スターリンの犯罪を忘れるな
                            2012年3月 Minade Mamoru Nowar
Re:
  北方領土返還要求大会は
        税金のムダ使い大会

戦争終了後の、極悪非道なスターリンのソ連の
日本人虐殺犯罪と日本人女性強姦犯罪を強く非難する


1953年3月5日、極悪非道なソ連の独裁者、スターリンが死亡した。

スターリンの最も忠実な部下で、ソ連秘密警察の元締めであったベリヤは、
権力基盤を失い、1953年12月23日、【国家反逆罪】で銃殺された。



反対派を皆殺し

スターリンとベリヤは大粛清とよばるれ反対派の徹底的殺害を行った。
やり方は、日ソ戦争の戦後に行われた日本人捕虜に対する【エセ戦犯裁判】
全く同じ
で、反革命罪、国家転覆罪、国家反逆罪との罪名で、【エセ裁判】を行い、
片っ端から一方的に死刑宣告を行い、判決、即執行で、容赦なくぶっ殺していった。

大粛清によって、反スターリン派の旧共産党指導層は完膚なきまでに殲滅された。
反スターリン派の地区委員会、州委員会、共和国委員会は丸ごと消滅した。

1934年の第17回党大会の1,966人の代議員中、1,108人が逮捕され、
その大半が銃殺された。

1934年の中央委員会メンバー139人のうち、110人が処刑されるか、
あるいは自殺に追い込まれた。

1940年にトロツキーがメキシコで暗殺された後は、
レーニン時代の最高指導者で残ったのはスターリンだけであった。

党内の反対派をことごとく大虐殺した後、極悪非道なスターリンは、さらに
学者、軍人、官僚、農民など、あらゆる分野において反対する者たちの
大粛清(大虐殺)を行った。

ゴルバチョフ大統領時代、KGB(ソ連国家保安委員会)は、
1930年〜1953年のスターリン時代に
786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めた。

さらにソ連崩壊後、ロシア連邦国立文書館(GARF)は1953年に
NKVD(内務人民委員部:ソ連の秘密警察統括部門)の書記局が作成した
大粛清に関する統計報告書を公開した。

それによるとNKVDは1937年と1938年の2年間に
1,575,259人
を逮捕した。

このうち1,372,382人が「反革命罪」であった。

85%が有罪にされた。有罪者のうち半数強が死刑になった。
死刑を免れたものはシベリア強制収容所送り(流刑)だった。



メドベージェフによる「スターリニズムの犠牲」の推計
出典:塩川伸明東大法学部教授:「スターリニズムの犠牲」の規模


人民の敵とのレッテルを張り、
不服従の者を大量に虐殺・血の粛清

先ず、農村の富農層(クラーク)を撲滅

1929年、スターリンは、第1次五か年計画を発動した。
目的は、農業国ロシアを工業国に変えることであった。

この計画の核心は農民の強制集団農場化であった。
すべての農民をコルホーズと呼ばれる集団農場組織に組み入れた。

農地・農機具・家畜の私有は禁じられ、すべてコルホーズ所有になり、
共用となる。コルホーズで収穫される穀物は、すべて国家のものになる。

農村において、これまで、着々と財産を蓄えてきたクラークと呼ばれる
富農層は猛烈に反発した。彼らにしてみれば、これまでの財産を
すべて失い、以後も、財産を貯めることが許されないからだ。

スターリンは、約900万人の富農層(クラーク)を、銃殺、あるいは
シベリア流刑
で完全に撲滅した。



農民(ムジーク)の完全農奴化

富農層を皆殺しにしたスターリンは、さらに、強制集団農場化に従わない
一般農民(ムジーク)に対しても情け容赦のない弾圧を加えた。

各地で、強制集団農場化に強く反対・抵抗する農民(ムジーク)たちの
暴動が相次いだ。農民(ムジーク)たちは、斧や、熊手や、猟銃や、
旧式ライフルを手に地方の政府施設を襲撃、放火して抵抗した。

これらの暴動に対して、スターリンは、戦闘機に機銃掃射させ、戦車、
大砲、火炎放射器を装備した軍隊を派遣して、農村を丸ごと焼き払わせた。

1929年だけでも、強制集団農場化に反対・抵抗した約1,000万人
一般農民が、銃殺されたり、シベリア流刑になった。

見せしめのため、強制集団農場化に最も強く反対した農民たちは、
広場で、自らの墓穴を掘らされた上、銃殺され、墓穴に投げ込まれた。



「人民の敵」粛清の拡大

スターリン体制を批判するものは、すべて、皆殺し

血の粛清は、とめどなく拡大していった。まもなく、農民だけでなく、
民族主義者、知識人などスターリン体制に批判的な者が、すべて、
大量虐殺の対象にされていった。

スターリン体制に批判的な者たちは、「人民の敵」とのレッテルを貼られ、
エセ裁判にかけられた。それは、裁判とは名ばかりの大量虐殺ショーであった。

「人民の敵」容疑がかけられると、陰惨な拷問や、自白薬によって
自白させられ、即刻、銃殺刑か、シベリアの強制収容所への流罪になる。

時間のムダを省くために、トロイカと呼ばれたエセ簡易裁判で、
容疑者には何らの弁明も許されず、
裁判官と称する者が一方的に死刑判決を言い渡す。
判決後、10分以内に、その場で処刑されるのである。
信じられないほどの素早さで大量虐殺が行われた。

流罪判決を受けた者のために、スターリンは、矯正労働収容所と称して、
シベリアなど、ロシア北西部に数えきれないほどの奴隷収容所を創った。
スターリンは工業化のためには、大量の、ただ働きの奴隷労働者が必要と
考えていたのである。

賃金を払う必要がない流罪囚人=ただ働きの奴隷労働者には、
かろうじて生きられるだけの食料が与えられた。過酷な重労働で、
流罪囚人たち=ただ働きの奴隷労働者は、驚くべきスピードで、
餓死、凍死していった。

刑法第58条「反革命罪」
ただ働きの奴隷労働者を永続的に確保


1926年、スターリンは、抜け目なく、刑法第58条という新しい条例をつくった。
刑法第58条は、通称「反革命罪」と呼ばれ、これにより、多くの共産党員、民間人、
さらには外国人までもが、この罪によりシベリアの奴隷収容所へ送られた。

刑法第58条によれば、政府の転覆、崩壊、もしくは、革命成果を崩壊、
弱体化させる行為は、反革命的と見なされ、「人民の敵」と見なされる。

人々の日常的行為で、この条例に引っかからないものなどあり得なかった。

要するに、スターリンのソ連秘密警察が、まったく無実の者に、
「人民の敵」
とのレッテルを、いつでも、好きなだけ、貼り付けることを可能にした
のである。

スターリン体制を維持するため、この条例によって、数百万人の無実の人間が、
「人民の敵」とのレッテルを張られ、全財産を国家に没収された上、銃殺されるか、
シベリアで過酷な奴隷労働を強制されることになった。

シベリアに送られた流罪囚人たちを待っていたのは、金鉱の採掘、運河や鉄橋の
建設などの過酷な奴隷重労働であった。

その過酷な奴隷重労働は、想像を絶するほどひどいもので、
1日に16時間以上の過酷な奴隷重労働が課せられた。

真冬ともなると、あらゆる物が凍りつき、気温は零下60度にも下がる。
当然、多くの流罪囚人が凍傷にかかった。医者は、まるで植木職人のような手さばきで、
凍傷にかかった流罪囚人の手足を、パチンパチンとハサミで切り落としていった。

激しい飢餓に耐えきれずに、死体置き場から死人の肉を切り取って食べた者も少なくない。

少しでも反抗的な態度を取ると、目の玉が飛び出るほど殴られた。
流罪囚人たちは、体力を消耗して、みるみるうちに痩せ細り、どんどん死んでいった。

死亡して、コチコチに変わり果てて凍った死体は、次々に運搬用のソリに投げ込まれて
すぐに片付けられた。

もの凄い寒さと奴隷重労働による疲労、飢えのために、
ほぼ全員が、流罪の年の冬に死に絶え消滅した。

夏になると、再び、新しい流罪囚人の群れが送られてくる。
彼らも冬になると同じ運命をたどるのである。

毎年、補充のために、数十万人単位の流罪囚人が、貨物列車に
閉じ込められてピストン輸送されてくる。

毎年、冬には、ほぼ全員、死亡するので、流罪囚人数が増えることはなかった。
このように、死亡しては、新しく補充されるというサイクルは休むことなく繰り返された。

You Tube: Stalin documentary - part 2

空前絶後の規模の大粛清の死の嵐

1937年、空前絶後の規模の大粛清の死の嵐が、ソ連全土に吹き荒れた。

「古い細胞を除去し、党は一新されねばならない」と、スターリンは、
大虐殺をこのように弁明し、大粛清の論理を正当化した。

そのために、スターリンは密告を奨励した。
スターリンの陰口をたたく者、スターリンに不満を持つ者、
スターリン体制に批判的な者を、密告によって嗅ぎ分け、
ことごとく粛清するのである。

なんらの根拠もない、不当不実な密告が盛んに行わた。
数えきれない人間が深夜にソ連秘密警察連行され銃殺された。

子供が親を密告したケースも少なくない。
密告した子供が、多くの人々の前で表彰を受け無邪気に喜ぶ場面もあった。
一方、実の子に密告された親は、奴隷収容所に送られ悲惨な死を遂げた。

夜がふけると、人々は、身を寄せ合って、夜が明けるのを息を殺して
待つより他なかった。自分に恨みを持った人間が、復讐のため、
あることないことを密告し、ソ連秘密警察が、突然、来るかも
しれないのである。もう、誰も信用出来なかった。人々は疑心暗鬼に脅え、
毎夜、恐怖に震えおののいた。

それは、まるで、中世の魔女狩りそっくりであった。
いつ何時、死神・ソ連秘密警察がドアをノックするかわからず、
おちおち眠ることも出来なかった。死神・ソ連秘密警察が現れるのは、
決まって、深夜か、早朝だったからである。

この年だけで何百万人も連行され、約半数が銃殺されたと言われている。
大戦前の5年間だけでも、2,000万人近い人間が逮捕され、
銃殺、もしくはシベリアの奴隷収容所送りにされた。

反革命、及び国家に危険を及ぼす犯罪で
逮捕され、死刑判決を受けた者、
及びシベリアの監獄へ送られた者


注:この数字は、逮捕され、かつ裁判を受けた者のみの数字である。
  裁判を受けることなく、行政処分で処刑された者、及びシベリアへ
  送られた者は含まれていない。

 

大粛清の死の嵐は、党や軍など、
あらゆる分野で吹き荒れた


軍にいたっては、将校の8割が銃殺されたと言われている。

そして、ついには、大粛清を執行した秘密警察官たちにも
粛清の矛先が向けられていった。

スターリン政権下30年間で、ロシア本土だけで、実に4,000万人を下らない
人間が連行され、有罪判決を受けた。ソ連全土ともなると、
その数はもっと膨らみ、もはや推定する以外にはない。

秘密警察当局によって有罪判決を受けた者たちは、
その半数以上が虫けらのように銃殺されるか、流刑先で悲惨な死を迎えた。

しかし、ソ連の悲劇の歴史は、これが、すべてではない。
4年間にわたる独ソ戦の死傷者2,500万人が、その上に加わる。

第二次大戦中、ソ連占領下の各地でも、粛清の嵐は容赦なく吹き荒れた。

北カフカスでは、ある山岳民族が強制移住の名目で大虐殺された。
この山岳民族は、戦前から、自分たちの伝統文化をかたくなに守り、
スターリンの農業集団化に協力しなかった。

2月の大雪が降り続く深夜、突如、10万人のソ連軍が山岳民族の村々を包囲した。
ソ連軍は、着の身着のままで、住民を叩き起こし、駅で待機させていた家畜輸送用の
貨車に詰め込んだ。

その際、老人、妊婦、子供は足手まといになるため、その場射殺された。
崖から突き落としての殺害も行われた。

貨車に乗り遅れたある老夫婦と幼い孫はその場で射殺された。
人々は貨車から5メートルでも離れると、問答無用で射殺された。

また、あるソ連軍占領地の少数民族の農村では、期限内に
計画達成困難と見た村当局が、スターリンの怒りを買うのを恐れ、
数百人の住民を納屋に閉じ込め、火を放った。苦しみ抜いて、
煙にいぶし出され、はい出して来たところを一人一人狙い撃ちして皆殺しにした。
You Tube:Most Evil Men in HistoryJoseph Stalin (1of3)


極悪非道なスターリンに和平斡旋を頼んだ
    無知で
、あまりにも愚かな日本政府!

1945年7月、無知であまりにも愚かであった日本政府は、
この極悪非道なスターリンに対米和平交渉のあっせんを依頼した。

7月16日、ドイツのポツダムに到着した翌日、17日正午、
スターリンは米国代表団の宿舎でトルーマン米大統領と初めて面会した。

この時スターリンは、8月中旬までにソ連が対日参戦すると伝えた。

あくる18日、返礼として、ソ連代表団宿舎を訪ねてきたトルーマン米大統領に、
スターリンは日本から送られてきた極秘の昭和天皇の親書の写しを手渡した。
それには、日本が、ソ連を通じて終戦を模索していることが書かれてあった。

昭和天皇の「これ以上の流血を避け、速やかな平和の回復を願っている。しかし、
米国、英国が、無条件降伏を要求する限り、戦争を継続せざるを得ない」との
対米和平交渉あっせん依頼理由が書かれてあった。

スターリンはマリク駐日大使に日本政府の動きについて詳細な情報収集を命じた。
最小の犠牲で最大の効果が期待できる対日参戦の日を模索し続けた。

8月6日、広島に原爆が投下された。天才的情勢判断力を持つスターリンは、
直ちに8月9日に対日参戦することを決断した。

8月9日午前0時直前、モスクワの日本大使館の電話線を全て切断した上で、
ソ連のモロトフ外相は、佐藤駐ソ日本大使に対日宣戦布告文を手渡した。

極悪非道なスターリンの狙い通り、ソ連は、わずか25日間の日ソ戦争で、
最少の犠牲で、領土獲得、財貨獲得、奴隷獲得など最大の成果を得た。
世界歴史において特筆されるべき、極悪非道なスターリンの超大勝利であった。

敗戦後、無知と愚かさを引き継いだ無能・無策・無責任な日本の外務省
極悪非道なスターリンの「日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害を徹底的に隠蔽せよ」
という遺志を、銃殺されたベリヤに代わって、固く守り続けている。
泉下の極悪非道なスターリンは、日本の外務省の深情けに、感激の涙を流していると思う。

スターリン非難
フルシチョフ秘密報告抜粋:主な内容
出典:毎日新聞(朝刊)1956年6月10日〜6月17日

米国務省は、1956年6月4日、極秘筋から入手した文書として
スターリンを非難したフルシチョフ・ソ連共産党第1書記の秘密報告を発表した。

これは第20回ソ連共産党大会の11日目に当たる1956年2月25日、
モスクワのクレムリン宮内の議場においてフルシチョフ・ソ連共産党第1書記が、
大会代議員だけに報告したものである。

その内容は、これまで、ソ連当局から公表されていないが、すでに秘密会出席の
代議員を通じて、ソ連国内に広く伝えられたといわれる。また断片的にその内容の
一部が外国にもれ、すでに全世界に大きな波紋を巻き起こしている。

米国務省は、この文書の発表に際して、「最近、国務省はフルシチョフ報告演説の
訳文と称する文書の写しを極秘筋から入手した。この文書は、多くの問い合わせに
答えるために発表されるものである。この訳文はソ連以外の某国共産党の党指導上の
参考用として出されたものと解される。

国務省は、この文書の真実性については保証しないが、文書そのものが
すベてを物語っているので、これを発表する」と説明した。

発表文書は58頁、約2万6,000語にのぼる。
毎日新聞社は発表文全文を入手した。以下、主な内容を紹介する。
@



「スターリンはあまりに粗暴である」
として
レーニンはスターリンの書記長解任を提案
していた

レーニンは、党とソ連国民の将来の運命を心配して、
スターリンの性格に対する評価を完全に修正し、
スターリンが極端に粗暴であり、同志たちに対して
礼儀正しい態度をとらず、気まぐれで権力を乱用する
といった諸事実から、スターリンを党書記長の地位から
他へ移す問題を考慮する必要があると指摘したほどである。

1922年12月にレーニンは党大会にあてた書簡で次のように述べている。

「同志スターリンは書記長の地位を引継いでから、はかり知れない権力をその手中に集めた。
そして私は、彼が常に必要な注意を払って、こうした権力を行使できるかどうか危ぶむものである」

レーニンの遺訓として、党史上極めて重要で、しかし有名な政治的文献であるこの書簡は
第20回党大会の代表に配布された。

諸君はすでにそれを読み、しかも、くり返しくり返し読んだに違いない。諸君は、レーニンが党、
人民、国家ならびに党政策の将釆の方向を気づかった率直な言葉に感動したことであろう。

さらに、レーニンは次のように述べている。

「スターリンは全く粗野で、この欠点は、我々の間、および我々共産主義者間の接触では
我慢できるが、書記長としての地位を保つ上に我慢できないものとなっている。

「この理由から、私は同志諸君が、スターリンを書記長から解任させ、他のもの、とりわけ
一つの性格、つまり同志に対してより以上の寛容性、より以上の忠実性、より以上の親切心、
より以上の思いやりを持ち、移り気な気持の少いものを選ぶ方法を検討するよう提案する
ものである」



このレーニンの書簡は、スターリンを書記長のイスから追い出す問題を討議した
第13回党大会の席上、代表たちに対して明らかにされた。

しかし、代表たちはスターリンが書記長に留任することに賛成する旨主張し、
スターリンが、レーニンの批判に注意して、レーニンに重大な懸念を起させた欠点を
克服することができるようにとの希望を表明した。

スターリンが、党および国家の指導についてとったやり方を分析するとき、また一歩退いて、
スターリンが行ったすべてのことについて考えるとき、我々はレーニンの心配していたことは
当然の心配であったことを確信せざるをえない。

レーニン時代には、ほんの始まったばかりであったスターリンのネガティブな特徴は、
彼の晩年には、スターリンによる重大な権力乱用と変り、わが党に、はかり知れぬ害を
与えたのである。

我々は、スターリン生存中に起ったようなことを二度と再びくり返さないように、
この問題を真剣に考え、正しく分析しなければならない。

スターリンは、指導の面でも、仕事の面でも、絶対に集団性を認めず、
彼に反対するすべてのものに対してばかりでなく、気まぐれで専制的な性格をもった
彼の考えと相入れないとみえるものすべてに対して、残酷な暴力を振ったのである。
A


上記の一部抜粋:

スターリンは「人民の敵」という概念を創作した。この言葉は理論闘争にたずさわっている人々の
イデオロギー的誤りを立証することなど不必要だという結果を自動的にもたらした。

また、スターリンと意見の合わない人間、単に敵意を持っているのではないかと疑われるだけの人々、
あるいは、悪評のある人たちに対して、極めて残酷な弾圧を加えることをも可能にした。

「人民の敵」というこの概念は、実際にどんな種類の理諭闘争をやることもできなくさせた。

強制的自供(自白)で有罪・まっ殺

大体において、そして実際に「有罪」のただひとつの証拠として使われたものは
−現在の法学のあらゆる規範に逆行して−被告自身の自供(自白)であった。

そしてその後の調査が証明しているように、自供(自白)は被告に対する肉体的圧迫によって
得られたのであった。

こうしたことは、まぎれもなく、革命の合法性を侵犯することにもなり、また、過去において、
党の方針を守りぬいてきた、多数の、全く無実の人々が犠牲にされるという事実を招いた。

かって党の方針に反対した人々についても、我々は、彼らがしばしば、十分な理由もなしに
肉体的にも、まっ殺されてしまったことを明言しなければならない。

「人民の敵」という言葉は、とくに、こうした人々をまっ殺するためにとり入れられた。

党および「人民の敵」として、まっ殺された多くの人々が、レーニンの在世中には、
レーニンと共に働いていたということは事実である。

彼らの一部は、レーニンの在世中にも誤りを犯した。しかし、レーニンは、それにもかかわらず、
彼らの誤りを正し、彼らを党の戦列に引き留めるためにあらゆる努力を続けた。

国民との関係で、スターリンのやり方はまったく違っていた。

レーニンの特色−すなわち人民と共に辛抱強く働き、根気よく骨折って彼らを教育すること、
強制はせず、むしろ思想的な影響によって人々が従ってくるように説得する能力−
こういったものは、スターリンにとっては、まったく縁のないものであった。

スターリンは、納得させ、教育するというレーニン主義の方法をふり捨てた。

スターリンは、行政的暴力、大量弾圧、テロといった方法をとって、イデオロギー闘争という
方法を放棄した。スターリンは懲罰機関を通じて、次第に、大規模、かつ頑強に振る舞い、
同時に、しばしば、あらゆる道徳規範やソ連の法律を侵犯した。

B



上記の一部抜粋:

7,679名が無実の罪

また各地方でも、広くでっち上げの事件が行われた。スヴェルドロフ州のNKVD本部は、いわゆる
ウラル暴動派なるものを発見した。

この当時の調査物件は、ほとんどすべての地方、州、共和国に右翼のトロツキスト、スパイ・テロ、
サボ組織が存在したこと、また一般的に、こうした組織の首脳部は、州、あるいは共和国党委員会や、
中央委員会の第一書記だとされたのであった。

このような諸事件の奇怪なでっち上げや、あらゆる種類の中傷的自白が受入れられた事実、
お互いの間に、強制告発が実施された結果、多数の、正直・誠実で無実の共産党員が刑死した。

こよらの事件の大部分は、いまや明らかにされており、彼らの大部分は、その罪に根拠がなく、
でつち上げであったため、罪は取消されている。

1954年から現在まで、最高法廷の軍事指導委員会が7,679名の名誉を回復した。
そのうちの多数は死後に名誉を回復された。

党、政府、経済部門の人々、軍人の大量逮捕は、わが国、および社会主義の発展の進路に
恐るべき害を及ぼしたのである。

C

D


E

F





 






スターリンの極秘指令
読売新聞(朝刊)1992年(平成4年)6月3日第1面及び第4面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
複製、送信、出版、頒布、翻訳等、著作権を侵害する一切の行為を禁止します。



香月泰男(KAZUKI YASUO)画伯 奴隷として貨車でシベリアへ拉致移送された日本人捕虜たち
著作権者の許諾をいただいて掲載しています。コピー・転載は禁止します。

ウラジミール・ポ・ガリツキー氏(ロシア軍事アカデミー・メンバー、法学博士、教授、海軍大佐)は、
毎日新聞社が1999年2月に発行した『毎日ムック シリーズ 20世紀の記憶 1945年 
日独全体主義の崩壊 日本の空が一番青かった頃』の第129頁
「日本人捕虜の大多数は満州からソ連領土までを徒歩で移動した。
ソ連国内の指定地点への移動は鉄道の貨車で行われた。
その移動の途中で、32,722人が死亡した」と述べている。

筆者は、拉致移動途中に死亡した日本人捕虜は4万人以上であったと推定している。
しかしながら拉致移動途中の死亡者数については何らの資料も残されていない。

捕虜は貨車でシベリアの荒野へ!

 
貨車で死亡した捕虜は馬車に野積みにされ、荒野に運ばれ、遺棄され、虎と狼とハゲ鷹の餌食に!

 
荒野の真ん中の捕虜収容所まで徒歩で移動!

  


厳寒期には零下30度以下になる屋外で重労働を強制された。
若い国会議員と外務省の外交官に零下30度以下での奴隷労働の状況を
少しでも体験してほしいと思う。


極寒期における日本人捕虜の石炭採掘作業


極寒期における日本人捕虜の鉄道基礎掘削作業


極寒期における日本人捕虜の枕木運搬作業


極寒期における日本人捕虜の鉄道敷設作業


劣悪極まる作業環境のため、炭塵、鉱塵で多くの日本人捕虜が【シベリア珪肺】に苦しんだ。

くやしい。悲しい。むなしい。情けない。
誰がこんなことに追い込んだのか。
激しい怒りを禁じ得ない。






「戦友よ許してくれ」
著作権者の許諾をいただいて掲載しています。コピー及び転載は禁止します。

2006年3月6日午前の参議院予算委員会の審議において
民主党の谷博之参議院議員は【シベリア抑留問題】に関連して、
シベリアでの奴隷労働の苦難に耐えられた井上馨氏が描かれた
【戦友よゆるしてくれ】
という3枚の絵を小泉首相に示された。

ソ連は、遺体の衣服をすべて剥ぎ取って丸裸にした上で、
埋葬することも、火葬することもなく、谷底に遺棄したのである。

奴隷として酷使され、遺体を遺棄され、禿鷹の餌食とされ、
人間としての尊厳を、
とことんまで踏みにじられた。

戦友たちの、あまりにも悲惨な【野辺送り】を耐えなければならなかった
井上氏たちの悲痛な呻きが伝わってくる。

ご遺族の方々やシベリア奴隷労働被害者(シベリア抑留者)の方々の心情は
察するにあまりある。心から哀悼の意を表したい。


【歴史の闇】に葬り去られた
日本人女性の強姦被害



筑紫野市湯町の二日市温泉の済生会病院旧館のはずれに小さな水子供養祠がある。

1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが開始されてから、博多港に上陸した
日本人引き揚げ者は約1年半で139万人に上がった。

ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、身ごもった女性も多数いた。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性もいたといわれる。

身ごもった女性の妊娠中絶手術が厚生省博多引揚援護局二日市保養所で行われた。
手術は、麻酔を使わないで行われたといわれる。「白い肌、赤い髪、長い指。
一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」といわれる。

極悪非道なスターリンの侵略戦争の犠牲となり、
何度も【地獄の責め苦】に苛まれた女性たちを慰める言葉が出ない。

戦争を絶滅して、再び、このような悲劇が起こらないことを祈るのみである。


以上
T.
Re:シベリア不法虐待抑留犠牲者の慰霊を
−犠牲者の慰霊なくして北方領土問題の解決はあり得ない



U.極悪非道なスターリンのソ連の
   
日本人虐待・虐殺
   ソ連軍兵士の
日本女性強姦


1.日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害(シベリア抑留)

2.ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、強奪

3.満州開拓団の悲惨な結末

4.シベリア抑留 行方不明者記録抹殺

5.ソ連収容所における日本人捕虜の生活と死