ソ連の日本人捕虜虐待@−ハバロフスク事件
第024回国会における証言@
                     2012年3月 Minade Mamoru Nowar

ロシア国民にソ連の日本人捕虜の奴隷労働被害を認識させることが肝心だ!

ソ連は対日宣戦布告文の中で「ポツダム宣言に参加して日本に宣戦布告する」
としている。
ソ連が日本人捕虜にシベリア等において奴隷労働を強制したことは、
明白なポツダム宣言第9項違反であり、人道に反する行為であったことを、
あらゆる機会を捉えて、ロシアと国際社会に訴え、
ロシア政府に国としての公式謝罪を求めなくてはならない。

それ以前に、日本政府は、シベリア奴隷労働被害者に国としての公式謝罪を
行わなければならない。

日本政府は、毎年、1月の厳寒期に、被害者が亡くなったシベリアの地において、
国の公式行事としてシベリア奴隷労働被害者の慰霊祭を行わなければならない。


日ソ戦争(ソ連の対日参戦)はソ連の「正義の戦い」ではない!
ソ連の帝国主義侵略戦争だ!


昭和31年(1956年)3月26日開催の
海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会第9号で、
3月8日に舞鶴に上陸帰国した柴田武氏がハバロフスク事件について
詳細に証言した。

○木村(文)委員長代理 
それでは、これよりソ連地区抑留同胞の事情につき、参考人より
その実情を承わることといたします。
まず委員長より参考人各位に対し一言ごあいさつを申し上げます。
参考人各位には、帰国早々お疲れもいえないうちに、また御多忙の
ところ、御出席をお願いいたしまして、委員長よりこの機会に
厚く御礼申し上げます。
本委員会は、海外に残留されておる同胞の引き揚げ問題の早急なる
解決のために調査をいたしておるのであって、その点をお含みを
願いまして、帰還に至るまでの概要並びに現地における同胞の状況等
につき、実情をお話し下さるようお願い申し上げます。
ついては、初めに総括的に柴田武君よりお願いすることといたし、
他の参考人よりは追って補足的にお話をしていただくことといたします。
参考人柴田武君。

○柴田参考人 
故国の厚き情ある御配慮によりまして、私たち十九名は、
去る八日の日に無事に帰ってくることができました。
皆様にここに重ねて厚く感謝のお言葉を申し上げたいと思います。
なお、現在ハバロフスクには一千名を越します同胞が抑留者として
おりますが、彼らは、母国の国会、政府、地方行政機関、
日本赤十字社、その他各所から送られました慰問品、無形の御声援に
対して、感謝しているということを伝えろと申してよこしました。

私は二十一年の一月の十二日に、満洲の奉天におきまして、
軍法会議の結果死刑の宣告を受けまして、チタに送られまして、
チタで二十一年の五月二十四日の日に十年の禁固刑に減刑をされました。
そうしてその年の九月にモスクワの東北約百五十キロにあります
ウラジミール監獄で禁固の生活をいたしまして、
二十九年の十月にハバロフスクの収容所に送られて参りまして、
本年の三月一日同地を七発いたしますまで、同所におりました。

参考資料:朝日新聞1951年(昭和26年)7月26日『引揚白書』より抜粋転載

この文書は当時の吉田茂外相(後に首相)が国連総会議長宛に提出した
最高レベルの外交文書である。

ハバロフスクにおきます第十六収容所は、一分所と二分所と三分所に
分れておりますが、その三つの分所にそれぞれ日本人がおります。

第一分所は概算八百名、第二分所は概算十六名、第三分所は二百五十名の
同胞がおります。先ほどもお話がございましたように、
第一分所と第三分所は、現在作業忌避によるところの請願運動に入って
おります。この請願運動につきまして、私は第一分所におりました
関係上、第一分所の状況を御報告申し上げたいと存じます。

昭和二十年の停戦を機会に、ソ連の各地に抑留せられました日本人は、
言語に絶します弾圧のもと、強制労働に服し、食べるものが非常に
足りませんので、草の根、木の皮というようなものまで食べまして、
食い得るものはすべて食い尽して飢餓に耐え、
倒れていく者に悲憤の涙を注ぎながら、窮乏困苦をしのいで、
ひたすら帰還の日を望み、羊のように従順に、牛のように黙々として、
誠実に服役してきたのであります。

そのために、日本人の善良にして勤勉に接するロシヤ人、
また第三国人は、いずれもこぞって信頼の度を深くしまして、
友好親善の交誼は高まり、日本人の真価を知らしむるように
なったのでありますが、多年にわたってやまない帰還の熱望は、
年々歳々声ばかりであって、容易に達現されないばかりでなく、
待望の日ソ交渉が開始されても、前途の予測がすこぶる困難でありまするが、
それに加えてソ側の態度は依然として改善されることがなくて、
非人道のきわみを尽して、日本人の不満は遂次累積されていった
のであります。

その片りんといたしまして、昭和三十年の六月二十六日には、
第六建築場で大堀泰君のロシヤ人の将校殴打傷害事件が発生いたしました。
同胞はすべて、期せずして同君の釈放を書面嘆願いたしまして、
その数五百名に達したのでありますが、ソ側はこれに耳をかさないで、
真相を調査し、情状を酌量しないばかりでなく、
七月の九日に至りまして、この嘆願運動に指導的立場を持ったと
ソ側が注目した七十名の有力者を第二分所に移動、隔離することに
なりました。

また第十六分所は、昭和二十五年来、日本人の捕虜の収容所として
設定をされまして、各人の給与は他の地におけるところの収容所と
差異があります。

なかんずく各人の負担の経費は、一カ月四百五十六ルーブルと
きめられまして、今日になりましてまだ変えられないのであります。
これに対しまして、同胞は、物価の低下を理由に、再三引き下げを
交渉いたしましたけれども、実現せられませんで、
昨年の十一月の物価でこれを計算いたしますと
三百八十二ルーブルとなりまして、
その差は七十四ルーブルに当るのであります。

昨年の九月以降の作業の状態は非常に不良となりまして、
各人の収入は極度に少くなって参りまして、
一カ月の平均が四十ルーブルもしくは五十ルーブル、
多いときで六十ルーブルというようなわずかな金額となって
参りましたので、これでは、不足しているところの
栄養を補充するために自費で購入することが非常にむずかしくなって
参りました。

それで心配する情勢に入っていったのであります。
たとえて申しますと、マーガリンの一カ月最低の所要量は二キロなので
ありますが、これは一キロが十六ルーブルになりますので、
二キロとして三十二ルーブルであります。もしかりに五十ルーブルを
得たといたしましても、残金は十八ルーブルになりまして、
わずかにたばこが一カ月倹約してのめる程度のものしか買えない
というような情勢になって参りました一従いまして、
必要な砂糖、ミルクというふうなものを買えないというような状態
になって参りました。そういうふうになって参りますと、
だんだんに低下して参りました体力の維持は、非常に困難になって
参りまするところへ持ってきて、
医療の設備、労働の強要と相待ちまして、
彼らの生命の維持ということが、
非常にむずかしいというような観念を与えて参ったのであります。

そういう折柄、九月のころに、営外作業では身体に作用するところが
多いので、営内で軽い作業に従事させるということでやっておりました
病弱者を、営外作業に追い出すということをソ側が実行したのであります。

けれども、みなはやはり穏やかにして帰国を待つという考えでありました
から、それをもがまんしてやっておりました。

ところが十二月十六日になりまして、再び政治的の見地から、
医師の診断をくつがえして、営内の軽作業に従事しておりました
高血圧者あるいは原因不明の熱発者というような者百数十名の中から
六十四名を抜き出して、営外の作業に出動せしめた、
追い出したのであります。

そこでこれらの人は翌日から作業に出て参りましたが、
すでに出ました当日から血圧が高進して、
休業しなければならぬ、熱発がさらに過度になって
休業しなければならぬということで、
医者の診断によって休業する者が数名出て参りました。

翌十七日になりますと、その医者の診断によって、
休養した者の数をさらに多くした医者の診断による休養者が出てきた
のであります。

そこでこの情勢を見ましたところの人たちは、
今われわれは働きに出ておるけれども、
これがあすのわれらの姿なんだ、
さらにそれが進んで行ったならば、
今、病院に入って病床に坤吟しておるところの重病者の姿に
われわれは陥っていくんだ、
日ソの交渉は中絶しておる、その前途は予断することができない、
自分の生命を擁護するのは自分ら以外にない。
帰還の問題もまた自分らの手で解決する以外に道がないという
悲壮な決意を持つようになりました。

これがこの請願運動発生の原因であります。

請願の運動は、十二月十九日に第一分所で開始されまして、
各人は要求事項を決議しました。それに署名いたしました者が
七百六十九名であります。そうして代表を各人の総意によって
選出いたしまして、石田三郎氏を代表に推して運動に入っております。
そして今日まで継続しております。

それから、第三分所は本年の一月三日からこの態勢に入りました。
しかし一分所と三分所との連絡はつきませんので、
全くこれは別々に始まっております。何らの連絡なしに始まったので
あります。この始まったということが、いかに各人が、
どうしてもこれは自己の手で自己の生命を守らなければならない
としたということの実証になるわけでございます。

これで、私の総括的な御報告を終ります。

○木村(文)委員長代理 
次に、小笠長君よりお願いいたします。

○小笠参考人 
小笠長であります。私は昭和二十年十二月十七日の夜、
俘虜としてソ連に向けに輸送される途中、
東新京駅と徳恵駅との中間地帯において進行中の列車より
脱出を企図して成功したのでありますが、
しかし飛びおりる際、左ひざのさらを割り、
脱臼したるために徒歩不能になり、逮捕されるに至ったのであります。

その後新京に連れて行かれまして、ザバイカル軍事裁判によって
死刑の宣告を受け、チタの死刑監房に六カ月と一年の獄中生活の後、
カラカンダ方面一般ソ連囚人収容所に三カ所にわたり移動をし、
昭和二十五年三月十七日、ハバロスフク日本人抑留所に集結され、
一分所が最も長く、二分所、三分所と転属し、三月六日、
夢にも忘れることのできなかった祖国日本に感激の舞鶴上陸を
いたしたのであります。

すでに梯団長柴田氏より述べられましたごとく、
第二分所においては、大堀事件の際、
第一分所より転属せしめられたる班長、
実は私もその中の一人でありますが、その他によって、
早くより個人の責任の範囲内による柔軟な強制労働の拒否が開始され、
戦友である一人は、
昨年十月ウオロシーロフあて左記要旨の請願書を提出してい、
強制労働の拒否に出たのであります。

二十日間は、ソ側収容所側の反応は何らなく、
休養していたのでありましたが、
その後ハバロフスク監獄長の呼び出しがあり、
今までのことは一切水に流すから、明日より作業に出よ、
もし出なければ、ソ連刑法により一年間の禁固刑に処するとおどかされ、
一日の余裕を与えられたのでありますが、
十年間に体験して養い得た意思はかたく、
モスクワからの返答が来るまでは作業に出場しない
とがんばっておりましたところ、その翌日、
第十六収容所長マルチェンコ大佐より呼び出しがあり、
即時転属命令により、本人はいずれへともなく連れていかれた
のでありました。

その後非合法的連絡により明瞭になったことは、
本人は十日間の重営倉処分を命ぜられ、
処分後はわれわれと一緒にすることをおそれ、
第一分所に再び隔離収容したのであります。

ウロシーロフあての請願書内容は、
一、われわれは戦犯ではない。
二、ソ連がわれわれを日ソ交渉の人質として利用していることの不当。
三、人質ならば強制労働する必要はない。
四、ドイツ軍戦犯の帰還したる現在、
  戦犯にあらざるわれわれ日本人を即時釈放せよ、等等でありまして、
このため第二分所における散発的強制労働拒否はいちはやく
第一分所に伝わったのであります。

一方十二月二十三日に至って、
第二分所の日本人全員は第三分所に移転せしめられることと
なったのであります。

第二分所の転属に伴い、
第三分所において引き続き個人的責任の範囲内において、
散発的強制労働拒否が開始せられておりましたところ、
十二月二十八日に至って、
第一分所の組織的労働拒否を察知し、
ここに全員結束して強制労働拒否に入る機運が濃化し、
越えてことし一月三日、ソ側に対する交渉委員を定め、
組織を固めた上、全員の請願書提出となり、
全員作業拒否の旨をソ側に通告したのであります。

これにより第十六収容所長のマルチェンコ大佐は、直ちに来所し、
第一分所は全員就労しているにかかわらず、
第三分所は何ゆえをもって作業に出ないかとただし、
全員の就労を命じ、不服従の場合は、厳罰に処す旨を厳命しました。

このことはかえって第一分所の組織的強制労働拒否の反証となり、
全員の決意を固める以外の何ものでもなかったのであります。

以後今日まで、第三分所は第一分所と同様、
よく懲罰食に耐えて組織的に闘争を続けているのでありますが、
第三分所の要望も、何ら連絡なかったにもかかわらず、
期せずして全く第一分所と同様であり、
第三国人が収容せられていたその特性から、
第三国人の早期送還をあわせて強く要望していることから見ても、
まさに本運動が狭い個人的感情に発するものでなく、
さらに第三分所においては、
就労不適の人々も少くないのでありますが、
これらの中には、みずから作業拒否という形で協力できないことを
遺憾とし、かつは食糧節約の意図から断食闘争を決行するに
至った者もあります。

以上で御説明を終ります。

○木村(文)委員長代理
次に、小堤省一君にお願いいたします。

○小堤参考人
私は一九四五年樺太庁の外事警察の仕事をやっておりました関係上、
それを理由に、十二月の十七日いまだソ連軍の爆撃を受けて
おりましたさなかに抑留されました。当時の樺太の事情は、
いろいろ御承知の方も多いと思いますが、私、国境方面の
エストルという地区におりまして、その地区は陸岸あるいは
海岸からの双方からソ連軍が上陸しました。
ちょうどはさみ撃ちになったような関係でありまして、
住民の大半は、東海岸の鉄道のある地点に十数万の人間が
避難をしたのでございます。

当時私は樺太庁におりまして、上陸軍と折衝すべく
種々対策を練ったのでありますが、
当初は御承知のように本土作戦をやっておりました
ときでありまして、わが日本の防衛隊と上陸軍との間に
小ぜり合いがありまして、相当犠牲者を出したのであります。

そのことも知りませんで、私が当時の支庁長尾崎氏などと
一緒に抑留されました後、一時釈放されまして、
従来の行政部門をソ連上陸軍に引き渡しをしろという
ソ連側の司令官の命を受けまして、自分らがやっておりました
樺太庁内部の行政を全部書類でまとめまして、
上陸軍に引き渡すべく、また住民の治安を維持し、
また生活の保障などにひたすら働いておったのでありますが、
十二月の十七日に、本部の豊原から迎えに来た
武装した兵隊と政治部員が集まって連行されまして、
そのまま豊原の刑務所に収監されまして取調べを受けました結果、
十年の労役を受けました。

越えまして四六年――私どもただいま日本の二十一年、
二十二年という数字があまりぴったりまだ頭にこないものですから、
西暦で申し上げますから、そのつもりでお聞き取りを
願いたいと思います。

――一九四六年四月二十九日に、日本人約三百名が一集団と
なりまして、真岡港からウラジオへ向けて出発しました。
ウラジオへ到着しましたのが独ソ戦の戦勝記念日である
五月の七日で、同所からハバロフスク、イルクーツクを経由して、
バイカル湖畔のクラスノヤルスクへ参りましたところが、
一万五、六千の各国人の囚人が集団しておりまして、
そこで簡単な体格検査を受けました。

一級から四級までの体格検査のうち、私は二級に該当しまして、
多くの日本人はそこで三千名の一集団を作りまして、
イェニセー川を北氷洋に向って下りました。

北緯六十九度にドジンカというところがありますが、
ドジンカで船をおりて、ドジンカの中継所に一時おりまして、
さらにドジンカから東方約百二十キロの地点にナリンスクという
鉱山の都市がございますが、当時私どもは、四六年七月十日に
ナリンスクへ参りまして、そこの収容所にすぐ収容されまして、
翌日の七月十一日から
さっそく家屋建築の土方作業をやらされました。

当時は欧州大戦後のソ連の食糧事情の窮屈なときでありまして、
食糧は非常に逼迫しておりました。住民自体が食糧が不足で、
食べるものがないのでありますから、私ら囚人の方には、
ときどき主食である黒パンが切れまして、
一週間ぐらい全然パンの配給がないことがままありました。

一月に一回ないし二回は必ずそういうことがあったのであります。
そんなときには、パンを食わずに、やむを得ず燕麦の
あり合せのカーシャ、あるいはスープを作りました。
それは食堂で作るのでありますが、一回五百グラムで
朝と晩、昼は全然給食されません。それをすすりながら、
土方なり穴掘り作業をやりました。

ナリンスクは年がら年じゅう凍っている土地でありまして、
わずかに七月の中ごろから八月の中ごろまで一カ月の間のみ
表面の土がやや溶ける程度でありまして、
その地下は全部常に固い岩のような氷になっております。

それをわれわれの手で掘り返すのですが、
その掘り返すのが手元に響きまして、
容易に掘る仕事が進捗しませんので、監督あるいは班長などに
しかられることがままあったのであります。

それを拒否し、または少しでも抵抗するような態度をとりますと、
すぐ営倉に入れられまして、今度はもう食事は懲罰の意味で
パンを減食されますし、外などへも全然自由に出されませんから、
やむを得ず強制労働に従事しなければならぬという立場でありまして、
二番目には、お前ら政治犯人じゃないかというような
非常な侮蔑的な言葉を与えられました。

そのうちにわれわれ同胞の同志のうちで、――言い落しましたが、
まず行きますと、鉱毒の関係でその鉱山は、
鉱物の標本にあります見本のうちで、ないものは二つか三つで、
あとは全部ある鉱山であります。

金、銀、銅、プラチナ、クローム、ニッケル、
すべての鉱物資源の豊富な山で、
石炭から岩塩その他までありまして、
その鉱毒がそこの水に流れ込んでいるのであります。
私ら飲んでおります水は、その地区に無数にある沼、湖などより
引きましたものを飲料水にして飲んでおるのであります。

私ラーゲルを幾多回りましたが、その間水道のないラーゲルが
たくさんありました。小さいラーゲルには水道がありません。
やむを得ず年がら年じゅうありますところの雪を溶かしまして、
飲料水にし、またお湯に入るというような、
非常に水の窮屈なところでありますが、
その水を飲みますために、私は一週間日に、ツンガーと申しまして、
壊血病と脚気と合せたような病気になったのであります。

まず足が高く上らない。はれるツンガーとはれないツンガーと
両方ありますが、足が上らないばかりでなく、
そのために壊血病独特の病気で、血液が出ても、凝血しない、
あるいは心臓をやられまして、非常に高血圧になるのであります。

それで二年、三年のうちに――大体私らの年配以上の者、
ないしは若い者でも虚弱者は、ツンガー並びに心臓病、
それから食糧不足のために、やむを得ず草の根、
あるいは落ちておる魚なんかを、これはまかないあたりで
洗った魚を拾って食べる人もあるのでございますが、
それで病気になってなくなった人もあります。

とにかく二年、三年のうちに、一番死亡率が多かったのであります。
ひとり日本人ばかりでなく、これはバルト三国人、ウクライナ、
これらの方面にいた人も非常に死亡率が多かったのであります。

結論から申しますと、結局私は一九五四年の八月一日にナリンスクを
出発しまして、これはその地区に外国人を置かないという
当局者の一つの方針に基きまして、おのずから日本人、ドイツ人、
ポーランド人、支那人、朝鮮人、これらが約二百五、六十名
一集団をなしまして、ただいまのドジンカと申しまする
イエニセー川の下流の港より出発しまして、二十二日間かかりまして、
クラスノヤルスクに入ったのであります。

そのときの当局者の意向は、お前らは今度は大陸へ行ってみろ、
大陸と申しますのは、同じくナリンスクも大陸ではありますが、
ぽつんと北極の近くにある地域でありまして、シベリアに出ることを
大陸に出るという言葉を使っております。

とにかく飛行機かあるいは船をもって、長くかからなければ
出ていけない離れ島のようなところでありますから、
そういう言葉を使っております。大陸に出れば、おそらく日本へ、
あるいはドイツへ、あるいはポーランドヘみな帰れるのだと言われまして、
非常に喜んで、私らはもうこれによって帰るのだと、
その船中は非常に希望を持って乗って参りました。
船中において、各国人は各国別に得意の歌を歌ったり、
われわれ政治犯などの者は人種を超越しまして、
非常に相助けて、むつみ合っておったようなわけであります。

ところが、あにはからんや、八月二十二日に私どもは
クラスノヤルスクに到着しましたところが、待っていたものは、
網のかかった鉄格子の入った囚人自動車が無数に並んで、
自動小銃を持った兵隊がずらっと並んで迎えたのであります。

こういう待遇では、これは怪しいなという感じを非常に受けたので
あります。囚人自動車の警護のもとに、自動小銃を持った兵隊に
監視されながら、クラスノヤルスクの収容所に収容されました。

二、三日休養の後、すぐに送り込まれましたのが、――むろん
私らの出入りには囚人列車のみ許されるのであります。
囚人列車は日本などにはありませんが、金網の張りました端に
廊下がありまして、各部屋に十二行ないし十五名くらいおった
のでありまして、自動小銃を持った者がその前に張り番をして
おるというような状況であります。大きなかぎをかけておって
絶対に出られないようにして、一人ずつ便所に出すというような、
非常に厳重なものでありました。

それに乗りまして、イルクーツクからタイセットという町に
送り込まれました。タイセットは、ハム鉄道の起点であります。
バイカル湖、アムールと結びつけ、東北シベリア、沿海州へ
出る線であります。これを作るのに従事いたしましたのは、
関東軍の捕虜の兵隊さん方でありますが、そのまくら木一本に
一人ずつの捕虜の方がなくなっているといわれるくらい
大きな犠牲を出した鉄道であります。

その鉄道が現在相当長く続いております。
その沿線にわれわれはばらまかれまして、木材伐採事業その他
国営農場などに働かされたのであります。それで、今回私釈放の
通知を受けますまでそこに働いておりました。

刑期は十一月二十六日に終るわけでありますが、刑期は十年で、
とらわれた十二月十七日から十年目でありますから十二月十七日で
ありますが、自分が働いた日にちは幾らか繰り上げて勘定して
くれるので、十一月二十六日に刑期が満了したということを言われまして、
それでまた別の収容所に置かれたのであります。

これもやはり収容所でありまして、同様自由に町へ出ることができない
囚人生活でありました。再三嘆願書を書きました。ところが、
そこのラーゲルの所長は、おれはお前たちをここへ置いて生活させるだけで、
何ら権限を持っていない、お前が日本へ帰りたいとか、
町へ出してくれとかいうことは、モスクワの最高委員会に嘆願書を出せ、
おれはただお前をここへ逃走しないように置くだけで、
何らの権限を持っていないというので、私は再三モスクワの最高裁判所に
嘆願書を書きました。

そのせいか何かわかりませんが、本年の一月十八日に、
お前どこへ行くか知らぬがこの汽車に乗れと言われまして、
日本人二十何名と一緒になり、タイセットから
やはり今の囚人列車に乗せられまして、イルクーツクを経過して、
ハバロフスクに参ったのが二月十二日であります。

ちょうど参りましたら、昨年の十二月十九日から、
今われわれは一つの運動をやっているのだというようなお話で、
その内容について皆さん方からお伺いしました。
内容の性質、運動の経過などを詳細にお聞きしまして、
私もその一員となり、皆さんと行動をともにしておりましたが、
まだ釈放されるということは私もわかっておりませんでした。

それで三月一日の前に、ただいま柴田さんからお話のありましたように、
二月二十五日に二分所に移り、皆さんと御一緒になりまして、
今回帰って参りました。

これを通して、私まだ少しも尽しておりませんが、
現在残っております方たちのお気持をいろいろ伺ってみ、
自分自身も考えておりますが、ときあたかも日ソ交渉中でありまして、
この日ソ交渉にわれわれの抑留されている者を織り込んで交渉して
いただきたいことはやまやまでありますが、

日ソ交渉は、領土問題その他で非常に難所にひっかかっている。
しかも日本は、現在ソ連と五分五分の交渉をするような態度でない、
非常に卑屈な外交に陥りやすい。それに加えてわれわれ抑留者が
それにおんぶして交渉していただくことは、非常にわれわれ心苦しい。
日ソ交渉は、日本に非常に有利のように交渉していただきたい。
これはむろん日本国民だれしもが思うことでありまして、
われわれも、抑留者自身も、そう思うのであります。

ですから、われわれの交渉は、日ソ交渉中に織り込んでいただく
ならば都合がいいが、織り込まなくても別個にできるものであったら、
日本の当局者、また赤十字のお力でも、交渉するようなめどがつけば
つけていただきたい。

なおまた自分らは自分らの生命を尊重するようにできる限りの運動も
してみたい、また運動の方法も講ずる、人道主義の立場から、
世界の赤十字の連盟に訴えたいというようなことで、その案件なんかに
ついても読んで、一分所におりましたときにお聞きしたことがあります。

しかもドイツ人がすでに本国に帰っておるにもかかわらず、
ひとり日本人のみいまだに押えておいて、強制労働を強要する
というようなことは、全く不平等もはなはだしい。

だれ一人として日本に帰りたくない者はないはずであります。
この際先に帰った者としては、同志が一日も早く日本に帰れるように
していただきたい。その方法について、当局の方々の御努力を
ぜひいただきたいと思います。先ほど御説明がありました通り、
この法案でこの審議会の存立期間が延長になりましたことは、
心ひそかに喜んでいる次第であります。何分皆さんの御努力を
望んでやまない次第であります。

○木村(文)委員長代理
馴松成良君からお話を願います。

○馴松参考人
昭和二十年七月七日に入隊し、七月下旬に通化に行って、
通化で敗戦になっております。
あまりおめでたい話ではないのですけれども、
二十年十二月二十二日に逮捕されて、
ザバイカル軍法会議で死刑の宣告を受けて、チタに護送された。
チタからイルクーツクに入り、ノースビルスクに入り、
モスクワからウラジミールという監獄に入ったが、
そこの監獄には、当時日本人はおりませんでした。

私たちが初めて行ったのであります。ロ助もみなびっくりして、
日本人だ、日本人だと言っておりました。その後約三十人くらいの
日本人が来たということが、散歩場や看守から聞いてわかった。

監獄の生活といいますと、部屋の中に入ったきりです、
窓から見ちゃいかぬ、大きな声で話しちゃいかぬ、歌も、
もちろん愉快じゃないですから歌を歌う人はいませんが、
歌を歌っちゃいかぬ。とにかく何と言っていいかわからぬような
ところに入られて、昭和二十八年まで、その間非常に日本人も
ドイツ人もみな腹を減らしたのであります。

パンが五百五十グラム、スープの水みたいなやっと、
それからアワと燕麦を食わせるのであります。
まあ腹が減っておりましたから非常にうまかったです。

二十八年になりましてスターリンが死んで、
ベリヤの事件が起りましてから、日本人に対する態度が非常に
よくなった。日本人だけでなくて、ドイツ人に対する態度も
非常によくなったのであります。

そして昭和二十九年の六月に、浅田、丸山、山田、
それからもう一人、四名の方がそこから初めて釈放になっております。

そのときは、部屋に入ったきりなものですから、
だれがどこへ行ったのかわからなかった。
その後二十九年の九月に日本人が十四名出発しました。

それがどうしてわかったかといいますと、
許可にはならぬのですけれども、窓から見たところ、
日本人がみんな集まっているので、
どこに行くのかと呼びかけてみましたら、日本へ帰るというのです。

これはわしだけ帰さぬのかなと思った。そのとき見た人は、
柴田さん、外村さん、乾さん、いろんな人がおられる。
わしと吉川さんと岡本さんと稲垣さんと佐藤さん、星子さん、
武岡さんが残されたわけです。

いろいろ監獄長が来るたびに言ったのですが、
なぜおれたちだけ置いていくのかと言ったのです。
向うのやることは何が何だかさっぱりわからないのであります。

そして私はみんなが出ていかれましてから、一緒の部屋に
岡村さん、岡本さん、稲垣さん、常塚さんを迎えて、
そして、しようがないから、一緒にロシヤ語の勉強をしよう
じゃないかというので、入っておったのです。

すると突然去年十月の三十日に荷物を持って出てこい、
どこへ行くのか、どこへ行くかわからない、はっきり言え、
ほかの部屋には行きたくない、ところがお前十年間待っていたんだから、
大体お前は見当がついているだろう、そこで監獄長を呼んでくれ、
はっきり言ってから出ていこうじゃないかと言って、
そして岡本さんや日本人の方とそこでいろいろ話をしたのです。

そのとき皆さんの言われるのは、ドイツ人に政府からと団体から
たくさん援助が来ておりましたが、日本の政府から一つも援助がない
ということは、非常に遺憾に存じておりました、

どうして来ないんだろうと思った。まあドイツ人の送ってもらった
小包で食っていったようなわけです。そして二十八年の十二月八日に
初めて手紙が届くようになって、私も翌年の四月に初めて小包を
一つもらったのであります。そのときは受領書に自分の名前
を書くだけでした。

ドイツ人の小包は、四枚に名前を書いてサインしまして、
そしてその一枚は本人に、一枚は監獄長に、一枚は本国に返るような
ことになっておった。われわれには、何ぼあっても来ない。

うちから送ってくれても、受領書を送らぬためか何か知りませんが、
とにかく届かないような傾向がありました。
そのことを一つ帰ったら言ってこようと思った。
もちろん言わないでもわかるのです。
あの部屋に入っておりますと、非常に日本に帰りたいのは、
言わぬでもわかるだろうと思います。

そうして、昨年の十月三十日にウラジミールという
モスクワから百八十キロ東方のところから、
ハバロフスクに向って私は行ったのであります。

ハバロフスクに来て一番びっくりしたことは、
まずみんなの顔を見てびっくりしました。
これが日本人かなというような気がしました。

やせて、みなつえをついて歩いておりました。
そうして、まず最初に外村を見つけた。
お前去年帰ったはずじゃないか、
どうしてお前ここにうろうろしておるか、
帰すと言ったんだけれども、何だかまた散髪屋で仕事をしておる、
それはお前、監獄長になぜ帰さぬか聞いたらいいんだ、
何かまた政府が変って、わしにはわからないけれども、
日ソ交渉があるとか何とかいってまた仕事に出されたと言う。

そうして、十一月の二十六日に着いて、一週間くらいしまして、
私に強制労働をしなければいかぬ、外に行って仕事をしろと言う。
私は禁固だから仕事をせぬ、そんなに仕事をさせたかったら、
検事の言い渡し通り監獄にまた返してもらいたいと申しました。

なるほど監獄もつらいけれども、あの寒いのに外に行って
れんがを積んだり穴を掘るのも、どうもあの人たちを見ただけで
げっそりしたのであります。そうして、何で仕事をするのかなと
思っておったのですが、たまたま十二月十九日にみんなが作業には
出ないということを言われました。

その原因としまして、体力が非常に衰えている、
五十一年の体重それから五十五年の体重も、
どれだけの給与を与えられておるかも柴田さんはよくわかっておる
だろうと思いますが、そうして、日本人が要求しておるところを
政府は――われわれは、戦犯じゃない、
すぐ帰せという要求をしておりました。

高血圧患者は仕事に出すな、三十七度以上熱のある人は
仕事に絶対に出さない、五十五歳以上の人には絶対に仕事をさせない、
五十一歳から五十四歳までの人は軽い仕事をする、
それから医者が診断をする場合に、
ほかの者が絶対に口を出さないこと、
それから団長と鶴賀という人が指揮をとっておりましたが、
それをかえてもらいたい、全員が帰るまで作業をやらない、
休養をする、それから大堀泰の釈放について、
それから日本人をみなハバロフスクに集結させてくれ、
この事件に対して責任者を出さない、
それから一回の手紙じゃ着いたり届かなかったりして、
書いておるのですけれども、どうも返事がないので、
少くとも月に二回手紙を出してくれというようなことを
要望しました。

そうして仕事をやらないものですから、
ソ側はびっくりして、今まではいはい言っておった日本人が
急に仕事をやめたというので青くなりまして、十二月二十二日には
地方検事がやって参りました。内務省の大佐がやって参りました。

そのときの話も柴田さんは御承知だろうと思います。
十二月二十三日に検事総長、内務省の長官がやって参りまして、
仕事に出ろ、何で仕事に出ない――そのときの理由とそのときの話を
柴田さんよく御存じだろうと思います。

二十四日には、二十九日まで懲罰食を行いました。
しかしみんな懲罰食のあることぐらい覚悟しておりましたから、
みんな元気で、こういう寒いときに外へいって仕事をするよりも、
スープ三ばい飲んで寝た方がましだ、そういうふうな調子で、
みんな張り切って、慰問団というのを作りまして、
みんなのんきに近ごろやっておった。

しかしのんきといいますけれども、非常にみんな体力が衰えて
おるものですから、非常に不自由しております。
なるべく病気の人を慰問しなければいかぬというので、
人形芝居をやったり浪花節を聞かせたりしてみんなやっておるのですが、
作業に出ない関係上、前に作業に出ておりましたときには
一月平均五、六十ルーブルの作業賞与金をいただいておりました
のですけれども、全然これが入らぬようになったものですから、
皆さん非常に腹を減らしておるというてはおかしいけれども、
非常に困った。

腹の減るのは十年間なれてきていますから大したこともないのですが、
みんな食いたくてしようがない。でありますから、
もしできることなら慰問品を送ってもらいたい、
ぜひ送ってもらいたいというようなことを言った人もおります。

そして、この闘争にはみんなが団結してやっております。
みんながといいましても、三十一人の党史研究者がいないだけであって、
あとの人は病人も手のない人もみんな一緒になって歌を歌って、
もう仕事はやめた、休養しよう、必ずわれわれを日ソ交渉とは
別にして帰してもらいたい、ドイツ人さえ帰ったのに、
日本がロシアと戦争したわけではないのに、
どうしておれたちをいつまでもここに置いておくのかといって
憤慨しておった。そうして、私はそういう状況を見て、
一月の二十五日の夜、内地に帰すからふろに行って、
シャツをもらって準備しておけと、こう言うものですから、
皆さんと話して、その晩ろくろく寝なかったです。

準備して、あくる日に出るときに、どうも調子がおかしいと思ったら、
二分所の方に隔離されました。二分所の方に行ってみましたら、
われわれが日本人としては初めてでした。朝鮮人とシナ人がおりました。
シナ人が約百六十名、それも二月の二十五日には本国に帰すという
言い渡しを受けて、二月の十五日くらいまでには移動するような話を
しておりました。中には二十五年の連中もおるのですが、
釈放の言い渡しを受けたそうです。朝鮮人が六十名いました。
日本人の人があとで二回にわたって来ました。タイセットの
山の奥から来たそうであります。その中の最初に来た人は、
二月の一日ごろ来られました。二回目に来られたときは、
二月十五日であります。そして、皆さんと一緒にいて、
三月一日まで、ハバロフスクを出て帰国するまでおったのであります。

いろいろ詳しいことを聞いて、頼まれたりしたことがありますが、
柴田さんの方では、時間の関係かもしれませんが発表しなかった
のですが、もし質問がありましたら、どうぞ質問していただきたいと思います。

○木村(文)委員長代理
ありがとうございました。これにて、参考人よりの総括的の事情聴取は終りました。
これより通告順によりまして、委員各位の質疑を許します。松岡松平君。

○松岡(松)委員
柴田さんからお尋ねしたいのですが、先ほどの柴田さんの供述
並びに小笠さん、馴松さん、小堤さんの供述を伺いまして、
請願運動の起されたこと、また請願運動が続いている
大体のアウト・ラインはわかったですが、
そのよって生じた原因並びにその運動の内容等について、
今少しく詳しく承わりたいと思うのであります。

少くともハバロフスクの収容所は、外界との遮断をされた収容所で、
その中にソ連政府の厳重な監視のもとに抑留されている大勢の人たちが
こういう運動を起されるには、よくせきの事情がなければならないと
考えられるのであります。

先ほどから断片的でありますが、腹が減る、
つえをついて歩かなければならない、
だんだんにからだが衰えてくるとおっしゃるが、
一体どのような食糧を給しているのか、
懲罰食とはどういう程度のものを与えているのか、
それから強制労働の件もありますが、
その労働の内容、
それから労働によって受ける給与関係はどうなっているのか、
それからバターとか砂糖とかいうものを買うことによって、
幾らか飢えをいやすことができるというお話も
ちょっと断片的に出ましたが、
労働とその収入とそういう補充食糧買い入れとの関係が
どうなっているのか、できるだけ一つ詳細に承わりたい。

さらに問題を一応出しておきます。この請願運動が起ってから、
ソ連政府が抑留者諸君にとった処置、たとえば懲罰をしたとか、
あるいは減食をするとか、
あるいは働くことのできない不適格な者に労働をしいたとか、
そういうような特徴があったらこれもお話を願いたい。

それからあなた方が知られる限りのハバロフスクの収容所の
中における――先ほど柴田さんからの七百六十九名と
第三分所の二百五十名というと千十九名になるのですが、
そのほかに党史研究家が三十何名ある。

参加しない者は党史研究家だけだということを今、
馴松さんからお話になったがこの点の数字も二つ明瞭に承わりたい。

さらに、この運動は偶発的なものではなくて、
今や計画的な運動として展開されている、
組織的なもののようにも承わるのですが、
その内容、形態、その連絡関係、日常の活動状況等について、
詳しく御説明を賜わりたいと思う。
一応そういう点についてお話を願ってから、
さらにわからぬところがあればお伺いすることにいたします。

○柴田参考人
それでは、今お尋ねがございました請願運動の発生した原因、
運動の内容についてまず申し上げます。先ほどもちょっと
申し上げましたように、在ソ十年の同胞の生活は、
襲ってくる強制労働とそれから給与の不十分、
医療設備の不完全、医師の技術の低級なことというようなことに
加えて、絶えず帰国の希望を抱きながら、
その希望がいつも裏切られておるということに対する焦燥感
その他の精神苦がこれに加わりまして、
各人の体位というものはだんだんに低下してきたのであります。

そのために、これを何とかしなければならないという考えが、
昨年、一昨年の暮れころからぼつぼつみんなの胸のうちに
きざしてきておりました。

そういうふうにきざしておりましたその前に、
先ほどもちょっと申し上げました第六建築現場の非常ないやな空気が、
大堀事件をついに引き起すようになりまして、
その大堀君の嘆願運動をしましたにもかかわらず、
何らその嘆願運動が聞き入れられませんで、むしろ逆に、
ここにおります小笠君もその一人ですが、
その主導的な立場に立ったとソ側が認めた者七十名を
第二分所に隔離してしまったのであります。

この人たちは、第六建築場におけるところの指導者であり、
主力であったのであります。
その人たちが第二分所に隔離をされてしまって、
第六分所は一時みんながとほうにくれるような状態になりまして、
この人たちを帰してくれという嘆願もしばしば行なったのです。

それもいれられませんで、大堀君はついに十年の禁固、
十五年の強制労働、計二十五年の極刑に処せられてしまった
のであります。

嘆願運動をしました者の数は五百名に上っておるのであります。
ついに彼はその刑の申し渡しを受けて、今、監獄におります。

これに対するみんなのふんまんも胸の中に織り込まれまして、
悪化するところの労働条件、体位の低下というもので、
いよいよ何とかしなければならないというふうに考えておりました。
これが遠因であります。

大堀事件は一つのきっかけになり、その労働条件の不良と、
それから体位の逐次低下していくということに対する考え方が、
今回の請願運動を起す情勢の一つの遠因となっております。

そこへ持って参しりまして、昨年の九月に――向うでは
体位をそのころは一級者、二級者、三級者、四級者、病人、
こう分けておりました。

作業の可能性を持っている者は一級者、二級者、三級者なので
あります。四級者は、これをインワリッドといいまして、
作業に従事することを許されないのであります。
休ませております。それと病人。

この一級者というのはいかなる労働にもたえ得る者という。
優秀な者であります。二級者というのは、やはり一級者と
同じなんでありますが、若干弱いという程度です。
三級者は、一級者と二級者に比較すると、
軽い労働に従事させなければならないことになっておるので
ありますが、その三級者の血圧の高い者、それから
原因不明の熱発が続いておる者、その他胃病の者あるいは
心臓の弱い者、その他これに類した若干の不自由な人は、
営内において麻袋の作業というのがありまして、
これは日本のメリケン粉を入れるような袋の、
あれの大きいものでありますが、それを沿海州あたりからも
送ってきまして、穴のあいたものをつくろって、
また送り出して、これに対する労賃をもらうのであります。
それでその仕事に従事をさせておりますと、
外で二百以上血圧のありましたものが、一カ月もたつと、
百七十くらいに下ってくるのであります。
それからほかの体の悪い人も少しずつ回復して参りますので、
営内の麻袋作業に従事させております。

その営内の麻袋作業に従事をさせております者、
それの中から三十名ばかりの者を、医者の診定に、
収容所の医者以外の人が政治的な干渉をしまして、
翌日から営外の作業に出したのであります。

いよいよひどいことをするなというふうにみんな考えて
おりました。なぜそういうことをするかと申しますと、
第十六収容所は自営の収容所であります。

かせぎ金をもってあそこの経費をまかなっておるのであります。
そうして作業に参ります人員というものは、収容所の所長と、
作業の現場を企画統制しておりますところの企業体という
ものとの間の契約によりまして、あらかじめ予定の人員が
きまっておるのであります。

この人員が減って参りますというと、
企業体からは追及されてくるのです。
またその人員が減ることによりまして、
自活自営しております収容所の費用の収入が減ってくるのであります。

そこでどうしてもかり出さなければならないことになりますので、
政治的な干渉をして、外へ追い出すことになったのであります。

いよいよここまで押してきたなという考えがみんなの腹の中に
あったのですが、まだみんなが日ソ交渉に望みをかけて、
従順な一日一日を送っておることによって、
自分たちの帰国の願いは近く実現されると考えましたから 
静かにその強圧にもたえて、弱い者も出ていったのであります。

ところが、越えて三カ月目の十二月十六日に、再び、
その営内の麻袋作業に従事しております者及び営内では、
そういう人で、やはり浴場の勤務とか、湯沸かし場の勤務、
食堂の勤務、その他これに類する営内の勤務がありますが、
それらに従事しております者百十数名に医者の診断を始めたので
あります。

そのときに、政治部員であるところのマカロフ少佐と、
それから第一分所の所長であるところのシリュウシキンという
高級中尉とが、医長の診断をしておりますところに立ち会いを
いたしまして、そうして医長が医学的の見地から、
これは営外の作業は不適であると診定したものを、
二人の医師以外の職員が干渉いたしまして、
外へ出す者をきめたのであります。

そうして六十五名の者がここに政治的見地から選ばれまして、
翌日から営外の作業に出勤を命ぜられました。
みなはやはり九月と同様に、耐えられるだけは耐えて
いかなければならぬ、そして帰国の日を待たなければならない、
こう考えましたので、その選ばれた六十五名の中には
ずいぶん出るのをいやがって、いろいろ言った者もありました
けれども、とにかくきめられた以上は出なければいかぬというので、
外に出したのであります。

そうしますと、その日のうちにすでに血圧が高くなって、
現場でふらふらになった者があります。
帰ってきて熱発が非常に激しくなった者もありまして、
医師の診断を受けて、明日から作業に出ないでよろしいと
言われた者が、数名に上ったのであります。

翌十七日になりますと、前の日に数名休んで作業に行かないのですが、
残りの人の中から前の日に休んだ者の倍以上の数がまた出てしまった。

これはいよいよそれらの者も救わなければならぬ、
病院には重症患者が五名いる、こういうような情勢で、
逐次押されていった日には、われわれにはあの病室に寝ている
ところの重症患者の姿がやがて回ってくるのだ、
これではわれわれが国に帰って、
待っているところの妻子を扶養するために活動しなければならない
能力がなくなってしまうのだ、帰っても妻子を飢えさせなければ
ならないあわれな姿が現われてくるのだ、
また帰って国にお力を尽すこともできないあわれな姿になり、
あるいはこの土地で命を落とすことになるかもしれない、
日ソ交渉は当時中断されました、われわれは、
ここにわれわれの生命をわれわれで守る以外に道はない、
日ソ交渉と別個に、自分たちは自分たちの力で帰還の道を
開拓しなければならないという考えのもとに、
十二月の十九日の日に、朝、第六中隊において、
起床と同時にその声が起きたのであります。

そうして第六中隊には、作業に行く班が六個班あります。
その金田班というところからその声が起きたのでありますが、
全班が直ちにこれに相応じまして、われわれは出ない、
われわれの要求を貫徹するまでは作業に出ない
ということになりまして、それではそういうふうに
六中隊はきめようと言っておりますと、
ことを伝え聞いた各中隊の班が、ほかに五個中隊ありますが、
だんだんに、われわれも出ないといって班長が申し込んで
参りまして、

期せずして民主グループ――さっき党史研と言いましたが、
これは党史研究会、民主グループの二十七名を除いた以外の
範囲は、みな作業に出ないということを言ってきたのであります。

そこで、これはソ側に交渉するのには、何とか交渉に当る者を
定めなければならないということになりまして、
班長がその場で――これは六中隊の廊下でみな立って話を
したのですが、何とかやらなければならぬじゃないかといって
相談をしまして、それでは石田三郎氏がいいだろう、
石田三郎氏に頼もうじゃないかといって、
三中隊にいる石田氏を呼んできたのです。

石田氏は班長ではありません。そしてみなが、
こういうことになった、これを何とかソ側と交渉するためには、
交渉の衝に当ってもらう者がいなくちゃならない、
それで石田さん、あなたどうかやってくれないかと言って、
口々に石田君に頼んだのであります。

そうすると、石田君、しばらく黙って考えておりましたが、
みながそういうふうにかたく考えてきめた以上はやろう、
ただし私は、あくまで日本人として、無血の請願運動を続けて
いきたいと思う、諸君もそのつもりでやってもらえるかと
言ったときに、それはそうだというので、みなが賛成をして、
石田氏を交渉の代表に選んだのであります。

それからもう作業出動の時間が切れたものですから、
ソ側からなぜ作業に出ないかという申し入れがありましたときに、
石田君と班長が行って、われわれは、われわれの生命を守るためには、
われわれの要求をいれてもらいたい、その要求がいれられない限り、
われわれは作業に出ないということを申し出たのです。

そうしてその日にそのほか三回にわたりまして向うの職員と
安産がありましたけれども、職員は、作業に出ろ、
そして点呼を受けろ、そうすれば何にもなかったことにする
という話でありましたので、いやそれではわれわれは出られない
といって、十九日の日には物別れになったのです。

その十九日の物別れになりました夕方、石田君は各班長を集めまして、
要求事項というものは各人が思うままの要求をする、
それを向うに要求すべきである、従って班長は自己の班の班員の
一人ずつの要求事項を書かせて、二十日の午前九時までに
持ってきてもらいたいということを言いまして、
班長はその晩、翌朝にかけてこれをまとめて、
そうして総員の要求事項を漏れなく石田君のところへ持ってきた
のであります。そこで石田君はこれを検討、総合いたしまして、
共通のものを一つとして、八項目の要求事項にしたのであります。

それが先ほど馴松君から話しましたあの八項目なんです。
これを文書にいたしまして、収容所の職員に提出いたしまして、
この要求は現地の官憲の不当なる労働管理と非人道的な取扱い
によってわれわれの生命の危険が感じられるのであるからして、
現地の官憲を相手にはしない、モスクワから日本人を
よく了解した責任のある解決をする全権を呼んでもらいたい
という要求をしたのであります。

ところが、その日にハバロフスク州の内務監理局長と
収容所の政治部員とが参りまして、作業に出ろ、
出れば処罰にもしない、点呼も受けろというような要求がありました
けれども、これは今のみんなの意思と違いますから、
物別れになりました。

そうして、越えて二十二日に、今度はハバロフスク州の
検事長という人と前日参りました監理局長が参りまして、
石田君それから班長全部に面接をして、脅迫的な言葉のみが
取りかわされまして、何らこちらの要求に応じる曙光も
見出せなかったのであります。

それで、作業に出動しないからして処罰をするというような
話がありまして、作業に出るためには、帰って班員の全部の意思を
聞いたらどうだということを言ったのでありますが、
モスクワからの全権の来着を待って解決をつけるという
総意を受け入れている石田君と班長は、その場で相談をして、
そうしてモスクワから来着するまで待とうではないか、
作業には出まいという話にきまりまして、
そのことを答えたのであります。そうすると今のハバロスクの
検事長は、われわれソ連は、関東軍百万を撃砕したわれわれである、
ハバロフスクにいる日本人が八百名くらいそういうような
団体的な行動をとっても、何とも考えるものじゃないと
言いながら去っていったのであります。

それで、その晩罰則がいよいよ適用される、事によったら
石田代表を拉致されるかもしれない、これは無血闘争を目標と
するけれども、もし石田君をみんながそうやって守っているのに
拉致するというようなことがあったならば、
われわれはスクラムを組んで石田君を出さないことにしよう、
無血であるがゆえに、スクラムを組んで拉致されないように
していこうということにみんなの意思がきまりたのであります。

そのときに石田君は――これはブリガジールが全部集まっている
ときの話なんです。ブリガジールというのは班長なんですが、
石田君が立ちまして、きょうの情勢から見ると、あるいは
今夜かあす不法拉致をされるかもしれない、しかしこの運動の
趣旨は、無血闘争を趣旨としておるのであるからして、
私が拉致される場合に、あなた方は何もしないで私を
そのまま渡してくれ、それがこの闘争を依然として平穏のうちに
解決に導くゆえんだからと石田君が言ったのです。

そうすると、その班長の中の一人が、石田さん、
あなたがもしそういうふうに連れられて行った場合に、
あとはだれがやりますかと言ったのです。

そのときに石田君は、いや私が引かれて行ったら、
あとは諸君の中からもまた私にかわってやって下さい、
そうするとまた班長が、一人や二人はいいけれども、
次々に引かれて行って、一人も残らなかったときにどうなるか
という質問をしたときに、石田君は、そこまでやっても
無血で終っていこうじゃないか、こう言ったのであります。

そうすると今度はほかの班長が、石田さん、
この運動はなるほど無血で行こうということはわれわれ考えている
けれども、ソ側がもしそのような不法な処置をとるというなら、
われわれはこれに対して身をもって当ろうじゃないか、
あなたの命は僕らが守らなければならない、
僕らはあなたと生死を共にするつもりでいるのではないですかと
言って石田君に反省を促したのであります。

そうするとまた一人の者が、石田さん、そういう場合には、
まずあなたが皆の前に倒れて下さい、そうしたらわれわれが
次々に倒れましょう、われわれはこの正義人道に立脚した
要求を貫徹するためには、もしそのようなことがあったらば、
倒れていいじゃないですか、こう言ったのです。

それでも石田君は黙っておりましたが、いま一人の班長が、
石田さん、私らはこの仕事が始まったときからあなたに命を
差し上げているのだ、あなたと一緒に倒れるつもりでいるのだ、
そんなことを今あなたが言ったのでは、この目的は貫徹されません、
考え直して下さい、石田さん、私はあなたと一緒に死にますよ、
こう言ったのであります。

そのときに山中顕夫君が立ちまして、諸君この問題はすでに
決定されていることではないか、この運動を開始するときに、
われわれは死生をともにして、生か死かということで始めた
のではないか、そういうような組織的な不法行為に
ソ側が出るならば、それだけにわれわれは、われわれみずから
これに当る以外に道はないのではないか、
石田さん、あなたは少し無血闘争ということを考え過ぎている、
当初の目的、当初のわれわれの成り立ち、進み方を考えたら、
あなたがそういうことを言われることはないでしょう、
こう言ったのに対して、石田君はようやく口を切られて、
わかりました、皆さんがそういう考えがあるならば、
八百人の命を失っても、日本人としての名前を残しましょう
と言って、石田君はそのときに初めて口を開いたのであります。

しかし石田君はその後におきましても、これはあくまで無血の
闘争でいかなければならぬと言って、はやる青年諸君を押えまして、
青年諸君はすでに死を覚悟しておりましたけれども、
懇々と説得する石田君の熱意に動かされまして、
青年諸君百二十名は、石田さん、われわれは死にません、
われわれの命は国に帰ってから、国のためになくす命として
生きて参りますという署名を全員がして、石田君に提出して、
石田君も安心して今日までやっております。

従いまして、この運動は開始以来百余日になりますけれども、
いまだ一回の武力行使もありませんし、暴行ざたも起きておりません。
それからその後におきまして、五日目は罰則を適用されました。
それから六日目は何もありません。

七日目は所長のマルゼンコという大佐が出て参りまして、
所内を回りました。それから八日目の二十六日には各人の
私物の検査がありました。その中から書類とか刃物とかいうものは
ないかということを調べて、そして若干の書類を持っていき、
それから小さな小刀を持っていかれました。この数も若干であります。

十日目の十二月二十八日には州の内務長官というのが参りまして、
そのときに、日本人はきわめて静穏に、そして秩序ある行動をとって、
正当なる要求をしておるのに、直ちに罰則を適用して、食事を減らし、
文化活動を停止し、売店を閉鎖し、それから手紙を渡すことを
とめるというようなことは不当じゃないかという要求をしました
ときに、この内務長官は、実は私はきょう帰ってきたばかりで、
収容所からの報告は聞いておるけれども、日本人側の要求事項と
いうものを知らない、だからあすその要求事項を私に出してくれ、
それからそういう罰則を適用したのはそれはいかぬ、
あすからやめさせようと言って、翌日から罰則は解除になりました。

そして翌日は二十九日でありますが、二十九日から三十日、
三十一日、一日、二日、これは年末と年始だから、
お互いに気をつけて、何らのことなしによい正月を迎えよう
じゃないかということで、この間何らの事故がなくて過ぎた
のであります。

正月の二日まで休戦の条約ができたのでありますが、
一月の一日に、十年来初めてわれわれは声高らかに国歌を歌ったので
あります。みんな涙がぼうだと出まして、初めは勢いよく君が代を
歌っておりましたが、後になるほどみんなの声がかすれてしまった
のであります。そして、相抱いて、ほんとうに解放されたような
気持で、喜んで、十年目にほんとうに正月を迎える気持になりました。

ただし運動を継続しておりますから――いつもの年でございましたらば、
十五日も前からいろいろなものを用意しまして、
正月には日本らしい正月の食ぜんをにぎわし、
もちに似たようなものをこしらえ、また雑煮に似たようなものをこしらえて、
いろいろなごちそうを作って喜ぶのですけれども、
この運動が開始中ですから、わずかに石川県の県民が送ってくれた
もち米とアズキと砂糖によりまして、小さなぼたもちを食堂で作りまして、
それを食べて正月のお祝いにしたのであります。

例年は獅子も舞って参ります。自分たちで工夫して作った獅子を持って
おりまして、その獅子を舞い、それから万歳も、自分たちでこしらえた
へんてこりんな紋付の着物を着て回るのです。それからまた三味線も
現場から持ってきたいろいろなものでこしらえて、これを引いて
獅子が舞うのですが、そのことも今年はなくて、ただ心から解放された
正月を迎え、国歌を歌った式をやって、この日を終ったのであります。

それから二日も何もなし、三日も何にもなかったのですが、
四日の日になりまして、モスクワから来たという委員会が現われたので
あります。それは三省でありましたが、
全ソ検事総長代理兼全ソ軍事裁判検事総長を首班とする三名が来た
のであります。そうして、石田代表に会うことは認めぬ、
班長は全員集まれと言って、班長の集合を命じたのであります。

ところがそこに班長が皆参りましたところ先ほど申し上げました
二日目に整理された要求事項というものは、これは総員の決議
として班長会議で決定をいたしました。そしてその決議に対して
各班ごとに班員が一人一人署名をしておるのであります。

その数か七百六十九名でありました。
この班長が集合を命ぜられましたときに、
その署名に入っておらない二十七名の一つの班があるのです。
これがいわゆる党史研グループなんです。
この決議に参加していない班長がそこに同席をしましたので、
決議に参加をしていない人が同席するということは、
われわれとしては会見の上に不合理に考える。
どうか除名をしてもらいたいという要求をいたしましたところが、
その検事総長代理なる人は、では休憩をして考えてみるというので、
三十分の休憩をされまして、再開になったのであります。
再開になりましたときに、やはり堂奥研グループの班長が
出ておりましたので、これでは先ほどから言っている通りに、
われわれは会談をすることができないと言いましたときに、
その党史研グループの班長は、私も日本人としてここに出て
発言の権利を持っている。すなわちこの運動はわれわれは
不賛成であると言ったのであります。

それで皆はとにかくその班長がいる限り話はできないと言って、
そこを退出したのでありますが、そのときに、この検事総長代理は、
では山村斑という班を五時半にここによこしてくれ、こういうふうに
命じたのであります。

そこで五時半に山村班は全員奉りまして、まず質問をしたことは、
どうしてあなたはこの山村班をお選びになりましたか、
また山村班の発言を総意とお考えになるのかどうかといって
質問をしましたところが、いや、山村班はこの部屋にちょうど
入るに都合のいい人員だったから、山村班を選んだのだ――
これは病院の診療室でやられたのですが、
そこはそのくらいの人員しか入らない。

それから総意と認めるということは、それは認めない、
こう言われたので、山村班からは各人が――この請願運動というものは、
ハバロフスクにいる日本人だけの問題ではなく、
ソ連にいるところの全日本人の要求と同じことであると考える
がゆえに、その一切をわれわれは代表に一任しておりますから、
代表に聞いて下さいということをみんな言って別れたのであります。

そのときに、この検事総長代理という人は、ではあすは個人の接見を
行おうと言って、個人の申し出を受けつける、なお自分の方からも
指名する者があるだろうと言って、その日は終って、
翌日、個人の接見が行われたのです。ところがみんなずっと
いろいろつらい目にあっているものでございますから、
みんなが会いに行ったときに、その詳細を尽して言うものですから、
非常にひまがかかりまして、朝から夕方までやってようやく
二十二人の人しか会えなかったのです。その翌日からは、
その代理及びその他の二名の人は来なくなってしまった。

そうして折々州の内務長官というものが来まして、
そうしていろいろ見ていくようになったのですが、
現地で解決ができると思われることについては、
徐々にそれを解決していくようになったのです。

たとえて申しますと、一月の五日には、二つの部屋をあけまして、
そして今まで各バラックに散在しておりました血圧の高い者で
入院をしないでもいい者、それから心臓の弱い者、
あるいは作業によって足が不自由になった者、手のきかない者、
胃を手術で切り取ったために静養させなければならない者
というような人々を入れる保健室というのを作ったのであります。
そうして二部屋に1日にちはちょっと前後して入ったのですが、
約三十名の者がその両室に分けて入れられました、
われわれ刑の明けた者も、その保健室に一緒に入れられたの
であります。ただしこの人たちはみんな決議に参加しております。

そうして各バラックにおいていらいらさせることをやめて、
その病弱の人だけはそこへ入れるという処置を講じました。

それからまた医者の方では、今まで医長であったリトワーク
という人をやめさして、ほかの医長を持ってきた。
それからまた日本人の医者がおります。これは刑が明けない
のですけれども、その人たちが今まで手伝っておったので
ありますが、だんだんにその人たちの診療とか施薬とか
いうようなことを、在来よりもゆるやかにしました。
そうして後ごろには、囚人で小日向という元軍医があるのですが、
その人が、主となって、作業に適するか適しないかということの
診定までこの人がやる、そうしてロ側の所長はその認定を
そのまま認めていくというところまで変ってきたのであります。

それから、さらに二月に入りますと、市中にあるところの
今まで女の囚人が入っておりました病院を、女を全部出しまして、
これを改造いたしまして、東洋人病院という名前をつけて、
そこに一分所から百六十名の病人を入れることにしたのであります。
さらにまたそれに加えまするのに、収容所に抑留されております者は、
兵隊の監視なくしては市中に出られないのでありますが、
ところがこの病院は市中にあるのであります。
その病院に、また刑の明けない日本人十一名を勤務員として
送り込んだのであります。それからまた今まで不足しておりました
薬品類も、逐次これを豊富にしていくというふうにしまして、
現地で解決のできるものは解決をしていこうという考えで動いて
おります。

従いまして、私は第一分所は一月の二十六日に出たのでありますが、
それまでにだんだんにそう変って参っておるのですが、
二月の二十五日に連絡がありまして、――この連絡はいろいろな
非常にむずかしい方法でやるのですが、二月の二十五日から
罰則が適用された。罰則と申しますのは、二十四日に実行されました
文化活動の停止、通信の不許可、娯楽の停止、食事の減量
というようなことを実施したといって連絡がありまして、
それで私ども三月一日に向うを出ますまで、
それは継続されておったのであります。

これが大体の現状でありまして、それでは食糧はどうか
ということになるのでありますが、
これは普通食と病人食、それに罰食というものがあります。
普通食と申しますのは、朝がスープ、スープの中にはカンラン、
ジャガイモ、それに魚油または肉のあぶらが少し入れてある
という程度、ときには青いトマトが入ります。

十一月過ぎになりますと、なまのキャベツはありませんから、
これを塩づけにしたものを水につけて、若干のすっぱ味を出して
おいて、それをスープに入れます。そのほかに、白米の御飯よりも
ちょっとやわらかいものが、こういう洗面器みたいなさらに
八分目入っておる。その次が、昼はやはりそのスープに今度は
雑穀の御飯のやわらかいようなもの、雑穀と申しますのは、
燕麦、大麦、ソバ、それからヒエ、これはプショノーという
ロシヤ語で、ヒエと言う以外にちょっと申し上げようがないのですが、
鳥のえさですね、それから小麦、これは大体におきまして
日本の大麦のひき割りに似たものが大麦と燕、麦にはあります。

けれども、それ以外に大麦をこまかに砕いたもの、
それから小麦のこまかに砕いたもの、燕麦は砕いてありませんが、
プショノーというのは、今申した鳥のえさみたいな、
アワみたいな、あんなものです。あれを煮たものです。

それから夜はやはりそのスープでありまして、
それに白米の御飯ということになります。
それで二日に一ぺんとか、あるいはときには連続しますが、
特食と申しまして、これにメリケン粉でこしらえた手製の
ドーナツ、それから肉が若干入っておるまんじゅう――
支那まんじゅう、それから西洋菓子のカステラに似たものの上に
何もついておらないものというようなものが甘味品として、
特食と称してつきます。パンは三百五十グラムの黒パンであります。
病人食というのは、それの内容はあぶらけが多くて、
そのほかに白パンで、バターとそれから牛乳が折々つきます。
それに病人食ではありませんけれども、
また白パンもくれませんけれども、十五号食と申しまして、
飯の分量が一倍半くらいあるものを食わす十五号食というものが
あります。十五号食は折々どうかすると牛乳をくれたり
するようですが、病人食とは若干違う。

それから罰食ということになりますと、これは全くあぶらけのない、
塩けもないスープです。これが一日に三べんであります。

これが食糧であります。

それから、このカロリーはどうなるかと申しますと、
ソ側は普通食のカロリーは二千八百カロリーと言っております
けれども、吸収されないものを除きますと、
二千五百八十カロリーになるのであります。

ロシヤ側は、一般の労働者には、三千五百カロリーを限度として
おるのであります。そういたしますと、約千カロリー一日に
不足しておるということになります。

千カロリーが不足したらどうなるかということは、
私ちょっとその道の万に考えていただかないとわかりませんが、
とにかくそれだけのものが毎日不足するわけであります。
それで、不足したのでは困るので、どうするかというと、
さっきちょっと申し上げましたように、自分らが稼いだ金で、
バターは売店に持ってきませんから、マーガリン、それから
砂糖、粉ミルクというようなものを買って補給するのであります。
それが大体食糧の関係であります。

それから収入に入ります前に、どういうふうな体位の状況かと
いうことを申し上げます。平均の年令が、
今第一分所では四二・六になります。
体重は、毎年の十一月にとったものでありますが、
昭和二十六年が六十一キロ六、翌年の二十七年が五十九キロ八、
二十八年が五十九キロ三、二十九年が五十八キロ二、
昨年三十年が五十七キロ七となりまして、
約四キロ近く下っております。

それから病人の状況を申し上げますと、昨年の十二月末現在で、
血圧の患者が百七十五名、うち血圧二百以上の者が六十八名、
これには年寄りばかりでなく、若い人も相当にあります。
このほかに、第一分所から第三分所に送られた者の中で、
血圧の患者が二十七名あります。それで血圧が二百以上で
十二月の十七日の軽作業に従事している者が十五名、
つまりそれは十二月の十六日に外へ出るようにかり出されまして、
外へ出ていった者のうち、軽い作業をしておりました者が、
血圧二百以上の者で十五名あるというわけであります。

原因が不明で、一週間以上三十七度以上の微熱が続いている者が、
十二月二十七日現在で四十四名あります。そのほかに、
胃酸の欠乏しているもの、血管運動神経障害等の患者が
だんだんにたくさんになってくる傾向があります。

血管運動神経の障害というのはどういうことかと申しますと、
風土病ともいっているものでありますが、
手の先が白く色が変ってくるのであります。
それから重症の患者が五名、そのうち一人は、一月二十一日に
飯塚富太郎さんといって、栃木県の方がなくなりました。

それから二月二十七日には、岩本さんという、
鹿児島県の方がなくなられました。
飯塚さんはかン、岩本さんは高血圧でなくなりました。
それから十二月の二十六日ごろから所内の医者でなく、
市中にあるところの医者が六人で委員会を作りまして
――これは収容所官憲からの命令だと思いますが、参りまして、
体位の再検査を一人々々やったのであります。

その結果が、後になって発表されたところを見ますと、
九十八名が完全労働に従い得る、それから再診をする者が
十七名、再検査をする者が三十名、再検査というものは、
御承知の通り、血液検査とか尿の検査であります。

それから治療をすれば労働可能になるであろうと
見込まれるものが百十四名、合計二百五十九名でありました。
約八百名の中からこの数を引いていただきますと、
それが作業に耐えられる者になる。
非常に大きな数字になります。今の再診、再検査それから
治療を要する者以外の中の、われわれの見込では、
大体半分くらいまでは作業のできない者になるんじゃないかと
思っております。

大体におきまして二割ちょっとくらいのものが作業に従事して
おるというようなことになるだろうと思います。
これを二十八年の状況に合せてみますと、
二十八年は完全に労働に従事し得る者が九割で、
労働に従事し得ない者が一割しかなかったのであります。

それが五五年の暮れになりますと、そういうふうに変って参りました。
その他にいろいろありますが、時間の都合がありますので、
このくらいにさせておいていただきます。

それから収入について申し上げますが、収入は、みんなが稼ぎまして、
そうしてその稼ぎ高に応じまして支払いがありますが、
そのみんなが稼いできましたものからまず三割天引きしまして、
その残ったものから一カ月の経費として、五〇年からきめられて
おります四百六十五円というものを引かれまして、
その残りを払ってもらう。そういたしますと、よほど稼がないと
百円以上になりません。また収容所の規定で、
いかにたくさん稼いでも、二百円以上は日本人には渡さない。
おもしろいことは、よその収容所では、これは労働賃金
といっておりますが、ハバロフスクの収容所では、
これを賞与金といいます。賞与金というものは、
収容所の考え方で渡せばいいということになるわけであります。

よそとは違います。ですからよその収容所では、
日本人は稼ぎに応じて、その中から、その収容所できめられて
おります経費を引かれますれば、あとは全部自分のものに
なりますから、二百円以上になろうと、三百円以上になろうと、
そのままもらえる。われわれ円と言っておりますが、
ルーブルであります。そこで、よそで無制限に
もらっておりました者も、一度ハバロフスクへ入りますと、
ハバロフスクの制約通りになって、何ぼ働いても
二百ルーブル以上はもらえないということになっております。

そういうわけでございますから、収入は、作業能率が悪いと
だんだん下ってきまして、先ほど申しましたように、
五、六十円になったわけであります。
それでは四百六十五円という計算はどうしてできたのかと
申しますと、あそこが五十年に俘虜収容所として
設定されましたときに、一人一日の経費が十五円、
これを三百六十五倍して十二で割ったものが一カ月の経費だと
いうように算定をされてきまったものであります。

その後にずっと物価が八回も下っておりますけれども、
一向に下げられておりません。これは何ぼ交渉しても、
何ぼ文書請願をしても、向うは下げないのであります。

それからその天引きに三割引かれたものは何になるのか
といいますと、これは警護をする兵隊がたくさんおります、
また費用もかかります、それに充てると同時に、
ほかの収容所の経費に充てるということになっておりますが、
四百六十五ルーブルというものの中にも人件費は入って
おりますし、文化費というようなものも入っておりますし、
税金まで入っております。この内容につきましては、
向うでは公式には現わしておりませんから
はっきりしたことは申し上げられません。

それから先ほど御質問のございましたソ側のとった処置
というものは、あの中に織り込みましたから、これはよします。

それから組織の形態、連絡というような日常生活というような
御質問がございましたが、組織の形態は、今、班長を全員の
意思の決定機関にしております。その下に交渉代表部という
ものがあって、これはさっき申し上げました石田君を中心に、
そこに代表部員がおるわけであります。そしてそれらが報道とか
文化活動のための芸能とか、翻訳とか図書とか、
さらに保健の関係上、厚生とか防衛とか、いろいろなことを
それぞれ委員がおりましてやっております。
交渉代表部というものは、班長総会の意思の実行機関であります。

それからこの一分所の中は、各バラックとも往来は自由でありまして、
自由に行き来しております。第二分所と第一分所、第三分所と
第一分所、それぞれの連絡は正規にはできません。
それでございますから、第一分所がそういう請願運動に
入りましたときも、第三分所には何らの連絡をとってありません。
ただ第三分所では、さっき小笠君も言われましたように、
何か第一分所は仕事に出ていないようだというようなことを
薄々感じ、寄り寄り話をしておりましたが、全然わかりませんで、
ただ六日に所長のマルセンコという大佐が来て、
お前たちはなぜ作業に出ないのか、第一分所は作業に出ているんだ、
こう言ったのであります。そうすると、みんなはいつも
そういうことでだまされて――だまされるというと言葉が悪いですが、
だまされているものですから、それでこいつはおかしいぞ、
第一が出るわけがないのにああいうことを言うのは、
自分たちを作業に出させるためにやっているんだ、
てっきり第一は出ていない、一つの請願運動に入っているんだ
ということがそのときに初めて第三分所でわかって、
それから今度は正式にモスクワに向って、文書請願の運動が
起きております。そういうわけで、両方の連絡は全く公式にはつけられません。

○松岡(松)委員
その程度にしていただいて、あとは一々お尋ねいたします。
それで、長い十年の拘禁生活の中で、訴えたいことはたくさんおあり
だと思いますが、きょうそれを全部伺っておったのでは、
おそらくあすの朝まで続くと思うのです。しかしながら、
私どもぜひ伺いたいと思うのでありまして、できることでしたら
委員長あてに文書でさらに詳しく補足していただくことにして、
きょうさらにお伺いしたいことは、先ほどから伺っておると、
この収容所というものの建前は、強制労働というものが必要条件になっている、
そうして四百六十五ルーブルというものは、最低の生活というものを
ささえる給与の対価として収容所が取得するわけになる、

ところがこの四百六十五ルーブルの収入に対応する給与では
労働にはたえられない、
そうなると、何ぼかせいでも二百ルーブル以上は本人に手渡さない
ということになると、作業所から収容所が受け取る差金というものは、
収容所が受け取るのですか、これが私ども疑問になってくる。

労働搾取はいけないといって全世男にわめき立てておるソ連が、
強制労働をさせて、作業所から取ってきた金を二百ルーブル以上は
渡さない、こういうことになると、
その差は収容所が搾取することになる勘定になる。
完全なるこれは労働搾取です。
そういうことをしておるのかどうか、端的でよろしゅうございます。
これを一つお答え願いたい。

○柴田参考人 
それは確かに搾取だと言えます。

○松岡(松)委員 
それから、この運動ですが、少くとも今まで続けられておる
というこの執拗さには、ただただ私どもは頭が下るのであります。
この先ソ連側がいかなる措置をとるか、これば予測を許さない
ものでありますが、少くとも現在この請願運動に従事しておられる
抑留者の方々は、最後には絶対死を賭しても戦う決意でおられるように
伺うのでありますが、これは間違いございませんか。

○柴田参考人 
彼らは、自分たちの手で生命を守って、そうして帰還を促進したい
という気持で始めております。しかしそのことによって万一にも
ソ連側から不法な武力干渉でもあれば、おそらく彼らはそれに
抗するだろうと思います。しかしなるべくそういうことのないように
考えてやっております。

○松岡(松)委員 
それでは、ほかの方方の御質問もあると思いますから、
最後にお尋ね申し上げたいのですが、先ほどからお伺いしたところによると、
原因は不当なる労働管理、非人道的なる待遇、
こういうものがうっせきして、
ここに爆発したものと私どもは見ておる。
そこでソ連側に対する請願運動としては、日ソ交渉に関係なく、
抑留者は本国に帰還せしめよ、こういうのが運動の一つ。
もう一つ、抑留者の皆さんがこの運動に関連して、
祖国に対してどういう希望を持っておられるか、
これをお伺い申し上げたいのであります。

○柴田参考人 
祖国に対しまする彼らの望みを申し上げます。
彼らはさようにして祖国に帰ることを第一の望みとしておりますが、
しかしわれらを帰すということに御配慮を願うことによりて、
国の政策方針を曲げてまでやっていただいては、
われわれとしてまことに申しわけないことであるから、
どうかこれは正当なるところの国の主張を貫徹していただきたい。
そうして貫徹されるまでわれわれは自分たちの力で身を守って
がんばっております。
このわれわれの気持を日本の国民の皆さんは、
十分にくんでいただくようにお伝えをしてくれと言って参っております。

○松岡(松)委員 
そういたしますると、抑留せられておる人々の崇高なる考えは、
自分らは過酷なる拘束の身であるけれども、
日ソ交渉と人質的存在とのかけ引きには乗りたくない、
あくまで自分らは人道的な立場において帰還を要求する、
ソ連と日本との国交は、国家の独自的立場において、
あくまで進めてほしいという御意見と承わって差しつかえございませんか。

○柴田参考人 
お答えいたします。さようにお考えを願いたいと考えます。

○松岡(松)委員 
馴松さんにお伺いしたいのでありますが、先ほどあなたは人質的という言葉を
おっしゃいました。これは何かソ連側の交渉に当った人の、つまり検事とか
あるいは内務長官とか、あるいは所長とか、それらの人々の言動から得られた
考えでありますか、それともあなたが十年の体験から考えられた結論でありますか、
これをお伺いしたい。

○馴松参考人 
自分が人質にされたということを確認したのは、二十九年の九月に
ウラジミールの監獄からみんなが出ていくときに、監獄長が
日本に帰すということを言ってウラジミールから出したそうであります。
そうして外村外十四名の者がハバロフスクに到着して、
帰るつもりで内地に帰るという手紙まで出して、
その許可がなったそうであります。

そうして仕事にさえも出ていなかったのであります。
ところが何か内地の方で騒ぎが起って、外交交渉をしなければならぬ、
仲よくせねばいかぬという話が出て、これはちょっと待てというようなことで
待たされた。政府がもう六カ月間そのままじっとしてすわっていてくれたら、
あのまま帰れたのにということを私は聞いたのであります。
そして逐次また作業に出されるような傾向になって、今までずっと
残っております。そのうち刑期の満了した者は帰って参ったのであります。
刑期の満了していない者は、たとえば三井さん、中村さん、
ああいう人たちは帰れると言われたのが、そのまままだ残っておるのであります。
そして今ごろになると、ソ側の職員たちが、おれたちをいつ帰すのかと
言いますれば、それは国家の方で何とか話をつけるだろうというようなことを
言っておりました。明らかに人質であることは、ここに言えると思います。

○松岡(松)委員 
小笠さんにお伺いしたいのですが、この収容所の中に日本人の医師が
おられるのでしょうか。つまり抑留者の中に医師の資格がある人……。

○小笠参考人 
おります。名前をあげますと、元関東軍の軍医部長でありました小川信太郎
という方、それに婦人科の専門家でありますが、金沢という人、
それに福岡の出身の小日向、これが一分所におります。三分所には山本というのが
おります。すべて軍医です。

○松岡(松)委員 
さらにお伺いしますが、その請願運動が起ってから、ソ連側の医者に
見てもらわないで、日本の抑留者の中におられるそれらの医師の方々が
抑留者の治療に当っておられるというふうに仄聞しておるのですが、
その点はいかがでしょう。

○柴田参考人 
それは在来も小川という方が医長の補助としてやっておりました。
しかし、一切の決定権は医長にあります。金沢という人も
やはり補助としてやっておりました。今日この運動が開始されまして、
しばらくしましてから小川さんは血圧が非常に高くなりまして、休みました。
そのために、前は営外の作業に出ておりましたが、今は作業に出ないで
中におりますので、小日向君が小川さんのかわりに、むしろそれ以上の
権能を持って、一切の診察、投薬それから決定をやっております。

ソ側の医長は更迭をいたしましたが、小日向君の動きをそのまま黙認して、
承認を与えるものは与えております。

○松岡(松)委員 
柴田さんに最後にお伺いしたいのですが、あなた方が千人近くの
かつての収容所の同志の方々と別れて本国に帰ってきた今、
かつて抑留せられておったときに持っておられた
固い信念、希望、決意、そういうものをおそらく今なお持っておられると
思うのでありますが、帰られた今日、おのずから対象と形態が変ったことと
思います。そこであなた方は、今後どういうことをわれわれ日本人に
希望されんとしておられるかをこの際承わりたいと思う。

○柴田参考人 
私どもは、彼らがこういう運動をしておりますことを、一刻も早く祖国に
伝えなければならぬということを痛感いたしまして、決議にはわれわれは
参加はいたしませんでした。

それは、早く帰らなければならないからであります。

しかし魂においては彼らと同じ考えを持って動いております。
それでありますから、舞鶴に上陸いたしましてからも、
われわれはあくまでも彼らと同じ気持で動いておるつもりで、
言動を一緒にしておりました。

今なお私どもの胸に燃えておりますものは、彼らと同じ気持で動く
ということであります。ただし帰って参りました私が感じましたことは、
われわれが出て参りましてから帰って参ります間の国内の思想
その他の情勢というものが、非常に変っております。従いまして、
向うにおります者のその心持、意思が今のこの情勢と食い違っておる、
すなわち敗戦前の遺物をいまだ抱いているのじゃないかという話を
しばしば私は聞かされます。

しかし祖国を愛する熱情をハバロフスクにいる者たちが抱いておるということを、
皆様考えていただきたいのであります。そして、私もそれと一緒に動いていきたい
と思っております。

○松岡(松)委員 
四人の参考人の皆さんには、長い時間にわたって、私の質問にお答え下さったことを
感謝いたします。

○木村(文)委員長代理 
次に、臼井莊一君に質疑を許します。
 ちょっと臼井君に申し上げますが、時間もだいぶたっておりますから、
どうぞ重複しないように一つお願い申し上げます。

○臼井委員 
時間もございませんから、簡単に御質問申し上げ、また要点だけ
御答弁いただきたいと思います。

ただ私ほんとうに感銘することは、戦前と戦後とでは、
日本は非常に変りました。
さだめし皆様方がこれから各地をごらんになると、
そういう点にお気づきになられると思いますが、
今柴田団長のおっしゃった一言ですね。
この自分の国を愛するという気持は、いかなる民族を通じても
普遍的なものであり、またそうなくてはならぬ、
こういうふうに私たちは考えるのであります。

ただこの点については、われわれ内地におりましても、
非常に、省みてじくじたるものがあるということは事実でございます。
しかし今のハバロフスクにおられる方の犠牲的精神というものは
――これはいろいろ批判もあるかもしれませんが、国を愛するということは、
その精神においては実にりっぱなものであるというふうに、
尊敬の念を持って私はお聞きするのであります。

そこで今お伺いいたしたいことは、ハバロフスクにおいては、
他の収容所から見ると、特殊に待遇が悪いというふうに伺ったのですが、
それは事実だと思います。しかしその原因がどこにあるかということです。
そして皆様が首脳部へも請願書を出しておりますが、
この請願書が中央に届いたと見られるような事柄があったかどうかということと、
それから皆さんのお感じでもしこれが届いてないとすると、
要するに出先のハバロフスクの機関が悪いというふうにお考えになって、
中央のモスクワ政府というものは、それほど非人道的のことをやる政府だとは
お考えになっていないかどうか、その点をちょっとお尋ねいたします。

○柴田参考人 
待遇の悪い原因と申しますもののおもなものは、第十六収容所は、
二十五年に俘虜ラーゲルとして設定されましてから、
それがずうっと継続しておりまして、いわゆる自営自活の収容所になっております。
従いまして、労働者の収入によってその経営がまかなわれておりますし、
その中から職員の給与まで払われておるのであります。そういう意味で、
毎年三カ月を一期として予算を立ててやっておりますが、その予算の割り振り上、
医療設備にいたしましても、医薬の問題にいたしましても、
またその他の諸事項におきましても、互いに予算の牽制、不均衡が行われまして、
十分なるところの成果をおさめられない状態でございます。
これがおもな原因であります。

それから請願書の点は、私は中央に届いたとは思いません。なぜかと申しますと、
一月の三十日に、ソ連の赤十字社を通じまして、日本の赤十字社に送ってもらいたいと
いう書面を、収容所の規定に従いまして、成規の手続をして出しておりますが
――今まで二十数通に及びまする請願書も、ことごとく収容所の成規の手続によって
やっております。日本人はいかなる場合においても、正しい行動をするというのが
彼らの考え方であります。

もし正しくない方法をとるとすれば、所外の者を利用いたしまして、モスクワに対する
手紙の投函も行われます。しかしハバロフスク州でこの書面を出しまするならば、
郵便の検閲制度がありまするから、あるいはその際に押えられるかもしれません。
これをさらにうまくやるとすれば、よその地区にその書面を持っていって、
よその地区から投函をいたしますれば、モスクワに完全に届くということについて、
以前に他の実例がございます。

しかし日本人は、今も申し上げましたように、さような行動をしない、
あくまで正々堂々と行動するのだというので、所の成規の手続以外の方法をとって
おりません。そういうふうに、今の日赤にその手紙が届いていないということから
想像いたしまするならば、中央には届いていないと思います。

また、事情の調査及び解決のため全権である委員を送って下さいと
しきりに中央に言っておりますが、なるほど四日の日には、
中央から来たという三名の方が来ましたけれども、果して中央から来られたか
どうかわからない。そういうわけで、この手紙が中央に行っておるとは考えられません。

それでは、届かないというのは、地方官憲の処置か、それについてのモスクワ政府の
考えはどうかという御質問に対しましては、出先官憲の処置だと思います。
また、今までに受けてきたあらゆる非人道的取扱いについても、
これは出先官憲の処置であって、中央はさようなことはしておらないと思います。

従いまして、モスクワは現地と非常に違って、来てさえくれれば話はわかると
私は考えております。

○臼井委員 
それから、要求事項で、いろいろな待遇改善等や早期帰還ということに関しまして、
どういうような要求をされているでございましょうか。全員を即時帰せという要求書の形で
出ておりますか、その内容でございますね。

○柴田参考人 
それは、今申しました通り、彼らは国策に反するところがあってはならないと考えまするので、
まず老齢者、病弱者、婦人、こういう者の即刻帰還ということについては、要求事項の中に
入れております。彼らにつきましては、われらの帰国までこの収容所を休養の収容所にして、
作業に出ないようにして、休養させておくということをうたっております。

○臼井委員 
先ほど私は日本の国内が変ったということを申し上げたのですが、
悪くばかり変ったところはないので、民主的に変って非常によくなった
というところももちろんあるのであります。その一つが、自分の生命を大事にする、
むやみに命を軽んじてはいかぬということで、これはもう基本的な問題なんですが、
今お話を伺っておると、もし減食をされてそのままにしておると、
非常に生命の危険を来たすということを実は心配するのであります。

従来の引揚委員会において皆様方の早期にお帰りになられた方のお話を聞いても、
なるほどビタミンは足りぬけれども、からだはある程度順応性がある、
ビタミンの足りぬのは足りないなりに、ソ連人も同様で、順応性というものがある、
その順応性のできた方だけが生き残ったのだというお話も伺ったことがあるのですが、
その耐久力でございますね。さっきの小笠さんのお話では、無理に働きに出されるより、
非常に減食ではあるが、ある程度はからだの消耗を防げる、こういうことでしたが、
しかしこれにはやはり限度があると思う。この点についてどのくらいというようなことは、
もちろんはっきり言えない問題だと思いますが、皆さんも心配されていると思う。

そこで一つ問題は、慰問品が届いていれば非常に私はそういう点で援助になると
思いますが、この六千三百余個の慰問品がおそらく渡されないのじゃないかと
思うのですが、この点どういうふうにお考えになりますか、お伺いしたいと思います。

○小笠参考人 
平常の場合は、今まで大体慰問袋は受け取っております。このたびの請願運動開始
によるソ側の懲罰期間というものは、一カ月のうちの一週間程度のものでありますが、
その間は懲罰として慰問品を渡さないということはあります。これが終りますと、
慰問袋は当然渡してくれます。

○臼井委員 
ただ私の心配するのは、その懲罰給与をやって、しかも娯楽も給与しない、
こういうことですから、六千幾らのこの点がどうなっているか、
こういう点を今後われわれとしても究明しなければならぬと思って
お伺いいたしたのですが、お帰りになったので、あるいはその点は
お伺いしてもわからないかもしれませんから、この程度にいたします。

まだいろいろお伺いしたいこともありますが、他の諸君も伺いたいことがある
そうでありますから、一つ詳細については、先ほど松岡委員のお話のように、
文書でお出しいただいて、それによってわれわれもこの問題については、
継続的に、持続的に対策を講じていきたい、かように考えております。

○柴田参考人 
ただいまこの間お送り下すった慰問品についてのお尋ねがありましたが、
実は私ども三月三日にナホトカへ参りました。そうして、大成丸の船上の者と
なりましたときに、ちょうど皆様がお送り下さいました小包の荷揚げが
始まっておりました。その中に、こも包みの厚生省から初めてお送りをいただいた
荷物もうずだかく積まれておりまして、それを見ましたときに、私はいよいよ
政府が残っておる者たちに対して救いの手を延べてきたと考えまして、
非常に感激したものであります。

そのほかに、こちらから参りました小包が七千九百六十個という数になっておることを
事務長から聞きました、この数が完全に向うに届かなければならないということを
考えましたので、小笠君その他と相談をいたしまして、事務長に頼んで、
七千九百六十個と書いた荷札を三十枚ばかり作ってもらったのであります。
そうして、これを各荷物にしかるべく結びつけてもらいました。
それといま一つは、その小包の中に小笠君の友達の名前が見出されたのであります。
そこで小笠君は、小さな紙にまた個数を書きまして、その小包につけたのであります。
これが一つでも向うにその数がわかりましたならば受け取りに出ます者の手伝いは
用人がしておりますので、今まで参りました小包は照応をする者がなかったのであります。

何個日本から送られたかさっぱりわかりません。それで着きましたものが、
これは二千五百個だぞと言われれば、それだけ来たのだと思って受け取る以外には
ないわけです。今度は七千九百六十個というものの荷札がついておりますから、
一つでもそれが日本人の目に入りましたならば、受け取るときに、
七千九百六十個を完全に受け取るわけであります。そしてこれを完全に日本人の手に
渡るように彼らは努力すると思います。ただ問題は、早くこれを渡してくれるか
どうかということが今私にはわかりませんから、これにつきましては、日赤その他の
お力によりまして、早く渡っているかどうかをお調べいただきますと同時に、今後も、
すぐ渡すようにお話を願いたいのであります。

○臼井委員 
もう一つ簡単な問題を……。なぜ病人を強制労働に出すかということです。
いじめるという単なる目的でなく、生産を上げたいという何か問題もあると思うのですが、
その一点と、もう一つは、先般議員団が持ち帰りました手紙はお読みになりましたかどうか。
先般ハバロフスクにおいでになったときの手紙ですが、それだけお伺いしたい。
もしあと時間がありましたら、またお伺いすることにして、私は質問を留保しておきます。

○柴田参考人 
病人のかり出しの問題は、さっきちょっと申し上げましたように、
この建築現場を請け負うには何人の労働力がいるということが、
あらかじめ収容所側と企業体と契約になるのであります。
その人員は、幅はあります。ければも、あんまりそれの差があると、
収容所側としては企業体に非常に工合が悪いわけであります。
だから自然無理をするのです。

それともう一つは、作業に出る者の数が少くなりますと、
今のかせぎ高が減りますから、保有する金額というものがだんだん少くなる。
前に保留して積んでおりますけれども、そのリザーブがだんだんなくなってくる。
だから経営資金上においても窮屈になってくる。

その両方から、無理に出させるということになります。
医者はこれは出してはいかぬと言うのですが、
その方の関係がありますから、医者にも出せと言う。

それから議員団の放送いただきましたことにつきましては、
当時私ども非常に感激してお話をいたしましたのですが、そのときに、
実は書面をことずけたものがあるということを私は知らなかった。
それで帰って参りまして、そういう書面を議員団の皆様がお預りになった
ということを聞きまして、そうだったのかと思いましたが、
内容は私は知りません。

○木村(文)委員長代理 
次に、三鍋義三君に質疑を許します。

○三鍋委員 
参考人の方々から、長時間にわたっていろいろと貴重な体験談、
また今後の引き揚げ促進に対する貴重な御意見を承わりまして、
非常にごくろうさまでございます。大へんお疲れだと思いますけれども、
私たちこの引揚委員会は、超党派的に、何とかしてこの問題を
早く解決しなければならないという強い意思に燃えておりますので、
この上なお若干お尋ねしたいと考えるのであります。

先ほど松岡委員からもお話があったのでございますが、新聞紙上に、
ハバロフスク収容所の方々が、請願運動を強力に実施されておる
という記事を見まして、留守家族の人が非常なショックを受けたのでございます。

実は、私けさ郷里から帰ったのでありますが、きのうも、富山の飯田良造君の
お母さんに、公会堂の売店で会ったのですが、私に抱きついて、涙ながらに、
先生帰れるのでしょうかと言って、衰弱した顔、疲労し果てた母親の苦悩の姿を
私は見まして、この問題をやはり非常に重要に考えておるのでございます。


先ほど請願運動に強力な態度をもって突入されたことにつきまして
御説明願ったのでありますが、われわれの帰還はわれわれの手で解決するのだ
といった気持、そして命をかけてでも、この問題に対して
八百人の人が一致して戦い抜かなければならないという気持、
それからいよいよ最後の一人もなくなったときにどうするかと言ったときに、
石田責任者が、最後の一人となってでも無血闘争をやるのだ、
命は大事にして、故国へ帰ってから、祖国のために自分たちの
とうとい生命をなおささげるつもりであるという御答弁をいただいた
のでございますが、私はこれをお聞きしまして、先ほど報告のとき申し上げた
あの感じをまた深く強く持つのでございます。

つまり、大東亜戦争に突入して、祖国のために生命を投げ出して顧みない
というあの気持、あなた方はその気持をそのまま十年後に持ってこられた
のでございますから、私はその気持、変らない祖国愛に燃えるお気持は
よくわかるのでございます。と同時に、何かそこにむごい一つの半面の姿を
考えざるを得ません。

と申し上げますのは、私たちはその後十年、いわゆる新憲法下におきまして、
基本的人権、人間尊重という精神につちかわれまして、
大きな変化をしてきております。

その現在の私たちの考え、そしてあの十年前の私たちの考え、
そして現在そのまま持って帰ってこられたあなた方の気持、
ここに大きな一つの考えなければならない重要な問題があると思うのでございます。

そこであなたは、上陸されましてから二十日くらいでございますが、
現在もなお抑留されていたときの気持そのままを持っておられるのかどうか。
先ほどからの御答弁によりまして、大体そのように私はお聞きしたのでございますが、
私はここに抑留者を早く帰すという一つの根本問題があると考えるのでございます。

それでお尋ねするのでございますが、先ほどあなたからストライキに突入した動機に
ついて詳しい御説明を願ったのでございますが、重要な根本的な理念というものを
お話にならなかったと思うのでございます。

それは、あの平の引揚寮であなたが強く主張されましたのは、
こういう点だったと私は思います。聞き違いであったら御訂正願います。
あの吉田内閣というものは、反共の政策を非常に強く打ち出した。
それがソビエト政府に影響して、その影響が捕虜収容所に大きく影響した。
ところが一昨年の十二月に吉田内閣がやめて、鳩山内閣が誕生した。
その時分になってから、鳩山さんの主張は、早期国交回復、
そして捕虜収容所におられる方々を一日も早く帰してもらいたい、
漁業問題も解決したい、こういう線になって、
これは吉田内閣の線とだいぶ違ってきておりますから、
それがソビエト政府に大きな影響を与え、その与えた影響が収容所の帰還問題
その他に大きく影響してきた、このようにおっしゃったと思います。

そうしてあなたがつけ加えて言われたときに、どう言われたかというと、
私たちの捕虜生活十年間の体験を通じて、とにかくソビエトというところは、
強く出ていけば折れてくるし、こちらが弱く引き下ると強く出てくる、
こういう一つの理念のもとに今度の強力な請願運動が展開された
ということをあなたはおっしゃったと思います。こうやることによって、
日本の国交において将来悔いを残すことのない交渉ができるのと、

もう一つは、そう強く出ることによって、私たち収容されておる人々が
一日も早く帰れる結果になるのだ、こういう見解でストライキに突入したのだ、
こうおっしゃったと思います。なおそのストライキを決行されたことによりまして、
生活上における部分的改良がなされたことは今お聞きしたのでございますが、

そこであなたにお尋ねしたいのは、現在不幸にして日ソ交渉が
このように無期限の休会で、実質的にはいつ再開されるかわからないような状態に
なりました
が、結論的に申し上げますと、現在の政府が、領土問題を中心として
強く打ち出したことによって
、その結果があなた方が考えておられた形と
相反することになってきた。もちろんこれは今後なお続く問題でございますから、
早く結論を出すことは早計であると思いますけれども、それをあなた方が、
こういう生命をかけて十年前のそのままの日本精神でがんばっておられる
その戦いというものが、結果においては予期しておられたところの
よい結果にならなかったという現在の姿、こういう点をお考えになりまして、
あなたの現在の心境というものは、なおこのまま生命を張って戦っていくべきか、
何かはかに打つ手はないか、そういう心境の変化があるかないか、
これをお聞きしたいのでございます。

○柴田参考人 
今のお尋ねは、確かにその通りです。間違いありません。

なぜそういうことを申し上げたか、
またなぜそういう考えであったかということを申し上げますと、
私ども国外にあって、しかもそういうような逆境にあって、
日本の動きというものを私たちは常に考えさせられておったのであります。

さっき馴松君も申されましたけれども、二十九年の十月に、
私たちを祖国に帰すのだという暗示または明示を受けてハバロフスクに集まった者が
二百五十名ありました。それで、そのときには、みなの者が帰国できるという考えで
おったのであります。

ところが、われわれは十二月になりましても帰されなかった。
なぜ帰されなかったかというと、日本国の政情の動きが敏感に向うに響いて、
われわれはついにそのときに帰されなかったのであります。

そこで私たちは、日本の皆様の国論が一本になって国外に発揚されたならば、
いつでもわれわれは帰還ができたのだとそのときに痛感したのであります。

でありますから、このわれわれの在ソの経験から推しまして、
あのように私は申し上げました。また今もお話になったように、
弱ければだんだんにつけ込まれるということは、
中央の政府とは私どもかけ合いをしませんでしたが、
収容所の職員は、大佐を初めみんなとかけ合いますときに、
主張が正しければ、強くどんどん主張することによって、
彼らはこれを考えるのであります。

そういう体験を持っておりますので、
国の外にいて国の姿を見た私どもとしては、それを言ったわけであります。
なおよい結果にならなかったというお話については、
もう少し御説明を願ってから、私お答えいたします。

○三鍋委員 
今までの外交交渉の過程におきまして、
あなたの捕虜収容所における十年間の経験におきまして、
やはりつっと押していけばよき効果があった。
こちらが引き下った場合に、どちらかというと、どんと押されていった。
そこで、これはやはりどんと押した方が有利だ、
よく展開していくという見解のもとに、このストライキに突入された。
これが大きな根本的な理由であったと私はお聞きしたのであります。
それが結果において、こういう事実上の無期休会というような、
そうしてほとんど中絶されたような状態になったのに対しまして、
あなたはどういう工合にお考えでございますか。これをお尋ねしたのです。

○柴田参考人 
今お話がありましたが、うんと押すことによって
その目的が貫徹されるという考えから請願運動に突入したと言われることは、
それは、現在の運動に従っております全員がそうは考えておりません。

うんと押すも押さないもない、
自分たちはこうやらなければ命が守れないというので、これをやっております。

決してうんとやればこれが通るという考えは持っておりません。
やむにやまれずやっている運動であります。
これをやらなければ、自分たちの命が守れないし、帰還もできないんだ
という考えからやっております。

ただし、十年向うにおりまして感じました私の考えとしては、
今お話したように、押さなければならぬということを申しました。
そういうふうに御了解を願いたいと思います。

○三鍋委員 
そこで、政治は現実でありますから、理想は一つ掲げて、
やはり現実をしっかりと解決しなければならないという立場で、現在正しき主張を、
こういう一つの傾向を持ってやっておられるのでございます。

この正しい主張をソビエトがいれてくれれば問題がないのですが、
今までの交渉過程、捕虜収容所における取扱い方を見ますと、
どうもやはり納得できない点がたくさんあるのです。

たださえ栄養失調その他血圧が高いとか、
あるいは病弱者がたくさんおられるのに、こういう減食をされて、
そうしてこういう異境にありまして、
なお苦しい生活をみずから作って戦わなければならないという姿、
この悲壮な気持で戦っておられるこの人々の気持は、
私たち尊敬するのでありますけれども、
結果的に、一人倒れ、二人倒れ、三人倒れして、次々と倒れていった場合、
一体どうなるのかということは、私たち国会に席を持つ者の心配であり、
留守家族の心配であり、国民の大きな憂いであると考えますから、
これに対するお考えをお聞きしたいのであります。

○柴田参考人 
それはまことにごもっともな御心配でありまして、私たちも、最もよい方法、
対処策をとっていただきたいと考えますがゆえに、
私どもが、現地で感じましたことを率直に申し上げて、
十分にお考えを立てていただきたいということにしておるわけであります。
ほかに私どもは何も考えはありません。

○三鍋委員 
先ほども御答弁を願ったのでございますが、結論的に言いまして、
おれたちはどんなになってもいいんだ、とにかく外交をしっかりやって、
日本の国土問題で将来に悔いを残さないようにやってくれ、このお気持ですね。

これは実にとうとい気持でありまして、
私たちはそのお心持に心から感謝と敬意を払っておるのでございますが、
現実の問題といたしまして、こういう中絶の状態になったのでございます。

そこで何とかして帰してあげたい、あげなければならないという気持を
第一に立てまして、日ソ交渉の問題をゆるやかに、領土なんかどうでもいい、
捕虜を早く帰してくれ、こういう交渉に入った場合、
これはそれこそソ連の思うつぼで、先ほどからお話になった人質の成功
といったほほえみを彼らが持つ、こういう結果になるということを考えましたときに、
柴田さん、どういう御感想をお持ちでございましょうか。

○柴田参考人 
それは、現地の者といたしましては、そうすることが彼らの心情であります。
しかし、祖国における諸対策というものは、
おのずから祖国において最もいいということを考えて実行されるものだと考えます。
その結果に基きまして、現地の者はまたそれを考えると思います。
要するに、現地の者は帰ることについて、
母国において最もいいと思う方法をしっかりやって下さい、
私たちのことが主になって曲げられては困ると言っておるのであります。
その点をお含みを願いたいと思います。

○三鍋委員 
そこで、この委員会におきまして触れるべき問題でないのでございますが、
私たち政治家は悩んでおるのでございまして、
あなた方の願い、残された方々の願い、留守家族の願い、国民大衆の願いを
何とかして早く成就させたいという気持で、
私たちは超党派的に一生懸命にやっておるのでございますから、
この点御信頼下さいと言い得ない状況を残念に思うのでございますが、
今後私たちはあなた方と一致して、全国民の声をまとめて、
この早期妥結に努力していきたい、こう考えております。

そこで、もう一つお尋ねしたいのは、私は二十四日に東京を立ったのでございますが、
ラジオのスイッチを入れたときに、柴田団長という声が聞えましたものですから、
ちょっと聞き耳を立てて――全部を聞いたわけではございませんけれども、
あなたが、日本の国民が早く帰還を望むなら、あらゆる方策を講じて、
早期に帰還できるように願いたいと言われた。
これはどういう意味でおっしゃったのかちょっとお聞きしておきたいのです。
日本の国民が早く帰還を望むなら
――もうみんな一生懸命に、何とかして早く帰せないかと苦労しておるのですが、
どういう意味でおっしゃったのですか。今後の参考に資したいからお聞きをしたい。

○柴田参考人 
それは、現地の人はこう言っておるのであります。
どうか自分たちの気持をよく伝えてくれ。
われわれは国の方策が正当に主張されて実現されるまでがんばるのだから、
だから、うちの者たちも、それを身をもって慰問品その他で十分な声援をしてくれ、
これがわれわれが早く帰れる一つの要素になるのだからと言ってくれ
と言っておるのですよ。
ですから、私そこのところ、前の言葉が抜けましたけれども、
そういう意味で、日本の皆さんが早く帰ることをお望みになるなら
と言ったのであります。

○三鍋委員 
どうもありがとうございました。
ちょっと山下政務次官に――先ほど私報告いたしましたときに、
練習生が非常に献身的に努力してくれました。
それに対する何か慰問の処置をとっていただきたいということなんですが、
これに対して何かお考え、御計画がありましたらお聞きしたい。

○山下(春)政府委員 
今回の引き揚げの事業に対しまして、練習生の方々が非常に献身的に
御努力いただいた報告を私ども承わっておりますので、
何らかの方法を講ずるべきだと思いますが、
運輸省ともよく相談いたしまして、善処をいたしたいと存じております。

○三鍋委員 
ぜひ一つお願いいたします。私はこれで終ります。

○木村(文)委員長代理 
それでは、参考人の方々に、委員長から一つお願いを申し上げておきたい
のでありますが、先ほど松岡委員の希望並びに臼井委員の希望等がございまして、
皆様の抑留中における御生活におきまして、なお当委員会はもちろんのこと、
政府当局あるいは国会において、今後引き揚げ問題についての施策上の参考に
なるような資料がございましたならば、詳細にわたって一つ、お疲れのところ
恐縮でありますが、当委員会を通しまして、資料として御提出をお願い申し上げたい
のであります。

最後に、委員長から政府当局に対して一言お尋ねと希望を申し上げておきたいと
思います。本日の各参考人の陳述並びに質問に対する御答弁等によりまして、
抑留者の生活あるいはまた心境等が詳細にわたっておわかりになったことと
存じます。

本問題の解決と抑留同胞の救い出しは、いたずらにただ泣いたりわめいたりする
ことによって解決する問題ではないと私は考えます。要は、国家の権威あるところの
解決よりほかにはない。

それだけに、この際、政府の確固たる決意の表明が先決要件であると思いますが、
山下政務次官が出席なさっておりますので、その点についての御決意のほどを
伺っておきたいと思います。

○山下(春)政府委員 
十年の労苦を経てお帰りになりました方々の体験を通し、
あるいは最近に起りました待遇改善のストライキの問題等をつぶさに伺いまして、
すみやかに帰還の確固たる方途を講ずることが一つ。

もう一つは、この心にこたえるために、慰問品等は、予算等にこだわることなく、
強力に送るべきであると考えまして、厚生省といたしましては、
運輸省の船の問題あるいは外務省の外交交渉等と連絡をとりまして、
強力な慰問の措置を講じまして、栄養の補給をいたしたいと思いますと同時に、
すみやかな機会に、日赤をわずらわしまして、国際赤十字あるいは直接赤十字等と
交渉していただくように、努力をいたしたいと考えております。

○三鍋委員 
政務次官に付帯してお尋ねとお願いをしたいと思うのでございます。
とにかく今、ハバロフスクで、かよわい、そして非常に衰弱されたからだを張って、
一つの目的の貫徹のために戦っておられるのです。

これが、先ほども申し上げましたように、生命を脅かす結果になっていくことも
予想されるのです。これは国民が非常に心配している。
特に留守家族の
お母さん、お父さん、あるいは妻が非常に心配しておるのでございますが、

これはどうしたらいいでしょう。そのままやらしておくのですか。
敢闘精神に燃えて、そのままの、十年前の気持で今がんばっておられるのですが、
そのままにしておいていいということは言えないのでありますが、
何か政務次官は考えておられるでございましょうか。

私これを何とか処置してあげなければならない、
適切なる方途を講じてあげなければならない、
とにかく生命にかかわる問題だと思いますが、
これらの点につきまして、当局の絶大なる関心と処置を私お願いしたい。

これを付帯いたしまして私の質問を終るのでございますが、
政務次官に一つ御答弁がありましたら御願いします。

○山下(春)政府委員 
ただいま委員長から御要望がありまし点に対しましてお答え申し上げました通り
でございますが、その体位を保持いたしますためには、至急に慰問品を送り出す。
これは大蔵省とも相談済みでございまして、
何どきでも厚生省はその送る方途さえつけば、
船便とかあるいは向うがどういう方法で受け取ってくれるかということを
今外務省にお願いして、せっかく検討をしていただいておりますので、
その結果が出次第に、発送できるような用意を私どもはいたしております。

なお、どうすればよいかということにつきましては、
現地の方々のそのお気持を私どもがそんたくいたすことはできませんけれども、
できるだけそういうことのすみやかな解決がつきますように、
先ほど申しましたように、とりあえず日赤をわずらわしまして、
国際赤十字あるいはソ連赤十字等と直接に会議をいたしまして、
でき得れば現地においてその交渉をしていただくような方途を講ずる
決意でございます。

○戸叶委員 
本日四人の方々からいろいろお話を伺ったわけでございますが、
お話をしている間にも、
おそらくハバロフスクにおられる方々のことを思って、
どんなにか御心配であろうと思いますし、私どもといたしましても、
これを伺いました以上さらに一日も早く
この引き揚げの問題が解決されなければならないということを痛感する
ものでございますが、この問題は、外交の問題とも非常に大きな関係もございます。

本日は厚生省の山下政務次官からの御答弁は伺いましたが、
外務省の方にもいろいろ聞きたいこともございますので、
当委員会におきまして、この次にでも重光外務大臣をここへ呼んでこられまして、
そして質問したいことがございますから、そのように委員長にお取り計らいを
お願いしたいと思います。

○木村(文)委員長代理 
さよう取り計らいます。

ほかに御質疑がなければ、これで参考人よりの事情聴取を終ります。
参考人各位には、お疲れのところ長時間にわたりまして、
非常に貴重なるお話を詳細にお述べ下さいまして、
本委員会といたしましては、調査の上に非常に参考になりました。
この際委員長より厚くお礼を申し上げます。
大へん御苦労さまでございました。

次会は、公報をもってお知らせいたします。本日はこれにて散会いたします。
午後六時一分散会

参考情報:
作家・歌人の辺見じゅん氏の著書『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』
(文藝春秋 1989年6月発行


第22頁

俘虜たちがもっとも苦しめられたのは、作業のノルマだった。
俘虜ひとりあたりのノルマを収容所側が決め、それを上回った者には
食糧の支給をふやし、ノルマに達しない者には、それに応じて
支給量が減らされた。しかし、ノルマが厳しいため、それを越える者は
いなかつた。

一日に黒パン200グラムとか、150グラムしか支給してもらえない
者も多く、そのため体力はますます衰え、さらに作業量が減るという
悪循環がくり返される。体力のない者は栄養失調で、夜中に
だれにも気づかれずひっそりと死んでいった。
身体中にまつわり
ついていたシラミがいっせいに逃げ出すのですぐ分かった。

第238頁〜第241頁
「1955年12月19日の午前8時、ハバロフスクの第21分所で、いわゆる
【ハバロフスク事件】が起きた。シベリアに連行されて約10年間、
飢えと寒さと強制労働によって、ラーゲリ(=収容所)では衰弱する者
たちが続出した。抑留者たちの平均年齢は42歳となっている。

そして、この年の11月には政治部将校と収容所長立ち会いの
もとに老人や病弱者の体力検査が行われ、それまで
医務室に寝ていた病人までを含む50数名が、
零下30度の戸外の作業にかりだされた。


作業中に倒れる者が次つぎとでて、日本人の現場の作業班長
たちが収容所側に嘆願運動をしたが、ソ連側はきわめて冷淡で
嘆願に応じようとはしなかった。

元関東軍司令部付少佐の石田三郎を代表者に選び、12月19日
からストライキに突入した。石田は【この運動は闘争ではなく、
あくまでも請願運動としたい。ラーゲリの非人間的な取り扱いを
モスクワの政府に訴え、政府の代表者と現地で問題を解決する
ことにある】と説明した。石田はいっさいの暴力行為を禁じた。

この日本人たちの初めての作業拒否に収容所側は、すべての
娯楽の禁止と、普段の食事の五分の二に量を減らす懲罰食で
報復してきたが、作業拒否は続いた。

(略)断食に入って10日目の明け方、内務次官ポチコフ中将指揮の
二千五百数十名の軍隊がラーゲリを包囲した。100日間にわたる
請願運動は、こうしてソ連軍の出動によって制圧されてしまった。


ハバロフスク、ウスリー州

ハバロフスク

読売新聞1992年6月3日第1面より転載。読売新聞社の許諾を得て転載しています。
複製、送信、出版、頒布、翻訳等、著作権を侵害する一切の行為を禁止します。


極悪非道なソ連(現・ロシア)独裁者、スターリンは、
日本敗戦の直後の1945年8月23日、ポツダム宣言・第9
「日本の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰して
平和的、かつ生産的な生活を営む機会を与えられる」に違反して
「日本人捕虜をシベリアに移送せよ」との極秘指令を行った。

ソ連軍は「男は皆、奴隷にする。女は皆、レイプ(強姦)する」という
【人道に反する】鬼畜行為を行った。まさしく「鬼畜・ソ連」であった。

シベリア奴隷労働被害で16万人以上、移送途中で4万人以上、
合計で20万人以上の日本人軍人が死亡した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
極悪非道なスターリンのソ連は、1945年8月9日〜9月2日の25日間の
【日ソ戦争(ソ連の対日参戦)】で、南サハリン、千島列島、北方四島を完全占領した。

満州にあった全ての産業施設と、金融機関が保有していた宝石・貴金属と
机椅子とうにいたるまでの、全ての財貨を強奪してソ連に運んだ。

70万人以上の日本人捕虜(軍人及び民間人)をシベリア、モンゴル、
中央アジア、極北地帯等へ拉致移送して、奴隷として、1日10時間以上、
強制労働をさせた。極寒期でも野外で強制労働させた。
数十万人の日本人捕虜がソ連の捕虜虐待で死亡した。

さらには、おびただしい数の、全く無実の、軍人及び民間人を、
戦犯裁判と称するエセ裁判で有罪として殺害した。
殺害されなかった者も、投獄され、強制労働を課せられ多数死亡した。

ソ連軍は満州及び北朝鮮において、1946年春に撤退するまで、
日本人民間人の日本への帰国を禁止した。
満州及び北朝鮮においては、日本人民間人の保護は全く行わなかった。
反対に、ソ連軍兵士は、日本人女性に、ほしいままに強姦、暴行、殺戮、
略奪を行った。


1945年〜1946年の満州での日本人民間人の死亡者数は約25万人である。


25日間の【日ソ戦争(ソ連の対日参戦)】は領土獲得、奴隷獲得、財貨獲得
のための、極悪非道なスターリンのソ連の帝国主義侵略戦争であった。

【日ソ戦争(ソ連の対日参戦)は、人道に反する、ソ連の不正義の塊】であった。

しかるに、ソ連政府、及びロシア政府は、【日ソ戦争はソ連の正義の戦い】
ソ連国民、ロシア国民を徹底的に洗脳してきた。

これに対して、自民党政権は、過去60年間、日本人捕虜のシベリア等に
おける奴隷労働被害を【歴史の闇】に葬り去り、ソ連政府に対しても、
現在のロシア政府に対しても、ポツダム宣言第9項に違反する
【日本人捕虜の奴隷労働被害】に対する公式謝罪を求めたことはない。

自民党政権の指導によって、日本の中学・高校の歴史教科書には、
日本歴史上かってなかったこの悲惨な歴史事実は記載されていない。

自民党政府によって、日本の歴史から抹殺された
数十万人の犠牲者たちは成仏できず、
今もなお、シベリアや満州の荒野を彷徨っていると思う。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第024回国会、第025回国会、第026回国会と、3回の国会において
海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会は多数の政府関係者
及び海外からの帰還者に証言を求め、引き揚げ問題に関する事実の解明に努めた。

第024回国会においては、調査特別委員会は、昭和30年(1955年)12月23日の
第1号から、昭和31年(1956年)10月29日の第21号まで21回開催された。

第024回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第9号
昭和三十一年三月二十六日(月曜日)午後二時十分開議
出席委員:委員長代理理事 木村 文男君
理事:臼井莊一君、中馬辰猪君、堀内一雄君、櫻井奎夫君、戸叶里子君
委員:加藤精三君、北澤直吉君、薄田美朝君、高岡大輔君、仲川房次郎君、
   原健三郎君、保科善四郎君、眞崎勝次君、松岡松平君、三田村武夫君、
   井岡大治君、河野正君、三鍋義三君
出席政府委員:厚生政務次官 山下春江君
委員外の出席者:参考人:
(ソ連地区引揚者)柴田武君、小笠長君、小堤省一君、馴松成良君
―――――――――――――−−−−−−−−−−−−−−−
以上