この資料は国立国会図書館の所蔵資料です。
国立国会図書館の転載許可(国図資100104005-6-69号)をいただいて転載しています。
コピー及び転載は禁止します。

                           2012年3月 Minade Mamoru Nowar
注:日本の漢字ソフトにない、中国独自の地名漢字が画面に表示されないことがあります。

 第2編 日本軍の武装解除と日本人のソ連領移送
  第1章 概説
  第2章 各正面における入ソ状況
  第3章 ソ連領移送間の状況
 第3編 満洲、北朝鮮における日本人の越冬状況
  第1章 概説
  第2章 満洲辺境地区における越冬状況
  第3章 中、南満地区における越冬状況
  第4章 北朝鮮地域における越冬状況
 第4編 (略)
 第5編 ソ連地域における抑留日本人の状況

  第1章 概説
  第2章 病弱者の満州、北朝鮮への逆送
  第3章 ソ連本土における抑留状況
  第1節 収容所の状況
   第2節 抑留生活
   第3節 死亡者の発生
   第4節 思想教育と戦犯受刑
   第5節 昭和25年以後における抑留及び残留状況

  第4章 南樺太、千島における抑留及び残留状況
  第1節 終戦直後から昭和24年頃までの状況
   第2節 昭和25年以後における抑留及び残留状況

  第5章ソ連地域からの日本人の送還
 第6編 中共政権樹立まで(昭和23年末頃まで)の満州における日本人の状況
  第1章 概説
  第2章 中共軍、国民政府軍の戦闘と日本人の被害
  第3章 中共軍、国民政府軍等における日本人の留用
  第4章 国際結婚、孤児
  第5章 日本人の送還(計画遣送)開始
 第7編 中共政権下における抑留及び残留日本人の状況
  第1章 昭和27年頃までの状況
  第1節 概説
  第2節 学習
  第3節 受刑
  第4節 内戦及び朝鮮動乱等の影響
  第2章 昭和28年頃以後の状況
 第8編 北朝鮮における越冬後の抑留及び残留日本人の状況
  第1章 ソ連軍管理下における状況
  第2章 ソ連軍撤退後における状況
 付録 第1 (略)
     第2 (略)
 付表(略)

目次以上
本文
第1頁
第1編 日ソ開戦直前から終戦までの状況
第1章 概説
 昭和20年春以後、日本は沖縄の失陥、内地空襲の激化、盟邦独逸の降伏等によって、
大東亜戦争逐行の見透しが日を追って困難となったため、6月下旬、ソ連を通じて密かに
終戦についての調停を依頼した。

 しかし、ソ連のこれに対する回答は8月8日深夜(モスクワ時間8日午後5時)、
在モスクワ佐藤大使に手渡された宣戦の通告であった。

 この時、極東ソ連軍はすでに満洲国境に対し攻撃を開始しており、満州、北朝鮮、南樺太等の
ソ連と境を接する各地域は忽ち戦闘の渦中に巻き込まれるにいたった。各地域における日ソ開戦
以後の状況は以下に述べるとおりであるが、8月15日の終戦の詔勅を境として、逐次、終戦の
態勢に移り、8月下旬には各地域の軍民の運命はすべてソ連軍等の手中に握られ、これらの同胞
には、また新らたな苦難が始まったのである。

第2章 日ソ開戦直前の状況
第1節 満州、北朝鮮における日本軍
1.陸軍部隊
@
 満州に駐屯していた関東軍は、昭和18年初めには、14師団、2戦車師団を基幹とした
約80万の兵力であったが、昭和19年、太平洋戦域の戦況が急迫してきたため、
この方面に増援として11師団、1戦車師団、その他多数の部隊が転用され、その代り、
転用された部隊が満洲に残置した人員と他の在満部隊から引き抜いた人員とをもって、
昭和20年2月までに14師団、4独立混成旅団を新設したが、その戦力は従来の
3分の1程度のものとなった。その後、対米本土決戦を予期しなければならなくなったので、
さらに同年3月、在来の優秀師団全部(3師団、1戦車師団を基幹)を日本内地へ、
新設3師団が南朝鮮に転用された。
第2頁
 昭和20年4月4日における、ソ連の日ソ中立条約破棄、ソ連の兵力東送の活発化、
5月上旬ドイッの降伏等により、いよいよソ連の対日参戦の時機切迫が予想されるに
至ったので、6月上旬、極度に弱化した関東軍の兵備を緊急に強化する措置がとられた。

 すなわち、支那派遣軍から4師団を基幹とするもの、朝鮮軍から北朝鮮にある1師団、
2要塞守備隊等を関東軍に増加し、また2独立混成旅団を師団に編成替えした。
さらに7月には、在満者の根こそぎ動員(行政、治安維治、交通通信、戦時産業等のため
絶対に必要な人員15万名を除き日本人適令男子約25万名の計画)を行ない、6師団、
7独立混成旅団、1独立戦車旅団、その他の部隊の新設と既設部隊の補強とが実施された。

 この兵力増強によって、外見的には24師団、9独立混成旅団を基幹とする約60万の
兵力となったが、訓練、装備等は不良で、特に近代戦に欠くことのできない戦車、砲兵、
防空部隊等の主力は他の地域に転用され、航空部隊も辛うじてゲリラ的に使用し得るに
すぎない状況であった。

注:ソ連の極東に対する兵力の移送は昭和20年2月ごろから開始され、8月上旬においては
兵員160万、飛行機6,500機、戦車4,500輌と推定された。
A
 以上のような状況において関東軍は「ソ連の進攻に際しては満州国内の地形を利用して
その進入を阻止し、やむをえない場合は、南満、北朝鮮の山岳地帯を確保して抗戦を続ける」
との方針を立てた。この方針にもとづき、国境附近の各部隊は一部を駐屯地に残して、
未教育兵の教育にあたらせ、主力の多くは駐屯地から遠隔した地点において陣地構築に着手し、
また、一部の部隊は新駐屯地に移動中、昭和20年8月9日のソ連参戦を迎えるにいたった。

2.海軍部隊
 羅津、清津方面には第901海軍航空隊派遣隊、羅津、清津在勤海軍武官府、羅津、清津港湾
警備隊があり、元山方面には、元山方面特別根拠地隊、元山海軍航空隊、第901海軍航空
派遣隊、元山通信隊、第354設営隊、及び第51海軍航空廠の分工場があり、平壌方面には
第5海軍燃料廠、第353設営隊等が配置され、その兵力は約5000名であった。

3.日ソ開戦時の満州、北朝鮮における日本軍主要部隊の配置図
 挿図第一、及び挿図第二のとおりである。



第2節 満州、北朝鮮における邦人
1.満州、北朝鮮における邦人
 日ソ開戦の直前、満州、関東州、北朝鮮に居住していた邦人は約160余万名の多数にのぼり、
政治、経済、産業、交通等各種の分野にわたって戦争の完遂に協力していた。
@
 満州国及び関東州に居住の邦人は、開拓団員等を含めて約155万名と推定されたが、
昭和20年6月頃以来、15万名以上のものが、逐次、関東軍に動員されるにいたった。
第3頁
 開拓団は満州のほとんど全省に入植し、その数は開拓団995個、開拓義勇隊99個中隊、
報国農場73個所で、人員総数は約27万名であったが、日ソ開戦時には老幼婦女子を主体
とする約22万名であった。
A
 北朝鮮地域の居住の邦人は約22万5000名と推定された。

2.満洲における邦人の非常時対策
 当時、関東軍としては国の対米英戦争完遂の方針に従い、ソ連に対しては努めて事を
かまえないことを主義とした関係上、ソ連軍進撃に対する邦人の非常時対策は十分に
計画されていなかった実情であった。ただ、辺境の省においては、軍と緊密な連けいのもとに
防衛、或は、老幼婦女子の疎開が準備されていた程度であった。

第3節 南樺太、千島における日本軍及び邦人
1.陸軍部隊
 日ソ開戦前、樺太、千島にあった陸軍部隊は第5方面軍(司令部は札幌)隷下の第88師団、
第89師団、第91師団、独立混成第129旅団、及びその他の直轄諸部隊であって、
第88師団は南樺太、第89師団は南千島、第91師団は北千島、独立混成第129旅団は
中部千島を警備し、その兵力は合計約8万名であった。

2.海軍部隊
 昭和20年初め、南樺太及び千島にあった海軍部隊は、北東海航空隊派遣隊、千島方面
根拠地隊及び警備隊等であったが、六月下旬より、逐次内地に転用され、日ソ開戦時に
残されていた兵力は、南樺太に約100名、千島に占守通信隊を主体とした約2,000名であった。

3.邦人
 南樺太、千島に居住していた邦人の数は約28万余名と推定され、昭和20年3月の
特設警備隊要員の教育召集や連絡船の欠航と相まって、逐次、戦局の緊迫を思わせるものが
あった。

注:軍人、邦人を合せた開戦時の日本人は約37万名である。

4.日ソ開戦時の南樺太、千島における日本軍主要部隊の配置図
 挿図第三のとおりである。


第3章 日ソ開戦から終戦までの状況
第1節 満洲、北朝鮮における日本軍の戦闘
1.全般の状況
@
 関東軍は昭和20年4月以後、国境地帯におけるソ連軍の行動が次第に活発化する状況を
見て、ソ連の対日参戦は避けがたく、8月、9月ごろは特に警戒を要するものと判断していた。
第4頁
 8月5日、東満国境の虎頭南方のわが国境監視隊に対し、ソ連軍の一部が国境線を越えて
攻撃を加えてきた事件があったので、関東軍総司令部では警戒を厳にするよう各部隊に注意を
与えた。
A
 8月9日午前零時過ぎ、東満国境の虎頭、綏芬河(すいふんが)、琿春東南側の国境陣地は
ソ軍の砲撃を受け、その他の方面でも国境監視部隊に対して攻撃が開始され、満州国内の
各地も、ソ連軍飛行機の爆撃を受ける状況となった。関東軍は、ただちに各部隊に対し、
作戦計画にもとづき、ソ連軍の攻撃を撃破するように命じ、ここに、日ソ間の全面戦闘に
突入するに至った。
B
 ソ連軍の主力は東満の牡丹江東方地区から、一部は孫呉、ハイラル、阿爾山(あるしやん)
琿春等の各方面から、それぞれ強大な戦車部隊の支援のもとに、満州及び北朝鮮に進攻して来た。
C
 わが国境監視隊は少数の兵力をもって、よくソ連軍の強襲に抵抗し、特に既設の国境陣地の
守備に任じていた部隊のうちには、1週間以上も陣地を保持して抵抗を続げ、遂に優勢なソ連軍の
ために全滅したものもあった。

 わが主力部隊は、東正面では会寧北側−図們(ともん)東側−羅子溝_−穆稜(むうりん)ー七星の
線で、北正面では、孫呉東西の線で、西正面ではハイラル(海拉爾)−五叉溝の線で、ソ連軍を阻止
することに努めたが、彼我の戦力の差が大きく、かつわが陣地が未完成であった等のため、
大きな損害を受げて後方に撤退するのやむなきに至った。

 北朝鮮の羅南師管区の各部隊は、先ず、清津港に上陸したソ連軍の先頭部隊を撃破した後、
後方の既設陣地においてソ連軍主力を迎え、激戦を交えるに至った。
D
 前述のごとく、各方面の戦況は日本軍に不利な状況のうちに、8月15日、終戦の詔勅を拝受
するに至った。

 関東軍総司令部においては、停戦をめぐって真剣な論議が行われたが、総司令官は
「聖旨を奉じて停戦に全力を尽す」との方針を決定した。

 またこの間、8月16日発令の「即時戦闘行動を中止すべし」との大本営命令及び
「戦闘行動を停止するためソ連軍に対する局地停戦交渉、および武器の引渡し等を実施すること
得る」との指示を受領したので、同日、とりあえず各部隊に停戦を命じ、さらに17日、竹田宮が
天皇の名代として新京に到着して聖旨の伝達があった。

 ここにおいて、関東軍総司令部は18日、各方面軍、及びその他直属軍の参謀長を集め、
聖旨を伝達するとともに、停戦及び武装解除に関する関東軍命令を伝達した。しかしながら、
移動中、或は、戦闘中の部隊、または連絡のできない部隊に対しては、この停戦命令の伝達は
困難を極め、8月下旬に至って、ようやく終戦を知った部隊もあった。

 この停戦命令は将兵に大きな衝撃を与え、敗戦の事態を憂え、責任を痛感して自決する幹部、
或は火砲と共に自爆する将兵等も少なくなく、またソ連軍に降服するをいさぎよくとしないで
部隊から離脱する者も数多くあった。
第5頁
E
 武装解除は各地ごとにソ連軍と交渉のうえ実施され、武装を解かれた日本軍は、ソ連軍の
指示により各方面の主要地点に集結した。
F
 戦場における損害は、陣地および後退途中の戦闘による戦死、長距離の行動による疲労、
炎暑、食糧不足等による戦病死者である。

 また、ソ連軍の進入に伴なう、住民の対日感情の悪化は、国境地帯から逐次、中、南満、
北朝鮮に及び、日ソ戦闘中はもとより、武装解除の後においても、小人数の部隊や部隊から
離れた単独者は、反乱した満軍、武装した住民、暴徒等によって、各所で襲撃を受け、
その損害は相当多数にのぼった。

 日ソ戦闘開始から武装解除までの日本軍の死亡者は26,000名以上にのぼるものと推定される。
G
 日ソ両軍戦闘経過の概要は挿図第四のとおりである。



2.各正面の状況
@間島正面
 この正面には第3軍の主力が配置され、会寧北側地区に第127師団、図椚(ともん)
南側地区に第79師団、図椚(ともん)東側地区に第112師団が主陣地を占領し、
慶興対岸五家子の国境陣地に歩兵第280連隊、慶興南側に独立混成第101連隊、
羅津には要塞部隊があって守備に任じていた。

 進入したソ連軍の兵力は、1個師団と戦車2個旅団であって、一部は五家子の陣地を
攻撃するとともに慶興橋を占領し、その戦車部隊は、海岸に沿って羅津方向に南下し、
また主力は琿春、春化付近から越境して図椚(ともん)に向かい進攻してきた。

 歩兵第280連隊は五家子陣地において奮戦し、多くの損害を出したが、19日まで
よくその陣地を確保していた。

 第112師団主力は、15日、16日の両日に亘り、図椚(ともん)東側密江附近で
ソ軍主力と激戦を交え、ソ軍に大損害を与えたが、わが方も多くの損害を出し、ついに、
図椚(ともん)北側の陣地に後退し、その後は大きな戦闘を交えることなく停戦となった。

 第79師団は、馬乳山(訓戎西南側)陣地において第291連隊の一部が激戦して
損害を受けたが主力は交戦することなく停戦となった。

 第127師団は、国境に派遣していた一部、及び遊撃戦のため遠く出撃していた
一部等を除くほか、主力は交戦することなく停戦を迎えた。

 羅津要塞部隊、混成第101連隊は、ソ連軍と小戦を交えつつ、古茂山、会寧に後退して
停戦を迎えた。

 第3軍主力の部隊のうちには、停戦に伴い各人に自由行動を許した部隊が相当数あった。
機動第1旅団は注清、金蒼、老黒山の地区に分散してソ軍に対する挺(てい)進斬込、
遊撃戦を準備中、一部が戦闘したのみで停戦となった。
間島正面日ソ戦闘経過の概要は挿図第五のとおりである。


第6頁

A東寧正面
 この正面には第3軍主力、及び第5軍の側背を掩護(えんご)するために第3軍の一部が
配置され、第128師団主力は羅子溝付近、独立混成第132旅団は独立歩兵2個大隊に
東寧東方の勝関(かちどき)陣地、及び郭亮船口(かくりようせんこ)の国境陣地を守備させ、
主力は日ソ開戦とともに東寧から大域廠(だいかんしよう)へ移動して陣地を占領した。

 進入してきたソ連軍は2個師団と戦車1個師団で、一部で国境陣地を攻撃するとともに、
主力は国境を突破して独立混成第132旅団を攻撃し、ついで、羅子溝の陣地に迫り、
その一部の戦車部隊は、大興溝付近にまで進出して、この方面の日本軍の背後に迫る
態勢となった。

 勝関(かちどき)陣地の独立歩兵第783大隊は、ソ連軍の攻撃に対して奮戦し、
これに大損害を与え、8月下旬の停戦命令受領までよく陣地を確保したが、
郭亮船口(かくりようせんこ)陣地の独立歩兵第786大隊は、ソ連軍の猛攻によって
ついに陣地を破壊され全滅した。

 第128師団は羅子溝南側の完勝山陣地において、13日、14日の両日にわたり
激戦を交え、多くの損害を受けたため、樺皮旬子(かびてんし)東方の陣地に後退した。
16日、ソ連軍戦車部隊の攻撃を受けたが、これに大損害を与え、戦闘停滞のうちに
停戦に至った。

輜重隊は、わが背後に迫ったソ連軍に対して善戦し、停戦までソ連軍を大興溝附近に
阻止していた。独立混成第132旅団は東寧から転進の途中、ソ連軍戦車部隊の攻撃を受け
損害を出したが、大域廠(だいかんしよう)陣地においては、穆稜(むうりん)方面から進攻した
ソ連軍戦車部隊を撃退して停戦まで健闘を続けていた。

東寧正面日ソ戦闘経過の概要は挿図第六のとおりである。



B牡丹江正面
 この正面には第5軍が配置され、第124四師団を穆稜(むうりん)西側高地に、
第126師団を八面通西南側高地に、第135師団を七星東西の線に配置し、
それぞれ歩兵1個大隊を基幹とするもので綏芬河(すいふんが)、及び観月台の国境陣地を
守備させていた。

 この正面はソ連軍が攻撃の重点を向けたところで、その兵力も機甲軍団と2個師団以上で
あった。ソ連軍の一部は、わが国境陣地を攻撃するとともに、主力は綏芬河(すいふんが)南北から
国境を越え、12日朝、穆稜(むうりん)-牡丹江街道に沿う地区から、第124師団の主陣地に対し
攻撃を開始し、13日夕には四道嶺東側に進出し、他の一部は八面通-樺林道を進撃して
13日には樺林に進入した。

 14日、四道嶺、樺林2方面呼応して、液河陣地に対する攻撃を開始したソ連軍は、
15日夜、わが軍の牡丹江左岸への撤退に追尾して、16日主力をもって牡丹江南側海浪橋、
一部を以て液河橋、及び樺林橋を経て牡丹江に進入し、更に一部は寧安i敦化道方向、
及び横道河子方向に前進を続けた。

 またソ連軍航空隊は、地上軍に呼応して、わが第一線、及び後方を爆撃し、特に15日、
16日、牡丹江市、及びその西方道路、鉄道に対する爆撃は猛烈をきわめた。

第7頁
 国境の観月台陣地を守備した第124師団の歩兵第273連隊第3大隊は、
8日夜からソ連軍の攻撃を受け多数の損害
を出し、僅かに一部の者が脱出後退しえた
状況であり、また綏芬河(すいふんが)の天長山陣地を守備した歩兵第271連隊の
第3大隊
は、同地の一般邦人をも収容し、約1週間にわたり激戦苦闘のすえ、
逐次、陣地を破壊されてついに全滅した。


 緩陽付近にあった第124四師団の残留部隊、陸軍病院、補給諸部隊等は、
撤退途中、緩陽付近、及びその西方地区でソ連軍に追及
され、多数の損害を受けて分散
後退した。


 穆稜(むうりん)付近に陣地を占領していた第124師団の主力は、12日朝から開始された
ソ連軍の攻撃に対し、配属された軍直属の
砲兵をもって反撃し、初期においては、
よくソ連軍の攻撃を撃退
した。しかし、わが火砲が逐次破壊されたため、同日夕には
ソ連軍
機甲部隊は牡丹江街道上代馬溝まで進入するにいたった。13日、ソ連軍は
更にわが陣地に対する攻撃を続け、わが軍は多数の損
害を受けつつこれと激戦したが、
15日、小豆山の線を攻略され
るに及び、主力は寧安、東京城方向へ、一部は牡丹江
北側方向
へ後退して停戦となった。

 後退の際、多くの小部隊に分散したわが将兵は、各所でソ連軍と衝突し多くの損害を
出すに至った。

 第126師団は、八面通西南側に陣地を占領していたが、10日夜、主力をもって
液河に転進を命ぜられ、12日夜には四道
嶺西側牡丹江街道南北の線に陣地占領し、
14日からソ連軍の攻
撃を迎えた。14日、四道嶺高地のわが前進陣地は奪取され、
15
日には、早朝からの連続砲撃によって、わが火砲の全部は破壊されたが、突進する
ソ連軍戦車に対し果敢な肉迫攻撃を反復してソ
軍を撃退した。しかし、同日夜、
後退の命令を受け師団の主力は
16日までに、牡丹江西側地区に集結したが、歩兵
第278
連隊には、撤退の命令が伝わらなかったため、同連隊は、16日、孤立して
ソ連軍と戦闘し、大損害を受げて、残存者は寧安及び横道河
子方向へ分散後退した。

 また歩兵第277連隊の約1個大隊は、牡丹江南側の海浪橋において、師団の退却を
援護中、ソ連軍戦車部隊と交戦し損害を
出した。

 第135師団は七星に陣地占領していたが、9日午後、歩兵個大隊を、代馬溝の
佐々木支隊の指揮下に派遣し、主力は10日
夜から液河に転進し、13日夕までに
液河北側高地に陣地占領し
た。13日、ソ連軍戦車の攻撃を受けこれを撃退し、14日
以後戦
車を中心とした優勢なソ連軍と激戦中、命令によって十五日夜、陣地を撤し、
翌16日朝、牡丹江西側に集結した。16日朝、牡丹江
東側において、軍の退却援護に
任じていた福田大隊は、退路を断
たれて多数の損害を被った。

 第5軍司令部は、ソ連軍機甲部隊の予想以上に迅速な進撃に対し、一部の配備変更を
行うとともに、佐々木支隊を代馬溝に、
小林支隊(第3野戦築城隊、石頭の幹部候補生隊の
猪股大隊、
臨時経理部幹部教育隊を基幹)を磨刀石に、その他の部隊を牡丹江街道上に
配備してソ連軍の前進阻止を図り、多数のソ連軍戦車を破壊したが、わが軍もまた損害を
受け牡丹江西側に後退した。

第8頁
 16日朝、牡丹江西側に集結した第126師団、及び第135師団の主力は、ソ連軍の
爆撃を受けつつ、昼夜急行し、17日、横
道河子に到着して、同地東方に陣地を占領中、
同日夕、停戦命令を受
領した。この転進間、ソ連軍の爆撃によるわが軍の損害は極めて
きかった。

 牡丹江正面の日ソ戦闘経過の概要は挿図第七のとおりである。



C東安正面
 林口、平陽、東安、虎林等、虎林線の沿線には第135師団の約半数、第126師団の
一部、軍直属部隊の一部、幹部
教育隊、陸軍病院、補給部隊等が駐屯し、国境には監視部隊
のほか、虎頭には第15国境守備隊が堅固な陣地を守備していた。

 ソ連軍は約2個師団で、第15国境守備隊の虎頭陣地を包囲攻撃するとともに、
約1個師団をもって、平陽、東安の中間から進入
し、11日正午、平陽で虎林線の鉄道を
しや断したのち、一部を
もって、勃利、及び林口に向った。また八面通正面のソ連軍の
一部は
12日朝、麻山に、13日、林口付近に達し、更に続いて七星方向に南下した。

 第15国境守備隊は、虎頭にあった邦人をも陣地に収容し、ソ連軍の包囲下に、
その猛攻をうけつつ十数日間にわたり孤立無援、
軍民一体となって奮戦し、ついに玉砕する
にいたった。
第15国境守備隊の敢闘はソ連軍からも賞讃された。

 後方地区に移動の命令を受けた各部隊は、虎林線に沿い林口を経て南下するもの、
勃利を経て図佳線に沿い南下するもの等
に分れたが、これらの交通路に対するソ連軍の
爆撃と、平陽、麻
山で虎林線が、林口、仙洞で図佳線がしや断されたため、混乱のうちに
部隊は後退を続けた。この間、ソ連軍、反乱した満軍等の攻
撃を受け、部隊は分散し、
図佳線以西の地区を二道河子を経て、横
道河子に向ったが、横道河子への後退は、
長途の難行軍であったた
め、多数の落伍者、生死不明者を生じた。これ等の部隊には停戦の
命令が伝わらず、あるいは、停戦を信じないで、横道河子付近でソ連軍の警戒線を強行突破
して、さらに南下したものが少なくな
い。

 東安正面の日ソ戦闘経過の概要は挿図第八のとおりである。



D
佳木斯正面
 
 この正面には、第1方面軍直属の第134師団が配置され、富錦、及び鶴岡の陣地に
それぞれ歩兵1個大隊を配し、その一部
を黒竜江岸の国境監視に任ぜしめ、師団主力は
方正東方地区に
陣地を占領していた。

 ソ連軍は、鶴岡方面においては、国境監視隊を撃破して13日、鶴岡へ、15日早朝
には、佳木斯対岸の蓮江口に進入して、鉄道
線をしや断するとともに、松花江の鉄橋を
占領した。一方、富錦
方面においては、ソ連軍江上艦隊は松花江を進撃し、10日夜、
富錦に
上陸してわが陣地を攻撃占領した。

第9頁
 その後、松花江をさかのぼって、15日、佳木斯に達し、江岸を後退するわが軍を
砲撃し
つつ、17日には依蘭に上陸、同地を占領し、20日、方正付近に進駐した。

 鶴岡陣地の部隊は、国境から後退する部隊を収容した後、主力に合流するため南下したが、
途中、ソ連軍の攻撃を受け進路を変更
し、9月28日、南叉に達し停戦を知った。

 富錦陣地の部隊は、10日夜、上陸攻撃してきたソ軍と激戦したのち、16日、
同地から撤退を開始し、方正において主力に合した。
松花部隊の1個中隊は、蓮江口に
おいて南下して来たソ連軍と交
戦し、多くの損害を受け、緩化を経てハルビンに後退して
停戦と
なった。

 佳木斯に残留していた部隊、及び富錦方面の部隊が後退する際、依蘭付近、及び
その東方太平鎮付近で、反乱満軍及び住民
から受けた損害はきわめて大きかった。

 方正付近にあった師団主力は戦闘するに至らず停戦となった。

 前線から後退した部隊のうちには、主力に合することなく遠く南下し、ハルピン方面へ
向ったものもあった。

 佳木斯正面の日ソ戦闘経過の概要は挿図第九のとおりである。


E敦化地区
 この地区は第1方面軍直轄である第122師団が鏡泊湖東側に陣地を占領し、第139
師団が敦化周辺、及び*河(こうが)に待機していた。

 第5軍正面を突破したソ連軍の一部は、寧安方面から前進し、8月17日、敦化に
進入した。第122師団は戦闘することなく停戦を迎えた。石頭の幹部候補生隊の半部は、
鏡泊湖西側の満軍の陣地を強化するため、第122師団に配属され、同地区へ移動途中、
一部のものが17日、ソ連軍と小戦闘を交えたのみで停戦となり敦化に集結した。

 第139師団は、8月15日、鏡泊湖西側に陣地を占領する命令を受け、行動を開始
したが停戦となり、主力は敦化付近に、歩兵第380連隊は*河(こうが)に集結した。
歩兵第380連隊の主力は、8月22日ごろ、部隊を解散するに至った。

F孫呉正面
 この正面には、第4軍の一部が配置され、第123師団は孫呉北側に、独立混成
第135旅団は曖琿(あいごん)南側に陣地を占領し、それぞれ黒竜江岸に一部の
監視隊を配置していた。

 進入したソ連軍は3個師団と戦車2個旅団で、8月9日夜、一部が黒竜江を渡河して
わが監視隊を攻撃し、主力は11日から、逐次、わが主陣地を包囲攻撃してきた。

 第123師団は、前方拠点として勝武屯、および相模山の陣地に、それぞれ歩兵
第269連隊の第1大隊、及び第3大隊を派遣していたが、第1大隊は、12日、
同陣地において、また第3大隊は、孫呉に後退の途中、14日、呉家窩墜*
(ううじゃんぽ)付近において、ソ連軍と激戦し、両大隊とも多大の損害を受け、
南方に後退した。

第10頁
 師団主力は挺身隊を派遣して、ソ連軍の前進を阻止することに努めたが、15日、ソ連軍が
孫呉に進入したので、これに対する反撃を準備中、停戦に至った。

 独立混成第135旅団は、8月11日夜以降、曖琿南側の主陣地にあって、ソ連軍の包囲下、
後方との通信連絡も不能となったが、果敢な反撃によってソ連軍を撃退しながら、8月20日、
停戦命令を受領するまで陣地を確保した。

 孫呉正面の日ソ戦闘経過の概要は挿図第十のとおりである。



Gハイラル正面
 この正面の第4軍は、大興安嶺陣地に第119師団を、ハイラル及び満州里付近に、それぞれ、
独立混成第80旅団の主力及び一部を配置し、満州里−三河地区の国境線には監視隊を派遣
していた。

 ソ連軍は、8月9日、満州里正面、三河地区、ボイル湖附近の3方面から、2〜3個師団、
戦車1〜2個旅団をもって越境し、その先頭は、8月9日夕刻、ハイラルに進入した。
ソ連軍主力は翌10日から同地のわが陣地を攻撃するとともに、浜州線に沿って進撃し、12日、
牙克石(やけいし)付近、14日、鳥諾爾 (うぬうる) 付近のわが陣地を突破したのち、大興安嶺の
主陣地に対し、15日から攻撃を開始した。

 満州里付近、三河地区等の部隊は、日ソ開戦とともにハイラルに向かい撤退を開始したが、
ソ連軍の急追受けて多くの損害を被った。独立混成第80旅団は、ハイラル周辺の堅固な既設の
陣地に拠っていたが、8月10日、三河地区方向から南下したソ連軍の攻撃を受け、つづいて
満州里、ボイル湖方向からのソ連軍の進入に伴ない、13日から、陣地の背面も攻撃を受けるに
いたった。旅団は孤軍奮戦し多くの損害を受けたが、よく陣地を保持して、8月18日停戦となった。

 ハイラルに駐屯していた第119師団の残留隊、及び補給部隊主力等は、日ソ開戦とともに後退
したが、徒歩行軍のものは、ソ連軍に追及され、多くの損害を被り、ハイラルに残った一部の部隊は、
ハイラル陣地に入り、独立混成第80旅団の指揮のもとで戦闘した。

 第119師団の歩兵第254連隊第3大隊は、牙克石(やけいし)の前進陣地において、8月12日、
独立混成第80旅団の独立歩兵第585大隊は、鳥諾爾(うぬうる)の陣地において8月14日、
ともにソ連軍と激戦し大きな損害を受け、札蘭屯(じやらんとん)に後退して停戦となった。

 第119師団主力は、大興安嶺主陣地にあって、15日からソ連軍の攻撃を受け、特に歩兵
第254連隊は、激戦中、16日停戦となった。

 ハイラル正面の日ソ戦闘経過の概要は挿図第十一のとおりである。



第11頁
Hチチハル及びハルピン地区
 この地区は第4軍の後方地区であって、第149師団をチチハルに、独立混成第131旅団を
ハルピンに配置し、それぞれ、その地を確保防衛させ、独立混成第136旅団を轍江(のんこう)
配置して徽江河に沿い南下するソ軍に備えていた。

 8月14日から、第149師団主力はハルピンへ、独立混成第130旅団はチチハルへ転進を
命ぜられて行動中に、また独立混成第131旅団はハルピンにおいて、ともに交戦することなく
終戦を迎えた。

I西方正面(興安−挑南−開魯)
 この正面は第44軍の部隊であって、第107師団を五叉溝付近に、第117師団を挑南付近に、
第63師団を通遼付近に、独立戦車第9旅団を四平に配置し、国境監視隊を阿爾山(あるしやん)
五叉溝前面に派遣していた。

 ソ連軍は、8月9日、満蒙国境を越え、2個師団で阿爾山から第107師団正面へ、戦車1個
旅団で、五叉溝南側から第107師団の後方の索倫付近へ、東ウヂムチンから、それぞれ
自動車化1個師団をもって挑南及び通遼へ進入した。

 第107師団の歩兵第90連隊の主力は、日ソ開戦とともに阿爾山から五叉溝へ後退したが、
途中、ソ連軍の急追を受けて交戦し相当の損害を受けた。その後、師団は第30軍の指揮下に
入り新京へ後退集結を命ぜられ、12日、五叉溝を出発したが、列車で後退した部隊の先頭は、
大石塞で、自動車によったものは索倫付近で、徒歩行軍した師団主力は西口附近で、ともに
ソ連軍戦車部隊、あるいは追撃してきたソ連軍と激戦を交え、多くの損害を出して分散して
白阿線以北の地区に後退した。

 師団主力は8月24日、号什台(こつじゆうだい)付近でソ連軍約1個旅団と遭遇し、翌25日まで
交戦ののち離脱して28日、音徳爾(いんとうる)に到着し停戦命令を受けた。その他の分散小部隊は
主として新京方面に、一部はチチハルあるいはハルピン方面に後退したが、途中ソ連軍、
反乱した蒙古軍または住民の攻撃を受けて多くの戦死者、生死不明者を出した。

 第117師団は、第30軍の指揮下に入り、新京に集結するよう命ぜられ、8月12日、挑南付近を
出発し、京白線に沿って後退中、大費(たいらい)付近で終戦となり、主力は公主嶺に一部は新京に
集結した。

 第63師団は、8月10日、奉天に転進の命令を受け、ソ連軍と戦闘を交えることなく12日転進を
開始し、約半部は奉天東陵に到着、陣地占領中、他の半分は転進途中停戦となった。

 独立戦車第9旅団は戦闘することなく四平で停戦を迎えた。

 西方正面の日ソ戦闘経過の概要は挿図第十二のとおりである。



J熱河正面
 この正面は第3方面軍直轄の第108師団であって、一部は赤峰に位置してソ連軍の進入に備え、
主力は承徳附近で中国共産党八路軍の討伐に任じていた。

 この正面のソ連軍は外蒙騎兵1個師団で、西ウヂムチンから林西−赤峰道を進入してきた。

第12頁
 第108師団は8月10日、歩兵第240連隊を北支那方面軍の指揮下に入れ、主力は第44軍の
指揮下に入り、錦県、阜新の線に後退するよう命ぜられた。主力は11日行動を開始し、12日以後、
所命の線において防禦施設を構築中、15日、さらに遼陽に転進を命ぜられ、17日、同地に到着
したが停戦となった。

 歩兵第241連隊第5中隊は林西に派遣されていたが、後退の命令が到着せず、8月12日、
同地でソ連軍と交戦し損害を受け後退を開始した。退却中、18日、景山付近でソ連軍に追及され
全滅的な損害を被った。

K中南満地区
 この地区には第3方面軍の主力が配置されており、連京線沿線の要地を確保してソ連軍を撃破
するとともに、通化地区において最後の抵抗を期し、下記の部署によって、防禦施設構築等の
戦闘準備中停戦となった。

(1)新京付近・・・第148師団、独立混成第133旅団、戦車第35連隊、歩兵第231連隊
(2)四平付近・・・第39師団主力、独立戦車第9旅団
(3)奉天付近・・・第136師団、独立混成第130旅団、独立戦車第1旅団主力、第63師団
(4)撫順付近・・・第138師団
(5)遼陽付近・・・第108師団主力
(6)安東付近・・・独立混成第79旅団
(7)通化付近・・・第125師団
(8)臨江付近・・・独立混成第134旅団

 この地区の部隊においては、現地応召者等の解散または自由行動に移ったものが多かった。

L北朝鮮正面
 この正面の警備は第34軍、羅津以北は第3三軍の担任であって、第59師団、及び
第137師団を威興西南側に、羅南師管区部隊を清津、楡城、羅南の線に配置していた。

 ソ連軍は1個師団を8月13日から清津に上陸させるとともに、戦車部隊を羅津方向から南下させ、
まず羅南付近への進入を図った。

 羅南師管区部隊は、13日清津に上陸したソ連軍の一部に対し陣地から出撃してこれを撃破したが、
14日夜上陸したソ連軍の主力、及び南下のソ連軍戦車部隊に対し、陣地に拠ってこれを拒止中、
8月18日、停戦命令を受領するにいたった。第144警備大隊の主力は、15日、清津東側の陣地で
孤立戦闘し、多くの損害を受けた。

 前記以外の部隊は戦闘することなく停戦を迎えた。

 海軍部隊として羅津市外にあった第901海軍航空派遣隊は、8月10日、ソ連軍の羅津攻撃と
ともに、同地を撤退して8月13日、清津所在の部隊に合流を図った。しかし、清津にもソ連軍が
上陸を開始したため、更に元山に向って撤退し、同地所在の部隊に合流した。その他の羅津、
清津方面にあった海軍部隊は付近の陸軍部隊の指揮下に入り行動を共にした。




第13頁
第2節 満州、北朝鮮における日ソ開戦に伴なう邦人の行動

1.満州辺境地域の居留民の行動

 8月9日、ソ連軍の不意の攻撃を迎えた満州辺境地域の在留邦人は混乱のうちに
避難を開始した。鉄道沿線の都市にあった邦人の一部は、列車によって中、南満まで
避難できたものもあったが、大部分の邦人は利用する輸送機関も少なく、多くは徒歩で
避難を開始した。しかし、国境に近い地点の邦人は、避難のいとまさえなく、ソ連軍の
攻撃を受けた。そのために、所在の軍隊とともに、戦闘に巻き込まれて多くの死亡者を出した。

 また、避難を開始した邦人の集団も、ソ連軍の速かな侵攻、砲撃と、満州国軍の反乱、
中国人暴徒の襲撃等に逢って、随所に犠牲者を出し、飢餓・病気等による死亡者と相まって、
在留邦人の、この間の死亡者は、実に、3万名以上と推定される。

 特に辺境地域に入植していた開拓団の多くは、開戦前、相当数の男子を軍隊に召集されていた。
日ソ開戦とともに、さらに残余の男子も召集された。その結果、開拓団は、ほとんど、老幼婦女子
だけという状況にあった。従って、その避難行動は困難を極めた。ソ連軍兵士の辱めを受ける
(ソ連軍兵士に強姦される)のをいさぎよしとしないで自決(自殺)する者、手足まといの幼児を
現地民に托して、わずかに身をもって避難する者等悲惨な状態が発生した。

(1)東満方面

@三江省

 撫遠(ぶえん)等国境の邦人は、避難できず、多くの者が戦闘に巻き込まれて死亡、あるいは、
自決(自殺)した。佳木斯市及び鉄道沿線のものは、8月10日から鉄道により、また一部は
松花江を船により、緩化、ハルピン、長春へ避難した。

 奥地の邦人は、徒歩で佳木斯に向う途中、ソ連軍の攻撃、および、中国人暴徒の襲撃のため、
多くの死亡者を出し、佳木斯以南に避難できたものは僅少であった。佳木斯南方地域にあった
開拓団は徒歩で依蘭、方正に向ったが、これも中国人暴徒に襲撃され、全滅的な打撃を受け、
あるいは集団自決(集団自殺)し、漸く方正に到着しえたものが方正の周辺に分散して越冬した。

 倭肯河(わいこうが)における省公署避難群に対する中国人暴徒の襲撃、富廷嵩屯(ふていこうとム)
おける富錦街及び富錦江の避難群に対するソ連軍戦車隊の攻撃、及び中国人暴徒の襲撃、
宝山開拓団員に対する、板子房におけるの中国人暴徒襲撃、小古洞開拓団員の団長以下の
集団自決(集団自殺)等は、多数の死亡者を出した著名な事件である。

A東安省
 鉄道沿線の邦人は、列車によって、牡丹江、ハルピン、長春、遠くは瀋陽までも避難できたが、
鉄道を利用できなかった開拓団に対しては、「東安省民は、徒歩にて、勃利経由横道河子以南に
後退すべし」との軍及び省の命令が出された。

第14頁
 国境の虎頭の邦人は、開戦とともに軍の陣地に収容され、戦闘に加わって激戦10数日間の後、
ついに軍隊とともに玉砕した。また、国境に近い開拓団もソ連軍の急襲により大半が全滅した。

 幸い避難行動に移りえた邦人集団は、県長、市長、団長の指揮のもとに、虎林線に沿い、または、
宝清−勃利−ハルピン道に沿って避難を開始した。この間に、東安駅における軍用弾薬の爆発、
東海駅付近におけるソ連軍機による爆撃、小五姑付近におけるソ連軍戦車隊による機銃掃射、
黒台開拓団老幼者の長途避難行動間の病死、大和鎮におけるソ連軍戦車隊による攻撃、
麻山におけるソ連軍戦車隊の攻撃、及び中国人暴徒の襲撃、佐渡開拓団跡における避難集団に
対するソ連軍戦車隊の砲撃など著名なものを始めとし、その他、無数の事件により多くの死亡者、
行方不明者を出した。

 避難した主力はヤブロニー、ハルピンを経て長春に、一部は敦化、吉林を経て長春または瀋陽に、
また東京城を経て延吉に到着して、それぞれ越冬した。また、中南満まで避難できずに勃利付近で
越冬した邦人集団もあった。

B牡丹江省
 ソ連軍主力の緩芽河及び東寧正面に進入の通報を受けた省長は、8月9日午前4時、
防衛下令を管内に通達した。東寧正面においては、列車で避難したものは延吉へ、
徒歩のものは山中を東京城に出た後、四散して個別の行動をとった。緩芽河正面においては、
約400名は列車で避難したが、その他の邦人は、天長山の軍の陣地に収容され、軍とともに
玉砕した(戦死した)。徒歩によって牡丹江に出たものは、牡丹江から列車によってハルピン、
長春、瀋陽へ、また東京城方面へ出たものは、延吉、敦化、吉林、瀋陽へ避難し越冬した。

 これらも避難行動の途中、ソ連機による爆撃、ソ連軍戦車隊の攻撃、中国人暴徒の襲撃により
多くの死亡者を出した。東海浪開拓団員に対する反乱満軍の攻撃、東寧避難民の後馬廠における
中国人暴徒の襲撃、東寧訓練所職員家族の自決(自殺)、東寧万廉溝陣地における邦人婦女子の
自決(自殺)、緩西における避難列車に対するソ連軍機及びソ連軍戦車隊による攻撃などが
著名な事件である。

C間島省
 開戦と同時に国境附近の邦人は、まず琿春に集結して延吉へ、後方地区の邦人は山間部で
現地に止ったもののほかは延吉に向い避難した。この間、図椚駅では避難列車に対する
ソ連軍機の爆撃により約300名が死傷した。

 終戦後の延吉には、北部から多数の避難民が到着した。当時、到着した避難民の数は
約27,000名といわれる。その一部は、その後さらに、吉林、長春方面に避難した。延吉市の
混乱はその極に達し、食糧の不足のため、省内の邦人既住者と開拓団員は、ソ連軍の命令により、
老人病弱者等を残し、自宅及び団地に帰り、避難民を延吉市内の収容所及び民家に収容した。

 このほか、北朝鮮で逮捕された邦人、警察官、司法官、行政官等約3500名、及び多数の
軍人が平壌、興南方面から送り込まれて延吉に収容された。

第15頁
(2)北満方面

D黒河省

 開戦と同時に、全正面でソ連軍の侵入を受けたため、国境警察隊は、直ちに軍の指揮下に入り、
在郷軍人は、全員、臨時召集されて防衛任務についた。その他の邦人は、鉄道沿線にあった者は、
列車を利用して北安、ハルピン、長春に避難することができたが、交通不便な地点にあった者は、
集団となって小興安嶺を越え南下した。途中、ソ連軍、満軍、オロチョン族等の攻撃を受けた。
また長途の難路のため、病弱者、老人、妊婦、幼児等は途中に残置された(遺棄された)
かかる惨状のもと、40余日を費して、孫呉、北安、徽江に到着して越冬した。一部のものは、さらに
ハルピン、チチハル、長春、瀋陽に南下した。

 黒河街は、入ソする者、及びシベリヤより満洲への病弱者を逆送のための中継点となり、多くの
死亡者を出した。

E北安省
 終戦に伴ない、省の北部及び黒河省からの邦人は北安、徽江に集結し、省南部の邦人は、
緩化に集結した。これらの邦人は三江省からの多数の避難民とともに、さらにハルピン、長春、
瀋陽、及びチチハルに南下したが、現地で越冬を余儀なくされた者も少なくない。また、開拓団員、
義勇隊員等で軍人とともに強制的に入ソさせられたものが多かったが、その大部分は
ブラゴエシチエンスクにおいて非軍人であることが逐次判明し、北安に送りかえされた。

(3)西北満方面

F興安北省

 国境の満州里市は、開戦と同時にソ連軍の進入を受け、国境警察隊員及び鉄路警護隊員は、
ほとんど全員戦死した。その他の邦人は避難するいとまなく、全員抑留の後、男子はソ連領に
送られた。婦女子は10月に入り、漸くハルピンに送られ、一部は、さらに長春、瀋陽に南下した。

 ソ満国境の小都市の邦人は、興安嶺を越え、途中、オロチョン族や白系露人の襲撃を受けて
死亡者を出しつつ、徽江市に到着した。ハイラル市付近の邦人は、8月9日、早朝よりのソ連軍機の
爆撃と同時に避難命令が出され、同日中に、チチハル、ハルピン市方面に避難を完了した。
ソ連軍機の爆撃により相当数の死亡者を出した。また警察隊、及び東新巴旗、阿穆克朗警察隊員と
その家族は、ハイラルの軍陣地に入り、軍とともに10日間にわたりソ連軍と交戦して戦死者多数を
出した。特に婦女子の多くは自決(自殺)し、その他のものは辛うじて、チチハル、ハルピンに
向い避難した。

 前記のほか、満州里市におけるソ連軍兵士による日本人婦女子の強姦、暴行、殺害、
ジャライノール炭坑の爆破、西額旗の立川参事官一行のオロチョン族の襲撃による遭難等は
著名な事件である。

G興安東省
 鉄道沿線の邦人は、チチハル及びハルピンへ避難したが、一部の開拓団員は団地に残留し、
中国人暴徒の襲撃を受けて悲惨な最期をとげた(殺害された)。残余の開拓団員は札蘭屯、
チチハル、徽江に集って越冬した。

第16頁
H興安中省
 かねての計画に基づき、省の北部を経て長春に避難したが、興安街邦人の一団は、東進する
ソ連軍戦車部隊の追及するところとなり、葛根廟において多数の死亡者を出した。また東京荏原
郷開拓団は新京へ向う途中、中国人暴徒集団(土匪)の襲撃を受けほとんど全滅するに至った。

(4)西南満方面

I興安南省
 8月11日の引揚命令によって、同日夕から12日にわたり列車で、瀋陽及び通化方面に避難した。
奥地のものは、いくつかの集団となって徒歩で避難したが、途中、蒙古軍や、中国人暴徒の襲撃を
受け、全滅した集団、行方不明となった集団、集団自決(集団自殺)する集団など、多数の犠牲者を
出しつつ、新民、瀋陽、及び阜新に到着した。ドブルスームにおける蒙古軍の襲撃はそのうちでも
著名な例である。

J興安西省
 婦女子のうちには、トラック、バス等によって、赤峰または阜新を経て安東に到着したものもあるが、
徒歩で東方に向った邦人集団は、途中、ソ連軍、および中国人暴徒集団(土匪)の攻撃を随所で受け
自決(自殺)、全滅、行方不明等多数の犠牲を出しつつ、長春、鉄嶺、安東に到着した。

K熱河省
 ソ連軍の進入がおそかったため邦人の大部は無事、安東、錦州、瀋陽へ、一部は北京へ避難した。
しかし北支の遵化へ駐在していた日系一心隊・隊員約50名は、満系隊員の反乱により、ほとんど
全員殺害された。

2.中南満地域の居留民の行動

 L浜江省、M竜江省においては、ソ連軍、満軍、及び中国人暴徒等の襲撃を受け、邦人のうちに
多くの死亡者が出た。中国人暴徒集団(匪賊)の攻撃による、大兵庫開拓団員の呼蘭河入水自決
(自殺)、満人警官の反乱による肇洲街における邦人避難集団の被害、大石額山での中国人暴徒
集団による寄居開拓団員の被害、満軍の反乱と中国人暴徒集団の襲撃による浜州街民の自決
(自殺)、ソ連軍による葦河残留街民の被害、ソ軍に逮捕された葦河県内開拓団員の自決(自殺)
呼蘭河渡河中、満軍の反乱による死傷、呼蘭県野戦貨物廠にて副県長以下の自決(自殺)
杏花開拓団員の自決(自殺)、ハルピン市内における満軍、満州国江上軍、及び中国人暴徒集団の
邦人襲撃、中国人暴徒集団の襲撃による亜州開拓団員の自決(自殺)等悲惨な事件が多かった。

 長春においては関東軍は、邦人を、一般市民、国策会社、官、軍の順序に避難させることを
満州国政府側に要請するとともに、10個列車を用意し、その第1列車は10日夕、長春駅を出発
しうる如く準備した。しかしながら、居留民である邦人の避難は急速に実行できない状況にあった
ため、関東軍は早急に動かし得る軍人軍属の家族から輸送を開始することとし、次いで満鉄職員の
家族、一般邦人の順に出発させた。これらの避難者は、主として平壌に向い避難した。

 その他の中、南満の省では、開戦直後、一部のものが安東、平壌、大連地区へ南下したが、
終戦に伴い、逐次、既住都市へ復帰したものが多かった。
また、約1万名は安東より海路で仁川に向い脱出し日本に帰国した。

第17頁
3.北朝鮮地域の邦人の行動

 北朝鮮地域の邦人は、ソ連軍の開戦を迎えても依然各職場にとど
まって奮闘していたが、終戦とともに遂に職を失うにいたった。

 特に朝鮮人によって、人民裁判にかけられるものも少くなく、
その他、供出の強制や、住居の立退き強要等が行われたため、
邦人は逐次、都市に集結し、または南朝鮮へ避難するのやむなき
状態となった。この間ソ連軍の進駐により、約3千数百名が、
軍人とともにソ連領に連行された。
 
 また開戦直後、満州から約7万名の邦人が流入して来たが、
その後、約3万名は再び満州へ帰った。

 満州、北朝鮮における邦人の避難状況は挿図第十三のとおりである。



第3節 南樺太、千島における日本軍の戦闘状況と邦人の行動

1.南樺太方面

@軍隊の配置
 この方面には、第88師団、及び第5方面軍の直轄部隊が配置され、第88師団の
歩兵第125連隊は、南樺太北部の警備として内路、上敷香、気屯に駐屯し、その他の
師団主力である歩兵第25連隊、歩兵第306連隊を基幹とするものは、豊原、真岡以南の
地区にあって守備に任じていた。

A国境正面の戦闘
 8月9日、ソ連軍参戦の報を受けて、歩兵第125連隊は、逐次、古屯西北方の八方山の
既設陣地に入り、11日朝以来、わが国境監視部隊を突破南下してきた1個師団ないし
2個師団のソ連軍主力と戦闘を交えた。特に14日から17日に至る間、八方山の主陣地を
中心として、激しい攻防戦が反復された。連隊はよく主陣地を確保し、この間、幌内川石
右岸を古屯付近に進出したソ連軍主力との間にも激戦が展開された。17日朝、戦闘行動
停止の師団命令に接し、当面のソ連軍師団長との間に局地停戦の交渉に移った。

B恵須取正面の戦闘
 歩兵第125連隊の一部は、西海岸の恵須取付近を警備していたが、13日、ソ連軍の
上陸部隊を迎えてこれを撃退し、その後、連日のソ連軍艦砲射撃及びソ連軍機の爆撃にも
屈せず同地を確保し続けた。しかし、16日、恵須取北方海岸に1個旅団内外のソ連軍が
上陸し、かつ、このソ連軍との現地停戦の交渉が決裂したので、18日夜、部隊をまとめて
内路に転進し、24日、同地において武装解除の師団命令を受領した。

第18頁
C真岡正面の戦闘
 真岡付近には、歩兵第25連隊の第1大隊が守備していたが、すでに停戦の命令を受領
した後の8月20日朝にいたり、ソ連軍は艦砲射撃の後、上陸を開始して来た。わが軍は
軍使を派遣して停戦を交渉したが、ソ連軍はわが軍使を射殺し、避難する住民に対しても
攻撃を加えたので、遂に日ソ両軍の間に戦闘が開始されるに至った。

 この状況を見て歩兵第25連隊の第3大隊は、留多加から救援に向ったが、真岡付近を
突破した約1個旅団のソ連軍と22日、真岡東方の熊笹峠附近で遭遇し、激戦の後、
翌23日に至って漸く停戦した。

D特設警備隊
 日ソ開戦と共に、各部隊はかねて準備したところにより、在郷軍人及び中等学校、
青年学校生徒の防衛召集を行って特設警備隊を編成した。これらの部隊は、主として
沿岸警備、対空監視、陣地構築、及び軍需品の輸送作業等に従事した。上敷香、恵須取、
真岡付近の部隊は、軍の戦闘に参加し一部の戦死者をも出している。

E停戦、武装解除の完了
 停戦命令を受領した第88師団長は、直ちに現地における停戦交渉に努力したが、
第一線部隊は、前述のごとく幾多の曲折を経て、漸く停戦が実行された。南樺太全部隊の
武装解除が終ったのは8月28日であったo

 日ソ戦闘開始から武装解除までの日本軍の死亡者は、千島を含めて、約2,500名と
推定される。

F在住邦人の行動
 日ソ開戦と共に、敷香、内路、落合、豊原、塔路、恵須取等の各都市はソ連軍機の爆撃を
受けた。また名好、恵須取、真岡においては、ソ連軍の上陸攻撃を受けたため、在住邦人にも
多くの犠牲者を出した。その数は真岡1,000名、恵須取約190名、塔路170〜180名、
豊原約100名、敷香約70名、落合約60名といわれる。南樺太全域における邦人犠牲者の
総数は約2,000名と推定される。

 一方、樺太庁長官は、軍の要請と樺太の事態に鑑み、婦女子、老幼者等を北海道に疎開
させることを決意し、連絡船はもとより、機帆船、海軍の艇船をも利用して、大泊、本斗から、
北海道の稚内、小樽に向け緊急疎開を開始したが、8月23日、ソ連軍の禁止するところと
なって、やむをえずこれを停止した。

 この緊急疎開によって離島できたものは約76,000名であったが、この間、小笠原丸、
第二新興丸、及び泰東丸は、22日、北海道増毛町沖、及び苫前沖において、ソ連潜水艦の
攻撃により沈没し、犠牲者、約1700名を生ずるに至った。

第19頁
2.千島方面

@軍隊の状況
 この方面には、第91師団、及び海軍部隊の一部が千島列島北端の占守島及び幌雛
(ほろむしろ)島を、第89師団が南千島の択捉(えとろふ)島、国後島付近を守備し、これらの
中間には独立混成第41連隊が松輪島を、また、独立混成第129旅団が得撫(うるつぶ)島を
それぞれ守備していた。

 千島に対するソ連軍の攻撃は、8月14日、占守島に対する砲撃に始ったが、第91師団長は、
翌15日には終戦の詔書を知り、17日には「即時戦闘行動中止、但しやむをえざる自衛行動を
妨げず」との方面軍命令に接した。ソ連軍は18日未明、占守島に上陸攻撃を開始したので、
わが守備隊との間に激烈な戦闘が展開された。しかし、同日夕、「即時戦闘行動中止」の
方面軍命令を受け、23日、ソ連軍上において停戦協定を行い、25日には武装解除を終った。

 その他の千島諸島にあった各部隊はソ連軍の攻撃を受けることなく終戦を迎え、松輪島の
独立混成第41連隊は8月26日、得撫島の独立混成第129旅団は8月31日、択捉、国後島の
第89師団は8月29日、それぞれ、ソ連軍により武装を解除されるに至った。

A在留邦人の状況
 千島には約1万名前後の邦人が主として漁業に従事していたが、ソ連参戦時には、すでに
その大部分が北海道に帰還しており、残留していた邦人約1,000名も、終戦後、北海道に
脱出した。ソ連占領後も引続いて残留し、または抑留された邦人もあるが、その数は少数で
あった。(抑留、残留の状況は第2編及び第5編において述べる。)

第20頁
第2編 日本軍の武装解除と
     日本人のソ連領移送


第1章 概説

 満州、北朝鮮、樺太、千島において終戦を迎えた日本軍は、概ね8月末までには武装を解除され、
ソ連軍の命令によって、逐次、各地に集結収容され、全くソ連軍の管理下におかれることとなった。

 この間、離隊する兵員も多く、特に、満州、北朝鮮においては、現地に家庭を持つ現地応召者が、
家族を求めて離隊する者が続出した。

 一般の邦人に対しては、ソ連軍は、特に日本人という理由のもとに逮捕することはなかったが、
武装解除後、集結収容した軍人の人員が、部隊の編成人員等に照して不足する場合には、
市民のうちに逃れた軍人、または兵役年令の邦人男子を拉致して人員の充足を図った。
当時、「軍人狩り」「男狩り」と呼ばれたのはこれである。

 このほか、日系満州国官吏、同協和会役員、朝鮮総督府官吏、及び樺太庁等の官吏、警察官、
重要な職域の幹部等もソ連軍によって逐次逮捕された。このソ連軍の日本人要職者と警察官逮捕は
ソ連軍兵士、及び現地中国人暴徒の、強姦、掠奪、暴行とあいまって、終戦後の邦人に極度の不安
を与えた。

 ソ連軍によって収容された軍人、及び逮捕された邦人は、概ね1000名を単位とする作業大隊に
編成され、8月下旬から、翌昭和21年6月までの間に、逐次、ソ連領内に移送された。移送された
大部分は、20年年末までであった。但し、将官、及び一部の軍人、邦人は、作業大隊とは別に
移送されたものもあった。

 作業大隊の編成においては、将校の大部分は、下士官、兵と分離され、将校大隊に編成された。
また一般の作業大隊も、数個から10数個の日本軍部隊の兵員が混合し、終戦前における日本軍
部隊の組織編成は全く破壊された状態となった。

 かくして、満州、北朝鮮、樺太、千島からソ連領内に移送された作業大隊は、総計約569大隊、
人員総数、約575,000名と推定される。彼らは、シベリアをはじめとして、外蒙古、中央アジア、
ヨーロッパ・ロシヤの各地において長い抑留生活を送る運命となった。

第2章 各正面における入ソ状況(略)

第29頁
第3章 ソ連領移送間の状況

 作業大隊のソ連領への移送は、鉄道、及び徒歩による陸路、海路、水路により行われた。
また一部、特殊の者については飛行機によったものもある。

 作業大隊に編成され、ソ連領に移送された日本人は、戦闘期間中から続いた体力の消耗、
徒歩行軍の強制、輸送施設の不備、医療の不備とあいまって、入ソの移送途中において、
多数の死亡者、病人を生ずるにいたった。


 病人のうち、輸送に堪えない者は、途中の病院に収容されたが、これらの者は、その後、
死亡したり、そのまま消息を絶ったものが多い。


 また、輸送列車中で死亡した者は、途中駅で下ろし、最寄の病院等に収容した。
到着駅までそのまま輸送された者もある。

 特に、徒歩行軍により琿春経由で入ソした作業大隊は、連日の徒歩強行軍のため、
ポセット到着までと同地滞在期間中に、多数の病人、及び死亡者を出した。これがため、
同地において、作業大隊の編成替えを行う状況であった。

 入ソ移送途中の病人、及び病弱者の処置については、ソ連側は前述のほか、これらを
満州及び北朝鮮地域に送り還した。その状況は第5編第2章において述べる。

第3編 満州、北朝鮮における日本人の越冬状況(略)

第4編 中国本土における終戦と山西軍参加者の状況(略)

第38頁
第5編 ソ連地域における抑留日本人の状況

第1章 概説

 満州、北朝鮮、樺太、千島から、ソ連領内に移送された約575,000名の日本人は
ソ連全土に亘って収容抑留された。ソ連がかくも多数の日本軍将兵及び邦人を自国内に
移送した真意は、これを明らかにすることはできないが、将来における対日交渉に
備えるとともに、国内の復興、開発の労働力として利用したことは推察に難くない。

 すなわち、入ソ日本人のうち労働に堪えない病弱者約43,000名は、入ソ直後、再び、
満州、北朝鮮に送還され、その他の日本人は不良な環境のもとに、長年月、苛酷な労働を
強制された。

 このため入ソ後数年間に多数の死亡者を出し、その数は総計7万名に達するものと推定
された。またこの間、抑留日本人に対する思想教育と戦犯容疑者の摘発とが活発に行われ、
昭和25年頃までにはソ連領内において、約3,000名以上の者が受刑し、これら受刑者の
大部分は昭和28年以後までソ連に抑留される状態となった。

 入ソ初期における日本人抑留者は挿図第十五のごとく、東はカムチャツカ半島から、
西は黒海沿岸に至り、南は中央アジアから、北は北極洋沿岸に至る、ほとんどソ連領の
全地域と、一部は外蒙地域にまで及び、実に約70地区、1200〜1300箇所の収容所に
分散配置された。このうち、バイカル湖以東の地域に収容された者の数は、入ソ総人員の
約70%を占めている。



第2章 病弱者の満州、北朝鮮への逆送

 ソ連領内に移送抑留された日本人は、移送途上における体力の消耗、低下と、ソ連収容所
到着後における、栄養、衛生条件の不良、労働の過重等により、各地区共、多数の病人を生じた。
これら労働に堪えない者をソ連は入ソ直後から、翌昭和21年夏の期間に亘り、満州及び北朝鮮の
各地に逆送した。満州、北朝鮮への移送途中において、多数の死亡者、重病患者を出したのみ
ならず、これを受入れた満州、北朝鮮の各地点における、栄養、医療等も不十分であったためと、
発疹チフス、赤痢等の伝染病が発生したため、更に多数の死亡者を出す状況となった。

 逆送の送出地区、経由地点、受入地点、受入時期、及び受入人員は次の通りである。

第41頁
第3章 ソ連本土における抑留状況

第1節 収容所の状況

1.収容所の管理組織
 入ソ後、日本人が抑留された収容所の大部分は、ソ連内務省の管轄に属する一般収容所
であった。一部は、赤軍の管轄のもとに、軍関係の労働に従事した労働大隊と呼ばれるものも
あった。また特別な戦犯容疑者は、入ソとともにハバロフスク等の特種収容所、若しくは
モスクワ等の監獄に収容されたものもあった。

 一般収容所は、各地区ごとに、これを管理するソ連機関の地区本部のもとに、通常20個所〜
30個所の収容所分所と、数個の病院とがあった。収容所分所は、小は数百名から、
大は四、五千名の日本人を収容してた。病院はその地区の患者を収容していた。但し、
軽症患者は収容所内において医療を受けていた。

2.収容所及び収容人員等の変動
 収容所の配置及びその収容人員等は、ソ連側の作業上の要求によって決定された。
従って収容所相互の間における人員の移動や、収容所の位置の移転等はしばしば行われた。
タイシェット地区のごときは、鉄道建設作業及び道路建設の進捗に従い、延長三百数十粁に及ぶ
無人の林野に、逐次、収容所を移された状況であった。

 昭和22年、23年頃以後においては、日本人の内地送還に伴い、漸次、収容所の閉鎖、統合等が
行われ、昭和25年頃以後においては、日本人受刑者のみを収容する収容所の数は著しく少数と
なった。

第2節 抑留生活
 収容所内の日本人の生活は、入ソ後2〜3年の間においては最悪な状態であった。その後は、
緩慢ながら、次第に改善向上の方向に向った。

 以下は主として入ソ初期の状態について述べる。
@衣食住、医療
 居住施設の多くは劣悪であって、これに多数の人員が収容され、暖房設備及び燃料も不十分の
まま、零下30〜40度の越冬生活を続けるのやむなきに至った。加うるに、衣服類は入ソの際に
着用または携行したもののみで、十分な防寒装備はなかった。

 食糧は量、質ともに甚だしく不足し、油気のないスープ、高梁等の雑穀のかゆ、馬鈴薯等が
通常の主食であって、時に魚、肉、黒パン等が与えられたにとどまり、健康を維持する最小限の
カロリーの摂取さえ困難な状況であった。

 医薬品はもっとも不足し、日本軍からの押収品等をもってその必要の一部を充たすに
過ぎなかった。またソ連側衛生員の不足は、大部分の病院等において、日本人の軍医、医師、
衛生兵等が直接、日本人患者の治療にあたった実情であった。

第42頁
A強制労働
 以上のような生活条件のうちで、抑留日本人は更に重い労働作業に従事しなければならなかった。
強制労働はあらゆる種類に亘っていたが、炭坑、森林伐採、鉄道建設、道路構築、荷役、建築、
農業作業、工場内雑役等がその主なものである。労動の種類等は各人の体位、健康の度に応じて
課せられ、老人や病弱者に対しては軽減又は免除されることになっていたが、実際にはソ連側に
より、或は後述する一部日本人により、労働「ノルマ」が強く要求されて、多数の死亡者を出す大きな
原因となった。

第3節 死亡者の発生

 戦闘からソ連領移送までの間に、すでに体力を著しく低下していた日本人は、入ソ以後更に
劣悪な生活環境下にあって強制労働に従事したため、たちまち多数の患者が発生した。

 これらの患者は、栄養失調、赤痢、発疹チフス等の伝染病、結核、その他各種の病気と、
作業による負傷等であったが、医療、栄養等の不足のため、特に、越冬第1年の昭和20年末から
昭和21年春までの間に多数の死亡者を出すに至ったのである。ソ連が約43,000名に達する
病弱者を満州、北朝鮮に逆送したのもこの時期である。

 死亡者は昭和21年までを頂点とし、昭和22年、23年と漸減し、25年以後は急激に減少している。
しかしながら、ソ連本土(外蒙を含む)における死亡者の数は約55,000名に及ぶものと思われ、
南樺太、千島の地域を合すれば死亡者の総数は約7万名にのぼると推定される。(樺太、干島に
おける戦闘中の死亡者を含む)

注.昭和28年11月、ソ連赤十字社代表は、ソ連内における日本人死亡者、行方不明者は
10,267名であると述べたが、上記の状況に照してあまりにも少ない数である。


 これらの死亡者は、すべて収容所、病院等の構内又は付近の場所に埋葬(土葬)されたので
あるが、各種の状況から判断したソ連地域内各地点の死亡者発生の概況は挿図第十六の
とおりである。



第4節 思想教育と戦犯受刑

1.思想教育開始
 ソ連側は昭和21年春頃から、抑留日本人に対する思想教育を開始した。先づ、日本人間に
「友の会」を組織した。ハバロフスクにおいて印刷された日本新聞、及び各収容所における壁新聞
等を利用して、初期においては、日本人の思想啓蒙として、ソ連実情の認識等をその目標としたが、
次第に、日本の社会組織に対する攻撃、並びに階級闘争に転換するに至った。

 この運動は、抑留日本人の早期帰還を待ちわびる心理的弱点にも乗じて、日を追って盛んとなり、
その組織も、「民主グループ」「反フアッショ委員会」と進化し、昭和23年〜24年頃には、
各収容所内の実権をも握る状態となった。

 しかしながら、これがために、反対分子に対する闘争、密告、吊しあげ等、同胞が相争う悲しい
事態が各所に起り、また対ソ協力の名のもとに労働が強化され、或は、反動分子の理由によって
日本人の内地送還をも左右することがあった。

第43頁
2.戦犯容疑者の摘発逮捕
 ソ連は一部の日本人については、ソ連領移送後、直ちに取調べを開始したものもあったが、
大部分の日本人に対しては、抑留期間中、逐次、身上調査を行い、昭和23年頃以後、
戦犯容疑者の摘発逮捕を実施した。

 この際、日本人に対する思想教育と相侯って、日本人相互の密告を利用した模様である。

 戦犯容疑はソ連刑法に基づいて行われたのであった。その戦争犯罪の対象となったのは、
戦争期間及び戦後における行為ばかりでなく、ソ連側が反ソ的と考える戦前の一切の行為や、
軍、官、民の各種組織の重要ポスト在職にまで及んでいる。

 これがため情報機関関係者、憲兵、警察、対ソ作戦計画等の関係者、官公庁・特殊会社の
幹部、満州国高官等の多くは、反ソ行為の容疑者として摘発され、取調収容所、若しくは未決監に
収容された。

 中国共産党に関する戦犯容疑者は、ハバロフスクに集められ、昭和25年7月、中共側に引渡
されたが、その状況は第7編第1章第3節において述べる。

3.裁判及び受刑
 戦犯容疑者に対するソ連側の全般的な裁判は、昭和23年頃から開始され、昭和24年を最盛期
として、昭和26年までに一応終了した模様である。

 受刑者の大部分は、ソ連刑法第58条中の資本主義援助、諜報(スパイ)行為の罪状によって、
その刑期は最高25年に及んだものが少なくない。但し昭和24年12月に実施された、いわゆる
細菌戦関係の裁判は、ソ連刑法によることなく、別個のソ連最高会議幹部会命令によったものである。

 別にソ連刑法第58条以外の一般犯罪によって、入ソ直後、或はその後において受刑した者が
あったが、これらは比較的短期刑の者が多かった。

 刑の判決を受けた日本人は、受刑者として各地の囚人収容所に移された。数人、時として単独で、
多数の外国人に伍して重労働に服することとなった。また樺太において受刑した者のうち、
4,000名内外の者が昭和21年後半頃からシベリアの囚人収容所に送られて服役した。

 これらの囚人収容所はソ連本土の各地に散在していた。多くは未開な地域、特にマガダン北方
地域、オビ河及びエニセイ河の下流地域、タイシェット地区のごとく、気候風土の極度に苛酷な
地点にあって、その労働も一般の収容所に比して苛酷であったため、受刑服役間の死亡者も
少なくなかった。

第44頁
第5節 昭和25年以後における抑留及び残留の状況

1.昭和25年集団送還中絶直後の状況
 当時ソ連本土にあった日本人は受刑服役者(一部取調中の者も含む)を主としたが、一部には
釈放された受刑者でソ連市民のうちにあって残留生活を続けている者等もあった。

 たまたま昭和25年4月22日、ソ連タス通信は「現在ソ連内に残されている日本人は戦争犯罪の
ため刑に処せられた者か、或は取調中の者1,487名、治療を終えた後、送還せられる者9名」
と発表したが、その後における帰還者の数等から見て、この当時ソ連本土には少なくも3,000名
内外の日本人が残留していたと思われる。

 これら日本人の受刑又は残留地点は、ハバロフスク市、タイシェット地区、及びクラスノヤルスク、
カンスク地区を主として、マガダン、ナリンスク、ヴオルクタ、マリンスク、カラカンダ、アルマータ、
タシケントの各周辺地区、及びウラヂミル監獄、ツエーレンツエ等に、数名から数十名の日本人が
いた模様である。

 ソ連市民と生活を共にしていた者は、コルホーズ(共営農場)、炭坑、工場等において勤労自活し、
この間に、ソ連婦人と結婚、ソ連国籍の取得等も逐次行われた。

2.昭和28年頃以後の状況
 昭和28年11月のモスクワにおける日本人送還についての日ソ両国赤十字社代表の会談を転機
として、昭和28年12月1日の舞鶴入港を第一船として集団引揚が再開されるに至った。

 一方、ソ連側においても、スターリンの死後、受刑者に対する取扱いが次第に緩和され、昭和29年
には、一部の減刑及び釈放の新しい処置がとられた状態であった。然しながら、ハバロフスクに集結
収容されていた約1,000名の日本人が、帰還の促進、収容所における労働、給与、医療等に関する
取扱いの改善を要求し、昭31年3月、作業忌避を行ったいわゆる「ハバロフスク事件」があった。

 昭和31年10月、日ソ国交回復に伴い、受刑者はすべて釈放され、同年12月26日舞鶴入港の
興安丸をもって、受刑者のほとんど全部が帰還するに至った。

第45頁
ほとんど全部が帰還するに至った。従って、現在、ソ連本土に生存残留している者は、
約200人前後で、各地に散在し、その大部分はソ連国籍を取得し、或は国際結婚をしていて
帰国希望者は僅少と思われる。

第4章 南樺太、千島における抑留及び残留状況

第1節 終戦直後から昭和24年までの状況

@全般の状況
 ソ連は昭和20年10月、豊原に民生局を設け、各市町村に民警及び憲兵を配置して
占領政策の遂行にあたった。

 この占領政策の強行、特に作業大隊編成のための多数人員の収容、戦犯その他の
犯罪容疑者の逮捕と、朝鮮人、ソ連兵の日本人に対する掠奪暴行とは、日本人の生活に
極度の不安を与えた。

 これがため、ソ連側の禁令を犯して北海道に密航を企てる者、食糧の不足、医療衛生施設の
不備等により死亡する者が続出した。これらの混乱状態は昭和21年末頃まで続いた。

A−1南樺太、千島に配置された作業大隊
 ソ連が終戦後、多数の日本人を捕えてソ領に移送したことは、第2編に述べたとおりである。
南樺太、千島からは約6万名(71個の作業大隊)が、ソ連本土と北樺太に送られた。
南樺太及び千島における労働のため、13個の作業大隊、約13,000名の人員が各地に
おいて労役に従事した。南樺太、千島に配置された作業大隊の状況は次のとおりで、
これらの作業大隊に属していた人員は昭和23年末までの送還により逐次帰還した。


A−2戦犯等の容疑者逮捕と受刑
 南樺太における戦犯等の容疑者の逮捕は、終戦直後から開始された。戦争犯罪関係に
ついては、満州等におけるものと同様で、軍人、及び樺太庁、裁判所、警察、鉄道、民間特殊
会社等の上級者は、反ソ容疑で逐次逮捕された。ソ連の占領政策に副わない者についても、
大幅な逮捕が実施された。
第46頁
 すなわち、北海道への脱出を発見された者、内地から樺太居住の家族のもとに密入国した者を
はじめとし、武器隠匿、食糧窃取、作業怠慢、業務上の事故過失等、その他の無実なものも含み、
反ソ連的、または、ソ連占領政策を阻害すると認められた者はすべて逮捕された。

 逮捕された容疑者の中、特に重要な戦犯関係者はハバロフスク等に送らた。その他の容疑者は、
樺太において裁判が実施された。裁判の結果、受刑した者は、昭和22年まではその大部分が、
また昭和22年以後は、ソ連刑法第58条関係者のみが、ソ連本土の、クラスノヤルスク周辺、
マリンスク、カラカンダ、マガダン等に移送された模様である。

 南樺太、干島からソ連本土に移送された受刑者の数は、約4,000名内外と推定される。
樺太内で服役した者は、豊原、泊岸、敷香、西棚丹、塔路、東内淵、久春内、泊居等の刑務所に
収容され、採炭、伐採、建築等の労役に従事した。但し刑期の短い者の中には、阿幸、蘭泊等の
西海岸に収容され、農業、漁業に従事したものもあった。

B死亡者の発生
 前述のごとき生活状態、特に食糧の不足、医療衛生施設の不備等のため、一般の残留邦人、
作業大隊で労働に従事している者、及び逮捕された者のうちから、相当数の病死者または
労役中の事故死者を出した。

 終戦後から昭和24年末までの抑留、または残留期間中の死亡者は、約5,000〜6,000名と
推定される。、そのうちの8割強のものは昭和22年末までに死亡している。

C送還
 昭和21年12月から実施された送還に関する状況は、本篇第5章において述べるとおりであるが、
昭和21年7月までの間に送還された者は、約264,000名である。これらの送還による帰還者の
主体は、病弱者、生活困窮者、失業者、その他で、ソ連の樺太経営上、必要度の少ない一般邦人
であった。送還された軍人軍属は、樺太、千島に配置された作業大隊に属していた者、及び、
ソ連領移送作業大隊の入ソの際、病弱のため樺太に残された患者等であった。

第2節 昭和25年以後における抑留及び残留状況

@昭和24年集団送還中絶後の状況
 集団送還中絶後、南樺太にあった日本人は、国際結婚の婦人、主要な産業の技術者、及び
受刑者等で、総数約千数百名と推定され、豊原、大泊、真岡、本斗、敷香等の各都市、並びに
泊岸、内淵、塔路、珍内等の炭坑地帯に比較的多く残留していた。
第47頁
 国際結婚は、終戦後、樺太における朝鮮人の地位及び生活状態が高まるに従い、生活上の
必要に追られて、日本婦人が結婚した者が多く、これらの日本婦人のうちには、父母兄弟等が
内地に帰還する際にも、夫の朝鮮人とともに残留したものがある。

 ソ連の各種産業に従事している者は、比較的安定した生活を営み、また受刑者は、昭和25年頃、
豊原刑務所、及び西棚丹収容所に集結収容されたが、その後、ムイカ収容所に移された。

A最近における残留状況
 南樺太にあった受刑者は、ソ連本土と同じく、日ソ国交回復を転機として、昭和31年中に全部の
帰還を終り、その後は、帰国を希望する残留者が数回に亘って送還され、現在に至っている。

 現在、南樺太に残留している日本人は500名、ないし600名と推定され、その多くは朝鮮人と
結婚した日本婦人である。そのうち、帰国を希望している者は約200名前後と思われる。

 残留者は南樺太の各地点に亘っているが、豊原、敷香、大泊、真岡、本斗等の都市、並びに落合、
珍内等の炭坑地帯には比較的多くの日本人が残っている。これらの残留者のうち、約200名内外の
者はソ連国籍を取っており、また約150名内外の者は身分証明書上朝鮮民族として扱われている
模様である。

第5章 ソ連地域からの日本人の送還

@ソ連地域からの集団送還
 ソ連地域からの集団送還は、昭和21年末から、昭和25年4月まで、断続して行われた。その後、
数年の中絶時期を経て、昭和28年12月、再び開始され今日に至っている。

 また昭和24年から、昭和26年の問には、航空機及び船艇によって、少数人員の個別的な送還が
実施された。

A昭和25年の集団送還中絶までの状況
 昭和21年末、日本人の送還に関する米ソ協定が成立し、毎月、5万人が送還されることとなった。
昭和21年12月5日、真岡から函館に入港した雲仙丸を第1船として、ナホトカ、真岡の両港から
送還が行われた。

 しかしながらその後の送還は、種々の理由のもとに断続し、月5万人の送還目標に達することなく、
昭和25年4月22日の信濃丸の舞鶴入港をもって、集団送還はしばらく中絶するに至った。
この期間における送還状況は次のとおりである。

(1)ナホトカより舞鶴に(一部は函館に)

昭和21年12月8日〜昭和22年1月6日間・・・4隻
昭和22年4月7日〜昭和22年12月5日間・・・93隻(うち10隻は函館)
昭和23年5月6日〜昭和23年12月4日間・・・87隻
昭和24年6月27日〜昭和24年12月2日間・・44隻
昭和25年1月21日〜昭和25年4月22日間・・4隻

第48頁
(2)真岡より函館に

昭和21年12月5日〜昭和21年12月8日間・・4隻
昭和22年1月4日〜昭和22年1月6日間・・・・4隻
昭和22年4月6日〜昭和22年12月6日間・・・129隻
昭和23年5月5日〜昭和23年12月2日間・・・82隻
昭和24年6月30日〜昭和24年7月23日間・・3隻

(3)ハバロフスクより羽田に(ソ連飛行機にて)

昭和24年2月11日〜昭和24年2月19日 各1回計13名

 上記の結果、昭和21年12月の送還開始から、昭和25年4月の最終船までの間に、
ソ連地域(ソ連本土、南樺太、千島)から総計約63万4000余名の日本人が帰還した。

B昭和25年の集団送還中絶期から再開以後の状況
 集団送還の中絶期間中に、昭和26年9月5日、浦塩より、ソ連船スモールスイ号をもって、
8名が芝浦に、また昭和26年12月23日1名が、宗谷海峡において日本側に引渡された。

 昭和28年に至り、日ソ両国赤十字代表の会談が行われ、その結果、昭和28年12月1日より、
漸く集団送還が再開された。昭和34年2月5日、真岡より小樽に入港した白山丸まで、17回に
亘って送還が実施された。

第49頁
第6編 中共政権樹立まで(昭和23年末頃まで)
         
満州における日本人の状況

第1章 概説

 昭和20年の越冬時期の満州における日本人の状況は第3編において述べたとおりである。
終戦後、中共軍(中国共産党八路軍)、及び国民政府軍(蒋介石軍)が、相次いで満州に進駐し、
これら両軍の満州各地における衝突は、残留日本人の生活に一層の混乱と窮乏をもたらした。

 すなわち、中共軍、国民政府軍共に、留用等の形式で、多数の日本人を戦闘要員、及び
後方諸機関の要員として強制的に徴用した。また、相手軍に通謀等の容疑のもとに、
日本人を逮捕した。残留日本人は、直接、間接に、中国内戦の影響を受け多くの死傷者を出した。

 一方、満州残留日本人の内地送還は昭和21年5月から、逐次開始されたが、多数の残留
日本人の全部を引揚げるには至らず、特に中共軍等の留用者及び僻地にある日本人等は、
中共政権樹立後まで残留を余儀なくされた。生活能力のない婦女子の多くは、中国人の妻と
なったり、中国人に養育されたりして、ようやくその生命を保ちえた状況であった。
これらの婦女子は、現在においても、中共地域における生存残留者の主体をなしている。

第2章 中共軍、国民政府軍の戦闘と日本人の被害

@
 中共軍(中国共産党八路軍)は、ソ連軍の満州進駐と同時に、本拠地・延安を出発して、
先づ、満州南部の錦州、安東、奉天の各省に進入した。次いで逐次、長春(新京)、ハルピン、
チチハル方面、及び通化、吉林、牡丹江、佳木斯方面にその勢力を拡張した。

 中共軍は、その進出地域に在住の日本人に対し、労務、物資等の供出を強要した。戦闘要員、
及び技術、衛生等諸機関の要員を徴用するとともに、戦犯者を摘発してこれを拉致した。これら、
中共軍による徴用者及び戦犯拉致者の数ば数万名と推定される。

 一方、国民政府軍(蒋介石軍)の一部は、8月末、すでに長春に進駐した。主力は、昭和20年
11月から、翌21年5月に亘り、逐次、中共軍を駆逐し、南満地区を経て、長春(新京)、
ハルピンに進出した。国民政府軍の日本人の徴用も、中共軍の場合とほぼ同様の状態であった。

第50頁
 以上のような状況であったので、中共軍対国民政府軍の戦闘は、先づ、満州南部において
開始された。優勢な国民政府軍のために、中共軍は、逐次、錦州、安東、奉天地区から駆逐され、
北満及び東満の山岳地帯、及び農村地帯に、後退分散して抵抗を続けるにいたった。

 然し中共軍は、昭和21年末頃から、その勢力を回復し、国民政府軍を圧追しつつ、昭和22年
6月には安東を、23年10月には、長春、奉天を、ついで、錦州をも奪回して、遂に23年末には、
満州全域をその勢力下に収めることに成功した。

 この中共軍、国民政府軍の戦闘の間、徴用された日本人で戦死または病死したもの、或は
居住地付近が戦場となったため死傷した一般日本人等のほか、各地における中共、国民政府の
勢力交代の度ごとに、日本人会の幹部は、反動若くは利敵者として、拉致処刑されるものが
少なくなかった。

A
 中共軍、国民政府軍間の戦闘のため邦人の受けた被害のうち、長春市及び四平市付近の被害は
特に大きく、その状況は次のとおりである。
(1)昭和21年4月14日〜18日、長春市付近の戦闘による被害
 死亡者約150名、負傷者約270名、利敵等の容疑で拉致された者約1,000名、徴用連行された
者約4,000名、強制労役させられた者約12,000名。

(2)昭和21年4月18日〜5月18日、四平市付近の戦闘による被害
 死亡者約80名、負傷者約1,200名。

B
 中共軍による邦人の逮捕、拘禁、処刑等の状況は下記の表のとおりである。


第51頁
第3章 中共軍、国民政府軍等に.おける日本人の留用
@
 終戦後、中共軍、国民政府軍は、ともにその戦力の強化を図るため多数の日本人を留用した。
留用は、最初は強制的に留用されたものが多かったが、後には、日本人自身が生活のため
やむをえず留用に応募したものもあった。

 また、国共両軍の勢力の消長に伴い、国民政府軍から中共軍に、中共軍から国民政府軍にと、
その所属をかえた留用者もあった。中共軍においては、留用者は前線部隊、及び後方勤務の
部隊に配置され、前線部隊に配置されたものは、主として戦闘員として、満州のみならず、
中国本土の全域にわたって従事し、その人員は、元軍人約1〜2万名、一般青年男子
約15,000名が戦闘要員として、独身青年約13,000名が担架隊要員として留用されたと
推定される。

 後方勤務の部隊に配置されたものは、衛生部、軍需部、運輸部、供給部等の、技術又は
雑役に従事した。その人員は、軍医、衛生兵、病院勤務雑役として約1万名、看護婦、付添婦等
として約2万名、軍需部、運輸部、供給部要員として約6〜7千名と推定される。

 留用婦女子は、元日本軍及び民間病院の看護婦、一般青年婦女、女学生等であって、
避難行動中、若くは、越冬のため集結した都市から拉致連行されたものが大部分であった。
軍留用者には最小限度の衣、食が支給されたが、給料は極めて少なかった。

A
 中共政府の各種機関に留用された日本人は3万名以上と推定される。主な職種は、炭坑、
鉱山関係従業員として約2万名、電気、造兵、通信、鉄道等の技術員として約5千名と推定される。
これらの留用者は、元軍人、開拓団員、満鉄従業員等である。婦女子も強制的に留用、又は
募集したものであるが、これらの者は、軍留用者に比べて生活は比較的安定していたものが
多かった。
 留用中における死亡者の正確な数は不明であるが、少くとも2千名以上と推定される。

第52頁
第4章 国際結婚、孤児

 日ソ開戦に伴う邦人の避難行動期間中における混乱、及び昭和20年の越冬期間中に、
肉親等と死別または生別した婦女子のうち、自活の手段を失った者は、やむをえず
現地住民に救いを求め、或は、拉致されたのち、遂にその妻等となったのであって、
その数は約4千名と推定される。

 また両親を失った孤児、及び養育ができないため親が現地住民に托した子供は、
総数2,500名以上と推定される。これらの事態は辺境地域にあった居留民、特に開拓団員等が
避難行動中、または団地で越冬中に起ったものが大部分であるが、大都市に移動後も、或は
従前より中南満に居住していた者のうちにも起っている。国際結婚、孤児として現地住民の
家庭に入ったものは、一応、その生活も保障され、逐次、現地民の生活に同化して行く状態と
なった。

第5章 日本人の送還(計画遣送)開始

 満州においては、昭和21年、国民政府が「日僑管理処」を、日本人側が「東北日僑善後連絡
総処」を奉天に設置して、日本人の引揚を準備した。

 先づ瀋陽(奉天)付近に集結した日本人を、21年5月15日、瀋陽発の列車でコロ島に送り、
コロ島経由で内地送還の途につかしめた。

 しかし、当時、ハルピン以北の地域は中共軍の勢力下にあったため、米軍ベル大佐は、
21年8月、ハルピンを訪れて、中共側を説得した。その結果、中共勢力下の地域からも引揚が
開始されることとなり、爾後、21年10月までの間に、全満の主要都市から、コロ島を経由して
約100万人にのぼる日本人の内地送還が行われた。

 当時、これは第1期計画遣送といわれていた。第2期以後の概要は次のとおりである。

第2期 昭和21年11月〜12月の期間・・・約4,400名
第3期 昭和22年6月〜10月の期間・・・・約29,000名
第4期 昭和23年6月〜8月の期間・・・・・約3,400名

このほかに、大連居住者は、昭和21年12月から昭和22年4月の期間に、約22,000名、
また昭和23年7月に約5,000名の送還が行われた。

第53頁
第7編 中共政権下における
     抑留及び残留日本人の状況


第1章 昭和27年頃までの状況


第1節 概況

 中共軍は国民政府軍を駆逐して、昭和23年11月には、満州を、その後、逐次、華北以南の
中国本土をその手中に収め、昭24年10月、中華人民共和国を樹立した。

 中共の勢力下に残留した日本人は、すでに述べたごとく、中共の軍及び政府機関に留用されて、
先づ、国民政府軍との戦闘に協力し、次いで、中共政権樹立後においては、新中国建設のために
協力を余儀なくされて残留した。

 特に昭和25年から開始された朝鮮動乱は、これら留用日本人の帰還を一層困難ならしめる
こととなった。

 この間、中共側の思想改造教育(学習)は、各地、各職場の日本人にまで及び、ために日本人
相互間の反目や、中共側による投獄者まで発生する状況であった。

 昭和25年には、ソ連から中共関係戦犯容疑者969名が引渡された。また山西政府軍に参加して
いた日本人約700名も戦犯容疑者として中共側に収容された。

 昭和21年6月から同年10月までの期間に行われた送還(計画遣送)以後の集団引揚は、
昭和24年9九月、及び10月における大連からの1100余名をもって一時中絶し、
その後においては、昭和26年、及び昭和27年に、計約200名の帰還があったにとどまった。
従って、帰還に洩れて中共地域に残留した日本人、特に自ら生活の手段を持たない老幼婦人は
極めて悲惨な生活状態が続いた。

第2節 学習

 中共軍によって武力工作と併行して開始された思想工作は、残留日本人に大きな精神的圧迫を
与えた。さらには、永く残留抑留を余儀なくさせた原因ともなって、日本人に重大な影響を及ぼした。

 終戦直後、満州においては、中共政治部員の指揮下に、延安において既に共産教育を受けた者、
及び終戦後、満州の監獄より解放された共産主義者等が、各地に民主連盟、解放同盟等の組織を
作り思想教育を始めた。

 次いで工作員養成の目的をもって、安東をはじめ、本渓湖、新民等の各地に日本人民解放学校、
労農労工学校等の共産主義思想教育学校を開設し、青少年男女に対して約3ケ月の速成教育を
行った後、工作員として、各留用機関等に配置し、逐次、各地の職場における思想工作を実施した。
第54頁
 例えば、鶴岡炭坑においては社会主義研究会及び合宿訓練等が行われ、その結果、東北建設
突撃隊が編成されて中共の建設に協力することとなった。

 またこれと同時に、反動闘争の運動が開始されたため日本人同志間に思想闘争が続けられ、
遂に民主裁判により銃殺刑に処せられた者もあった。

 中国本土における思想工作も東北地区(満州)と同様の状態で進められ、昭和25年11月以後、
永年における華北軍区訓練団に軍留用者、東北地区各職場からの選抜者、山西省の閻錫山軍に
参加した者等約1,000名を集め、昭和27年10月まで「洗脳」と称して共産主義政治教育の徹底を
図った。これらの教育を受けた者は、その後主要都市の各職場に配置され、また閻錫山軍参加者の
一部は太原に移され戦犯者としての取扱いを受けることとなった。

第3節 受刑

 ソ連政府は、ソ連に抑留した日本人のうち、中共関係戦犯容疑者969名を、昭和25年7月17日、
綏芬河(すいふんが)において中共側に引渡した。これらの者は、元支那派遣軍の将兵のうち、
対中共軍(中国共産党八路軍)戦闘の責任者、並びに関東軍の憲兵、満州国の高官、警察官等で
あって中共側はこれを撫順に収容した。

 朝鮮動乱の発生に伴い、昭和25年10月にはハルピン、及び呼蘭の監獄に移した。昭和28年に、
再び撫順戦犯管理所に収容して今日に至った。

 閻錫山軍参加者で中共側の捕虜となった約700名は、昭和25年12月、戦犯容疑者として
永年の華北軍区訓練団に収容され洗脳教育を受けた後、保定、西陵等に移された。
また一部は、昭和27年10月、太原戦犯管理所に移された。

 以上の戦犯及び戦犯容疑者として、中共側に強制抑留されている者1,069名、及び当時までに
死亡した者40名の氏名は、昭和29年10月、中国紅十字会長・李徳全が来日した際に、初めて
日本側に通報された。

 戦犯容疑者に対しては学習を行った後、昭和29年3月下旬頃から本格的な取り調べが開始され、
起訴を免かれた者は逐次釈放され帰還したが、昭和31年6月には、44名が8年20年の刑に
処せられた。このうち、昭和34年4月現在、なお28名が撫順において服役中である。

 前述のいわゆる戦犯受刑者のほか、日本人で、一般の犯罪(中共の政策による、いわゆる三反、
五反運動に違反した犯罪も含む)のかどで受刑し各地の監獄に投獄された者もある模様だが
その状況、人員等は明らかでない。

第55頁
第4節 内戦及び朝鮮動乱等の影響
@
 中共軍の満州及び中国本土における国民政府軍との戦闘とこれに参加した日本人の状況は
既に述べたとおりであるが、昭和24年末、中共政権樹立後も、なお中共軍に留用されていた
日本人は、昭和26年以後、逐次、その留用を解除されて、各地の職場に配置され、或は
学習教育に参加させられた。

A
 昭和25年、朝鮮動乱の勃発に伴い、海南島に作戦中の中共軍部隊に属していた日本人は、
部隊とともに北上を開始したが、瀋陽又は安東に於て、日本人の大部分は直接第一線に
参加することを禁止された。然し一部は中共軍の第一線において行動した者もあった。
これらの者は昭和26年半頃には戦線勤務を解除されたのち、各地の職場に配置され或は
学習に参加した。

 またこの朝鮮動乱等のため、旅順大連地区および安東地区に残留していた日本人は
強制的に他の地域に移動させられた。すなわち昭和25年12月には大連から約2,000名、
昭和27年には、旅順、大連、安東から約1,500名がそれぞれ中国本土に移動させられた。

B
 中共軍は昭和25年半頃より越南戦(ベトナム動乱)に介入し、これに参加した日本人は
1500名以上と推定されるが、多くは直接戦闘に加わることなく中共軍の補給、衛生等の
勤務に従事した。これらの者は動乱終了後、漢口に於て学習教育をうけ、約500名の者は
更に北京に移動して学習を受けた模様である。

第2章 昭和28年以後の状況

 昭和27年12月、北京放送が日本人の帰国を発表したことを端緒として、その後、帰還が
再開し、また残留者の状況が逐次判明するに至った。その概要は次の通りである。

 昭和28年3月、中国紅十字会と我が引揚3団体との間の「日本居留民帰国問題に関する
合同コミニュケ」が発表され、久しく中絶していた帰還が昭和28年3月下旬から再開され、
10月までの期間に7回、約26,000名が帰国した。

 この帰還終了後、中国紅十字会は日本居留民の集団引揚の打切りを宣言した。その後、
昭和29年から昭和33年までの期間に14回、約8,000名の者が帰還した。

 また昭和31年の第14次以後には、所謂、里帰り婦人も一時帰国した。

 昭和28年以後に於ける日本人残留者の大半は、国際結婚者、または孤児である。その他は、
留用者、学習参加者、戦犯、一般受刑者である。これらのうち、国際結婚者及び孤児について
は既に述べたとおりであるが、その他の者は、主として上海、武漢、太原、瀋陽、長春、ハルピン
等の大都市の各職場に於て半ば学習半ば就業の状態にあった者が大部分で、一部、上海、北京、
瀋陽等の各大学で学習に専念した者もある。これらの者も、すでに殆んど帰国したので、現在
なお生存残留している者は国際結婚及び孤児を主体とした約50〜60名と推定される。

第56頁
第8編 北朝鮮における越冬後の
      抑留及び残留日本人の状況


第1章 ソ連軍管理下における状況

 ソ連軍は北朝鮮進駐直後より、朝鮮人政権を作ることに着手し、逐次、日本側の行政権を
接収して、これを各道の人民委員会に移した。昭和20年11月、北朝鮮行政局が、昭和21年
2月に北朝鮮人民委員会が成立するに及んで、北朝鮮の政権は概ね統一されたが、
北朝鮮民主主義共和国として独立を宣言したのは、昭和23年9月であって、ソ連軍が撤退を
終ったのは昭和23年11月である。この期間における日本人の状況は概要次のとおりである。

@越冬後における日本人の南朝鮮への脱出
 北朝鮮の各地において越冬した日本人は、昭和21年の春とともに、集団的移動を開始した。
昭和21年6月までに南朝鮮に収容された人員は10万名以上であった。この脱出行動は、
昭和21年6月4日、ソ連軍司令官が南下禁止の命令を発するまで続行された。

 ソ連軍司令官は更に残留日本人の取扱に関する具体的な条件を布告して日本人の動揺の
防止に努めたが、工場、鉱山等に留用された技術者以外の者は、安定した生活が
期待できなかったので7月下旬より10月中旬の期間に於て約9万名が、ソ連軍及び北朝鮮側の
黙認の下に脱出を強行した。その後は昭和23年以後に約1,000名が南朝鮮に脱出した。

A技術者の抑留
 昭和21年12月、北朝鮮人民委員会は、日本人技術者約1,000名を強制的に水豊発電所を
はじめとして、製鉄、その他各種の工場、鉱山等に留用した。これらの者は、その後、留用の解除
とともに逐次帰還したが、15名は戦犯容疑者としてソ連軍に逮捕されソ連領内に移送ざれた。

B受刑
 終戦前、朝鮮の民族独立運動弾圧に直接関与した司法関係者、特に警察官等は、終戦直後、
既に、ソ連軍によって抑留されたが、これに洩れた者、並びにソ連側の釈放者も、その後改めて、
北朝鮮側に抑留され、約70名が新義州の人民教化所に収容された。昭和23年6月における
送還終了後に、受刑者として平壌刑務所に残された者は15名で、3年ないし無期の刑に
処せられたことが明らかであるが、その後、朝鮮動乱時、米軍が平壌に進駐した際、同所の刑務所
には一人の日本人もいなかった。

第57頁
Cカムチヤツカ出稼ぎ労働者
 昭和21年4月、ソ連軍司令官は、カムチャツカ漁業労務者として朝鮮人を募集する際、日本人にも
応募を求めた。その条件が有利であったため、貧困者がこれに応募し、その支度金や米を家族の
脱出費用にあてた。これら約1,000名(内女性約170名)は、5月末、朝鮮人労務者と共に
カムチャツカに向い、契約期間満了後、北朝鮮に帰り、その後、昭和24年末迄に逐次帰国したが、
約15名の者はカムチャツカに残留した模様である。

Dソ連軍による日本人の送還
 昭和21年10月下旬、米ソ間に「ソ連地区日本人の送還協定」が正式に締結され、次の如く
内地に帰還した。

昭和21年末より昭和22年1月の期間、9回、約3,900名
昭和22年に3回、約2,800名
昭和23年に1回、約1,000名

第2章 ソ連軍撤退後における状況

@南朝鮮への脱出状況
 昭和23年12月、ソ連軍の北朝鮮撤兵後、なお北朝鮮に残留していた日本人の南朝鮮への
脱出は依然続けられた。殊に、昭和26年5月以後、朝鮮動乱による避難民として釜山に集結の
朝鮮人と結婚した日本人、及びその子供達は11回に亘って帰還したが、そのうちには昭和25年
12月、国連軍の北朝鮮撤退の際に北朝鮮から南下脱出した者43名が含まれていた。

A残留及び帰還
 朝鮮動乱以後、北朝鮮に残留した日本人は、強制的に抑留された技術者、受刑者及び
国際結婚者等、計約200名内外であったが、受刑者以外の者の生活は概ね安定していた
ようである。

 昭和30年9月から、日本赤十字社と北朝鮮赤十字社との間に日本人の帰国に関する交渉が
進められ、昭和31年4月、引揚船「こじま丸」により、16世帯36名が帰還した。

 現在なお生存残留している者はいつれも国際結婚者及びその家族であって、殆んど帰国の
意志のないものと推定される。

以上

関連サイト:シベリア抑留者数の徹底調査を 




資料出所:よりしろのふ平和祈念展示資料館

出典:『週刊朝日百科113 日本の歴史 現代B 占領と講和』第79頁


厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会 監修『援護50年史』((株)ぎょうせい 平成9年3月発行)第86頁

以上