妙義山と堀辰雄文学記念館写真集
                               12年11月  志村英盛  Hidemori Shimura

本写真集の写真は筆者が上信越道走行中の高速バス車中と軽井沢町信濃追分で撮影したものです。
視野の拡大をはかる、視点を変えて観察する、立場を変えて考えてみるという教育目的・
啓発目的で掲載しています。読者の潜在能力の開発に役立つことを念願しています。
                                 コピー及び転載は禁止します。


01上信越道から見た妙義山

02上信越道から見た妙義山

03上信越道から見た妙義山と浅間山

06上信越道から見た妙義山の金洞山と白雲山
関連サイト:航空写真集 北関東 :妙義山の写真は番号50〜64

08上信越道から見た妙義山の白雲山・金洞山と裏妙義の丁須の頭

09上信越道から見た裏妙義の山々
      
11高岩山、裏妙義の山々、妙義山一帯

12これより軽井沢町

15西部小学校前バス停の標高1003m標識

16追分一里塚標識

17追分公園

18堀辰雄文学記念館手前の道から見た初冬の浅間山

19いざ、堀辰雄文学記念館へ

20案内板

21堀辰雄文学記念館前の石畳道

22-1入口の立派な門

22-2ポスター

22-3入口脇

23-1入口裏

23-2本館への道

24本館(受付・企画展示室)

25-1旧堀辰雄邸

25-2

25-3旧堀辰雄邸

26-1旧邸と展示館

26-2展示館

27書庫と本館




それほど、お前はおれには何んにも求めずに、おれを愛していて
くれたのだろうか ? ・・・・・・」

そんなことを考え続けているうちに、私はふと何か思い立った
ように立ち上りながら、小屋のそとへ出て行った。そうして
いつものようにヴェランダに立つと、ちょうどこの谷と
背中合せになっているかと思われるようなあたりでもって、
風がしきりにざわめいているのが、非常に遠くからのように
聞えて来る。

それから私は、そのままヴェランダに、あたかもそんな遠くで
している風の音をわざわざ聞きに出でもしたかのように、
それに耳を傾けながら立ち続けていた。



堀辰雄 (第88頁〜第108頁) 抜粋

明治40年、向島土手下の小さい煙草を商う家に、堀辰雄は、
祖母と母親にまもられ、かぞえ年4歳になっていた。

隅田川の橋を渡って浅草公園に、いつも母親と遊びに行ったが、
やはり子供を遊ばせている母親達が辰雄の顔を見ながら、
つくづく言った。

「このお子さんは何という俳優のお子さんですか。」

日南地に集まった母親達はこの可愛らしい子供を、どれ、
おばさんにも抱っこさせてといい、知らぬ小母さん達に
抱き上げられた。よくふとった難の打ちどころのない
辰雄の円い顔は、母親の血色をうけ継いで頬も照っていた。

堀の父、上条寿則は彫金師であった。その時代では、
そろそろ牛肉も家庭で食べ初めていたのに、堀の家では
牛肉はまだ鴉物と言われ、家では煮ることをしなかった。

だから、辰雄に牛肉を食べさせる時には、公園のすき焼を
兼ねた西洋料理店に連れて行って食べさせた。

そこのボーイは辰雄を見なれると、階下から二階まで、
いつもおんぶして登って可愛がり、辰雄も、牛肉とボーイとを
半々に好きになるようになっていた。

10歳くらいになると、お母さんは、辰雄のことをうちの殿様と言って、
父親につけない刺身のご馳走を辰雄のお膳につけていた。

夜、床にはいると辰雄の枕上を歩かないで、出世前の子供の
枕上は歩かないものだと、お母さんは皆に言った。
菓子くだもの類を貰うと、第一番に辰雄に、おまえ、
お食べかいと聴いてから家の者に頒けていた。

父の寿則は町内の顔ききでもあり、仕事の羽振りも宜かったので、
料理店の出入りから、芸者の温習会などにも、肝煎役だった。
その芸者の踊りのつなぎに、10歳の堀辰雄はハチマキをし、
(タスキ)をかけた勇ましい姿で、「ベンセイ・粛々夜河ヲワタル」の
剣舞を舞った。美少年の剣舞はいつも好評であった。

当時、剣舞は男の子のたしなみであり、酒席に子供を舞わしめる
ことは下町の一風俗でもあった。



堀の母は、勿論、辰雄の本どころか、印刷された一篇の物語すら
読まないで亡くなっていたが、製本屋に頼んで置いたから、きっと、
美しい本を作ってくれることに疑いを持たなかった。

だから、書物が頻々と出版されるたびに、堀は、母が頼みに行った
ことを思い出し、一冊を茶の間の隅の方か、書斎の襖の入口に
置き忘れていた。

その、置き忘れの短い時間のあいだに、書物に手をかけた老女が、
愉しげに頁を返し、活字を趁うて(オッテ)、日脚を縫いながら読んでいた。

子供の時から精一杯に育て上げられたうちの殿様であり、
どこかの俳優の子でもあるような子供が、
とうとう一人前以上になっていたことは、
どんなに老女に嬉しいことであっでたろうか。

老女は大学を卒たら着せるのだといって、大島のおついの着物を縫わせ、
まだ何年後でなければ卒業しない堀のために、箪笥の抽斗に、
この紋服同様の大島のおついをしまっていた。

(室生犀星)は、辰雄没後、ずっと後、奥さんのたえ子に、
「大島のおついが一揃えおありでしたろう」と言った。
「たしかに、ございました。永い間、着ていましたけれど、
何分にもお古いものでございましたから、もう、ほどいて了いました。」

「切れ端でもあったら、お大事になさい」と言うと、
「それはもう、きちんと糊張りにしてしまって置いてございますと」言われた。

「口でうまい事をいって、何処かに突き込んであるんじゃないの」と言うと、
たえ子は開き直って、「じゃお見せしてもいいわ。畳紙にきちんと
包んでございますのよ。いまごろ、いじめようとしたって、ちゃんと、
する事は、みな片づけてあるんですもの。時々、現われて、あらさがしに、
つけつけ言おうとなさっても、もう、晩くて(オソクテ)だめ」と、
彼女は、てんで受けつけなかった。

病床10年を切り抜けたところで、夫の死を見た彼女は、
烈婦のカガミのような人であった。



カガミは、いまは、堀辰雄の小説の中から、美しい嫉妬をほじくり出して、
それを唇にくわえて遊泳していた。カガミは、カガミに映る自分を見て笑い、
毎月、墓地にかかさずせっせと通うていた。

石にお詣りするということはどういう事なのであろう。
私には、この古い日本のシキタリが、余りに美の行事であるため、
却って奇異のはかなさに思われた。

堀辰雄は私生活の事は一さい口にしない人であった。

従って、いま何々の小説を書いているとか、お金がほしいとか、
どこそこの令嬢が美人であるとか、こんな家を建てて住んで見ようとか、
何処かに原稿を持ち込もうとか、家庭の様子がどうだとかいうことは
口にしたことがなかった。

だから、友人とか先輩とかの行状、悪口、かげ口もしなかった。
その心にも、他人を痛烈に憎むという気の荒立ちがなく、
そういう人の行状を耳にすることを避けているふうがあった。

歯医者の療治をうけると貧血を起すという堀は、
自転車から転がり落ちた女の子の膝がしらの血を見て、
たちまち、顔色蒼然のあわれみを催おす人だった。

手なんぞ見ても、小ぶとりの柔らかい指に、しとやかな肉つきをもっていた。
この人は女の子だったのが間違って男の子に生まれたのではないかと、
私はいつも同じ優しい瞬きを見せている堀を見て、そう思った。

だから殆どの人が堀を好いていたのだ。お愛想がよいわけでもなく、
いつも当り前の顔付で差し触りのないことを話している彼には、
その無口をおぎなうために相手の方で機嫌とりのようなことを、
話してしまうふうであった。

こんな人は色魔なぞによくある型や人格なのだ、つまり、
にたりにたりしながら相手の心を捉えるという行き方が、
そのにたりにたりを除けば凡て堀の持っているフンイキであった。

ところが、彼は色魔どころか、大抵の女の人には優しく皆に好かれ、
皆におなじように心を頒けている側の人だった。
誰もこの堀の悪口をいった人を私はきいたことがなかった。

私は、たえ子夫人に、「入口の道路がかなり手広だから、彼処に若い楓の
並木を作って、すずしいかげが夏は、斑に道ばたにうつるようにして
見なさい。ベンチも一つ置いて腰かけて、憩むようにするといいね。
そこで、旅行者は、何でも好きなように連れと話をしてもいいんだから、
来年の夏にはそうしなさい。此処は追分の公園みたいなところだから」
というと、たえ子は、「おじさんに指図をしていただけるなら、楓の並木を
作ってみるわ」と、彼女もその気になって言った。

夏、軽井沢の私の家に来て、これから堀さんの家を見たいという客があると、
私はその客を追分の町にあんないして行った。そのたびに景色を褒め、
埃立った田舎の町まで客は褒めた。あんない役の私は、一夏に二度は
訪ねてみるようになっていた。見るものもないが、何も見られない
ボロボロ町が却って美しくさえあった。

高峰三枝子も、堀の小説を愛読し、没後も、ずっと、たえ子夫人との
つきあいが続いていた。この頃、お会いした香川京子も、たえ子夫人から
聞くと、やはり堀の本が好きで、追分の家まで訪ねて行ったそうだ。

この二人の佳人は、その例にすぎないが、作家が女の人に愛読される
ということは、どこかに通うている血が感じられるのである。





室生犀星 (第13頁〜第17頁) 堀多恵子著『堀辰雄の周辺』



父親のような愛情を持って

室生犀星との初対面は、犀星34歳、辰雄19歳であった。

室生さんは、その前年、最初の愛児豹太郎さんを失くされ、
悲しみのうちにあったので、突然現れた辰雄にことのほか
優しかったのかもしれない。

その年の夏、辰雄は、室生さんについて軽井沢にゆき、
異国的情緒のただようその地に魅せられ、以後、終生、
軽井沢を愛するようになった。

その年、大正12年の9月、関東大震災で母を失い、
自分もまた九死に一生を得るような経験をした。
そんな辰雄を不欄に思われた室生さんは一時ふるさと金沢に戻られると、
「来たいと思つたら何時でも来たまへ。汽車賃だけ持つて来たまへ。
落葉の下から水仙が伸びてゐる古い町だ」という温かい便りを下さった。

翌年の夏、早速、金沢に出かけ、川岸町の家の前を流れる犀川で、
室生さんと共に泳いだりしたそうだ。そんな寵愛を受け、
私と結婚した頃は、室生家の茶の間は居心地の良い場所となっていたようだった。

とみ子夫人は包容力のある方で、室生さんと文学の話をするよりも、
とみ子夫人の料理を楽しみ、夫人や子供たちと遊んでいる方がよかった
のではないかと思う。津村信夫も立原道造もみな同じだったのだろう。



私が室生さんに初めて会ったのは、辰雄と結婚する前年の夏、
隣村の信濃追分から、辰雄につれられての訪問の時であった。
その日、私はあまり犀星夫妻とは話をせず、離れで、かわいい、活発で
おしゃまな朝子嬢の宿題のお相手をさせられていたことを覚えている。



私たちはその翌年、犀星夫妻の媒酌で結婚し、日ならずして軽井沢にたった。
住む家があったわけではなく、室生家の別荘を借りて家さがしをし、
水源地に近い山の上に家を借りた。雨の多い年だった。

欝蒼とした森の中にあり、夜になると梟(ふくろう)が鳴き、
深い渓谷を渡る夜鷹の声が恐ろしかった。

そんな山の上の家に、その夏は大勢の人が訪ねて下さった。
犀星夫妻や子供たちは勿論のこと、折口信夫先生、萩原朔太郎夫妻、
お嬢さんの葉子さん、歌人の片山廣子女史、そして立原道造も。

犀星夫人は肥っておられ、山に登って来られるのは、さぞ御苦労だったろうと
今にして思うのだが、家事に疎い私のことが気にかかっておられたようだった。
キャベツの芯は捨てずにぬか漬けにするように、魚は一匹で買い、
自分で三枚におろし、半身はサシミにして辰ちゃんに、あとの半身は煮るか
焼くかして辰ちゃんに、骨やあらは、すまし汁にして辰ちゃんにという仰せだった。
それほど犀星夫妻は、辰雄のことを思っておられた。室生犀星は師ではあるが、
むしろ、父親のような気持を持って接して下さったと私は思っている。

室生犀星は、辰雄の死後、『詩人堀辰雄』とか『我が愛する詩人の伝記』などを
書かれた。戦後辰雄が追分で病の床に伏すようになってからは、軽井沢に
疎開しておられた室生家で苦労して集められた食料品を分けて頂きに、
私は自転車で出かけて行き、病人の様子を報告したりしていた。
その頃からだんだん室生さんと親しく話が出来るようになった。

辰雄の死後は、上京する度に犀星宅を訪ね、御一緒に銀座を散歩したり
「壺中居」にお供をして陶器を見たり、唐三彩の美人の桶や、馬上の美人桶などを
見る機会を得た。そんな折、李朝の白磁の壺に手をふれながら、
「女の肌のような美しさ……」と一人ごとのようにつぶやかれると、
私はどぎまぎしたものだった。

夏の軽井沢を亡くなる前年まで楽しまれた。その往き帰りを御一緒したことも
度々あったが、小学生の遠足の時のようにパンにバターを塗ったお弁当を
楽しみにされていた。

帰京なさる頃は、軽井沢はもうかなり涼しい日がある。駅長が気をきかせて、
中に入ってお休みなさいとすすめても、「いや此処で結構」と言われ、
ごたごたした待合室の冷たい椅子に腰かけて列車を待っておられた。
頑固な一方、小さいもの、貧しい者に対するやさしさ、働く者の労苦に対する
思いやりを私はいつも感じていた。

しかし、室生さんのその思いやりは犀星独特で面白い。庭師を大切になさるが、
御自分の大切なりんごを半分だけお茶うけに出すのを見て、私はちょっと
庭師に同情したくなったことがあった。東京から暑い最中に来る編集者に、
御自分で玉露を小さい茶碗に入れて出される。客はそれを一口に飲むと、
室生さんは、このお茶はゆっくり味わって貰いたいものだと内心思われるだろう。
客は用事をよそおって立ち、お手伝いさんに水を一杯所望していた。

ある時、板垣直子女史が見え、室生さんは、巴旦杏(はたんきょう)を、
むかせて出された。女史は手をつけず、帰り際に「果物は皮をむかずに
出すものだと思いますよ」と言って帰られた。

室生さんは、私に「そういうものかね」と尋ねられたことがあった。

東京タワーが出来て間もない頃、御一緒にあの展望台に登ったことがあった。
室生さんは下駄をはかれているので、エスカレーターに足をかけようとされた時、
支えようとすると、「老人扱いはやめて下さい」とこわい声で言われた。

展望台から東京の夜景を眺めて感動され、ただ一言「生きていることはいいことだ」と。
私は飛行機で遠くから帰って来て、東京のあかりを見るといつもその言葉を思い出す。


33ふるほんや

34雑貨屋

35-1ここが有名な油屋です

35-2ここが有名な油屋です

36明治天皇が行幸された追分宿本陣跡


ふるさとびと 堀辰雄

 村の西のはずれには、大名も下乗したといわれる枡形の石積が
いまもわずかに残っている。

 その少し先きのところで、街道が二つに分かれ、
一つは北国街道となり、そのまま、林のなかへ。

 もう一つは、遠くの八ヶ岳の裾までひろがっている佐久の平を見下ろしながら、
中山道となって低くなってゆく。

 そこのあたりが、この村を印象ぶかいものにさせている「分去れ」である。

 その「分去れ」のあたり、いまだに昔の松並木らしいものが残っていたり、
供養塔などがいくつも立ったりしている。

 秋晴れの日などに、かすかに煙を立てている火の山をぼんやり眺めながら、
貧しい旅びとらしいものがそこに休んでいる姿を、今でも、ときどき見かけることも
あるのだった。


38信濃追分駅への帰りなら下り坂ですが、堀辰雄文学記念館へ行くには登り坂になります。

39-1

39-2

39-3歩行者はいませんでした。車は多く、しかも、狭い道での車のすれ違いが多い危険な坂道。

40信濃追分駅のホームから見た浅間山

41信濃追分駅の見事な紅葉

2012年11月16日午前9時予想天気図

2012年11月16日午後8時の衛星画像

関連サイト:
      わたらせ渓谷写真集
                        小海線(八ヶ岳高原線)写真集
写真集 新東名 (12年4月14日15時開通)