シベリア抑留者数の徹底調査を 
                             2012年3月 Minade Mamoru Nowar

1.シベリア抑留者帰国時の聞き取り調査結果資料
  抑留された日本人捕虜の総数は、763,380人と推定


ソ連地区からの引き揚げは1946年(昭和21年)12月から始まった。
1946年(昭和21年)12月 引き揚げ船5隻 引揚者数 12,610人
1947年(昭和22年)4月ー12月 舞鶴 引き揚げ船83隻 引き揚げ者数176,581人
1947年(昭和22年)9月−12月 函館 引き揚げ者数 19,184人、合計208,375人

1947年12月までに208,375人が引き揚げてきた。復員庁は彼らの上陸時に徹底した
聞き取り調査を行った。その結果をまとめたものが下記の表である。

帰国者208,375人に、死亡者77,107人、残留者477,898人を加えて、
当時、日本政府はシベリア等へ拉致移送されたものの総数は763,380人と推定していた。
『戦後強制抑留史 第二巻』(平和祈念事業特別基金 2005年発行)第181頁

復員庁留守業務局鮮満残務整理部作成
ソ連地区収容所掌握概況表 1947年(昭和22年)12月1日現在

注:上記の通り、1947年年末までにシベリア等から帰還した日本人捕虜は、
208,375人である。
この概況表は、その208,375人の証言に基づいて作成されている。
従って、この概況表に記載された数字が、
絶対的に正しいとは言えないと思うが。

ソ連地区収容所掌握概況表
地区 収容所 収容所 収容所
地区名 番号 開設数 閉鎖数 合計数 残留人員 死亡人員
ナホトカ 9 7 0 7 14,410 230
テチューヘ 10 5 1 6 1,100 135
スーチャン 11 12 5 17 10,112 3,813
アルチョム 12 6 5 11 5,308 453
ウラジオストーク 13 22 4 26 17,386 1,099
ポシェツト 7 5 0 5 7,300 2,300
ウォロシーロフ 14 55 6 61 24,975 3,913
セミョーノフカ 15 12 3 15 2,878 928
イマン 16 16 4 20 3,237 857
ホール 17 3 8 11 1,100 654
ハバロフスク 16 17 7 24 5,635 934
コムソモリスク 18 9 7 16 8,933 2,129
ソフガーワニ 47 4 2 6 1,200 900
ムリー 1 63 27 90 19,675 2,734
ホルモリン 5 33 1 34 13,723 495
ニコライエフスク 21 0 7 7 530
北樺太 22 4 0 4 3,155 119
ビロビジャン 46 10 3 13 3,800 1,250
イズヴェストコーワヤ 4 58 0 58 19,353 1,006
ライチハ 19 12 3 15 18,125 2,937
ブラゴヴェシチェンスク 20 22 5 27 12,430 1,903
ルフロヴォ 7 4 3 7 1,281 259
スレチェンスク 25 4 5 9 3,620 1,197
チタ 24 54 4 58 33,455 12,728
カダラ 52 17 2 19 6,130 4,579
ウランウデ 23 18 5 23 6,319 1,250
ウランバートル 10 7 3 10 3,423 2,000
イルクーツク 32 24 6 30 18,202 2,773
チェレンホーヴォ 31 7 2 9 4,235 1,030
タイシェット 53 50 3 53 25,473 3,621
クラスノヤルクス 34 11 3 14 12,626 1,266
アバカン 33 3 7 10 2,190 1,617
ノヴォシビルスク 13 1 14 11,091 983
ロストフカ 4 1 5 5,177 2,797
バルナウル 10 4 14 7,890 2,015
ウスチカメノゴルスク 45 8 3 11 3,060 412
アルマ・アタ 40 9 7 16 5,090 385
カラガンダ 99 18 3 21 13,588 765
タシケント 288 8 2 10 18,282 416
コーカサス 4 4 8 1,442 78
ウクライナ 4 1 5 940 122
ウラル 14 0 14 13,819 2,249
モスクワ 3 2 5 2,200
地区不明 15 1 16 17,330 1,886
684 170 854 410,698 73,747
人員不明収容所 67,200 3,360
総計 684 170 854 477,898 77,107

原資料 この資料は外務省外交史料館の許諾をいただいて転載しています。
       コピー・転載は禁止します。

若槻泰雄教授は、著書『シベリア捕虜収容所(下)』(サイマル出版会 1979年(昭和54年)発行)
第271頁〜第273頁
で、当時の復員庁/引揚援護庁の調査について次の通り述べている。

「シベリアからの帰国手続きについて、他の地域と著しく異なったのは未帰還者の
消息調査であった。ソ連軍管理地域においては、従来の日本軍組織は解体され、
新しく作業大隊が編成された。その作業大隊も、作業の必要性、戦犯追及、懲罰の
目的で、たびたび移動、分割、統合、配置換えが行われた。加えて、おびただしい
死亡者、行方不明者が続出した
ため消息調査の重要性が認識された。

そこで復員庁/引揚援護庁は在ソ中の移動などについて
詳細な調査票を提出させると共に、
未復員者名簿を備え付け、これを閲覧させながら、
その中から死亡、生死不明、行方不明の抑留者の消息を書き込ませた。

これにより延べ270万件余の個人消息を取得した。

これと併行して下記5項目について資料の作成に努めた。
@ソ連軍管理地域にあった1,500の部隊についての編成、戦闘、終戦時の状況。
A620の作業大隊についての編成、入ソ状況、収容所までの概況、残置状況。
B1,200の一般強制労働収容所、同病院、500の特殊収容所についての入ソ人員、
変動状況。
C病弱者を主体とした満州、北朝鮮への逆送者の状況。
D中共地域主要地点についての死亡者、生死不明者の発生状況、残留状況。

このような聞きとり調査によって、各個人ごとの消息に加えて、各部隊、各収容所、
各病院ごとの一覧表からなる膨大な資料が作りあげられた。」



当時の復員庁/引揚援護庁・留守業務局(その後、留守業務部)は、個人名記載部分を含む
詳細な作業大隊概況表を作成している。この作業大隊はソ連内務省の管轄であった。

これとは別に、ソ連軍事省が管轄していた労働大隊が284大隊あった。
(戦後強制抑留史第7巻第388頁〜第409頁)

労働大隊は赤軍と共に各地を転々と移動して強制労働に従事していた。
(後記 17.参議院特別委・議事録参照)
内容表示は多少ことなるが、労働大隊についての概況表も作成されている。

2.満州・北朝鮮へ逆送され、遺棄され、殺害された日本人捕虜

2000年12月に公開された外交機密文書、下記の厚生省の『援護50年史』第76頁、及び後記
『11.シベリア抑留問題に関する小泉首相の答弁書』答弁17−6には、「1945年(昭和20年)冬、
ソ連軍は約47,000人に達する病弱者を旧満州及び北朝鮮に逆送した」と述べられている。

厳冬の中で逆送された病弱な約47,000人は、逆送途上及び、ソ連領を超えた場所で遺棄され、
全員死亡したと推測される。厳冬の荒野に遺棄して殺害するというスターリン式虐殺であった。

厳冬のシベリア鉄道沿線・満州・北朝鮮に遺棄され、狼や野犬や禿鷹の餌食にされたと推測
される病弱な約47,000人の犠牲者の冥福を心から祈りたい。あってはならないことである。
この、あまりにも悲惨なスターリン式虐殺を【歴史の闇】に葬り隠し続けることは許されないと思う。



さらに、この他に、ソ連は1946年(昭和21年)夏にも約27,000人を北朝鮮に逆送している。
下記の通りこの約27,000人も大部分死亡したと推測される。スターリン式虐殺の第2回目である。



旧舞鶴地方引揚援護局編『舞鶴地方引揚援護局史』厚生省引揚援護局昭和36年3月発行の
第16頁は「昭和20、21年の両年に、ソ連抑留者中の病弱者、約2万が、琿春、綏芬河(すいふんが)
黒河経由で逆送され、延吉、敦化、牡丹江、液河、黒河等に収容されたが多数の死亡者を
生じた」と述べている。第18頁は、「昭和20年9月から翌年11月ごろの間、その病弱者約5万は
黒河、綏芬河(すいふんが)、ボセツト、ウラジオから陸海両路により、満州と北朝鮮に逆送された」と
述べている。

3.昭和26年以降の帰還者はわずか2,594人!

2010年8月、厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室に電話で確認したところでは、
北朝鮮、樺太(サハリン)、千島列島を除くソ連地区からの日本人捕虜の帰還者の総数は、
下記の通り、472,958人である。

2010年8月、厚生労働省確認によるシベリア抑留者帰還者総数

時期 帰還者 対象
1946.9.161950.4.22
     昭和25年4月
470,364 一般捕虜
1953.12.11956.12.26 2,570 スターリン死後再開,戦犯抑留最長11年
1957.1 24
総計 472,958 民間人を含む

上記の通り、昭和25年(1950年)4月22日までに470,364人が帰国した。
日本人捕虜の日本帰還が完了したのである。

この年、昭和25年(1950年)12月11日、日本の外務省は、ソ連には未だ37万人が
抑留されていると発表した。しかしながら上記のように、この37万人のなかから日本へ
帰還してきたものはわずか2,594人であった!
残りの未帰還者は全員死亡したのだろうか? 大本営発表の外務省・戦後版?!

    昭和25年12月11日、外務省発表
  
ソ連地区抑留者の未帰還者は37万人


  うち31万名の氏名が判明している!



昭和25年後半、全国の都道府県から外務省管理局へ、毎月、『未引揚邦人調査月報』という
名称の報告書が提出されていた。日本への帰国者を確認して未引揚者(未帰還者)の消し込みを
行っていた。昭和25年11月末のソ連、樺太、北朝鮮、満州、大連、中共の6地区の未引揚者
(未帰還者)総数は下記の通り45,616人である。
データ出典:『外務省外交史料館所蔵・未引揚邦人調査資料』

都道府県名 未帰還者数 ソ連地区 樺太 北朝鮮 満州 大連 中共地区
北海道 5,103
青森 700
岩手 616
秋田 953
宮城 662
山形 2,142
福島 1,292
東京 220
神奈川 718
埼玉 602
群馬 1,022
栃木 620
茨城 772
千葉 501
新潟 1,862
長野 3,904
山梨 645
静岡 909 27 12 17 741 29 83
愛知 678
岐阜 877
富山 640
石川 942
三重 468
福井 361
大阪 673
京都 535
兵庫 743
滋賀 339
奈良 299
和歌山 516
岡山 1,078
広島 1,153
山口 1,004
島根 661
鳥取 423
香川 630
徳島 576
高知 593
愛媛 675
福岡 1,975
佐賀 1,007
大分 940
長崎 799
熊本 1,373
宮崎 684
鹿児島 1,731
合計 45,616

関連サイト:昭和25年11月 未引揚邦人調査月報 静岡県

4. 抑留者総数 −帰還者総数 =死亡者数+行方不明者数
  
763,380人−472,958人=290,422人
  ソ連の捕虜虐待で死亡?
あるいは満州で行方不明?

抑留者総数763,380人から帰還者総数472,958人を差し引くと、死亡者数と
行方不明者数との合計は、290,422人ということになる。

この三つの数字のなかでいちばん確実なものは帰還者総数である。

抑留者総数が変われば、当然、死亡者数+行方不明者数は変わってくる。

仮に、抑留者総数を、現在、定着している政府公表数字の
抑留者総数575,000人にすると、死亡者数+行方不明者数は102,042人ということになる。

1950年2月、当時の厚生省引揚援護庁(当時の職員数:5,066人)と、その前身の復員庁、
及び当時の外務省(当時の本省職員数:1,556人)の全面的な協力によって、当時の
GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は、特別報告書『ソ連収容所における日本人
捕虜の生活と死』
を作成した。これを対日理事会においてシーボルト議長が発表した。


このGHQ/SCAPの特別報告書はソ連における死亡者は374,041人としている。

志村英盛訳文

1945年の最初の冬の死亡率は異常に高かったということを考慮しても、あるいは、
1947年のある地区の高い死亡率を、その他の収容所に一律に当てはめることはできないと
考えても、次のような推定死亡率をあてはめなければ、ソ連の送還予定者数、95,000人を
差し引いた、残りの消息不明者、374,041人の運命は説明されない。

その年の状況 死亡率
死亡者数
1945年 すべてが最悪の冬 10.0% 272,349
1946年 僅かだが改善された 7.0% 77,816人
1947年 かなり改善された 3.7% 19,668人
1948年 思想教育が行われた 2.0% 4,208人
総計 374,041

ソ連捕虜収容所管理当局は、これらの消息不明者の運命に関する問い合わせに対して、
常に回答を拒否している374,041人の消息不明者について、ソ連の代表者は、
この数字の食い違いは、日本政府や総司令部の集計方法の誤りが原因であると冷淡に
言い放った。かかる暴言は父や子の帰還を願っている数十万人の肉親にとって、実に
気の毒なことである。

英語原文
Discounting that the initial high percentages, reported in certain localities in 1947,
apply uniformly to all camps, the general application of these macabre percentages,
in a descending scale after the murderous winter of 1945, will account for the discrepancy
between Soviet figure of 95,000 and Japanese totals of 374,041 prisoners of war
unaccounted for at the end of the repatriation season of 1949:

Soviet camp authorities have repeatedly refused to answer queries into the fate of these
unknown thousands. When confronted recently with an eccounting for the 374,000 misaing,
a Soviet spokeaman coldly brushed aside all implications and voiced indifference to "the book-
keeping methods" of the Japanese Government or SCAP. This is poor comfort for the
thousands of bereaved Japanese families that have awaited thc return of a father or son.

第007回国会 参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会第5号 議事録抜粋
昭和24年12月23日(金曜日)午前10時42分開会
議題:ソ連地区残留同胞調査に関する件(右の件に関し証人の証言あり)

中野重治委員(著名な作家で当時共産党参議院議員)

加藤さんにもう一遍お願いしたいのですが。先程委員長からもお話がありましたように、
シベリア抑留者総数の問題が非常に日本では皆の心配の種になつておりまして、非常に
いろいろ問題があるようですからお尋ねしたいのですが、日本で、日本の外務省が発表した
引揚対象の基本数というのが発表されているのですが、それによりますと、ソ連には
1,617,655人という数字が出ているわけなんです。それから、シベリア、ソ連で死んだ人の数字は、
1945年中には、これはこの年は状態が非常に惡くて、10%死んだという、こういう発表がされて
いるのです。

そうしますと、問題の性質を分つて頂くために、少し説明するのですが、
161万人10%だと、算術で16万人程度になるわけですね。ところが最近の対日理事会で
発表された数字を見ますと、1945年の死亡率は10%で、死亡者は272,349人と、こうなつて
おるのです。つまり、1,617,655人が基本数ならば、多少の出入りはありましようけれども、
死亡率が10%なら、死亡者は16万人程度になるのですが、これが27万人ですから、
11万人
程多いわけなんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・証人・加藤善雄氏 そうですね。

中野重治委員(著名な作家で当時共産党参議院議員)

そうなるんですよ。それで一方、この同じ外務省の管理局引揚渡航課の発表によりますと、
ソ連と同じ引揚対象の基本数だろうと思うのですが、滿洲は1,105,837人と、こういう数字が
出ているのです。で、今、言った通り、満州における1,105,837人と、ソ連における
1,617,655人と加えると、合計で2,723,492人、こうなるのです。この合計した引揚対象
基本数の10%というものを取つて見ると、272,349人、丁度ぴつたり合うのですよ。

そうしますと、外務省の説明では、この満州における1,105,837人という中からは
死亡者は1人も出なかつたと、死亡者は、皆、ソ連に行つて死んだ
と、こうなると勘定が合う
のですね。私の説明が不十分であつたかも知れませんが、算術でいくとそうなるんですね。
議事録は以上
               GHQ/SCAP


つまり、中野重治氏は、抑留者数と死亡者数(戦死者・刑死者・行方不明者を含む)は、
地区(ソ連領内、満州大連、北朝鮮、樺太千島)と、軍人・民間人別に分けた上で、
全体の数字を念頭に置いて、検証しなければならないと指摘したのである。
的確な指摘で、筆者も同意見である。

5.重要な歴史事実、ソ連のポツダム宣言違反

ソ連は対日宣戦布告文において「ポツダム宣言に参加して」と明確にのべている。
そのポツダム宣言に違反して、ソ連は、満州、北朝鮮、樺太千島から日本人(軍人・民間人)を
ソ連領内に拉致移送した。自ら志願してソ連領に入国した日本人はただの一人もいない。
全員、ソ連にムリヤリ連れて行かれたのである。疑う余地のまったくない重要な歴史事実である。

6.拉致移送途上とソ連領土における奴隷労働中
  
ソ連軍占領期間中(1946年4月まで)満州、北朝鮮における
  
死亡者数

@筆者は徒歩及び貨車による拉致移送途上で40,000人以上死亡したと推定している。
参考You Tube:Sabaton Panzerkampf '' Jeniec Tak daleko jak nogi ponios?

A45年9月〜12月、ソ連は領内から、病弱な軍人・民間人約47,000人を満州・北朝鮮へ
 逆送した逆送されたこの約47,000人は満州・北朝鮮で、全員、死亡したと推定している。

B筆者はソ連領内における奴隷労働中に、160,000人以上死亡したと推定している。

Cさらに、満州においては、民間人が254,400人死亡したと政府は公式発表している。

D1946年6月〜8月に2回目として北朝鮮に逆送された病弱な軍人捕虜約27,000人の中、
  20,000人以上
が死亡したと推定している。

まとめ:筆者は、ソ連の拉致移送、捕虜虐待、奴隷労働、強姦暴行、遺棄放置、栄養失調と
     壊血病、脱疽、伝染病(発疹チフス、赤痢、熱病等)、病気(結核、肺炎、珪肺、腸炎、
     ヘルニア、盲腸炎等)、エセ裁判による刑死・獄中での虐待死、絶望による自殺、
     極寒による凍死・衰弱死、炭鉱採掘、鉱山採掘、森林伐採等における事故死等により、
     ソ連によって、直接、あるいは、間接的に
    死に追いやられた日本人
(軍人と民間人)は、戦死者を除いて
    総計で、
521,400人以上であったと推定している。

日ソ戦争においては、この他に戦闘中に多数の戦死者が出た。自民党政府は国会答弁で
「戦死者数は把握していない」と、臆面もなく、恥知らずの答弁を繰り返し、「調査します」とは
一言も言っていない。数年前、防衛庁防衛研究所を訪れお尋ねしたところ、「日本政府はソ連の
対日参戦時の戦死者について調査したことはなく、当所に資料はありません」とのことであった。
10年8月、電話でお尋ねしたが、同様のご回答であった。

旧日本陸軍の諸資料を引き継いだ復員庁には関東軍の資料があったはずである。
1950年(昭和25年)10月1日に行われた国勢調査時には、都道府県市町村の真摯な
協力を得て、徹底した未帰還者調査が行われ、未帰還者の個人名まで正確に明らかに
なっているはずである。ソ連地区からの帰還者にたいしては徹底した聞き取り調査が
行われている。「戦死者数は把握していない」答弁は、歴代の自民党政府の
日ソ戦争戦死者に対する不誠実な態度を端的に表現する言葉であると思う。

お国のために勇敢に戦って戦死した軍人の人数を、国会答弁で「把握していない」

繰り返すことは戦死者たちを冒涜することであり、
【国の恥】であると思わないのだろうか?

参考情報:

日ソ戦争当時のザ・バイカル方面軍司令官で、その後ソ連国防相となったマリノフスキー元帥は、
著書『関東軍壊滅す−ソ連極東軍の戦略秘録−』(石黒寛訳 徳間書店1968年2月発行)の
第192頁〜第193頁で次のように述べている。

「8月13日から14日まで、牡丹江方面の日本軍は反撃を強化し、決死隊による爆破戦によって、
ソビエト軍の進攻を阻止しようとした。普通、決死隊または単独の決死隊員はわが軍の小グループ、
単独の自動車、騎兵、オートバイを襲った。多くの決死隊員はとくにソビエト軍将校を目標とし、
白刃をかざして襲った。

彼らはしばしば爆弾や手榴弾を身体にしばりつけ、高い高梁(コーリャン)の下にかくれながら、
戦車やトラックの下に飛び込んだり、ソビエト兵たちの間に紛れ込んで自爆したりした。

時には多数の決死隊員が身体に爆弾や手榴弾を結びつけ、生きた移動地雷原となった。
牡丹江入口で日本軍が反撃に出たときは、地雷や手榴弾を身体中結びつけた200名の
決死隊がおい茂った草の中を這い回り、ソビエト戦車の下に飛び込んでこれを爆破した。

決死隊の行動をよく示す例は、彼らが牡丹江の鉄橋爆破を企てたときのことである。
爆弾を身体中に結びつけた15名の日本決死隊は鉄橋の鉄筋コソクリート支柱に自ら飛び込み、
これを爆破しようとしたが、成功しなかった。

その献身的な行為にもかかわらず、日本決死隊は大抵の場合その目的を達成せず、
その大部分は自動小銃掃射の犠牲となり、成功したのは若干にすぎない。」

筆者は日ソ戦争の戦死者数は5万人以上と推定している。





1945年(昭和20年)8月9日、日ソ開戦時点の
満州在住の日本人民間人人数

省市名 日本人人口
新京特別市 161,712
吉林省 75,233
竜江省 48,156
北安省 62,408
黒河省 14,059
三江省 65,612
東安省 61,396
牡丹江省 97,931
間島省 29,332
浜江省 41,222
哈爾浜市 78,695
通化省 15,746
安東省 36,930
奉天省 177,739
奉天市 247,765
四平省 29,150
錦州省 62,914
熱河省 11,807
興安総省 23,383
不一致補正 -20,332
小計 1,320,858
関東州:大連 228,842
合計 1,549,700

資料出所:財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
満蒙終戦史 全928頁(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)第444頁

2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された『ソ連参戦の衝撃−満蒙開拓民は
なぜ取り残されたか』
は、「当時、中国東北部(満州)に住んでいた国策開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、多くの家庭が母子老人家庭となっていた。

戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭避難民は、戦闘に巻き込まれて
約3万人が死亡した。その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と報じている。

7.1981年、引き揚げ完了後、30年もたってから 自民党政府は
  シベリア抑留者数を
70万人から57.5万人に減らした


1945年〜1950年、当時の復員庁/引揚援護庁はシベリア抑留者数は70万人としていた。
GHQ/SCAP(連合国軍総司令部)も、特別報告書の通り、抑留者数は70万人としていた。

後述の通り、1949年〜50年、徳田球一・野坂参三・聽濤克巳のスターリン共産党
「抑留者数は70万人というのは反ソ感情を煽るためのGHQ/SCAPと日本政府が
でっちあげた虚構の数字である」とGHQ/SCAPと日本政府を厳しく非難していた。

この70万人を、ソ連からの引き揚げが実質的に完了した1950年から30年もたってから、
自民党政府は57万5,000人に変えたのである。これは、つまり、シベリア抑留中に死亡した
犠牲者のうち、12万5,000人日本の歴史から抹殺したということである。

たとえば、前記『ソ連地区収容所掌握概況表』では、チタ地区の1947年(昭和22年)
12月1日時点での死亡者数は12,782人である。その後も、残留者33,455人のなかから
相当数死亡したと思う。
厚生省・1997年3月発行の『引揚援護50年史』の第524頁では3,200人になっている。
ロシアから渡された死亡者名簿では2,539人である。

この変更に伴って、以後、歴史教科書、マスコミ報道において、死亡者数は約6万人という数字が
完全に定着した。この死亡者数約6万人の中、約5万5,000人については、厚生労働省社会・
援護局は『抑留中死亡者名簿』をHPに公開している。これは、つまり、氏名不詳の死亡者は、
わずか5,000人にすぎない
と政府はいっているのである。

シベリア抑留者の方々が書かれた、2,000冊以上といわれる手記や画集は、いずれも、
亡くなられた方々はおびただしい数であり、さらに悲惨なことには、埋葬・火葬されずに、
遺棄された方々も少なくない
と書かれてある。さらに悲惨なことには、ソ連のいわゆる
【戦犯裁判】と称するエセ裁判で、数千人が銃殺死、獄中死している。

1日10時間以上の奴隷重労働、1日黒パン一つと名ばかりのスープ、2580カロリー以下
という不満足な食糧支給の結果、栄養失調と壊血病、脱疽、結核、肺炎等で死亡したのみならず、
発疹チフス、赤痢、熱病などの伝染病で、作業大隊の全員が死亡したというケースもある。
作業大隊の半数以上が死亡した、あるいは、ほぼ全滅したということもかなりあった。

71〜99年の7期、鶴岡市議を務められた、全国抑留者補償協議会元会長・
神林共弥氏
は、毎日新聞(山形版)10年8月22日第21面ので次のように語っている。

「労働が免除されるのは氷点下30度以下になった日だけ。それ以外の日は、伐採をしたり、
鉄塔を建てたり、線路の敷設などをやらされた。食事は1日パン300グラムとスープ。
おなかがすいてたまらなかった。


いたるところに何千人という死人の山だ。
冬に亡くなった人には雪をかぶせて終わり。
春になると積み重なった数千体があらわになった。
シベリア中に日本人が埋まってるよ。


シベリア抑留の実態が明らかになったのは、全抑協の調査や運動の結果だ。
日本政府は何一つ解明しようとせず、司法も切り捨てようとしてきた。
特措法の成立は長い間の念願だったが、補償というにはほど遠く、
政府は誠意を尽くしたとはいえない。
無念にも死んでいった仲間たちに償いの花が手向けられるよう、
われわれは生きている限り運動を続ける。」

死亡者数 約6万人、そのうち氏名不詳の死亡者は、わずか5,000人であったとは
筆者は、到底、信じることはできない。筆者は、前記の通り、抑留中の奴隷労働だけで
16万人以上死亡していると推定している。

当時のソ連政府は、実際の死亡者数から16万人以上を削除するため、抑留者数は
594,000人と発表した。

筆者は、日本政府はこれに合わせて抑留者数を575,000人としたものと推測している。

日本が米国に占領されていた当時、日本政府は未帰還者数の正確な把握に全力を
尽くしていた。しかし、さまざまな調査困難な事態に対処しなければならなかった。

先ず、関東軍各部隊のうちには、停戦に伴い、各人に自由行動を許した部隊が相当数あった。
多くのものがバラバラに満州各地へ移動していった。国共内戦の影響もあって、国民党政府軍や、
共産党八路軍や、山西政府軍に参加する者もいた。しかし、その後、彼らのほとんどすべては、
元日本兵であった事実を隠して、偽名で日本へ帰国している。

次に、ソ連軍は、不法非道な民間人の【男狩り】を行って、おびただしい数の民間人を逮捕し
拉致移送した。しかし病弱者が続出したため、逆送という手段で逮捕者の大量虐殺を行った。

ソ連軍が日本人軍人と民間人を徒歩で拉致移送する途上でもおびただしい数の死亡者が出た。
収容所到着以前に死亡したこれらの犠牲者は、氏名を確認されることなく、死亡地に遺棄された。
遺棄された事実や遺棄人数についての資料はまったくない。

さらには、中国共産党の八路軍は、占領した満州各地で、日本陸軍憲兵、日本人警察官、
満州国の日本人官吏、及び中国人を大量に雇用していた日本企業の幹部を、中国人を不当に
虐待・殺害・酷使していたとして、片っ端から、それこそ容赦なく、手当たり次第ぶっ殺した。

注:鬼畜・ソ連軍とはまったく異なって、中国共産党八路軍は規律厳正で、日本人民間人には
  一切、不法非道な行為はしなかった。しかし内戦相手の国民党政府軍のスパイと疑った
  日本人は、容赦なくぶっ殺した。さらには、たぐいまれな軍事戦略家・毛沢東は林彪に
  長春兵糧攻め作戦を行わせ、33万人以上の一般市民を餓死させている。
  毛沢東の大躍進政策と文化大革命では4,000万人以上が死亡している。

日ソ戦の戦闘中の戦死者数把握も困難を極めた。シベリア抑留中の奴隷労働中においても、
日本人捕虜は頻繁に移動させられた。収容所、病院、作業現場等で多数の死亡者を出した。

ソ連政府は、現在の北朝鮮政府とまったく同じく、米国政府や日本政府の情報提供要求を
完全に無視した。現在の北朝鮮政府と同じく、日本人捕虜奴隷のみならず、自国民や
欧州諸国の捕虜奴隷も数百万人いたので、完全情報封鎖を行っていた。

筆者は、外務省と厚生省は、このような情報完全封鎖国家・ソ連を相手に、あまりにも錯綜して
いる膨大な未帰還者数、死亡者数、死亡地の推定作業を続けることはできないと判断して、
日本が独立を回復して、GHQ/SCAPの干渉がなくなった機に乗じて、推定作業を実質的に
放棄して、10万人以上死亡者を歴史から抹殺することでケリをつけたものと推測している。
従って、1953年(昭和28年)以降の日本政府の内部資料はすべてシベリア抑留者数
575,000人合わせたものになっている。

それから28年後に行われた、この変更に関する国会における質疑答弁は次の通りである。

第095回国会・衆議院内閣委員会 - 2号1981年(昭和56年)3月26日 議事録

○渡部行雄委員
 
在ソ日本人捕虜の処遇と1949年8月12日のジュネーブ条約との関係」という文書によりますと、
「日本政府が発表し、総司令部が算定の基礎としているシベリア抑留者数は推定70万名である。

ところがこの前、宮澤官房長官は、57万5,000名だと答えている。
開きが大分多過ぎるのですが、この点はどんなものでしょうか。


○持永和見政府委員(厚生省援護局長)
外務省が出されたという数字でございますが、これも基礎は恐らく私どもの方で出した数字だと
思いますので、便宜上、私からお答えさせていただきたいと思います。

私どもとしては、1947年に引き揚げ業務が始まります際に、
各戦場におきます引き揚げ者の基本数を推計いたしております。
この推計がいま先生がおっしゃいました70万人という数字になっております。

ところが実際にその後ソ連からの引き揚げが始まりまして、具体的にソ連の
抑留の形が、大部分の方たちが作業大隊として編成されて送られたというような
ことでございますので、舞鶴で帰還者がお帰りになりました際に、それぞれ数字を
把握いたしまして、それを積み上げたものが先ほど先生がおっしゃいました、
官房長官がお挙げになりました57万5,000人というような数字でございます。

○渡部行雄委員 
それでは、この57万5,000名というのはどういう調査の結果出てきた数字ですか。

○持永和見政府委員(厚生省援護局長)

57万5,000人というのは、先ほど申し上げましたように、
ソ連に抑留された人たちが作業大隊として編成されて送られております。
したがって、各作業大隊の幹部あるいは帰還者の方々、
そういった方々につきまして各作業大隊ごとに何人ぐらいの人が
おられたかということをずっと積み上げて計算したものでございます。

議事録抜粋は以上

ソ連からの引揚者全体の99.45%になる470,364人は、1950年4月22日までに
帰国している。従って、1950年5月以降、1980年年初めまでの約30年間、日本政府は
シベリア抑留の全体を把握するための、引揚者に対する「聞き取り調査」は行っていない。
特定の人たちについて【通信調査】や【出張調査】をほそぼそと行っていただけである。

関連サイト満州・北鮮・樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況

上記書の一部抜粋
第29頁   第3章 ソ連領移送間の状況

作業大隊のソ連領への移送は、鉄道、及び徒歩による陸路、海路、水路により行われた。
また一部、特殊の者については飛行機によったものもある。

作業大隊に編成され、ソ連領に移送された日本人は、戦闘期間中から続いた体力の消耗、
徒歩行軍の強制、輸送施設の不備、医療の不備とあいまって、入ソの移送途中において、
多数の死亡者、病人を生ずるにいたった。


病人のうち、輸送に堪えない者は、途中の病院に収容されたが、これらの者は、
その後、死亡したり、そのまま消息を絶ったものが多い。


 また、輸送列車中で死亡した者は、途中駅で下ろし、最寄の病院等に収容した。
到着駅までそのまま輸送された者もある。

特に、徒歩行軍により琿春経由で入ソした作業大隊は、連日の徒歩強行軍のため、
ポセット到着までと同地滞在期間中に、多数の病人、及び死亡者を出した。これがため、
同地において、作業大隊の編成替えを行う状況であった。

入ソ移送途中の病人、及び病弱者の処置については、ソ連側は前述のほか、これらを
満州及び北朝鮮地域に送り還した。その状況は第5編第2章において述べる。


1949年(昭和24年)5月20日 タス通信発表

『戦後強制抑留史 第4巻』第156頁〜第159頁(平和祈念事業特別基金 平成17年3月発行)

上記『戦後強制抑留史 第4巻』第158頁の赤枠部分:

それに代わるもの5月20日のタス通信を通じた1回目の発表だった。
第1回発表の概要は以下の通りである。(下記の赤枠部分)

▽日本将兵の捕虜総数                  59万4000人
▽戦闘地域で即時に釈放された者            7万 880人
▽既に帰還した者(1946年12月−1949年5月)  41万8166人
▽未引揚者総数(1949年5月時点)          10万4954人
(内訳)戦犯その他で取り調べ中のもの            9954人
1950年11月までの送還予定者             9万5000人
▽死亡・行方不明・その他              0人(ゼロ人・・1人もいない)



1949年(昭和24年)5月20日、ソ連のタス通信は「日本将兵の捕虜総数は、594,000人
死亡・行方不明・その他 0人」と報じた。抑留中の死亡者は一人もいない
現地(満州・北朝鮮)において70,880人釈放したという驚くべき発表内容である。

つまり、タス通信は、いわば、「ソ連で死んだ日本人捕虜は一人もいない。
死ぬ時は、全員、満州・北朝鮮へ行って死んだ」ということになると発表したのである。

中野重治氏はGHQ/SCAPの数字は、いわば、「満州で死んだ日本人捕虜は一人もいない。
死ぬ時は、全員、ソ連へ行って死んだ
」ということになると非難したが、
まさに正反対のことをタス通信は発表したのである。

当時のスターリン共産党の聽濤克巳氏は、
「タス通信は非常な権威を持つた、国家と一体となつてやつている通信社である。

しかも一番重要な事実は、
ソ連は、1945年(昭和20年)9月11日の
ソ連邦情報局の発表以来、
終始一貫して、抑留者総数は594,000人という数字を
発表していることである」として、翌年の1950年2月25日の第007国会・衆議院外務委員会で
日本政府の
70万人を「日本国民の反ソ感情を煽るための虚構の数字」であると厳しく非難した。

この50年2月25日の第007国会・衆議院外務委員会で倭島政府委員(外務省管理局長)は、
70万人という数字は、日本政府が過去四、五年間にわたつてチエツク・アツプして、
最も信頼のある正しいと思う数字です。総司令部の数字と日本側の数字は一致しております」
と答弁している。

さらに同委員会で、中山マサ委員は「私は海外同胞引揚委員長として、対日理事会を傍聴し、
英語で直接聞き、確かめた結果、
70万人は、対日理事会でソ連が承認した数字であると
発表します」と発言している。


7−2.シベリア抑留問題 行方不明者の調査が日露で続く
出典:毎日新聞(宮城版)10年10月14日

ロシアと日本の首脳陣が主要な外交のひとつに掲げている両国間の対話に、これまでも、
そして今もブレーキをかけているのが「領土問題」と人道的な問題だ。

「領土問題」は難航しているが、シベリア抑留問題という人道的な問題のほうは、
望まれるほど早いテンポではないものの解決に進展が見られる。

ソ連がシベリア抑留問題の存在を認めるまで長い年月を要した。1991年に
捕虜収容所に収容されていた者に関する日本政府とソ連政府との間の協定が締結され、
ついに道が開けた。ソ連領内で亡くなった日本人捕虜のリストが日本側に提出されたことは、
記念すべき歴史的出来事だった。

東京で、今回、4度目となるシベリア抑留問題に関する日露協議が開かれた。
この協議は、すでに長年続いているプロセスの中間報告を作成するもので、
ロシア側はデータを確認するほか、新たに発見された死亡者のリストを提出した。

1992年、捕虜収容所にいた日本人についての情報を日本側に引き渡すという
ロシア政府の指令が出た。この問題をめぐって、ほかにどのような障害が残されて
いるのだろうか。カタソノワ氏は次のように語る。 

行方不明者の調査は現在も続いているが、その作業を行っているのはほとんどが遺族、
または規模の小さなボランティアグループだ。彼らは自分たちで地元の公文書保管所を訪れ、
1枚1枚カードを検索し、人物を特定するという地道な作業を行っている。

なんといっても、3万人もの兵士の行方が依然不明のままなのだ。問題はすべての情報が
保存されているわけではないということだ。当時、ロシア人が日本人兵士たちの言葉を
聞き取って彼らの名前をカードに記入したが、記入された日本人の名前が、実際のものと
まったく異なってしまっている。こうしたことから作業は難航している。

日本の厚生労働省は09年、ロシア側との間で、ソ連で従事した日本人捕虜に関する
資料の調査を再開するとした新たな合意を締結した。

解決しえない問題があるとすれば、それはどういったものなのだろうか。
カタソノワ氏は、誰のものか特定されていない墓の問題と消滅した墓地の問題を指摘している。

たとえば、かつて強制収容所があったアンガラ川周辺では、ブラーツク原子力発電所建設用の
ダムを造成する際、地元の村と共に、日本人捕虜が埋葬されていた墓地も消滅してしまった。

第二次世界大戦に参戦した兵士の生存者は少なくなる一方だ。
そしてロシアにとっても日本にとっても恐ろしい時代だったあの日から、時が経てば経つほど、
あの戦争に突き落とされ、名前が記録されることなく、この世を去った兵士たちに対する
われわれの責任はさらに重くなっていく。

8.GHQ/SCAP(連合国軍総司令部)が押し付けた数字?
−−引揚対象基本数
2,723,492人、その後、どうなったのか?

2000年12月20日公開の外務省機密文書は
70万人はGHQの虚構数字であったと!?

2000年12月20日、シベリア抑留に関する外務省の機密文書が公表された。
その中でシベリア抑留者総数70万人というのは、GHQから押し付けられた虚構数字であったと
当事者の倭島外務省管理局長が述べている。1951年の『引揚白書』の中の未帰還者
32万人〜34万人も、同様、GHQの押し付けた虚構の数字であったとのこと!?



V.A.アルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳
『プリンス近衛殺人事件』(新潮社 2000年12月発行)
注:
本書は事実を報じたノンフィクションである。小説ではない。著者、アルハンゲリスキー氏は
作家、ジャーナリスト、ロシア国会専門員で、イズベスチヤ別冊週刊ニェジェーリア誌編集長、
イズベスチヤ紙副編集長、ウズベキスタン国会議員、タシケント市長などを歴任した。
訳者、瀧澤一郎元防衛大学教授の【訳者あとがき】には、「門外不出のソ連秘密警察の
機密文書がページを繰るごとに現れ、学界の定説すらひっくり返してしまう。
現在、どの文献にも、シベリアに強制抑留された日本人の総数は60万人、その中6万人が
死亡と書いてあるが、これはソ連当局が流したニセ情報であり、実数はこれをはるかに
上まわることが実証されている。


第173頁〜第175頁より抜粋
マリク外務次官がモロトフ外相に下記書簡を送ったとある。「1947年3月5日の対日理事会で、
ビショップ米代表は、日本人捕虜帰国の現状に言及し、ソ連領内にまだ105万301人
日本人が残留していると述べた。ビショップ米代表の挙げた数字は実態に合わない。

ソ連閣僚会議捕虜送還問題全権部代表の数字によれば、1947年3月5日現在、
ソ連領内には、軍人と民間人合わせて、72万3137人の日本人がいた。

ビショップ米代表の挙げた数字に反論しなければ、われわれがその数字を正しいと
考えているような印象が生まれ、将来、ソ連が帰国させた日本人は全員ではなかった
というような話になるかもしれない。同志テレヴィヤンコ(対日理事会・ソ連代表)
以下の指示を与えるのが妥当と思われる。「ソビエト捕虜送還機関の数字では、
1947年3月5日現在、ソ連領内にいた日本人は総計約70万人である。」

もう一つ狡猾きわまる仕掛けがある。この問題に詳しくないと見過ごしてしまうようなものだが、
ソビエト側にとってはきわめて重要なことだ。まさにこれがシベリア抑留問題を永遠の混乱に
陥れているものなのだ。
事実の捏造者、マリク外務次官が、軍人と民間人を一からげにして
しまったことだ。
さすがのマッカーサー元帥も、このマリク外務次官の手品にはお手上げだろう。」
『プリンス近衛殺人事件』は以上

1950年2月作成のGHQ/SCAP(連合国軍総司令部)作成の特別報告書は、
抑留者は70万人という数字は、1947年〜1949年までのソ連からの帰還者に対して、
詳細な調査を行い、さらに可能なかぎりの検証を行った結果の数字であると明確に述べている。

9.外務省はGHQと異なりシベリア抑留者総数は
  
60万人前後と推計


シベリア抑留者に対して異常に冷淡であった外務省は、
当時、シベリア抑留者総数60万人前後と推計していた。

死亡者ゼロ
現地釈放者70,880人というウルトラ・デタラメと一緒に
シベリア抑留者総数594,000人と発表しているタス通信の詐欺数字と、
日本の外務省の推計数字がぴったり一致していたことになる。

これでは徳田・野坂・聽濤のスターリン共産党の指摘が正しく、30年あまり
外務省はウソの数字で、国民と死亡者を含むシベリア抑留者を欺き続けていた
ことになるのではないか。外務省の責任感の問題である。

「くさいものに蓋」外務省には、その後も、「シベリア抑留者総数把握」という
難問題に真剣に取り組んだ様子はまったく窺えない。反対に、外務省は、真摯に、
周到に、他省庁と連携して徹底的に、シベリア抑留に関する事実の隠ぺいを行った。

関連サイト:シベリア抑留の事実隠ぺい−固く閉ざされたパンドラの箱

前記『ソ連地区収容所掌握概況表』では、チタ地区の1947年(昭和22年)12月1日時点での
死亡者数は12,782人である。その後も、残留者33,455人のなかから相当数死亡したと思う。
厚生省・1997年3月発行の『引揚援護50年史』の第524頁では3,200人になっている。
ロシアから渡された死亡者名簿では2,539人である。

『引揚援護50年史』の第523頁〜第524頁には、1958年(昭和33年)までに
判明したサハリン州を含めたソ連地域内の各州別の死亡人員合計は62,636人
記載されている。この表の収容所数は950所である。

この資料によると、東部のハバロフスク州8,400人、西部のチタ州9,297人・イルクーツク州
5,721人の3州がバム鉄道建設関係である。この3州の死亡者数合計は23,418人である。
この3州の死亡者が合計23,418人であったとは、筆者は、到底、信じることはできない。

第024回〜第026回国会の海外同胞引揚及び遺家族援護に関する
調査特別委員会
で、瀬島龍三氏らソ連からの帰還者たちが、
不法非道なソ連の日本人捕虜虐待について詳しく証言した。
証言した帰還者たちは、一様に、おびただしい数の行方不明者がいると証言している。


香月泰男(KAZUKI YASUO)画伯 『北へ西へ』
奴隷として貨車でシベリアへ拉致移送された日本人捕虜たち
著作権者の許諾をいただいて掲載しています。コピー・転載は禁止します。

拉致移送途中においても、環境変化、精神的ショック、疲労、発病で死亡したものも
少なくなかった。徒歩による拉致移送途中、逃亡しようとしたもの、疲労と発病のため
隊列から落伍した者は、「連れて行くのが面倒だ」とするソ連兵に容赦なく射殺された。

自民党政府は、行方不明者数について、引揚者の帰国時の徹底した聞き取り調査、
及び1950年10月1日の国勢調査時の徹底した未帰還者調査によって正確に把握
しているにもかかわらず、国会答弁において、このことについてひと言も説明していない。

自民党政府は、極悪非道なスターリンの「奴隷労働で死亡した日本人捕虜の人数は
永久に徹底的に隠ぺいせよ」
という遺志を、銃殺されたソ連秘密警察の元締め・
ベリヤに代わって守り通すため、1986年、1987年、1989年と3回にもわたって、
最高指導者たちがシベリア奴隷労働被害を【歴史の闇】に葬り去るための合意書を
作成したからである。

以後、外務省は「この問題について情報収集は行わない」との姿勢を貫いている。
厚生労働省、文部科学省、総務省、内閣府北方問題対策本部も、一致協力して、
日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害を【歴史の闇】に葬り去った

同様に、ロシア政府も、ポツダム宣言に違反する日本人捕虜の拉致移送と虐待、
すなわち奴隷労働について、まったく触れようとせず、「北方四島領有は第2次世界大戦の
結果」とのみ強調して、【スターリンの犯罪・日本人捕虜の奴隷労働】の事実を隠ぺいして、
ロシア国民にまったく教えていない。

日本政府も、ロシア政府も、どっちもどっちである。強い憤りを感ぜずにはいられない。


泉下の極悪非道なスターリンは、日本とロシア両国政府の真摯な事実隠蔽(いんぺい)努力に
感涙にむせんでいると思う。

歴史から抹殺された犠牲者たちの亡霊は泣きながらシベリアの荒野を彷徨っていると思う。


資料出所:よりしろのふ平和祈念展示資料館



10.シベリア抑留者数の新資料が発見された

09年9月8日0時29分配信の朝日新聞のAsahi.comはこの件について
大要、次の通り報じている。

第2次世界大戦後にシベリアなど旧ソ連に抑留された日本軍人らの個人情報を
記した新資料を、ロシア国立軍事公文書館が朝日新聞に公開した。
カード形式で約75万枚。シベリア抑留の全体像の解明につながると期待されている。

全資料はスキャンしてCD化され、日本側に提供される。個人カードは図書館の検索用の
目録に酷似。「サトウ」「スズキ」などと仕分けされた木箱の引き出しが約750個ずらりと並び、
一つの引き出しに約1千枚のカードが保管されている。

カードには収容所の番号をはじめ、「氏名」「誕生年・生誕地」「職業」「軍階級」「捕虜になった
場所と時期」「移動歴」など、表と裏に計13の欄がある。それぞれの収容所で手書きされ、
かすかに変色していた。

日ロ両政府はカードの写しの提供で月内にも正式に署名する方向で、費用負担などを調整中。
カードのCD化作業に1年弱かかるとしている。



朝日新聞(朝刊)09年9月10日第11面は上記個人カードに対応する抑留者の
個人調査ファイルには、個人の基本データから容姿の特徴、病歴などを
詳しく手書きした資料が綴じ込まれていると報じている。

モスクワのロシア国立軍事公文書館のコロタエフ副館長によると、
これらの個人カードと個人調査ファイルは、1,000箇所以上の収容所で記入され、
60年代の初め内務省の命令で特別な公文書館に集められた。それが10年前に
ロシア国立軍事公文書館に移されたという。





ソ連政府が作成した日本人捕虜の聞き取り調査資料


全国抑留者補償協議会の平塚光雄会長は「なぜ今回の資料をもっと早く明らかに
することができなかったのか」と、日ロ両国政府の取り組みに不満をもらした。

資料出所:NHKオンライン

11.犠牲者の慰霊のために徹底調査を

09年7月24日の各紙は、第2次世界大戦後、シベリアなど旧ソ連に抑留された
軍人・軍属や民間人に関する新資料がロシア国立軍事公文書館で発見されたと報じた。
シベリア抑留の全体像を明らかにすることが、犠牲者の方々への慰霊であると思う。

ポツダム宣言第9項に明確に違反するシベリア抑留は、1945年8月23日の
スターリンの極秘指令に基づいて行われた。




厚生労働大臣 長妻昭様

「戦後強制抑留者特措法」基本方針策定に向けての要望事項

 「戦後強制抑留者特別措置法」第13条の基本方針策定に関連して、以下のとおり
  要望させていただきます。
1.【従来の対応・資料の検証から】 
  従来の国の対応・対策をすべて検証し、何が足らなかったのか?を
  充分検討してから今後の方針を打ち出していただきたい。
  (とくに、「シベリア抑留」の定義、地理的・時間的領域、抑留者の
  身分について、明らかにする必要あり。
  データ的にも、旧軍関係資料の整理・研究、旧満州・樺太など
  居留民資料の整理・研究、援護関係調査資料の整理・研究、
  ソ連・ロシアからの伝来資料・ファイル等の精査・分析が必要)
2.【縦割り行政からの脱皮・民間の知見の活用を】 
  従来の対応・対策が、総務省、厚生労働省、外務省などの縦割り行政で、
  その分担・相互協力の仕組みも明らかでないまま、旧陸海軍・復員局
  などの「後始末」だけを行っているような側面があり、消極的で部分的な
  対応に終わってきたとの印象を持つ。今後は民間の知見も活用して、
  総合的・有機的、積極的な対応に転換していただきたい。
3.【幅広い情報収集と広報を】
  死亡者情報の入手についても、官対官の関係で提供される情報しか
  採用しないが方針だったが、日露の民間の研究者の参加やメディアの協力も
  得て、幅広く情報を収集し、周辺の情報や資料も積極的に収集するように
  改めていただきたい。(モスクワの公文書館だけでなく、各地の公文書館・
  博物館・地方の官庁の徹底調査、ロシア側の放送や地方紙の協力が必要)
4.【民間も含めた日露合同調査検証委員会の設置を】 
  調査と検証作業のために「日露合同調査検証委員会」のような
  タスクフォースを設置し、両国および周辺国の民間の研究者らの参加も得て、
  迅速かつ効率的に作業を進めていただきたい。
5.【集中的な調査と公式報告の作成・公表を】 
  期間を限定して官民挙げて集中的な努力を行い、最低限、拉致・抑留された
  総数、死亡者総数、内朝鮮・台湾・中国人などの国籍・民族別総数、
  捕虜<軍人・軍属>・民間人の総数、移送・移動の流れ、帰国ルートと人数、
  収容所・埋葬地情報などを公式に確定し、その傾向・分布などを明らかに
  していただきたい。また、どのような計画、プロセスで抑留計画が立案・
  遂行され、情報の管理が行われたのかも、ロシア側の協力を得て、
  明らかにしていただきたい。
6.【日本人捕虜の作品・造形物の返還を】
  抑留当時、日本人抑留者が作成した作品や生産品で、可能なものは
  日本に返還を求め、本人や遺族に引渡すとともに、引き取り手がないものに
  ついては国に保管・展示していただきたい。強制され制作者の意に反して
  つくられたものでも、歴史の事実として、適切な説明を付して、
  公開していただきたい。
7.【日本人捕虜の社会的経済的貢献の明示を】 
  日本人捕虜の労働量全体を集計した数字を算出し、それが当時のソ連経済に
  どの程度貢献したものか明らかにし、正当な評価を与えていただきたい。
  日本人抑留者が建設した建物や施設には、そのことを明示するプレートなどの
  設置を求め、ロシアや関係国の教科書でもシベリア抑留について記述し、
  生徒に教えるように求めていただきたい。
8.【国民全体で人災を心に刻む仕組を】 
  ロシアと日本の両方で、スターリンが拉致・強制抑留命令を発した
  <8月23日>を心に刻むべき歴史的な日付として、国の記念日とし、
  民間団体任せでなく、国が主体となって、政府主催で共同・合同して
  記念式典を行っていただきたい。ロシアと日本のメディアにも積極的な
  取り上げを求めたい。
9.【活用される本格的な資料館設置を】 
  これまで収集した資料だけでなく抑留者が描いた絵や記録などもさらに
  提供を呼びかけて本格的な資料館を設置し、公開展示を行って
  いただきたい。
  (*参考:沖縄戦に関しては、「沖縄戦関係資料閲覧室」が内閣府によって
  永田町に設置されている。)展示のあり方についても、平和祈念事業特別
  基金が新宿に展示資料館を運営しているが、利用者の実態や機能を再検討し、
  他の類似施設(昭和館やしょうけい館、舞鶴・引揚記念館など)との
  提携なども視野に入れ、ボランティアなどを活用してあまり費用をかけずに、
  利用者の便宜を図り、抑留被害当事者の声を反映したものに改めるよう
  努力いただきたい。関係団体への補助金や助成金・委託事業のあり方も
  再検討し、真に役立っている事業・活動に重点的に経済的支援を行うよう
  改めていただきたい。
10.【次代に引き継ぐ未来志向的な事業を】 
  次世代を担う研究者の育成やマス・メディアと協力による啓発などにも
  力を入れて、未来志向的な要素を大切にしていただきたい。日露双方で、
  何を教訓化し、次世代に伝えていくべきか、を明確にし、意識的に次代に
  引き継いでいく工夫をしていただきたい。
  2010年8月18日
  全国抑留者補償協議会会長・シベリア立法推進会議代表
                                      平塚 光雄







2011年8月4日、シベリア抑留者支援・記録センターの平塚光雄氏、江藤文英氏、
猪熊得郎、有光健氏の4人と、石毛えい子衆議院議員(シベリア議連副会長・民主党副代表)は
細川厚生労働大臣に厚労省大臣室で面会し、下記の要望書を提出しました。
厚生労働省森岡社会援護担当審議官らも同席しました。


厚生労働大臣 細川律夫様

「戦後強制抑留者特別措置法」の実施についての要望書

東日本大震災・原発事故への対応、B型肝炎訴訟の和解、雇用の確保をはじめ、
多くの課題に日夜お取組み、ご努力いただいているお働きに感謝いたします。

昨年6月に「戦後強制抑留者特別措置法」が国会で成立、制定されてから
13ヶ月が過ぎました。

特別給付金については、すでに6万4千人以上が申請し、
認定を受けて受領しております。

同法のもうひとつの柱である第13条の基本方針がようやく閣議決定がされると
伺いましたが、立法から1年以上たって、あまりに時間が過ぎて、法律の執行者に
緊張感が失われてきているのではないかと憂慮します。 

3月11日に起きた未曾有の国難に瀕し、震災・津波・原発対応に、
さまざまな取組みが優先されるべきであることは、
私たちも理解し、承知しております。

しかし、平均年齢が88歳を越えて、措置の対象となる元抑留者も、
推定で毎日20人、1年で6〜7千人が亡くなっていて、時間的に猶予のない状態です。

せっかく国が初めて実態調査を始め、証言や資料を集めようとしても、
もう話を聞ける時間は本当に少なくなってきています。

昨年8月18日に長妻厚生労働大臣に10項目の要望させていただきましたが、
後を引き継がれた細川大臣に、当面以下の3点にしぼって要望させていただきます。

1. 【国が主催してシベリア抑留犠牲者の追悼式典を】

ロシアと日本の双方で、スターリンが拉致・強制抑留命令を発した<8月23日>
心に刻むべき歴史的な日付として、国の記念日とし、民間団体任せでなく、
国が主体となって、政府主催で祈念式典を行っていただきたい。

3月10日の東京大空襲や、6月23日の沖縄慰霊の日、8月6日・9日の原爆忌は、
被害地の自治体主催で行われていますが、日本とロシアの国策によって行われ、
犠牲者も全国各地に散在している実情を踏まえて、抑留死亡者を心に刻む式典は
国が主体となってこそ行われるべきです。

今年もぜひ厚生労働大臣が8月23日の追悼の集いに、
ご参列・ご挨拶・献花いただけますよう要望します。

2. 【充実した利用しやすい資料展示館に転換を】 

新宿にある「平和祈念展示資料館」が平和祈念事業特別基金から昨年総務省に
移管されたものの、入場者数も年間4万2千人と他の資料館(昭和館・しょうけい館・
舞鶴引揚記念館など)と比べても大変少なく、資料収集も中断したままで、
中途半端な状態が続いていて、活用されていません。

家賃・倉庫賃料の負担も大きく、税金を投じた国の事業のあり方からも問題です。
旧ソ連・モンゴルから帰還した一万人を越える遺骨の眠る国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑に近く、
落ち着いた場所で、他の類似の資料館とも連携できる至便な場所に移し、
ボランティアなどを活用して、費用も節約して運営できるよう要望します。

類似の施設の運営をこれまで委託されてきた業者や関連団体とのあり方も再検討し、
利用者にとって便利で有効利用できる施設を総合的、有機的に再配置し、
活用していく方向に改善していただきたい。

3. 【現地に専門家を送り、調査を進めるとともに成果を共有し、
    次世代に継承を】
 

抑留された現場は、旧ソ連・モンゴルで、多くの資料、当時を知るロシア側の関係者も
ロシアや周辺諸国に存命中です。ぜひ早期に、役人ではなく、ロシア語のできる専門家の
調査団をロシアなどに派遣し、これまで収集できていない資料や証言の収集・調査を
スピード感を持って実施し、その成果を公表していただきたい。

また、日本側専門家だけでなく、ロシア側の民間の専門家にも協力を求め、
その研究成果や評価を共有し、ロシアと日本の双方の教科書にも記載し、
ともに歴史を継承するよう努力いただきたい。

1991年の捕虜に関する日ソ協定も、20年を経ているので、再検討し、
より積極的な情報・資料の収集、遺骨収集・返還ができるよう改めるとともに、
交流を深化させていただきたい。

たとえば、現在日本政府が米豪など連合国の元捕虜を日本に招いているように、
日本人元捕虜をロシアやモンゴルなどが招聘・交流するような事業を、
外交的に位置付けて、ロシア側の国費で実施していただきたい。

遺族だけでなく、被害体験者がロシアを訪れ、辛い体験を解きほぐすことも大切です。
65年前の後始末ですが、いつまでも怨恨と不信を引きずるのでなく、きちんと調査し、
事実を明らかにした上で、相互理解と和解を進める、未来志向的な事業として位置づけて
いただきたい。

基本方針策定がすでに大幅に遅れていることを踏まえて、早急に今年度第三次補正
予算案および来年度予算案で必要な経費を確保し、実施できるところから実行して
いただけますよう切望します。

私どもは、巨額の予算を求めるつもりはなく、無駄を省いて、有意義なところに手当て
するよう、工夫と迅速さを強く求め、要望・提案するものであります。

2011年8月4日
          シベリア立法推進会議 代表 平塚 光雄 (前全国抑留者補償協議会会長)

          シベリア抑留者支援・記録センター
                         代表世話人 有光 健

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出典:朝鮮日報オンライン日本語版2011年7月8日配信
日本の機密公電も収録した
『南京大虐殺史料集』
が刊行された


「信頼できる目撃者による直接の推算と、信頼できる人物の手紙によると、
日本軍が犯した行為と暴力は、アッティラ王と匈奴(きょうど)を連想させる。

少なくとも30万人の民間人が殺害された。
多くは極度に残酷で、血なまぐさい方式で殺害された。
戦闘が終わって数週間がたった地域でも、略奪や児童強姦など
民間人に対する残虐行為が続いた。」

1937年に、日本軍による南京大虐殺が起きた直後の1938年1月、
日本の広田弘毅外相が、在米日本大使館に送った機密公電の一節だ。

虐殺の事実を隠すため、日本軍は、南京駐在の西側外交官に飲食接待や
演劇鑑賞接待を行ったとの記録もある。

この機密公電は、2011年6月に刊行された
中国の『南京大虐殺史料集』最終巻に収録されている。

2011年7月7日付の【中国青年報】など中国メディアによると、
『南京大虐殺史料集』は、江蘇省社会科学院歴史研究所が、
過去10年間、全世界から集めた南京大虐殺に関する膨大な一次資料の集大成で、
全78巻、合計4,000万字から成る。

今回の『南京大虐殺史料集』は、史記(50万字)の80倍、資治通鑑(300万字)の
13倍に当たり、中国の歴史書としては異例の規模だ。

『南京大虐殺史料集』には、南京大虐殺が日本軍部の組織的な指示によって
行われたことを示すさまざまな史料が含まれているという。

当時の日本軍による残酷行為を報じたイタリア、旧ソ連のメディアの報道も
初めて発掘され、軍上部による虐殺があったという当時の日本軍将校、
兵士の日記や証言も大量に収録された。

ある兵士は、「杭州から南京に至る道の周囲の水たまりには、
遺体が山のように積み上げられていた」という記録を残した。

江蘇省社会科学院歴史研究所は、1946年から48年にかけ行われた
当時の戦犯裁判の検察の公訴記録、弁護人の反論を記した弁護記録なども収録し、
この事件に対する客観的な判断を可能にしたと説明している。

『南京大虐殺史料集』編さんのため、中国は2000年代初めから
調査チームを組織し、世界各国で調査を進めた。

調査チームは、米国立公文書記録管理局、米議会図書館、スタンフォード大学
フーバー研究所、日本の外交史料館、防衛省戦史研究室のほか、英国、ドイツ、
デンマーク、イタリア、ロシアの外交文書保管施設をくまなく調べた。

収録された資料は、中国語だけでなく、英語、日本語、ドイツ語、デンマーク語、
イタリア語、ロシア語など多彩だ。

資料の考証、編集に投入された専門家は100人に達するという。

江蘇省社会科学院歴史研究所の王衛星研究員は
「日本で資料を調査した際、日本側は写真撮影やコピーを禁止した。
資料を全部書き写すのに、手が腫れ上がるほどだった」と話した。

編さんチームは、今回の『南京大虐殺史料集』刊行により、
日本の右翼勢力が南京大虐殺を否定したり、歪曲(わいきょく)したりするのは
難しくなるとみている。

日本の学界は、南京大虐殺を事実として認めているものの、当時の死者数が、
最大でも20万人を超えないとみており、学者によっては2万−4万人と推定している。

史料集の編さんを担当した張憲文・南京大教授は、
「今回の『南京大虐殺史料集』刊行で、多くの歴史的事実がはっきりした。
正しい教育で中日両国の若い世代が友好的な関係を構築する上で役立つことを
期待している」と述べた。

中国社会科学院世界史研究室の湯重男教授は、「『南京大虐殺史料集』刊行は
今の世代の功績だが、その利益は千秋にわたり残るだろう」と評した。

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12.抑留者数・死亡者数に関する情報




厚生省・1997年(平成9年)3月発行の『引揚援護50年史』の第523頁〜第524頁には、
昭和33年までに判明したサハリン州を含めたソ連地域内の各州別の
死亡人員合計は62,636人
と記載されている。この表の収容所数は950所である。

『引揚援護50年史』は引き揚げ開始後、3回にわたって発行された
『引揚援護の記録、続、続々』3冊の集大成であり、厚生省引揚援護庁が
総力をあげて作成した貴重な資料である。

死亡者が比較的多かった収容所及び病院一覧表


赤枠で囲ったハバロフスク州8,400人、チタ州9,297人、イルクーツク州5,721人の3州が
バム鉄道建設関係である。この3州の死亡者数合計は23,418人となる。

下記はバム鉄道建設に奴隷として酷使された方々の悲惨な手記の一部である。
この3州の死亡者が合計23,418人であったとは、到底、信じることはできない。

抑留者数・死亡者数に関する情報1
ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会 編 及び発行の
『捕虜体験記』(全8巻1984年〜1998年発行)の第7篇、
『捕虜体験記7 タイシエト・イルクーツク篇』の第5頁〜第6頁に
おいて、奴隷として扱われ、不法に強制重労働をさせられた
日本人捕虜の悲惨な実態について、江口十四一氏は次のように述べている。

この地区の日本人捕虜は主にバム鉄道の建設工事とその関連作業に
従事した。シベリア各地に共通することだが、この地域の冬期の気象条件は
とりわけきびしく、風の強いときには体感気温が60度、70度に下がることも
しばしばだった。【敗戦→捕虜→シベリア抑留】という急激な境遇の変化の
衝撃にくわえて、飢えと極寒の直撃は、入ソ当時の日本人捕虜の心身を
打ちのめした。

体力は極端に消耗し、栄養失調、下痢、疥癬、アメーバ赤痢や発疹チフス
など伝染病の蔓延、さらに初めて経験する労働は苛酷そのものだった。
したがって、入ソ時から翌年の2月、3月にかけては大量の死亡者を記録している。

「事故死も多かった。伐採作業中、逃げそこなって倒木の下敷きになったり
撥ねられたりして、重傷を負ったり、死亡したという例は数多く記録されている。
入ソして初めての冬は、体力が消耗しているうえに、飢えと寒さがくわわり、
動作が緩慢になっている捕虜たちにとって、初めて経験する重労働であって
みれば、ちょつとしたことから大きな事故が起こっても不思議ではなかった。

抑留者数・死亡者数に関する情報2
作家・高杉一郎氏は、著書『スターリン体験』(岩波書店 同時代
ライブラリー 1990年8月発行)の第232頁で次のように述べている。

「翌日から私は、バム鉄道の枕木を生産する製材所の作業隊に
配属された。1交替時間(実労働時間8時間)におよそ360本、
1日(3交替時間)には1100本近くの枕木生産をノルマとする
きつい労働だった。

最初の1週間、私は移動丸鋸に木材を送りこみ、
できあがった枕木を送りだす仕事をあたえられたが、8時間ぎっしり、
一瞬といえども神経と筋肉を休めることはできなかつた。
渾身の抵抗力をこめて支えている木材を、唸りをたててたちまちの
うちに食いつくす丸鋸に私は恐怖と憎悪を感じた。

もし、あの労働があのままつづいていたならば、そしてペーチャという
大男の囚人労働者が、上流から流されてくる原木を鳶口で整理し、
ワイヤ・ロープで揚陸する仕事の方へ私を廻してくれなかったら、
私は日本には生きて帰れなかったかもしれなかった。」

抑留者数・死亡者数に関する情報3
日本経済新聞(朝刊)2006年8月15日及び20日【私の履歴書】で
遠州茶道宗家の小堀宗慶氏は次のように述べている。

乗せられた汽車はやがて、ぽっんと小屋が一つ建つだけの荒野に
停まった。シベリア中部のタイシェトという山間の地だった。
貨車から降ろされた我々は、後から来る捕虜の住む小屋を造る
ことから始めなくてはならなかった。

酷寒の中で、小屋もなくテント生活をするのは死を意味する。
迫り来る冬に備えて急がなければならず、作業は夜を徹して
昼夜二交代の苛酷なものとなった。

飢え、寒さ、ノルマの三重苦に加え、厳しい自然環境が身を苛み、
言葉で表すことのできぬほどの苦しみだった。

兵隊は、最初の数ヶ月間で次々と死んだ。
当初の各収容所の平均死亡率は60%にも達したという。

私のシベリア生活は延々4年に及んだ。
何度も「何月何日にはダモイ(帰還)だぞ」という噂に踊らされ、
その度に裏切られて絶望のふちに沈んだ。

雪の中を歩いていて、いっそこのままどこまでも行って、くたびれ果てて
雪の中に倒れ死んでしまおうと考えたことがあった。

日本帰還後30年目の1979年7月、シベリア墓参団の一員として
ハバロフスク、ブラーツク、イルクーツク、タシケント各地の日本人墓地を
詣でて法要を営み、心を込めて献茶を行った。

私には見えるのだ。井桁に組んだ屍を包む炎が。
永久に解けることのない氷の上を、ボロをまとったやせた男たちが
隊列を組んで歩く姿が。

歩きながらばたばたと倒れ、苦悶と無念の表情でこと切れる兵士たちが。


我々が敷設した線路の脇には枕木と同じ数の死体が並んでいるのだ。

我々が作ったブラーツク水力発電所のダムの底には、
礎とした石垣の数ほどの死体が眠っているのだ。


世界第二ともてはやされる水力発電所のダムの底には、
我々が切歯扼腕しつつ働いた捕虜収容所が沈んでいるという。

湖底をのぞき、我々の血と涙と汗で築かれた発電所を前にして、
戦友よ、私がいかなる激情に襲われたか、察してください。

我々日本人を強制労働に就かせ、劣悪な環境の中で
何十万人もの同胞を死に追いやったソ連という国を、
私が好きになれようはずもない。

抑留者数・死亡者数に関する情報4

ティアップチェ村のオレナ・ドリシニャ氏(女性)の証言
この証言はウクライナ研究会のホームページに掲載された
鈴鹿国際大学のKostyk Stefan(ステフアン・コスティク)教授の論考:
『ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜』より、同教授の許諾をいただいて
抜粋転載しています。コピー及び転載は禁止します。

私はウラル地方の収容所からタイシェト地方にあった特殊な
強制収容所に輸送された。それはクヴィトゥカの近くにあった
ニジュナ・ヴダチュナ(第39収容所)である。ここに1951年から
1952年の間抑留された。

着いた日から飲み水は消毒薬(塩化物)を入れたものであった。
というのは、看護婦によると私たちがここに到着する前に、
日本人捕虜が抑留されていて、彼らは皆、赤痢とチフスで死亡した
とのことであった。


ある日作業大隊としてスコップを手にして墓を整理するため森に
連行された。森に入った時に目前に現れたのは大きな墓地であった。
墓には墓標があって、いくつかの墓標には日本語で何かが書かれて
あった。私たちが分かったのは、日本人は亡くなった同僚を日本式に
埋葬し、印を殘しているのだと言うことだった。

いくつかの墓には何十人もの死体が入っていた。墓の整理を始める
ようにとの命令が下り、私たちは作業をし始めた。死体にはあまり土を
かぶせることをしてなかった。私たちが土にスコップを軽く入れるだけで
すぐに死体が現れるような状態であった。

死体の様子はこれもまだ髪の毛があり、ボロボロの衣服や靴を
身に付けたままであった。私たちの仕事はこれらの死体を一旦掘り
起こして、さらに深い穴を掘り下げ、そこへ再び死体を埋め直し、
深く土をかぶせる作業であった。

話によるとこの墓地には2500人の捕虜が埋められていて、
隣の墓地にはさらに多くの人が埋められている
ということであった。
この作業は一週間かかった

抑留者数・死亡者数に関する情報5
V.A.アルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳
『プリンス近衛殺人事件』(新潮社 2000年12月発行)
注:
本書は事実を報じたノンフィクションである。小説ではない。著者、アルハンゲリスキー氏は
作家、ジャーナリスト、ロシア国会専門員で、イズベスチヤ別冊週刊ニェジェーリア誌編集長、
イズベスチヤ紙副編集長、ウズベキスタン国会議員、タシケント市長などを歴任した。


第166頁〜第170頁より抜粋
1945年から46年にかけての冬に、異常な寒気がシベリア全体を襲い、
森羅万象を凍結させた。最初の犠牲者が日本人だった。寒冷地用の
衣服・靴もなく、夏用のテントに入っていたのだからひとたまりもなかった。

死者の数は途方もない数に上がった。
ベリヤは鉄の忍耐力を持つ大臣といわれたが、その彼が、
部下のクルグロフから報告を受けると虚脱状態になった。
期待していた労働力の激減にうろたえたのだった。

自室にこもると、ベリヤはその報告書を自筆で書き換えた。
本物のタイプされた報告書を焼却処分すると、
何食わぬ顔でクレムリンに向かった。・・・・

・・・・スターリンはまたもや書類に目を通した。 3回目だ。
クレムリンの主はしばらく黙り、何か物思いに沈んだ。
と、急に訊いた。
「ヒロシマでは何人死んだ?」
「いろいろな数字がありますが、18万人くらいでしょうか」
「ここには」スターリンは書類に視線を落とした。
「ヒロシマの二つ分より多いとある。
つまり、同志ベリヤ、われわれはシベリアの日本人に
少なくとも原爆を二つ落としたことになる。」


「このことを誰も知ってはならぬ。今も、
そして百年後もだ。
わかったな?」
「わかりました。同志スターリン。」

「クルグロフに伝えろ。
これらの数字を一つでも声に出して言うような者がいたら、
その場で人民の敵として銃殺せよ、
と」

「それにもう一つ。もし内務省から情報が漏れたら、やつらを
北極海の無人島に島流しにして、白熊の餌食にさせる、とな。
それに遠い親戚まで、一人残らず処刑人マイラノフスキーの
手にゆだねる。」

注:
「われわれはシベリアの日本人に少なくとも原爆を二つ落としたことになる」
ということは36万人が死亡したということになる。

1945年8月9日、日ソ戦争(ソ連の対日参戦)勃発当時、満州、北朝鮮、
南樺太、千島列島に駐留していた日本軍軍人・軍属は915,733人である。
この地域に居住していた日本人民間人は2,232,752人である。
合わせて3,148,485人がソ連支配地域にいたことになる。
この地域からは軍人及び民間人が合計2,358,203人引き揚げてきた。

差し引き約79万人死亡、中国支配地等へ移動、及び消息不明ということになる

筆者はこの中、軍人・民間人合わせて50万人以上が日ソ戦争
(ソ連の対日参戦)による死亡者であると推定している。

厚生省の公式発表による民間人の死亡者は254,400人である。

筆者は軍人・軍属の死亡者は、戦闘中の戦死者5万人以上、
シベリア等へ徒歩及び貨車で拉致移送された途上での死亡者4万人以上、
奴隷労働による死亡者16万人以上、
合計で25万人以上と推定している。

筆者の想像では、アルハンゲリスキー氏は
日本軍軍人・軍属 約91万人から、
ソ連がいう戦闘中の戦死者 8万人を差し引き、
さらにそれから引揚者数  47万人を差し引いた残りの
36万人

「原爆を二つ落としたことになる」と表現されたのではないかと思う。

1950年(昭和25年)10月1日の国勢調査時に行われた
徹底した未帰還者調査において、
日本政府・外務省(調査結果は外務省に報告された)
未引揚者は34万585人
その中、
死亡者数は23万4151人
消息不明者は2万8797人
であると公表している。
7万7637人についての説明はない。

しかし、軍人軍属と民間人別、
都道府県別、
推定死亡地別などの
内訳資料を公表していない。

消息不明者数は10万6434人と正確に把握しているが、今まで
日本政府は消息不明者についてはひと言も説明していない。

厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会 監修
『援護50年史』
((株)ぎょうせい 平成9年3月発行)第86頁

参考情報:
昭和32年(1957年)2月12日開催の第026回国会の
海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会第2号
において
シベリア抑留から帰還された津守佑弘氏は、大要、次のように証言している。

これらの方々がいかにして亡くなっていかれたかという点について、
具体的な状況を聞いていただきたいと思います。

現在行方不明になっている方々というものは、私の想像によれば、おそらく大部分、
入ソした年、昭和20年から21年の冬にかけて亡くなったと思います。

なぜそういうように私が想像するかと申しますと、私が現地でその状況を見聞き
したことについて申し上げますと、入ソした年においては、敗戦直後でございますから、
いろいろな部隊の方々が一緒になって、もう、こんとんとした状況下において、
だれがだれかわからないというような状況下で人員を編成して入ソした。
上官が、部下の方々の名前すらも知ることができずして入ソいたしました。

入ソした場所は、北は北氷洋からウラル山中はもちろんのこと、
森林伐採のためのバム鉄道沿線がありました。

まず、そのとき防寒被服類はきわめてすくなかった。
持っていた食糧も僅少、かつ、きわめて悪質なものでありました。

防寒被服類は、冬期には、生命を保持する第一条件でありますが、
いわゆるシューバーとか、防寒外套とか、防寒靴とか、防寒帽を
持っていったものは、それを使用いたしましたけれども、
現地において、ソ連軍からは支給されませんでした。

ソ連軍の防寒被服類不支給で多数、死亡してます。


次は住居の問題であります。山間僻地におきましては、
もうみんな山間僻地でございますが、
住居の寝台といえば丸太の寝台です。丸太をずっと並べて、
その上に、冬、寒中雪の中に残っておったところの枯れ草をみずからちぎってきて、
その上に敷いて、そうして寝ておったという状況下でありまして、

暖をとるといえば、その中においてペーチカをたいて暖をとっておりました。
そういうような状況下で、ほんとうに自分の体を休めるということはできませんでした。

灯りはたいまつでございました。朝起きると、もう鼻の中から顔じゅうが、
ほんとうに真っ黒になって、タヌキかムジナのような姿でもって生活をしておりました。

糧秣は、丸コーリャンでありまして、非常に悪質でありました。
非常にタンニンが多いがため、それを食べるというと便秘する。
便所に行っても便が出ない。それで衛生兵がピンセットでもって、かき出してくる
というような状況下で、腸疾患の患者が非常に続出いたしました。

それに加うるに、衛生施設の不足から、シラミが非常に発生いたしました。
例外なしに、全員、シラミに悩まされました。

そのような状況において、何が起こったかというと、まず栄養失調
加うるに発しんチフス、それから赤痢、これらの伝染病の蔓延によって、
そのときに亡くなった人たちの大部分はこれらが原因です。

それで1000人のうち700人が死亡して、あとの150人が入院
している集団は、たくさんあったことを耳にし、また見もいたしました。

こういうふうにしてなくなっていった方々というものは、
当然その隣におったところの人の名前も知らない。

またそういうような状況下でありますから、話をしておればすぐ倒れる。

朝起きてみればもう冷たくなっておるという方々でありますから、
名前もわからないし、どこの出身者であるかもももろんわかりません。

それで、そういう方々の親とか郷里というものについては
報告する資料すらも全然なかったわけであります。

それがために、現在でも、行方不明者というものは非常に多い。
行方不明者はここに原因を持っているといらふうに私は感じました。

それで、そういうなくなった方々は、しからばいかにして埋葬し、
いかにしてあとを供養いたしましたかと申しますと、
棺おけを作ってやるところの材料の板はございません。

ソ連ではまきも不足をしており、ソ連国民ですら暖をとるまきもなかった
という状況でありました。従って、板で棺を作って弔いとむらいをすることは、
日本人の捕虜の身分においては、とうていそういうぜいたくはできなかった。

亡くなった方々は、着物は、ジュバンから全部脱がされて、まっぱだかにされる。
まっぱだかの胸に、インクをもって、数字を書き込むのであります。

死体が倉庫にあふれたため、クィビシェフの病院ではこれを野積みにしていた。
その姿というものは、ろう細工のごとくにすき通った人間の死んだ姿でございました。

そういうふうにして集団的に亡くなられる。それを葬る場合においても、
もう土地はすっかり凍っております。ですから、一人々々の穴を掘って埋める
ということはできない。それで、ソ連側は、日本人を使って、山に行って、
ハッパをかけて穴を掘って、それに集団で埋葬した。

まっぱだかのまま、町の中を、トラックに凍った死体を積んで山に持っていって、
ハッパの穴に集団で埋葬したということを私は一緒におった人から聞きました。






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「戦友よ許してくれ」

2006年3月6日午前の参議院予算委員会の審議において
民主党の谷博之参議院議員は【シベリア抑留問題】に関連して、
シベリアでの奴隷労働の苦難に耐えられた井上馨氏が描かれた
【戦友よゆるしてくれ】という3枚の絵を小泉首相に示された。

ソ連は、遺体の衣服をすべて剥ぎ取って丸裸にした上で、
埋葬することも、火葬することもなく、谷底に遺棄したのである。

奴隷として酷使され、
遺体を遺棄され、
禿鷹の餌食とされ、

人間としての尊厳を、
とことんまで踏みにじられた。


戦友たちの悲惨な【野辺送り】を耐えなければならなかった
井上氏たちの悲痛な呻きが伝わってくる。

ご遺族の方々やシベリア奴隷労働被害者の方々の心情は察するにあまりある。
心から哀悼の意を表したい。

13.政府・自民党の合意は誤り−以後、
  情報収集が行われなくなった−


独立行政法人平和祈念事業特別基金2005年3月に発行した
『戦後強制抑留史 第五巻』の第359頁〜第366頁に、
当時の自民党と日本政府の最高指導者たちが、
ソ連抑留者(=シベリア抑留者=シベリア奴隷労働被害者)問題の
処理について合意した三つの文書が記載されている。

最大の問題点は、この合意に基づいて、以後、日本政府は
シベリア抑留問題について【情報収集は行わないとの姿勢】を貫き、
積極的な資料調査、実態調査、現地調査をを一切行っていないことである。
他人事のように「ロシア政府に資料請求をします」と言っているだけである。

第359頁〜第360頁
戦後処理問題に関する政府・党合意
1.いわゆる戦後処理問題については、先の戦後処理問題懇談会報告の
  趣旨に沿って、特別基金を創設し、関係者の苦労を慰藉する等の事業を
  行うことで全て終結させるものとする。
2.(1)略
  (2)慰労金については、恩給受給者を除く生存者に限ることとし、
     支給額は1人につき10万円とする。(以下略)
昭和61年(1986年)12月29日

第364頁〜第365頁
了解事項
1.63年度内に、認可法人による基金を設置する。
  規模は200億円とし5年を目途とする。初年度10億円。
2.基金の目的は、戦後処理懇談報告の趣旨に沿って、
  関係者の労苦を慰藉する等の事業を行うものとする。
(以下略)
昭和62年(1987年)12月27日

第366頁
了解事項
1.昭和61年12月29日及び昭和62年12月27日付の合意に
  基づく戦後強制抑留者事業に関し・・・(1)(2)(3)略
2.以上をもって、戦後強制抑留者(=シベリア抑留者=シベリア
  奴隷労働被害者)
に対する措置は、全て確定・終了したものとする。
平成元年(1989年)1月23日

第1回の合意はソ連が崩壊した1991年の5年前の1986年である。
第2回の合意書はソ連が崩壊した1991年の4年前の1987年である。
第3回の合意書はソ連が崩壊した1991年の2年前の1989年である。

極めて明白なことであるが、この合意は国会で決議されたものでも、
法律でもない。あくまでも、
政権与党である自民党と日本政府との間の合意である。

この合意の最大の問題点は、
日本政府のシベリア抑留者に対する【徴兵責任】
徴兵の結果として必然的に起きたシベリア抑留者の【奴隷労働被害】
【日本政府の責任】を徹底的に無視していることである。

さらに重要な問題は、この合意に基づいて、以後、自民党政府は
シベリア抑留問題については【情報収集は行わないとの姿勢】を貫き、
積極的な資料調査、実態調査、現地調査をを一切行っていないことである。

1991年にソ連が崩壊して、資料調査、実態調査、現地調査が可能になった
にもかかわらず、この合意に基づいて、自民党政府は何らの調査も行っていない。

この合意に基づいて、2007年11月時点では、自民党・日本政府は
シベリア抑留に関する数多い不明確な数字を調査する意思はない。

基本となるべき約2000箇所といわれる日本人捕虜収容所と
病院と墓地等全部の所在地の現場確認すら行っていない。

さらに前記の厚生省引揚援護庁作成資料にある
死亡者が比較的多かった収容所及び病院一覧表』の死亡者数
6万2638人とは食い違う、5万5000人が死亡者数であるとの
答弁を国会で、臆面もなく、恥じることなく、繰り返している。
筆者は、「死亡者が比較的多かった」という表現は、
これが全部ではない」という意味と理解してるが。

結果から判断すれば、この合意は、
旧日本帝国軍部の最高指導者たちの意思決定と同様、
情報の重要性を認識せず、
シベリア抑留者(=シベリア奴隷労働被害者)が受けた
奴隷労働被害を全く無視した、【無知で愚かな合意】
であった。

筆者が自民党はシベリア奴隷労働被害を【歴史の闇】に葬り去った
非難するゆえんである。

2005年11月22日外務省ホームページに発表された
『プーチン大統領訪日の際の日露首脳会談(結果概要)』によれば、
シベリア抑留問題について、「小泉首相は、高齢化が進むシベリア
抑留者の方々の心情に配慮し、記録開示、遺留品の返還等について、
ロシア側が今後一層協力を強化することを期待する旨強く要請した。
これに対して、プーチン大統領は、仮に支障があるとすれば官僚主義
によって対応が遅いということであり、支障の克服は可能である。
協力したい旨回答された」と報じられている。

2006年1月23日、ロシュコフ駐日ロシア大使は、日本の国会議員
及びシベリア抑留者団体の代表者たちと面会した際、予定時間を
倍以上延ばして、抑留者団体の代表者たちの話を聞き
、この問題に
ついて「人道的な問題として敬意を込めて対応する」と述べている。

それにも関わらず、肝心要の自民党政府がこの合意に縛られて
積極的に調査しようとしないのである。

シベリア抑留問題に関する、この自民党政府の情報徹底無視
様々な分野において大きな悪影響を広げてきた。
さらに、この悪影響は現在も拡大しつつある。

自民党政府は【シベリア抑留】についての公式な報告書を作成しなかった。
独立行政法人平和祈念事業特別基金2005年3月
『戦後強制抑留史』いう詳細な記録文書を発行しているが、
独立行政法人は、あくまでも政府とは別の組織体である。

政府の公式な報告書が無く、学習指導要領にも記載指示が無いから、
各社の中学・高校の日本の歴史教科書には、
【シベリアにおける日本人捕虜の悲惨な奴隷労働】という歴史事実は
ほとんど記載されていない。

主な日本史事典・辞典に【日ソ戦争】という項目はない。
【シベリア抑留】という項目のない日本史事典・辞典すらある。

【残留孤児=満州に遺棄された悲惨な日本人開拓団母子家庭の
乳幼児たち】
についての記述は散見されるだけである。

昭和史を主とした日本の近現代歴史書においても
【スターリンの戦争犯罪・シベリア奴隷労働被害】についての記述は見当たらない。

歴史書が氾濫している。ウルトラ右翼の出版社や新聞社から
ウルトラ右翼著者による多数の太平洋戦争礼賛書まで出版されているのに、
日本人著者による『日ソ戦争』というタイトルの本は一冊もない。

大部分の日本国民は、スターリンのソ連が犯した
【人道に反する罪】シベリアにおける日本人捕虜の奴隷労働
満州における日本人母子老人家庭避難民に対するソ連軍の
強姦・暴行・虐殺・強奪・奴隷狩り
の事実を知らないと思う。
特に若い日本国民のほとんど全部はこの事実を知らないと思う。

ソ連時代の歴史教科書は、【日ソ戦争】について詳しく述べている。
しかしながら、【日本人捕虜のシベリア等における奴隷労働】については
ただの一言もふれていない。
1991年のソ連崩壊前においては、ソ連の歴史学者たちは、
この歴史事実については一言もふれていない。

極悪非道なスターリンのソ連が、【戦犯裁判】と称する
【エセ裁判】
で実に多数の日本人を奴隷として酷使し、死に追いやった
という【人道に反する罪】については、現在のロシア政府と、
ロシアの歴史学者たちは、ただの一言も口にしていない。

1991年のソ連崩壊前においては、日本の歴史学者たちも
この歴史事実を無視していた。特に、戦後、進歩的と称した
エセ歴史学者たちは、完全無視に徹した。

日本の歴史学者たちは、ロシアの歴史学者たちと、
度々、合同研究会を行っていながら、
【シベリアにおける日本人捕虜の悲惨な奴隷労働】と
【日本人女性に対するソ連軍兵士の強姦犯罪】と
【ソ連のエセ裁判】について、問題提起をしたことはない。

この結果、ロシア国民に「1945年8月9日〜9月2日の、
わずか25日間の日ソ戦争は、「国際社会の平和を回復した
ソ連の正義のための戦いとの歴史観が定着してしまった。

ロシア国民は、ソ連軍兵士たちが、ほしいままに日本女性を強姦し、
抵抗するものは容赦なく殺害したという【人道に反する罪】について
一切教えられていない。

ロシア国民は、この25日間の戦争で、ソ連が南サハリン、千島列島、
歯舞諸島、色丹島を日本から奪い取り、満州・北朝鮮からあらゆる
財貨を強奪し、70万人以上の民間人を含む日本捕虜を奴隷として
シベリアへ拉致し、奴隷労働によって莫大な労働収奪を行ったという
ソ連の強盗行為は一切教えられていない。

日本政府がロシア国民に、これらの

ソ連の捕虜虐待、女性強姦、エセ裁判、強盗行為

一切教えようとしないからである。


ソ連政府や、ロシア政府が、自分たちが行った
捕虜虐待、女性強姦、エセ裁判、強盗行為を国民に教えるはずがない。

その結果、ロシア国民は、極悪非道なスターリンのソ連の憎むべき犯罪である
捕虜虐待、女性強姦、エセ裁判、強盗行為について全く知らず、
北方領土完全支配について
なんら罪悪感をもっていない。

ロシア警備艇がノサップ岬沖3700メートルの海域で日本の漁船員を射殺し、
漁船を拿捕し売り払っても、「領海を侵すものをぶっ殺して何が悪い」
という態度である。

この事件後も、自民党政府は、サハリン州政府が「イラナイ」という
人道支援を続けた。「日本は賠償として人道支援と称する無償供与を
続けている。タダで貰えるものを断ることはない」というのが島民の態度である。
しかし、ついにロシア政府までが、良心の咎めか、「イラナイ」との意思表示をした。

この最も大きな原因は上記の合意に基づいて、ソ連崩壊後も、
自民党政府が機を逸せずにシベリア抑留の各種調査を行わなかったことにある。
自民党政府が徹底的に【情報収集は行わないとの姿勢】を貫いたことにある。
すでに分かっている事実についても徹底的な隠ぺいを貫いたことにある。

14.シベリア抑留問題に関する小泉首相の答弁書

2006年6月9日、第164回国会において、谷博之参議院議員は
『シベリア抑留の真相究明に関する質問主意書:第164回国会・
質問第70号』
を提出され、17項目について具体的に質問された。
同質問主意書に対して、6月20日、小泉首相名の政府答弁書が
扇参議院議長に送付された。

両書の中の、質問8〜17の質問全文答弁全文は以下の通りである。

質問8
本協定
(捕虜収容所に収容されていた者に関する日本国政府とソヴィエト社会
主義共和国連邦政府との間の協定)
によってもたらされた資料・情報に
よって、【シベリア抑留】が行われた理由・背景・実施のメカニズム
など明らかになった実態を示されたい。

答弁8
お尋ねの意味が必ずしも明らかではないが、ロシア連邦政府は、
協定に基づき、日本人死亡者の名簿及び埋葬地に関する資料を
日本国政府に提出している。

質問9
日本人捕虜及び抑留者の強制労働が、戦後旧ソ連邦社会の
建設に寄与・貢献した総額はどの程度と推定しているか。
円換算にて示されたい。

答弁9
外務省においては、御指摘の「戦後旧ソ連邦社会の建設に
寄与・貢献した総額」が何を意味するか必ずしも明らかでは
ないので、お答えすることは困難である。

質問10
すでに多数の日本人捕虜・抑留者の個人情報が届き、
ロシア側も労働証明書を民間団体の求めに応じて発行して
いる。政府は捕虜・抑留者全員の労働証明書の発行を
ロシア政府に求めるべきではないか。
求めないのであればその理由は何か。

答弁10
外務省においては、ご指摘の「労働証明書」については、
ロシア連邦政府が抑留者個人の要請に基づいて発給したもの
と承知している。

志村注:ロシア政府が日本人奴隷労働被害者に発行した
「労働証明書」は、現在のロシア政府が、極悪非道なスターリンの
ソ連政府による日本人捕虜の奴隷労働の存在を公式に認めた
ということである。この極めて重大なロシア政府の意思表示に
対して日本政府が繰り返す公式見解が上記政府答弁である。


質問11
昨年届いた北朝鮮逆送者名簿に関連して、北朝鮮逆送者名簿
2万7000人のうち、現時点で何人の身元が判明し、そのうち帰国
できずに死亡した者が何名で、生きて帰国された者が何名いたことが
わかったか。また、照合できた事実について、御家族には伝えたのか。
答弁11
平成17年にロシア国立軍事古文書館から提供された旧ソ連邦の地域に
抑留された邦人(以下「旧ソ連邦抑留者」という。)であって北朝鮮の地域
に移送されたものの名簿(以下「移送者名簿」という。)に記載された者の
うち、身元が特定された者の数は、現在のところ17名であり、その内訳は、
本邦に帰還せず死亡した者が7名、本邦に帰還した者が10名である。

また、本邦に帰還せず死亡した者の遺族等への通知は、現在のところ
行っていないが、当該遺族等が判明した際には行う予定である。

質問12
これまで私が把握するところによれぱ、北朝鮮以外に旧満州にも
病弱者が逆送されている。いまだに行方が不明である者の名簿や
情報に関して、早急に中国や北朝鮮に協力を申し入れるべきでは
ないか。

答弁12
いわゆるシベリア抑留については、これまで、ロシア連邦政府から関連の
資料が提供されてきており、引き続き、同政府に関連の資料の提供を求め、
いわゆるシベリア抑留の実態の把握や死亡したいわゆるシベリア抑留者の
身元の特定等の作業の進展に努めていく考えであるが、お尋ねについては、
移送者名簿に記載された者の身元の特定の作業の進ちょく状況等を見つつ、
今後、対応を検討していく考えである。

質問13
平和祈念事業特別基金によるシベリア抑留者への慰労金支給事業に
おいて、いわゆる逆送者、つまりシベリアから逆送後、北朝鮮や旧満州の
港から日本へ帰還した方から慰労金支給申請がこれまで561件あり、
そのうちシベリアに送られたという証明ができて慰労金を支給した件が
70件あったと承知している。

すなわち、総務省は今年4月、私に対して、残り491件については、
旧ソ連邦に送られたという証明ができずに、現在でも却下せずに控えを
保管し、申請原本は本人に返していると回答している。

厚生労働省が保有する北朝鮮逆送者名簿に照会をかけ、
本人と特定できれば、シベリア抑留が証明できるので、慰労金は支給
されるべきと考えるが、491件の照会結果はどのようなものだったか。

答弁13
いわゆるシベリア抑留者に対する慰労金の支給に関し、お尋ねの
旧ソ連邦又はモンゴル人民共和国の地域において強制抑留された事実に
ついて判断が困難な事案については、移送者名簿も判断のための資料に
なり得ると考えており、現在どのように活用できるのかを検討しているところ
である。

質問14
『引揚援護の記録 全三巻』(厚生省編・2000年発行)の第一巻
『引揚援護の記録』資料46頁から60頁に、1950年2月1日付の
シーボルト対日理事会議長特別報告が掲載されている。

「(捕虜の)四分の一は死亡す」という見出しで、
「ソ連からの帰還者による無数の口頭及び書面による質問に
基礎を置いた調査では、
20万9300人の俘虜の内、5万1332人が栄養失調と伝染病で
死亡している」とある。

すなわち、1949年5月26日時点で、
日本人捕虜総数70万人の約3割にあたる約21万人について、
GHQ(連合軍総司令部)が確認した死亡者は5万1332人とある。
この5万1332人の数字の算定方法及び根拠を示されたい。
答弁14
厚生労働省においては、御指摘の文書は「対日理事会」において
作成されたものであるため、お尋ねの死亡者数の算定方法及び
根拠については、承知していない。


志村注:この報告書は当時の厚生省と外務省が全面的に協力して
GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部が作成したものである。
対日理事会の事務局は議事録の作成を行っていただけである。
上記の政府答弁は
【真っ赤な偽り】であり、この悲惨な歴史事実を
日本の歴史教科書には一切載せず、完全に隠ぺいするため
永年にわたって日本政府が行ってきた真摯な、かつ周到な
努力の一環である
【意図的な無視】である。

質問15
『引揚援護の記録 全三巻』の第三巻『続々・引揚援護の記録』
174四頁から175頁の表には、
昭和30年代前半期(1955年−1959年)までに判明した
サハリン州を含めた旧ソ連邦内の各州別の死亡人員は6万2636人と
記載されている。この数字の算定方法及び根拠を示されたい。
答弁15
厚生労働省においては、お尋ねの死亡人員数の具体的な算定方法
及び根拠については、調査した限りではこれらを把握することができる
資料がなく、お答えすることは困難である。

質問16
昨年10月22日、NHK教育テレビから放送された
『北朝鮮に送られたシベリア抑留者たち』の中で、
元ハバロフスク軍事博物館館長ヴィクトル・カルポフ氏は、
「北朝鮮には3万1584人の日本人捕虜がいた。
日本に帰還できたのは2万2403人だから、
差引き約9000人の日本人捕虜たちが北朝鮮で亡くなったかもしれない」
と述べている。

また、
『「シベリア抑留」ソ連機密資料が語る全容 スターリンの捕慮たち』
(ヴィクトル・カルポフ著・長勢了治訳、北海道新聞社、2001年3月発行)の
21頁から24頁及び82頁から83頁で、カルポフ氏は
「赤軍後方部隊長参謀の1945年12月29日時点の資料によれば、
極東の部隊には、65万194人の日本将兵がいた」
「引用した資料を比較対照すると、ソヴィエトの収容所に捕虜でいたとき、
9万2053人が死亡した、とすることができる」と述べ、
また「(旧ソ連邦の)収容所長が多くの場合、捕虜の給養の悪さの責任を
負わされるのを恐れて、収容所内の死亡率のレベルを隠したり、
登録データを歪めたりしていたことはよく知られている」
とも述べている。

また、
『シベリアの日本人捕虜たち−ロシア側から見た「ラーゲリ」の虚と実』
(セルゲイ.I.クズネツォフ著・岡田安彦訳、集英杜、1999年7月発行)の
128頁から129頁に、
作業内容別の日本人捕虜死亡者数が記載されているが、
それによると死亡者数は6万1538人とある。

日本政府は、これらロシア側の民間の専門家に接触して、
意見や情報を求めたことがあるか。

また、私がここで記したこれらの指摘・見解に対して、
政府の見解を示されたい。

答弁16
御指摘のヴィクトル・カルポフ氏及びセルゲイ・I・クズネツォフ氏に、
旧ソ連邦の地域において抑留中に死亡した邦人
(以下「旧ソ連邦抑留死亡者」という)の数等についての
意見及び情報は求めていない。

政府としては、旧ソ連邦抑留死亡者数については、
そのうち約4万人を旧ソ連邦名簿により把握しているが、
残る約1万3000人を把握していないため、
協定第一条1に培づき、ロシア連邦政府に対し、
日本人死亡者の名簿の提出を求めてきている。

また、政府としては、現在のところ、
旧ソ連邦抑留者の数については約56万人、
旧ソ連邦抑留死亡者の数については約5万3000人と推計している。

旧ソ連邦抑留者のうち北朝鮮の地域において
死亡した者の数についでは、承知していない。

質問17
独立行政法人平和祈念事業特別基金が昨年3月に発行した
『戦後強制抑留史第三巻』91頁から95頁、第四編第三章第四節
「シベリアに死体の堆積(やま)を築いた抑留者たち
−ソ連当局の死亡者数の操作」の中には、
「シベリア抑留の犠牲者の正確な数はわかっていない」
「死亡者数や死亡率には操作が行われる場合があったことを
ソ連側も正式に認めているということである」
「ソ連本国への強制連行以降における死亡者数は、
少なく見積もつても十数万人にのぼったと推定される」と述べられている。
これまで長年にわたって収集してきた関係資料に基づき、
左記についての推定数を示されたい。

−1.旧ソ連邦からの引揚者のうち軍人・民間人の内訳の推定人数

答弁17−1
「援護50年史(厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会監修)の
付表「地域別・身分別(軍人軍属と邦人)引揚者数」によれぱ、「旧ソ連からの
引揚者の数は、平成8年1月1日現在で、「軍人・軍属」が45万3787人、
「邦人」が1万9158人である。

質問17−2
1945年8月9日以降の日ソの直接の交戦で死亡した日本軍軍人・軍属の
推定人数

質問17−3
旧ソ連邦側収容所に到着するまでの移動中に亡くなった日本軍人・軍属・
民問人の推定人数

質問17−4
1945年8月9日以降に旧満州・朝鮮半島・旧樺太・千島の各地域において、
軍から離脱するなどして行方不明になっている日本軍人・軍属.民間人の
地域ごとの推定人数
答弁17−2〜4
お尋ねの人数については、把握しておらず、お答えすることは困難である。

質問17−5
元軍人・軍属の引揚者の中で、在職10年以下で軍人普通恩給を受給して
いない者の推定人数
答弁17−5
お尋ねの人数については、把握しておらず、お答えすることは困難である。
なお、平成元年10月現在で認可法人平和祈念事業特別基金が行った
調査によれぱ、旧軍人軍属であって年金たる恩給又は旧軍人軍属としての
在職に関連する年金たる給付を受ける権利を有しない者の推定生存者数は、
約253万人である。

質問17−6
旧満州及び北朝鮮に、それぞれシベリアから逆送された推定人数
答弁17−6
お尋ねの「旧満州及び北朝鮮に、それぞれシベリアから逆送された
推定人数」については、旧満州及び北朝鮮別には把握していないが、
合計数は約4万7000人と推計している。
質問答弁は以上の通り。

小泉首相のこの政府答弁書は、旧カネボウの粉飾決算報告と同様の
意図的な粉飾答弁書である。企業決算にたとえるならば、
取引先との残高照合も、実地棚卸も、不動産・金融商品の時価評価も、
設備装置器具の陳腐化調査も、全く行わずに作成し、
株主やステークホルダーを騙した粉飾決算報告書と同じである。

15.ロシア、対日戦勝記念日を制定

資料出所:産経新聞10年7月26日第9面

再掲 重要な歴史事実、ソ連のポツダム宣言違反

ソ連は対日宣戦布告文において「ポツダム宣言に参加して」と明確にのべている。
そのポツダム宣言に違反して、ソ連は、満州、北朝鮮、樺太千島から日本人(軍人・民間人)を
ソ連領内に拉致移送した。自ら志願してソ連領に入国した日本人はただの一人もいない。
全員、ソ連にムリヤリ連れて行かれたのである。疑う余地のまったくない重要な歴史事実である。

16.「対日戦勝記念日」制定にロシア国民の反応は? (抜粋)
2010年4月8日
コンスタンチン・サルキソフ山梨学院大学名誉教授

この抜粋文はJapan Business Pressの許諾をいただいて転載しています。
出典:http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3179 コピー及び転載は禁止します。

ロシアはソ連時代には「対日戦勝記念日」があった。ソ連崩壊で対日戦勝記念日はなくなった。
今年3月、ロシア「独立新聞」は「近いうちにロシア議会はその記念日を復活させる」と報道した。

日本では「ロシア現政権による愛国心高揚策の一環」だという捉え方もあったが、
一概にそうとは言えない。対日戦勝記念日の復活は、今までも、ロシアでは10年以上も
取りざたされてきた。しかし、いつも政府は押さえてきた。

今回の復活議案提出には、大統領府のバックアップがある。プーチン・メドベージェフ政権の
態度が変化した理由は、鳩山政権の4島の「不法占領決議」への対応だと判断できる。

しかし、ロシア世論の反応は、政府とは対照的に、冷ややかだ。独立新聞は、
対日戦争は「ドイツとの戦争とは基本的に違っていた」と分析している。
ロシア政府の公式見解とはかなり異なる見方である。

日ソ戦争は、日本ではなく、ソ連の方から正当な理由なく攻撃を仕掛けた戦争である。
ソ連は1945年8月8日に日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、8月9日に
満州に侵攻し日本軍を攻撃した。

日本の敗戦によってソ連は南サハリンと千島列島を取り戻した。
しかし、その領土のすべては、必ずしも日露戦争で失ったものではない。

日ソ戦争で戦死したソ連兵は約8200人。ドイツとの戦争における戦死者の数は
数百万人単位であり、それと比べると桁違いに少ない。

対日戦争はよく計画され、実行されたものであった。しかし、国民の感情に火を
つけるほどの「悲劇と栄光の出来事」とは言えない。そのため、国民の中に、
これを記念しようという声は沸き起こっていない。

真実を尊重して曇りのない目で歴史を見るのは、どこの国においても極めて難しい
作業である。長年にわたって、国家による公式歴史観が支配していた国では特に難しい。

現在のロシアでは、ソ連時代から続く公式歴史観と、リベラルな歴史観が対立して存在
している。対日戦争の記念日復活を巡る意見に食い違いが見られるのはそのためである。

ネット上では、対日戦争を客観的に「良心の立場」から見ようという動きが現れてきている。
注目すべきは、リベラルな筋だけではなく、今まで愛国主義的だった人たちの中にも
対日戦勝記念日復活に反対する意見が現れているということだ。

その1つに、「正教・君主制・民族心」のスローガンで活動している民族派の「ロシア・ライン」
というサイトがある。

3月9日、同サイト上で、ロシア正教イルクーツク州教区の宣教部長のプシカリョーフ
主席司祭が自らの見解を発表した。「極めてまっとうな道義と正義の立場から、
対日戦争記念日の復活に反対する」と主席司祭は訴えている。

「疑念を抱かれる歴史については黙っているべき」プシカリョーフ主席司祭は、こう断言する。
我々がその戦争に勝利したことは間違いないが、日本を攻撃したのは我々である。
もしも我々が日本から攻撃されていたら、領土と賠償を要求する権利があっただろう。
しかし、事実はそうではない。逆に日本は、あの戦争で我々が不法占領した領土を
1875年条約(サハリン千島交換条約)の範囲で要求する権利がある。」

一方でプシカリョーフ主席司祭は、人道に反する犯罪を伴った日本の朝鮮併合や、
満州事変から始まった中国に対する侵略を取り上げている。また、ノモンハン事件、
真珠湾攻撃やシンガポール陥落等々の侵略戦争のいきさつにも触れる。

そして、プシカリョーフ主席司祭は、南北朝鮮や中国、モンゴルと米国と英国には、
対日戦争の勝利を祝う権利があるという。しかし、ロシアにはその権利はないと主張する。

日露戦争での敗戦の報復として、ソ連が「帝国主義的な略奪者」としての行動に出たのが
対日戦争であったと
論じている。意見書の最後には、「我々が公明正大に戦って勝った
ドイツとの偉大な戦争は、勝利を記念する必要性が十分にある。しかし、疑念を抱かれる
歴史については、黙っていた方がいいのではないか」とまとめている。

プシカリョーフ主席司祭は、生粋のロシア人である。1967年生まれで、7人の子供がいる。
80年代にソ連軍に徴兵され、90年代にイルクーツク国立大学を卒業してから聖職受任を
行った。シベリアではかなり有名なオピニオンリーダーの1人である。
プシカリョーフ主席司祭が意見書を発表すると、ネット上で活発な議論が沸き起こった。
プシカリョーフ主席司祭に賛成する人たちは「対日戦争のことは、あまりよく知らない。」
「決して喜ぶべき勝利ではなかった」と言う。

プシカリョーフ主席司祭がソ連を「帝国主義的な略奪者」と表現したことにいらだっている人も
少なからずいたが、記念日を復活する必要がないとの意見は圧倒的に多い。

17.ソ連地区残留同胞調査に関する
    参議院特別委員会集中審議議事録
抜粋
    昭和24年12月23日

第007回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第5号
昭和24年12月23日(金曜日)午前10時42分開会
本日の会議に付した事件
○ソ連地区残留同胞調査に関する件(右の件に関し証人の証言あり)
○委員長(岡元義人君)
 只今から委員会を開会いたします。
御承知のごとく国会が国民と共に大きな期待を以て重大な関心を寄せておりました
去る21日の対日理事会におきましては、不幸にしてシーボルト議長によつて明示せられました
残留者の今後の引揚継続及び死亡者の状態をも未だ明らかにされなかつたのであります。
 今や留守家族は勿論のこと、国民ひとしくその杞憂は高まり重要な段階に突入しており、
この上とも重ねて連合軍の責任においてこの問題の解決を強く要望するものでありますが、
本委員会は、本日と明日の両日に亘つて、国会独自の立場に立つて、樺太地区より
シベリア地区に移送されたる者、或いはシベリアの各地区收容所の本年最終引揚者等
20名を証人として出席を求め、
@一般收容所の状況と残留数
A抑留後における領内外への移動状況
B死亡者及びその処理状況
C各收容所における処刑者及びその処理状況
D終戰後樺太地区で処刑された者の状況
E満系釈放者の状況
F取調等のために残留させられた者の状況
G其他の事項
等につき愼重に調査することにいたした次第であります。
 各証人におかれましては御多忙中又遠路のところ御出席をお願いいたし御迷惑の点もあつた
かと存じますが、今や国民の前に率直に事実を明らかにされなければならん重大な時期にして、
本委員会が国会の権威にかけて愼重な調査をなさんとする意図をお酌みとりの上証言されん
ことを願うものであります。
 これより宣誓を行います。皆さん起立を願います。傍聽席の方も起立を願います。
小倉孝行証人から順次宣誓して頂きます。
〔総員起立、証人は次のように宣誓を行なつた〕
宣誓書 良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 小倉 孝行
        証人 加藤 善雄
        証人 國分萬二郎
        証人 佐藤 三郎
        証人 佐藤 甚市
        証人 丸山 末藏
        証人 高山 秀夫
        証人 水野  等
        証人 山本  昇
○委員長(岡元義人君)
加藤証人にお伺いいたします。先ずウオロシロフ地区におけるところの状態についてお伺いしますが
先ず第1点は、571労働大隊の移動径路と赤軍労働大隊の性格、一般ラーゲリとの差違について
分りますか。
○証人(加藤善雄君)
今委員長殿から自分がウオロシロフ労働大隊及び赤軍労働大隊のいわゆる形態というようなものを
話すように言われましたが、一番問題となつておりまする全シベリヤに入つた日本人の数
大体幾らであろうかというような基本的な問題が、ソヴイエトの発表と連合軍の発表の数とが
余りにも隔ることが物議を釀しておるようでありますから、自分の知つておる範囲においてシベリア、
いわゆるロシアに入つた日本軍は幾らぐらいおつたかというようなことを申上げて、それから
ウオロシロフ労働大隊、いわゆる赤軍労働大隊の点に及びたいと思います。
 私の判断によりますと、日本軍のロシア側に入りました数字は86万7千と記憶しております。
この判断の基礎は、私が1946年の3月ウオロシロフにおいて道路作業中に、私達の警戒兵をして
おりましたソ連軍の歩哨のカリーニンというのが特殊の一冊のパンフレツトを見せて呉れました。
それは1945年12月末の調査だということであります。
 そのとき一緒におりました日本軍側の通訳に翻訳して貰いました。その中には日本軍の捕虜数は
86万7千と発表しております。戦闘時における損耗数はソ連軍が8千、日本軍が8万とその
パンフレツトには書いてあります。もう一つ判断の基礎といたしまして、1946年の6月、日本帰還の
輸送が開始せられる事を自分たちは聞きました。そうして我々の最も大きな関心事でありましたた
めに、帰国問題に関して、当時の收容所長で、現在は沿海州の捕虜収容管理局に勤めております
チンチコーフ大尉に、日本軍の捕虜で大体入ソした人員が幾らおるだろうかという質問をしました
ところ、彼は98万ぐらいおるということを回答しております。これが自分の入手せる人員の状況の
判断の基礎であります。それで入所以来、日本軍が幾らぐらい死んでおるだろうかという基礎の下に
立つて自分は日本新聞社の某と話しましたが、その者の話では、日本軍の捕虜は大体30%ぐらい
死んでおるだろう
ということを話しております。
○委員長(岡元義人君)
その名前は分りますか。
○証人(加藤善雄君)
分ります。日本新聞社の須藤です。1947年の12月であります。場所はウオロシロフの571労働
大隊において聞いております。その30%発言、ソ連側と日本新聞社はその余りに厖大な死亡率に
関して次のような責任回避のようなことを言つております。その一つとしましては、日本軍将校が余り
にもフアツシスト党的な兵に対する横暴と、糧秣の横取り、いわゆる精養軒料理をやつて横取りする
から兵隊に渡る糧秣が少くて兵隊が倒れていったと言っております。これはソ連側で言っております。
私の考えでは、総体的に言って戦いがすでに終わったのだから、その当時における最大唯一の任務
は、如何にして我々日本の兵隊を損耗もなくして無事祖国に帰すかということにあっただろうし、
それを肝に銘じて最大の努力を傾到したと自分は確信を持つてここに答えるものであります。
 それから二つ目といたしましては、日本は総力を挙げて戦争をやったために余りにも兵隊を召集し
過ぎた。それで弱い兵隊もおったために、いわゆる條件と環境の変化による自然淘汰である。
この二点をソ連側と日本新聞社は強調しておりました。
○天田勝正君
さつきの戦闘による損害の方で、日本側がというところをもう一遍……。
○証人(加藤善雄君) 
日本軍の戦闘時における損耗が8万であると発表しております。死亡状況及びロシアに入りました
総人員の自分の考えを申上げました。それから今度はウオロシロフには自分は21年の1月に
行きました。それから30%の死亡率の判断といたしまして、自分はエリンカにおりました当時、
一ケ月半に自分の労働大隊は1,000名のうち栄養失調のために200名死んでおります。
その当時一月頃、満州に患者を護送しましたが、それを除いた数であります。そこからも自分は
状況判断をしておるわけであります。そのような状況判断の基礎に立つて自分は30%ということを
答えました。
 それから今委員長殿から言われましたウオロシロフに行きましたのは、自分は21年の1月であり
ます。571労働大隊に行きましたが、今の労働大隊はその当時700名であります。ウオロシロフ
全般としては、労働大隊が700名とそれから内務省関係が六つと覚えております。その收容所の
番号は自分は分りません。そのときの死亡率は自分は知つておりません。病気になりますと直ぐ
病院に連れて行きましたから、そのウオロシロフ当時における死亡率は自分は分つておりません。
 それから22年の1月にボーエンキという所に行きましたが、そこには前には600名ぐらいの
いわゆる赤軍労働大隊がおつた所でありますが、そこには169の墓標がありましたので、恐らく
169名くらい死んでおるだろうという自分の判断であります。
○委員長(岡元義人君)
加藤証人続けて下さい。
○証人(加藤善雄君)
エリンカにおいて200名死んだときの状況は、相当栄養失調で弱つておつた関係上、墓穴を掘る
気力も体力もなかつたという関係もありますが、殆んどほつぽらかして、次の日に行つたら遺体を
野犬が喰ベておつたというような状況下にあります。
 それからウオロシロフからいわゆるアルチヨムの特別ラーゲルに1年5ケ月おりましたが、
そのときは相当死にましたが、その状況は国分証人が申上げると思います。今年度の最終船で
帰るためにアルチヨムを出発するときは400名くらい残つておりました。
○委員長(岡元義人君)
アルチヨムを出発された時期を。
○証人(加藤善雄君)
24年の11月14日でありました。
○委員長(岡元義人君)
加藤証人に先程委員長が質問いたしました労働大隊の移動径路と赤軍労働大隊の性格と
いうようなことについて証言を求めたい。
○証人(加藤善雄君)
赤軍労働隊におきまして私はエリンカ、ウオロシロフ、それからボーエンキ、これだけを移動して
おるわけであります。それからアルチヨムは内務省関係であります。
○委員長(岡元義人君)
その作業についてはどういう作業をしているのか……。
○証人(加藤善雄君)
自分がエリンカに行きました当時は稻刈り作業であります。それからウオロシロフに行きまして
変電所の建設作業を1年やりました。それから道路作業、建築作業であります。
○委員長(岡元義人君)
重ねて加藤証人に伺いますが、労働大隊という大隊は逐次移動しておるのですか。
○証人(加藤善雄君)
労働大隊は、移動性が、内務省関係の収容所と比較して見ますと多いようであります。
各産業によつて、いわゆる赤軍と共に転々と移動する率が多いようであります。
○淺岡信夫君 
加藤証人は自分の階級は何だつたのですか。
○証人(加藤善雄君)
准尉であります。
○淺岡信夫君
年は幾つですか。
○証人(加藤善雄君)
34歳であります。
○委員長(岡元義人君)
加藤証人に重ねて尋ねますが、アルチヨン附近の作業と死亡数等について
知つておられる範囲で証言を求めます。
○証人(加藤善雄君)
自分が行きました22年の6月にはアルチヨンには1,600名おりました。
死亡者の数ははつきり自分は覚えておりません。あすこに行きましたときには落盤で、
炭鉱の事故で相当死んでおつたようでありますが、その数については分りません。
以上
18.








  
  

  
  



 
 

 
閣議決定内容は以上