シベリア抑留 行方不明者記録抹殺
ソ連の日本人捕虜虐待
−多数の行方不明者、落後者は殺害?

日本人捕虜の行方不明者数にふれた
マスメディアはまったくない

                         2013年2月 Minade Mamoru Nowar

2011年8月現在の政府発表・マスコミ報道のシベリア抑留に関する数字は下記表の通りである。



  帰還者数  + 死亡確認数 +  逆送者数 = 抑留者総数
473,000+55,000+47,000=575,000

この数字では、日本政府は、シベリアへ拉致移送された日本人捕虜の中、
ソ連領内で行方不明になった者は1人もいない
と日本国民に発表していることになる。

1981年以降、日本のマスメディアも、このデタラメ極まる日本政府の発表数字を、
シベリア抑留に関する報道において、何の注釈も付けずに、そのまま引用している。

行方不明者数にふれたマスメディアはまったくない。

さらに、自民公明政権は、日本国民を騙すために、シベリア抑留に関する
数字発表をする際には、必ず、ロシア政府の資料によると注釈を付けている。

戦後、日本が独立する前には、当時の復員庁や引揚援護庁は、必死に、
シベリア抑留に関する正確なデータの収集に努めていた。

それが、日本が主権を回復し、GHQ/SCAPの関与がなくなると、

180度方向転換して、以後、外務省牽引車となって、

「日本人捕虜の奴隷労働被害を徹底的に隠蔽せよ」という
極悪非道なスターリンの遺志を日本政府方針として忠実に実行している。

行方不明者数にふれない日本政府のシベリア抑留に関する現在の発表数字では、
シベリア抑留の実態は認識・理解できない。





ロシア国民は、1945年8月15日の日本降伏後に、9月2日の降伏文書調印後の、
すなわち、戦争が完全に終わった後・戦後に起きた、
極悪非道なスターリンの日本人捕虜に対する奴隷労働強制犯罪
鬼畜・ソ連軍兵士の日本人女性数万人に対する強姦致死犯罪
エセ裁判による数千人の日本人虐殺・虐待犯罪
歴史事実をまったく知らない。

自民党政権、及び自民社会政権、自民公明政権等の日本政府は、
これらの極悪非道なスターリンのソ連が犯した戦後の戦争犯罪について、
ソ連政府に対しても、1991年のソ連崩壊後、ソ連を引き継いだ
ロシア政府に対しても、公式にも、非公式にも、国としての謝罪を要求する
抗議を行ったことはまったくない。

抗議どころか、それとは正反対に、日本政府が、スターリンの遺志を固く守って、
ソ連の戦後の数々の戦争犯罪事実の隠蔽に狂奔してきたのである。

2010年6月16日、自民公明両党が全員欠席した国会で、
「戦後強制抑留者に係わる問題に関する特別措置法」が全会一致で可決され成立した。

関連情報:
総務省大臣官房・特別基金事業推進室の資料によると、2012年3月31日現在で、
上記特別措置法に基づく特別給付金を申請した元シベリア抑留者の受付総数は
約6万9000件、うち認定数は約6万8000件、給付金振込処理数は約6万7000件、
振込特別給付金総額は約188億円。

2011年8月5日、同法に基づいて、「強制抑留の実態調査等に関する基本的な方針」が
閣議決定された。

しかしながら、この問題に関わる日本政府の省府の組織・体制が変わることは、当面、
まったく期待できないから、シベリア抑留の実態が解明されることは、当分、ないと思う。

ロシア国民は、極悪非道なスターリンの日本に対する諸犯罪についての罪悪感は
まったくないから、戦勝国ソ連・ロシアが、敗戦国で、侵略者で、憎むべきヒトラーの
ドイツと軍事同盟を締結してソ連を脅かしていた日本に、北方4島を返還する理由は
まったくないと思っている。

万一、仮に、ロシアで、北方4島を日本へ返還することの是非を問う国民投票が
行われた場合、ロシア国民の99.99%は、「返還絶対反対」意思を表明すると思う。
従って、筆者は、北方4島が日本へ返還されることは100%あり得ないと思う。

外務省の歴史事実隠蔽の罪は重いと思う。

筆者は、シベリア抑留者総数は70万人以上と推定している。
従って、死亡を含めて、消息が確認できなかった
行方不明者が、12万5,000人以上存在する
と推定している。

12年4月に、電話で厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室にお尋ねしたところでは、
シベリア抑留に関する行方不明者・消息不明者の人数について、
公式に発表された数字はないとのことであった。


2011年9月16日夜、テレビ朝日の『報道ステーション』で、極悪非道なスターリンの
ソ連軍によって、色丹島からシベリアへ拉致移送され、奴隷として強制労働をさせられた
方が孫に語った「シベリア抑留の凄絶」が放送された。

極寒期、飢えと強制重労働で、毎日、数十人も死亡した悲惨な状況が語られ、
「自分は、生きて日本に帰れたが・・・・・・」と。






















1949年(昭和24年)5月20日 タス通信発表 
日本人捕虜の
死亡者・行方不明者
 0(ゼロ、すなわち1人もいない)
現地で即時釈放された者 7万880人



1949年(昭和24年)5月20日 タス通信発表

『戦後強制抑留史 第4巻』第156頁〜第159頁(平和祈念事業特別基金 平成17年3月発行)
上記『戦後強制抑留史 第4巻』第158頁の赤枠部分:
それに代わるものが、5月20日のタス通信を通じた1回目の発表だった。
第1回発表の概要は以下の通りである。(下記の赤枠部分)

▽日本将兵の捕虜総数                  59万4000人
▽戦闘地域で即時に釈放された者            7万 880人
▽既に帰還した者(1946年12月−1949年5月)  41万8166人
▽未引揚者総数(1949年5月時点)          10万4954人
(内訳)戦犯その他で取り調べ中のもの            9954人
1950年11月までの送還予定者             9万5000人
▽死亡・行方不明・その他              0人(ゼロ人・・1人もいない)



1949年(昭和24年)5月20日、ソ連のタス通信は
「日本将兵の捕虜総数は、59万4,000人
死亡・行方不明・その他 0人」と報じた。

抑留中の死亡者は一人もいない

現地
(満州・北朝鮮)において7万880人釈放した
という驚くべき発表内容である。

タス通信は、いわば、「ソ連で死んだ日本人捕虜は一人もいない。
つまり、死ぬ時は、全員、満州・北朝鮮へ行って死んだ」と発表したのである。

後述の通り中野重治氏
GHQ/SCAP
の数字は、「満州で死んだ日本人捕虜は一人もいない。
死ぬ時は、全員、ソ連へ行って死んだ
」ということになると非難したが、
まさに、その正反対のことをタス通信は発表したのである。

当時の
(スターリン)共産党の聽濤克巳氏は、
「タス通信は非常な権威を持つた、国家と一体となつてやつている通信社である。

しかも一番重要な事実は、
ソ連は、1945年(昭和20年)9月11日の
ソ連邦情報局の発表以来、
終始一貫して、抑留者総数は59万4,000人という数字を
発表していることである」として、翌年の1950年2月25日の第007国会・衆議院外務委員会で
日本政府の
70万人を「日本国民の反ソ感情を煽るための虚構の数字」であると厳しく非難した。

この50年2月25日の第007国会・衆議院外務委員会で倭島政府委員(外務省管理局長)は、
70万人という数字は、日本政府が過去四、五年間にわたつてチエツク・アツプして、
最も信頼のある正しいと思う数字です。総司令部の数字と日本側の数字は一致しております」
と答弁している。

さらに同委員会で、中山マサ委員は「私は海外同胞引揚委員長として、対日理事会を傍聴し、
英語で直接聞き、確かめた結果、
70万人は、対日理事会でソ連が承認した数字であると
発表します」と発言している。

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第007回国会 参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会第5号 議事録抜粋
昭和24年12月23日(金曜日)午前10時42分開会
議題:ソ連地区残留同胞調査に関する件(右の件に関し証人の証言あり)

中野重治委員(著名な作家で当時共産党参議院議員)

加藤さんにもう一遍お願いしたいのですが。先程委員長からもお話がありましたように、
シベリア抑留者総数の問題が非常に日本では皆の心配の種になつておりまして、非常に
いろいろ問題があるようですからお尋ねしたいのですが、日本で、日本の外務省が発表した
引揚対象の基本数というのが発表されているのですが、それによりますと、ソ連には
1,617,655人という数字が出ているわけなんです。それから、シベリア、
ソ連で死んだ人の数字は、1945年中には、これはこの年は状態が非常に惡くて、
10%死んだという、こういう発表がされているのです。

そうしますと、問題の性質を分つて頂くために、少し説明するのですが、
161万人10%だと、算術で16万人程度になるわけですね。ところが最近の対日理事会で
発表された数字を見ますと、1945年の死亡率は10%で、死亡者は272,349人と、こうなつて
おるのです。つまり、1,617,655人が基本数ならば、多少の出入りはありましようけれども、
死亡率が10%なら、死亡者は16万人程度になるのですが、これが27万人ですから、
11万人
程多いわけなんです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・証人・加藤善雄氏 そうですね。

中野重治委員(著名な作家で当時共産党参議院議員)

そうなるんですよ。それで一方、この同じ外務省の管理局引揚渡航課の発表によりますと、
ソ連と同じ引揚対象の基本数だろうと思うのですが、滿洲は1,105,837人と、こういう数字が
出ているのです。で、今、言った通り、満州における1,105,837人と、ソ連における
1,617,655人と加えると、合計で2,723,492人、こうなるのです。この合計した引揚対象
基本数の10%というものを取つて見ると、272,349人、丁度ぴつたり合うのですよ。

そうしますと、外務省の説明では、この満州における1,105,837人という中からは
死亡者は1人も出なかつたと、死亡者は、皆、ソ連に行つて死んだ
と、こうなると勘定が合う
のですね。私の説明が不十分であつたかも知れませんが、算術でいくとそうなるんですね。
議事録は以上
               GHQ/SCAP


『ソ連収容所における日本人捕虜の生活と死』の資料
1945年の最初の冬の死亡率は異常に高かったということを考慮しても、
あるいは、1947年のある地区の高い死亡率を、その他の収容所に一律に
当てはめることはできないと考えても、次のような推定死亡率をあてはめ
なければ、ソ連の送還予定者数、95,000人を差し引いた、残りの消息
不明者、374,041人の運命は説明されない。

Classification
その年の状況
Percentage
死亡率
Losses
1945年 すべてが最悪の冬 10.0% 272,349人
1946年 僅かだが改善された 7.0% 77,816人
1947年 かなり改善された 3.7% 19,668人
1948年 思想教育が行われた 2.0% 4,208人
総計 374,041人

志村注:この表あるLossesは、未確認を含む死亡者数であると思う。

つまり、中野重治氏は、抑留者数と死亡者数(戦死者・刑死者・行方不明者を含む)は、
地区(ソ連領内、満州大連、北朝鮮、樺太千島)と、軍人・民間人別に分けた上で、
全体の数字を念頭に置いて、検証しなければならないと指摘したのである。
的確な指摘で、筆者も同意見である。
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筆者にとっては、まったく信じられないことであるが、日本政府、特に、
外務省は、シベリア等に拉致移送され、重労働を強制された日本人軍人、
及び民間人は、捕虜ではなくて、抑留者であると言っている。

日本政府は、ロシア政府に、日本人捕虜という呼び方を止めて、
日本人抑留者と呼ぶよう公式に申し入れまでしている。

ソ連政府、ロシア政府は、一貫して、捕虜と呼んでいる。
日本の外務省の「抑留者表現申し入れ」を、断乎として拒否している。

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抑留者ではない!有無を言わさず拉致移送された
日本人軍人は、まぎれもなく捕虜である。

不法非道に逮捕され、拉致移送された日本人民間人は
拉致被害者である。

日本人捕虜と、日本人拉致被害者は、
奴隷として酷使され、死に追いやられた!

この悲惨な歴史事実について、2011年9月時点にいたるまで、
日本政府も、マスコミも、数多くの犠牲者の体験記も、すべて
シベリア抑留という表現を使っている。

しかし拉致移送された日本人捕虜(軍人及び民間人)の
悲惨な実態を知れば知るほど、彼らが受けた苦難は
【抑留】という言葉から連想される状況とは大きく異なる。

日本人捕虜(軍人及び民間人)は、まぎれもなく、
奴隷として一切の人権を奪われ、
生きるための食糧すら十分に与えられず、
奴隷として酷使され、多数が死に追いやられた。

零下30度〜50度の極寒の中でも野外での
休憩なしの奴隷労働を強制され、多数が死に追いやられた。

病気になつても、怪我をしても、熱が38度以下であると
奴隷労働を強制され、多数が死に追いやられた。

極寒の中での奴隷労働凍傷になり、手足の切断を余儀なく
されたものも少なくない。

劣悪な作業環境で石炭・鉱石の採取作業を強制されたものの
多くは【シベリア珪肺】に犯され、多数が死に追いやられた。

捕虜収容所の衛生環境は劣悪で、
発疹チフス・赤痢・痘瘡・疥癬などの伝染病が蔓延し、
多数が死に追いやられた。
全員シラミに悩まされた。

病気になっても、怪我をしても
医療を受けることや、医薬品を支給されることは稀であった。
医療を受けられないため、ヘルニア、肺炎、盲腸炎、結核などに
犯されたものは皆死亡した。


ソ連一般労働者よりはるかに高い【ノルマ】を課せられ、
1日、10時間以上の重労働を強制された。
【ノルマ】未達者は食糧を減らされた。
さらには食糧を支給されないことすらあった。

伝染病・医療の欠如・飢え・栄養失調・過酷な重労働・極寒
日本人捕虜(軍人及び民間人)たちは、
続々と死亡して【死体の堆積(ヤマ)】を築いた。

逃亡を企てた者は【問答無用】で射殺され、
見せしめのため遺体を晒され、
人間としての尊厳を冷酷に奪われた。

日本人捕虜(軍人及び民間人)たちは、
日々【絶望感】に苛まれ、
【民主運動(=スターリン礼賛と社会主義革命のための洗脳教育)
【つるし上げ(=ソ連当局者の指示に従わない者を集団で非難すること)
という【精神的拷問】に苛まれた。

あらゆる意味において、
「これこそが奴隷労働だ」
との定義に100%あてはまる悲惨な歴史事実である。

この悲惨な歴史事実を、
現在の日本国民が偏見にとらわれることなく
正しく認識して、後世に確実に伝えるためにも、
現在及び将来のロシア国民に、
この悲惨な歴史事実を正しく認識させるためにも、
さらには悲惨な戦争の惨禍を防止するため、
広く国際社会に、この悲惨な歴史事実を認識してもらうためにも、
「シベリア抑留」と表現することは止めて、
「日本人捕虜のシベリアにおける奴隷労働」
表現しなければならない。

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シベリア等へ拉致移送された日本人軍人の中、将官・将校は、
日本帰国後、高額の軍人恩給を受給して、日本政府に手厚く補償されてきたから、
日本の外務省の主張に同調して、
「われわれは断じて捕虜ではない。抑留者である」 と主張している。

1991年のソ連崩壊後、現在に至るまで、ロシア政府は、シベリア抑留についての
実態調査に、一貫して、非常に協力的である。1民間人にすぎない、斎藤六郎氏の
調査にも全面的に協力している。

これに対して、日本の外務省は、シベリア抑留の実態解明に、まったく関心を
持たない。ロシア政府に対しても、国際社会に対しても、日本国民に対しても、
当事者であるシベリア抑留被害者(奴隷労働被害者)に対しても、
日本歴史上かってなかった、この悲惨な歴史事実を超完全に無視する姿勢を貫いている。

筆者は、日本の外務省が、なぜ、この超完全無視姿勢を貫くのか、どうしても理解できない。


1981年、引き揚げ完了後、30年もたってから 
自民党政府は
シベリア抑留者数を
70万人から57万5,000人に減らした


1949年〜1950年、当時の復員庁/引揚援護庁はシベリア抑留者数は70万人としていた。
GHQ/SCAP(連合国軍総司令部)も、特別報告書の通り、抑留者数は70万人としていた。

1949年〜50年、徳田球一・野坂参三・聽濤克巳の(スターリン)共産党
「抑留者数は70万人というのは反ソ感情を煽るためのGHQ/SCAPと日本政府が
でっちあげた虚構の数字である」とGHQ/SCAPと日本政府を厳しく非難していた。

この70万人を、ソ連からの引き揚げが実質的に完了した1950年から30年もたってから、
1981年、自民党政府は57万5,000人に変えたのである。

これでは、自民党政府が、徳田球一・野坂参三・聽濤克巳の(スターリン)共産党の指摘が
正しかったと30年後に認めたことになるのではないか?

さらに、これでは、自民党政府が、シベリアに抑留された日本人捕虜のうち、
12万5,000人日本の歴史から抹殺したということになる。

たとえば、『ソ連地区収容所掌握概況表』では、チタ地区の1947年(昭和22年)
12月1日時点での死亡者数は12,728人である。その後も、残留者33,455人のなかから
相当数死亡したと思う。

それが、厚生省・1997年3月発行の『引揚援護50年史』の第524頁では
3,200人になっている。ロシアから渡された死亡者名簿では2,539人である。

チタ地区だけで、日本人捕虜の死亡者は、
9,528人以上が、
日本政府によって
日本の歴史から抹殺された。


日本の歴史から抹殺された日本人捕虜たちの亡霊は、成仏できず、戦後66年、
今なお、泣きながらシベリアの荒野を彷徨っていると思う。

1981年のこの変更に伴って、以後、歴史教科書、マスコミ報道において、
死亡者数は約5万5,000人という数字が完全に定着した。

この死亡者、約5万5,000人については、厚生労働省社会・援護局は
インターネットで『抑留中死亡者名簿』をHPに公開している。
氏名不詳の死亡者は5,000人といっている。

シベリア抑留者の方々が書かれた、2,000冊以上といわれる手記や画集は、
いずれも、亡くなられた方々はおびただしい数であったと書かれてある。

さらに、悲惨なことには、埋葬・火葬されずに、谷底や原野や河川に遺棄された
方々も少なくない
と書かれてある。

さらに、さらに、悲惨なことには、拉致移送・逆送途中で、多数、死亡しており、
遺体は原野や海に遺棄されたと書かれてある。

これらの惨事に加えて、ソ連のいわゆる【戦犯裁判】と称するエセ裁判で、
数千人が銃殺死、獄中死している。

1日10時間以上の奴隷重労働、1日黒パン一つと名ばかりのスープ、
2580カロリー以下
という不満足な食糧支給の結果、栄養失調と壊血病、脱疽、
結核、肺炎等で死亡したのみならず、発疹チフス、赤痢、熱病などの伝染病で、

作業大隊の全員が死亡
したというケースもある。

全滅は免れたが作業大隊の半数以上が死亡したということもかなりあった。



71〜99年の7期、鶴岡市議を務められた、全国抑留者補償協議会元会長・
神林共弥氏
は、毎日新聞(山形版)10年8月22日第21面ので次のように語っている。

「労働が免除されるのは氷点下30度以下になった日だけ。それ以外の日は、伐採をしたり、
鉄塔を建てたり、線路の敷設などをやらされた。食事は1日パン300グラムとスープ。
おなかがすいてたまらなかった。

いたるところに何千人という死人の山だ。
冬に亡くなった人には雪をかぶせて終わり。
春になると積み重なった数千体があらわになった。
シベリア中に日本人が埋まってるよ。


シベリア抑留の実態が明らかになったのは、全抑協の調査や運動の結果だ。
日本政府は何一つ解明しようとせず、司法も切り捨てようとしてきた。
特措法の成立は長い間の念願だったが、補償というにはほど遠く、
日本政府は誠意を尽くしたとはいえない。

無念にも死んでいった仲間たちに償いの花が手向けられるよう、
われわれは生きている限り運動を続ける。」

筆者も、 神林共弥氏とまったく同じ意見である。







参考サイト:画集 「一兵士のダモイへの道」吉田勇 画


上記、吉田勇画伯の絵は、著作権者の許諾をいただいて転載しています。
コピー及び転載は禁止します。

主権回復後、日本政府は
シベリア抑留の実態解明作業を放棄


死亡者数約5万5,000人、そのうち氏名不詳の死亡者は5,000人という数字を、
筆者は、到底、信じることはできない。

当時のソ連政府は、実際の死亡者数から16万人以上を抹殺するため、
抑留者数は59万4,000人と発表した。

日本政府はこれより、さらに、1万9,000人も減らして、
抑留者数を57万5,000人とした。

日本が米国に占領されていた当時、日本政府は未帰還者数の正確な把握に全力を
尽くしていた。しかし、さまざまな調査困難な事態に対処しなければならなかった。

先ず、関東軍各部隊のうちには、停戦に伴い、各人に自由行動を許した部隊が相当数あった。
多くのものがバラバラに満州各地へ移動していった。国共内戦の影響もあって、国民党政府軍や、
共産党八路軍や、山西政府軍に参加する者もいた。しかし、その後、彼らのほとんどすべては、
元日本兵であった事実を隠して、偽名で日本へ帰国している。

次に、ソ連軍は、不法非道な民間人の【男狩り】を行って、おびただしい数の民間人を逮捕し
拉致移送した。しかし病弱者が続出したため、逆送という手段で逮捕者の大量虐殺を行った。

ソ連軍が日本人軍人と民間人を徒歩で拉致移送する途上でもおびただしい数の死亡者が出た。
収容所到着以前に死亡したこれらの犠牲者は、氏名を確認されることなく、死亡地に遺棄された。
遺棄された事実や遺棄人数についての資料はまったくない。

さらには、中国共産党の八路軍は、占領した満州各地で、日本陸軍憲兵、日本人警察官、
満州国の日本人官吏、及び中国人を大量に雇用していた日本企業の幹部を、中国人を不当に
虐待・殺害・酷使していたとして、片っ端から、それこそ容赦なく、手当たり次第ぶっ殺した。

日ソ戦の戦闘中の戦死者数把握も困難を極めた。シベリア抑留中の奴隷労働中においても、
日本人捕虜は頻繁に移動させられた。収容所、病院、作業現場等で多数の死亡者を出した。

ソ連政府は、現在の北朝鮮政府とまったく同じく、米国政府や日本政府の情報提供要求を
完全に無視した。現在の北朝鮮政府と同じく、日本人捕虜奴隷のみならず、自国民や
欧州諸国の捕虜奴隷も数百万人いたので、完全情報封鎖を行っていた。

筆者は、外務省と厚生省は、このような情報完全封鎖国家・ソ連を相手に、あまりにも錯綜して
いる膨大な未帰還者数、死亡者数、死亡地の推定作業を続けることはできないと判断して、
日本が主権を回復して、GHQ/SCAPの干渉がなくなった機に乗じて、実態解明作業を放棄して、
12万人以上シベリア抑留者を日本の歴史から抹殺することでケリをつけたと推測している。

従って、1953年(昭和28年)の日本の主権回復以降の日本政府の内部資料
すべて、シベリア抑留者数57万5,000人合わせたものになっている。

さらに、特筆すべきことは、シベリア抑留者の日本帰国時に徹底的行われた、
GHQ/SCAPの聞き取り調査官と日本政府の聞き取り調査官が作成した膨大な
聞き取り調査資料
(復員調査票及び報告書204通)
が公開されていないことである。

11年8月に、電話で厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室にお尋ねしたところでは、
この膨大な聞き取り調査資料(復員調査票及び報告書204通)は厚生労働省に
保管されているが、外部に公開していないとのことであった。

極悪非道なスターリンの「日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害を徹底的に隠蔽せよ」という
遺志を、銃殺されたソ連秘密警察の元締めベリアに代わって、固く守ってきた自民公明政権の
隠蔽方針によって、204件といわれる調査結果報告書すら検討・分析していない。もちろん、
一切、公表していない。下記の外務省管理局の「未帰還者調査」の調査資料も同様である。

1950年(昭和25年)10月の国勢調査時に、全国の都道府県市町村の全面的な協力で
行われた外務省管理局の徹底した「未帰還者調査」の調査資料も公開されていない。

   
     

記者の目:シベリア抑留の実態解明=栗原俊雄
出典:毎日JP・毎日新聞 2011年8月25日配信

◇国は重要資料の積極活用を


11年8月5日、シベリア特措法を施行するための「基本方針」が閣議決定された。
分かっていないことが多いシベリア抑留の実態解明を国に求めている。
だが、国は手元にある重要資料さえ活用しきれていない。
基本方針の決定を機に直ちに姿勢を改めてほしい。

第二次大戦後、旧ソ連によってシベリアなどに日本人約60万人が抑留された。
ソ連は国際法違反の抑留について、実態を隠し続け、冷戦下では日本側の調査も
進まなかった。

現在、日本政府は抑留の死者を5万5000人と推計している。
だがこれは下限でしかない。

たとえばソ連は抑留した日本人のうち、病気などの4万7000人を
旧満州(現中国東北部)や北朝鮮に送り返した。このうち赤痢などのため2万人以上が
亡くなっているが、政府の推計にこうした人々は含まれていない。

シベリア抑留は現代史に刻印される悲劇でありながら、
いかなる理由で終戦後に抑留され、何人が亡くなったかが分かっていない。
死亡時の状況も分からないケースが多い。こうした点を解明すべく、
昨年、2010年6月、議員立法でシベリア特措法が成立した。

◇死亡に至る経緯 露の記録で判明

近年、ロシアからの資料提供は、遅々としてではあるが、進んでいる。
たとえば00〜05年に、マイクロフィルム化された抑留者の個人記録が
厚生労働省に提供されている。

帰還者約47万人、死亡者約4万人の計約51万人分に及ぶこの資料は、
武装解除された日時や収容所の場所などの情報を含む重要なもので、
同省は、当事者や遺族の請求があれば開示している。

私は21日朝刊で、旧日本陸軍の井上忠也中将の次女、岡田よし子さん(91)ら
遺族が資料のコピーを入手したことを伝えた。
井上中将が1950年に抑留先で亡くなってから60年以上が経過したが、
病状や抑留先での暮らしぶりなど初めて知ることが多かった。

岡田さんは当初、届いた資料をみて途方に暮れた。160枚にもおよぶ
膨大なもので、ほとんどが手書きのロシア語で判読できない。
専門家を探し、一部を訳してもらうのに、多額の費用がかかった。

白井成雄・名古屋大名誉教授も、07年、シベリアで亡くなった兄の資料の
開示を受けた。22枚の文書でカルテが多く、病状や診察の様子が詳細に
書かれている。命日も明らかになった。

白井さんは「日に日に悪化してゆく様子をたどるのはつらかった。
でも、きちんと治療を受けていたと知り安心した」と話す。そのカルテも手書き中心
だった。大学時代の人脈のおかげで訳してもらうことができた。

二つの例で分かる通り、厚労省が持つ個人記録は、遺族が故人をしのぶ
貴重なよすがだ。また現代史の専門家にとって重要な研究対象でもある。

だが、存在自体があまり知られていないため、利用も進んでいない。
これまで開示されたのは6000件、全体の1・2%にとどまる。
私の取材を受けるまで、岡田さんも記録の存在を知らなかった。

厚労省は、抑留者の氏名や収容所名などの基本的な部分以外は訳さない。
翻訳ができるのは嘱託職員2人しかいないことを理由に
「特定の人の記録だけを大量に訳すわけにはいかない」(同省)と釈明する。
それならばせめて、翻訳者を紹介するシステムくらいは作るべきではないか。

◇生還者は高齢化 求められる速度

特措法の基本方針は、これまで厚労、外務、総務省などが行ってきた事業の
継続を示しているだけで新味に乏しい。

今年、厚労省の基本方針策定の過程で、私は同省に意見を聞かれ、
遺骨収集の数値目標設定や、歴史学の専門家らをロシアに派遣することなどを
提案した。だが、採用されなかった。近い将来、予算の大幅な増額も難しいという。

担当の大塚耕平・副厚労相は「継続は力です」という。
確かに特措法と基本方針によって、政権が代わっても事業が打ち切られる
ことはないだろう。しかし、それだけでは不十分だ。

たとえば収集された遺骨は、この20年間で2万柱に満たない。
このままではあと20年以上かかる。

財政難のなか、亡くなった人より今生きている人のために予算、
人的資源を優先したいという声はあるだろう。

しかし国が抑留にかかわる積み残しを清算するのは、法が定めた責務であり、
何より求められているのは速度だ。

生存する生還者はおよそ7万人、平均年齢は88歳程度とみられ、
残された時間は長くない。

政府は、手元の資料を「求められれば見せる」というのではなく、
資料が存在することの周知を含め、自ら積極的に公開し、
活用に本腰を入れるべきだ。(東京学芸部)

以上

復員庁留守業務局鮮満残務整理部作成
ソ連地区収容所掌握概況表 1947年(昭和22年)12月1日現在
1947年末時点で、復員庁はシベリアに抑留された
日本人捕虜の総数は76万3,380人と把握していた。

1946年〜1947年の帰還者数  208,375人
1947年末の残留者数        477,898人
1947年末までの死亡者数      77,107人
抑留者総数               763,380人

注:上記の通り、1947年年末までにシベリア等から帰還した日本人捕虜は、
208,375人である。この概況表は、その208,375人の証言に基づいて作成されている。
従って、この概況表に記載された数字が、
絶対的に正しいとは言えないと思うが。                          

ソ連地区収容所掌握概況表
地区 収容所 収容所 収容所
地区名 番号 開設数 閉鎖数 合計数 残留人員 死亡人員
ナホトカ 9 7 0 7 14,410 230
テチューヘ 10 5 1 6 1,100 135
スーチャン 11 12 5 17 10,112 3,813
アルチョム 12 6 5 11 5,308 453
ウラジオストーク 13 22 4 26 17,386 1,099
ポシェツト 7 5 0 5 7,300 2,300
ウォロシーロフ 14 55 6 61 24,975 3,913
セミョーノフカ 15 12 3 15 2,878 928
イマン 16 16 4 20 3,237 857
ホール 17 3 8 11 1,100 654
ハバロフスク 16 17 7 24 5,635 934
コムソモリスク 18 9 7 16 8,933 2,129
ソフガーワニ 47 4 2 6 1,200 900
ムリー 1 63 27 90 19,675 2,734
ホルモリン 5 33 1 34 13,723 495
ニコライエフスク 21 0 7 7 530
北樺太 22 4 0 4 3,155 119
ビロビジャン 46 10 3 13 3,800 1,250
イズヴェストコーワヤ 4 58 0 58 19,353 1,006
ライチハ 19 12 3 15 18,125 2,937
ブラゴヴェシチェンスク 20 22 5 27 12,430 1,903
ルフロヴォ 7 4 3 7 1,281 259
スレチェンスク 25 4 5 9 3,620 1,197
チタ 24 54 4 58 33,455 12,728
カダラ 52 17 2 19 6,130 4,579
ウランウデ 23 18 5 23 6,319 1,250
ウランバートル 10 7 3 10 3,423 2,000
イルクーツク 32 24 6 30 18,202 2,773
チェレンホーヴォ 31 7 2 9 4,235 1,030
タイシェット 53 50 3 53 25,473 3,621
クラスノヤルクス 34 11 3 14 12,626 1,266
アバカン 33 3 7 10 2,190 1,617
ノヴォシビルスク 13 1 14 11,091 983
ロストフカ 4 1 5 5,177 2,797
バルナウル 10 4 14 7,890 2,015
ウスチカメノゴルスク 45 8 3 11 3,060 412
アルマ・アタ 40 9 7 16 5,090 385
カラガンダ 99 18 3 21 13,588 765
タシケント 288 8 2 10 18,282 416
コーカサス 4 4 8 1,442 78
ウクライナ 4 1 5 940 122
ウラル 14 0 14 13,819 2,249
モスクワ 3 2 5 2,200
地区不明 15 1 16 17,330 1,886
684 170 854 410,698 73,747
人員不明収容所 67,200 3,360
総計 684 170 854 477,898 77,107

原資料 この資料は外務省外交史料館の許諾をいただいて転載しています。
       コピー・転載は禁止します。



シベリア抑留者数76万人のロシア資料

09年9月8日0時29分配信の朝日新聞のAsahi.comはこの件について
大要、次の通り報じている。

第2次世界大戦後にシベリアなど旧ソ連に抑留された日本軍人らの個人情報を
記した新資料を、ロシア国立軍事公文書館が朝日新聞に公開した。
カード形式で約75万枚。シベリア抑留の全体像の解明につながると期待されている。

全資料はスキャンしてCD化され、日本側に提供される。個人カードは図書館の検索用の
目録に酷似。「サトウ」「スズキ」などと仕分けされた木箱の引き出しが約750個ずらりと並び、
一つの引き出しに約1千枚のカードが保管されている。

カードには収容所の番号をはじめ、「氏名」「誕生年・生誕地」「職業」「軍階級」「捕虜になった
場所と時期」「移動歴」など、表と裏に計13の欄がある。それぞれの収容所で手書きされ、
かすかに変色していた。

日ロ両政府はカードの写しの提供で月内にも正式に署名する方向で、費用負担などを調整中。
カードのCD化作業に1年弱かかるとしている。



朝日新聞(朝刊)09年9月10日第11面は上記個人カードに対応する抑留者の
個人調査ファイルには、個人の基本データから容姿の特徴、病歴などを
詳しく手書きした資料が綴じ込まれていると報じている。

モスクワのロシア国立軍事公文書館のコロタエフ副館長によると、
これらの個人カードと個人調査ファイルは、1,000箇所以上の収容所で記入され、
60年代の初め内務省の命令で特別な公文書館に集められた。それが10年前に
ロシア国立軍事公文書館に移されたという。





ソ連政府が作成した日本人捕虜の聞き取り調査資料




昭和25年12月11日、外務省発表
ソ連地区抑留者の未帰還者は37万人


昭和25年(1950年)12月11日、日本の外務省は、
ソ連には未だ37万人が抑留されていると発表した。
うち31万名は、氏名も判明していると
しかしながらこの37万人のなかから日本へ帰還してきたものはわずか2,594人であった!

残りの未帰還者は全員死亡したのだろうか? 
外務省とマスメディアに、
この31万人余の未帰還者発表のその後の顛末を説明してほしい。





第095回国会・衆議院内閣委員会 - 2号
1981年(昭和56年)3月26日
  議事録

1981年に行われた、この抑留者数変更に関する国会における質疑答弁は次の通りである。

○渡部行雄委員
 
在ソ日本人捕虜の処遇と1949年8月12日のジュネーブ条約との関係」という文書によりますと、
「日本政府が発表し、総司令部が算定の基礎としているシベリア抑留者数は推定70万名である。

ところがこの前、宮澤官房長官は、シベリア抑留者数は57万5,000名だと答えている。
開きが大分多過ぎるのですが、この点はどんなものでしょうか。


○持永和見政府委員(厚生省援護局長)
外務省が出されたという数字でございますが、これも基礎は恐らく私どもの方で出した数字だと
思いますので、便宜上、私からお答えさせていただきたいと思います。

私どもとしては、1947年に引き揚げ業務が始まります際に、
各戦場におきます引き揚げ者の基本数を推計いたしております。
この推計がいま先生がおっしゃいました70万人という数字になっております。

ところが実際にその後ソ連からの引き揚げが始まりまして、具体的にソ連の
抑留の形が、大部分の方たちが作業大隊として編成されて送られたというような
ことでございますので、舞鶴で帰還者がお帰りになりました際に、それぞれ数字を
把握いたしまして、それを積み上げたものが先ほど先生がおっしゃいました、
宮澤官房長官がお挙げになりました57万5,000人というような数字でございます。

○渡部行雄委員 
それでは、この57万5,000名というのはどういう調査の結果出てきた数字ですか。

○持永和見政府委員(厚生省援護局長)

57万5,000人というのは、先ほど申し上げましたように、
ソ連に抑留された人たちが作業大隊として編成されて送られております。
したがって、各作業大隊の幹部あるいは帰還者の方々、
そういった方々につきまして各作業大隊ごとに何人ぐらいの人が
おられたかということをずっと積み上げて計算したものでございます。

議事録抜粋は以上

ソ連からの引揚者全体の99.45%になる470,364人は、1950年4月22日までに
帰国している。従って、1950年5月以降、1980年年初めまでの約30年間、日本政府は
シベリア抑留の全体を把握するための、引揚者に対する「聞き取り調査」は行っていない。
特定の人たちについて【通信調査】や【出張調査】をほそぼそと行っていただけである。

昭和34年5月の厚生省引揚援護局資料
関連サイト満州・北鮮・樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況


上記書の一部抜粋  第29頁   第3章 ソ連領移送間の状況

作業大隊のソ連領への移送は、鉄道、及び徒歩による陸路、海路、水路により行われた。
また一部、特殊の者については飛行機によったものもある。

作業大隊に編成され、ソ連領に移送された日本人は、戦闘期間中から続いた体力の消耗、
徒歩行軍の強制、輸送施設の不備、医療の不備とあいまって、
入ソの移送途中において、多数の死亡者、病人を生ずるにいたった。

病人のうち、輸送に堪えない者は、途中の病院に収容されたが、
これらの者は、その後、死亡したり、そのまま消息を絶ったものが多い。


また、輸送列車中で死亡した者は、途中駅で下ろし、最寄の病院等に収容した。
到着駅までそのまま輸送された者もある。

特に、徒歩行軍により琿春経由で入ソした作業大隊は、連日の徒歩強行軍のため、
ポセット到着までと同地滞在期間中に、多数の病人、及び死亡者を出した。
これがため、同地において、作業大隊の編成替えを行う状況であった。

入ソ移送途中の病人、及び病弱者の処置については、ソ連側は前述のほか、これらを
満州及び北朝鮮地域に送り還した。その状況は第5編第2章において述べる。

昭和32年(1957年)2月12日開催の第026回国会海外同胞引揚及び
遺家族援護に関する調査特別委員会第2号
の証言の中で特に注目すべき点は
【行方不明者の存在】及び
徒歩拉致移送途中のソ連警戒兵による落後者殺害】

自民党政府は【シベリア抑留】に関する度重なる国会答弁において、
【行方不明者の存在】、及び【徒歩及び貨車で拉致移送された途中での死亡者】
については、ただのひと言も言及していない。

さらに注目すべき証言は「ソ連は収容所管理の関係では、給与管理のため、
一旦、収容した者に関する書類はよく保存しているようである」との証言である。

自民党政府、外務省、厚生労働省は、これらの事実を十分に知っていながら
1991年のソ連崩壊後も、シベリア抑留問題について一切調査をしなかった。
特に外務省の【調査不作為の責任】は重いと思う。

筆者が「政府は行方不明者【歴史の闇】に葬り去った」と非難するゆえんである。

第026回国会における証言抜粋 (発言順を変えて記載)

○廣瀬委員長
本日はソ連地区抑留同胞引揚に関する件について参考人より事情を承わることといたします。

参考人の方々を御紹介申し上げます。
ソ連地区第11次引き揚げ副梯団長、元機動旅団長 木下秀明君、
元満州国警務総局長 星子敏雄君、
元陸軍中尉 津守佑弘君、
元満州国警察官 谷口新次君 であります。

○津守参考人 
津守佑弘であります。皆さんのおかげで帰って参りました。
どうか、国会を通じまして、国民の方々にその由を伝えていただきたいと思います。
ありがとうございました。

私は、亡くなった方々について、何とかして、皆さんのお力によって、
遺骨なり遺品なりの、一つでも、ご遺族の方々に届けていただきたい。
ご遺族の方々が、ソ連において亡くなった身内の人々をしのぶために、
ぜひともこの事をやっていただきたいと思います。

それについて、しからば、これらの方々が、いかにして亡くなっていかれたか
という点について、具体的な状況を聞いていただきたいと思います。

現在行方不明になっている方々は、私の想像では、おそらく大部分、
拉致移送されて入ソした年、すなわち、昭和20年から21年の冬にかけて
亡くなったと思います。

なぜ、そう想像するかと申しますと、拉致移送されて入ソした年においては、
いろいろな部隊の方々が一緒になって、もう、混沌とした状況でした。

敗戦直後でございますから、各部隊、各中隊というものは、混沌として、
お互いに、だれがだれかわからない状況で、作業大隊が編成されました。
大隊長や各中隊長も、部下の方々の名前すらも知ることができない状況で、
拉致移送され、入ソいたしました。

そういうような、混沌とした状況のまま、拉致移送され、入ソした
場所は、北は北氷洋から、ウラル山中はもちろんのこと、バム鉄道沿線など
ほとんど住民は住んでいない所でありました。

そのような場所で、森林伐採などをさせられました。
いろいろな困苦欠乏の連続でありました。

そのとき、防寒被服もきわめて少なく、食糧のきわめて僅少、かつ、
またきわめて悪質でありました。

防寒被服は、生命を保持する第一条件であります。いわゆるシューバーとか、
外套とか、防寒靴とか、防寒帽とか、防寒外套というものは、拉致移送時に
おいて持っていたものはそれを使用いたしましたけれども、現地においては、
ソ連軍よりは、防寒被服は一切支給されませんでした。

防寒被服を持っていなかったものは、厳しい寒さのためほとんど死亡しました。

次は住居の問題であります。われわれが拉致移送された場所は、
ほとんど住民は住んでいない山間僻地でした。

どういう住居であったかと申しますと、寝台は丸太の寝台でした。
丸太をずっと並べて、その上に、冬、寒中雪の中に残っておったところの
枯れ草を、われわれが、自らちぎってきて、その上に敷いて、
そうして寝ておったという状況下でした。

暖をとるといえば、その中においてペーチカをたいて暖をとっておりました。
そういうような状況下で、ほんとうに自分の体を休めるということはできませんでした。

そうして、灯りといえばたいまつでございました。
朝起きると、もう鼻の中から顔じゅうが、ほんとうに真っ黒の状態になっており、
文字通り、タヌキムジナのような姿で生活をしておりました。

それに加うるに、ソ連軍支給の食料は非常に悪質でありました。
コーリャンの丸コーリャンでありまして、丸コーリャンと申しましても、
コーリャンの房を落しただけで、殻をかぶっているコーリャンでした。

それは非常にタンニンが多いがために、便秘をした。
それを食べるというと便秘をするからして、便所に行っても便が出ない。
それで衛生兵がピンセットでもってかき出してくるというような状況下で、
腸疾患の患者が続出いたしました。

それに加うるに、衛生施設の不備から、シラミが異常に大量に発生して、
シラミのいない人は、一人もいないというおそろしい状況になりました。。

それで、ひなたとかぺーチカとか、そういうところにおいては、
休みなしに、シラミつぶしをするというような状況でありました。

栄養失調に加うるに、シラミが異常に大量に発生した結果、
発しんチフス、それから赤痢が蔓延しました。

発しんチフス赤痢の蔓延によって、実に多くの人たちが亡くなりました。

1,000人のうち、700人が死亡して、残りのうち150人が入院をした
作業大隊が多数あるということを、耳にし、また実際に見もしました。

こういうふうにして亡くなっていった方々というものは、当然、
その隣におったところの人の名前も知らない、

また、そういうような状況下でありますから、話をしておればすぐ倒れる。

朝起きてみれば、もう冷たくなっておるという方々については、
名前もわからないし、どこの出身者であるかも全然わかりません。

従って、そういうふうに亡くなった方々の、親とか郷里というものについては
報告する資料は、全然なかったわけであります。

それがために、現時点での行方不明者は非常に多い。
行方不明者が多数存在するのは、ここに原因があると私は感じました。

それで、そういうふうにして亡くなった方々は、しからば、いかにして埋葬し、
いかにして、後を供養いたしましたかと申しますと、はも僧籍におりますので、
自分の関係については、自分でできる限りの努力はいたしました。

けれども、あとで聞きますと、収容所においては、
棺おけを作ってやるところの材料の板はございません。

当時は薪不足でありまして、ソ連人住民ですら、暖をとる薪が無かったという状況で
ありましたから、板で棺を作って弔うということは、日本人の捕虜の身分においては、
できなかったのであります。

亡くなった方は、ソ連の収容所管理当局の死亡検査を受けて、
ジュバンから、パンツから、全部脱がされて、真っ裸にされる。

真っ裸の遺体の胸に、インクをもって、ナンバーを打つのであります。

遺体は野積みにされます。クィビシェフの病院においては、
遺体が倉庫にあふれたので、野積みにされたのであります。

その姿というものは、
ろう細工のごとくにすき通った人間の死んだ姿でございました。

そういうふうにして集団的に亡くなっていかれる。

それを葬る場合においても、もう土地は2メートル、3メートルと
すっかり凍っております。

ですから、一人ひとりの穴を掘って埋めるということはできない。
山の中にハッパをかけて大きな穴を掘りました。

真っ裸のまま野積みされていた凍った遺体を、トラックに積んで、
町中を通り抜け、山に持っていって、ハッパで掘った大きな穴に、
まとめて投げ込んだのです。

このような状況で亡くなった行方不明者の遺族の方々に、
遺骨を届けるということはできないと思います。

これが実態でございます。
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関連情報:
2006年3月6日午前の参議院予算委員会の審議において
民主党の谷博之参議院議員は【シベリア抑留問題】に関連して、
シベリアでの奴隷労働の苦難に耐えられた井上馨氏が描かれた
【戦友よゆるしてくれ】という3枚の絵を小泉首相に示された。







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墓地は整備されておりません。墓は山の中に、あちこちに散在しております。
墓を、十、二十とまとめてある墓地というものは、きわめて僅少じゃないか
と思います。

その場所場所へ点々と埋めたもの、山の中とか、鉄道の沿線とかいうところに
点々と埋めたものが多いのじゃないかと思います。

従って、遺骨を収集するということは、現在のソ連の状況下においては、
並み大ていの事ではないと思います。

これはひとえに、皆さんの協力と、絶大なる援助があって、初めてやり遂げられるので、
強い決意を固めた行動のもとに、遺骨収集をやっていただきたいと思います。

抑留者の中には、何とかして日本に帰ろうという希望を持って、
逃亡した方々がございます。

1回目の逃亡では、途中で捕まっても、もとの部隊に帰してくれました。
2回、3回と、何回も逃亡した人は、厄介者扱いで、処刑されました。
そういう者は、また逃亡するおそれがあるというので、一旦、営倉に置いて、
夜、連れ出して殺されたというケースがたくさんあります。

そういうふうにして殺害された者の遺体は、われわれには任されて
おりませんので、その方々の墓地も見つけることは至難であると思います。

日本の国会議員の方々がおいでになったハバロフスクには、
捕虜時代の墓が61個、受刑以後のものが60個、それ以後に
第五分所が焼失したときの121名の方の墓地と、もう少し小さな
10名ないし20名くらいの墓地じゃないかと思うような墓地がございます。
これがハバロフスクの墓地であります。

一般の、内地からソ連に行かれて、在ソ同胞のなくなられた方々の
墓参をするときには、いつもそこに行ってお参りをされているようで
ありますけれども、ハバロフスクには四ヵ所の墓地がございます。

しかもそれは町の中、あるいはハバロフスクの山の中などにございまして、
四カ所ということはいろいろなことから推定をして知っているわけです。

そうして、機動旅団の連隊長の方でなくなっている方の墓参を
さしてくれというので、ある機動旅団の荒巻さんが申し上げた
そうですけれども、その墓地がそこにない。
しかし、その墓地は彼が埋葬したときに手伝っておるから
自分が知っているというので、
その人が帰るときもちょうどあすこの駅で一泊いたしましたので、
その夜中に抜け出して墓参をして、土を持って帰った。
その墓地も町から遠からざるところの別の墓地でございます。

このよらにして、たくさんの墓地がハバロフスクの近郊にもございますし、
全ソ連にまたがって、こういうようにばらばらになっている墓地は、
現在は墓標も朽ちたどころでなくして、もうその塚も跡形もなくなっている
ような状況じゃないかと私は思います。

この方々の遺骨なり遺品なりを遺族の方々にお迎えきして、
この方々が安らかに眠っていただくためには、
われわれが帰った現在においては、皆さんの御協力以外に、
私たちの力は発揮できない、われわれのこの心中をよく了察されて、
この事柄については幾多の困難があることは眼前に見えております、
私たちも想像できます、

ソ連の国内において日本人が遺骨を収集することは、
南方に行ってやる以上の困難があると考えておりますけれども、
これを実行していただくには、議員の方々の絶大な超党的な、
ほんとうにこの人たちをぜひとも救ってやるという熱意以外には
私はないと思います。

ぜひとも私たちのこの心中を察していただいて、この点については
何としても努力していただかなければ申しわけないと思いますので、
この点については特に切望している次第であります。よろしくお願いいたします。

参考資料
朝日新聞1951年(昭和26年)7月26日『引揚白書』より抜粋転載

この文書は当時の吉田茂外相(後に首相)が国連総会議長宛に提出した
最高レベルの外交文書である。

○木村(文)委員 
12月にお帰りになりました同胞の皆様方の11年の御苦労を考えますと、
私どもは、その間において、国民としてのお務めさえ皆様にすることが
できなかったことを、恥じ入るわけでございます。

なみなみならぬ御苦労をされたこと、衷心からお気の毒に存じ上げます。
しかし、幸い、無事にお帰りになりましたこと、御家族はもとより、
9000万人の日本国民は、あげて皆様方の長い間の御苦労をねぎらうとともに、
感謝の念でお迎えをしたのででございます。

まず第一に木下さんにお伺いいたしますが、皆様をお迎えはいたしましたものの、
なおわれわれが心配でならないのは、あらゆる手を尽して調べた結果、
今なお消息不明者として約9900余名の方々が未帰還であります。

これらの方々の御遺族のことを考えますと、私どもは何とかして
この消息不明者の消息をつかむとともに、一日も早く、皆様同様、
帰還してもらいたいという心で一ぱいのわけであります。

当委員会は、設置されてから今日まで、全く超党派的な立場において
この問題に取り組んで参った者ばかりでございます。従いまして、
この問題の将来の参考にするために皆様からお聞きしたいと思うのでありますが、
どなたからもこの問題について御発言がなかったようでありますので、
先ず、木下さんにお伺い申し上げたいと存じます。

○木下参考人 
未帰還者、行方不明者のことにつきましては、私といたしましても、
わからないのでございますが、たくさんのお方が消息不明であることは
存じております。

先ほど津守さんから、拉致移送され入ソした直後の状態のお話がございました。
拉致移送途上で、ソ連軍の警戒兵の錯誤で銃殺された者も多数おりました。
日本人にはわからずに銃殺、処理された者も相当にあることと想像いたします。

それは、お前の想像ではないかとの疑問もございましょうが、
次のようなことがありました。

私は、入ソ2年目に、ある収容所から、別収容所に移ったのであります。

そのときは、非常な炎熱の行軍でございました。落後者がひんぱんに出ました。

落後者が出ますと、ソ連軍としては、新たに、落後者にも警戒兵をつけなければ
ならない。警戒兵が落後者の方にたくさん要るという状況になりました。

そのうちで、私の旧部下の将校でございますが、落後をいたしまして非常に
苦しんでおりました。あまりひどく落後いたしますので、
警戒兵がうるさがって、殺そうじゃないか、そうすると楽になるから
ということを言い出した。

そこで落後者同士が、そんなことをきれては大へんだというわけで、
みんな寄り添って守っていった例があるのであります。


これは警戒兵がそういうことを言いましたからよかったのでありますが、
そういうことなしに、警戒兵が、落後者を容赦なく射殺したことが
かなりあったと存じます。

ことに敗戦直後には、ずいぶんあったと思うのであります。


私は、大隊長として、ラーゲルの管理当局者といろいろと折衝を
いたしました。

死亡者が出た場合、死亡の事実を日本に通報してもらわぬと
困るじゃないかと言ったことがあります。

これに対して、ソ連のラーゲルの管理当局者は、
「おれたちには、日本に、そういう、死亡者を通報したり、
刑を受けた者を通報する義務はない
のだ」と言っておりました。

この態度は、その後もまったく変わっておりません。従って、
行方不明者、消息不明者に関する情報は、日本人の帰還者の
報告が基礎になった情報だろうと思うのであります。

ソ連側は、一切、情報提供はいたしません。そうしますと、
帰還者の耳に入らなかった行方不明者が、
非常に多数存在し得ることになります。

収容所にいる日本人捕虜については、給与の問題がありますので、
ソ連側はきちんと記録に残しております。だれが死んだということは
きちんと記録しております。

平和の回復した現在におきましては、
ソ連側の死亡通報というものが手に入れば、
日本政府の調査と合せまして、行方不明者の確認は
非常に楽になるのじゃないかと、私は考えておる次第です。

そういらふうな資料を向うから外務関係で
折衝の際にお取りになるようなことにでもなれば、
非常に工合がいいのじゃないかと考えております。

それでは、ソ連の資料の保存状況はどうか。
日本では保存期限といたしまして、書類は、3年だとか5年だとか
保存期限があるようでありますが、
ソ連では、書類の保存というものは、非常に長いようでありまして、
われわれが、今、11年たって、ソ連を発とうという直前に、
まだ満州における官庁の事情なんかを取り調べたりするところを見ると、
死人の名簿は必ずある、必ず保存しておると存じます。

これが全部に及ぶということは疑問でありますが、
収容所の管理に関する書類は、必ず存在しておると存じます。

行方不明者の調査にあたって、ソ連に、その辺のところをお願いしたならば、
また進展の道があるのじゃないかと愚考いたしております。

(抜粋は以上の通り)

第024回国会、第025回国会、第026回国会と、3回の国会において
海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会は、
多数の政府関係者、及び海外からの帰還者に証言を求め、
引き揚げ問題に関する事実の解明に努めた。

第026国会においては、調査特別委員会は、昭和32年(1957年)2月6日の
第1号から、昭和32年(1957年)10月21日の第17号まで17回開催された。

第026回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第2号

関連サイト:

1.エセ裁判によるソ連の日本人捕虜虐待−ハバロフスク事件の真相−

2.ソ連の日本人捕虜虐待@−ハバロフスク事件−第024回国会における証言@

.ソ連の日本人捕虜虐待A−【エセ裁判】瀬島龍三氏の証言、栄養衛生面の
  虐待実態、軍医小日向和夫氏の証言 第024回国会における証言A

.ソ連収容所における日本人捕虜の生活と死

以上