エセ裁判によるソ連の日本人捕虜虐待
ハバロフスク事件の真相−
                          2012年3月 Minade Mamoru Nowar

1.デタラメ極まるソ連の【エセ裁判】

昭和31年(1956年)8月29日開催の海外同胞引揚及び遺家族援護に関する
調査特別委員会第18号で、中曽根康弘元首相のブレーンとして著名な
瀬島龍三氏
は、ソ連が【戦犯裁判】と称して行った【エセ裁判】が、
いかにデタラメ極まるものであったかについて証言した。


一例として「ある上等兵は、ハルピン特務機関で当番兵をしていたとの理由で、
私と同じ日に、同じ軍法会議において、25年の刑を受けた」と証言している。

2.このままでは、全員、死んでしまう

「このままでは、全員、死んでしまう」とソ連収容所当局の捕虜虐待で
追いつめられた日本人たちが、冷酷無慈悲なソ連収容所当局に
絶食という、文字通り、必死の抗議を行ったのがハバロフスク事件である。

ハバロフスク事件のリーダーであった石田三郎氏は昭和31年(1956年)
12月26日、舞鶴に上陸し帰国した。事件に関係した日本人捕虜たちは、
石田氏が国会で証言し、この事件の実態を正確に日本国民に知らせてほしい
と熱望したが、社会党の強い反対で実現しなかった。

以下は、石田三郎氏がハバロフスク事件について、
資料を中心に、一切の粉飾を避け、真実を伝えるために書いた
『無抵抗の抵抗 −ハバロフスク事件の真相−』
(日刊労働通信社 昭和33年(1958年)発行)の抜粋である。(一部補筆)



事件の概要:
ハバロフスク事件は、1955年(昭和30年)12月19日、
生命の危機に直面したハバロフスク第16収容所第1分所の
日本人769名が、ソ連の非人道的な暗黒管理に抗議して、
作業拒否と絶食という非常手段に訴えて、待遇改善を求めた事件である。

しかし、1956年
(昭和31年)3月11日午前5時の、
ソ連内務次官ボチコフ中将の無警告武力弾圧によって、
統一的集団運動は瓦解した。その後、分散させられた
各集団は、個別闘争によつて要求貫徹に向かった。

そして、6月に至って、待遇の面では、ほぼ所期の目的を達した。
ソ連領土内で、ソ連の主権の下で行われた
日本民族の『生命擁護闘争』である。

参加した769名の中、旧制高等学校以上の学歴を持つ者は
92%であった。平均年齢は42歳であった。
インテリ壮年層の日本人集団が起こした事件である。




根本的な問題はカロリーの問題であった。
旧日本軍では、重労働に要するカロリーを
3800と規定していたが、
下記ソ連収容所の規定では2800となつている。
しかも、実際には、日本人軍医4名の共同調査・
算定の結果では、やっと2580であった。



3.我ら戦犯なりや  第51頁−第54頁

日本人の誰しもが心の奥底深く蔵してきた不満、
それは一見、東洋人的諦観によつて押さえつけられているようには見えるが、
折にふれ時にふれてこの疑問が、否、この不満が頭をもたげでくる。

一般国際法的観念の、あるいは陸戦法規概念の、どこを捜せば
この疑問が解けるのだろう。

私たちが、一体、ソ連に攻撃の火蓋を切ったとでもいうのだろうか。

ソ連領の寸土にでも攻め入ったというのであろうか。

攻め入ったのは日本軍ではなくて、ソ連軍ではなかったか。

ソ連軍こそ、中立条約を一方的に破棄して、進攻してきたではないか。

そして、私たちは、私たちの防衛陣地で捕虜となった。

そして20世紀の奴隷として、ソ連領に拉致移送された。

もちろん、私たちが満州において、
わが同胞を守り得なかった責任はある。

同胞に、あの悲惨な、目をおおう憂目を見せた罪は否定すべくもない。

また私たちを助け、私たちとともに、よくその困難に耐え抜いてくれた
東洋の友人たちに対しては、彼らの顔を正視できない程の慚愧を覚える。

これらの点について、私たちは一片の弁解の辞をも持ちあわせない。

しかしこれらのことと、
ソ連が私たちに対して取った態度とは、何のかかりあいもない。

私たちはソ連に対しては、罪の自覚の一片すら持ちあわせることもできない。

このことは、ソ連自身が百も承知のはずだ。

それなればこそ、われわれを極東裁判にも持ち出さなければ、
いわゆるハバロフスク裁判にも持ち出さなかった。

そもそも
ソ連はドイツ戦犯を定義づけるに当たって何と言明したか。

「ドイツはソ連領に侵攻し来り、人道上許すべからざる悪逆を敢えてした。……」と
うたっているではないか。

ドイツ人に対する定義と、日本人に対する戦犯の定義と違うのか。
しかもなお、
私たちを有罪とするのに
国内法であるロシヤ共和国刑法を適用しているではないか。

国内法であるロシヤ共和国刑法の中には「資本主義幇助(ほうじょ)罪」というのがある。

諜報謀略でひつかけられない者に対しては、
すべてこの「資本主義幇助(ほうじょ)罪」条項を適用しているのである。

「資本主義幇助(ほうじょ)罪」よって25年の刑を言い渡された某氏が
ソ連裁判官に向つて、
「では、若し貴見の通りとすれば
日本に生れた者は赤子でも
資本主義幇助
(ほうじょ)ということになるではないか」
ときめつけたのに対し、
ソ連裁判官は、昂然と、「その通り」と言い放っている。

志村注:ソ連が日本人に対して行ったエセ裁判は
     ヒトラーのユダヤ人迫害、虐殺と全く同じである。
     厳しく非難すべきことである。


裁判があったにしても、
これはただ形式的なものにすぎないのだから、
今日文明国民が享受している弁護、
あるいは自己の正当性の申し開き等ができるわけでもない。

しかし形式的にせよ、裁判があったのはまだよい方だ。

私たちの三分の一は、いわゆる欠席裁判−−書類裁判である。

なにも知らない間に、
誰が作ったかも判らない証言によつて、
何時の間にか犯罪人となり
「第58条により
刑期25年の強制労働(正式には矯正労働)を科す」
という一片の通知で終りである。

したがつて私たち日本人戦犯を作った所以は
結論すると
「外交的人質政策であった」と断ぜざるを得ない。

その故にこそ、
上は大将から下は二等兵にいたるまで、
一率25年ということになるのだ。

戦犯とならずに捕虜として帰国した人々と、
私たちとの間には大して差があるわけでもないし、

特に28年に特赦で帰つた人々とは何の変りもない。

また世界に公表したハバロフスク裁判の被告が
2年あるいは3年の刑なのに、
その部下の下士官、兵が25五年、
それどころか極東裁判における
一級戦犯さえも受けることの少かつた
25年刑が、
私たちにとつては将軍、将校、下士官、兵はいうに及ぱず
一般民間人すべてを押しなべている。

これで一体私たちに不満を持つなといえるだろうか。

私たちの諦観の影にはこのような不満が横たわつていた。

これが他の不満とともに爆発するのを止めるわけにも行くまい。
圧えようということ自体が無理ではなかろうか。
私たちは二十世紀の文明人なのである。

参考資料:朝日新聞1951年(昭和26年)7月26日『引揚白書』より抜粋転載

この文書は当時の吉田茂外相(後に首相)が国連総会議長宛に提出した
最高レベルの外交文書である。



4.奴隷的労働  第14頁−第16頁

私たちの労働は軍医の体位検査によつて基礎ずけられる。

この体位は1級から4級まであり、
4級以外は原則として収容所外の工場、学校等の建築作業に
出ることになつているのだが、
病弱者の増加によって作業人員が漸減したため、
遂に4級(インワリード=不具者という呼名)の中からさえも
建築作業にかり出きれるようになつた。

もともと日本人の体位は、ソ連人とくらべて著しく劣つている。

これには内幕話がある。入ソ当時私がいた収容所の
日本人500名のうちソ連人並みの規格では
1級と査定できるものがいないので、
ソ連軍医がこれでは上司に報告できないからと、
1人だけ格上げして1級としたことがあつた。

その後日本人の体位の低さがソ連人にのみこめてから、
これでは作業割当に支障をきたすというので、
日本人には大体ソ連人より1階級ずつ格上げした
体位検査を用いはじめ、
ソ連人の2級、3級該当者の
日本人を1級、2級にするという具合だつた。

これがソ連人の労働者に適用する
作業ノルマ(仕事の遂行率)をそのまま適用されるのだから、
日本人にとつて苦しいのは当然である。

昭和30年頃、当時私たちの大部分は三個所の現場に別れて、
それぞれの建築に従事していた。

そのうち最も多くの仲間が働いていたのは
「六建」という呼び名の大ベトン工場を建設する現場であつた。

その作業現場には、測量師から土工、.石工、大工、煉瓦工、
左官、屋根ふき等一切が日本人の手によつて行われていた。

その日本人の勤勉さ従順さ正直さについては、
心あるソ連人は均しく認めていたが、
本工場でも御多聞に洩れず日本人の働き振りは
昭和30年の第一・四半期に
ロシヤ共和国第一、第一一・四半期には
全ソ第一の成績をあげたのである。

ところがこれに反して、
現場監督側および収容所当局の
日本人に対する態度はどうであつたろうか。

彼らの基本的な態度といえば、
それは従順な日本人を徹底的に搾つて
自分らの功績をあげること、
日本人は最も憎むべき重大戦犯であるから
死ぬまで酷使するということにあつた。

このため現場側と収容所側は申し合せて、
将校一、下士官一の監視係を任命し、
毎日終日私たちの作業を監視させた。

勿論彼らは建築についてはズブの素人であり、
仕事の段取その他について知るはずもなかつた。

その彼らが事毎に私たちの作業に干渉して
作業能率を低下させる許りでなく、
現場側と結託して私たちの給金査定にまで容喙するし、
時には作業未遂行、
あるいは国家財産の故意の損耗を理由に
懲罰作業をさえ強制し、
また零下20度、30度のトラック上の
寒風に吹きさらされて現場にたどり着く
私たちに、仕事前の暖を取ることさえ禁じたり、
雨にぬれた衣服を乾燥するため焚火している火を踏み消して
作業に狩り出したり、
当然負傷などの災害が予想される危険な作業にまで追い出し、
これを拒絶すれば直ちに営倉に入れ、
さらにあらゆる言葉の二言日には、
「貴様らは囚人だ。
いうことを聞かなければ、また監獄に送るぞ。」
と脅迫するなど目に余るものがあつた。

ところがその反面、
彼らは日本人の大工に私物の家財道具を造らせたり、
自宅の薪用に板切れや棒切れを
現場側に無断で搬出させたりさえもしたのである。

また現場側で、ソ連側最高貴任者が監督を集めて
訓示を与えるとき、
「ここの日本人は戦犯だから死ぬまで酷使してもよい。」
と放言したり、私たちにたいしても、
彼らが民間人でありながら営倉に入れるぞと、
おどしたりするのは何時ものことであつた。

何しろ収容所当局、現場当局に対する不満は数限りなくあつた。

要するにソ連側は、
私たち日本人を奴隷としてしか取り扱つてはくれなかつた。



参考情報1:
09年10月15日、21時〜23時18分、フジテレビ(東京地域では8Ch)から
同社の開局50周年記念・芸術祭参加作品として、山崎豊子氏原作の
『不毛地帯』のドラマ作品第1回が放送された。「これは架空の物語である。
実在した出来事と類似していても、それは偶然に過ぎない」との但し書きがある。

筆者は、このドラマの
日本人捕虜虐待のシーンの数々は、事実に基づいて
良く描き出していると思う。

この中のシベリア抑留のシーンで印象的であったのは、ソ連の医者が
重病の日本人捕虜を診察して「異常はない」と言い放つ場面と、
徒歩で拉致連行される途上で疲労のため脱落する日本人捕虜を
ソ連兵士が容赦なく射殺する場面であった。

ソ連収容所当局は、病人を「異常なし」として、零下40度の野外での
労働を命じたり、休息なしで12時間労働を強制したりしていた。
生き残るために必要な最低限の食糧すら満足に支給しなかった。

1956年の日ソ国交回復交渉において、鳩山一郎元首相が病身をおして
モスクワにおもむいたのは、ソ連収容所当局に徹底的に虐待されていた
日本人抑留者たちを救い出すためであった。

「ソ連の対日参戦は正義の戦い」との論文を書いた駐日ロシア公使や、
「北方領土問題は別の惑星の問題」と高言したロシア外務次官や、
「ソ連の対日参戦後の奴隷労働、エセ裁判、日本人女性強姦を知らない」
ロシア国民に、このドラマの日本人虐待シーンを見ていただきたいと思う。


ちなみに、このドラマに登場するソ連官憲はすべてロシア語で話している。
日本人たちが抗議するときも、すべてロシア語で話している。


参考情報2:
09年10月8日、22時25分〜23時、フジテレビ(東京地域では8Ch)の
『最強アンビリバボー祭り』の中で、
『実録「不毛地帯」、シベリア抑留の悲劇』
放送された。
日本人捕虜虐待に徹したソ連の非道不法を映像で表現した
良い内容であった。国会議員全員にご覧になっていただきたいと願っている。

30分足らずの放送であったが下記の重要な事実が織り込まれている。
1.ソ連が支給した食事は生存に必要なカロリーを はるかに下回るものであった。
2.その少ない支給食料の中から、収容所管理当局はグルになって大量に横取りしていた。
3.零下39度の屋外で重労働を強制した。
4.労働中の休息を認めなかった。
5.○○氏の体重は60キロから40キロに減った。
6.ソ連警備兵は脱走をはかった者を容赦なく射殺した。
7.日本人捕虜1000人中、約半数が死亡した。
8.厚生労働省は、引き揚げ時の徹底的な聞き取り調査で調べ上げた
  詳細な資料を保管している。

5.事件発生の端緒  
第56頁−第67頁

    (殺害目的で*)病弱者を営外作業に追い出す

1955年(昭和30年)春頃から、私たち日本人の建康状態は悪化しつつあつた。
同年12月19日、ハバロフスク事件発生当時、私たちの健康状態は危機に瀕していた。

その直前、11月と12月、私たちのての生命にたいする不安を決定的ならしめる事件が
相次いで起こった。

11月26日、政治部将校マーカロフ少佐、および分所長スリフキン中尉が立会つて、
当時、営外作業不適で、営内軽作業として麻袋修理作業に従事していた者、
および作業休で休養中の者に体位検査を行い、
これらの病弱者中から、日本人26名を営外作業に適すると検定して、
営外作業に追い出した。

これらの病弱者たちは営外の建築作業に従事できる健康者ではない。

いかに無能とはいえ、医者であるリトワーク軍医少佐の医師的良心は
かようなことを許さなかつたである。


しかし病弱者を営外作業に追い出す決定は、
政治部将校マーカロフ少佐と
分所長スリフキン中尉によって、医者の診断を無視して行われた。


選ばれた本人たちは、到底、営外作業に出る体力はないこと訴えた。
これが受け入れられるはずもない。
彼らは各方面に請願書を出した。
班長も請願書を書いた。
日本人の現場長も請願書を出した。

現場長、班長らは、第16収容所長マルチエンコ大佐、
政治部将校マーカロフ少佐、分所長スリフキン中尉に
直接談判さえも試みた。

しかしこれを受理するようなら
始めから病弱者たちの営外作業への追い出しはしない。

26名の病弱者たちは、零下25度の寒空の営外作業に出るより外なかつた。

そして10日も経たないうちに、彼らは前以上に悪化した病勢となつて、
再び営内に帰らざるを得なかつた。

日本人多数の命を預つて苦斗している現場長4人は、事の重大さと、
今後もこの種事件の頻発を憂慮して、その根本的解決をはかるため、
第16収容所所長マルチエンコ大佐に会見を求めた。

しかし第16収容所所長マルチエンコ大佐は「忙がしい」「居ない」といって
会おうとしなかった。

そうこうしているうちに、私たちが懸念していた最悪の事態が発生した。

12月15日、政治部将校マーカロフ少佐と、分所長スリフキン中尉は、
またしても営内残留の病弱者を集めて検査を実施した。


今度は前回とは比較にならない大規模なものであつた。

本検査によつて16日から営外作業を命ぜられた者は、驚くなかれ、
日本人だけでも65名であった。

(その後私たちはこの65名の当時の病状を詳細にわたつてモスクワ中央へ報告した)

病弱者65名は全員、六建現場に配属された。

あらゆる嘆願はなされたが、すべては無効であつた。

16日は明けた。

65名の老人病弱者は私たちとともに
零下25度の寒風下をトラックに乗つて現場にむかつた。

現場に出たものの実際問題として労働のでぎる人は
一人もいるはずがない。

現場長も班長も班員もこれらの病人に作業をさせようとは思つてもいない。
どこの班でもすべて休憩室に入れて温く休ませた。

だがこれらの病弱者にとつては、この寒空の現場と収容所との往復それだけで
既に病勢は悪化し始めたのである。

僅か1日の往復で血圧170、180。
なかには200を突破するに至つた人が3名に達した。

現場長も班長も本人たちも必死になつて嘆願運動を行つた。

しかし16日の夜は何の回答も得られなかつた。

明けて17日、出場時になつても収容所幹部は
軍医でさえも、誰も出勤してきてはいない

囚人の悲しさで、作業休を貰つていなければ
如何なる状態にあらうとも休むことは許きれない。

それは非合法のサポタージュとみなきれてしまうのだ。

*志村注:「病弱者営外作業に追い出し」「病弱者殺害が目的」であった。

六建現場では17日の午後、現場長が招集した緊急班長会議が開かれた。

全班長は、異口同音に、.日本人健康状態の一大危機を訴え、
今後とも収容所側がこのような政策を反復するのは必然であるから、
もしこのような情勢で今年の冬をすごすとすれば、
私たちの儀牲者の数は予測できない。

また現在健康である者も全員倒れるに違いないと力説した。

しかしではこの難関打開の道は、ということになると誰にも名案は浮ばない。

ソ連側に誠意のないのは始めからわかり切つている。
ソ連側の政策がますます悪化することも見えすいている。

では退いてこの圧迫を甘受するか、それは私たちの自滅を意味する。
だが、これにたいする合法的な事態打開の道は
永年の私たちの経験がその無効を証明している。

私たちはこの5年来、3000通に上がる中央宛、地方宛の
嘆願書を出し、直接、ソ連側と数知れないほど面接し、交渉してきた。

このことから12月19日の作業拒否へ六建現場が火蓋を切つたのである。

6.一致団結して作業拒否

そこで、いよいよ相談に入つた。

今まで、一応、個々には作業不出場を届出してはいるが、
これからは統一行動をとるという建前上から、
先ず、作業不出場全員の代表という形で、
一括作業不出場を言明しなければならない。

要求するには綿密に検討する必要があるので、
その前に「ハバロフスクにおける最高責任者との会見を要求し、
その際、私たちの立場に関し充分説明の上、
所要の改善方を申し入れる」と言明するだけに止めると決定した。

とりあえず、私はこれから分所長と会つてくるが、
その間に諸君はそれぞれの班に帰り
「作業不出場によつて請願する要求事項」を具体的に研究し、
班毎の意見をまとめて私に提出してもらいたい。

会見終了後、これの総合的研究と本部の組織等について
御相談したいといい残し、私は土佐君と一緒に分所長室に赴き
面会を申しこんだ。、

分所長スリフキン中尉は出勤したばかりで、
たつた今、このことを職員から報告を受けた所だつたらしいが、
即座に分所長室に通された。

私たち二人は、型通りドアのところで敬礼をし、
きらに分所長スリフキン中尉の机の前でまた敬礼をして
直立不動の姿勢をとつた。

そしておのおの姓名を名乗り、営外作業日本人の代表たる旨を報告して、
「全員は12月19日、本日作場出場拒否の方法をもつて請願運動には入る。
この解決については、当ハバロフスク最高責任者と会見交渉したい」
と申し入れた。

分所長スリフキン中尉は、今からでも遅くないから作業に出よ、
問題はその後に談合しよう」と作業を督促したが、
私たちは、「最高責任者にこの旨至急報告されたい」と言い残して引き上げた。

先ず本部の位置を決めなければと、
土佐君と知恵を絞ったが適当な場所がない。

第一、第三、第四バラックは小部屋ばかりの二階建でその位置が適当でない。
第二バラックは半分がソ連側の事務室なので失格、
第六バラックは中国人、朝鮮人が多く、日本人は半数程度、
しかも出人口の向きがよくないので集合には不向きであつた。

結局、先程、皆が集まった第五バラックにするより他なく、
とりあえず、第五バラックの片隅に机、椅子二、三脚を持ってきて本部とした。

二人は椅子などの到着する前から、寝台上にあぐらをかき、
「運動を如何にして進めるか、目標をどこにおくか?」
「組織をどうするか?」で相談し合つていた。

しかし現在でも、現場長−班長−班員という指揮系統はあるのだから、
先ず要求事項をとりまとめることが先決問題だと、
逐次提出してくる各班の意見を検討していった。

10時頃であつたろうか、まだ十分の検討も終らぬうちに
政治部将校マーカロフ少佐の呼び出しを受けた。

私は急いでこれらの要求を8項目にとりまとめ、
土佐君に組織その他を幹部と研究するよういいおいて
一人でマーカロフ少佐の待つ団本部へ出頭した。

団本部に入つてみると、マーカロフ少佐に、吉田団長、鶴賀文化部長がいた。
事態がここまできた以上、別に、団長、文化部長に室外へ出て貰う必要もない。
かえって二人がいてくれた方が話し易い位のものだと考えた私は、
鶴賀君に通訳を頼んだ。

マーカロフ少佐は、元来、日本人を人間扱いしない総元締であるだけに
傲岸不遜、人を見下すことを得意とする男である。
この時も、劈頭から威猛高に、
「囚人の作業拒否は違法である。如何なる理由があろうとも、
囚人が作業に出ないとはけしからん。不服従として厳罰に処する」
と喰つてかかつた。

私はこれにたいし、「日ソ間の国交回復が議せられている現在、
また、ヴォロシーロフ議長が、日本議員団訪ソの際、言明したように、
日本人は、当然、遠からず帰国を約束せられている集団であると信ずる。

この最も光明ある時期に、
何故かかることを断行しなければならなかつたかは、
貴官も先刻御承知のはずである。

特に貴官の病人狩り出しは甚だしい非人道行為である。
このような事態が続くとすれば、私たちの健康状態は・・・」
と説明したが受けつけない。

あげくの果に、「よろしい。即刻作業に出ないとあれば
昼食を支給することはできない」と会見を打ちきつた。

団本部からの帰りの道すがら、私は十数名の仲間が営庭の片隅で
盛んに大工仕事をしているのを目撃して、何事かと近よつていつた。

始めは、私にも一寸見当がつかなかつた。何だと聞くと、
「ソ連兵が弾圧のため営内に進入してくるに違いないから、
バリケードを作つているんだ」という。

私はハッとした。

そうか。私はウカツだつた。
皆は自らの、また、同胞の生命を守るため本当に死を覚悟しでいるのだ。

そして今、決死の抵抗を準備している。

そうだ。この決意こそが必要なのだ。
しかし、こういう手段をとつてはいけない。

私たちは正義と人道の上に立つている。
これで充分なのだ。

暴力を用いてはいけない。
暴力を用うれば、敵に攻撃の機会の口実を与える。

ソ連各地のロシヤ人囚人の暴動と同一であつてはならない。

あくまで沈着冷静な、無抵抗の抵抗でなければならないと・・・。

そこで私は、彼らにこのことを説いて、直ちにバリケードの撤去を命じた。

第五バラックの本部に帰ってみると、第五、第六バラックの仕切り板がとられ
(元は一つの建物だったが、中央に仕切り板があり分断されていたので、従来、こう呼び慣らされていた)
往来が自由になり、バラックの全部が見通せるようになつていた。
これなら日本人全部がここで集会を開くこともできる。

早速、現場長、班長をはじめ、全員を集め、さきの会談の詳細を説明するとともに、
書記に記録をとらせた。

その後私たちは、翌年3月11日、武力弾圧を受けるまで、
ソ連側との交渉には、その都度、専門の速記者をつけて速記をとり、
双方の発言を余すところなく正確に記録し続けた。


この集会の最中に炊事係から、
「ただ今、政治部将校から許可あるまで、
全員に昼食を支給することまかりならぬとの命令があつた」と注進してきた。

これが3月11日、ソ連邦内務次官中将が、自ら指揮する
兵力2500名と消防自動車8両とを用いて行つた
大武力弾圧にまで発展していつたソ連側の最初の弾圧であつた。

7.所長、病院長の更迭  第235頁−第237頁

2月3日に第16収容所所長、1月31日に病院長が交替した。

マルチェンコ大佐と代つて着任したナジョージン少佐は、着任当初は、
いかにも温和な態度で、彼の表現を借りれば、日本人の立場に入り込んで
事の解決に努力すると言明した。

しかしながら、事件の原因の説明、私たちの要求の説明という段になると、
引きこんでしまつて、なかなか出て来ない。

彼は何かというと、私は新たな立場で着任した。従って
以前のことについては何も知らない。
君らの要求に対する回答は、今度できた新指導部(彼の上司のこと)の命令による」
と言い逃れていた。

「作業の問題については、当分、言及しないことにする」と言明した彼が、
3日もすると、「作業だ。作業に出れば万事解決する」と、
作業強要の態度に豹変してしまつた。

1月31日に交替した病院長ミリニチェンコ中佐は、少しばかり違つた人物だつた。
ミリニチェンコ中佐は、従来のソ側の非をさとって、
これを本当に人道的に改善してやろうと乗り込んできたという態度をみせた。

ミリニチェンコ中佐は最初から、私たちの病院関係にたいする改善要求を
素直に聞いてくれた。彼のできる範囲内で、真剣に改善に骨折つてくれた。

日本人軍医を信頼して、これが起用をけいかくしてくれた。
病人食の支給にも大いに努めてくれた。
注射、投薬等も多量に施した。
入院を宜告されていたが、まだ入院できないでいる
約30名のために、新たな病窒拡張を計画してくれた。
病院炊事を拡大し、医務室日本人勤務員の過労を見てとり、
勤務員の増加の計画もたててくれた。
病院勤務員の手当の増額についても努力してくれた。

ミリニチェンコ中佐の着任によつて、ソ連人病院勤務者の態度が一変して
親切になつた。

だが残念なことに、これらの計画は実施されなかつた。
一部実施されたものも2週間たらずのうちに、
また、もとの木阿弥にもどつてしまつた。
それは、彼の上役である、ハバロフスク地方官憲当局者が、
これを嬉ばなかったり、これを許可しなかつたからであった。

私たちは、ミリニチェンコ中佐がソ連側の非をさとって、
改善に真剣に乗り出してくれたことを認めているが、
彼の上司の見解、決定が変更されない限り、彼一人がいくら躍起となっても、
所詮、無駄骨折りにすぎなかった。


8.ドウドロフソ連邦内務大臣宛 請願書 1956年2月10日  石田三郎
  第242頁〜第248頁

尊敬する大臣閣下!

ハバロフスク第16収容所第一分所全日本人は
ソ連邦内務大臣として新たに就任せられたる閣下に対し、
満腔の敬意を表明しつつ、咋年12月19日以来、
当分所において発生せる事件について、
その経緯を詳細に報告する光栄を有すると共に、
本問題について、閣下が、ソ連邦政府の正しき政策の執行者として
善処されんことを、一同、衷心より希求しつつ、本請願をなすものであります。

当第一分所においては、咋年12月16日、
収容所側は、労働力強化の一方策として計画的に病人狩り出しの挙に出ました。

積年の、我々に対する、収容所側の非人道的取扱いに耐え続けていた
日本人集団は、それ迄、幾百回となく試みて効果を見なかつた
請願書による方法ではなく、
自己の生命を擁護するため、
最後的な手段として
作業拒否の方法により、
直接、ソ連邦政府に対する請願運動に入るのやむなきに至つたのであります。

この間、その善処方について、ソ連邦要路の方々に対し
数回となく請願書を提出し、
その解決方を懇願して参りました。

ところが事件発生後、現在迄、50日を経過したるにもかかわらず、
これが全面的な解決のための何等の曙光も見出し得ないことは、
我々全員の深く遺憾とするところであります。

そもそも私たち集団の主要構成部分は、元軍人捕虜、及び民間人抑留者であり、
そして大部分は1948年、1949年、1950年に受刑したものであります。

現在迄に出された各人の請願にも明瞭なる如く、
私たちは、その受刑に当つて、
何故にかくも峻厳なる刑を受けねばならぬのか、
深い疑問を持たざるを得ませんでした。

何故かならば、
それが世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於て、
しかも、軍人捕虜、及び民間人抑留者であつた我々に
拷問、偽証、脅迫等の手段や、
更にまた文明国民によつで認められた
裁判上の保証を何等受くることがない書類裁判の方式で、
あるいは又、形式的な、
秘密裁判によつて受刑せねばならなかつた事実については
永い間、理解に苦しみ、煩悶し続けてきたのであります。

勿論、この疑問は、日本に居る私たちの家族の疑問でもあります。

何となれば、私たちは、
ドイツ人が、ソ領内において、ソ連人に対して為したような
残虐な行為を一度も行ったことはありません。
更に第二次世界大戦中、寸土もソ連領を犯したことのない事実を
誰よりもよく理解しているからであります。

ところが、私たちの受けた刑は
東京軍事裁判の第一級戦犯人に対する判決に匹敵する程
苛酷なものでありました。

ところが、1953年(志村注:この年極悪非道なスターリンが死亡した)
(志村注:ソ連秘密警察の元締め)ベリヤ一味が処刑されるにおよび、
私たちは、初めて、何故に、かくのごとき
ソ連邦の裁判制度の権威を疑わぎるを得ないような方法で、
しかも形式的に、一定数の犯罪人を創り出きねばならなかつたかの
疑問を理解し得たのであります。

ベリヤは、罪なき者に対して苛酷な刑を与えることにより、
ソ連邦内外に、反ソ感情を醸成せしめ、
ソ連邦の国際的地位を不利に陥れんとする
意識的な反国家行為の結果であつたことを知り得たのであります。

この事を裏付ける証左として、ベリヤが処刑された年に、
多.数の日本人の釈放を見るに至りました。

私たちは現政府の正しい政策に対し、
心からなる敬意を表すと共に、
この次こそ、我々も、同様な配慮により、
必ず帰国し得るであろうことを信じ、
大きな希望と光明を見出し、
一層従順に労働し、誠実に、ソ連側の命令に服従してきたのであります。

ところが、かくのごとき従順、誠実であつた我々に対し、
収容所当局の取り続けて来た管理態度は、
ベリヤ処刑以後に行われてきた、
他のロシヤ人囚人収容所の画期的な改善とは
全く、似ても似つかぬものであり、
むしろ反対に、圧迫の度を加えてきたのであります。

収容所当局の我々に対する態度は、終始、憎悪に満ちており、
私たちが、彼らから感じ得たものは、
侮蔑以外の何物でもありませんでした。

収容所所長マルチエンコ大佐、
及び政治部将校マーカロフ少佐を筆頭とする
収容所職員が、我々に対して取り続けたところの管理は
我々を、人間として認めているのかと
疑わざるを得ないものでありました。

しかし、この事は敗者たる日本人の誰かが
負わなければならない運命でありましょう。

かくて、私たちは自己の不運を諦めねばなりませんでした。

それ故に、私たちが、六建建築現場において
倒壊家屋の処理に当つた際、彼等が私達に対してとつた行為は、
今これを思い出しても、激しい怒りを禁じ得ない野獣的な犯罪行為でした。

彼等は日本人が従順であることによつで、益々増長の度を加えました。

彼等は、強い態度で交渉する朝鮮人の集団的反抗に対しては緩和政策をとり、
従順なる日本人の至当なる請願に対しては威嚇ををもってこれに応え、
更に強く請願する者に対しては営倉処分して恐喝していました。

大堀事件が発生するや、収容所側は自己の非行を隠蔽する保身上の対策として、
何故、大堀事件が発生したか、その根本原因を検事機関に知らせず、
日本人側から出された多数の請願書に対しては、
これを一部の者の宣伝扇動であると称して、
全班長を、一挙に、他分所に移動させる等の不当な手段を講じました。

大堀の判決については、これを全員に知らせず、
しかも、上司に対しては、全員にその判決を布告したと
上司を欺きました。

彼等の私達に対する管理態度が如何なるものであつたかを
示す一例が、収容所職員集団は、日本人の残飯を利用して、
衛生的な何等の願慮も払わずに、収容所内での豚の飼育であります。

収容所職員集団は、上司に対しては、この豚が日本人集団の所有であると
説明し、豚の病気に際しては、人間の重病人に対してすら配慮しない処置を
早急に取っていました。

収容所職員集団は、日本人集団を豚以下の存在としてしか考えていないと
疑わざるを得ません。

このような考え方から出発する我々に対する収容所当局の管理は、
労働、生活、医療などあらゆる面で我々をに対する迫害となつて
続けられてきました。

このような迫害、すなわち、悪質な管理の結果、
私たちの体力は極端に低下の一途をたどっていったのであります。

このような環境にもかかわらず、私たちは未だ冷静な理性によつて
自己の感情を押さえうる余裕を持ち得ておりました。

私たちは収容所当局のこの行為に対して、この地があまりにも
モスクワから離れているので、人道主義の光を受け得ないのだと理解して、
地方官憲のこのような取扱いを、モスクワ中央政府からの指示によるものであると
考えたことはありませんでした。

それ故、我々は許された方法で、何百回となく請願書を提出したのであります。

しかしながら、肯定的な回答も、改善も得られなかつたという事実は、
収容所当局が、自己に不利な請願書を如何に処置していたかを
雄弁に物語るものであります。


このような中に迎えた1955年(昭和30年)という年は
私たちにとっては、この10年間、いまだかって経験したことのない程、
希望と光明にみちた年でありました。

すなわち、世界のあらゆる処で、平和具現のたの実際的な方策が、
具体的に着手されたのであります。

1941年、背信的にソ連邦を攻撃し、
あれ程非人道的な行為をソ連領内で行つたドイツに対してさえも、
ソ連邦は、一方的に、戦争状態の廃止を宣言するに至つたのであります。

私たちは、このソ連邦の正しい平和の政策に
心かちの共鳴を禁じ得ませんでした。
そして、そのような国際状勢の動きの中に、
日ソ間の国交を調整するロンドン交渉が開始されたのであります。

しかしながら、収容所当局は、
そのような情勢の中でも、
依然として暗黒管理を継続していたのであります。

これに対して、.私たちは今迄より以上、
帰国し得る日の目前にあるを信じ、こらえにこらえておりました。

.ところが、労働力の不足を補填する方策として
第16収容所所長マルチェンコ大佐、
政治部将校マーカロフ少佐、
分所長スリフキン中尉が取った手段は、
全面的に体力の低下しつつある日本人の健康状態を十分に意識しておりながら、
これに対して何等の考慮を払うことなく、
意図的に病人を作業に狩り立てました。

病人を零下25度の〜30度の時期に、
営外作業に狩り立てるという鬼畜の行為をなすに至つたのであります。

私たちは、何等効果のない請願書であることを知りつつも、
順序を経て、これが善処方を再三、請願したのであります。

ところが、収容所当局のこれに対する冷ややかな態度は、
いかに猫の如く従順である日本人であつても、
忍耐に限度があることをはつきりさせたのであります。

私たちは、ついに、自らの生命は自ら守らねばならぬ。
収容所当局の暗黒管理に、
これ以上從順に服することは
死を意味することであることを自覚せざるを得ませんでした。

私たちは、たつた一つ残された道である、
直接、中央への請願の方式として、
作業拒否により12月19日以降、
モスクワ中央政府への請願運動に入ったのであります。

私たち、明らかにベリヤ政策の犠牲者であります。

1953年のベリヤ処刑以後になされた私たちの正当な請願が、
ベリヤ一味の残党たる地方官憲によつて何等の妨害も受けることなく
モスクワ中央政府に到達していたならば、
現政府の正しい措置によつて、
1953年の日本人大量帰国の直後に、
私たちも全員帰国していた筈であります。

何故ならば、1953年に帰国した者と私たちとの間には、
何等特筆すべき犯罪上の相違はなく、しかもその時帰国した者よりも
遙かに責任のない地位にいた者が、現在も多数残されているからであります。

私たちは何時か来るであらう光明の日を夢見つつ、
今日迄耐えうるだけ耐え抜いて参りました。

しかしかくのごとき請願運動に入つたからには、
私たちの主張の正当性の一切を中央に請願し
その正しい解決を得べきだと考えます。

それ故に、私たちは今始めて閣下に対して、
地方官憲の何等の妨害を受くることもなく、
ベリヤ的処刑の不当性を申し述べ、
我々がロンドン交渉に何等関係なく、
もっと早く日本へ送還されなければならなかった集団であるという
その根拠を披瀝するものであります。

ドイツ人戦犯全部のドイツ帰国を終えた現在、
第二次大戦の犯罪人として、
我々が未だ残されて
苛酷な作業を強制されなければならないという理由は、
一体、どこにに見出すべきでしようか。

それは、まだ覆滅されない、ベリヤ残党が地方に幡居して、
上司を、常時、欺瞞し続けているからであり、
その結果、ソ連邦の権威を傷つけるがごとき
今回の事件の発生を見るに至つたのであります。

尊敬する大臣閣下!

私たち日本人集団は、在ソ10年間、捕虜及び受刑後の期間を通じて
常に誠実に労働し続けて参りました。

そして今、耐え得るだけ耐え抜いたその揚句、
かくのごとき行動に出るのやむなきに至つたのであります。

このような日本人の行為は、
不当なものとして強圧さるべき性質のものでしようか。

私たちは、もしも、この一切の事実がモスクワ中央政府に伝達されたならば、
必ずや、正しい解決を見るであらうことを信じて疑いません。

事件発生以来50余日、この間、第16収容所当局、
ならびにハバロフスク地方官憲は、
あらゆる卑劣な手段を弄して
私たちの合法的請願運動を圧殺せんと企図しております。

しかし、私たちは、必ずや近き将来、
閣下の手許に本事件の詳細が伝達されるであろうことを確信しております。

私たちは、幸いに、本年2月1日、閣下がソ連邦内務大臣の重責を担い、
新に其の職に就任せられたる事実を知るに及び、
閣下こそ、現政府の高遭なる政策の具現者として、
正しい処置を講ぜられるであらうことを信じ、
次のごとき資料を提出することが必要と考えるものであります。

すなわち、近き将来、解決の全権を有せらる委員会が、
派遣せらるるであらう時のために、
その委員会の活動を容易にすべく準備したところの、
第16収容所当局の、我々に対する数々の不正、非人道行為についての
諸資料であります。

この資料は、賢明なる閣下が、今回、何故に、
日本人がかかる方法による請願運動に入らざるを得なかつたかについての
真相理解の上に大きな役割を果すことを確信し、
この資料に現れた諸事実は、閣下の高遙なる配慮によって、
速やかな方法で完全に排除され、
我々日本人集団の、今日迄の、誠実な服役態度と
これを証明する具体的労働成果とが充分に考慮され、
ソ連邦の平和政策と人道主義に立脚して、
我々の至当なる別紙の如き要求事項の請願が受理され、
帰国問題が何等ロンドン交渉に関係なく処理され、
そしてその実現の日迄、
完全なる体力回復のための医学的措置と、
労働の全面的免除の決定がなされるであらうことを深く信ずるものであります。
謹んで閣下の健康を祈りつつ。

9.集団絶食請願に突入  第307頁−第311頁

1956年(昭和31年)3月2日午後1時15分、土佐君は私の代理として
ナジョージン少佐に面会して、『絶食宣言書』を手交するとともに、
当日夕食分の糧抹、約50キロの雑穀、約100キロの乾パンを提出した。

これは、私たちが少量の雑穀を貯蔵していること、および乾パンを製造して
いたことをソ連側も知つていたので、もうこれ以上、日本人側にストックは
残されていないという宣伝のためであった。

絶食宣言書 1956年3月2日 
第16収容所所長ナジョージン少佐宛  石田三郎

収容所当局の非人道的取扱いに起因して、昨年12月19日以降、
当分所の日本人全員が、直接、モスクワ中央政府に対する
請願のため作業拒否に至ったその経緯については、数十回に及ぶ
日本人代表の請願により、貴官が既に十-分に承知せらるる所であります。

何故に、日本人がかかる行動に出ざるを余儀なくされたかにつても
既に詳細なる資料の提出により貴官はこれを検討され、
日本人の正当なる主張についで十分に肯定せられているものと
我々は信じております。

しかるに、本件発生以来、終始一貫、現地官憲は自己の保身的立場から
常に一方的な処理態度を堅持して、収容所当局の非人道的管理の諸事実の
隠蔽に努め、我々の正当なる行動を圧迫し、モスクワ中央政府に対する
請願遮断に腐心し続けて来ました。

具体的には、先ず第一に、事件発生当初のハバロフスク地方検事長の暴言と
処置があります。
次に、1月4日、当分所を訪れた委員会は、我々の面接請願を受.理することなく、
個人からは1通の請願書も出されていないにもかかわらず、
1月26日、個人提出の請願書を全部審理して調査した結果であるという
事実を偽る発表を行い、虚偽事実に基づく決定を天下り的に通達しました。

これについて、我々は、その決定が、今回の事件の内容に全く適合しないという
事実を指摘し、これを受け入れることはできないと明確に意思表示をしました。

2月3日、貴官が第16収容所所長として、マルチェンコ大佐と交替し
着任されました。我々は、貴官が、着任当初に言明された「日本人の立場に
入り込んでこの問題の解決に当る」との意志表示に対して、深い尊敬と信頼を
もって、貴官に期待し続けたのであります。

.貴官は、常に、新指導部なる言葉を口にせられ、その指示によつて
新しい、正しい指導がなきれるかのごとく言明され、
しかして旧指導部の、我々に対する不当なる態度が排除され、
今迄我々の提出した請願書の一切がモスクワ中央政府に送達されて
審理されているかのごとく言明されました。

私たちは、新しく所長として就任された貴官によつて、
従来、握りつぶされてきた請願書が、最も確実な方法で、
しかも、その責任の所在を明らかにし、更に請願書提出の為の諸条件が
完全に保証されて善処きれるものと期待していたのであります。

しかるに、我々の期待に反して、
貴官が就任時に確言された誠意の第1番目として我々に対し示されたことは、
いまだに、何等、事件の根本的解決を見ない状態であります。

反対に、2月8日、モスクワ中央政府の名をかりた
政治的な意図を持つ不当なる検索が実施されました。

さらに、次には、マルチェンコ大佐ですら行つたことのない
請願書を書くが故にという理由に基く、紙類の購入を禁止しました。

第3番目には、作業問題は、現在、モスクワ中央政府において
審理されているので、この問題については触れないと
貴官は2回にわたり明言しました。この問題についての
権限はないと自ら確認したにもかかわらず、
自らの明言や確認に反して、我々に作業を強要しました。

次に貴官が我々に対して取った誠意は、
請願書受理についてみずからの責任回避を回避したことであります。

すなわち、請願書受付の責任の所在を明らかにしてきた
従来の受付方式を中止しました。代わりに取った方法は
受付責任の所在が分からぬ請願箱による受付方式であります。

請願箱受付方式の目的は、明らかに、請願書の処理を有耶無耶の中に
葬り去らんとする意図であると我々が理解するのは当然であります。

何んとなれば、我々の請願害の処理を的確に実施する意思があるならば
何故に、その受付責任の所在を明確にすることを怖れるのか、
我々は理解に苦しむので、上述の如き疑念を持たざるを得ないのであります。

そして、ついに、貴官は、着任22日目の2月24日には、
我々に対する貴官の最大の誠意とも云うべき命令第19号を示達しました。

ここで、私たちは、貴官のいう「誠意」とは、「敵意」であると
考えざるを得ません。貴官は「敵意を持って対応する」というべきところを、
聞違えて、「誠意を持って対応する」と言っておられたのではないかとの
錯覚に捉われぎるを得ません。

事件発生以来、既に70日、この期間は決して短いものではありません。

私たちは、この間一日も早く、現在の状態を排除し得る可能性を創り出すために、
冷静な秩序の下に、整然と自己の行動を律し、
モスクワ中央政府の人道主義的正しい解決の磯会を待ち続けたのであります。

ところが、この期間にハバロフスク地方官憲が取り続けてきた手段は
事件発生以前もそうであったと同様な、
モスクワ中央政府との完全な隔離の方策であり、
数々の卑劣な手段を講じて、事の真相を
モスクワ中央政府に秘匿することにより、
自己を保身せんとすることだけでありました。

私たちはこの70日間、過去10年間耐え続けてきたのと同様な
根気強さで、モスクワ中央政府によつて、この問題が
必ず解決されると信じて、不当なる圧迫に対して、今日まで
耐え抜いて参りました。

そしで無駄とは考えながらも、解決のための可能性と誠意を
見出すべく、3月1日、貴官と会見したのであります。

ところが、貴官の我々に対する誠意(=悪意?)は、
着任以来取り続けてきた誠意(=悪意?)となんら変わることのない
ベリヤ的態度でありました。
ハバロフスク地方官憲の忠実なる代弁者以外の何物でもなく
期待さるべき新たなるものを見出すことはできませんでした。

不当なる貴官命令第19号により、日一日と低下する自己の体力を意識しながら
何故に、私たちは、これ以上、不法な圧迫に耐え続けなければならないのでしようか。

ソ連邦政府の人道主義と平和政策を踏みにじらんとする
卑劣なるハバロフスク地方官憲の行為に対して、
我々一同、激しい憤激を禁じ得ません。

そしてついに、現在では、自己の生命を賭し、すなわち絶食により、
モスクワ中央政府からの全権派遣方を請願する以外に
策なきに至つたのであります。

人道と平和の国、ソ連邦において、かくのごとき行為を
我々に取らしむるに至つたところのすべての責任は、
この70日のハバロフスク地方官憲のベリヤ的処理態度に帰すべきものであります。

.我々第16収容所第1分所の日本人は
断乎として3月2日以降、集団的絶食を宣言し
貴官に別紙諸事項の実現方を要求するものであります。

1.第16収容所所長に対する要求事項
@別紙ヴォロシーロフ閣下宛の請願書を速かなる方法により申達きれたし。
A燃料の常続的補給は収容所当局の費任においてなされたし。

2.絶食に伴う通達事項
@本絶食に参加せる506名は糧抹受領を拒絶する。(総員は731名)
A本人が参加を希望せるも、大衆の意見によつて参加を許さざりし者202名、
 及び本人の意志により参加せざりし者23名に対しては
 従来通り糧秣を支給されたし。糧秣受理用責任者は病院炊事夫・間野卓爾。
B絶食不参加バラックは病院及び1号バラック。
C2,3,4,5バラックは絶食バラック。
D所内の火災予防は当方担当。

3.絶食実施バラックに対する注意事項
@ソ連側職員のバラック内立入は、病院長ミリニチェンコ中佐以外は拒絶する。
 ミリニチェンコ中佐も、立入に際しては、1号バラックの土佐敏夫に予め連絡のこと。
A上記通告を無視してバラック内にソ連側職員が立ち入りたる場合、
 いかなる事件が生じても、その事に対して、当方はなんらの責任を負わず。
B医務関係以外の事項等にして、双方の連絡を要する場合の連絡担当者は
 ソ連側ミリニチェンコ中佐、当方は土佐敏夫とする。
C本絶食参加者中には入院を要すべき病人等含みあるも、
 これらより生ずる犠牲に対する責任は、本事件に対して、
 正当なる処置を講ぜざりし収容所当局、及びハバロフスク内務長官が
 負うべきものとする。
D絶食実施中のバラック内日本人は、いかなる突発的病状発生するも
 医師の処置を受くることなし。

10.ソ連内務次官の武力弾圧襲撃
−ソ連兵は白樺の棍棒を手に、無抵抗の絶食中の日本人を殴り続けた


3月11日午前5時、静かな眠りにつつまれていた私たちのバラックは、
一瞬にして修羅場と化した。

敵襲! 起床! と連呼する不寝番の声に夢破られた私たちの耳には、
扉を破壊する凄じい物音にまじつて、
「ウラー」「ウラー」とソ連兵の喊声が聞えてきた。

またたく間に扉は破れ、ニキーチン中佐を先頭に通訳、将校、素手の兵10名ばかりが、
ニキーチン中佐を護衛するかのようにしてなだれこんできた。

日本人は全員、寝台から動かない。
部屋の入口に立ちはだかつたニキーチン中佐は
「ソ連邦内務次官ボチコフ中将命令!
日本人は、ただ今より、各自の荷物を持つて戸外に整列せよ。
10分間の猶予を与える」と声高に宣言した。
通訳が直ちに日本語をもつてこれを伝えた。
それとともに、どこに備えつけてあるのか、
数個の拡声器から営内に向つて放送される同一文句が交錯して聞えてくる。

あまにも瞬間の出来事である。
あまりにも予期しないソ連側の態度である。

凍った窓は外界の視野を断ち切つている。
外はおそらくまだ暗く、
片鎌月だけが凍りついた大地を青白く照らしていることであろう。

他のバラックの状態は一切不明である。
連絡もとれない。
私が寝ていた第5バラックの状況をみてみよう。

ニキーチン中佐の「誰も出ないのか」という怒号が発せられるや、
今まで戸外に鳴をひそめて待機していたのだろう、
手に手に1メートル程の白樺の棍棒を構えた数十名のソ連兵が乱入してきた。

部屋に入るとみるや、
やにわに寝台上の日本人をひつかつぎにかかった。

絶対無抵抗を申し合せている私たちである。
柱にでもしがみついて拉致を防ぐより他はない。

それでもなお、これを警める(いましめる)かのように、
「手を出すな」「手を出すな」「抵抗するな」と
日本人相互の悲痛な叫びが発せられる。

入口近くの仲間2〜3人は、早や戸外にかつぎ出された。
下着のままである。

事ここに至つては、ボチコフ中将に会わねばならない。
私はニキーチン中佐の前に躍り出た。

物をいういとまもない。
有無をいわさず4〜5名のソ連兵たちによつて、手取り足取り戸外に連れ出された。
私の呼ぶ声にも、ニキーチン中佐は冷然とした態度で、
私がかつぎ出されるのを見送つている。
ニキーチン中佐以外の者は、私が何者であるかは知らない。

連れ出された私は、自動小銃で取り巻かれた囲いの中に投げこまれた。
やつとのことで、その隊長であろう将校に話を通じて部屋に引き返した。

すでに乱斗である。
無抵抗の日本人はソ連兵に棍棒で殴られ続けている。

部屋に入った私を、ソ連兵が連れ戻そうと私を取りまく。
ようやくニキーチン中佐のところに辿りつき、
「日本人は出させる。貴方も乱暴はやめろ」と談じ込み、
私は日本人に、
ニキーチン中佐はソ連兵に向つて叫ぶが、
怒号と喊声の交錯した部屋の中で、
ソ連兵はいきり立っており、
私たちの声は、一向に通じない。

隣りの部屋にも駆け込んで怒鳴った。

そのうちに、また、私はソ連兵にかつぎ出されてしまつた。

悪夢のような数十分は終つた。

それから5分後、私は収容所管理本部でボチコフ中将の前に立つていた。

「どうし1回の会見もなく、乱暴に、武力をもつて弾圧されたか。」

ボチコフ中将は私の前に、バラックから剥ぎとつてきた、
例の「ロシヤ人入るべからず」の標札をつきつけていい返してきた。

「日本人はソ連の領土内に日本の租界をつくつた。」
「それは心外である。その意味は、われわれが提出した絶食宣言書を
よく読んでいただけば判ることだ。
何も我々はソ連人全部の立ち入りを拒んだ訳ではない。
また、我々は、貴下が収容所を訪れて下さった時には、
先ず第一番に貴下をバラックに案内するつもりでいた。」

「それは君の詭弁であって、日本人は君が僕を案内してバラックを
巡視することなんど知らんだろう。」

「それは貴下が来所された時、私が案内して回ればよいので、
何も事前に一般にまで通告しておく必要はないはずだ。」

「日本人は今回の行動によって、わがソ同盟に重大な侮辱を加えた。
それは、わがソ同盟の体面を汚した。特に絶食という方法までとつて。」

「そのお言葉は残念である。
むしろ、その言葉は貴方の現地官憲に向けらるべき性質のものだ。
我々の本請願運動の根源は、現地官憲にその責任がある。
われわれは本行動によつて、ソ連中央政府の公正なる判決を仰ぎたかった。
それにもかかわらず、貴下は、当方の一言の弁明を聞くこともなく、
ただ現地官憲の進言のみによつて、
ただ今のごとき、実兵による弾圧を加えられたことを甚だ遺憾に思う。」

「日本人が書いた請願書は、何れも外交文書としての内容を備えている。
一体誰が書いた。」

「我々が考えていることを素直に、有りのままに書いただけで、
外交文書であるとか、どうか、そんなことは意識していない。
事実ならば誰でも書けるはずだ。」

「何か頼みたいことはないか。」
「今朝の事件によつて日本人側に怪我人はなかったか。」
「ない。」
「今後、彼らを充分に保護していただきたい。」
「よろしい。」

「我々は貴下が来られることを予期し、また貴下の公正なる処置を予想し、
そのため貴下に最もよく日本人の状態を認識していただくために
説明書と資料を準備しておいた。今それをバラックに行って取ってくるから、
この二つを充分読んで、事件の本質をよく掴み、
私の説明を聞き、
我々の希望をかなえた解決をして戴きたい。」

「よろしい。申出は許可する。」

こうして私は衛門所に引き返したのだが、
そこで、収容所の人事係職員から、
「病院と絶食非実施バラックが、
当方の点呼整列命令を拒み、不穏の形勢を醸し出している。
君が行つて、点呼に出るよう命令せよ」との申出を受けた。

その横からさらに、通訳将校が
「他分所に移動した日本人に、
今後、絶食しないように君の命令を書け」とつけ加えた。

「これは重大な問題である。即答致しかねる。10分間待つてくれ」と言って
私は次のように考えた。

@私たちはソ連をあまりにも甘くみすぎていた。
  ソ連にも、人情の一片ぐらいは存在すると思っていた。
  しかし、ソ連はこれに対して、武力弾圧という手段で
  無惨にも、この私たちの考えを訂正してくれた。
  やはり、ソ連はソ連。武力弾圧、これがソ連の本質なのだ。

Aこれによって私たちの統一組織は破壊きれた。
  後はおそらく、数個所に分散配置されるであろう。
  その場所において、各個が、個別的闘争を継続するより他に方法はない。
  すなわち、私たちが考えていた、
  統一による団結力をバックとする対等の交渉は、今や望めなくなつた。
  よしんば、今後、分散された集団が、各個にいかにに闘つてみたところで、
  このことは、ソ連側にかけ得る私たちの圧追の力が減少したことを意味する。

B残念ながら、一言にしていえば、私たちは負けたのである。
  今後に残された問題は、いかにして「最小限の損害で最大の実績を獲得するか」
  にかかつている。そのためには、これ以上、勢力を分散させてはならない。

C幸い、絶食非実施バラックに対しては、目下のところ
  ソ連側は、これを細分するとか、移動させるとかの口実は掴めないはずだ。
  また何らの処罰の法もとれないはずだ。
  彼らは元来、作業に出る必要が,ないか、
  実質的に作業に出られない体力の持主ばかりだから。

Dところがもし、この点呼出場命令を拒否したとなれば、
  ここに命令違反という新口実ができる。
  武力行使でいきり立つているソ連側のことだ。
  おそらくその余勢をかつて、この非実施バラックへも
  実力を行使するおそれなしとしない。

Eもし、そうなつたら大半は病弱者、
  それに一部、血気盛んな青年隊が混ざっている。
  実施バラックとは異つた人員構成だから、その混乱は予想し難い。
  青年隊は、病弱者をかばつて、闘うかもしれない。
  最悪の場合、病弱者や青年隊の中から、犠牲者を出さないとも限らない。

Fソ連側としては、絶食宣言以来、日本人の人数については、
  全く五里霧中で把握しかねている。
  したがつて、この点呼は弾圧という意味よりも、真の意味の人員点呼である。

Gだから当方がこの点呼に出て、ソ連側の人員把握に応じさえすれば、
  それで満足して圧迫は加えないだらう。

このような分析から、私は点呼に出させようと決心したので、
その旨、ソ連側に通ずるとともに、
絶食禁.止を要求した通訳に対して、
「私は今後も、私なりの闘争を続けていく。
諸氏は、日本人としての自覚ある行動をとられたい」と書いて渡した。

通訳が移動して行つた日本人にこれを見せたかどうかは私は知らない。
おそらく、この言葉は通訳の気に入るものではなかつたらうから。

そうして、私はボチコフ中将との約束に心せきつつも、
人事係や、ハバロフスク内務省の少佐通訳、
その他4〜5名の将校に取り囲まれて、非実施バラックを訪れた。

その途中で、私は少佐通訳、その他の将校に聞きただして、
「日本人は全員無事。たつた一人、かすり傷程度の負傷者がある他は
怪我人はいない」との返事を得た。

中将の回答とあわせ考え、やっと安堵の胸を撫で下ろすことができた。
全員が、よく歯を食いしばって
無抵抗の抵抗、暴力を用いないという申し合せを守つてくれたことを
ありがたく思った。

非実施バラックの本部ともいうべき部屋で、
「私には、皆さんの気持もよく理解できるが、
私もいろいろ考えた揚句、
点呼に出られた方が最も妥当だと思う。
だから皆さんは全員とはかつて、
できる得る限り私の希望にそっていただきたい」
と申し出た。

その足で第五バラックに行きついた。
取り散らされた部屡の有様に、無量の感を抱きながら
前記の説明書と資料を探し出した。
私のメモは遂に発見できなかった。
有事の際にと、まとめておいた背負袋をソ連兵にかつがせて
思い出の多い部屋を後にした。

衛門所に帰つた私は、
待ち構えていたナジョージン少佐の、
勝ち誇つた皮肉な笑い顔に接し、
「だから言わんことじやない。
石田も、とうとう監獄行きか」との嘲笑を受けねばならなかつた。

私の頑強なボチコフ中将との再度の会見要求も、
「ボチコフ中将はもう町に帰つた」との一言ではねつけられた。
結局、両書類は確実にボチコフ中将に渡すという誓約書を取り得ただけで、
私は囚人自動車の人となり監獄に送られた。

ごの11日の朝、ソ連側が用いた兵力について、
私が伝え聞いた諸情報や、
この眼で見た状態を述べてみよう。

ソ連側は、武力行使を決心するや、
10日夜から第2分所において病室を拡張し、
おびただしい医薬、救急道具を集積した。
軍医、看護婦数十人を待期せしめた。

第1分所から約8キロ離れた第2分所周辺に
約5個所、医師5名宛の救急所を設けたらしい。

一方、同じ第2分所でバラック攻撃の予行演習を行っている。

ニキーチン中佐は
「明朝未明、攻撃を敢行する第1分所には、
日本サムライ500名の決死隊が立てこもっている。
夢油断して、後れを取るな」
とソ連兵に訓示したという。

ボチコフ中将は、司令部を第16収容所本部に置き、
2500名のソ連兵を動員して、自ら総指揮に当つた。

兵力の内、1000名は予備として
第1分所より約500メートルの場所に待機させ、
奇襲攻撃に使用した兵力は、1500名、消防自動車8両、
拡声器自動車一両、、無線通信器二台、救急車3両、
他に催涙弾を用意したといわれている。

それはそれとして、ソ連邦内務次官中将ともあるものが、
私たちと1回も顔を合せることもなく、
頭からソ連兵を使用してかかつたことは不審にたえない。

もし彼が、私たちの数多くの請願書の1通でも、
熟読玩味していたならば、
私たちの真意が判らぬはずはない。


また彼のいうように
「ソ連邦内に日本祖界をつくる」
ことが、できるかできないかは、常識で判断できるはずである。

要するに、彼もまた、力こそが正義と信じ、自己に一点の非もない
とうぬぼれるソ連指導者の)典型と思わざるを得ない。


以上



11.ロシア政府に、犯罪事実を認めさせ、公式謝罪を求めよ

読売新聞(朝刊)09年10月11日第5面【ワールドビュー】欄は
『北方領土 首相の十字架』との論説を掲載した。

鳩山一郎元首相の日ソ国交回復交渉時における外交姿勢が、その後の
北方領土返還要求交渉を困難にしたとの指摘である。

筆者はこの指摘は根本的に誤っていると思う。
日本は戦勝国ではなく、敗戦国なのである。

1956年、日ソ国交回復交渉当時、自民党は、
領土交渉優先派と、抑留者救出優先派とに分かれていた。

鳩山一郎元首相は「抑留者救出が第一」との揺るぎない信念で
病身をおして、モスクワを訪れ、目的を達成した。

その後、自民党は領土交渉優先派が圧倒的多数を占めた。
その後の自民党は、【シベリア等における日本人捕虜の奴隷労働被害】
【歴史の闇】に葬り去った。

【ソ連のエセ裁判による日本人虐待】
【ソ連軍兵士の日本女性強姦】
については、その存在さえ知らない状態であった。

自民党政府は、50万人以上(筆者推定)の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)
犠牲者たちの慰霊・追悼行事を行ったことはない。

【北方領土返還要求国民運動】と称して、多額の経費を投入して、
全国の県庁庁舎に垂れ幕を掲げさせ、国道に立て看板を立ててきた。

全国及び地方で、【北方領土返還要求国民大会】を毎年開催してきた。
しかしながら、これらの大会において、ただの一度も、
日ソ戦争(ソ連の対日参戦)の犠牲者たちに対する
哀悼の意が表明されたことはない。

北方領土問題担当大臣が、ノサップ岬や国後島視察に訪れた際にも、
ただの一度も、日ソ戦争(ソ連の対日参戦)の犠牲者たちに対する
哀悼の意が表明されたことはない。

1991年にソ連が崩壊した。

しかし、それから18年の歴史事実が明確に示す通り、
自民党政府の「固有領土であったから返還を要求する」という交渉態度は、
ソ連を引き継いだロシアに一顧だにされていない。

ていよくあしらわれているだけである。

自民党政府下では、平和条約を結ばなくとも、
日本はロシアとの経済協力を大きく拡大してきた。
これはロシア政府の誤解ではない。まがうことなき現実である。

筆者は【固有領土主張】で北方四島を取り戻すことは不可能だと思う。
半世紀を超える歴史がすでに証明済みである。

極悪非道なスターリンのソ連は、まったく無実の、おびただしい数の
日本人軍人、及び民間人を、
エセ裁判で有罪であるとして、殺害、投獄、奴隷労働酷使などで虐待した。
典型的な【人道に反する罪】である。

まったく無実の日本人軍人、民間人を、エセ裁判で戦犯とした上で
ソ連の収容所最高責任者は
「ここの日本人は戦犯だから死ぬまで酷使してもよい」
収容所の現場責任者たちに訓辞して、臆面もなく日本人を虐待した。
疑う余地のない【人道に反する罪】である。

敗戦後、60年以上たったとしても、
ポツダム宣言第9項違反の日本人捕虜の奴隷労働強制犯罪
ソ連軍兵士の日本人女性の強姦犯罪と共に、
エセ裁判によるソ連の日本人長期虐待犯罪について、
ソ連を引き継いだ
ロシア政府に、犯罪事実を認めさせ、公式謝罪を求めるべきである。

参考情報1:

1953年3月5日、極悪非道なソ連の独裁者、スターリンが死亡した。
スターリンの最も忠実な部下で、ソ連秘密警察の元締めであったベリヤは、
スターリンの死で権力基盤を失い、1953年12月23日、【国家反逆罪】で銃殺された。


スターリンとベリヤは【大粛清】とよばるれ反対派の徹底的殺害を行った。
やり方は、日本人に対する【戦犯裁判】と全く同じで、反革命罪、国家転覆罪、
国家反逆罪との罪名で、【エセ裁判】を行い、片っ端から一方的に
死刑宣告を行い、判決、即執行で、容赦なくぶっ殺していった。

大粛清によって反スターリンの旧共産党指導層は完膚なきまでに殲滅された。
反スターリン派の地区委員会、州委員会、共和国委員会は丸ごと消滅した。

1934年の第17回党大会の1,966人の代議員中、1,108人が逮捕され、
その大半が銃殺された。

1934年の中央委員会メンバー139人のうち、110人が処刑されるか、
あるいは自殺に追い込まれた。

1940年にトロツキーがメキシコで暗殺された後は、
レーニン時代の最高指導者で残ったのはスターリンだけであった。

党内の反対派をことごとく大虐殺した後、極悪非道なスターリンは、さらに
学者、軍人、官僚、農民など、あらゆる分野において反対する者たちの
大粛清(大虐殺)を行った。

ゴルバチョフ大統領時代、KGB(ソ連国家保安委員会)は、
1930年〜1953年のスターリン時代に
786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めた。

さらにソ連崩壊後、ロシア連邦国立文書館(GARF)は1953年にNKVD
(内務人民委員部:ソ連の秘密警察統括部門)の書記局が作成した
大粛清に関する統計報告書を公開した。

それによるとNKVDは1937年と1938年の2年間に
1,575,259人を逮捕した。
このうち1,372,382人が「反革命罪」であった。
85%が有罪にされた。有罪者のうち半数強が死刑になった。
死刑を免れたものはシベリア強制収容所送り(流刑)だった。



1945年7月、日本政府は、この極悪非道、冷酷無情、
しかし戦略策定・情報収集・情勢判断の天才であった
スターリンに対米和平交渉のあっせんを依頼した。

7月16日、ドイツのポツダムに到着した翌日、17日正午、
スターリンは米国代表団の宿舎でトルーマン米大統領と初めて面会した。

この時スターリンは、8月中旬までにソ連が対日参戦すると伝えた。

あくる18日、返礼として、ソ連代表団宿舎を訪ねてきたトルーマン米大統領に、
スターリンは日本から送られてきた極秘の昭和天皇の親書の写しを手渡した。
それには、日本が、ソ連を通じて終戦を模索していることが書かれてあった。

昭和天皇の「これ以上の流血を避け、速やかな平和の回復を願っている。しかし、
米国、英国が、無条件降伏を要求する限り、戦争を継続せざるを得ない」との
対米和平交渉あっせん依頼理由が書かれてあった。

スターリンはマリク駐日大使に日本政府の動きについて詳細な情報収集を命じた。
最小の犠牲で最大の効果が期待できる対日参戦の日を模索し続けた。

8月6日、広島に原爆が投下された。天才的情勢判断力を持つスターリンは、
直ちに8月9日に対日参戦することを決断した。

8月9日午前0時直前、モスクワの日本大使館の電話線を全て切断した上で、
ソ連のモロトフ外相は、佐藤駐ソ日本大使に対日宣戦布告文を手渡した。

極悪非道なスターリンの狙い通り、ソ連は、わずか25日間の日ソ戦争で、
最少の犠牲で、領土獲得、財貨獲得、奴隷獲得など最大の成果を得た。

コスト・パフォーマンスの視点から見ると、世界歴史上かってなかった、
特筆すべき、スターリンのソ連帝国主義侵略戦争の大勝利であった。

参考情報2:
黒澤嘉幸著 『禿鷹よ、心して舞え−シベリア抑留11年 最後の帰還兵』
(彩流社 2002年3月発行)
第26頁〜第27頁より抜粋

「哀れ」を物語るボロ衣服

「哀れ」を、なお一層、物語る姿は、身にまとっているボロ衣服だ。
じっと運命に身を任せている、そのままの恰好だ。
(あか)だらけ、虱(しらみ)だらけ。清潔であろうとする人間の心は、
とっくの昔に、内務大臣・ベリヤに取り上げられている。

第二次大戦直後、ソ連は年次計画のように検挙した政治犯や
一般犯罪者のほかに、東欧、バルカン、及びバルト三国から、
政治家、軍人、さらには、地主、企業家、西欧に留学経験を持つ知識人、
捕虜となった自国の軍人、反乱者の血縁関係者、それに
敗戦国のドイツ、日本の捕虜たちを投獄した。

一説では、1937〜8年の【血の粛正】以上の人数という。

彼らの身の上は、そのボロ姿が表現している。
戦場から、引っ張られて未決監獄に過ごした者は、ボロボロの軍服をまとい、
市民であった者は、配給という衣服事情からか、すり切れた衣服、
綿のはみ出した防寒上衣、あるいは帝政時代の外套を着込んでいた。

中でも、夏に逮捕された人は惨めであった。
薄い布地に、拾い集めてきたボロ生地を、何枚も縫い合わせて寒さを
しのごうとしていた。

皆、泥にまみれた豚以下の服装であった。


第222頁〜第224頁より抜粋
(一部補筆)

ナリリスクの【津波】−ソ連の囚人大虐殺

1953年3月、スターリンが死亡した。マレンコフ首相、ベリヤ副首相兼内相、
モロトフ外相、ブルガーニン国防相、カガノビッチ副首相ら5人の
集団指導体制で新指導部が始動した。
『独裁者の死』が洩れ伝わって『収容所群島』の各地で【反乱】が噴出した。

シベリアの極北にある、石炭、ニッケル、銅、コバルトなどの産地、ナリリスクでは、
囚人たちが『待遇改善』『労働賃金支給』の要求を掲げて労働拒否の闘争に入った。
モスクワの人権擁護団体『メモリアル』発行の資料集「連鎖」によると、
その日「バラックから、群がり出て来た囚人らが、武装警備兵に石や木片を
投げつけた。警備兵の銃口が一斉にに火を噴いて死傷者が出た」とある。

ナリリスクから転送されてきた囚人たちによってその顛末が語られた。
【津波】とは、鎮圧部隊の攻撃の繰り返しと、その跡の無残さ
言挙げ(ことあげ)したものである。

鎮圧部隊の作戦は、まず、戦車を先頭にして、建物やバリケードを
押し潰しにかかって来る。

木造の家屋などは戦車がガラガラと音を立てて通りさえすれば、
すぐ突き抜けてしまう。

囚人たちが苦労して作った机や椅子のバリケードは、まるで用をなさない。
柱が折れる。壁が落ちる。そして、天井が崩れ落ちる。

床に伏せていた囚人を、キャタピラが押し潰す。軌道からそれていた者、
落ちて来た天井や梁で身動きできない者、ようやく這い出した者たちは、
戦車の後に続いて来た兵隊どもが、遠慮会釈なく突き殺す。

いい加減、突き殺したところで「さあ、隠れている奴は、手を上げて出て来い」と
怒鳴り声を上げる。

怖ろしさに、手足がすくんでいる囚人たちは簡単に出られなかった。
手の挙げ方の悪い奴は、その場で射殺だった。

梁が落ちて、肩を打撲したり、骨折したりして、片手しか挙げられない男でも、
別の手に武器を持っているかもしれないと、容赦なく射殺された。

手を挙げながら出て行っても、人数が少いと
「ようし、出る気がなければ、これでも食らえ」と【隠れ家】に催涙弾を撃ち込んだ。

もっと念の入った攻め方は、小型火炎放射器の使用であった。
一瞬の間に、一面が火の海になる。物陰に隠れて、息を殺していた者たちは
ほとんどが焼き殺された。

『ナリリスク反乱鎮圧作戦』は、まさに囚人大虐殺作戦であった。

関連サイト:

シベリア奴隷労働被害

以上