ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、強奪
戦後のソ連の日本人虐殺を強く非難する

                              2012年3月 Minade Mamoru Nowar
関連サイト:満州開拓団の悲惨な結末

1.凄まじかった
    鬼畜・ソ連軍兵士の強姦・残虐行為

ウィリアム・ニンモ氏の著書 『検証・シベリア抑留』 加藤隆訳 (時事通信社 1991年3月発行)
第47頁

「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、
口ではいい表せないほどひどいものだった。
暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。


・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、
抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、
いまでもぞっとするほど残虐なものだった」    
と述べている。

強姦された日本人女性のほとんど総ては、
その後、自殺、絶望死、病死、衰弱死した。

凄まじかったソ連軍兵士の日本婦人強姦



筑紫野市湯町の二日市温泉の済生会病院旧館のはずれに小さな水子供養祠がある。

1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが開始されてから、博多港に上陸した
日本人引き揚げ者は約1年半で139万人に上がった。

ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、身ごもった女性も多数いた。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性もいたといわれる。

身ごもった女性の妊娠中絶手術が厚生省博多引揚援護局二日市保養所で行われた。
手術は、麻酔を使わないで行われたといわれる。「白い肌、赤い髪、長い指。
一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」といわれる。

極悪非道なスターリンの侵略戦争の犠牲となり、
何度も【地獄の責め苦】に苛まれた女性たちを慰める言葉が出ない。

戦争を絶滅して、再び、このような悲劇が起こらないことを祈るのみである。

2.【歴史の闇】に葬り去られた強姦被害



出典:『週刊朝日百科113 日本の歴史 現代B 占領と講和』第79頁

3.凄まじいソ連軍兵士たちの強姦(レイプ)

 現在は人口約700万人といわれ、ハルビン市、大連市と並ぶ満州
屈指の大都市、瀋陽市にソ連軍が侵攻してきたのは8月19日である。
すぐにハルビン市、長春市と全く同様にソ連軍兵士たちのレイプ
(強姦)凶暴・暴行・殺戮・略奪が始まった。

中国国防大学教官の徐焔(シュ・イェン)大佐は著書
『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
(朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳 三五館 1993年8月発行)
第223頁〜第229頁からで次のように述べている。

「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、
横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を
振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても
悪事をさんざん働いた。

特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数と
いうべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」

満州でのソ連軍の軍紀の乱れは目に余るものがあった。
彼らは白昼堂々と倉庫の中のものを盗み出し、町で売りさばき、
得た金を着服した。

夜になると泥酔状態で臭気をまき散らしながら、町中「マダム」を
捜し回った。恐れおののく庶民はドアと窓を締め切り、
ソ連軍が一日も早く帰ることを内心に祈っていた。

満州の各大都市はどこも同じような状況で、夜になるとソ連軍兵士が
街角に現れ、通行人を止めては携帯物品を強奪し、女性を追い回し、
時には銃をもって民家に押しかけることもよくあった。

瀋陽の町ではソ連軍警備司令部の憲兵がトラックで巡行するのを
よく見かけた。酔っ払いと軍紀違反者が多すぎるため、トラックで
大量に収容するからだ。逮捕されたら厳しい処罰を受けるが、
それでも軍紀違反者が後を絶たない。

ソ連軍の軍紀退廃についての中国側の最初の報告は、
満州に進出した八路軍の一番手の部隊が延安の党中央に送った電報だ。
1945年9月初めに山海関を出て瀋陽に到着した部隊は、
ソ連軍兵士による強奪事件を目撃し、また多くの中国人市民から
訴えを受けた。その報告で、ソ連軍は「軍服はボロボロで、軍紀は
はなはだ悪い」と説明し、現地のソ連軍政治部にも
「軍紀を厳粛にせよ」と申し入れた。

ソ連軍政治部は「すでに多くの措置をとって軍紀違反者を罰しており、
多い日には一日に20人以上も処刑した」と回答した。
しかしソ連軍側はまた、その原因を、兵士のファシストに対する
敵愾心に帰し、ドイツでも同じ行動をしたと弁明した。
この回答に八路軍はもちろん満足することができない。かといって
それ以上どうしようもなかった。

ソ連軍は自ら非公式に次のように背景を説明した。ドイツとの
激しい戦争で大量の死傷者を出し、兵力補給の不足を来たし、
戦争後期、多くの刑事犯も軍隊に補給した。そのため軍紀の
引き締めが十分にできず、悪質者を一部銃殺して何とか規律を維持
しているという。この説明の内容は事実かも知れたいが、ソ連軍
首脳部が軍中の非行者とその行為を真剣に取り締まらず、事実上、
野放しにしたことの責任は逃れられない。

ファシストに対する敵愾心をもって兵士の非行を説明し、
中国を敗戦国のドイツに例えた譬えたことは、
八路軍の将兵の中で憤りを引き起こした。

仮に敗戦国だったにせよ、無辜な一般市民に狭量な民族報復を
働いていいということにはなるまい。
異国で「三日間勝手にせよ」として兵士の闘志を刺激するなど、
なおさら政治の堕落だ。

ソ連軍のこのようた釈明はまさに、大ロシア主義の態度を
反映したものだと言える。その根本的な原因はスターリンの
「共産主義総本山」の意識にあり、そのため他国の人民を尊重する
教育を怠ったのだろう。

ソ連軍の一個戦車軍団が1944年末にユーゴスラビアの片隅を
通過した。その短い道程で、千件以上の婦女暴行と強奪事件を
起こした。これがユーゴスラビア国民の強い反発を招き、
のちにユーゴとソ連の関係決裂になる原因の一つになった。

ソ連軍がドイッの東部を占領した後も、強奪と暴行を繰り返し、
ドイツ人の民族感情を傷つけた。本来は親ソ的な東ドイッ政権なのに、
統治の基盤が不安定だったのは、それが一因でもあった。

満州での行為は、ソ連軍の一貫した行為の東方での継続だ。

1969年4月の中国共産党第九回全国代表大会で
毛沢東がソ連の満州出兵に触れた際、
「当時のソ連の軍紀は退廃そのものだ」と恨めしげに語った。」

4.ソ連軍兵士の凄まじい婦女暴行

若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行

第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、
被占領国民たる日本人の上に強奪・暴行・婦女暴行をほしいままにしたのである。

程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って
悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、
占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。

兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを強奪する。

そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず
婦女暴行を働いた。

抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを
打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。

しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の強奪は
「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、
「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」
と表現している体験記や、「何年もたった後でも、夜中エンジンの音を耳に
するとぞっとすることがあったくらいだ」という記述もある。

筆者の意見:
筆者は満鮮国境・鴨緑江河口の安東市(現・丹東市)生まれで、敗戦の翌年、
1946年10月まで同市に住んでいた。安東市は満州の中で最も治安がよかった。
それでも、ソ連軍占領中は、ソ連軍兵士の略奪・暴行が絶えなかった。
若槻教授の上記記述には何らの誇張、虚偽はない。事実を正確に述べている。

2011年1月16日夜、NHK総合テレビから、スペシャル番組『日本人はなぜ戦争へと
向かったのか 第2回 巨大組織「陸軍」暴走のメカニズム』
が放送された。

日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後65年、平和な時代の日本国民が、知りたくない、
思い出したくない、正視できないのが、1945年、満州と北朝鮮で現実に起きて
多数の日本人女性が蒙った、良心を完全に失っていた鬼畜・ソ連軍兵士たちによる
強姦(性的暴行)事件である。犠牲となった日本人女性は、無能・無策・無責任な
旧日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちが引き起こした満州事変と、
それに続く満蒙開拓団送り込み政策の犠牲者でもある。戦争の惨禍を引き起こさない
ために、忘れることは許されないと思う歴史事実である。

5.北朝鮮における
      強姦、暴行、殺戮、強奪


編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助 
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁〜第176頁

「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。

2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。

元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。

(慰安婦を)
強要せられ自殺せるものも少なからず。



6.東ドイツにおけるソ連軍兵士の強姦犯罪

旧東プロイセン・カリーニングラード

アントニー・ビーヴァー著・川上洸訳
『ベルリン陥落1945』 (白水社 2004年8月発行)

本書の多くの頁において、1945年、凶暴なソ連軍兵士たちが、
ドイツ本土のみならず、侵入したどの地域においても、
すさまじいレイプ(=強姦)・殺戮・強奪を行った状況が、
赤裸々に述べられている。

ソ連軍兵士たちは、年齢に関係なく全ての女性をレイプ(=強姦)した。
彼らの性暴力行為は現代に生きる筆者の想像を超える凶暴さであり、
明白な【人道に反する罪】である。

第482頁
「ダーレム(ベルリン市内)の産院と修道院を兼ねる女子修道院
【ハウス・ダーレム】では、修道女、若い娘、老女、妊婦、
出産したばかりの母親が、みんな容赦なく暴行(=レイプ=強姦)された。」

第602頁
「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ(=強姦)犠牲者の推定数は
9万5000人ないし13万人。東プロイセン、ボンメルン、シューレージエンでの
レイプ(=強姦)被害者140万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。
全体では少なくともも200万人のドイツ女性がレイプ(=強姦)されたと推定される。
繰り返しレイプ(=強姦)された人も、過半数とまではいかなくても、かなりの数に
のぼるようだ。」

第614頁
「東プロイセンは、すべての被占領地のなかでいちばん悲惨な目にあった。
なによりもみじめなのは、(ドイツ本土へ)逃げ遅れた民間人の運命だった。
大多数の老若女性がソ連での強制労働に駆り立てられた。森林、泥炭地、
運河で、1日、15時間から16時間もこき使われた。2年間で半数をやや上回る
死者が出た。生き残った女性の半数近くがレイプ(=強姦)された。
大多数が結核や性病におかされた。」

第606頁 
「その夏(45年夏)を通じて、各国の新聞・雑誌はこの問題(ソ連軍兵士たちの
レイプ(=強姦))
を掲載しつづけた。」

参考サイト:大戦直後のソ連軍兵士の性的暴行

参考Youtube:
2 Million German women were raped during WWII
by the Russian soldiers.


7.開拓団避難民の悲劇

2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された『ソ連参戦の衝撃−満蒙開拓民は
なぜ取り残されたか』
は、「当時、中国東北部(満州)に住んでいた国策開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、多くの家庭が母子老人家庭となっていた。

戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭避難民は、戦闘に巻き込まれて
約3万人が死亡した。その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と報じている。

この番組では放送されなかったが、合田一道『検証・満州1945年夏 −満蒙開拓団の
終焉』
(扶桑社 2000年8月発行)は、満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、【殺害】されたり、
【集団自決
(=集団自殺)
に追い込まれたりした悲惨な状況を詳しく述べている。

財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
満蒙終戦史 全928頁(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)の第812頁〜第813頁は
次に通り述べている。

受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)すべての運命であった。
もちろん程度の差はある。しかしながら、ソ連軍の満州進撃の日から、遣送帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。

なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように悲惨深刻を極めた。

この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に
崩壊した。ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、原住民の蜂起
などが相次いで、いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。

特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、関東軍(満州駐留の日本軍)と日本人役人はいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。

しかも、それまでに、開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵されし、開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが混乱と悲劇を一層増大したのであった。

ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。

ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、全滅した開拓団、及び
1,110名以上の自殺者を出した開拓団は、100団以上を算える。難民生活中の死亡を併せて、
満州の全開拓人口の約30%が死亡したものと見られる。

終戦時の満州開拓団等人口と日ソ戦争による死亡・未引揚者数

項目 開拓団 義勇隊 報国農場 合計
団数 944 102? 74 1,131
終戦時在籍者 243,488 22,828 4,112 270,428
調査済団数 847 91 67 1,005
同上在籍者 213,663 22,518 4,976 241,157
死亡者数 61,190 3,077 1,056 65,323
未引揚者数 23,746 2,218 623 26,587
帰還者数 128,710 17,223 3,297 149,230

(1953年(昭和28年)3月現在、外務省調査資料)

同書第518頁〜第519頁は「全満州にわたって、終戦前後の
混乱に殉難して亡くなった人は、調査統計に出ている数でも、
207,980人となっている。恐らく実際には20万人をずっと
上まわっていた
といえよう。これらの人の最後はいろいろであった。
一番多かったのが伝染病によるもので、発疹チブスやコレラで
亡くなった。ついで栄養失調によるものが多く、このため、乳幼児が
バタバタと死んでいった。各地別の死亡者数は次の通りである。」

全満州各地別死亡者調査数

地名 埋骨箇所 死亡者数
大連:関東州 2 15,000
鞍山 1 1,500
遼陽 1 800
蘇家屯 1 450
奉天 3 37,000
撫順 3 5,000
本渓湖 1 250
安東 1 3,800
延吉 2 54,536
牡丹江 1 4,000
佳木斯 1 150
哈爾浜 6 7,715
斉斉哈爾 2 2,400
熊岳城 2 60
大石橋 1 200
錦州 3 3,100
錦西 3 39
通化 2 4,500
鉄嶺 1 650
四平 1 60
公主嶺 1,000
新京 3 27,319
吉林 3,555
嫩江 1 700
興安街 4 1,999
札蘭屯 1 200
五常 8 665
延寿方正 4 380
琿春 2 955
合計 207,980

第444頁に1945年(昭和20年)8月9日、日ソ開戦当時の全満州の
日本人の人口表が掲載されている。これによると関東州を除く19省市の
人口が1,320,858人、大連:関東州の人口が228,842人、
合計1,549,700人となっている。

ちなみに、GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)が1950年に作成
した特別報告書『Special Report-Japanese Prisoners of War:
Life and Death in Soviet P.W.Camps』
では
関東州を除く満州全地区が1,105,837人、大連:関東州が223,093人、
合計1,328,930人である。220,770人の差がある。

省市名 日本人人口
新京特別市 161,712
吉林省 75,233
竜江省 48,156
北安省 62,408
黒河省 14,059
三江省 65,612
東安省 61,396
牡丹江省 97,931
間島省 29,332
浜江省 41,222
哈爾浜市 78,695
通化省 15,746
安東省 36,930
奉天省 177,739
奉天市 247,765
四平省 29,150
錦州省 62,914
熱河省 11,807
興安総省 23,383
不一致補正 -20,332
小計 1,320,858
関東州:大連 228,842
合計 1,549,700

満蒙終戦史は以上の通り

 渡部昇一上智大学名誉教授の著書『昭和史 松本清張と私 大正末期〜
二・二六事件
(ビジネス社 2005年12月発行)第191頁に「(1933年当時、
満州には)匪賊(ひぞく)と呼ばれるテロリストたちは推定100万人から
300万人いたといわれます。ほかにも「半農半賊=状況次第で匪賊になる」、
「宗教匪」、「政治匪=敗残兵」、「共匪=共産ゲリラ」・・・など神出鬼没、
昭和8年(1933年)だけでも、匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は
72件を数えた、というデータがあります」と述べられている。これらの武装
中国人暴徒集団が一斉に、関東軍の保護を失った日本人母子老人家庭
避難民を襲って、レイプ、暴行、殺戮、強奪を行ったのである。

 渡部名誉教授が匪賊と表現されている100万人〜300万人の中国人
暴徒の大部分は、旧日本帝国軍部の【満蒙開拓団】政策によって土地を
奪われた農民たちである。1931年の満州事変以後、東宮鉄男(関東軍
陸軍大尉、張作霖殺害の実行犯)、石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の
首謀者)、加藤完治(農業指導者)、石黒忠篤らは【満蒙開拓団】政策を
積極的に推進した。かれらは、誰ひとりとして、【土地と水、特に農地の
争奪こそが人類の紛争の根源】という発想を持たなかった。果てしなく続き、
解決の曙光さえ見えないイスラエルとパレスチナの悲惨な紛争も、原因は
【土地と水の争奪】である。ソ連軍と武装中国人暴徒集団のレイプ(強姦)、
暴行、殺戮、強奪によって約24万人の開拓団母子老人家庭避難民が死亡
した。旧日本帝国軍部の【満蒙開拓団政策】と、1945年7月の【開拓団の
日本人母子老人家庭は見棄てる】
方針の痛ましい犠牲者である。

 『検証・満州1945年夏 −満蒙開拓団の終焉』第53頁〜第71頁は、
団員、420人あまりが【集団自決】した哈達河(ハタホ)開拓団中央
グループの悲惨な最期について、納富善蔵さんの談話を載せている。
(麻山事件)

 哈達河(ハタホ)開拓団は鶏西(チーシー)市から東へ約8キロ、当時の
ソ連との国境のすぐ近くにあった開拓団である。 哈達河(ハタホ)開拓団
中央グループは逃避行の途中に、ソ連軍の戦車隊と武装した中国人暴徒
集団に前後をはさまれて身動きできなくなり、ついに全員集団自決の道を
たどったのである。中央グループが集団自決する前に、先頭グループ
約300人も、ソ連軍と武装した中国人暴徒集団に襲われて、殺害されるもの
や、負傷者が続出して集団自決していた。
 
 「まず団長がピストルで頭部を撃ち抜き死んだ。続いてあちこちで自殺が
始まった。銃を手にした男たちが、白い布で鉢巻きをしたり、目隠しした
わが妻、わが子を撃ち殺した。短刀でわが子の胸を突き刺し自分も死んで
いく母もいた。喉を突き血みどろになって転がる者、草をわしづかみにして
もだえる者、この世のものとは思えない恐ろしい情景だった」。


NASA衛星画像

参考資料1:
蓑口一哲著『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史V』(新生出版 2005年6月発行)
 『第1章 哈達河開拓団と麻山事件』第7頁〜第86頁

参考資料2:
中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す』草思社 1983年3月発行


 同書第98頁〜第102頁には、ハルビン市と牡丹江市の間にある現在の
賓県市にあった大泉子開拓団と財神開拓団の悲惨なデータを載せている。
45年8月15日現在、両開拓団合わせて、550人いた。武装した中国人暴徒
集団に襲われて殺害されたものと、自決者(=自殺者)は294人であった。
武装した中国人暴徒集団に襲われて、男手のない女子・子供・老人だけの
開拓団は、もう生きられないと観念して自決(=自殺)の道を選んだのである。
その後阿城に収容されたが病死者が続出、143人に達した。
死亡者は合計437人、全体の79.5%に達する。

 同書第244頁で、著者の合田一道氏は
「満州開拓団の人たちを死地に追いやったのは、まぎれもなく
わが国の政治であったと
断言せざるを得ないのである」と述べている。

中国軍国防大学教官で、戦史研究家の徐焔(シュ・イェン)大佐は、
著書 『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
(朱建栄(ツゥ・ジェンロン)訳 三五館1993年8月発行)第180頁
「土地を日本「開拓団」に強奪された農民と、鉱山や工事現場で
強制労働に従事させられ地獄のような生活をした労働者は
憎しみが特に深く、関東軍の敗退後、彼らが最初にしたことは
こん棒、鍬などを手に、日本人や旧「満州国」の警察などに
復讐することだった」と述べている。

 1945年8月、凶暴なソ連軍兵士たちと、日本人に対する復讐意識に
もえる武装した中国人暴徒たち
の、レイプ(強姦)、暴行、殺戮、強奪の
犠牲となった満州開拓団の人たちに対するインタビューを中心に、
数多くの自決者(=自殺者)を出した満州開拓団の悲惨な末路について
詳しく述べた著書、『開拓団の満州 語り継ぐ民衆史V』(新生出版 2005年6月
発行)
』の 第284頁で、著者の蓑口一哲氏は
「満州事変まで、日本から満州への農業移民は1,000人足らずであった。
満蒙開拓団という新しい政策を推進したのは、東宮鉄男(関東軍陸軍大尉、
張作霖殺害の実行犯)、石原莞爾(関東軍参謀、満州事変の首謀者)、
加藤完治(農業指導者)、石黒忠篤らである。

 当時の高橋是清蔵相は満蒙開拓団に不賛成であった。高橋蔵相の
【移民など可哀想だから良くない】という一言でいったんはしぼみかけた
この構想であるが、1932年の5.15事件(海軍将校が犬養毅首相ら政府首脳を
殺害したテロ事件)
で、高橋是清は更迭されてしまう。満州国成立後、
この構想は具体化された」と述べている。

 日本を破滅に追いやった満州事変の首謀者である石原莞爾ら関東軍参謀
たちは、1945年8月の【満州開拓団の悲劇】の責任者としても、その罪を
厳しく糾弾されなければならない。

 半藤一利氏は、著書『ソ連が満洲に侵攻した夏』(文藝春秋1999年7月発行)
の第313頁で、「囚人部隊を先頭に立てたという説もあるが、(満州へ)
一番乗りで突進してきたソ連軍兵士はドイツ戦線で鍛えられた猛者が多く、
戦場で鍛えられはしたが、教育や訓練で鍛えられる余裕のなかったものが
多かった。(日本人は)時計はもとより、机、椅子、鉛筆、消しゴム・・・
何から何まで奪われた」

 「かれらが開拓団の逃避行を平気で攻撃してきたのは、
戦場の常とはいえ、許されることではない
」と述べている。
保護すべき日本人母子老人家庭難民や民間人である開拓団員を
保護せずに、逆に、レイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪を行ったことは
【人道に反する罪】である。

 前掲書第313頁に述べられている通り、犠牲はそれらにとどまらない。
いまにあとをひく数千人の残留孤児の問題である。規律が滅茶苦茶な
ソ連軍兵士のレイプ(強姦)・暴行・殺戮・強奪によって、日本人母子老人
家庭避難民は、【子供を置き去りにせざるを得なかった】ほど、
死と隣り合わせの極限状態に置かれたのである。

 前掲書第271頁〜第273頁で半藤一利氏は次のように述べている。
「日本本土では確実に、そして早急に平和と安息が訪れてきている。しかし
満州では、まさしくその正反対のことが行われようとしていた。ソ連軍の
進駐の日を境に、大小都市や町で【悪夢】がはじまったのである。市内の
治安はその日を境に混乱し、乱れに乱れていった。殺人、婦女強姦、強奪、
暴行はひんぴんとして行われだした。8月18日以降、ハルビン市はソ連兵
による強奪、暴行、強姦の街と化した。」


NASA衛星画像

You Tube:【軍歌】関東軍軍歌
(筆者は満州の国民学校で毎日歌っていた。歌詞の一部は変わっているが。)

You Tube:
満州国国歌

8.奉天
(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況

米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年〜46年冬の死亡率を高めた。

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。

元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」

日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。

服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。

学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。


瀋陽北部Shanyang

瀋陽南部Shanyang

9.葛根廟事件

武器を持たない無防備の約2,000人の日本人母子老人家庭避難民が奉天(瀋陽)への
避難途中、突然、警告なしに、
ソ連軍戦車隊に襲撃され機銃掃射で惨殺された。
重傷を負った避難民は自殺した。生存者はわずか150人であった。
生き残った子供は
遺棄孤児(=残留孤児)となった。


葛根廟・烏蘭浩特(ウランホト)・白城一帯

8月14日、満州北西部の興安(=烏蘭浩特(ウランホト)市)から避難途中の
日本人母子老人家庭避難民、約2,000人が、同市郊外の葛根廟一帯で、
ソ連軍の戦車隊に襲われ、銃撃で多数虐殺され、さらに負傷者の多くが自殺し、
生存者はわずか150名といわれるのが葛根廟事件である。

西日本新聞の『シリーズ・戦後60年』の『葛根廟(かっこんびょう)事件』は、
生き残って残留孤児となった川内光雄氏の、「一晩中、母の遺体の横で
泣き明かしました。親を失って子供たちはみな一晩中泣いていました。
負傷した多くの人たちが手りゅう弾や短刀で自決(自殺)していきました」
との悲惨な証言を載せている。


NASA衛星画像

参考資料:読売新聞大阪社会部編
新聞記者が語りつぐ戦争D「葛根廟」』新風書房 1992年8月発行

 1988年8月、日中出版から出版された,
森留美子『母よ、友よ広野で眠れ−葛根廟事件の真相』
第108頁〜第114頁で、当時、斥候として現場に居合わせ、
惨状を目にした管忠行氏は次のように語っている。

 「視界の中に、興安街から白城子に通ずる鉄道と併行している道路の上に、
黒い点の長い列が見えてきた。日本人避難民の集団が、細く長い列をつくって
現れてきた。ちょうど盆地のような地形の中に、異様な、草原に浮かぶ駆逐艦の
ような廟があり、いま、日本人避難民の長蛇の列は、草原を東西にして、せまい
盆地の中央部にさしかかったのである。

 ちょうどその時、我々三人のいちばん近いところにいた戦車が銃を一発うった。
それを合図に、反対側にいた戦車が動き出した。そこは日本人避難民の長蛇の
列の最後尾のあたりである。長い縦列を後ろから襲う隊形である。14台の戦車が
斜面を下りながら銃撃を始めたのである。

 【あっ?!・・・・・・・】といったきり、三人共声が出ない。

 このような無装備集団に、戦車群が襲いかかるなど、考えてもいなかった。

 戦車は無線で連絡し合っているのであろう。順繰りに、日本人避難民の列を
めがけて、稜線を下り、反転してまた登り、下りながら銃撃している。

 我々三人のいる所から200メートル近くまで上がってきて方向転換をし、また
銃撃しながら下りていく。

 戦車群の位置は太陽を背にして、日本人避難民の列を横から襲っているので
ある。避難民からは戦車が見えにくいようである。その殺戮の場を、我々三人は
東南方向から太陽を斜めに背にしている。だから眼下に展開されている虐殺の
全貌がはっきり見える。

 止まった戦車の天蓋からソ連兵が数人出てきた。機関銃の三角の銃火光が
続けざまに見えた。死にきれずにいる日本人避難民に対して、なおも仮借のない
トドメの銃撃なのであろう。非戦闘員の日本人避難民に銃撃を加え、
その上キャタピラで死体を圧し潰し、
悪魔のように戦車群は去っていった。」

10.ソ連と北朝鮮が日本人の帰国を禁止・妨害−
  北朝鮮の日本徹底敵視は金日成から始まったもの


資料:太平洋戦争研究会著『図説 満州帝国』 河出書房新社1996年7月発行 第106頁


満州及び北朝鮮における日本人避難図
資料出所・防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 関東軍(2) 関特演・
終戦時の対ソ戦』第410頁 (株)朝雲新聞社 昭和49年6月発行

1945年8月の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)終了後、満州・北朝鮮を占領した
極悪非道なスターリンのソ連軍は日本人民間人の日本への帰国を禁止した。

極悪非道なスターリンのソ連軍は、北朝鮮占領後、満州(中国東北部)と北朝鮮との
国境の町・丹東市から韓国のソウルまでの鉄道の利用を日本人民間人に認めなかった。

極悪非道なスターリンのソ連軍は、日本人民間人の保護は徹頭徹尾行わなかった。
逆に日本人民間人に対してほしいままに
強姦(レイプ)、殺戮、奴隷狩り、暴行、略奪を行った。

この極悪非道なスターリンのソ連軍の【人道に反する】行為が、
戦闘中及び戦闘終結後の満州・北朝鮮において、
1945年〜1946年に、生活手段・生活環境を失った
日本人民間人が25万人以上死亡した原因である。

特に開拓団の母子老人家庭避難民は地獄さながらの状況に置かれ悲惨であった。
冬期間は飢餓、伝染病、栄養失調、極寒、絶望感で死者の出ない日はなかった。

開拓団の母子家庭の多くの乳幼児が満州あるいは避難先の北朝鮮に遺棄された。
かれらは遺棄孤児(=残留孤児)として二重三重の苛酷な運命を背負わされ、
苦難の道を歩まなければならなかった。

筆者は、満州・北朝鮮において日本人民間人が蒙ったこの惨禍を
スターリンの惨禍と名付けて、中学・高校の歴史教科書に記載して
後世に伝えることが、亡くなられた犠牲者の方々の慰霊であると思う。

ソ連軍が38度線を越える列車の運転を止めたため、日本人避難民は徒歩で38度線を
越えて、地獄の北朝鮮から、南朝鮮の米軍占領地域に逃げ込んだ。


瀋陽−丹東(旧称:安東)−ピョンヤン(旧称:平壌)−ソウル(旧称:京城)間の
敗戦直後(1945年8月)の鉄道路線図


北朝鮮から南朝鮮への日本人避難民の徒歩避難ルート

参考資料:藤原てい著 『流れる星は生きている中央公論社 1984年8月発行
第6頁 避難経路図

第210頁〜第231頁より抜粋引用
川を渡る苦しみ
大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。
私の裸足の足は昨日から腫れ上っている。
足の裏が破れて血が出ていることは知っていたが、
ずきんずきんする痛みをこらえて一晩寝て起きると、
今日は化膿したのかもしれない、
奥の方がうずくように痛むのだった。

石ころ道をあえぎあえぎ登りつめた峠から見下ろす眼下には、
幾条かの銀色に輝く川の流れが進路を直角にさえぎっていた。
一家四人の前には広い川が行手をさえぎっていた。

先に行く人の渡るのをじっと見ていると、
一番深い処が私の胸ぐらいであった。
中心近くは水の流れが激しくて、
渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。

(3人の子供を1人も失うことなく)私はついに河を乗りきった。
途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中にいつまでも溜まっていた。

川で濡れても陽で乾くのは早い。
乾いた頃にはまた次の川が前に横たわっていた。
幾つ川を越えたか覚えていない。
大きい河、小さい川、深い川、浅い川。

初めは人の跡を見て渡ったが、みんなから遅れると、
渡る前にまず流れの早さと深さを測らねばならなかった。
やっとしっかりした棒を探し出すと、これだけが命と頼んで川に挑戦した。

日が西に傾くと、水面からの反射のために、
川の真ん中で、くらくらっとして安定を失いかけたことが何度もあった。

最後の川にはずっと下流に橋がかかっていた。
私はこの水勢では流されると思ったから、
随分下流まで河岸を歩いて行った。
半分腐りかけた橋であった。

いっそのこと、橋が落ちて四人が一緒に死ねるなら
その方が私たちにとって幸福かもしれない。

ぐらぐら揺れる橋を渡ると、荒れはてた畑が野原のように淋しく、
人家らしいものは全然なかった。
ただ橋の付近にむかし人家のあったしるしのいしずえだけがころていた。

日本人の群に合流すると私は土手の上につんのめってしまった。
呼吸をするのさえ困難である。頭がしびれるように痛くて、
意識がぽうっとした。私が貧血を起して倒れていても、
誰も言葉をかけてくれるものはなかった。

胸が針に刺されたように痛いので、眼を開けると、
私の破れはてたうす緑のブラウスを通して野薔薇が乳の下を傷つけていた。

アメリカ軍に救助される
眼を覚ました。
テントからは朝日が洩れていた。
人間らしい姿になろうとして立ち上ると、
釘を踏んだように足の裏が痛かった。

D・D・Tの消毒、予防注射、
これらに立ち会うため歩く痛さは針の上を歩くようであった。

このテント村にはすばらしく完備した医療施設があった。

医療施設で、医師は私の足の裏を見て、「ううん」とうなった。
「これはひどい、よく歩いたものですね」

医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている
石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、
金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。

だんだん奥の方にピンセットが入っていくとね
焼火箸で刺されるように痛かった。
ベッドにしがみついて我慢していたが、
ついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。

私の足の裏は完全に掘り返され、
血液にどす黒く光っている発掘物が、金属容器の底にかたまっていた。

両方の足首を包帯してから
「ひどい足でしたね」と医師は汗をふいていた。
「当分歩いちゃいけませんよ」

診療所と私のテントとは100メートルも離れていた。
この道を這って毎日通うのであった。

そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。
診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、おむつの洗濯にも
這って行かねばならなかった。

関連資料:藤原てい著 『絆(きずな)』 読売新聞社 1993年10月発行

参考資料:
読売新聞
(夕刊)2006年11月24日第22面より転載
この記事は読売新聞社の許諾を得て転載しています。
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11.日本陸軍の日本人棄民方針
−−関東軍は高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた!


出典:『週刊朝日百科113 日本の歴史 現代B 占領と講和』第79頁

参考資料:関東軍文書
斎藤六郎著『シベリアの挽歌』
終戦資料館出版部 1995年5月発行


本書の第363頁〜第380頁に記載されている、
大本営陸軍部の高級参謀、朝枝繁春陸軍中佐の
『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』は

「既定方針通り、
大陸方面においては、在留邦人及び
武装解除後の軍人は
ソ連の庇護下に満鮮に土着せしめて
生活を営む如くソ連側に依頼するを可とす」、
「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」
と述べている。

「既定方針通り」「満鮮に土着せしめて」

「日本国籍を離るるも支障なきものとす」
という明確な
旧日本帝国陸軍の【棄民方針】に驚かざるを得ない。

まともな対策は何一つ考えなかったが、
大本営も関東軍(満州にいた日本軍)
ソ連の侵攻を予測していた
のである。

大本営と関東軍は、満州の農村部に住んでいた
【開拓団の日本人母子老人家庭は見棄てる】
と決めていた。

原文より6頁(表紙、第1頁、第14頁〜第17頁)抜粋



12.麻山事件

日本人開拓団母子老人家庭避難民約720人が、ソ連軍戦車隊と武装中国人暴徒集団に
前後をはさまれて襲撃され、
逃げ場を失って全員、集団自決(=集団自殺)した。


中国東北部(満州)ハルビン、牡丹江、麻山、鶏西一帯


麻山付近地図:資料:中村雪子著『麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す

13.廣田内閣の満州移民推進政策
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。


1937年、廣田内閣は旧日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。
2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。
しかし旧日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。

100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。

日本の満州移民政策により、旧日本帝国陸軍(関東軍)に
200万ヘクタール以上の農地を強奪された中国農民は
雇用労働者として低賃金で酷使された。

山林、未耕地を含めると旧日本帝国陸軍(関東軍)が開拓用地として
強奪(収容)した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

かなりの数の中国農民が【匪賊】となって関東軍に執拗に反抗した。

関東軍
(満州に駐留していた日本軍)は、
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を
見棄て、見殺しにした


日本敗戦と同時に、これら【匪賊】は、報復のため、一斉に
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。


開拓団の成年男子(18歳〜45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本軍(関東軍)の【根こそぎ動員】で徴兵され、その後、
極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。
徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。

敗戦時、日本軍(関東軍)は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。

【根こそぎ動員】で夫や息子を徴兵されて頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児については、
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。
ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかったのである。


日本軍(関東軍)に見棄てられ、見殺しにされた多数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児が、ソ連軍戦車の銃撃と
中国人の銃、鍬、こん棒などによる襲撃で殺害された。
逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。

逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、
【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)
絶望(自殺)等でほとんどが死亡した。

生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。

この日本軍(関東軍)の最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見殺しの罪】を見逃すことはできない。

哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。

14.極悪非道なソ連の独裁者、スターリン

1953年3月5日、極悪非道なソ連の独裁者、スターリンが死亡した。
スターリンの最も忠実な部下で、ソ連秘密警察の元締めであったベリヤは、
スターリンの死で権力基盤を失い、1953年12月23日、【国家反逆罪】で銃殺された。

スターリンとベリヤは【大粛清】とよばるれ反対派の徹底的殺害を行った。
やり方は、日本人に対する【戦犯裁判】と全く同じで、反革命罪、国家転覆罪、
国家反逆罪との罪名で、【エセ裁判】を行い、片っ端から一方的に
死刑宣告を行い、判決、即執行で、容赦なくぶっ殺していった。



以上


関連サイト:
シベリア奴隷労働被害 くやしい。悲しい。むなしい。情けない。

韓国従軍慰安婦問題−日本の誠実な謝罪と膨大な賠償金支払いの事実を
                韓国国民に知らせよ