工業であった。

日本が、もし、輸入原料の減少を補うために国内の資源開発に
真剣に取り組んでいたならば、この労働生産性の低下は、さらに
著しかったであろう。

しかし日本は、国内資源の開発で、日本経済の欠陥を補強できるとは
考えていなかったと思われる。

第114頁
労働者の欠勤に関する正確な統計がないので、爆撃が人的資源に及ぼした
効果を評価するためには、推定や、一般的説明によらざるをえなかった。

空襲警報や空襲が、かなりの労働時間を空費させたことと、
欠勤を増大させたことは明らかである。たとえば、ある企業の
電気機械製作部門では、欠勤率は50パーセントという高率に達していた。
また、特に東京や阪紳地方では都市市街地に対する爆撃のため、
労働力が、正常な雇用場所から恒久的に追い出されてしまった事例も
すこぶる多い。

しかし、驚くべきことに、広島や長崎では、そういうことにならなかった。

総体的にいえば、都市市街地に対する爆撃が、日本の工業労働力に対して
大きな効果をあげたのは、建築業や、電気通信機械製作部門などである。
兵器製作と航空機工業についても効果があった。

空襲は新たな労働力需要を創りだした。特に、建設部門において
労働力需要を創りだした。

日本は、1944年の2月から、おおあわてで、重要な軍需工場の
疎開を始めた。航空機工場の大部分を地下工場にしようと計画した。

しかしながら、労働力の欠乏は、この疎開計画の実現を著しく阻害した。
航空機の生産量、兵器電気機器の生産量はどんどん低下していった。

第115頁
5.民需品供給部門
@ 食糧

1941年の日本の全食糧供給量は、最低生活に必要なカロリーを
わずか6.4パーセント超える程度でしかなかった。

しかもこの供給量さえ、それを維持するには、国内資源の
極度の集約的な使用が必要であった。

日本の1エーカー当たり米の収穫量は世界一であった。
また、ほとんど全部の耕作地で二毛作がなされていた。
農業においては、肥料を惜みなく使用することが必要であった。
しかし、その肥料のなかの、燐酸と加里は輸入に頼っていた。

さらに、動物性タンパク質食糧を確保するために、
沿岸及び遠洋において大規模な漁業を行うことが必要であった。

しかし、これだけでは必要量を十分にみたすことができないので、
必要量全体の15パーセントに達する食糧の輸入が必要であった。

しかも、非常事態に対処できるような食糧のストックはなかった。

平常時においてさえ、辛うじて需給バランスが保たれていたというのに、
対米戦争が始まったため、
このギリギリの食糧需給バランスを悪化させる事態が次から次へと生じた。

戦時中、漁船は、偵察用や、小規模輸送用や、上陸作戦用として
絶えず、陸海軍に徴用された。

遠洋漁業の基地は、米軍の攻撃圏内に入って、放棄せざるをえなくなった。

合成アンモニアは、その製品のますます多くが爆弾生産に必要となり、
肥料向けは大幅に減少した。

窒素肥料の消費量は、1941年と1945年の間では68パーセントも減少した。
減少量のほぼ半分は、1944年8月以降に生じたものであった。

農村の労働力は、軍隊の徴兵で働き盛りの年代がいなくなったので、
限界耕地の耕作は放棄せざるをえなくなった。

農村労働力の量的・質的悪化は、政府が企図した食糧作付面積の増大を
不可能にしたばかりか、食糧作付面積を減少させてしまった。

このような一連の事態の悪化は、そのいずれもが、
連合軍の攻撃に対して、日本を、一層危険的な状況に追い込むことになった。

太平洋戦争における最初の戦略空襲であったナウル島の爆撃により、
1943年から燐酸肥料の輸入が杜絶(とぜつ)した。

米軍の作戦行動が、日本の輸送船を、次からつぎへと撃沈してしまったので、
東南アジアからの食糧の輸入は、早くも、1943年より減少し始めた。

米(コメ)を食べるのを止めて、栄養価が高く、かつ、入手し易い
満州大豆に切りかえて、米食依存を軽減しようとする
真剣な努力が日本には欠けていた。米食依存を止められなかった。

第116頁
そして、1944年11月まで、漫然と、米(コメ)の配給量を据置いた結果、
ついにストックがなくなり、米(コメ)の配給操作ができなくなった。

1944年秋には、東南アジア産の米(コメ)の輸入は杜絶した。
その上、国内は不作で、1944米穀年度の国内食糧供給は、
1930年〜1940年平均の93パーセントにすぎなかった。

さらに、漁獲高も大幅に滅少した。
漁船が海軍と沿岸貨物輸送に徴用されたことと、
多数の漁業従事者が海軍に徴用されたことと、
燃料石油欠乏で、漁船の活動区域も、活動時間も、
大きく制限されたためであった。

1945年には、食用としての魚類の消費高は、
1939年水準の65パーセソトにまで低下した。

さらに、肥料用の魚の消費量のは45%にまで低下した。

このような事態悪化の結果、日本は、軍需生産用原料の供給が
急速に悪化していたにもかかわらず、1945年4月には、
満州・朝鮮からの輸入は、食糧だけに絞らざるをえなかった。
食糧以外の軍需生産用原料の輸入は中止せざるをえなかった。

1945年8月に至り、米軍の海上封鎖がほとんど完璧なものに
なったので、食糧の輸入も極く少量にすぎなくなった。

1945年3月から始まった都市に対する無差別焼夷弾爆撃は
日本の主要都市の大半を破壊した。食糧の不足は、これによって
さらに悪化した。

数千の小売業者の手元に保管されてい緊急事態用の米(コメ)の
約4分の1が焼失した。ノーマルな食糧配給はまったくできなく
なった。

数百万人の住民が大都市を捨てて地方の町村へ移動した。
移動した数百万人は、食糧の供給地に接近したにもかかわらず、
正規の配給ルートから食糧を入手することができなかった。

大都市から移動した数百万人は、必要な食糧の全部を、
闇市(Black Market)で入手しなければならなかった。

しかも、都市の食糧供給は、さらなる減少が不可避となっていた。
窒素肥料の生産不足は、1945年の夏までは、まだ重大な影響を
もたらしていなかったが、1945年10月から始まる1945米穀年度には、
米穀生産量を大幅に減少させると危惧されていた。

第117頁
米空軍の日本列島周辺攻撃が本格化してきたので、
沿岸漁業もできなくなり、漁獲高は日毎に減少していった。

仮に、好天候に恵まれ、国内の食糧生産が維持されたとしても、
繰越在庫高はほとんどなかったから、配給量を生存最低量にまで
大幅に減らしても、次年度の米(コメ)の収穫時期までつなぐというのが
精一杯であった。

しかしそれさえ、米空軍の鉄道に対する破壊攻撃が始まり、鉄道輸送が
不可能になると、それさえできなくなる、すなわち、国内の食糧配給機構は、
到底、維持できないとの見通しが拡がっていつた。
つまり、米(コメ)の配給は不可能になると予想されていた。

米空軍の鉄道破壊攻撃は、1945年8月15日から
開始されることになっていた。

A 被服及び住宅

戦争中、日本では輸送船舶が不足した結果、たださえ貧弱な生活水準の
はげしい低下が生じた。連合軍の攻撃が日本の商船隊を減少させる
前でさえ、海運に対する軍事的需要は、主食を除く民需品の輸入を
大幅に削滅した。

1942年には、綿花と羊毛の輸入は、1937年の輸入に比較すると、
7パーセント〜8パーセントというひどい減少ぶりであった。

軍需生産は民需品を生産する諸産業から工場と労働力を奪った。
また基礎原料の割当も皆無となるか、戦前水準の何分の1かに
削られた。

多くの民需産業の工場設備は、特に繊維工業においで著しかった、
破壊されてスクラップにされるか、軍需目的に転用されるかの運命だった。

米軍の海上封鎖による原料の逼迫と、國内輸送事情の悪化が、
この生産減退傾向を一層加速した。原料の輸入が杜絶した結果、
全繊維製品の生産量は、1943年の25億平方ヤールから、
1944年には4億ヤールに低下した。

1941年1月から1945年8月に至るまでの全生産量を
推定の民需最低需要量と対比してみると、綿布は24パーセント、
毛織物は19パーセント、絹は30パーセントという比率を
示している。

第118頁
1944年の初頭、空襲を恐れた日本政府は、防火地帯をつくる
目的で数十万戸の住宅を破壊した。また、12の主要都市から
200万人の人員疎開を行った。さらに、自発的な第2回目の
人員疎開がサイパン島陥落後に行われた。

建築資材がなかったから、疎開した人々に新しい住宅を提供する
ことは考えられなかった。疎開した人々は、友人や親戚の許に
寄食するか、公共建築物に入り込んだ。

1945年3月から始まった無差別焼夷弾爆撃が
住宅事情に及ぼした影響は、決定的に重大であった。
約260万戸の住宅が焼かれ、1,300万人の住民が
住宅を失った。工場の寄宿舎も焼かれた。

日本経済は麻痺状態にあったため、これら1,300万人の被災者に
住宅を与えることはまったくできかった。
生存に必要な最少限の家具や被服を支給することさえできなかった。
無差別焼夷弾爆撃により都市から追い出された被災者の群は、
先の見通しがまったくたたない状態で、都市周辺の町々や、村々を
さまよった。また無差別焼夷弾爆撃は、なけなしの民需品のストックを
焼きつくした。

民需品生産工場の被害も大きかった。空襲で焼失した衣類は
約20億ヤールと推定される。また、綿布生産能力の18パーセントが
破壊された。食糧の不足に加え、この住宅と民需品供給事情の
極度の悪化は、戦争末期において、日本国民の生活をどん底にまで
陥れた。さらに、日本の将来がまったく絶望的になったことを
日本国民に実感させた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
英語原文 第53頁〜第59頁 (章名は第41頁)
正木千冬氏の訳本では第5章になっているが英語原文では第4章。

英語原文第53頁

英語原文第54頁

英語原文第55頁

第56頁は空白。

第119頁
第6章 降伏
正木千冬氏の訳本では第6章になっているが英語原文では第5章。

短期間で戦争を終結できると予想していた日本政府の楽観的
戦争企画者たちも、ミッドウェイでの敗北とガダルカナルでの敗北以後、
対米戦争は、開戦前と開戦直後に彼らが予想していた状況と、
まったく異なった展開となっていったことを認めざるをえなかった。

ミッドウェイとガダルカナルで、日本海軍は致命的な大損害を蒙った。
日本海軍が、まったく予想もしなかったこの致命的な大損害は、
太平洋の諸島を連鎖した防御が、本当に可能なのかどうかを
問いただすことになった。

日本政府の楽観的戦争企画者たちは、真珠湾奇襲攻撃で確保した
緒戦の優勢は、日本海軍の太平洋における覇権を保証し、
対米戦争の短期間終結をもたらす筈であると予想していた。

しかし、ミッドウェイとガダルカナルの敗北は、彼らの予想が、
まったくの空想であったことを明らかにした。

米国は、真珠湾での大損害で傷心して敗北主義になるどころか、
日本がかって戦ったことのない、強大な敵であるという実際の姿を
日本に見せつけたのである。

日米間の死闘は、ミッドウェイからサイパンへ、
サイパンからフィリピン、フィリピンから沖縄へと
移っていった。どの戦闘においても日本は敗北した。
連戦連敗であった。

日本軍の軍人は勇敢で、素質も優秀であったにもかかわらず、
緒戦で日本軍が占領した太平洋諸島の日本軍の基地は、
次から次へと、強力な米軍によって奪い返された。
太平洋の諸島を連鎖した防壁は、マジノ線や、大西洋防壁と同じく
資産どころか、正反対に負債であることが実証された。

この「連鎖した防壁」全部を守ろうとしたため、おびただしい
兵力が投入された。しかしながら、この結果、大兵力が分散されて
しまった。愚かな戦略であった。

ドイツの将軍であるオットー駐日ドイツ大使は、「米軍司令部は、
どの島を攻撃するかを、まったく自由に決めることができた」と
語っていた。

分散された兵力では、敵軍が一個所に兵力を集中して攻撃してきた
場合、防御できるはずがない。

第120頁
日本軍の太平洋諸島の「連鎖した防壁」のどこかが米軍の攻撃地点に
選ばれると、そこは間もなく、日本軍艦艇と日本軍軍人の墓場となった。

この墓場は底なしであった。日本経済は日本軍の需要に追いつこうと
あらゆる努力をしたにもかかわらず、日本軍の作戦に必要な量の
ほんの一部分しか供給することしかできなかった。

米国経済が平和時軍需生産体制から、戦時軍需生産
体制に転換するための障碍を克服して、本格的に軍需
生産能力を発揮する体制に転換した時点で、軍事面においては、
日本の敗北は避けられないことになった。日本の敗戦は
時間の問題となった。

日本が何時の時点で、あるいは、どの場所の戦闘を契機に、
勝機を失ったのかを特定するは非常に難しい問題である。

ミッドウェイでの日本の敗北とガダルカナルでの日本の敗北
については、さまざまに論じられてきた。

もし、この二つの敗北時点において、日本が奇跡的に
軍需生産を倍化することができたならば、
悲劇的な破局は避けえたかも知れないといえよう。

だが、サイパンでの敗北以後は、どんな奇蹟でも
「日出ずる帝国・日本」を救うことは、もはや、不可能であった。

日本列島がB29の攻撃圏内に入ってから、海上封鎖は強化され、
日本本土が空襲される危険が現実のものとなった。
もはや、日本には勝利のチャンスはまったくなかった。

しかし、戦争において敗北することは軍事上の現実だが、
日本政府が敗北を認めることは政治的行爲である。

その軍事的には敗北したという現実を、政治の場において
承認することは、政府内においては、諸勢力の利害が
錯綜するので、簡単・直裁に決められなかった。

国際情勢、国内の勢力均衡、有力な政治グループ間の
利害対立など、どれもが重要な要因がさまざまに絡みあって、
敗戦という極めて憂鬱な軍事的現実を、簡単・直裁に、
降伏という政治的承認に翻訳することができなかった。

敗戦という軍事的現実から、降伏という結論を出して、
和平交渉を進めようとする試みは、サイパン失陥の
直後から始まった。

1944年7月、日本の軍部・政党・財閥の連合政権の
保守主義的分子は、東条英機政権を倒して、
和平への道を開こうと企てた。

だが日本の軍部は、日本の敗戦という軍事的現実を
絶対に認めなかった。

日本の軍部は、国内における彼らの権力は
戦争を継続してこそ維持できることを熟知していた。

日本の軍部、すなわち、大日本帝国陸海軍の首脳たちは、
前途には、明るい希望はまったく残されていないことを
十分に知っていたにもかかわらず、
彼らの権力を維持し続けるために戦争継続にしがみついていた。

第121頁
枢軸国側の前途に覆い被さっていた暗雲の中で
ドイツは戦争を遂行していた。
ヒトラーは強力な秘密新兵器を準備していると
ほのめかしていた。

軍部は、米国の対日勝利は、日本本土に直接上陸する
ことによってのみ達成できるが、その米軍の日本本土
上陸作戦は、米軍にとって耐え難いほどの多大の犠牲を
伴うものである。米軍の日本本土上陸作戦が成功するまでは、
日本は敗北したわけではないと、
敗戦という軍事的現実を認めなかった。

日本の軍部は、米軍の日本本土上陸作戦に対して、
日本軍は総力をあげて徹底的に抵抗できるし、
カミカゼ特攻攻撃を、大規模に、広範囲に行って、
米軍に多大な犠牲を強いることができるから、
この時点では、まだ敗戦していないと、
敗戦という軍事的現実を認めなかった。



日本の軍部は、満州事変以来10数年間、一貫して戦争拡大路線を
日本国民に押し付けてきた。従って、この事態になっても、
戦争拡大路線政策の破綻をどうしても認めなかった。
敗戦という軍事的現実を認めなかった。

東条英機に代わって、小磯国昭が登場したことは、軍部の勝利を意味した。
保守派に失望していた東条英機と同じ陸軍大將である小磯国昭が
実際にやったことは、前任者の東条英機と同じ政策であった。

首相の名前が変わっただけで政策の変更ではなかった。
日本国民の国民感情も降伏派に組みしなかった。

長期の窮乏と戦争の緊張で、傷心し、疲れはてていた日本国民は、
日本軍が、どれだけの損害を受けたのか、ほとんど知るところがなかった。

政権の一翼を担ってきた現状維持派は、もし、突然、日本国民に
敗戦を知らせたならば、現状において安定している社会政治機構が
動揺・混乱するかもしれないと懸念していた。

この懸念が、結果として、敗戦を認めない軍部の立場を強めることになった。

日本国民が、米国軍は圧倒的に優勢で、日本の降伏は避けがたいものだと
受け止めるためには、戦線がもっと日本本土に近づき、
日本国民が、じかに、戦争を経験することが必要であった。

日本本土に対する無差別焼夷弾爆撃が、日本国民に、
戦争とはどういうことかをじかに教えることになった。

それまで、日本国民は、緒戦で日本軍が占領した太平洋の
島々に対する米軍の苛烈な奪回作戦について、噂で聞き、知っていた。

それが、突然、東京、名古屋、大阪に対する米国空軍の無差別
焼夷弾爆撃として現実に日本国民に襲いかかってきたのである。

日本空軍は米国空軍を阻止することができないという現実と、
日本の都市は空襲に対してまったく無防備であり、空襲によって
想像したことのないような巨大な破壊がなされたという現実を
都市の住民は自分の目で確認することになった。

第122頁
無差別焼夷弾爆撃の初期においては、日本国民の士気は、
まだ、戦争の遂行を不可能にするほど低下していなかった。

しかし、その後、絶え間なしに続く無差別焼夷弾爆撃、
食糧の不足、衣料の欠乏、防空壕避難は、
日増しに、日本国民の絶望感を大きくしていった。

日増しに増大していった絶望感から、日本国民が
暴動を起こしたり、暴力沙汰を起こしたりする可能性を
日本政府は危惧していた。

1944年秋に始まり、1945年にはどん底に落ち込んだ
軍需品生産の大幅低下で、来るべき米軍の日本本土上陸作戦に
対する日本軍の日本本土防衛作戦に必要な軍需品を確保できるか
疑問視される事態になった。

米軍の新たなる軍事基地が日本本土のすぐそばにまで
迫っていた。米軍が日本のすぐそばに軍事基地を建設して、
海上封鎖を一団と強化したので、日本の原料の入手は悪くなる
ばかりであった。

ほとんどすべての輸送船の喪失は、日本の原材料の在庫が
完全に枯渇する日が来ることを示していた。

工場疎開が失敗に終わったことと、機器補修能力を破壊された
ことで、日本の軍需品工業の生産能力は著しく低下した。
軍需品生産量は戦争を遂行するのに必要な量にはほど遠いものに
なってしまった。
軍需品生産能力を復旧させる見込はまったくなかった。

利用できる軍需品のストックは相当量あったが、それでも
おびただしい戦闘艦艇と輸送船、航空機、軍需品を擁する
米軍に対抗して、日本本土を防衛することは、もはや、
絵空事・空想的な試みということになってしまった。

日本本土防衛作戦において、日本軍ができることは、
できるかぎり多くの損害を米軍に与えて、
名誉ある死を遂げることだけであった。

軍部の徹底抗戦派は、不名誉な降伏をするよりは、
戦争犯罪人として逮捕されるよりは、
日本軍の名誉を守るため、
最後まで徹底的に戦って、日本国民全部を道連れにして、
全員が名誉の戦死を遂げる玉砕の道を選ぶと決心していた。

しかしながら、連合政権の、軍部以外の諸勢力は、
鈴木貫太郎を首相にして、軍部の名誉のために、
日本国民全部が道連れにされて死ぬのは真っ平御免であると、
降伏して戦争を終わらせると決意していた。

軍部以外の諸勢力、すなわち、戦争終結派の中心であった
鈴木貫太郎のもとに集った諸勢力は、
すこしでも降伏条件を緩和したいと策動を始めた。

この策動は急速に進められた。
ドイツの降伏後は、さらに加速された。
ドイツが降伏した1945年5月8日は、
故ルーズベルト大統領の定めた基本戦略の通り、
日本にとっても、
戦争を終結させるための政権の内部抗争においても、
決定的に重要な日になった。

ドイツが降伏するまで日本に存在していたさまざまな空想は、
欧州における連合軍の勝利の後は、雲散霧消してしまった。

日本は連合国に対するすべての抵抗力を失っていた。
ただ、無條件降伏という不名誉を、
いくらかでも糊塗する方法はないものかと模索していた。

第123頁
広島に投下された原子爆弾は、
米国がポツダム宣言の受諾を、圧倒的戦力をもって、
日本に強制していることを、さらに明確にした。

ポツダム宣言受諾、すなわち無条件降伏が、さらに遅くなれば、
それだけ、犠牲者がさらに増える続けるだけである。
日本は、ポツダム宣言の条件を変えることは、
どんな手段を弄しても、まったくできないと悟らざるを得なかった。

米空軍の爆撃による鉄道と道路の破壊は、日本本土防衛軍の
機動性をほぼゼロにしてしまうと危惧された。さらに、
この鉄道と道路の破壊は、一般市民が蒙る戦争被害を間違いなく
倍加すると予想された。

このような状況で、戦争を続けることは気違い沙汰というほかなかった。

さらに、ソ連が対日宣戦布告して満州に侵攻してきたことで
陸軍に、全面的壊滅の日が迫ってきた。

陸軍は、フィリピン戦と沖縄戦で敗北してきた。
日本本土防衛戦のための武器弾薬食糧の補給すら危ぶまれて
いるのに、同時に、満州において、強大なソ連軍と、まともに
戦うことは100%不可能であった。

満州の工業と華北の資源は戦争の役に立たなかった。
強大なソ連軍と長期間にわたって戦争をすることは100%不可能であった。

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満州に侵攻してきたソ連軍の戦力は3軍合計で、戦車・自走砲 5,250輌、
火砲・迫撃砲 24,380門であった。飛行機は5,171機に達していた。

これに対して日本軍(関東軍)の戦力は、戦車約200輛、
火砲・迫撃砲 約1,000門であった。戦闘可能な飛行機は約200機であった。

3軍のなかでも、ザバイカル方面軍は1945年8月時点では、世界最強の
戦車軍団であった。装備は戦車・自走砲2,359輌、火砲・迫撃砲8,980門であった。
砂漠を横断し、大興安嶺山脈を越えて、10日間で満州西部全域を制圧して、
長春、瀋陽に入城した。世界戦史上、特筆すべき快進撃であった。
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遂に、日本陸軍の全面的壊滅は避けがたい現実となった。

壮大な、日本歴史上最大の軍事的大冒険は、あまりにも悲惨な惨禍を
日本にもたらし、降伏を余儀なくさせることになったが、その責任を、
特定の、ただ一つの要因のせいにすることはできない。

この惨めな結末は、永年にわたって、数多くの要因が相互に絡み合い、
積み重なった結果である。

もはや敗戦は避けられないという軍事上の現実を、
政治が承認するまでには、どうしても、時間的なズレが生じる。

もし、日本の政治体制が、いつも迅速に、
現実に基づいた国策決定を行う体制であったならば、
敗戦という現実に基づいて、
連合国に降伏するという政治的決定を
8月より、もっと早期に行うことができたかもしれない。

それはともあれ、日本の連合政権を構成していた諸勢力
(軍部、政党、官僚、財閥)は、
連合国に降伏するほかないということで意見が一致した。
軍部の徹底抗戦派も、もはや、降伏に同意せざるを得なかった。

かくして、軍部、政党、官僚、財閥の
合名会社・日本は瓦解・破産することになった。

戦争の帰趨は、太平洋の島々や、フィリピン及び沖縄の海岸での
戦闘での米国の勝利で明らかになったが、
最終的に、日本に降伏を決心させたのは、
日本本土に対する米空軍の戦略爆撃であった。

もし、戦略爆撃、すなわち、日本本土に対する無差別焼夷弾爆撃が
行われなかったら、米軍の日本本土上陸作戦は、
いかに日本軍の防衛能力が弱体であっても、
おびただしい犠牲者を生み出すことになったはずである。

日本本土上陸作戦を行わずに、日本を降伏させた戦略爆撃、
すなわち、無差別焼夷弾爆撃の平和回復に対する貢献は、
どのように大きく評価しても、大きすぎることはないであろう。

英語原文第57頁

英語原文第58頁

英語原文第59頁



第1頁〜第3頁
「日本戦争経済の崩壊」について  昭和25年(1950年)4月
有澤廣巳(ありさわひろみ)東大教授、日本原子力産業会議会長、
          学士会理事長などを務めた。吉田茂首相の経済政策ブレーンとして著名。

正木千冬氏の手によって、米国戦略爆撃調査団報告が訳出されたことは、
太平洋戦争における日本の戦争経済史の空白を嘆いていたわが国経済学会に
とって大きな喜びである。

日中戦争以後の日本経済の発展−崩壊の過程を事実に即して跡ずけようとするとき、
直ちにぶつかる難関は基本的資料の欠除ということである。戦争中、国民は
国家機密の鉄壁の陰に、何一つ真相を示されていなかった。しかも、敗千と同時に、
鉄壁の奥深く堆積されていたあらゆる戦時記録が焼かれてしまった。終戦報告の
議会に政府が提出した若干の軍需品生産の記録と、臨時軍事費特別会計の
決算報告くらいが、わずかに手がかりとして利用されうるだけである。

焼かれたといっても、もちろん、部分的な資料はどこかに残ってもいるだろうし、
関係者の記憶によって再現させることは必ずしも不可能ではない。しかしそれには、
おそらく、多大の労力と費用を要するであろうし、また時間もかなりかかるであろう。

だが、幸いにして米国政府の爆撃調査団報告が、我々の必要としている資料の多くを
整理し、日本経済の研究に利用しうるようになっていることが判った。
爆撃調査団の主要目的は、日本に対する戦略爆撃の効果を測定し、将来の
米国国防政策の基礎を作ろうとするにあって、もとより学術的研究ではない。
しかし、戦略爆撃という言葉の意味するように、敵の総力戦機構そのものに
指向された攻撃であって、その効果を判定しようとなると、勢い日本の
全戦争経済機構を総合的に観察し、その崩壊過程を明かにしなければならない。

米国政府は、この目的のために、歴史、政治、経済、産業、その他の
各般の専門家を大規模に動員した。その上にマッカーサー司令部の各機関が
これに協力した。この調査活動の成果が108巻にも及ぶ報告書となった。

米国の学者は、このような共同研究をまとめることについて、極めて
優れた技能をもっており、資料の選択も公平で、専門家の眼が隅々にまで
行き届いていることは、本報告書を一読して感じられるところである。

正木氏が今回、訳されたのは、上記の108巻の報告書の総合報告とも
いうべき巻で、「日本戦争経済の崩壊」と訳されたのは、この巻の内容に
最もふさわしいと思われる。

本文140頁の中に、日本が東亜征服へ乗出すまでの政治過程と
日本帝国主義の内在的脆弱さから始めて、日本の戦争能力の基盤と
制約的要因、戦争経済の発展、封鎖と爆撃によるその崩壊過程が、
きわめて鮮明に描出されているのは驚くべきことである。

これだけ簡単に、そして、明確な印象を刻みこませる力は、専門的な
各部門の研究を基礎にしているからだと思われる。

通常の意味での戦争経済史としてみれば、本書には、戦時財政や
戦時インフレーションに関する部分が欠けているが、調査団の目的から
そうなったので、本書の価値損なうことにはならない。むしろ、
本書は、米国の戦力の発展、米軍の戦略的展開との関係において、
日本戦争経済の崩壊が進行する面が描かれているのであって、
類書の及び難い本書の特色がここにあると考えられる。

本書の読後感を一言にまとめると、私は、これは日本帝国主義の
「病理解剖」だと言いたい。言葉では説明しにくいが、
一読すれば、その意味がわかると思う。日本の敗因のすべてが
ここに解剖されている。日本敗戦の歴史を読む讃むことは楽しいことではない。
しかし、現代に生きる我々としては、一度は、日中戦争−太平洋戦争期の
日本の真相をはっきりと身につける必要がある。この認識がなければ、
正しい将来への展望はあり得ない。

本書が、専門家以外の人々にも広く読まれるることを希望する
所以(ゆえん)はそこにある。

本書の付録の「日本の国民総生産」と「統計資料」は、
本書によって、はじめて国民一般が利用することができるようになった
戦争期の日本経済の基礎資料である。日本の統計書は、本書によって
全面的に書き替えなければならないであろう。

第5頁〜第16頁











統計表目次以上

参考情報:
太平洋戦争での日本軍の
戦没者の60%強が
食糧が補給されないために起きた
飢餓地獄の中での餓死
(うえじに)




戦陣訓が日本軍兵士を飢死(うえじに)させた



【戦陣訓】
なるものがあった。
旧大日本帝国陸海軍は、徴兵した召集兵士たちに対して、
「捕虜になることは絶対に認めない」
万一、捕虜になって、生きて日本に帰ってきても、
日本の社会や家族は、捕虜になったものを絶対に受け入れない。
だから、「降伏して捕虜になるより、いさぎよく死ね」と徹底的に洗脳した。

この洗脳教育が徹底していたカウラ捕虜収容所にいた日本人捕虜たちは、
「日本が勝利して、戦争が終わり、万一、幸運にも、日本に帰国できたとしても、
家族に迷惑をかけ、社会からは迫害されるだろう。
それよりも、いさぎよく死のう」という絶望感から
「死ぬこと」を目的に集団脱走したのである。実に悲惨な事件であった。

昭和天皇を傀儡化し、昭和天皇の意思をことごとく無視しておきながら、
不忠きわまる旧大日本帝国陸海軍は、
天皇崇拝、「天皇陛下のために死ね」教育、
神州不滅論、皇軍不敗スローガン、暴支膺懲(ぼうしようちょう)主張
(暴虐な
支那=中国を懲らしめる)「生きて虜囚の辱めを受けるな」洗脳等、
日本国民に対するさまざまな洗脳教育に狂奔した。

「生きて虜囚の辱めを受けるな」洗脳の先頭に立っていた
東条英機など、旧大日本帝国陸海軍の最高指導者たち18人は、
昭和天皇の意思をことごとく無視して、

日中戦争を拡大
し、日独伊三国同盟を締結し、あまりにも無謀な対米開戦
踏み切り、筆舌に尽くしがたい昭和戦争の惨禍を引き起こし、敗戦した。



しかるに、彼ら18人は、敗戦の責任を負って、マッカーサー元帥が日本に来る前に、
武士らしく切腹して責任をとることもなく、おめおめと、米軍に捕らわれて、東京裁判に引き出され、
「生きて虜囚の辱めを受けた。 言行不一致であった。すなわち、

日本の最高指導者として、兵士たちに教え込んだことと、実際に自分たちがやったこととは、
まったく異なることを実証して、恥を全世界に晒した。
戦陣訓を固く守って戦死・餓死・病死した英霊たちを冒涜する言行不一致だといわざるを得ない。

旧大日本帝国陸軍は、無知で愚かな若手将校たちにテロを行わせ、
首相経験者を含む視野の広い良識ある政治家を多数殺害した。

旧大日本帝国陸軍は、
日中戦争(中国に対する侵略戦争)を止めず、反対に拡大して、
ついには日米開戦に追い込まれ、日本国民を塗炭の苦しみに追い込んだ。


藤原教授は旧大日本帝国陸軍は「日中戦争拡大を望んでいなかった」と述べ、
蒋介石やスターリンの挑発・陰謀に乗せられて日中戦争が泥沼化したと書いている。

戦争拡大を望んでいなかったならば、なぜ、昭和天皇・総理大臣・陸軍参謀総長・
陸軍大臣は、支那派遣軍司令官に完全停戦を命令し、日本へ帰還させなかったのか?

真相を歪曲する藤原教授の「黒を白と言いくるめる」論理と記述に呆れざるをえない。

真相は、昭和天皇も、旧大日本帝国陸軍の最高指導者たちも、日本政府も、
現地軍の高級参謀たち・中堅将校たち、及び司令官たちと、それを支持する
陸軍参謀本部内の高級参謀たちの【方針命令無視・戦争拡大暴走】を止められず、
はてしない泥沼化となったのである。

高級参謀たちは、口では「天皇陛下バンザイ」と唱え、直立不動の姿勢をとりながら、
昭和天皇の意思・意向を完全無視した。文官総理大臣を完全にバカにしきっていた。
当然、高級参謀たちの行動を制約する文官総理大臣の方針・政策を完全無視し、
なんら顧みることはなかった。

誰が何と言うと「戦争を拡大する」を貫いた。ただし「責任は負わない」と割り切っていた。

【統帥権】の大本(おおもと)である昭和天皇の意思・意向を完全に無視していながら、
【統帥権の独立】と称して、自分たちのやりたいことを、勝手気ままにやっていたのである。

さらには、高級参謀たちは、旧大日本帝国陸軍の組織のトップである陸軍大臣や
陸軍参謀総長の方針・命令についても完全無視に徹していた。

旧大日本帝国陸軍は最高指揮官不在で、下克上がはびこっていた
退廃組織であった。


東条英機を始め、旧大日本帝国陸軍の最高指導者たちは
高級参謀たちや中堅将校たちの反乱テロで殺害されることを恐れて、
殺されてもよいからと身をはって、彼らの戦争拡大暴走を止めようとしなかった。

東条英機を始め、旧大日本帝国陸軍の参謀総長を頂点とする最高指導者たちは、
誰一人、命令無視の高級参謀たちや中堅将校たちを、断乎、処罰するという
毅然たる態度を明確にしなかった。
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森近衛師団長殺害事件

1945年8月14日深夜、ポツダム宣言受諾に反対する陸軍省軍事課の畑中少佐、
椎崎中佐らは、森近衛師団長に面会を強要し、陸軍将校たちによる戦争継続のための
反乱(クーデター)に参加を求めた。森師団長に強く拒否されると、畑中少佐は部屋を出て、
航空士官学校の上原大尉、陸軍通信学校の窪田少佐を引き連れ再度入室し、
無言のまま森師団長を拳銃で撃った。さらに上原大尉が
軍刀で森師団長を斬殺した。
同席していた森師団長の義弟・白石中佐も上原大尉と窪田少佐に
軍刀で斬殺された。

森近衛師団長殺害後、師団参謀の古賀少佐は、畑中少佐が起案した
偽造師団命令書
「近作命甲第五八四号」を各部隊に口頭で命令した。

近衛師団の反乱部隊は、昭和天皇のポツダム宣言受諾放送を阻止するため、
皇居内の宮内省を襲撃した。宮内省の電話線を切断した。
皇宮警察官たちの
武装解除を行った。昭和天皇のポツダム宣言受諾放送録音盤を
奪取するため、近衛師団の反乱部隊は宮内省の部屋部屋を徹底的に
暴力探索した。
しかし録音盤を発見できなかった。反乱部隊の将校たちは、録音盤を破壊するため
宮内省建物を砲撃することを考えていた。
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旧大日本帝国陸軍は、徴兵令状で否応なしに召集された一般兵士たちにとっては、
奴隷収容所そのものであった。リンチ地獄そのものであった。

旧大日本帝国陸軍の陸軍大臣・参謀総長・軍司令官などの最高指導者たちや、高級参謀・
中堅将校たちには、召集兵士たちの【人権を尊重する】という意識はひとかけらもなかった。

日本の知性を代表する渡邊恒雄氏、金森久雄氏、水木しげる氏、加藤寛氏、小堀宗慶氏、
山岸章氏、新藤兼人氏、城山三郎氏などが、日本経済新聞の【私の履歴書】等で
口を揃えて語っているように、召集兵士たちは、入隊したその日の夜から、古参兵による
苛酷なリンチ(暴力による私的制裁)を受けた。殴られ続けた。
大和魂注入棒
や上靴でケツが紫色になるほど強くひっぱたかれ続けた。

遠州茶道宗家の小堀宗慶氏は「軍隊とは、ここまで人の道とかけ離れた蛮行がまかり
通る世界
なのか」と語っている。

渡邊恒雄読売新聞会長・主筆は「古参兵によるリンチは江戸時代の拷問のようだった」と
語っている。

「穏やかで平等な社会」どころではない。まさに「リンチ地獄」であった。

敗戦が避けがたい状況になると、旧大日本帝国陸軍は、「本土決戦、
1億総玉砕」
と叫んで、1億国民を道連れに無理心中することを本気で考えていた。

しかしながら、前述のように、戦争が終わると、おめおめと米軍に捕らわれて、
東京裁判に引き出されて、「生きて虜囚の辱め受けた。」

戦後、言論の自由が回復し、さまざまな情報収集が可能となったので、
日本国民の多くが、冷静に歴史事実を検討できるようになり、
旧大日本帝国陸軍によるさまざまな洗脳教育による悪夢から覚醒したのである。
歴史を失ったのではない。



(本章は上記・正木千冬氏の訳本には掲載されていない。

志村英盛訳
         結      論

日本に対する戦略爆撃の経済的効果

日本経済は、1945年7月までに、米軍の空襲によって粉々に破壊され崩壊した。
生活必需物資の生産量は生存最低水準以下になってしまった。
兵器弾薬の生産量は戦時ピーク時の半分以下になり、米軍の作戦行動に
対処することは、到底、できないほどに低下してしまった。
米国に対する軍事的抵抗力の経済的基盤は破壊されてしまった。

この経済崩壊は、米軍による日本周辺の海空輸送路の封鎖と日本本土の
工業地帯および市街地に対する米軍の爆撃よる破壊の結果であった。

 By July 1945 Japan's economic systetm had
been shattered. Production. of civilian goods was
below the level of subsistence. Munitions output
had been curtailed to less than half the wartime
peak, a level that could not support sustained
military operations against our opposing forces.
The economic basis of Japanese resistance had
been destroyed.
This economic decay resulted from the sea-air
blockade of the Japanese home islands and direct
bombing attacks on industrial and urban-area
targets.

米軍による海空輸送路の封鎖は、日本本土と南太平洋地域へ
基礎的原料が運び込まれるのを阻止するためであった。

石油、ボーキサイト、鉄鉱石、コークス炭、塩、それに
ある種の食糧などの基礎的原料を輸入することは、
日本の工業生産において、欠かすことのできないほど重要で
あった。

大型輸送船を撃沈されたため、1943年の初めには
これらの重要な基礎的原料の在庫が減ってきた。

潜水艦攻撃による海上輸送封鎖が強化されるにつれて、
基礎的原料の輸入はほぼ完全に不可能になった。

兵器・弾薬の生産量は1944年秋にピークに達したが、
その後は原料不足で低下する一方であった。

日本本土に対する大規模な爆撃が開始される前に、
基礎的原料不足で、日本の工業生産量は確実に低下しつつあった。

武器・弾薬等の軍需品の生産量の低下が加速化していくのを
避けることは、もはや、不可能であった。

 The contribution of the blockade was to deny
japan access to vital raw materials on the mainland
and in the South Pacific area. Japan's dependence
on these sources was crucial in the case of oil,
bauxite, iron ore, coking coal, salt, and to a lesser
extent, foodstuffs. Heavy merchant ship losses
began to cut raw material imports as early as 1943.
As the blockade was tightened by submarines,
the mining program, and airpowcr imports were
almost completely stopped. Munitions production
reached its peak in the fall of 1944;thereafter
output began to decline, due to the shortage of
raw materials.Thus, before the large scale
bombing of Japan was initiated, the raw
material base of Jnpanese industry was effectively
undermined. An accelerated decline of arnament
production was inevitable.

戦略爆撃計画は、それまでの、じわじわと日本を絞め殺すという
やり方から、迅速に日本をノックアウトするやり方に変更された。

ノックアウト方式による戦略爆撃は1944年11月に開始された。
実際に戦略爆撃が集中的に行われたのは、1945年の3月から
8月までの期間であった。

精密戦略爆撃は航空機産業に焦点を合わせて行われ、大きな
成果をあげた。爆撃前、航空機産業の生産量は、すでに、
主要部品の不足で低下していた。

集中的な精密戦略爆撃による生産設備の大きな損傷に加えて
工場の分散疎開を余儀なくされたことは、航空機産業の生産量の
大幅な低下に拍車をかけた。

さらに、艦載機による青函連絡船攻撃は、本州−北海道の
輸送を実質的に断ち切った。精密爆撃は主要な目標であった
製油所設備と武器弾薬庫も破壊した。産業設備の大規模な破壊
という精密爆撃の目的は達成された。

しかしながら、すでに、原料不足と工場疎開によって、
日本の産業の生産能力は大幅に低下していたので、戦略爆撃の
経済的効果は期待したほどではなかった。

 The program was transformed from one of slow
strangulation to a relatively quick knock-out
by strategic bombing.
 It was initiated in November 1944, though the main
weight of the attack came between the months
of March and August 1945.
 The precision attacks on industrial targets
were of major consequence in the case of the
aircraft industry. The decline in aircraft output
initiated by lack of essential raw materials, was
greatly accelerated by the bombing attacks
which caused severe damage to production facilities
and necessitated the dispersal program.
 In addition, a carrier plane strike on the Hokkaido-
Honshu rail ferries virtually severed this
transportation artery.
 Other precision attacks, in which oil refineries and
arsenals were the major targets, accomplished
a considerable amount of physical destruction but
had less effect upon production either because
material shortages had already created so much
excess capacity or because plants were already
idle, due to dispersal.

都市市街地に対する焼夷弾爆撃は一般市民の士気と日本の
戦争継続意思に深刻な打撃を与えた。

実質的に日本の産業地域全部といえる66の都市に対して
焼夷弾爆撃が行われた。これらの25〜50パーセントが破壊された。

これら66都市市街地の50%以上が焼け野原となった。

焼夷弾爆撃は、市民の日常生活を根底から覆してしまった。
わずかに残っていた原料生産も不可能にしてしまった。

住民の住宅が破壊された。食糧の流通が止まってしまった。
都市生活に欠かせない公共サービスが提供されなくなった。
都市住民の大部分は都市から逃げ出さざるを得なくなった。
都市の産業は消滅し、あるいは機能麻痺した。

かくして、米軍の66都市に対する集中的焼夷弾爆撃は
日本の防衛力と経済再生力を無力にした。

焼夷弾爆撃は、海上封鎖とあいまって、日本経済を完全に
粉々に打ち砕いてしまった。

 The urban-area incendiary raids had profound
repercussions on civilian morale and Japan's will
to stay in the war. Sixty-six cities,virtually all
those of economic significance, were subjected to
bombing raids and suffered destruction ranging.
from 25 to 90 percent: Almost 50 percent of the
area of these cities was leveled. The area raids
interrupted the normal processes of city life to an
extent that interfered seriously with such
production as the shrinking raw material base still
permitted. Destruction of living quarters,
disruption of food distribution, and curtailment of
public services resulted in the migration of a large
part of the urban population, thus increasing
absenteeism and inefficiency to paralyzing
proportions. So concentrated were the attacks, both
in weight and time, that they overwhelmed
Japan's resources for organizing either defense or
recuperation. The economic disintegration caused
by the blockade was finished by the bombers.

凄まじい量の焼夷弾爆撃は、日本がおよびもつかぬものであった。
この凄まじい爆撃量は、また、日本の軍事力というものが
たいしたものではなかったことを証明したことになった。

日本の武器弾薬の生産量は、ピーク時においてさえ、
米国の武器弾薬生産量の10パーセント程度にすぎなかった。
太平洋戦争において使われた米国の武器弾薬の3分の1であっても、
それは日本が使った武器弾薬とは桁違いの量であった。

日本本土に対する焼夷弾爆撃が始まる以前に、すでに、
米国の空軍、海軍、及び陸軍の攻撃力は、
日本の敗戦が避けられないものであることを明確に示していた。

日本の産業が焼夷弾爆撃で破壊されなくても、
米国は、甚大な米軍兵士の死傷を厭わぬならば、
随所で日本軍を打ち破り、東京を占領することができた。

焼夷弾爆撃と海上封鎖は、日本の武器弾薬生産量4か月分を破壊した。
もし、日本が降伏せず、米軍の日本攻撃が続いていたならば、
この武器弾薬生産量4か月分の破壊は
米軍兵士の死傷数を少なくすることに貢献したはずである。

 The influence of the bomber offensive was
not solely dependent on the volume of arms it may
have denied to Japanese military forces.
Japan's production of munitions, at its peak,
was only about 10 percent of United States output.
With about one-third of its mobilized strength deployed
in the Pacific, the United States had decisive
superiority. Air, sea, and ground engagements
preceding the bombardment of the home islands,
had sealed Japan's doom. American armed
forces could have gone on to Tokyo at great cost
in American lives, even had there been no attack
on Japan's industrial structure. Blockade and
bombing together deprived Japanese forces of
about 4 months' munitions production.
That production could have made a substantial
difference in Japan's. ability to cause us losses
had we invaded but could not have affectd
the outcome of the war.


B29が日本の空を「わがもの顔」に飛行し、ほしいままに焼夷弾爆撃を
行って、米空軍の航空戦力の威力を日本国民に見せつけたことが
日本の無条件降伏の時期を早めた。

日本は米軍が日本本土に上陸する前に無条件降伏した。もし、米軍の
本土上陸作戦が行われたならば、数万人の米軍兵士が戦死したであろう。

B29の焼夷弾爆撃の威力と対照的に、日本には爆撃を防ぐ力がまったく
無かった。日本国民と日本政府は、米国との戦争をこれ以上続けることは
まったく無意味であることを悟らざるを得なかった。

日本経済が日毎に崩壊しつつあることは、日本国民の大部分の眼に明らかに
なっていった。原爆投下とソ連の対日参戦で、日本に残された道は無条件降伏
のみになった。

It was the::timing and the manner of surrender
which was largely influenced by Allied air
supremacy in Japanese skies The bombing offensive
was the major factor which secured agreement to
unconditional surrender without an invasion of
the home islands-an invasion that would have
cost tens of thousands of American lives.
The dermonstrated strength of the United States
in the B-29 attacks contrasted with Japan's. lack of
adequate defense made clear to the Japanese
people and to the government the futility of furthcr
resistance. This was reinforced by the evident
deterioration of the Japanese economy and the
impact it was havingr on a large segment of the
population.The atomic bomb and Russia'.s entry
into the war speeded the process of surrender.
already realized as the only possible outcome.

戦略空襲がどのように役にたったかの判定は、
戦略空襲の目的をどこに置くかによって変わってくる。

もし、戦略空襲の目的が限定的であったならば、たとえば
1945年11月に予定されていた日本本土への上陸作戦において、
地上兵力を支援するためと限定されていたならば、
石油・四エチル鉛貯蔵所や武器弾薬庫や航空機工場を爆撃することは
無かったはずである。

もし、戦略空襲の目的が限定的であったならば、たとえば、
国内の輸送ルートを攻撃して食糧や燃料の供給を止めることに
限定されていたならば、日本の戦争継続意欲は続いただろう。

そして、このような目的限定的戦略空襲は、海上封鎖効果と
重複してしまう。鉄道施設に対する空襲も海上封鎖と十分な調整が
必要なものである。鉄道施設は空襲に対しては無防備であった。
すでに、物資の移動能力は大幅に破壊されていた。
鉄道施設の復旧は、戦後、真っ先に行われた。

 The effectiveness of strategic air attack was
limited by the concepts of its mission.
Had the purpose of strategic air attack been primarily
to force an independent decision ratior than to
support a ground force invasion in November 1945,
there would have been no occasion to attack oil,
tetraethyl lead,arsenal or,after March ,aircraft
Effort could have been concentrated against food
and fuel supply by attack on internal transportation
and against urban areas, thus striking solely
at the main elements upon which continued
Japanese resistance was based.Moreover,a part
of the bombing effort merely duplicated results
already achieved by blockade.Attack on the rail
transportation system would have secured fu11
coordination with the blockade program. The
railroads were overburdened,defenseless, and had
only limited ability to replace rolling stock or
major installations.This target system was
about to be exploited by the AAF as the war
ended; it could have been given an earlier piriority
with distinct advantage.
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参考情報:
戦闘できる艦艇をすべて失い、沖縄を取り巻いた米海空軍に対して手も足も
出せなかった惨状にもかかわらず、永野修身・海軍元帥は戦争継続を主張した。
永野元帥は嶋田繁太郎・海軍大将とまったく同じく、無知で愚かで無能・無策・無責任
人であったと断じざるを得ない。
陸軍の杉山元帥・畑元帥も、悲しいことに、永野元帥と同類と考えざるをえない。


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    (本章は上記・正木千冬氏の訳本には掲載されていない。)





  

  
 

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