日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害(シベリア抑留)
                           2013年2月 Minade Mamoru Nowar
−相手国(韓・ロ・中)の国民感情をまったく研究せず、まったく対策も講じない
  無能・無策・無責任な日本の政府・外務省・政党と日本のメデイア
−相手国の国民感情無視ではどうにもならない!
Re:
  シベリア不法虐待抑留犠牲者の慰霊を
−犠牲者の慰霊なくして北方領土問題の解決はあり得ない
  

くやしい。悲しい。むなしい。情けない。

09年8月23日の千鳥ヶ淵戦没者墓苑の『シベリア・モンゴル犠牲者追悼の集い』で
戦場体験放映保存の会・元兵士の会監事の猪熊得郎氏は追悼の辞で次のように述べた。

「それでも、地獄の淵を這いつくばり、生きて帰れた者は幸せだ。
亡くなられた犠牲者の方々のことを考えると、
くやしい。悲しい。むなしい。情けない。
誰がこんなことに追い込んだのか。
激しい怒りを禁じ得ない。」





著作権者の許諾をいただいて掲載しています。コピー及び転載は禁止します。
「戦友よ許してくれ」

2006年3月6日午前の参議院予算委員会の審議において
民主党の谷博之参議院議員は【シベリア抑留問題】に関連して、
シベリアでの奴隷労働の苦難に耐えられた井上馨氏が描かれた
【戦友よゆるしてくれ】
という3枚の絵を小泉首相に示された。

ソ連は、遺体の衣服をすべて剥ぎ取って丸裸にした上で、
埋葬することも、火葬することもなく、谷底に遺棄したのである。

奴隷として酷使され、遺体を遺棄され、禿鷹の餌食とされ、
人間としての尊厳を、とことんまで踏みにじられた


戦友たちの、あまりにも悲惨な【野辺送り】を耐えなければならなかった
井上氏たちの悲痛な呻きが伝わってくる。

ご遺族の方々やシベリア奴隷労働被害者
(シベリア抑留者)の方々の心情は
察するにあまりある。心から哀悼の意を表したい。








参考サイト:画集 「一兵士のダモイへの道」吉田勇 画


上記、吉田勇画伯の絵は、著作権者の許諾をいただいて転載しています。
コピー及び転載は禁止します。

日本政府には徴兵責任がある。
徴兵されたため、シベリア等で奴隷労働被害を蒙った召集兵士たちに、
日本政府は、国として公式謝罪をしなければならない。

その上で、ソ連を引き継いだ
ロシアに、
国としての公式謝罪を求めなくてはならない。



1.日ソ戦争(ソ連の対日参戦)戦後、拉致移送される途上と
  奴隷労働中に20万人以上が死亡した


無知で愚か
であった旧大日本帝国軍部の最高指導者たちが、ポツダム宣言即時受諾に
強硬に反対したことが、1945年8月9日から9月2日までの25日間の日ソ戦争
ソ連の対日参戦)を招いた。

ポツダム宣言第9項に違反する極悪非道なスターリンの極秘指令によって、
戦争終了後、70万人以上(筆者推定)の日本人捕虜(軍人&民間人)がシベリア等に
移送され、奴隷として重労働を強制された。

ソ連軍が多数の日本人民間人を【男狩り】と称して不法に逮捕し、軍服を着せ、
捕虜と称してシベリア等へ送り、奴隷として重労働を強制したことは、何百年経っても、
厳しく非難し続けなければならない。

移送途上
4万人以上(筆者推定)、奴隷労働中16万人以上(筆者推定)死亡した。

ソ連が崩壊した1991年の10年前の1981年、自民公明政権は、
シベリア抑留中(シベリア等における奴隷労働中)に死亡した犠牲者
10万人以上と、拉致移送される途上で死亡した4万人以上歴史から抹殺した

自民公明政権の許し難い意図的歴史事実隠蔽である。

以後、シベリア抑留者の死亡者数は約6万人という数字が、
日本の社会に完全に定着した。

自民公明政権の強力な指導に従って、当時の、
外務省、厚生省、文部省、総務省、内閣府北方対策本部など、
日本政府の5省庁は、以後、おびただしい数の行方不明者数、
消息不明者数、日ソ戦争
(ソ連の対日参戦)戦死者数などについて、
まったく調査しょうとせず、
まったくふれず、
犠牲者に対する慰霊はおろか、哀悼の意すら表せず、

北方領土返還要求運動なるものを全国の都道府県に命じて行い、
税金のムダ使いに過ぎない返還要求全国大会、地方大会を毎年開いている。

敗戦前の旧大日本帝国陸軍指導の【大政翼賛会】運動の戦後版である。

ほとんどすべてのロシア国民は北方4島は昔からのロシア領であるとして、
敗戦国・日本の領土要求
に無関心である。

ロシア政府は、日本政府の、この愚かな返還要求は、別の惑星の問題
(ロシア外務次官)バカにしきっている。

菅元首相の【許し難い】発言があった2011年の大会を除いて、日本の
大手新聞とNHKも、この愚かな返還要求大会について報道しない。

日本の歴史から抹殺された14万人以上の犠牲者たちの亡霊は、
自民党・公明党と5省庁の高級官僚たちを怨んで、成仏できず、
今なお、シベリアの荒野を泣きながら彷徨っていると思う。

関連サイト:シベリア抑留者数の徹底調査を

関連サイト:シベリア抑留の事実隠ぺい−固く閉ざされたパンドラの箱



参考You Tube:
『9000マイルの約束』−−エセ戦犯裁判でシベリアに送られたドイツ人捕虜の物語

参考You Tube:Sabaton Panzerkampf '' Jeniec Tak daleko jak nogi ponios?





2.スターリンが極秘指令

読売新聞(朝刊)1992年(平成4年)6月3日第1面及び第4面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
複製、送信、出版、頒布、翻訳等、著作権を侵害する一切の行為を禁止します。



スターリンが極秘指令 全文入手
47収容地、詳細に
ソ連参戦2週間後
シベリア抑留の原点
【モスクワ2日=古本朗】
 
読売新聞は2日までに、ソ連の独裁者スターリンが対日参戦直後、右腕の
ベリヤ内相や極東戦線の司令官らにあてて発した、日本軍捕虜将兵50万人の
収容・強制労働利用に関する極秘指令の全文コピ−を入手した。

 ソ連軍の対日参戦(1945年8月9日)のわずか2週間後の同月23日に
発せられた指令文は、バム鉄道(第二シベリア鉄道)建設を始めとする
作業地域・現場別に、投入する捕虜将兵の人数、移送・収容条件などを
詳細に指示。スターリン政権が満州(現・中国東北部)侵攻と相前後して
労働力としての捕虜獲得計画を周到に練り上げていたことを裏付けている。
(指令の全文4面に)

 47年の歳月を経て初めて全容が明らかになった指令文書は、
6万人近い犠牲者を生んたシベリア抑留の悲劇の原点に位置する。

 機械的な指令項目が並ぶ文面は、
捕虜となった日本人将兵を自国の所有物、【消耗品】として扱おうとした
スターリン政権の【国家意思】を生々しく示している。

 また、厚生省援護局の資料によるとソ連本土に抑留された
日本軍将兵らの総数は約57万5千人。ロシア側のシベリア抑留史研究者
として知られるキリチェンコ東洋学研究所国際協力部長も、
総数63万9千人余と報告しており、この指令文書による限り、ソ連軍による
現場での捕虜連行は、スターリン指令の【50万人】をはるかに上回る規模で
行われたことになる。

 【極秘】と記された指令文書は、スターリンが議長を務めた【国家防衛委員会】
決定(45年8月23日付)の形を取っている。「クレムリン文書保存館」と
通称される大統領直属施設に保管、公表されたことはない。

 決定は当時の秘密警察「内務人民委員部(NKVD)のベリヤ長官と同委員部
捕虜護送局長クリベンコ氏に対して、「50万人以内の日本軍捕虜」の受け入れ、
各収容所への移送の総指揮を執るよう命令。さらに第一、第二両極東戦線、
ザバイカル戦線の各「軍事評議会」に
@
シベリア、極東の環境下での労働に適した肉体条件を備えた者の中から、
50万人以内の捕虜を選別する。
A
ソ連領への移送に先立って各千人の建設大隊を組織し、下級士官、下士官の
捕虜に、大隊、中隊の指揮を執らせるなどを命じている。

 一方、NKVD捕虜問題総局に対し、ハバロフスク地方、クラスノヤルスク
地方など12地域にわたり計47か所の強制労働現場を列挙、投入捕虜数を
指示している。

 秦郁彦・拓殖大教授(現代史)の話
「いつだれの命令によって抑留が決定したかについて日本側から申し出たという
説から、北海道の北半分を占領することをソ連が提案してアメリカから拒否された
(8月18日)代償として行ったという見方まで、様々な論議がある。
それだけに今回の文書はソ連側の意思決定のポイントを示すという意味で
極めて貴重な発見だ。」

ブロジェクト別日本人捕虜投入計画(極秘指令より志村英盛作成)

# 地域 区分 プロジェクト 人数(人)
1 バム鉄道 鉄道 バイカル・アムール鉄道建設 150,000
2 バム鉄道 鉄道 バイカル・シベリア鉄道建設 5,000
3 チタ州 鉄道 ザバイカル鉄道 3,000
4 沿海地方 鉄道 沿海鉄道 5,000
5 カザフ共和国 鉄道 ジャンプロフ州カラガンダ鉄道 9,000
小計 172,000
6 沿海地方 炭鉱 スーチャン、アルコム両炭鉱 25,000
7 ハバロフスク地方 炭鉱 ライチハ・キブジンスキー炭鉱 20,000
8 イルクーツク州 炭鉱 チェレンホフ炭鉱 15,000
9 チタ州 炭鉱 ブカチャンチンスク炭鉱、チェルノフスク炭鉱 10,000
10 カザフ共和国 炭鉱 カラガンダ炭鉱 10,000
11 ウズベク共和国 炭鉱 アングレン炭鉱 3,500
12 クラスノヤルスク地方 炭鉱 ハカス炭鉱 3,000
小計 86,500
13 ウズベク共和国 工場 ベゴハ"ド金属工場タシケント諸工場 15,000
14 イルクーツク州 工場 水素処理工場等建設 10,000
15 アルタイ地方 工場 ルプツォフカ・トラクター工場バルナウル工場 6,000
16 クラスノヤルスク地方 工場 工場建設拡張 5,000
17 ハバロフスク地方 工場 サハリン石油工場&各石油蒸留施設 5,000
18 アルタイ地方 工場 ビイスク・ボイラー工場 4,000
19 クラスノヤルスク地方 工場 エニセイ金属工場 3,000
20 カザフ共和国 工場 南カザフ州アチサイ多金属工場 3,000
21 イルクーツク州 工場 工場建設 2,000
22 ブリヤート・モンゴル 工場 ウランウデ機関車工場 2,000
23 クラスノヤルスク地方 工場 第四工場 2,000
24 ウズベク共和国 工場 カリーニン石油工場 1,500
25 アルタイ地方 工場 バルナウル軍需工場 1,000
小計 59,500
26 沿海地方 伐採 森林伐採現場 18,000
27 ハバロフスク地方 伐採 森林伐採現場 13,000
28 ブリヤート・モンゴル 伐採 森林伐採現場 10,000
29 イルクーツク州 伐採 森林伐採現場 7,000
30 クラスノヤルスク地方 伐採 森林伐採現場 7,000
31 チタ州 伐採 森林伐採現場 4,000
小計 59,000
32 カザフ共和国 鉱山 ウスチカメノゴルクス・ズイリャノフスク鉛鉱山 15,000
33 チタ州 鉱山 モリブデン・タングステン・錫関連企業 13,000
34 カザフ共和国 鉱山 カラカンダ冶金機械製作タングスタン・コンビナート 10,000
35 沿海地方 鉱山 トホテ・アリンスキー鉛コンビナート・シナンチャ錫工場 5,000
36 ブリヤート・モンゴル 鉱山 モリブデン・タングステン・コンビナート 4,000
37 ハバロフスク地方 鉱山 ヒンガン錫鉱山 3,000
38 アルタイ地方 鉱山 ゾラツーシュク非鉄金属鉱山 3,000
39 カザフ共和国 鉱山 ジェズカズガン非鉄金属鉱山 3,000
小計 56,000
40 イルクーツク州 兵舎 兵舎建設現場 11,000
41 沿海地方 兵舎 兵舎建設現場 10,000
42 チタ州 兵舎 兵舎建設現場 10,000
43 ハバロフスク地方 兵舎 兵舎建設現場 5,000
小計 36,000
44 ハバロフスク地方 建設 ニコラエフスク港アムール・コムソモリスク等工場建設 15,000
45 沿海地方 建設 ナホトカ、ウラジオストク港建設現場 12,000
46 ハバロフスク地方 建設 アムール自動道路 2,000
47 ハバロフスク地方 建設 海運及び河川運輸 2,000
小計 31,000
合計 500,000

3.日ソ戦争 地図・ソ連の歴史教科書

ポツダム宣言第9項
日本の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰して
平和的、かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。


ソ連の対日宣戦布告文 ・・・抜粋・・・
無条件降伏を要求した今年7月26日のアメリカ合衆国、英国ならびに中華民国の宣言を
日本は拒否した。日本の降伏拒否を熟慮した結果、連合国はソ連政府に対して、
日本の侵略に対する戦争に参加するよう求めた。ソ連政府は連合国に対するソ連の義務に従い、
連合国の求めを受諾し、今年7月26日の連合国の
ポツダム宣言に参加した。
ソ連政府は、明日、8月9日より日本と戦闘状態に入る旨宣言する。



香月泰男(KAZUKI YASUO)画伯 『北へ西へ』
奴隷として貨車でシベリアへ拉致移送された日本人捕虜たち
著作権者の許諾をいただいて掲載しています。コピー・転載は禁止します。

拉致移送途中においても、環境変化、精神的ショック、疲労、発病で死亡したものも少なくなかった。
徒歩による拉致移送途中、逃亡しようとしたもの、疲労と発病のため隊列から落伍した者は
「連れて行くのが面倒だ」とするソ連兵に容赦なく射殺された。

ウラジミール・ポ・ガリツキー氏(ロシア軍事アカデミー・メンバー、法学博士、教授、海軍大佐)は、
毎日新聞社が1999年2月に発行した『毎日ムック シリーズ 20世紀の記憶 1945年 
日独全体主義の崩壊 日本の空が一番青かった頃』の第129頁
「日本人捕虜の大多数は満州からソ連領土までを徒歩で移動した。
ソ連国内の指定地点への移動は鉄道の貨車で行われた。
その移動の途中で、32,722人が死亡した」と述べている。

筆者は、拉致移動途中に死亡した日本人捕虜は4万人以上であったと推定している。
しかしながら拉致移動途中の死亡者数については何らの資料も残されていない。

捕虜は貨車でシベリアの荒野へ!

 
貨車で死亡した捕虜は馬車に野積みにされ、荒野に運ばれ、遺棄され、虎と狼とハゲ鷹の餌食に!

 
荒野の真ん中の捕虜収容所まで徒歩で移動!
  

旧厚生省の公式発表では満州・北朝鮮で民間人が25万人以上死亡した。

軍人と民間人合わせて、45万人以上が死亡したと推定される。

戦闘中の戦死者と合わせると、日ソ戦争(ソ連の対日参戦)で
死亡した犠牲者数は50万人以上と推定される。

2009年7月まで、自民党政府は国会において、繰り返し、
「日ソ戦争戦闘中の戦死者数は把握していない」との答弁を
臆面もなく繰り返している。
「今後、調査します」とは一言も言っていない。
自民党政府の不作為の罪歴史事実隠ぺいの罪は重いと思う。

4.抑留ではない!日本人捕虜は、まぎれもなく
  奴隷として酷使され、死に追いやられた!

この悲惨な歴史事実について、2009年12月時点にいたるまで、
日本政府も、マスコミも、数多くの犠牲者の体験記も、すべて
シベリア抑留という表現を使っている。

しかし拉致移送された日本人捕虜(軍人及び民間人)の悲惨な
実態を知れば知るほど、彼らが受けた苦難は
【抑留】という言葉から連想される状況とは大きく異なる。

日本人捕虜(軍人及び民間人)は、まぎれもなく、
奴隷として一切の人権を奪われ、
生きるための食糧すら十分に与えられず、
奴隷として酷使された。

零下30度〜50度の極寒の中でも野外での
休憩なしの奴隷労働を強制された。

病気になつても、怪我をしても、熱が38度以下であると
奴隷労働を強制された。

極寒の中での奴隷労働凍傷になり、手足の切断を余儀なく
されたものも少なくない。

劣悪な作業環境で石炭・鉱石の採取作業を強制されたものの
多くは【シベリア珪肺】に犯された。

捕虜収容所の衛生環境は劣悪で、
発疹チフス・赤痢・痘瘡・疥癬などの伝染病が蔓延した。
全員シラミに悩まされた。

病気になっても、怪我をしても
医療を受けることや、医薬品を支給されることは稀であった。
医療を受けられないため、ヘルニア、肺炎、盲腸炎、結核などに
犯されたものは皆死亡した。

ソ連一般労働者よりはるかに高い【ノルマ】を課せられ、
1日、10時間以上の重労働を強制された。
【ノルマ】未達者は食糧を減らされた。
さらには食糧を支給されないことすらあった。

伝染病・医療の欠如・飢え・栄養失調・過酷な重労働・極寒
日本人捕虜(軍人及び民間人)たちは続々と死亡して
【死体の堆積(ヤマ)】を築いた。

逃亡を企てた者は【問答無用】で射殺され、
見せしめのため遺体を晒され、
人間としての尊厳を冷酷に奪われた。

日本人捕虜(軍人及び民間人)たちは、
日々【絶望感】に苛まれ、
【民主運動(=スターリン礼賛と社会主義革命のための洗脳教育)
【つるし上げ(=ソ連当局者の指示に従わない者を集団で非難すること)
という【精神的拷問】に苛まれた。

あらゆる意味において「これこそが奴隷労働だ」
との定義に100%あてはまる悲惨な歴史事実である。

この悲惨な歴史事実を、
現在の日本国民が偏見にとらわれることなく
正しく認識して、後世に確実に伝えるためにも、
現在及び将来のロシア国民に、
この悲惨な歴史事実を正しく認識させるためにも、
さらには悲惨な戦争の惨禍を防止するため、
広く国際社会に、この悲惨な歴史事実を認識してもらうためにも、
「シベリア抑留」と表現することは止めて、
「日本人捕虜のシベリアにおける奴隷労働」
表現しなければならない。

5.日本人捕虜の死亡原因

日本人捕虜の死亡原因は、飢え、栄養失調、伝染病、極寒、
過酷な強制重労働、医療の欠如 (starvation, malnutrition,
communicable diseases,bitter cold= severe cod, excessive 
heavy labor burdening =extremely arduous labor, lack of medical care)
であると、

ソ連からの帰還者全員に対して日本政府とGHQ/SCAPが行った
詳細な聞き取り調査を土台にGHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)が作成した

特別報告書『ソ連収容所における日本人捕虜の生活と死』は述べている。

なんらの罪を犯していない日本人捕虜を拉致して、奴隷として
虐待・酷使して死亡させたソ連政府の責任者、捕虜収容所の責任者は、
極悪非道なスターリンをはじめとしてだれ一人処罰されていない。

彼らが行ったことは、当然、国際裁判において裁かれ、
全員、死刑に処せられるべき犯罪である。

筆者は、シベリア奴隷労働被害者たち(=シベリア抑留被害者たち)は、
極悪非道なスターリンと、
スターリンの指令の忠実な実行責任者のベリアの二人を、
日本人捕虜(軍人及び民間人)を拉致移送し、
奴隷労働によって虐待し、多数を奴隷労働で死亡させた
【人道に反する罪】で国連に告発し、
特別法廷での審理を要求すべきであると思う。

常陽新聞2007年8月8日第1面より転載
この記事は著作権者及び常陽新聞社の許諾をいただいて転載しています。コピー・転載は禁止します。


あまりにも無惨である。


読売新聞(朝刊)2005年9月24日第31面は、
『戦争終わっていたのに、なぜ 極寒の地で無念の死』との
見出しで【シベリアにおける日本人捕虜の悲惨な奴隷労働】について報じている。

3年10か月にわたってシベリアにおいて奴隷として扱われ、不法に
奴隷労働をさせられた塩野谷信彦さんは次のように語っている。

「脱走を決行した仲間は(見せしめのため、問答無用で、
裁判なしに、皆の)
目の前で銃殺された。

「強制労働を課せられた。森林伐採、鉄道敷設工事、れんが作り−。
氷点下40度にもなる最初の冬、仲間が次々と死んだ。」

「配給される1日350グラムの黒パンではとても足りず、カエルや
ヘビを捕まえては食べた。凍ったウジ虫を口の中でかみつぶすと、ミルクの味がした。」

シベリアで2年5か月間の奴隷労働の苦難に耐えた伊藤千次さんは
次のように語っている。

「収容所の病院に薬はなく、病人は治療法としてただ絶食を命じられて
一晩で8人が亡くなることもあった。

移送の途中で絶命した仲間は埋葬されることもなく、
死体に雪をかぶせて置き去りにされた。


無惨な姿でシベリアの土となった仲間を絶対に忘れないと心に誓った。」

遺体は、埋葬されることも、火葬されることも無く、無惨にも、
シベリアの荒野に棄てられたのである。


ご遺族の方々やシベリア奴隷労働被害者(=シベリア抑留被害者)の
方々の心情は察するにあまりある。

自民党政府の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)無視の結果、ほとんどの50歳代以下の
日本国民は【シベリアにおける日本人捕虜の奴隷労働被害】
事実を知らない。ほとんど60歳以上の日本国民はこの事実を忘れていると思う。
ロシア国民は、ほとんど全部、この事実を知らない。

6.自民党政府の徴兵責任無視と労働証明書無視

ソ連崩壊後、ロシア政府は日本人奴隷労働被害者(シベリア抑留者)
労働証明書を発行した。

現在のロシア政府が、極悪非道なスターリンのソ連政府による
日本人捕虜(軍人及び民間人)の奴隷労働の存在を公式に認めたということである。

この重大なロシア政府の公式認定を、こともあろうに、
自民党政府と外務省と厚生労働省が無視しているのである。

奴隷労働被害という悲惨な歴史事実を隠ぺいするための
自民党政府と外務省と厚生労働省の徴兵責任無視と
労働証明書無視の罪は重いと言わざるを得ない。


7.日本人捕虜収容所資料

2-1ソ連における日本人捕虜収容所所在図1 厚生省復員庁1947年1月作成
以下の3図は国立国会図書館所蔵の資料である。原資料は米国国立公文書館に所蔵されている。
平成18年7月20日、インターネット掲載について国立国会図書館の掲載許可をいただいて掲載している。


2-2シベリア、満州、沿海地方 広域地図

2-3村山常雄氏作成
シベリア抑留日本人収容所(ラーゲリ)所在地一覧図-1
村山常雄氏の許諾をいただいて転載しています。コピー及び転載は禁止します。

2-4ソ連における日本人捕虜収容所所在図2  厚生省復員庁1947年1月作成

村山常雄氏注1:
本図は日本人抑留死亡者に関する地理的理解のために、
死亡者の発生した85の収容所と、それに関連する35の州など(州・地方・
共和国)の地方組織の所在を、できるだけ実際に近く表現した略図である。
注2:
基本的に「収容所(ラーゲリ)」は内務省直轄の、州等からは独立した
地理的エリア(日本人はこれを【地区】とも呼んだ)で、大きいものは数百キロ
にも及ぶ広大な範囲に多数の「分所(カローナまたはラグプンクト)」即ち
「有刺鉄線で囲われた個々の生活単位である収容施設」を包含し管理するが、
後者をも俗に収容所とも呼ぶことから、両者はたまたま混同されることがある。
この両者の間に、中間組織として「支部(アジレーニエ・ラーゲリャ)」があり、
いくつかの「分所」を管理した。
病院での死亡者以外は、この「支部」ごとに記録されている場合が多い。
注3:
収容所・支部・分所とも、正式にはすべて番号でよばれた。従って例えば
『第24収容所・第4支部・第8分所』の所在を確認するためには、まず
「第24収容所」が、他の23・25・52の3収容所と共に「チタ州」にあったことを
知る必要がある。

筆者注:
上部組織−−−−−「収容所(ラーゲリ)
中間組織−−−−−「支部(アジレーニエ・ラーゲリャ)」
下部組織−−−−−「分所(カローナまたはラグプンクト)」

参考資料
日本経済新聞(朝刊)2007年9月20日第44面より転載
この記事は著作権者及び日本経済新聞社の許諾をいただいて転載しています。
コピー及び転載は禁止します。
村山常雄氏は平成18年(2006年)、第40回吉川英治文化賞を受賞された。



収容所(ラーゲリ)所在地名一覧1

C# 地方州共和国名 所在地名
855 マガダン州 マガダン
75160 カムチャツカ州 ペトロパヴロフスク・ナ・カムチャーツキ

収容所(ラーゲリ)所在地名一覧2

C# 地方州共和国名 所在地名
22 サハリン州 オハ
21 ハバロフスク地方 ニコライエフスク・ナ・アムーレ
5 ハバロフスク地方 フルムリ(=ホルモリン)
18 ハバロフスク地方 コムソモリスク・ナ・アムーレ
1 ハバロフスク地方 ムリー(=ムーリ):一部にムーリーと
表記されているがロシア語発音上は誤り。
現在:ヴィソカゴールヌイ
2 ハバロフスク地方 ソヴィエツカヤ・ガーワニ
3 ハバロフスク地方 (現在はアムール州)ウヤッカ
16 ハバロフスク地方 ハバロフスク
17 ハバロフスク地方 ホール
4 ユダヤ自治州 イズヴェストコートワヤ
46 ユダヤ自治州 ビロビジャン
15-2 沿海地方 セミヨーノフカ
現在:アルセーニエフ
15-1 沿海地方 イマン
現在:ダリネレチェンスク
10 沿海地方 テチューヘ
現在:ダリネゴルスク
11 沿海地方 スーチャン
現在:パルチザンスク
12 沿海地方 アルチョム
14 沿海地方 ウォロシーロフ
現在:ウスリースク
9 沿海地方 ナホトカ
13 沿海地方 ウラジオストク
6 アムール州 ルフロヴォ
現在:スコヴォロジノ
20 アムール州 ブラゴヴェシチェンスク
19 アムール州 ライチハ
現在:ライチヒンスク

収容所(ラーゲリ)所在地名一覧3

C# 地方州共和国名 所在地名
7 イルクーツク州 タイシェト
31 イルクーツク州 チェレムホーヴォ
32 イルクーツク州 イルクーツク
30 ブリヤート共和国 ウランウデ
28 ブリヤート共和国 ガラドーク
23 チタ州 ブカチャチャ
25 チタ州 スレチェンスク
24 チタ州 チタ
52 チタ州 カダラ


収容所・分所位置図の資料出所:『戦後強制抑留史 第七巻』
(独立行政法人 平和祈念事業特別基金 平成17年3月発行)第252頁〜第288頁
位置図の記号意味



8-1マガダンMagadan

8-2マガダン収容所・分所位置図

9-1サハリン・ユジノサハリンクス

9-1サハリン州オハ収容所・分所位置図

10-1ハバロフスク、ウスリー州

10-2ハバロフス収容所・分所位置図

10-3ウスリー州セミヨーノフカ収容所・分所位置図

11-1ハバロフスク地方ホール Khor (北緯47度47分、東経134度42分)

11-2ホール収容所・分所位置図

11-3ハバロフスク地方・ニコライエフスク・ナ・アムーレ収容所・分所位置図

11-4沿海州・テチウヘ収容所・分所位置図

12-1イマン、現在:ダリネレチェンスク

12-2イマン(現在:ダリネレンチェンスク)収容所・分所位置図

13-1興凱湖南岸一帯:NASA衛星画像

13-2マンゾフカ(興凱湖南岸:沿海地方ウスリー州)収容所・分所位置図

14-1ウォロシーロフ、アルチョム、ウラジオストク Vladivostok、ポシエット

14-2ウォロシーロフ収容所・分所配置図

14-3ウォロシーロフ近辺収容所位置図

14-4アルチョム収容所・分所位置図

14-5ウラジオストク Vladivostok

14-6スーチャン(現在:パルチザンスク・ウラジオ地区)収容所・分所位置図

15ナホトカ Nahodka

16香月泰男画伯 『渚<ナホトカ>』
著作権者の許諾をいただいて掲載しています。コピー・転載は禁止します。
渚(なぎさ)の黒い浜辺に白く描かれているのは、香月画伯がシベリア抑留中描いた
数多くの戦友たちの顔である。絶筆となったこの作品には声にならない深い悲しみが
込められている。

17ナホトカ Nahodka

18ハバロフスク地方ソヴィエツカヤ・ガーワニ(北緯48度58分、東経140度17分)地区一帯

19-1ビロビジャンBirobidzan

19-2ピロビジャン収容所・分所配置図

19-3ユダヤ自治州・イズベストエーヴヤ・チャクダミン収容所・分所配置図

20-1中国東北部黒竜江省・ロシア・アムール州及びユダヤ自治州のオブルチェ・ライチハ一帯

20-2ブラゴヴェシチェンスク(ブラゴエチエニスク)収容所・分所位置図

20-3ライチハ収容所・分所位置図

21-1スコボロジノはパイプラインの分岐点

21-2アムール州スコポロジノ収容所・分所位置図

22-1シベリア・タイシェト〜ブラーツク一帯

22-2タイシェト収容所分所配置図
参考サイト:シベリア回想

22-3タイシェト〜ブラーツク要図
ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会 編 及び発行の
『捕虜体験記』(全8巻1984年〜1998年発行)の
第7篇、『捕虜体験記7 タイシエト・イルクーツク篇』の第4頁より転載

捕虜体験記』(全8巻1984年〜1998年発行)の第7篇、第5頁〜第6頁に
おいて、奴隷として扱われ、不法に強制重労働をさせられた
日本人捕虜の悲惨な実態について、江口十四一氏は次のように
述べている。

 「この地区の日本人捕虜は主にバム鉄道の建設工事とその関連作業に
従事した。シベリア各地に共通することだが、この地域の冬期の気象条件は
とりわけきびしく、風の強いときには体感気温が60度、70度に下がることも
しばしばだった。【敗戦→捕虜→シベリア抑留】という急激な境遇の変化の
衝撃にくわえて、飢えと極寒の直撃は、入ソ当時の日本人捕虜の心身を
打ちのめした。

 体力は極端に消耗し、栄養失調、下痢、疥癬、アメーバ赤痢や発疹チフス
など伝染病の蔓延、さらに初めて経験する労働は苛酷そのものだった。
したがって、入ソ時から翌年の2月、3月にかけては大量の死亡者を記録して
いる。」

 「事故死も多かった。伐採作業中、逃げそこなって倒木の下敷きになったり
撥ねられたりして、重傷を負ったり、死亡したという例は数多く記録されている。
入ソして初めての冬は、体力が消耗しているうえに、飢えと寒さがくわわり、
動作が緩慢になっている捕虜たちにとって、初めて経験する重労働であって
みれば、ちょつとしたことから大きな事故が起こっても不思議ではなかった。」

参考情報:
『捕虜体験記』
全8巻は1998年、第46回菊池寛賞を受賞している。
過酷なソ連強制労働体験を、延べ326人が執筆して、1984年から
14年をかけて全8巻にまとめあげた。思想や信条にとらわれず、
体験事実を尊重する編集方針を貫き、後世に貴重な記録を残した。
貴重な、かつ重要な歴史資料である。
連絡先:
捕虜体験を記録する会:TEL&FAX 042-369-4731

現地調査された歴史研究家:岡崎溪子氏は、
「タイシェトからブラーツクまでの318qまでには、ここでの難工事により死んでいった
日本人の墓は35ケ所にものぼる。本当はもっとあるかもしれない。
この地区は【生きて戻れぬ地獄】と日本人捕虜たちのあいだでうわさされ、
恐れられた」と語っている。
参考資料:岡崎溪子著 『シベリア決死行』潟Aルファポリス 2004年4月発行


23
青線シベリア鉄道。世界最長の鉄道路線でモスクワ〜ウラジオストク間を
結ぶ。全長、9,297q。
赤線バム鉄道(正式にはバイカル・アムール鉄道)。
バイカル湖に近いタイシェトから、コムソモリスク・ナ・アムーレを経由して
間宮(タタール)海峡にあるソヴィエッカヤ・ガーワニまで。
全長、約4,300q。第二シベリア鉄道とも呼ばれる。1984年に全線開通した。

24バム鉄道:タイシェト〜コムソモリスク・ナ・アムーレ間地図
上記地図は2006年5月24日、轄総ロ地学協会の許諾をいただいて2005年5月同社発行の
『世界地図』第63頁より転載しています。
コピー及び転載は禁止します。
参考資料:山下静夫著『[画文集]シベリア抑留1450日 記憶のフィルムを再現する
デジプロ 2007年7月発行:発売−東京堂出版

25-1シベリア・バイカル湖とイルクーツク Irkutsk

25-2イルクーツク収容所・分所位置図

25-3イルクーツク州・チエレンホーボ収容所・分所位置図

25-4ブリヤート共和国・ウラン・ウデ収容所・分所位置図
ウラン・ウデはブリヤート共和国の首都で、バイカル湖の南東約100qに位置する。

25-5バイカル湖周辺地図

25-6ブリヤート共和国・ガラドック収容所・分所位置図

26-1シベリア・チタ及びカダラ村(チタ市郊外)

26-2チタ収容所・分所配置図

26-3カダラ(チタ市郊外)収容所・分所配置図

26-4チタ州・ブガチャチャ収容所・分所配置図

26-5チタ州・スレテンスク収容所・分所配置図
参考サイト:シベリアの寒さ

27-1ハバロフスク地方フルムリ Khurmuli (ホルモリン:北緯51度03分、東経136度47分)地区一帯

27-2フルムリ((ホルモリン)収容所・分所配置図
参考資料:高杉一郎著 『極光のかげに シベリア俘虜記』 岩波文庫 91年5月発行

28-1コムソモリスク・ナ・アムーレ一帯の地図

28-2コムソモリスク収容所・分所配置図

29-1コムソモリスク・ナ・アムーレ地区及び
ムリー:現ヴィソカゴールヌイ(北緯50度09分、東経139度09分)地区一帯

29-2ムリー収容所の分所配置図

30冬のノリリスク Noril'sk (北緯69度22分、東経88度06分)

31ノリリスク Noril'sk (北緯69度22分、東経88度06分)

32ノビヤード一帯(北緯70度東経85度エニセイ川流域一帯)
参考サイト:凍土に縛られて

33-1モンゴル・ウランバートルUlanbatar

33-2モンゴル地区の収容所・分所配置図

34-1村山常雄氏作成
シベリア抑留日本人収容所(ラーゲリ)所在地一覧図-2
村山常雄氏の許諾をいただいて転載しています。コピー及び転載は禁止します。



34-2ソ連における日本人捕虜収容所所在図3  厚生省復員庁1947年1月作成

1950年(昭和25年)1月の時点で、当時の厚生省は、1947年1月に作成した
125箇所の日本人捕虜収容所所在図に基づいて、これらの125箇所の収容所に
209,300人が収容され、その中、51,332人が死亡したことを確認している。

収容所(ラーゲリ)所在地名一覧4

C# 地方州共和国名 所在地名
34 クラスノヤルクス地方 クラスノヤルクス
33 クラスノヤルクス地方 (現在:ハカシア共和国)アバカン
247 ケーメロヴォ州 マリインスキー
526 ケーメロヴォ州 アンジェルカ
現在:アンジェロスージェンスク
503 ケーメロヴォ州 ケーメロヴォ
525 ケーメロヴォ州 スターリンスク
現在:ノヴォクズネック
526 ノヴォシビルスク州 アンジェルカ(この収容所はケーメロヴォ州
とこの州と二つの州にまたがっていた。)
36 アルタイ地方 アルタイスカヤ
128 アルタイ地方 バルナウル
45 カザフスタン共和国 ウスチカメノゴルスク
347 カザフスタン共和国 レニナゴルスク
40 カザフスタン共和国 アルマアタ 現在:アルマトゥイ

収容所(ラーゲリ)所在地名一覧5

C# 地方州共和国名 所在地名
48 イワノヴォ州 イワノヴォ
27 モスクワ州 モスクワ
58 モルドヴィア共和国 モルタビア
64 タンボフ州 マルシャンスク
119 タタール共和国 タタール
97 タタール共和国 カザン
238 サラトフ州 サラトフ
435 スペルドロフスク州 スペルドロフスク
153 スペルドロフスク州 スーホイログ
531 スペルドロフスク州 ゼリョヌイボル
314 パシコルトスタン共和国 ウラル
102 チェリャビンスク州 チェリャビンスク
314 オレンブルグ州 ウラル

収容所(ラーゲリ)所在地名一覧6

C# 地方州共和国名 所在地名
1054 カザフスタン共和国 コクチェタフ
330 カザフスタン共和国 アクモリンスク
99 カザフスタン共和国 カラガンダ
37 カザフスタン共和国 バルハシ
39 カザフスタン共和国 ジェスカズガン
348 カザフスタン共和国 トゥルケスタン
29 カザフスタン共和国 パフタコール
360 ウズベキスタン共和国 ボスタンディグスキー
386 ウズベキスタン共和国 タシケント
372 ウズベキスタン共和国 アングレン
288 ウズベキスタン共和国 ベカバード
36 ウズベキスタン共和国 コーカンド
26 ウズベキスタン共和国 アンヂジャン
44 トルクメニスタン共和国 クラスノヴォトスク
236 グルジア共和国 トビリシ

収容所(ラーゲリ)所在地名一覧7

C# 地方州共和国名 所在地名
217 ウクライナ共和国 ドニヤーク
415 ウクライナ共和国 アルチョモフスク
315 ウクライナ共和国 ドニエプロペトロフスク
100 ウクライナ共和国 サポロージェ
475 ロストフ州 タガンログ



35-1ロシア・ノヴォシビルスク州ノヴォシビルスク、ケーメロヴォ州ケーメロヴォ、
アンジェルカ(現在:アンジェロスージェンスク)一帯
日本人捕虜の中、約13万人が、石炭鉱石採取作業を強制された。
この採取作業における死亡者数は約1万4000人といわれる。
生き残って命からがら日本に帰国したものの多くは、採取作業中に吸い込んだ
炭塵・鉱石塵のため【シベリア珪肺】に苦しめられた。
この地区の100カ所以上の日本人捕虜収容所・分所のうち、炭坑・鉱石採取関係は15カ所あった。


35-2ノボシビルスク一帯の収容所・分所位置図

36-1クラスノヤルスク

36-2クラスノヤルスク収容所・分所配置図

37-1カザフスタン共和国・ウスチ・カメノゴルスク

37-2ウスチ・カメノゴルスク収容所・分所配置図

38-1カザフスタン共和国・カラガンダKaraganda(北緯49度53分、東経73度10分)一帯の地図

38-2カラガンダ収容所・分所配置図

39カザフスタン共和国・カラガンダ Karaganda

40-1ウズベキスタン共和国・タシケント&アングレン
参考サイト:蟷螂余話・NHKの証言記録を見てC 注:Sさん=佐藤正之氏

40-2タシケント収容所・分所配置図
参考サイト:老いたる蟷螂(かまきり)の言い分−シベリア抑留裁判の顛末

41タタール共和国・カザン

参考資料A:
若槻泰雄著
 『シベリア捕虜収容所(下)』
(サイマル出版会 1979年発行) 
第271頁〜第273頁

若槻教授は当時の復員庁/引揚援護庁の調査について次の通り述べている。
「シベリアからの帰国手続きについて、他の地域と著しく異なったのは
未帰還者の消息調査であった。ソ連軍管理地域においては、従来の
日本軍組織は解体され、新しく作業大隊が編成された。
その作業大隊も、作業の必要性、戦犯追及、懲罰の目的で、たびたび
移動、分割、統合、配置換えが行われた。加えて、おびただしい
死亡者、行方不明が続出した
ため消息調査の重要性が認識された。

そこで引揚援護庁は在ソ中の移動などについて詳細な調査票を
提出させると共に、未復員者名簿を備え付け、これを閲覧させながら、
その中から死亡、生死不明、抑留者の消息を書き込ませた。

これにより延べ270万件余の個人消息を取得した。

これと併行して下記5項目について資料の作成に努めた。
@ソ連軍管理地域にあった1500の部隊についての編成、戦闘、
  終戦時の状況。
A620の作業大隊についての編成、入ソ状況、収容所までの概況、
  残置く状況。
B1200の一般強制労働収容所、同病院、500の特殊収容所に
  ついての入ソ人員、変動状況。
C病弱者を主体とした満州、北朝鮮への逆送者の状況。
D中共地域主要地点についての死亡者、生死不明者の発生状況、
  残留状況。
このような聞きとり調査によって、各個人ごとの消息に加えて、各部隊、
各収容所、各病院ごとの一覧表からなる膨大な資料が作りあげられた。」

厚生省引揚援護局編 『続・引揚援護の記録』 資料篇
折り込み調査表フォーム

1.部隊概況表@

2.部隊概況表A

3.収容所概況表及び作業大隊概況表

4.逆送概況表及び中共地域概況


5.作業大隊資料




8.日ソ戦争を記述しない歴史書

@日ソ戦争という名称


筆者が2006年10月上旬、電話で問い合わせた結果では、
外務省、厚生労働省、文部科学省、内閣府北方対策本部では
【日ソ戦争】という名称は使われていない。

国立公文書館アジア歴史資料センターのキーワード検索で
【日ソ戦争】で検索しても、わずか2件しか出てこない。

国立国会図書館の資料の検索のキーワード検索で
【日ソ戦争】
で検索してもわずか7件の文書が出てくるのみである。
ちなみに、日露戦争で検索すると146の文書が出てくる。

平凡社の
『日本史大事典』(全七巻、1994年5月発行)、
角川書店の
『角川 日本史辞典 蔵書版』(1976年5月発行)、
岩波書店の
『岩波日本史辞典』(1999年10月発行)、
京大日本史辞典編纂会編の
『新編日本史辞典』(東京創元社 
1990年6月発行)、
東京堂出版の
『昭和史の事典』(1995年5月発行)、
東京書籍の
『日本史総合事典』(1991年11月発行)など
主要な日本史辞典あるいは日本史事典には【日ソ戦争】という
項目はない。

筆者は、日本が仕掛けた日中戦争と太平洋戦争(=日米戦争)と
ソ連が仕掛けた【日ソ戦争】とは
戦争の性質が異なる故、
区別して歴史事実を明確にする必要があると考え、
日中戦争と太平洋戦争(=日米戦争)と区別するため
【日ソ戦争】という名称を使っている。
日本の公的機関と歴史学会は【日ソ戦争】と【日中戦争・
太平洋戦争】と戦争の性質を区別して認識してはいないと思われる。

歴史学者の多くが、日本歴史上かってなかった、
この悲惨な【日ソ戦争
=ソ連の対日参戦】の歴史事実を
無視あるいは軽視している。

1945年9月以降、現在に至るまで旧ソ連・現ロシアは
それ以前は日本領土であった南サハリンと千島列島を
完全に支配している。その原因である25日間の
【日ソ戦争
=ソ連の対日参戦】について、
現在の歴史書のほとんど全部はふれていない。

あまりにもお粗末である。

日本の歴史学者は、【日ソ戦争
=ソ連の対日参戦】、
【シベリアにおける日本人捕虜の奴隷労働】、
【満州・北朝鮮における日本人民間人の受難】を
どのように考えているのだろうか?




A日本の歴史書における日ソ戦争についての記述

シベリア奴隷労働被害者(シベリア抑留者)が書いた体験記以外の、
日本の昭和時代を含む歴史書は、半藤一利氏の諸著作を除いて、
【日本人捕虜のシベリアにおける悲惨な奴隷労働】については、
K〜O及び
A@ACの9冊以外は、極めて簡単に数語
あるいは数行書かれているだけである。全く記述されていないものもある。

@
遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史』
(岩波新書 1955年11月発行)は第208頁で「8月8日深夜、
ソ連は対日宣戦を布告し、9日未明ソ連軍は満州に進撃を
はじめた」とわずか1行述べているにすぎない。

A藤原彰著『日本現代史大系 軍事史』(東洋経済新報社
1961年2月発行)は第222頁で「ソ連の参戦にさいし、国境陣地は
一日の攻撃で突破され、関東軍の主力は鮮満国境山岳地帯に
待避しようとしたのも、この兵力装備の実情からいって当然で
あったといってよい」とわずか2行の記述がある。

B井上清(マルクス主義歴史学の泰斗とされる歴史学者)著
『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書 初版1966年発行
下巻 第58刷 2005年11月発行)は下巻第210頁に
「8月9日未明、ソ連が参戦し、ソ連の大軍は満州へ
怒濤のように進撃してきた」と35語の記述ある。

C家永三郎著『検定不合格 日本史』(三一書房 1974年
5月発行)
は第270頁で「ソ連首相スターリンは、ヤルタでアメリカ・
イギリス両国首脳と秘密協定を結び、千島・南樺太をソ連領とする
ことを条件として参戦を約束し、日本に戦い宣し、進撃を始めた」
79語述べている。

D高柳光寿・竹内理三編
『角川 日本史辞典 蔵書版』
角川書店 1976年(昭和51年)5月発行
この辞典は全1406頁の本格的な日本史辞典である。
編集委員は下記の通りで当時の日本歴史学界の中心であった
方々である。
元日本歴史学会会長 高柳光寿氏
早稲田大学教授    竹内理三氏
千葉大学助教授    宇野俊一氏
明治大学教授      木村 礎氏
東京大学教授      杉山 博氏
国学院大学教授    鈴木敬三氏
北海道大学教授    田中 彰氏
国学院大学教授    樋口清之氏
京都大学助教授    古屋哲夫氏
国立文化財研究所   宮  次男氏
「日清戦争」、「日露戦争」、「日中戦争」、「日独伊三国同盟」、
「日ソ中立条約」、「日ソ共同宣言」という項目はあるが
「日ソ戦争」という項目はない。
「ソ連」は「⇒ソビエト社会主義共和国連邦」とあり、
その中に「45年8月日本にも参戦、日本降伏を決定的とした。」と
24語の記述がある。
「対日平和条約」、「対日理事会」、「対日賠償問題」という項目は
あるが「対日参戦」という項目はない。
「シベリア出兵」という項目はあるが「シベリア抑留」という項目は
ない。
当然のことながら「日本人捕虜」とか「奴隷労働」という項目はない。
【25日間の日ソ戦争】
【シベリアにおける日本人捕虜の奴隷労働】
という歴史事実は、
当時の著名な歴史学者の方々の念頭には全くなかったものと
思われる。

E秦郁彦(拓殖大学教授)著『昭和史を縦走する』(グラフ社
1984年8月発行)は、第247頁で『ソ連の対日参戦』として
80語の記述がある。

F
中村文雄編著『高校日本史教科書 検定教科書18冊を
比較・検討する』
 本文360頁 (三一書房 1987年11月発行)は、
『シベリア抑留=日本人捕虜の奴隷労働』については一言も
ふれていない。

G中村隆英東京大学名誉教授の全724頁の大著『昭和史T、U』
(東洋経済新報社 1993年4月発行)
第379頁は14行にわたって日ソ戦争について述べている。

H西尾幹二著 新しい歴史教科書をつくる会編
『国民の歴史』(産経新聞ニュースサービス 1999年10月発行)は
全774頁の大著であるが、日ソ戦争については第619頁に
「ソ連が参戦し」とわずか6語記述しているだけである。

I 前田哲男編・前田哲男・河辺一郎・こうけつ厚共著
『岩波小辞典 現代の戦争』 (岩波書店2002年5月発行)
日ソ共同宣言、日ソ中立条約という項目はあるが日ソ戦争という
項目はない。シベリア抑留という項目もない。対日平和条約という
項目はあるが対日参戦あるいはソ連の対日参戦という項目はない。
当然、日ソ戦争によるスターリンの惨禍についての記述は
どこにも見当たらない。

J毎日新聞社編『最新昭和史事典』本文926頁
(毎日新聞社 1986年4月発行)
日ソ基本条約、日ソ共同声明、日ソ共同宣言、日ソ漁業条約という
項目はあるが、日ソ戦争という項目はない。
シベリア抑留という項目もない。
対日平和条約、対日理事会という項目はあるが
対日参戦という項目はない。第847頁に
「8.8 ソ連対日宣戦布告」と1行記載されているだけである。

K編集委員 藤原彰/粟屋憲太郎/吉田裕
『最新資料をもとに徹底検証する 昭和20年 1945年』
(小学館 1995年6月発行)
第40頁〜第41頁
『ソ連参戦』
(執筆者:纐纈厚山口大学助教授)
日ソ戦争について正確に記述している。「陸軍の強硬派は、
依然として徹底抗戦をさけんでいたが、ソ連参戦と国内民衆の動向は、
ポツダム宣言の受諾にむかわせることになったのである」と
結んでいる。
第118頁〜第121頁
『「終戦」後の戦闘−満州での戦闘−樺太・千島での戦闘』

(執筆者:山田朗明治大学助教授)
8月16日以降の日ソ戦争について正確に記述している。
「ソ連軍は8月28日に択捉島、9月1日色丹島、2日に国後島、
3日に水晶島を無血占領した」と述べている。
第202頁〜第203頁
『ソ連(シベリア)抑留』
(執筆者:伊藤悟成蹊中学・高校教諭)
「居留民は悲惨な状況に直面した。まもってくれるはずの関東軍は
敗走し、無秩序状態のなかで日本をめざしていた。
しかしソ連軍は集団で徹底的な略奪をおこない、
年齢に関係なく婦女暴行を働いた。
この過程で抵抗する者などは容赦なく射殺された。
【男狩り】とよばれる男子の徴集がおこなわれ
兵士同様にシベリアに送られて強制労働に従事したものも
多かった」と正確に記述されている。
「ソ連軍管区で敗戦をむかえた日本人は、戦争という国家犯罪の
犠牲者であるとともに、戦後処理に関するもう一つの日ソ両国による
国家犯罪の犠牲者でもあったのである」と結んでいる。

L由井正臣著『日本の歴史G 大日本帝国の時代』
(岩波ジュニア新書)2000年11月発行
第211頁

「8月15日ですべての戦争が終わったわけではなかった。
南樺太では、8月11日にソ連軍が侵入して戦闘がはじまり、
日本軍が武装解除されたのは28日だった。
千島列島では9月1日まで戦いはつづいた。

満州では8月8日の対日宣戦布告と同時にソ連軍が侵入した。
関東軍(満州に駐留していた日本軍)の高級将校や満州国の官吏は
いち早く日本に逃亡し、関東軍も、開拓団農民や一般民間人を
置き去りにして南下した。散発的な抗戦は8月末で終わった。

この間、開拓団員や民間人は、ソ連軍の暴行・略奪にさらされ、
苦難の引揚げの途中、飢えや病気で死亡し、
子供を置き去りにしたり、中国人に托したりすることを余儀なくされた。

在満民間人約150万人のうち、犠牲者は17万6,000人といわれる。
そして今日までなお問題を残す3,000人以上の中国残留日本人孤児が
生みだされた。

また降伏した関東軍兵士や樺太・千島での捕虜57万人は、
シベリア・中央アジアに連行・抑留され、強制労働に使役されて、
約6万2,000人が死亡した。」

M
藤村道生(上智大学教授)著『日本現代史』
(山川出版社 1981年9月発行)
第271頁
本土決戦のため国民義勇戦闘隊に支給される武器が首相官邸で
展示された。竹槍、弓、さす又など、すべて江戸時代のものであった。
本土決戦では、日本国土が戦場になるのだから戦闘員以外の住民の
処置が最大の問題であるが、軍(=旧日本帝国陸軍)はこれを
研究しなかった。『国土決戦教令』は、「敵(=米国軍)は住民、
婦女、老幼を先頭に立てて前進し、わが戦意の消耗を計ることあるべし、
かかる場合、わが同胞(=日本国民)はおのが生命の長きを願わんよりは
皇国(=日本国)の戦捷を祈念し、敵兵撃滅に躊躇すべからず」とあった。
(志村注:旧日本帝国陸軍は、本土決戦においては、女性・老人・幼児が、
戦闘に巻き込まれて死んでもかまわないとはつきりと言っていたのである。
怖ろしいことである。)

本土決戦は日本国民の生命を守るものではなかった。
軍(=旧日本帝国陸軍)は、全国民を道づれにして、
玉砕(=自殺)しようとしていたのであった。
(志村注:筆者が本土決戦を無理心中作戦というゆえんである。)

第273頁〜第274頁
ソ連の首脳部は日本が原爆により【早期】に降伏しては、ソ連は予定した
獲物の一部を入手できなくなるという不安と危機感をもった。
ヤルタで決められた中国との友好条約は8月14日に調印の予定であったが、
160万のソ連軍はそれに先立ち、日ソ中立条約を無視して、主戦力を
南方にひきぬかれ、無防備同様の満州に殺到した。
ソ連は占領地を拡げるために、自国の兵士を含めて無用の死者をだすことを
ためらわなかった。ほとんど無意味の南樺太進攻で日ソ両軍のかなりの人命を
犠牲にした。
満州では日本軍が降伏した後も停戦せず、この結果、女・子供だけでも
13万人が死亡するという悲惨な事態が生じた。

N角川書店 『ワイド版 新版 日本史辞典』
(角川書店 1997年9月発行 全1468頁)
下記の記述だけである。【日ソ戦争】という項目はない。
第488頁
シベリアよくりゅうもんだい:
シベリア抑留問題:

ソ連軍による日本軍兵士などの抑留と強制労働をめぐる問題。
第2次世界大戦後、旧満州・樺太・千島などの日本軍兵士や
民間人は、シベリアの捕虜収容所に送られ,復興のための
労働力として使役されたり,親ソ分子となるための政治教育を
うけたりした。

抑留者総数は60万人以上といわれ,劣悪な環境や
苛酷な労働などで7万人近い死亡者が推定される。
「暁に祈る」事件などのリンチ事件も発生した。
1950年(昭和25年)5月までに47万人が日本に送還されたが,
その後も未帰還者の送還をめぐり日ソ間で対立が続いた。
この問題は日本人の対ソ感情悪化の一要因になったが,
真相はソ連のゴルバチョフのペレストロイカ(建て直し)政策以降,
徐々に明らかになりつつある。

O山川出版社『日本史広辞典』
(山川出版社 1997年9月発行 本文2275頁)
下記の記述だけである。【日ソ戦争】という項目はない。
第1018頁
シベリアよくりゅう【シベリア抑留】:
第二次大戦の敗戦により満州・北朝鮮・樺太・千島列島の
日本軍人・満蒙開拓団農民・満州国関係職員などがソ連に
抑留されて、各地で強制労働に従事したこと。
ソ連軍による武装解除後、シベリアを中心とする各地の
収容所に送られ、鉄道建設、炭鉱、道路工事、農作業などの
労働をさせられた。
待遇は苛酷なもので、抑留者約57万〜70万人のうち
約一割が死亡したと推定される。
抑留者は1946年11月に成立した
「引揚げに関する米ソ暫定協定」に従って、
12月にナホトカから引揚げを開始、
50年4月末までにほぼ帰国を完了した。
現在までに旧ソ連から引き渡された抑留中死亡者
名簿登載者は4万25人。

P林茂著『日本の歴史25 太平洋戦争』
(中央公論社 1967年2月発行)
第457頁〜第458頁
ソ連の対日参戦の事実と、それによる日本政府と軍部の醜態を記述して
いるが、【日ソ戦争】の内容についての記述はない。ましてや
【シベリア抑留】と【満州・北朝鮮における日本人の惨状】については
一言もふれていない。

Q蝋山政道著『日本の歴史26 よみがえる日本』
(中央公論社 1967年3月発行)
第18頁
「この広島への原子爆弾の投下が行われたことを、マリク駐日大使の
実地視察によって現実に確かめたソ連は、さっそく8月8日、
ポツダム宣言に調印するとともに、日本政府に向かって対日宣戦の
通告をしてきた。(以下8行略)」と記述されている。

R昭和史研究会編事件・世相・記録 昭和史事典』
(講談社 1984年発行 全926頁)
第405頁

シベリア引揚げ
ソ連に抑留されていた日本人の送還は、昭和21年(1946年)
12月8日に開始されたが、1年あまりで中止され、
再開されたのは昭和24年(1949年)からであった。
シベリア引揚げ再開第一船の高砂丸が、
1,980人の日本人を乗せて舞鶴港へ入港したのは
6月27日午前9時30分であった。

第一船の引揚者は、インターナショナルを合唱して下船し、
出迎えた肉親や市民に、日本革命を熱狂的にアピールした。

このため、日本共産党の徳田球一書記長が、日本人捕虜のうち、
共産主義思想に同化しないものは送還しないようにと
ソ連に要請したという情報が流され、翌年の国会で徳田を喚問
するという動きが起った。

東京ほか関東・東北地方出身の引揚者641人を乗せた
引揚げ列車は、同年7月2日に品川・東京・上野の各駅に停車、
下車した人のうち240人が日本共産党本部に直行し集団人党した。」

上記の他の、シベリア抑留に関する記述は第366頁、第398頁、
第466頁に引揚げ船入港との記述が数語あるだけである。

日ソ戦争あるいはソ連の対日参戦という記述はどこにもない。
ましてやシベリア奴隷労働被害とか、日本人捕虜とかの
言葉は皆無である。

シベリア抑留の内容についての記述も皆無である。

S毎日新聞社 『昭和史全記録』
(毎日新聞社 1989年3月発行 全1353頁)

第330頁に「ソ連参戦」とのタイトルで8行の記述がある。
第689頁に「シベリア墓参」とのタイトルで10行の記述がある。
シベリア抑留及び日本人捕虜の強制労働に関する記述はない。
ましてや、日ソ戦争の戦死者に関する記事や、戦後の日本人
捕虜(軍人及び民間人)の拉致移送や、シベリア奴隷労働被害で
16万人以上が死亡したことに関する記述は、どこにも見当たらない。

A@部昇一監修、水野靖夫著
『日本人として最低限知っておきたい近現代史の必須知識』
(PHP研究所 2006年1月発行 全190頁)

明治維新から、北朝鮮による日本人拉致事件・ODAまでの
日本の近現代史の45の重要事件を項目として取り上げ解説している。
【シベリア抑留】については第84頁において下記の通り解説している。

「ソ連は約60万人の日本人をシベリアに強制連行し、強制労働を
課した。極寒のシベリア収容所で飢えと寒さで死亡した抑留者は
6万人以上といわれてきた。

この「抑留者総数60万人、死亡者6万人」というのが定説ではあるが、
最近、死亡者数が8万人以上ということが明らかになってきた。
しかしまだすべての実態が明らかになったわけではなく、
実際はこれを大幅に上回るともいわれている。

シベリアに強制連行されたのは、日本が「ポツダム宣言」を
受諾し終戦となった後であり、しかも中立条約有効期限中である。
交戦中に捕らえられたり降伏した、国際法に則った「捕虜」ではない。
強制連行・拉致された「抑留者」である。

開拓移民団等の在満邦人はソ連軍の略奪・虐殺に遭いながら
難民となって逃れた。その逃避行はさながら生き地獄であった。
そのときの一般民間人の犠牲者は18万人以上といわれている。
そのとき、親と離れ離れになった子供たちが、いわゆる「残留孤児」
といわれる人々である。」

AA
原康史著 『激録 日本大戦争 第39巻(最終巻)
満州・北方領土の悲闘』
(東京スポーツ新聞社 1993年6月発行 全283頁)

日ソ戦争について第43頁から第250頁まで、207頁にわたって
詳しく述べている。しかしながら、【シベリア抑留=シベリア奴隷労働被害】
については、第227頁〜第228頁に『関東軍将兵達はシベリア抑留へ』
と題して、「ソ連軍はこれまでに満州各地で日本軍の武装解除を行っており、
この時点までに武装解除をした日本軍の将兵を徹底的に無法に取り扱い、
シベリア各地に送りこんでいた。集合地点(主要都市)までは徒歩で、
そこからは鉄道で輸送されたのだが、途中、非武装の日本軍将兵は
ソ連軍兵士達の暴行、虐待を受け、所持品はことごとく略奪されたという」と
記述されているだけで、その後の悲惨な奴隷労働についての記述はない。

AB
木坂順一郎著 『昭和の歴史第7巻 太平洋戦争』
(小学館 1982年12月発行)
第328頁

8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告し、翌9日からソ連軍は南樺太・満州・
朝鮮へ進撃した。当時、関東軍は24個師団、約75万の兵力を擁していたが、
常設の15師団などを他方面へ引き抜かれたあと、現地の在留日本人を
根こそぎ動員して新設された師団が多く、素質も装備もおとっていた。

しかも関東軍は、7月5日、朝鮮とソ連の国境に近い図們−新京−大連に
かこまれた満州南東部を確保して持久するとの方針を決定しており、
その外側にいた在留日本人は事実上見殺しにされる運命にあった。

敗戦の時点での在留日本人は約155万人(うち開拓民は約20万人)
といわれ、ソ連参戦から日本への引き揚げまでに約17万6000人
(うち開拓民約7万人)が死亡した。

またソ連軍の進攻にさいし、日本軍民にたいする
多くの暴行、略奪、強姦事件などが発生し、
混乱が倍加された。多くの中国残留孤児が生まれ、この問題は
戦後37年以上たったいまもなお未解決のままのこされている。

また樺太では、2週間の戦闘で4200人〜4400人の死者をだした。

AC金原左門・竹前栄治編 『昭和史』 (有斐閣選書 1982年6月発行)
第224頁〜第228頁

ソ連参戦−おき去りにされた満州移民

1945年8月8日、ソ連は日本にたいして宣戦布告し、同日夜から
9日未明にかけ、ソ満国境の極東ソ連軍は、機甲兵団を中心とした
150万の兵力をもって、東・西・北三方面から満州に侵入した。
新京めざして突進するソ連軍のまえに、弱体化していた関東軍は
各所で寸断されて大混乱に陥った。

かねてより対ソ戦の基本戦略は、開戦と同時に攻勢をとるとされていた。
しかし太平洋戦線の窮迫により、43年を境に関東軍の現役師団は
つぎつぎに南方に抽出・転用され、かわりに補充されたのは編成・
装備の劣る新設師団ばかりであった。そのため大本営は対ソ静謐保持を
旨とし、開戦となったばあいは満州国の四分の三を放棄し、
通化を中心とする東南部に複郭陣地をつくって持久戦をはかる
計画をたてていた。

45年6月には根こそぎ動員によって兵員だけは70万にのぼったが、
10万は銃剣すら持たず、ほとんどがろくに訓練も受けていない
というありさまであった。そして持久戦略にもとづいて陣容を
たてなおしているさなかに、突然開戦となったのである。

各地で激戦が展開されているとちゅうに、8月15日、日本は降伏し、
18日停戦命令が出された。こうしてソ連軍は満州全土を制圧したが、
関東軍の指揮系統が混乱していたため、孤立した部隊の散発的戦闘は
8月末までつづいた。

ソ連軍は各地で暴行・略奪を働いたばかりでなく、施設を持ち去り、
武装解除された日本軍捕虜をシベリアその他のソ連本土に抑留して
強制労働に従事せしめた。

さらに、ソ連軍が46年はじめに撤退したのち、満州は国民政府軍と
中共軍の戦場となった。四合屯高知開拓団(吉林省舒蘭県)の
在満国民学校校長であった後藤蔵人は、8月11日、軍人や
その家族を乗せた列車が南下するのを不可解た気持ちで目撃した。
四合屯の開拓民がソ連参戦のしらせを聞いたのはその日の夕方であった。
同時に、彼らは遠雷のように響く爆撃音を聞いた。四合屯の人びとは
16日に日本降伏を知らされたが、的確な情報や指示は与えられず、
「世の中のことはなにひとつわからない存在」としておき去りに
されたのであった(後藤蔵人『満州−修羅の群れ』)。
四合屯の開拓民ばかりではない。軍は対ソ作戦の変更や戦力の
いちじるしい低下をソ連に気づかれないようにするため、
軍の状態を秘密にし、さらに居留民を動かせばその企図が
明らかになってしまうとして、150万をこえる在満日本人の
安全より軍事目的を優先させていたのである。

こうして遺棄された居留民を待ち受けていたのは苛酷な運命で
あった。

開拓民「死の逃避行」

とりわけ悲惨だったのは国境地帯や奥地の開拓団であった。
1937年に広田内閣の7大国策のひとつとしてたてられた
満州移民の推進は、移民を治安政策の基礎にしようともくろんだ
軍と、農村の窮乏を移民によって救済しようとした拓務省の合作の
産物であった。同年20か年100万戸移民計画が策定され、
満州拓殖公社が設立されてから満州移民は本格的になり、
45年8月には入植した開拓民の数は27万に達していた。
開拓民の入植地は未利用地主義をたてまえとしていたが、
多人数の開拓団が集団で入植するため、実際には中国農民の
土地を安い価格でとりあげることが多かった。
土地を追われた農民は反満抗日闘争にたちあがり、
しばしば開拓村を襲った。

開拓民はこうした状況のなかで満州の曠野におき去りに
されたのである。四合屯開拓村では、8月下旬のある日、
朝鮮人部落民が独立を祝った。9月のはじめ、武器徴発と称して
やってきたソ連軍が、時計その他の貴重品を略奪し、
婦人に暴行を働いた。中旬、匪賊の襲撃をうけて家財道具を奪われた。
そうして、身ひとつになった老幼婦女子の死の逃避行がはじまる
のである。

北安省緩稜県瑞穂村は団員886人(うち96人は現地召集)を
擁する大開拓団であったが、9月にはいって再三襲撃をうけて
前途を絶望した村民は「コノ上、生キテ彼ラノ玩具トナルヨリ
イツソ自決スルコト」として、約600名の集団自決者をだした。
「自決セル約600名ノ大部分ハ婦女子ニシテ、ソノ氏名定カナラズ」
(「北満農民救済記録」合田一道『.死の逃避行』)。
壮年男子のほとんどが根こそぎ動員で軍隊に召集されていたので、
開拓団に残っていたのはほとんどが老幼婦女子であった。
開拓民たちは、逃避の途上、再三中国農民やソ連軍の襲撃をうけ、
歩けなくなった者は自殺したり、住込みや日雇労働者になって脱落し、
足手まといの子どもを前途をはかなんで殺す親もあった。

難民となった開拓民や一般居留民は、停戦後も引揚げのめどがたたず、
主として南部の都市に集まって、日雇労働やその他の手段で
かろうじて生活していたが、なかには中国人の妻になる婦人や
子どもを売る親もあった。さらに冬になると、栄養失調や伝染病で
死者が続出した。在満日本人は155万人、死亡者17万6000人
であるが、そのうち開拓民27万人、その死亡者は7万8500人に
のぼった(『満州国史』総論)。

シベリア抑留

ソ連軍の捕虜となった満州・北朝鮮・樺太・千島の軍人・軍属は、
9月ごろから翌年秋にかけ、シベリアをはじめとするソ連領内の
各地の収容所に送られて、採炭・伐採・建築などの強制労働に
従事させられた。

わずかの食糧で、飢えにさいなまれながら、酷寒の地で
重労働を課されたこれらの人びとの運命もまた苛酷なものであった。
とりわけ1年目の冬には死者が続出した。

栄養失調で死ぬ兵隊がふえてきた。作業整列の鐘が鳴り、
隣の戦友をゆり起こすと、もう死んでいる。
作業から帰って来てやれやれと兵舎の前に坐りこんで、
靴紐を解きながら、ごろりと横になるともう死んでいる。
栄養失調で死ぬのはロウソクの火が消えるようなものである。
いつどこで誰バッタリ死ぬか分からない。
(相見利嗣『捕虜の見たシベリア』)

厚生省の推定によれば、シベリアに抑留された者57万5000人、
死者5万5000人。引揚げが始まったのは49年で、50年5月
には大部分の者が帰還したが、その完了は日ソ国交回復が成った
56年を待たねばならなかった。

B日本の中学・高校の歴史教科書

戦後63年経って、沖縄県民の強い抗議をうけて、文部科学省は
08年6月30日、歴史教育について、やっと沖縄戦の悲劇と、
ヒロシマ・ナガサキの原爆の悲劇と、米空軍の無差別焼夷弾爆撃の
悲劇について詳しく指導するよう指導要領を改めた。

日ソ戦争・戦後の奴隷労働被害と、満州・北朝鮮における
ソ連軍の強姦・暴行・殺戮・略奪・奴隷狩りついては
歴史事実隠ぺいを改める様子はない。

現在中学の歴史教科書は8社から、高校の「日本史A」は4社から
出版されている。
以下の記述が全文である。抜粋ではない。

中学の歴史教科書
平成18年検定版(教科書は小中高それぞれ3年毎に改訂される)

@日本書籍新社
「ソ連も日ソ中立条約をやぶり、8日に日本に宣戦して満州・千島・
南樺太に侵攻した。」
A清水書院
「ソ連は8月8日、ヤルタ協定にもとづいて日ソ中立条約を破棄して
参戦し、満州・朝鮮北部さらには千島北部に侵入した。」
B東京書籍
「ソ連も日ソ中立条約を破って参戦し、満州・朝鮮に侵攻してきました。」
C日本文教出版
「8月8日、ソ連が、日ソ中立条約を破棄して参戦し、満州や朝鮮に
攻めこんできた。満州などにいた日本人は飢えになやまされながら、
日本に帰るべく、苦しい日々を強いられた。」
D
帝国書院
「ソ連も日ソ中立条約を破って、「満州」や樺太などにせめこんできました。
ソ連の参戦後に捕虜となってシベリアに抑留された人からも多くの
死亡者が出ました。中国には敗戦後、「満州」で肉親と生き別れて
中国人に養育された数千人の「中国残留日本人孤児」がいます。
この人たちの肉親さがしが1981年からはじまりましたが、身元が
判明した人たちはわずかです。」
E大阪書籍
「ソ連は、8月8日、日ソ中立条約を破棄し、ヤルタ協定に
もとづいて満州や南樺太と千島列島に侵攻を始めました。
日本軍がすべての戦線で後退していくなか、現地の日本人の
なかには、ソ連軍や中国の人々の攻撃にあい、後々までも
中国に残留しなければならなくなった婦女子たちもいました。
また、約60万人の日本兵が捕虜としてシベリアに抑留され、
数年にわたって強制的に働かされて、多くの犠牲者を
出しました。」
F
教育出版
「8月8日には、ソ連がヤルタ会談のとり決めにしたがい、
日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦し、満州や南樺太、千島に
攻めこみました。戦争の終結により、中国にいた多くの日本人が
飢えなどで亡くなったほか、残留孤児として残された者もいました。
また、降伏した約60万人の日本兵がソ連軍によってシベリアに
送られ、強制労働に従事させられました。(シベリア抑留)」
G扶桑社
「8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、
翌9日、満州に侵攻してきた。」

高校の歴史教科書

平成19年検定版(教科書は小中高それぞれ3年毎に改訂される。)
日本史は『日本史A』と『日本史B』と2種類ある。
近代史に重点をおいて記述されているのが『日本史A』である。
高校『日本史A』の価格は文部科学省の指示で635円が上限
と定められている。この価格で利益がでるよう、各社が頁数と掲載
する画像数などの記載内容を決めている。

@
三省堂『日本史A』
8日にソ連が日本に宣戦布告してポツダム宣言にくわわると、
翌9日、アメリカは長崎に原爆を投下し、およそ7万人の命が奪われた。
中国東北地方などで敗戦をむかえた日本軍兵士など、約60万人が
ソ連の捕虜となり、不法に強制連行されて、ソ連やモンゴルなどの
収容所に抑留された。彼らは重労働を課せられたうえ、
寒さや食料不足もあって、抑留が終わる1956年までに
6万人以上が死亡した。
A東京書籍『日本史A』
中立条約を結んでいたソ連は8日、日本に宣戦布告し、
満州・朝鮮に進撃した。・・・いっぽうソ連軍は、8月中旬から
下旬にかけて、千島列島に上陸して日本軍と戦い、占領後、
軍政を布告した。中国東北部などでソ連軍に武装解除された
日本軍兵士約60万人はシベリアに送られた。このうち
約6万人が死亡した(シベリア抑留)。
B
第一学習社『日本史A』
ソ連は、8月8日日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、
翌日、満州・朝鮮などへ攻めこんだ。現地は混乱をきわめ、
満州の関東軍は、開拓移民として移住していた人々など
多数の民間人をおき去りにしたまま撤退した。このことが、
こんにちまで続く「中国残留孤児」の問題を生む原因となった。
また、日本軍兵士のなかには、ソ連軍に強制連行されて、
シベリアの収容所に抑留された者も多くいた。
C山川出版社『高校日本史A』
8月8日、ソ連はまだ有効期限内にあった日ソ中立条約を無視して
日本に宣戦布告し、満州・朝鮮に侵入した。

付記:

旧ソ連の歴史教科書は日ソ戦争について、字数4,760字で、
詳しく述べている。ちなみに上記三省堂『日本史A』は183字である。

C北方領土問題について

外務省が2006年2月に作成した『われらの北方領土 2005年版
(平成17年度版)』の第10頁〜第11頁及び裏表紙裏には
「北方領土がサンフランシスコ平和条約で日本が放棄した
千島列島に含まれないのは明白」 と書かれている。

しかし「含まれないのは明白」と言っているのは
日本政府と日本の外務省だけで、
極悪非道なスターリンのソ連政府も、
現在のロシア政府も、
対日参戦をソ連に促したヤルタ密約当時の米国政府も、
対日平和条約作成の責任者のダレス氏(その後、米国務長官)も
択捉島、国後島、色丹島は千島列島の一部であると
明確に認識していた。

歯舞諸島が千島列島の一部かどうかについてはヤルタ密約
当時の米国政府内部でも意見が分かれていたようである。

参考資料:竹岡勝美元防衛庁官房長の論文:
『北方領土問題の核心−「千島列島の範囲」』

『北海道で平和を考える』 北海道大学図書刊行会88年11月発行第99頁〜第118頁

上記外務省のパンフレットを初めとして、数多い【北方領土】に
関する出版物も、大部分、ロシア政府とロシア国民の
【日ソ戦争はスターリンのソ連の正義の戦い】という
固い認識については触れていない。外務省の高官を始め、
有力な歴史学者たちが【北方領土】問題の核心を避けて、
マトハズレの議論をしているから
ロシアに相手にされないのである。

江戸時代から【北方領土】は日本の固有の領土であった
ということはロシア政府もロシア国民も熟知している。

しかし、ロシア政府もロシア国民も、スターリンのソ連は
【正義の戦い】に勝利した結果、国際社会の認知を得て、
堂々と【北方領土】をソ連の領土=ロシアの領土にした
のであると固く信じている。

【帝国主義思想】が根強く残っている現在のロシアは、
「武力によって他国の固有の領土を占領して自国の領土にした
ことは悪いことだ」という考えはない。

太平洋戦争敗戦前、旧日本帝国は、官民あげて、
「朝鮮半島を植民地にしたことは悪いことだ」、
「満州(中国東北部)を植民地にしたことは悪いことだ」
という意識は皆無であった。現在においてすら
韓国における【反日感情・嫌日感情】の根源になっている、
この旧日本帝国の【帝国主義思想】を理解していない人が多い。

【ソ連の正義の戦い】に敗れた【軍国主義の侵略国家・日本】が、
今さら、なにを言うのかというのが、【帝国主義思想】が根強く
残っているロシア政府とロシア国民の本心である。
日本はあらゆる機会をとらえて、
日ソ戦争は、極悪非道なスターリンのソ連が仕掛けてきた
領土獲得、奴隷獲得、財貨獲得のための
不正不義の帝国主義侵略戦争であつた

と主張しなければならない。

関連サイト:『ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、略奪

参考You Tube:

4分45秒でわかるシベリア抑留

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 1

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 2

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 3

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 4

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 5

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 6

シベリアに抑留された兵士達の証言と歴史の検証 7

シベリア抑留体験者 極寒の記憶 絵筆に込めて







シベリア抑留の「正史」作り 急げ

シベリア抑留の経験者らによる会合「特措法制定から2年−l国の取り組み・
民間の取り組みはどこまで進んだか?」がこのほど、東京都内で開かれた。
元抑留者や遺族らによる「シベリア抑留者支援・記録センター」が呼びかけた。

元抑留者7人と、遺族、研究者やシベリア特別措置法制定(2010年6月)を
推進した国会議員ら約30人が出席した。

2012年度の国の事業として、死亡者の身元特定や遺骨帰還の推進などの
拡充や、ロシアでの抑留関連資料調査について新たに民間団体の協力を
求める方針などが報告された。【栗原俊雄】

Re:
  シベリア不法虐待抑留犠牲者の慰霊を
−犠牲者の慰霊なくして北方領土問題の解決はあり得ない