ソ連の日本人捕虜虐待A   2012年3月
                   
 Minade Mamoru Nowar

日ソ戦争
(ソ連の対日参戦)ソ連の「正義の戦い」ではない!

ソ連の帝国主義侵略戦争だ!

第024回国会における証言A【エセ裁判】について瀬島龍三氏の証言、及び
栄養衛生面の虐待実態、軍医小日向和夫氏の証言
 

ロシア国民にソ連の日本人捕虜の奴隷労働被害を認識させることが肝心だ!
ソ連は対日宣戦布告文の中で「ポツダム宣言に参加して日本に宣戦布告する」としている。

ソ連が日本人捕虜にシベリア等において奴隷労働を強制したことは、
明白なポツダム宣言第9項違反であり、人道に反する行為であったことを、
あらゆる機会を捉えて、ロシアと国際社会に訴え、
ロシア政府に国としての公式謝罪を求めなくてはならない。

それ以前に、日本政府は、シベリア奴隷労働被害者に国としての公式謝罪を
行わなければならない。

日本政府は、毎年、1月の厳寒期に、被害者が亡くなったシベリアの地において、
国の公式行事としてシベリア奴隷労働被害者の慰霊祭を行わなければならない。

昭和31年(1956年)8月29日開催の
海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会第18号で
中曽根康弘元首相のブレーンとして著名な
瀬島龍三氏
は、
ソ連が【戦犯裁判】と称して行った【エセ裁判】が、
いかにデタラメ極まるものであったかについて証言した。


一例として「ある上等兵は、ハルピン特務機関で当番兵をしていたとの理由で、
私と同じ日に、同じ軍法会議において、25年の刑を受けた」と証言している。

軍医であった小日向和夫氏は、
医者として、栄養衛生面の捕虜虐待について具体的に数字をあげて詳しく証言した。

○臼井委員長代理 
これより会議を開きます。
本日は、委員長にやむを得ない差しつかえがございまして、御出席ができませんので、
私が委員長の職務を行います。
これより海外同胞引揚に関する件について調査を進めますが、本日は、特に本件に関し、
去る十九日、ソ連地区より舞鶴に引き揚げて参りました引揚者の方々より、
抑留同胞の実情を聴取いたしたいと思いますので、引き揚げてこられた
坂間訓一君、瀬島龍三君、小日向和夫君、木村忠男君に御出席を願っておきましたが、
参考人として事情を聴取するに御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

○臼井委員長代理 
御異議なきものと認め、さように決します。

○臼井委員長代理 
なお、参考人より事情を聴取する前に、先般、
ソ連地区抑留同胞の引き揚げ状況及び受け入れ援護状況調査のため
舞鶴に派遣いたしました委員より、その調査報告を求めることにいたします。
眞鍋儀十君。

○眞鍋委員 
今回行われました第八回ソ連抑留同胞の引き揚げ状況及び受け入れ状況の
実地調査に関する御報告をいたします。

本調査団は、去る八月十七日東京を出、受田新吉委員と私とで、
ほかに事務当局より高原参事が同行いたしたのでありますが、
十八日の予定であった引揚船興安丸の入港が、
あいにくの台風で一日おくれの十九日となり、
同早朝、桟橋に引揚者の出迎えを行い、
次いで興安丸に玉有船長をたずね、その労をねぎらい、
乗船者代表から現地出航までの状況を聴取、
終って、放送室から引揚者全部へのあいさつと、
あとで親しく各休憩室を回って、慰問いたしました。

午後、引揚者の代表との懇談会に臨み、さらに折柄の、
面会のため中共に出発する人々や里帰りの人々をも見舞い、
同地の国立舞鶴病院に引き揚げ関係者の入院患者を慰問して 
二十日帰京いたしました。

まず、調査事項の大要を申し上げますと、
このたびの引き揚げの特色とも申すべき、
今までに見られなかったソ連側の態度、
引揚同胞の色分け、
さらに現地の実情、
ことにいわゆるハバロフスク事件の発生とその結果、
及び残留同胞の状況等についてであります。

今次の引き揚げに当って、
ソ連側の示した態度は、
玉有船長を初め水野日赤代表、佐谷舞鶴市長、河野外務省通訳等の
現地まで出迎えに行った代表諸君の報告を総合いたしますと、
いずれも、従来と異なり、
きわめて親切で、
乗船に際しても、快く日本側の要求をいれて便宜を計らい、
すこぶる協調的な態度が見られたということであります。

これがため、十五日午後八時過ぎにナホトカ港に入港した興安丸が、
直ちに向うの代表者のサーブチェンコ極東支部長との交渉に入って
その結果、
同日の夜の十二時三十分から夜明けの三時三十分までに乗船を完了
することができたくらいでありました。
そのほか、写真の撮影、報道班の取材活動、
各自の所持品等も自由に許されたのみでなく、
極東支部長が公式にバスを貸与して、市内を案内させたり、
一方、市民もまたがって見られなかったはどの打ちとけた態度を示した
と言っております。

なお、サーブチェンコ支部長の言によれば、今後の引き揚げも、
日ソ交渉こは関係なく、継統して、順調に行われるであろうと述べており、
直接市民こ交歓した河野外務事務官も、
一般生活水準の低い人たちも、
だれもが日ソ交渉には深い関心を寄せており、好意的であったと
申しております。

こうしたことが、今次の引き揚げに当っての目立つ特色の一つだと言えます。

次に、今次引揚者の色分けについては、非常に複雑でありまして、
七十八名までが刑期満了前に異例の釈放を受りた人たちで、
うち、元軍人八十名、民間人二十九名、抑留漁夫六名の、計百十五名であります。

陸軍の坂間訓一、海軍の黒木剛一同元少将を初め、
遠藤三郎、菊池永雄、小林与喜三の三元陸軍大佐、
ハバロフスク事件の黒幕と伝えられた瀬島龍三元関東軍参謀中佐等の佐官級軍人や、
旧関東軍情報部、関東軍特殊情報部、機動第一旅団等の将校も四十数名に及び、
一方には、ハバロフスク日本人収容所の日本新聞の編集責任者で、
抑留者間に、シベリア天皇で通った問題の浅原正基君や、志田行雄君など、
いわゆる党史研究グループの左翼二十七名が同船し、
これで民主グループと称せられる人々は、全員釈放、帰還されたことになります。

結局、速報名簿から、すでに一昨年に刑があけた山田健一君、中江宏君、
森忠男君の五名がふん、武笠利一君は出航前の脳溢血で、
吉田明男君は残留希望で減りまして、差引百十五名となったわけであります。

このうち、入院を要するものは二十名、担送三名、護送五名、独歩十四仁
となっており、病名は、大体、高血圧、心臓、胃腸、結核患者等であります。

このたびは遺骨は一体もなく、遺品は十一でありました。
ここで懸念されておりましたことは、
これまでも、共産系の民主グループといわれた二十七名の左翼分子と、
ハバロフスク事件を起した右翼分子との対立が深刻であったため、
あやまって、船中で紛糾を生ずるようなことが起りはしないか
という点でありましたが幸いハバロフスク出発の際、
相互に代表者を出して、話し合いをした結果、
なるべく今後の引き揚げに支障を来たすようなことをしない申し合せができ、
船長も、船室の配置に、両者の間に中間派を置くという心づかいなどで、
いずれも無事に、秩序ある上陸を完了するを得たことは、
何よりの仕合せでありました。

例のハバロフスク事件の真相に関しては、本調査団は、参議院調査団とともに、
帰国者代表との懇談会において、黒木、坂間の両少将、
及び医師である小日向和夫君の三名から、詳細に聴取いたしたのでありますが、
本件は何ら計画的に企てられたものではなく、
たまたま大堀という人の傷害事件に端を発して、
偶発的に起ったことで、
収容者の医療設備、過重労働等に対する人間としての必然の要求から出たもので、
それまでにも幾度かこの問題については要求し続けてきたが、
一向にいれられる模様も見えず、
この上は、いかにして自分らの要求をソ連政府に伝達するかにかかっていた。

全く収容者たちは、極度のなま野菜の不足や、からだに似合わない重労働のため、
目に見えるように高血圧の患者が多くなり、
また長年、厳寒の地に抑留されていたため、精神的疲労が著しく、
こうした病人の就労には非常な無理が伴い、
しかもノルマに対する賃金は、一カ月働いても、日本円にして五十円そこそこで、
これでは砂糖、バターにして各二百匁くらいに当るに過ぎず、
全く自己の生命を守ろうとすること自体が、収容者のストライキという形をとって
現われたともいうべきであります。

そこで、この一斉労働拒否の結果はどうであったかというと、
遂に、モスクワからバシコフソ連内務次官の派遣となり、
同次官は収容者の一人一人の言い分を聞き取ったが、
やがては、その要求の大部分がいれられて改善されるようになり、
実際には、慰問物資の取扱い等も良好になってきたし、
賃金そのものは上らなかったが、
しかし屋外作業は六百名から二百名へと激減さるるに至りました。

こうしたことがきっかけとなって、
収容者の間には、著しく日本人としての民族意識が高揚して参り、
またソ連としても、日本人収容者に対する見方が、
今までよりはずっと違ってきたといわれております。

ただこの事件直後、収容者一同がひとしく心配しておりましたことは、
本件の日本側責任者に対するソ連側の処罰問題で、
絶対にやらないようにと要求しておりましたが、
間もなく責任者の隔離措置がとられ、
お互いかばい合っていても、
いろいろな事情からついに氏名がわかって、
四十七名が犠牲者として隔離されることになってしまったのであります。

今回は、この隔離された者の中から、わずか二名だけが帰国を許されましたが、
なお四十五名はいまだに隔離されたままになっておるということであります。

これらの隔離者に対しましては、これまでも、
このたびの帰国された人たちの間から、
毎月その給料を少しずつ出し合って届けたり、
自分の品物を送ったりして慰めてきたという
涙ぐましい同胞愛が示されていただけに、
引揚者はひとしおの心残りがしているようで、
引き続いて帰国できるようにと、
わがこと以上に願っているようでございます。

聞けば、現在もハバロフスク地区にはまだ九百八十六名が残留しており、
その約半数は、高齢者及び病人であり、
そのうちどうしても早急帰国を必要とする者が八十数名もいるとのことで、
ビタミンやカルシウムの不足が原因で、高血圧患者や歯の抜ける人や、
精神病に陥る人が多い現状にかんがみ、
とりあえずビタミン剤や栄養豊富な食物を送って、
一刻でも早く帰国療養のできるように取り計らってほしいと、
口をすっぱくして申し出ておるありさまであります。

これを要しまするに、今回の帰国者は、このたび無事帰国して、
故山の土を踏めるようになったことは、
ひとえに国会を初め、全国民の皆様の限りない努力の結晶でもあるとして、
深い感謝が寄せられてはおりましたが、
見受けたところ、長い不自由な抑留生活で、
大部分が健康をそこない、
精神も消耗されており、
心身回復のためには、
特にあたたかい受け入れ態勢を整えて援護してやる必要を
痛感させられて参りました。

それとともに、帰国の人たちが、出発に際して、
残留の人たちに別れのあいさつをいたしましたとき、
ひとしく、われわれは国策を犠牲にしてまで帰国を急がなくともいいと
申して、かたい決意を披瀝してはおりますが、
日本国民としてこうした悲壮の決意には、
頭の下る思いがさせられたけれども、
事実はこれからの酷寒に向って
ひときは苦しい収容生活を続けていかなければならない
その人たちの身にもなり、
または留守家族の心中を察しては、
引き揚げの促進援護は、
一日もゆるがせにすることを許されない焦眉の問題として、
党派を超越して取り上ぐべきことでありまして
政府もすみやかに、日ソ交渉とは別個に、
一段の努力をもって、応急善処せらるべきであることを要請し、
なお報告の不十分の点については、
受田委員よりも補足してもらうことといたしまして、
以上をもって、本調査の報告を終りたいと存じます。

○臼井委員長代理 
それでは、これよりソ連地区抑留同胞の引揚げ問題について
参考人より事情を承わることといたします。

まず、委員長より参考人に対し、一言お礼を申し上げます。
参考人各位には、帰国早々、御多忙中のところ、
御出席を煩わしまして委員長として厚くお礼申し上げます。

本委員会は、いまだ海外に残留されている同胞の引き揚げ問題の
早急な解決のため調査をいたしておりますので、
本日も皆さんより事情をお聞きいたし、
調査の参考にいたしたいと存じますので、
抑留同胞の実情等忌憚なくお話し下さいますようお願いいたします。

では、初めに坂間参考人より、総括的に、
抑留同胞の実情及び引き揚げについての事情を伺うことといたしますが、
他の参考人の方々には、それぞれの立場より、あまり重複しないよう、
抑留地における実情及びまだ残っておられる同胞の状況等を
お話し願いたいと思います。坂間訓一君。

○坂間参考人 
御報告申し上げます前に、
一言お礼を申し上げることをお許し願いとうございます。
衆議院、
特にこの引揚委員会から特別のわれわれに対します御配慮をいただきまして、
まことにありがとうございます。

昨年は訪ソ議員団の一部がわざわざ御視察下さいますし、
また先般は、衆議院からたくさんバターをいただきました。
さらに舞鶴にお出迎えをいただきまして、これまた非常に感激しております。
お礼を申し上げます。

それでは、これから御報告申し上げます。
私は、終戦の八月にソ連側に抑留されまして、
爾後、中央アジアのタシケント南方に送られまして、
そこでいろいろ取調べ等を受けて翌年の冬までおりました。

それからモスクワに参りまして、
モスクワで、主として外国人、独墺その他あらゆる国人のラーゲルにおりました。

二十四年にハバロフスクに帰りまして、
ハバロフスクで、同年、刊を受けました。
刑期は二十五年であります。

参考資料:朝日新聞1951年(昭和26年)7月26日『引揚白書』より抜粋転載

この文書は当時の吉田茂外相(後に首相)が国連総会議長宛に提出した
最高レベルの外交文書である。

いわゆる五十八条の第六項の情報勤務に従事したというのであります。
受刑後は、ハバロフスクに二十七年まで、一般の収容所におりまして、
二十七年にモスクワ郊外のイワノボの将官ラーゲルに参りました。

そこに約二年おりまして、二十九年再びハバロフスクに帰りまして、
ただいままで、一般の収容所におったのであります。

今度の私どもの釈放されました手続と申しますか、
これは、七月十二日付の最高会議の決定により爾余の刑期を免除す、
こういうのであります。

これは、従来帰還いたしました者は、刑期が満了するか、
あるいは服務成績良好につき爾余の刑期を免除する、
あるいは犯罪当時が未成年者であったというために罰を免除されるとか、
あるいは病気のために、いわゆる保釈をされた、
こういう最高会議の、
日本で申しますれば勅令というようなものでやられたものでありますが、
私ども今回七十九名が釈放されましたごとくに、
最高会議の決定により
爾余の刑期を免除すというのは、初めてのようであります。

この点は、研究を要するものと思うのであります。

なお、この刑の免除という問題でありますが、
昨年あたりから、ソ連の一般囚人に対しましては、
刑が三分の二終った者に対しては、
その成績を考慮して免除するという法令が出ております。

しかるに、これは日本人には適用しないということになっておった
のでありますが、先般のいわゆるハバロフスク事件後におきましては、
これも日本人に適用するということになりました。

しかし、私どもの梯団には、この適用者は入っておりません。
おそらくこの次には入ってくるのではないかと思っております。

さらに、これは従来ソ連の囚人には適用しておったのでありますが、
作業成績すなわち労働成績のいい者、
たとえば、ノルマの一二一%以上行なった者は一日を三日に換算する、
一〇〇%以上は一日を二日に換算する、
こういうような制度、これをザチョットと申しておりますが、
こういう制度があったのであります。

これも、従来、日本人には適用されなかったのであります。
これがハバロフスク事件後におきましては適用されまして
今回帰りました者には、この適用を受けておる者があります。

ただ一言お断わりしておきますが、
日本人には適用されなかったと申しましても、
少しこれは説明を要するのでございますが、
ハバロフスクの日本人収容所におる者には通用されなかった、
ただし、
日本人にしてソ連人と一緒に収容所におった者は従来も
適用されておったのであります。

その点が非常に複雑だ、こういうような関係であります。

さらに、これは事実かどうかということは確実には申し上げられませんが、
われわれを送ってくれましたソ側の収容所長の話によりますと、
われわれが出発しました直後、
直ちに十数名の刑期を免除された者を集合せしめる、
引き続き裁判その他を行なってこれを集合せしめて、
帰還の準備をするのだ、こう言っておりました。

それからさらに、先ほどお話がありましたごとくに、
極東の赤十字の支部長は、
引き続き引き揚げは行うということを言っておったのであります。

とにかく私どもは、
日本人を抑留しておくのは人質だというふうに考えまして、
これらに関しましては、請願その他において、
まずその不法と申しますか、
というのをモスクワの当局に請願をしたのでありますが、
これに関しましては、
ソ連側も、よほどこの非難には頭を痛めておるようであります。

現にわれわれが釈放になりますことに関して、
プラウダ、イズヴェスチアは、
この釈放は日ソ交渉に関係なく行なっておるものである。
日本の諸新聞が人質にとっておるというがごときは、
この例を見ても誤まりだというような釈明をいたしておる次第であります。

その次には、ハバロフスクにおりますごく概況を申し上げますと、
さっきの御報告がありましたごとくに、
ハバロフスクにおります日本人は、総員九百八十六名であります。

このうち、約半数は病弱者、高齢者でありまして、
そのうちのさらに約百名ぐらいは、いわゆる病人であります。

と申しましても寝ておるというほどの病人ではありませんが、
例をとりますと、血圧二百以上ぐらいの者でありまして、
さらに生命が時日の問題であるというふうになっております重症者が、
五名おります。

それで、少くともこの約百名と五名は、
早急に何とか引き取るところの処置を講じていただきたいと
私どもは念願をいたしておる次第であります。

ハバロフスク事件後におきまして
収容者の待遇は若干改善されたことは事実であります。

しかしこれは改善するのが当然でございまして、
それであっても、
それなら人並みの待遇をしておるかと申しますと、
決してそうではございません。

改善された一例を申し上げれば、
今までなかった病院を新たに開設する、
病人は作業に出さない、
疲労した者は休養せしめるような設備を設ける。

この設備は当然法的に設くべきものであります。
しかるに今まで設けなかったのであります。
そういうようなものを設けるというようなことでありまして
これはほんの最小限以下の設備であります。

決して、これで満足すべき状態に立ち返ったということは
申されないのであります。

約半数の病弱者、高齢者があると申し上げましたが、
それならあとの半数は健康者かと申しますと、
決してそうではありません。

いずれも何かの痼疾を持っております。
現在屋外の作業に出ております者は二百二、三十名でありますが、
これはあそこで申しますれば、
最も健康者と目されておる者ですけれども、
これでさえも、決して日本でいう健康者というようなわけには
参らぬのであります。

しかも、これから厳冬季に向って参りますが、
冬越しということは、非常に重大な問題であります。

一冬越すごとに、非常に健康をそこなう者が多く、
死亡者がたくさん出ます。

ことに、これからもう九月になりますと、だいぶ寒くなりますが、
この気候になって冬越しということになりますと、
もう一度、向うにおる者はぞっとするのであります。

こういうような状況でございますから、ぜひ一つ冬越しをさせずに、
何とかお引き取りの手段をお願いしたいと私どもはお願いする次第であります。

それとともに、今のような健康の状態、
しかも労働能力も低下して参りますので、
労働によって金を得るということが、
だんだんむずかしくなって参ります。

そうしますと、どうしても今まで労働によって得た金によって
買っておったバターとか砂糖とかいうような、
ほんとうに栄養の足しになるものは、
皆様からいただく小包によるほかないと思うのであります。

この点もあとで詳しく御報告申し上げますが、
お含みを願いたいと思うのであります。

その次は、日本の政治的内情が、
われわれ抑留者の生活に直ちに響いてくるという点を申し上げたいと思います。

その大きな例を申しますと、昭和二十九年に、将官ラーゲルのイワノボから、
私とそのほか六名急に集合を命ぜられまして、
お前たちは近く爾余の刑期を免除される、
それで内地に帰るためにハバロフスクに向って出発せしめると
所長が公然と私どもに申し渡したのであります。

なるほど書類こそはくれませんが、申し渡された。
それで、私どもは帰れるものと思ってハバロフスクに参りましたが、
ハバロフスクにそのままストップを食いまして、
約二年、先日までおったわけであります。

かくのごとくにしてハバロフスクに集合いたしました者は、
各方面から非常にたくさんあります。

なおハバロフスクにおります者に対しましても、
帰国の準備と思われるようないろいろな身上調査その他がありまして、
確かに帰還準備だと疑われる情報が非常に多かったのであります。

しかるに、それが全部ストップした、何によるか、
これは、私どもはああいうワク内におりまして、
ロシヤの新聞ラジオ以外に情報の入る道はないのでありますし、
そういう判断でありますから、当るか当らないかはわかりませんが、
そのときに、吉田内閣と鳩山内閣の更迭があったのであります。

すなわち鳩山内閣が日ソ交渉を宣言せられまして、
この日ソ交渉が近く始まるということになったものだから、
とめたんじゃないかとまあ私どもは判断をいたしました。

それからなお、国内のいろいろな意見が違っておる。
特に、やはり日ソ交渉等に関する意見が違っておるということは、
ソ連人には非常に奇異に感じられるようであります。

と申しますのは、あの国ではもう国論と申しますか、
とにかく政府の意見に反対する者は、
表向きは一人もないのであります。

それでありますから、
公然と新聞等において政府の施政を攻撃するというようなことは、
ロシヤ人一般には考えられないことであります。
しかるに、ほかの自由諸国においては、
そういう点は全く自由であります。

それをソ連人は非常に奇異に感じ、
かつ、それによってあたかも日本の国論が統一していないかのごとくに、
われわれに対し、一つの侮べつ感を持つような感じがいたします。

それからなお、
日本の国力の伸張がひしひしとわれわれの待遇その他にも響いてくると
いうことを私は痛感いたしました。

抑留あるいはあの刑を受けました二十四年、二十五年ごろの
われわれに対する過酷な待遇から、
日本の国力の発展するに従いまして、
漸次われわれに対する待遇が緩和をされて参りました。

現に例のハバロフスク事件を
二十四年、五年ごろに行いましたらどうであったか、
たちまちにして、戦車でひき殺されたと思うのであります。

これは単に国力の伸張のみではありますまい。
国際情勢の客観情勢が違ってきたということはありますけれども、
確かに日本国の国力の伸張ということが、
大きに力があったというふうに私どもは感じております。

とにかく、日本の政情、国力というものが、
抑留者にまで響くということを申し上げたいのであります。

その次には、お願いでありますが、
抑留者の先輩、同僚あるいは部下等にして、
非常にたくさんの行方不明の人があるのであります。

これに対しましては、
みんな非常に大きな関心を持っております。
自分は抑留されておるが、もう日本にも氏名はわかっておる。

ところが、この行方不明の人たちは、それがわかっていない。
どうなったかわからない、まことにお気の毒だ。
それで向うにおりましても、
何とかしてこの人たちの情報を得たいと考えまして、
各種の手段を尽して、いろいろ調べておりますが、
これはあの限られたワク間でありますから、限度があります。

国家としても、
その御調査には、ぜひ力を入れていただきたいと思うのであります。

その次はシベリアには、御承知のごとくに、
たくさんの骨が埋められて、その墓地が至る所にございます。

この墓地は、実際日本人がいなくなりましたならば、
どんなになるかということは、想像にかたくないのでございます。

私ども今度ハバロフスクを出発して参りますときも、
墓地の掃除をし、墓標の倒れたのはこれを直したりして、
そうして、さらにあとで代表者が参りまして、
花も捧げて参りましたが、しかし現にハバロフスクにおきましても、
数カ所の墓地がありますが、かくのごとくに許されたのは、
わずかに一カ所であります。

これらのことを考えますと、やはりこの墓地の問題も、
考慮していただかなければならぬ問題だと思うのであります。

それから、抑留者が非常に心をいためております問題は、
やはり何といいましても、留守の家族の問題であります。
それも丈夫でやっておるうちはよろしゅうございますが、
これが病気になったり何かする。

留守家族は悪いことはなるべく知らせて参りませんが、
それでもやはり病気だというようなことを聞きますと、
これは非常に心が苦しくなります。

特に心配をしておりますのは、子弟の教育であります。
よく、お父さんがいないので、学校をやめると本人が言ってくる。

あるいは、お母さんがそういうことを言ってくる。
実際これはそばにおってその手紙をもらった人に、
まことに涙なきを得ないのであります。

最後にお願いを私からいたしたいのは、
満州国の官吏が現在なお百二十名ほど残っております。
元のわれわれ軍人あるいは日本の官吏と申しますものは、
御配慮によりまして、恩給をいただいて何とか暮しております。
ところが同じ職務で向うに抑留されております満州国の官吏には、
それがないように承わっております。
この点、向うの人は非常に心配をしております。
この点につきましても、一つ御配慮をお願いしたい。
私から申し上げることは、以上であります。

○臼井委員長代理 
次に、小日向参考人より事情を聴取いたします。小日向和夫君。

○小日向参考人 
私は、元軍医でありました小日向和夫であります。
入ソ後の経歴を御参考までに若干申し述べますと、
満州国の通化の陸軍病院におりまして終戦になり、
吉林に集結を命ぜられまして、
ここから部隊をもって入ソいたしました。

そしてアルタイ州のバルナウルという町の捕虜収容所に入っていたのであります。
一九四八年の六月に、帰還の目的で、ナホトカの港まで参りました。

そこで医者の不足からしてしばらく手伝ってくれといわれまして、
約一年間、ナホトカで診療に従事しておりました。

ところが、四十九年の五月になりまして、私が俘虜収容所時代に、
自分が最後の脈を取った将兵の死亡者名簿、
内地へ帰りましたら、
その死亡の状況を御家族の方にも報告しなければならないと思いまして
携行しておったところの死亡者名簿、
これを携行していることがソ連の方に知れまして、
それは諜報であるということで、
告発されて、ウラジオの監獄で、二十五年の強制労働という刑を受けまして、
それからタイセット地区のバム鉄道の建設にやられました。

一九五〇年になりまして、
その地区からも日本人の受刑者がハバロフスクに集結させられまして、
五十年の八月にハバロフスクに参りまして、
それ以来帰還まで、ハバロフスクにおったわけでございます。

向うの状況を御報告するに当りまして、
私は医者でありまして若干期間診療にも従事しておりましたので、
おもに現在残っている抑留者の体力、健康状態
及び一般的なあちらにおける衛生状況というものについて、
御報告を申し上げようと思います。

一九五〇年に日本人がハバロフスク地区に集結させられまして、
受刑日本人収容所というものが編成されたのでありますが、
その当時からいわゆるハバロフスク事件まで、
日本人の体力がどういうふうになってきたのか、
ハバロフスク事件につきましては、
瀬島さんから御報告があると思いますが、
そのおもなる原因は、
日本人の体力が非常に低下してきた、
このままいったのでは犠牲者がふえるばかりである、
われわれも人間である以上、
われわれの生命を守るということは基本人権だ、
その擁護のためにあのような事件が起ったのであります。

その根本になる日本人の体力は、
一九五〇年から事件の起った一九五五年までに、
どういう経過をたどって低下をしてきたかということを、
若干統計をとって参りましたので、
御報告申し上げようと思います。

日本人の体力の低下と申しますと、
生活条件が非常に悪かった、
食物に関する状況あるいは労働の状況、
住居とかその他の一般生活環境の問題、
あるいは収容所の管理者側のわれわれ日本人に対する取扱いに関する問題と、
いろいろあるわけであります。

まず全般的に年令はどうなっているかと申しますと、
現在の平均年令は四二・五才になっております。
当時平均をとりましたのは七百七十九名、
ハバロフスク事件に最初に参加しましたところの者について調べてあります。

体重から申し上げますと、
体重は一九五〇年の平均が五九・七キロありましたのが、
年々大体七百グラムずつ減じて、
一九五五年の末には五六・三キロに減っております。

食生活について若干申し上げますと、
ノルマと申しますと基準量でありますが、
これは一九四六年の終りか七年の初めに、
日本人の俘虜に対して適用された基準量が、
一九五五年になりましても全然同じであります。

こまかいことを申し上げますと、
現在は米が三百グラム、
雑穀、これは燕麦、大麦、小麦のひき割りとかそういう雑穀でありますが、
これが百五十グラム、
肉が三十グラム、
魚が百五十グラム、
野菜が八百グラム、
油が七グラム、
砂糖が十八グラム、
塩が十グラム、
タバコが一日に五グラム、
こういう割合であります。

パンが一日に三百五十グラム、
これのカロリーを計算いたしますと、
熱量は大体二千七百から二千九百カロリーあります。

しかしながら、肉は骨がついておりますし、
魚は腐れかかって食べられないこともある、
あるいは骨も全部一緒である。
野菜も食べられないとこうがある。
また雑穀の中の燕麦とか大麦等は、
実際日本人の嗜好に全然合わない、

腹が減って食べようと思っても、
どうしても食べられないという実情で、
実際にほとんどが残飯となるという状況であります。

これが現在の状況であります。
実際のカロリーは、大体二千五百カロリー以下という状況になっております。

住居の状況を申し上げますと、
大体三メートルの塀がありまして、
鉄条網が上に全部回っている。
その内外に約五メートルの禁止区域がある。
そうしてまた鉄条網が内外にあるという状況であります。

内部は、ハバロフスクの二十一分所、
昔言いました二十一分所が、
今は一分所になっておりますが、
そこは二階の煉瓦建ての建物が二棟、
それから木造のバラック建てが二棟、
住居はそういう状況であります。

そこに約千名おりました。

その一人当りどのくらいの気容を持っているかということを
調査したのでありますが、
一人占有の気容は、三・八から五・二立方メートル、
平均大体四・二立方メートルになっております。

これは衛生的なあれから見まして、非常に少い状況であります。
これが非常に血圧患者が多いとか、
そういうような状況に響いて参ります。

ほとんど半年は冬季間でありますので、密閉されています。
その密閉されている中に多数雑居しているということを、
この気容の問題は示すものであります。

それから、収容所内の衛生施設を見てみますと、
便所あるいは浴場あるいは洗面所の設備状況、
これも衛生学的な見地からしまして、数が不足である。

たとえば、便所の穴の数とか、
洗面所の水の出るプラグの数とか、
そういうものを見ますと、非常に不足している。

あるいは理髪所、
それから洗濯場等々を見ましても、
非常に団体生活には不便であるという状況であります。

それから部屋の室温、これの統計をとってみたのですが、
これは収容所の中の状況は、
蚕のたなみたいになっておりまして、
こういう寝台――板を敷いた台がずっと二段に並んで、
部屋を全部回っているという状況であります。

上に寝る者と下に寝る者とは、
非常に温度の差がはなはだしいのでありますが、
多数雑居しておりますので、
上に寝ている者は非常に蒸し暑い、
ところが下段に寝ている者は非常に寒いという状況で、
しばしば寒い暑いというけんかが起るようなことがございました。

換気の設備は全然ありません。
冬期間は、二時間に一回ドアを明けて、
換気をするという状況であります。

次に、作業の状況を申し上げますと、
おもに建築に付随した作業であります。

各専門家――専門家と申しましても、
もともとの職業ではありません。
十一年の間に習い覚えた職業でありますが、
大工さんから左官、あるいは鉄筋、あるいはベトン打ち、
そういうようなあらゆる仕事を全部専門を持っております。

建築については非常に経験も深いし、
向うも非常に便利がっているわけであります。

まず基礎工事、穴を堀らなければならない、
あるいは石を積む、れんがを積む、あるいは左官をやる、

非常な重労働であります。

大体重労働に要するカロリーとしましては、
三千カロリー以上どうしてもなければなりません。
それが、実カロリーが二千五百程度でありますので、
どうしてもそこに何かからか補充をしなければならない
という状況が起っているわけであります。

ちょっと話がそれましたが、
そのような作業に今までどれくらい出ていたかと申しますと、
一九五〇年から、一番多く作業に出ましたのが、
全員の八二%であります。

それが逐次体力の消耗あるいは病人になりまして、
下って参りまして現在では、
作業出場人員は、
大体六六%から七八%くらいまでの間を上下しております。

それから、作業の休み、
病気その他で作業を休む人員も年々にふえて参りました。
どうしても休ませなければならぬ病人が多くなったということであります。

と同時に、いわゆる向うでインワリードと称します、
これは不具癈疾と申しますか、あるいはけがで、
あるいは血圧が異常に高くて、
就業させられないという者が非常に増加してきた。

しかし作業中は、全作業人員の一・五%以下というような
ノルマが向うにはあるのであります。

一ぺんに患者がたくさん出ても、
作業人員の一・五%以上休ますということは、
ソ連側の医者の成績が悪いということになるわけであります。

その非常にパーセントの多い作業出場に対して、
どのような休養の方法がとられておるかといいますと、
カー・オーという制度があったのであります。

これは作業人員、作業隊員の中から、作業。
パーセントのいい者をある期間休ませる、
何と申しますか、賞与的な休養です。
これが大体一年に一日くらいな割であったのでありますが、
ハバロフスク事件の前後、これも中絶いたしておりました。

それと作業日以外、
日曜に臨時作業というものが非常に多くありました。

これは急に石炭の貨車が入ったからおろしに行け、
あるいは石が入ったからおろせというような、
時間外の作業が非常に多い。

自然休養が不足になるという状況であります。

患者の状況を申し上げますと、
ハバフスク事件の前におきましては、
大体高血圧の患者が二百名、二五・六%程度、
その高血圧のうち、最高血圧が二百以上というものが
七十数名あります。

それから、最高血圧百五十五から百七十五までというのが三十名、
その他が百七十五以上という状況で、
二百以上血圧があるにもかかわらず作業をやらされていたという者が、
三十五名あったのであります。

これは一九五〇年には、大体血圧の患者は一五%程度でありました。
それがこれくらいにふえてきたわけであります。

これは、高血圧が非常に多いという原因でありますが、
これはじん臓病とかあるいは動脈硬化
あるいは心臓病あるいは血液の疾患という
原因のわかっているものはきわめて少いのであります、
年が三十そこそこにもかかわらず、
常に血圧が二百もあるというような特異な現象が起っております。

これはビタミンの非常に少い食べものをずっと食べている、
あるいは労働と休養の関係がバランスがとれない、
あるいはいつ帰るかわからぬという精神的な不安と申しますか、
そういう精神的な影響、
あるいは住居が非常に非健康的であるというような状況、
そういういろいろな状況が重なりまして、
いわゆる植物神経のバランスがとれなくなって
そして常に血圧が高い状況にあるというような
特異な現象が起きているのであろうと思われます。

ここで植物神経の問題が出て参りますが、
この植物神経の不調による病気と思われるのが、
その他非常に多いのであります。

たとえば、原因不明の微熱、
これは昨年の六月から十二月ごろにかけて非常に多くありまして、
当時四十四名ありました。

前後を調べてみますと、大体六十五名程度であります。

これも原因が全く不明でありまして、
たとえば結核とかその他微熱の出る病気、
これは大体指定できるのであります。

これもおそらくは植物神経の関係であろうと思われます。

それと同時に、今度は胃腸に関する植物神経の障害が起って参りまして、
胃酸が欠乏する、低酸性の胃炎が起る、
あるいは逆に胃酸過多が起るというような現状であります。

またきわめておもしろい
――と申しますとこれは語弊がありますが、
特異な病気がありまして、
これは手足の血管運動神経と申しますか、
やはりそれの不調により起るものと思われます。

これは夏でもちょっと冷たい水に手を入れると、
まつ白になったまま血が通わなくなる、

あるいは足にしても、
ちょっと寒いところに出るとまつ白になって、
全然血が通ってこないという病気であります。
今この患者が大体十五名おります。

ソ連側でも、これを神経切除、あるいは手術的な治療、
あるいは薬物的な治療をやっておりますが、
あまり効果は現われておりません。

次に心臓病が相当ありまして、
これもやはり生活環境が悪いというところから
心臓病が多いのでありますが、現在約二十名。

それから神経痛の患者、
これはもう寒いところで重労働をやるという関係上、きわめて多い。

おそらく三百名くらいはある。
この神経痛は、御存じのように、
すぐ目には現われない病気でありまして、
痛いといっても、
外から見てもわからないという状況でありますので、
これは向うの医者もあまり相手にしませんし、
ほんとうに困った病気であります。

次に歯科の患者、歯でありますが、
これはやはりビタミンの欠乏あるいは食物が酸性食である、
なま野菜が非常に少いという関係で、歯が悪くなるものが多い。

平均をとってみますと、入ソしたときにあった歯のうち、
六ないし七本欠けているという状況であります。

次に、一般の医療の設備について申し上げます。
これは事件前まで医務室というのがありまして、
これが大体ベッド数が隔離病室も全部まぜまして
約五十、医者が三名、看護婦が二名、
あとは日本人の看護兵を用いまして医療に当っている。

日本の医者も二、三名おります。
設備といたしましては、レントゲン器械もあるのでありますが、
当時一基破損しておりまして、あと一基は性能不良で、
明瞭な写真がとれないというようなものであります。

これはドイツの器械を持ってきておりました。
物理療法、これも設備はあるのでありますが、
赤外線、それから人工太陽灯、
それからジアテルミー――これは電気透熱療法といいます、
そういうものがありますが、
性能はおおむね不良でありまして、
しばらくたつと、すぐこわれるという状況で、
休んでいることが多いようであります。

病理試験室、これも準備されております。
これは一週間に三回ぐらい検査官が来て検査をする。
それから備付の顕微鏡が非常に悪くて、
よく見えないというようなものであります。

歯科の技工――入れ歯を作る、
これも日本人で特殊技能を持っている方がおられて、
もな非常便利なんですが、とにかく材料が不足である、

また歯をなおす方が非常に多いので手不足であるという状況で、
完全に悪い歯は全部入れられるという設備にまではなっておりません。

当時ソ連側の医師の能力は非常に欠けているという医者がおりまして、
――これももうすぐ首になったのですが、
当時は非常に困りました。

ために誤診とか病名を決定するのがおくれたために
手おくれになつて、もうどうにもならなかったという患者の例は、
枚挙にいとまないのであります。

犠牲者が非常に出ております。

そのような状況で、
日本人の体力というものが非常に低下いたして参りまして
あまつさえ作業出場を強制された。

前回の報告でお聞きのことかと思いますが、
事件の起る前に、
からだが悪くて収容所内で軽作業をやっておった者の中から、
向うの政治部員あるいは労働係将校というものが立ち会って、
前後二回にわたって約百名、表の就労を強制されたというために、
今度の事件の口火がついたわけでありますが、
そのように、逐次日本人の体力というものが低下して参ったのであります。

しからば、現在、事件後、私たちが帰ってくるときの状況はどうであるか。

これは作業面から申し上げますと、非常に状況はよくなって参りました。

事件前は、大体六百名戸外の作業に出されておりました。
現在は、戸外の作業に出ていますのが、全部で二百十名という数字が
出ております。

これはやはり二十一分所以外に、
三分所という離れた日本人の収容所がありました。
それも全部まぜて、現在二百十名という数字になっております。

それから毎月身体検査がありまして、お前は作業に行け、
これは作業適だ、お前は営内の軽作業をやれ、
お前は休んでおれという身体検査があるわけであります。

その状況を見ますと、事件前はその作業適――作業適といわれますと、
必ず戸外の作業に出なければなりませんが、
それが事件前七八%であったのが、
事件後は四二%に減っております。

それから今度はオー・ぺーという制度ができました。
これは以前にあったカー・オーという制度と大体同じものでありまして、
作業に行っている者の中から、ある期間休養させるという制度でありまして、
事件後各分所にその制度ができまして、
大体二十名から二十五名というものが、
半月ないし一カ月褒奨休暇といいますか、
そういうものをもらって休んでいるという状況でございます。

それで一般の体力から見ましても、
この冬作業をやらなかったということから、
体力がそのまま保たれたために、割に元気でおります。

それから食べものの方はどうかと申しますと、
ノルマは依然として同じであります。
しかしながら質が若干よくなった、

たとえば今までヤギの塩づけの肉をくれておった、
それがなまの豚肉をくれるようになった、
そういうような状況であります。

特に国民の皆様の御厚情によりまして送っていただく慰問品、
これが非常に大きな役割をしておりまして
ノルマの給与以外のカロリーというものは、
これで補充がつくという状況であります。

また事件後、日本人の精神的な方面から申しまして、
日本人として非常に団結してきた、
あるいは日本人としての自覚がしっかりしたということが、
高血圧に対して精神的に非常な好影響を及ぼしております。

急には下っておりませんが、
少しずつ下降の一途をたどりつつあるという状況であります。

それからまた、収容所で、事件後、
ビタミンを各人に毎日くれるようになりました。
これも相当な影響があったことと思います。

医務関係におきましては、
これは非常に大きな問題だったのでありますが、
日本人だけを収容するところの中央病院というものが設置されました。

これは各専門の医者がそこにおりまして、
からだの悪い者をどんどん入れて、
諸検査を行い、諸処置を施して交代させるというふうな病院ができました。
それに現在約五十名入っております。

それから薬物についてはどうかと申しますと、
以前は高貴薬と申しますか、ペニシリンやストマイ、
こういうものは非常に少かった、
今はこれをじゃんじゃん使っているという状況であります。

医師の程度はどうかと申しますと、
非常に能力不十分あるいは医者的な良心のなかった者はすぐ更迭になりまして、
現在はやや良好なる医者となっております。

また日本人の医師の権限、
これは以前は全く看護婦みたいな役しかやっていなかったのですが、
現在は患者を診断し、自分が処方せんを書き、
あるいは必要な者には休ませることができるというところまで参っております。

また患者を休ます場合にも、
大体患者の作業給のノルマの一・五彩というものがなくなったらしく、
悪い着は何人でも休ますということになつております。

それで、先ほども御報告がありましたが、
現在高血圧者はどれくらいいるかと申しますと、
大体一五〇以上の高血圧患者が二百から二百五十内外おります。

これは、三分所全部一緒にした統計であります。

微熱患者は現在まだ四十四人おります。

神経痛の患者が、暖かい時期でありますので、
減りまして、百五十名、
心臓病が二十名、
血管運動神経障害が十五名、
胃腸疾患が二十名、
こういうような状況であります。

くどくどと申し上げましたが、
要するに、日本人の健康状態というものは、
ハバロフスク事件後やや医療的な保障がされまして、
以前に比してよくなりつつありますが、
なおなお医療の施設あるいは給与の点、
そういうものにおきまして不十分であります。

当然、時間の経過とともになお体力が消耗し、
あるいは犠牲者が出るという状況になっております。

特に冬季厳寒におきましては、
カロリーの摂取が十分でないとどんどんエネルギーを消耗いたしますし、
これは寒いということばかりでなく、
寒い中にたくさん着物を着て作業をやる
というところにエネルギーの消耗があるのであります。

そういうことを考えますと、
皆さんの御努力によりまして、
この冬は彼らを越させずに何とかして引き取りたい、
これを切にお願いいたします。

特に現在は金というものが入りません。
作業人員が少いのに遊んで――遊んでというと語弊がありますが、
病人が非常に多いという状況でありますので、
金がどうしても潤わないという状況であります。

慰問品、特にバター類、砂糖、
これはぜひ慰問品として送っていただきたいとお願いいたします。

また薬物類、注射薬とか、
そういうものは向うで受け付けないようでありますので、
ビタミン類、特にBとC、
それからいわゆる血圧降下剤と申しますか、
この程度ならば向うで渡しておりますので、
これも送っていただければ幸甚だと存じます。

以上をもちまして、ハバロフスクの日本人の健康状態、
あるいは一般的な衛生状況の御報告を終りたいと思います。

○臼井委員長代理 
次に、瀬島参考人より伺うことといたします。瀬島龍三君。

○瀬島参考人 
私は終戦の年の七月に関東軍司令部へ参りまして、
九月の初旬に武装解除を受けて入ソいたしました。

自後、いろいろの調査を受け、
四七年から五五年のハバロフスク事件が発生するまでの間、
労働に服しておりました。

服しておりました労働は、おもに土工作業と左官とれんが積みの作業であります。
刑は四九年に受けました。

五八の四項という資本主義援助の刑であります。
御報告いたします最初に、
ハバロフスク事件というものについてはすでに御承知でありますが、
きわめて要点を御説明申し上げたいと思います。

第一は、ハバロフスク事件は、どうして、なぜ起きたかという問題。

この問題を御説明しますためには、遠因として、
どうしても受刑に関する問題を御説明しなければなりません。
どのような内容において、
どのような方法でハバロフスクにおりまする同胞が刑を受けたかという問題が、
この事件の遠因の主体をなします。

現在ハバロフスクにおります約千名の大部分が、
刑を受けましたのは四九年、五〇年初期であります。

その刑の内容は、大部分の者が、
われわれ日本人の常識をもってしては考えられない刑の内容であります。

もちろんこの中には、ソ連軍が満州を占領して、
その軍政下における犯罪によって刑を受けたもの、
あるいは北洋漁業において密航等によって刑を受けた人、
そういう人はありますが、
大部分は普通のわれわれの常識をもっては理解し得ない刑の内容であります。

一つの例を申し上げますれば、

私と同じ日に同じ軍法会議において刑を受けたある上等兵がおりました。
この兵は、ハルピン特務機関の受付の当番兵であります。
その上等兵は、
そのハルピン特務機関に勤務したという理由によりまして、
私と同じ日に同じ軍法会議において、
二十五年の刑を受けたのであります。

こういう例は枚挙にいとまがないほどたくさんあるのであります。
また受刑に関する手続、裁判の方法、これにおきましても、
われわれの常識をもっては理解し得ないのがたくさんあったのであります。

一例を申し上げますれば、裁判を開くことなく、
モスクワからの書類をもって、判決を下されました。
上告は許されない。
弁護人は許されない。

チタにおきますところのいわゆるチタ事件というのがありまして、
これによって受刑をされて、
現在ハバロフスクに残っておる者が数十名おります。
この人たちの受刑の経緯は、
モスクワからの書類裁判をもって
頭から二十五年の刑を受けたのであります。

今申しました刑の内容、刑の手続、こういうものにおきまして、
私は全部とは申しませんが、
大部分、普通の常識をもっては理解し得ない内容と要領によって、
受刑されたのであります。

このような状態において受刑されました日本人が、
五〇年初頭、ハバロフスク第二十一分所に集まって参りました。
いろいろ複雑な感情を持って集まって参りましたが、
しかし当時の日本人は、すでに入ソ後約五年間の体験を持っております。
従って、
この感情を爆発させて日々の生活をやっていくことは決して得策ではない、
また当時朝鮮事変が起きておりまして
極東の情勢も決していい情勢ではありません。

従いまして、集結当時の日本人は、
いつかは必ず帰れる日がくると思うから、
それまでの間はがまんをしてお互いに仲よく、
弱い者は強い者が助け、若い人は年寄りを助けて、
お互いに仲よく時のくるまで待とうという気持を持って
五〇年初期における受刑者の収容所生活が発足いたしました。

このようにしまして爾後年月を経過しました。

この間における第一の問題は、健康の逐次不良化、
それに反しまして労働が強化される、
ここに大きなギャップができて参りました。
そのこまかい事情は、先ほど小日向君から御説明した通りであります。
またそのほかのいろいろの取扱いにおきまして、
時がたつに従って、緩和されずに、逆に強化されてきました。

このような状態における一つの現われとしまして、
御承知の通り、昨年夏、大堀事件というものが起きたのであります。

これはこの長い経過の間における今申しました
その一つの爆発として起きた事件であります。

かくて昨年の十二月、
ハバロフスクはいよいよ零下三十度ないし零下四十度の
厳冬季に入る時期に当りまして、
先ほどお話しがありました通り、
からだが弱いので収容所の中に置いてあったところの
老人並びに病弱者を、
約三回にわたりまして八十名くらいの人間を野外の労働に出すように
命令がありました。

ここで日本人は十九日の朝一たん門の前に並んだのでありますが、
期せずして、この状態を改善しなければ、
この冬、からだは持たないという気持が
自然に起きまして
どうしてもこの問題は、
従来受刑者に許されておりますところの書類をもってする請願は、
今まで数年間にわたりまして、
たびたびやっておりますけれども、
果してそれがモスクワに届いておるのかどうか、
それもわからない。だから、この際作業を拒否することによって、
モスクワからしかるべき権限を持った人に来てもらって、
この事態を解決してもらおうというので、
すわったのであります。

決してソ連政府を相手どって、
あるいはソ連国家を相手どって、
たてつくとか、闘争するとかいう目的のものではありません。

今申し上げましたような事態を、
許されておる書類請願をもってしては、
どうしても解決つかないし、
いよいよ厳冬期に入りますので、
モスクワから人に来ていただいて、
これを解決してもらおうというので、
十九日の朝、だれが組織するわけでもなく、
みな期せずして作業に出ないということになったのであります。

この事件の動機につきまして、
一部にいろいろ誤解をされているような感じも、
日本に帰りまして受けたのでありますが、
当時ハバロフスクにおりましてこの事件の中におりまして、
きわめて簡単でありますが、
正しく申し上げますれば、
以上がこの事件に至りました経緯であります。

第二の問題は、
どのようにしてハバロフスク事件は解決されたかということであります。

三月十一日未明に、ソ連邦政府内務次官バシコフ中将が、
完全に武装された兵力三千をもって、急襲いたしました。

この武装兵力の急襲を受けましたときの日本人の態度は、
次のような態度でありました。元来、このハバロフスク事件は、
自分のからだを守るために、
取扱い管理の改善をしてもらうために行われたものであります。

従いましてこの事件の数カ月の経過間、
日本人は絶対にこの事件のために傷つく者あるいは命を落す者、
そういう者は出してはならない、
もしそういう者を出したならば、
この事件の根本の目的に反するのみならず、
将来日本に帰りました場合、
政府や国民や御家族の方に申しわけが立ちません。
そういう気持をもって、
この事件の経過間みなおったのであります。
もう一つは、
急襲して参りますとともに、
内務次官は、
スピーカーを通じまして 
一応秩序ある生活に入れ、
秩序ある生活に入ったならば、
自分は全日本人と直接懇談をするということを約束いたしました。

従いまして、今申しました二つの理由から、
これも、
全員が、期せずして内務次官の要求する態勢に移ったのであります。

もちろんこの間一部におきまして、
ソ連の兵隊と日本人との間に格闘が行われたり、若干はありました。

しかし全般的には、
今申し上げましたような気持で内務次官の要求する態勢に戻りました。

そうして翌日から、
内務次官は各ラーゲル、分所を回りまして、
全日本人と会談をいたしました。

このときに内務次官が申しましたきわめて要点を申し上げます。
その第一は、
ハバロフスクにおける日本人に対する保健関係の管理取扱いについて
不十分な点が多かったことは認める、
よってソ連政府は次のような処置をする、
すなわち、それは先ほど来御説明のありました中央病院を開設する、
体力の衰弱者に対して休息の制度を設ける、
あるいは医療の程度の低い医者を取りかえる、
そういうようないろいろの点を約束をいたしました。

第二は、
老齢、衰弱者はなるべく早く祖国日本に帰すように
ソ連政府は努力をする、

第三は、
日本人の刑の内容においていろいろ不備な点がある、
これに対してはソ連政府は刑を再審理する用意を持っておる。
従って、そういう者はソ連政府に対して書類を書け、
その次は、このほかいろいろこまかい問題がございますが、
手紙の渡し方とか小包の渡し方とか、
そういうふうな問題において
日本人の感情を刺激しないようないろいろ処置をする、
またこの事件に関しては、責任者を裁判に有ることはしない。

以上が全日本人と内務次官と直接会いまして 
問答の応酬間にありました総括的な結論であります 

この内務次官の言明がありましたので、
ハバロフスクの日本人は、三月の下旬ころから、
ソ連側から示されております規律と命令に基きまして、
服従ある秩序ある態勢に入りました。

そうしまして現在に至っておるのであります。

現在の状態におきましては、
保健管理の面あるいは一般の取扱い管理の面その他につきましては、
すでに御報告がありました通りでありまして、
ハバロフスク事件以前に比べまして、
いろいろ改善が行われましたことは事実であります。

ただソ連側の日本人を管理しておりましたところの
管理局長の大佐、
あるいは日本人に対する監視勤務をやっておりました、
いわゆる昔のゲー・ぺー・ウーであります将校とか、
こういうようなハバロフスク事件以前におりました主要なる職員は、
ハバロフスク事件以後全部更迭されました。

その反面、
やはりソ連政府としての立場もおそらくあったろうと想像するのでありますが、
ソ連側から見て、
事件の責任者とみなされる表面に立っておりましたところの代表とか、
組長、こういう人たちがハバロフスク監獄に収容されました。

この監獄に収容されました問題につきまして、
われわれ日本人は、どうしても収容所に戻してくれということを
たびたび請願いたしました。

それに対しましては、ソ連側の回答は、
決して悪い取扱いはしてない、心配をするな、
帰国する問題には、監獄にいっておる人たちは何ら影響ないから
というふうな回答でありました。

いつもそのような回答でありました。

日本人のみなは、
この監獄の人たちに対しまして持っておりますお金で
いろいろの品物を買ったりいたしまして、
また日本からいただきますところのバターだとか、
こういうようなものも、許される範囲内で、
差し入れを絶えずいたして参りました。

監獄内における取扱いは、
幸いにも今回この梯団に監獄から二名加わりまして帰国いたしました

その話によりますれば、
監獄内における一般のロシヤ人囚人よりも若干変った取扱いは
されておりまして決して心配する状況ではございません。

日本から参ります本人あての小包や手紙等も、
普通通り支給されております。
あるいは散歩の時間にいたしましても、
私どもが監獄におりましたときは、
一日に散歩が十五分でありましたが、
現在入っております人たちには、
一時間の散歩を許されております。

特にハバロフスクにおります同胞は、
帰国の問題と監獄におる人たちとの関係について、
非常に心配いたしておったのでありますが、
今回二名監獄から帰国梯団に加わりましたことで、非常に安心いたしました。

以上がハバロフスク事件に関しまして、申し上げたいと思いました点であります。
 
次に、先ほどからいろいろお話をされましたが、
特にお願いしておきたいことを、結論的に四項目申し上げたいと思います。

第一は、
この冬を越させないように、何とか引き取る方法を講じていただきたい。
なかんずく、
年寄りと病人は、ぜがひでもこの冬を越させないようにしていただきたいと思います。

またこれに関連いたしまして、行方不明者の問題、死亡者の問題、基地の問題、
これらもぜひ今後国会並びに政府におきまして御配慮になっていただきたいと思います。

第二の問題は、
慰問品の問題であります。私どもは、一昨年まで、留守宅以外の小包を
ほとんどもらっておりません。しかし留守宅から毎月々々小包が来るような人は、
ハバロフスクにはほとんどおりません。

そのような楽な家庭のものはいないのであります。
中には、いまだかって留守宅から小包を送ってもらったことのない人が
たくさんおります。ところが、昨年から、国会並びに政府の御配慮によりまして、
厚生省から毎月小包をいただきました。同時に、各府県、日赤その他の
社会団体方面からも、昨年からたくさん小包をいただくようになりました。

このことは、この小包が来ましたときの当時のハバロフスクにおける感じを
申し上げますと、品物をいただいたというそのこと自体よりも、
日本の国家、日本の政府が自分たちを忘れてくれていないのだという
この気持が、非常にわれわれを感激させたのであります。

あのような環境におきまして、
重労働に服して、真冬に苦しい仕事をしていきますとき、
何かそこに祖国と心のつながりを持っておらなければ、
生きていくことはむずかしくなります。

幸い御配慮によりまして、
昨年から厚生省その他あらゆる機関から小包をいただきまして、
これは品物それ自体よりも、
精神的に非常に鼓舞激励を受けたのであります。
この慰問品の問題につきまして、
やや立ち入って申し上げましてはなはだ恐縮でありますが、
率直に私どもの希望を申し述べさしていただきますならば、
現在の環境で、お金がほとんど
――重労働に服しておる者は非常に少くありますから、
お金が手に入りません、おいおい寒くなります。
こういう条件のもとにおいては、
少くとも月に厚生省程度の小包が三個ないと、
やっていけないのであります。
そこで、毎月確実に、ただいておりますのは、
政府からいただいております小包、慰問品は、毎月一個これは確実に参ります。
そのほかの各府県、社会団体、留守宅、これらを合せまして、
毎月一個程度になります。
そこではなはだ恐縮でありますが、私は政府関係から、
できましたならば毎月二個送っていただきたい。
そうして各府県なり社会団体なり留守宅、これらを合せて
大体平均毎月一個になりますが、これと合せて毎月三個になるように
お願いしたいのであります。

第三にお願いいたしたいことは、
ハバロフスクに十一年おりまして非常にうれしかったことは、
五二年に参議院議員の高良とみ女史がお訪ね下さいました。

また昨年訪ソ議員団の一部の方が訪ねて下さいました。
日本人に来ていただきましたのは、この二回だけであります。

私どもは新聞で見ておりますと、
モスクワにはたくさんの日本の人が行っておられます。

どうか訪ソされます方は、何とかしてハバロフスクを見てやっていただきたい。
このようなことを申しましてなんでありますが、
イワノボの収容所の条件とハバロフスクの収容所の条件は、
これは根本的に収容所の条件が違うのであります。

でありますから、訪ソされます方は、ハバロフスクを見ていただきたい。
のみならず、政府におかれまして、ソ連政府との間に協定をしていただいて、
政府の方なり、国会の方なり、あるいは日本赤十字社の方が、
年に二回か三回か、定期的に何か在ソ回胞収容所と視察し得るような
とりきめをぜひとっていただきたいと思います。

このことは、在ソ同胞に対して非常な激励になりますとともに、
またそれによって、現地官憲の日本人に対する取扱いが、
それがあった場合においは、決して悪くないのであります。
その辺の御考慮をお願いしたいと思います。

第四にお願いしたいことは、
現在ハバロフスクに残っております約千名の大部分は、
かっての下士官や兵であります。
この人たちは、非常にまじめに現在やっております。
そうして、特に事件後におきましては、
同胞お互いにより一そう相助け合って、
時の来るのを静かに見ております。

ただこの人たちが、口には出しませんが、
腹の中で、最も帰国後の問題として心配しております問題は、
就職の問題であります。
私どもは今回ナホトカで乗船いたしまして東京に参りますまで、
国会や政府を初め、日本国家のいろんな諸機関から、
ほんとに予想以上の手厚い歓迎のお取扱いを受けました。
こういう状況も、ハバロフスクの人たちが知りましたならば、
ほんとに喜ぶと思います。
これはさっそく舞鶴でこの状況は手紙を書きまして、
現地に送ってやりました。

でありますが、今後帰って参ります同胞に対しまして
帰国後の問題としてぜひお願いいたしたいと思いますのは、
この人たちが帰りまして、生活に窮しないように、
できましたならば、優先的に就職の問題をぜひ御配慮お願いしたいと思います。

これは、ハバロフスクにおりまして、
口に出してそういうことは申しませんけれども、
非常に心の中でみな不安を持っておる問題であります。

以上、私は主として四つの事項につきまして、
以上のことが実現できまするようにお願いしたいのであります。
私の報告はこれで終ります。

○臼井委員長代理 
最後に、木村忠男参考人にお願いいたします。木村忠男君。

○木村参考人 
木村忠男であります。私は、牡丹江東満総省警務庁に勤務しておりました。
二十年八月九日、ソ連の空襲によって書類焼却、
省公署と警務庁は防空壕に避難し、
八月二十六日、新京において、省公署、警務庁は解散したのであります。

北満地区、ハルピン、牡丹江の避難民の多くは、
生活困難のため死者続出、
日本人居留民会の救済も手ぬるいために、
当時八路軍に対抗しつつあった中央軍が近く入京するという状況を聞きましたので、
それに応援しまして、それがために、五十八条の八で八年の刑を受けました。

六月十九日チタ、イルクーツクを経由しまして 
エニセイ河ロドージンガより北、
クラスノヤルスクより約二十キロのナリンスクに参りました。

そこに日本人が二十九名、白系が二名、支那人が二名、朝鮮人が二名、
これが一つのグループになりまして、労働に服することになったのであります。

ナリンスクの収容所は、
収容人員が大きいので、七千、
小さいので五千、四千名という程度の収容所であります。

食物としては、米はいただけません。
パンその他雑穀、魚、砂糖。

それで昭和二十一年は労働賃をいただいたのでありますが、
少いので、穴掘り、くい立て、
そういう場合にはおなかがすきましたので、
その辺の草をたいて食べたということもあります。

被服等は、夏物は五月、冬物は十月に交換していただいておりました。
衣料の方は、寒いために、よく設備してありました。

ふろ、散髪等は一週間に一回。

娯楽として映画は一週間に一回やっております。

労働賃金は、労働高によって各人が相違しております。
その場合は、一番最低の給与で金を配給していただきます。

なお、収容所におきまして、
毎週一回、指紋と持ち物の検査があります。

というのは、小刀、書いたもの、そういったものが押収されるのであります。

七年間ナリンスクで働きまして、
クラスノヤルスク近くのタイセットに移動させられまして、そこで満期しました。

満期したのは二十九年一月二十七日。

それでクラスノヤルスクの中継所に送られまして、
そこより五十八条関係のウクライナ人が二十二名、女四名、子供二名、
この子供は収容所でできた子供であります。

二十九名はクラスノヤルスクより百五十二キロの
エニセイ道路の近くへ移動させられまして警察の方より、
その到着した土地より四キロ周囲、
それを出た場合は五年の刑に処すると言い渡されまして、
仕事に従事したのであります。

二十九名のうち家屋を建築し得る者を除いて、
ほかは松やにの採取準備作業に従事したのであります。

松やには、六月より十月まで大体採取可能であります。
三十年の十月、浴場、ふろ場であります。
それに自分が指名されまして、ふろ場をやりました。

それは金曜日、土曜日の二回で、水、まき、掃除が自分の仕事です。

その地方に出ていった場所は、
大体戸数が五戸それを開拓と申しましょうか、
そういうような家を建てて、
新たに松やにの採取、その方をやらされたのであります。

現在では七十戸、個人で建てたのが十五戸になっております。

ロシヤ人と一緒に仕事しまして差別の待遇はありません。

日本人でも支那人でも朝鮮人でも、全部同じ待遇であります。

地方に出ての生活費、これは自分のした労働高によって十分でありました。

自分のおった近くに八キロ、十一キロ、四十キロ、
そこに、八キロには岐阜県の清水君、
十一キロには北海道の水上君、
四十キロには広島の福井君、三人がおります。

三人とも家の文通はしておりますが、
まだ警察の方より帰国の命令がありませんので、
そこにとどまっております。

自分の帰ってきたときのあれは、私は警察の方に願書を出しまして、
年は五十歳である、家に家族がおるし、とても労働できないし、
ロシヤ語はわからぬから、何とかして内地に帰してもらいたい、
なおモスクワの方へ出す願書のあて名、
できましたらそれを知らしていただきたい、
それを七月の十五日にクラスノヤルスクの所長に出したのであります。

ところが八月の五日に所長より呼び出しを受けまして、
日本に帰りたいか帰りたくないか、
私はぜひ帰りたい、
では帰れということで、
すぐ準備をしまして
ハバロフスクの方々と一緒に内地に帰ってきたのであります。

向うの所長が清水君に話されたことは、調査後、
ことしの秋または来年の春帰れるだろう。

あなたの方からも、
日本の外務大臣あて願書を出しておくとよろしい
ということを言われたそうであります。

清水君もすぐ願書を出してあるはずだと思います。
三人おりますが、私が一番おそくそこに配置された。
三人は一年前、二年前と配置されておりまして
私は一番おそく行って、一番先に帰ってきた次第でございます。
簡単ですが、これで……。

○臼井委員長代理 
ただいま参考人各位から事情を承わりましたが、
これより、本問題に関する質疑を許します。
質疑は通告順にいたしますが、
その前に、先般の引き揚げに出迎えられた受田新吉君がお見えでありますので、
先ほど眞鍋君からの御報告の補充があるそうでありますから、
これを許します 受田新吉君。

○受田委員 
この間の舞鶴入港のソ連地区帰国の皆様をお迎えした委員会の代表として、
眞鍋儀十委員の御説明で一応尽きておるのでありますが、
私は、特に引き揚げのあの埠頭における印象的な面を取り上げて、
補足説明したい点があるのであります。

私は何回か舞鶴へ出迎えに行きまして引き揚げてこられる方々の
御苦労を謝してきたのでありますが、
今回は特にソ連地区の集団引揚が最後であろうという、
われわれにとってはきわめて重大な問題であるだけに、
帰られた方々のお気持やあるいは残された問題を
どう処理するかを検討したいと期待しておったのであります。

先ほどの眞鍋儀十委員からの御説明で、
その全貌が明らかにされておるのであり、
またきょう四名の方から御説明をお聞きして
さらに一そうそれが裏づけされたのであります。

実はあの舞鶴の埠頭におきまして
今回も七、八名のまだ帰ってこられない方の御家族がお出迎えに行っておられた。

自分の夫や父が帰るということがわかっていない、
しかし、今度帰られる人から、
何かヒントを得て自分の夫や父の消息がわかりはしないかと、
淡い期待を持ってお出迎えに行っておられる
岸壁の妻、岸壁の母というような人々のお姿が、
今回も七、八名見られたということです。

昭和二十二年以来、
長らくあの波止場でお出迎えになっておられた
長谷川順子さん、林勝子さんは、
先般の引き揚げで、その待ちわびた夫をついにお出迎えすることができ、
その喜びを実現されたのでありますが、
同じ待ちわびる気持をもって、
まだ解決されない、消息のはっきりしない人を
依然として波止場に迎えておられる方々が、
なおあとを絶っていないという現実は、
きわめて重大だと思うのであります。

私は、その意味において、
今日四名の方が御報告された現地の実情と、
ことに残された方々のお気持を察するときて、
次のようなことを報告につけ加えたいと思うのです。

それは、帰られた方々の御意見、
今日の、四名の方の御説明等を総合してみたときに、
日ソ交渉の進捗に絶対に支障のないように、
外交的な関係の調整において、
われわれは犠牲にでもなるからという残留者の声がある、
こういうことはきわめて重大なことでありますが、
われわれ国民としては、
そのお気持は十分察することができるけれども、
これを軽くお引受けしてはならないのだ、
この方々のお気持はお気持として、
私たちは委員会を中心にして、
何とかこの冬を絶対に越させないで、
祖国に帰っていただく態勢を早急に固めなければならぬ。

日ソ交渉が停頓しておっても、この引き揚げ問題は、
絶対に早急解決の歩をゆるめてはならぬという強い決意をもって、
現地の印象をこの委員会に伝えたいと思ったのであります。

ことに病人を舞鶴病院におたずねしたのでありますが、
二十名の入院患者を見たときに、
なお老人や病人がたくさん残っておるという現地の実情を思うときに、
胸の迫る感じがいたしました。

どうか一つ政府並びに国会が、あげてこの問題の処理にきわめて、
早急な対策を立てて冬を絶対に祖国でお迎えいただく
という態勢をしくべきであるということを考えたのであります。

この点を現地の情勢に付加いたしまして御説明をして
報告を終りたいと思います。

○臼井委員長代理 
次に質問を許します。受田新吉君。

○受田委員 
私は一言だけお尋ねして、質問を終りたいのでありますが、
私この間、きよう、せっかく御苦労いただいた坂間さんたちに
一応のお尋ねはしたのでありますが、
きょうの御説明をお聞きして、
どうしてもお聞きしておかなければならない問題点が
ここに一つ、二つあるのです。

それは瀬島さんも小日向さんもお触れになられたことでありますが、
現地の残留者は、何とかしてこの日ソ交渉の解決を急いでもらって、
私たちは犠牲になってもいいという考えを持っておる
ということでありますが、今度お帰りになった皆さんから、
現に領土問題をめぐって、日ソ交渉が停頓した、
この領土問題について残留者はどう考えておるのか、
南樺太、千島についていろいろ議論されているが、
今回要求されている南千島という政府の要求についても、
残された人々はこれをどう考えておるのか、
またお帰りになられる途中で、
監獄の役人とか、あるいはナホトカにおいて、
ソ連の現地人とか一般人とかいう人々は、
日ソ交渉をめぐる領土問題をどういうふうに考えていたであろうか
ということを、
皆さんが直接にお聞きになられた声をもとにして
お伝えを願いたいと思うのです。

○臼井委員長代理 
なお、政府から引揚援護局次長の美山要蔵君、引揚課長の石塚富雄君、
未帰還調査部の山田事務官も見えておりますから、御参考までに申し上げます。

○坂間参考人 
今の領土問題に対する向うの人たちの見解でありますが、
とにかく向うの人たちは、
政府のおやりになることに信頼をして
そうしてわれわれはその御方針に従って犠牲になることも辞さない、
こういう考えであります。

なお第二の問題の、ソ連の人がいかなる考えを持っておるか
という点に関しましては、
とにかくソ連人というものは、
自分の政府のやっておることに対する批評は許されません。

政府を絶対に支持するという見解をとるよりしようがないのであります。
この点、もしも政府のやっておることに対して
意見を差しはさむごときことがあったら、
直ちに刑法上の問題になる。

そういう問題に対しては、
非常に触れることを避けております。

私らが何か申しましても、
答えない。答えるとしましたら、
当然これはロシヤのものであると言うのだろうと思います。

○受田委員 
これは、残された方々が日ソ交渉の進展をこいねがうために、
自分たちは犠牲になってもいいということに関係しますので、
特に私たち関心が深いのでありますが、
これはあまりつつ込んでのお尋ねではないのですけれども、
率直な意味で、
日ソ交渉の解決は、領土問題などはどうでもいい、
とにかく外交交渉上、
何とか早く道が開かれればいいというような気持か、
あるいは領土も十分考えてもらって、
ねちねちと粘ってでも解決をしてもらいたいのだという気持か、
そういうものが残された方々の頭にどうひらめいているかということと、

それからナホトカその他において、
領土問題をなぜこのようにソ連が強く主張するのか、
樺太や千島を領有することをなぜ主張するのかという
ソ連の人の率直な声というようなものも、
何かこれには理由があるのじゃないかと思いますので、
そういう点について
皆さんにソ連の一般人などが伝えた言葉でもあれば、
お聞かせ願いたいと思います。

○小日向参考人 
それに関しまして私が出発しますときに、
第三分所のある人から、
これは名前を申し上げてもいいのですが、
帰ったら、家族にこういうことを言ってくれという言葉を
聞いて参りました。

それをここで発表いたしたいと思います。
彼が申しますには、われわれはもう十一年も待ったんだ。
ここで領土問題において南千島を放棄してまで
われわれを早く引き取ろうとすることは、
われわれの今までのがまん、
忍耐をほごにするようなものである。

われわれでも、もちろん早く帰れれば早く帰った方がいい、
しかしながら、この帰還という問題は、
人道上の問題から出発してやってくれ。

政治的な問題から離れて、
人道からもうこれ以上ソ連にとどめ置かれる理由はない
という問題から出発してやってもらいたい。

領土を捨て、今までの忍耐をほごにしてしまうというのは、
帰っても帰り切れない気持がする、こういうことを言っておりました。


それから、ソ連人のわれわれ帰還問題
及び日ソ交渉に対する態度と申しますか、
これはなかなかはっきりしたことは申しません。

ただ自動車の運転手、これは水を運んでおりますが、
彼は、君たちはどうしても早く帰らなければならぬ、
帰らなければならぬと言うが、帰してくれぬじゃないか。

しかし日ソ交渉がまとまれば、君らはすぐ帰るのだから。
だれに聞いても、大体そのようなことを申します。

交渉さえまとまれば、すぐ帰るのじゃないかということで、
特に批判的な見方というものは
ソ連の人からは聞かれませんでした。以上終ります。

○受田委員 
私たちの願いは、残された皆さんに一刻も早く帰ってもらいたい、
そういうことについては、日ソ交渉に当っても、
まずこの問題を片づけてという強い声さえあるくらいに、
早く取り上げたんです。

それが、残された現地の人が、
今あなたのおっしゃったようなお気持を持っておられるということになれば、
これは逆に、
どうしても私たちの方が率先してこの問題を解決して差し上げるという行動
に出ないとそのお気持におこたえできないと思うのです。

そこで、きょう政府当局も出ておるようでありますから、
あわせ一言お尋ねしたいのでありますが、
残留者の待遇が、
ハバロフスク事件などを起すような事態に立ち至らないようにというので、
昨年でしたか、特にこの委員会の決議をもって、
国連、赤十字、その他の機関を通じて、
ソ連政府、あるいはソ連の赤十字社に
十分申し入れをすることになっていたと思うのですが、
ハバロフスク事件などを起すような結果になったことは、
依然として、まだ待遇の改善されない向きがある。

相当改善されてきておるということが今御報告にありましたけれども、
部分的にその問題の解決されていない点は、
国際的な機関を通じて、赤十字の機関を通じて何か、
相当に手落ちがあったのではなかろうかと思いますけれども、
いかがでしょう。

○竹中説明員 
本日は、局長も課長も差しさわりがありまして参っておりませんので、
私から、わかっている範囲で御説明申し上げます。

御承知の通り、昨年六月からロンドンで日ソ交渉が開かれましたので、
わが方の松本全権とソ連側のマリク全権の間で、
国交調整の問題の一つの、それ以上の問題としまして、
この引き揚げの問題に関しましては、
随時話し合いを行なっておりまして、
待遇問題につきましても、
機会あるごとに述べておるように承わっております。

なお、ことしの二月に入りまして、会談が不幸中絶いたしましたが、
そのあとにおきましては、西駐英大使とマリク駐英大使との間に数回、
このハバロフスク事件に直接関連いたしましても申し入れが行われております。

以上簡単でございますが、御説明申しあげます。

○受田委員 
さきほど瀬島さんですか、四項目にわたる要求をされていた。

私は非常にこれに共鳴したのです。

系統だった御意見に敬服するものでありますし、
私たちの言わんとするところを、かえって逆に言っていただいたように、
責任を感じているのでありますが、
慰問袋の問題について、慰問袋の内容をもっと充実して、
その一個分が二個分にも三個分にもなるように、
中身を御要求の点に沿うように改善することが
いいのではないかとも思うのですが、これはいかがでしょうか。

それから政府の方としては、
今御要求になられた慰問袋の数をふやす努力をする意思があるのかどうか。
また一般国民にも呼びかけて、
広く人道問題として、
関心を寄せる運動を強力に展開する意思をお持ちではないか。
以上三点を、それぞれの立場の方よりお答えを願いたいと思います。

○瀬島参考人 
第一の問題についてお答えいたします。
一番必要でありますのは、砂糖と油であります。
現在厚生省からいただいております小包みの内容は、
大体におきまして非常によく内容品が考慮されてありまして、
品物の種類としましては、大体あれでけっこうだと思います。

従いまして、先ほど申し上げましたのは、
量を二倍にしていただきたいとお願いしたいのでございます。
なお内容品のこまかい問題につきまして若干ありましたので、
これはすでに厚生省の事務当局に御連絡いたしてあります。

○石塚説明員 
内容品の問題につきましては、
いろいろ参考人の方から御希望などもありましたので、
こういった点につきましては、検討しまして、
できるだけその御希望に沿うていきたいと思います。

それから量の問題でありますが、
それは予算の都合等もありますが、
事務当局としては、できるだけその方向に努力していきたいと思っております。

それから、国民運動を起すかどうかという問題でありますが、
これは現在でも都道府県を通じまして、
慈善団体あるいはその他の関係方面に協力方を願っているわけであります。

さらにこういった方面にもう一そう理解を深めていただきまして、
御協力を願うようにしたいと思います。

○受田委員 
今、小日向さんから要求があったことで、
医師が十分治療をしてくれない傾向もあるのだし、
薬品も不足しているということだったのですが、
特に薬品等を、今度帰られた方々の御要望にこたえるように、
注射液を送るとか、
あるいは神経痛に悩む人々に適切な薬品を送るようにしていただくとか、
これもあちらさんとの交渉をやって、
そうした医薬品の送付等を特に慎重に考える必要はないかと思ったのですが、
いかがでしょうか。

○石塚説明員 
ごもっともと存じます。そういうふうに善処いたします。

○受田委員 
最後に私は、今度帰られた方に率直にお尋ねしたいのですけれど、
今、ソ連地区に生死不明者が一万人以上あるように、
日本政府の発表でなっているのです。
これは御承知であったでしょうか、どうでしょうか、
これをお尋ねいたします。

○坂間参考人 
正確な数はわかりませんが、大体そのくらいということは聞いております。

○受田委員 
大体生死のはっきりしていない、
慰問品も送れない家庭では
まだ生きているとも死んでいるともわからないで、
不安定な状態に置かれているような、
そういう人々が一万人以上もいるということに
日本政府の発表ではなっているのです。

この方々に対する解決は、非常に重大な問題だと思うのです。
今度帰られた方々の中にも、
あるいはマリク名簿になかった人が何人かおありでなかったかと
私たち大いに期待をしておったのですけれど、
あの名簿の中に漏れた人が見受けられない。

こういう事情では、生死不明の方々の大半は、
もはやわれわれとしては期待のできない
悲しい状況に置かれているのではないかと、
これまた胸を痛めるんですが、
さように皆様もお考えでございましょうか。

○坂間参考人 
もちろん同様であります。
ことに私どもは現地におりまして、
部下あるいは先輩、
その御本人の中には知っているのがあるのであります。

それから御家庭のこともある程度知っておるような方もありまして、
これはもう向うにおる人はその点を非常に考えて
いろいろなことで努力しております。

たとえて申しますと、ラーゲルに新しく、
日本人はもちろん、朝鮮人、支那人、ロシヤ人等が入って参りますと、
その人がどういう経路を踏んできたかということを
問いただしまして
そしてその方面に行方不明に関係のある人が行きまして、
根堀り葉堀り聞いて、
何とか資料を得たいというふうに努力いたしております。

それからこれに対します最後の、
最後のといいますか、効果があるかないかは別問題でありますが、
まず一つの方法としまして
これは政府としてでなく、
その関係の親御あるいは妻なりあるいは子供等から、
向うのヴォロシーロフあたりに、
こういう者が行方不明になってわからぬ、
何とか配慮してほしいというような請願書を書くのも
一つの方法じゃないかというふうに考えまして、
関係の方には御参考に述べたこともあります。

これはもちろん政府としてではなく、
個人としての方法であります。

それから、政府としてはぜひ一つ、
向うにある資料をこっちの方に提供してもらうように
努力していただきたい。

これはもちろん御尽力になっておると思いますが、お願いしたい。

○受田委員 
マリク名簿と今申し上げましたが、
マリク名簿と、そして日本側に状況のはっきりしている名簿と、
双方に漏れた方のことを私今申し上げたのです。
木村さんはマリク名簿には載っていないお方でしたかね。そうですか。

○田島説明員 
載っております。

○受田委員 
そうすると、残された方々は、今度お帰りになった皆さんから見ても、
生死不明の方の分はもう非常に期待が薄い、
その人々の氏名も何とか明らかにしたいと努力しておるという
今お言葉でありますが、
これは日本政府として
生死不明者を今後三年以内に処理する責任があるように
未帰還者留守家族援護法に掲げてあるのでありますが、
これは非常に不安定な状況に直かれておることが、
きわめて明瞭になりつつある現在、
集団帰国というような期待が非常に薄くなっている今日、
これが対策を政治的にどうされようとしておるのか。

今回の帰国を機会に、政府の何か新しい決意が私はあると思うのですが、
その決意をお示しいただけたらと思います。

○美山説明員 
ただいまの御質問に関しましては、現在の段階に至るまでに、
すでに十分できるだけの手を尽し、参ったのでありますが、
かくのごとき状況に至りまして、お示しの通りに、
特別の配慮をもってこの業務の促進をはかりたいと思っております。

なお従来からも相当の資料を引揚援護局としては持っておりますし、
ソ連案に対しましては、ロンドンにおきまして、
ソ連側に対して一万名の名簿をすでに渡しまして、
それについてのソ連側の回答を要求してある次第でありますが、
それらの資料の回答が参りますとともに、
日ソ交渉の成否いかんにかかわらず、
ハバロフスク等に残留しておる方々がお帰りになって、
そして戦友その他の同胞の状況をお知らせいただく
というふうなことになりますれば、
この調査も速急に進むのではないかというふうに思います。

なお今後三年間にこの業務を進めなければならないのでありますが、
当局の機構につきましては、すでに法律に示されておりまして、
相当来年度からは困難なる状況に立ち至ると思うのでありますが、
来年度以降の機構につきましては、
特に法律の改正等をお願いいたしまして、
この業務は、あくまで最後の一人まで明瞭にし得るように
努力いたして参りたいと存じております。

○受田委員 
努力をする決意を持っておられることは一応了とするのでありますが、
具体的に、次の機会までに、
さらに進んだ積極的な御計画をお示しいただくように、
御研究願いたいと思います。

いま一つつけ添えてお尋ねいたしたいのでありますが、
今、坂間さんから御発言の中に、墓地の問題があった。

日ソ交渉に当って、あるいは赤十字等を通じて、
日本国民の感情からいって、墓地を大事にすること、
それから美山さんは
この間からビルマその他の遺骨収集団長として御苦労いただいたのでありますが、
将来遺骨をこちらへ持って帰るという道も開いておかなければならぬ。

今せっかく帰られた方々によって墓地が確認されているのですから、
その墓地を温存することと、
将来その遺骨を収集する時期に対するソ連当局の便宜供与方を、
何らか外交交渉上やっておられるかどうか、これが一つ。

もう一つでお尋ねを終りますが、
私現地で、現地というのは、
舞鶴からこっちへ帰られる人々の汽車の運賃を
出迎えの人が支払っている現状を見て、
はなはだ解せないのであります。

今まで何回か言われたことが、まだ実現していない。
遺族が靖国神社に参られる往復の旅費の半額は支給されておる。

ところが十数年外国で苦労された方が祖国へ帰られて、
肉身がそこへお出迎えに行かれる。
これはほんとうに悲壮な場面でありますが、
その運賃を本人に負担さしているという現実は、
はなはだ解せないのであります。

これまた国家があたたかい心を持って、
できれば全額をもって、
その御本人とお子様くらいが――だんだん人数も減ってきておりますから、
費用の負担も軽くて済むのであるから、
この際運賃免除の特典を与えることができるような措置を
とるべきじゃないかと思うのですが、
この二つをお答えいただきたいと思います。

○美山説明員 
私から、第一の点についてお答えを申し上げます。

墓地の件につきましては、ロンドンからも死亡者の名簿とともに
ソ連側に要求をいたしております。
なお帰還者からもその情報を集めておりまして、
日ソ交渉の成立した暁におきましては、
ぜひ何らかの形でこの遺骨の送還ができます。ように願っております。

○石塚説明員 
出迎えの家族の運賃の問題でありますが、
これはごもっともな意見かと思います。
ただ国鉄は、御承知のように、独立採算制でやっておりますから、
主として国鉄の方との今後の交渉の問題になってくると思いますが、
われわれとしては、
できるだけそういうことを努力したいと思いますけれども、
厚生省限りでできるというお引き受けもできません。
努力するということで御了承願いたいと思います。

○受田委員 
厚生省限りではできないということでありますが、
もちろん国鉄と御連絡は必要でありますけれども、
これは身体障害者も道が開けておる。

遺族の靖国神社参拝にも道が開けておる。

これだけが残っておるということは、
厚生省の関係の事務の処理の上においてはなはだ不公平だと思う。

厚生省は、遺族の場合にももう手を打ち、
身体障害者にも手を打っており、
残された留守家族が現地へお迎えに行くこと、
この方が一番人数が少いのです。

あと今生存しておられる方は、もう千名しかソ連におられない。
中国にあっても六千人ばかりしかおられない。
皆帰られてもたかが知れておるのです。

厚生省所管事項で不公平があるということはどうでしょう。
これは厚生省の努力の足らぬことを証明するものだと
私は断定するのでありますが、
他の二者と比較して、
これが残された理由を御説明願いたい。

○石塚説明員 
いろいろな観点からこれは批判できるかと思いますけれども、
若干事柄が違いますからそれを同一のものとして扱うというのは、
ちょっとどうかと思います。

○受田委員 
それではしようがない、私の質問を終ります。

○臼井委員長代理 
なお、委員長からちょっと政府委員に伺いますが、
マリク名簿以外の方が二名お帰りになったということを
ちょっと聞いたのですが、そういう事実がございますか、どうですか。

○山田説明員 
私からちょっと申し上げます。
第八次としてソ連から帰りました方は、
合計全部で百十五名でございますが、

そのうちいわゆるマリク名簿にありました者は百九名でありまして、
あとの六名は名簿にない方であります。

そのうちの五名は、マリク名簿を受け取りましたあとで、
ソ連に抑留されました船員であります。

これはマリク名簿にないのは当然であります。
またもう一人中江宏と言われるのですが、
この方がソ連名簿になくて今度帰ってこられました。

帰られる前は満刑で釈放されて、
ナリンスクに生活をされておられたのですが、
帰国の嘆願書を出されまして、
首尾よく今度帰国がかなえられて、内地に帰られたのであります。

この一事をもって見ましても、
将来ソ連名簿にない者が帰されるかどうかという点について、
やや希望が持てるというような感じを私は持っております。以上であります。

○臼井委員長代理 
次に、眞鍋儀十君。

○眞鍋委員 
木村さんにお尋ねしたいのですが、あなたと一緒に帰られた方は、
まだ刑期が満了しないのに帰還が許されております。

あなたはもう一昨年忠実に刑期を終了されておって、
当然内地に帰還されていなければならぬお方だと思いますが、
刑期終了後内地に帰還されるまでの間の足かけ三年間というものは、
どういう理由でこちらまでお届きにならなかったのでしょうか。

そして、
あなたと同じケースの方がほかにあるような感じがなさいますか。
さっきのお話の中で、
ちょっと私はっきりいたしかねたのでありますが、
もう一ぺんおっしゃっていただけませんでしょうか。

○木村参考人 
自分はナリンスクを七年、その後タイセットに一年、
タイセットで刑の明けたときには、
クラスノヤルスクの中継所に送られたのであります。

ハバロフスクの方に送られれば帰るのが早いのでありますが、
自分は何も知らないものですから、クラスノヤルスクに行きまして、
向うの中継所から百五十二キロの地点にやられたのであります。

それで言葉がわからぬのと、向うの警察の取扱い方が十分でなかった、
それで自分は三年向うで、地方人と一緒に仕事をしたという
格好になっております。

○眞鍋委員 
今のお話を
お役所の方ではどういうふうな解釈をなさっておられるのでしょうか。

○竹中説明員 
御承知の通り、マリク名簿と申しますのは千十一名の軍人と、
三百五十四名の民間人の名前をあげたものであります。

ロンドン交渉におきまして、
マリク全権が自分のところにある抑留邦人の資料はこれだけである、
そのほかについて何か積極的な資料があれば、
日本側からも出してくれというようなことがありまして、
先ほどからも問題になっております
状況不明者の一万一千百七十七名の名簿を出したわけであります。

その中で三百八十五名の方々は、
昭和二十五年以降にはっきり各所に生存しておられるという、
たとえば現地からの手紙でありますとか、
あるいはこれは第七次の柴田団長さんの報告にもありますが、
ごく最近までの帰還者の証言によって、
生存のはっきりしている人々であります。
その中でも、
また特に八十六名の方々が
はっきり自分たちは帰国を欲しておるのである、
しかし地方官憲が
どういう理由かナホトカまでの旅行を許可してくれない
ということがございますので、
これもまた名簿にいたしまして
西大使からマリク大使に渡したのであります。

これにつきましては、
向うは非常に積極的に動いてくれまして、
こういう資料はソ連としても大事であるから、
ぜひ今後とも日本側で出してくれというようなことを言っておりまして、
先ほど夫帰還調査部から説明がありました通り、
中江宏さんがこの八十六名の中の一人となっておるわけであります。

従いまして、残りの方方、われわれからいいますと、
この一万一千百七十七名の中には、
おなくなりになった方も相当あるように推測できるわけでありますけれども、
少くともこの三百八十五名の中で帰国を希望するという人につきましては、
ソ連側の官憲の援助を得て帰していただくようにしたいと考えております。

○眞鍋委員 
いまさらその問題について蒸し返しても仕方がないと思いますけれども、
私は良心において、
現実にこういう木村という人のあったことにつきましては、
まことに御本人に対して申訳がないと考えます。

○臼井委員長代理 
次は三鍋義三君。

○三鍋委員 
参考人の方々には、今度引き揚げられました方々を代表されまして、
いろいろとつぶさに実情を御開陳下さったのでありますが、
あらためて今度の御帰還を心からお喜び申し上げます。

私、最初に委員長にちょっとお聞きしておきたいのでありますが、
前回の委員会におきましても、
非常に重要な政府の責任において御答弁願わなければならないと
思われる段階に至りますと、大臣も次官も見えていない。

そして政府の説明員の方が
どのような答弁をしていいかわからないといったような、
非常な窮地に陥っていられる事実をまのあたり見まして、
こうやって長い間困苦に耐えて、
苦労して故国に帰ってこられて、
そうして一番責任あるその態度を審議し 
また決定すべき委員会に出てこられた参考人の方々に、
何か食い足りない失望を与えているのではないかということを
私は痛切に感じたのであります。

本日はまた全然ほんとうの責任ある人が来ていないということは、
私その誠意を疑わざるを得ないのであります。

特にこの前のときの質問におきまして、
責任ある人から御答弁願わなければならない問題を、
私提供しておったと思うのであります。
これだけを当委員会の意思として、
大臣並びに次官にお伝え願いたい。このように考えます。

そこで、時間もだいぶおそくなりましたから、
簡単に参考人にお聞きしたいのでありますが、
このいわゆるハバロフスク事件におきまして、
悲壮なる決意のもとに、
その生命を守るために、
ある抵抗を示されたのでありますが、
それに対してバシコフ内務次官がやってきて、
そうしてあなた方と個別にお会いになりました。

またその懇談の結果の次官の誠意ある態度というものは、
これこそほんとうの当事者の責任ある態度であり、
また人間としてのりっぱな態度である、こう思うのでありますが、
それについてお聞きしたいのは、
いわゆるハバロフスクにおけるところの直接の当事者、
これらの人の考え方と政府の責任ある立場における人の考え方、
これは一致しておったのかどういうのか。

政府当局、
少くともバシコフ内務次官があとから皆様に
その取扱いの善処を約束された、
ああいう気持を持っておるのにもかかわらず、
その趣旨、その誠意が現地に到達していないがために、
あるいは到達しておったけれども、
その現地の人の取扱い方が何かに災いされて、
ああいう不当な非人道的な取扱いをしたのか。

ここら辺のところは、
われわれ今後の問題をやはり考えていく上において、
究明しておく必要があると思うのであります。

これは坂間さんでもよろしゅうございますし、
瀬島さんでもよろしゅうございますが、
あなた個人の見解を、まずお聞きできたらと思います。

○瀬島参考人 
お答え申します。
ただいまの問題は、ハバロフスク事件の結果から見まして、
モスクワ政府が考えておったよりも、
現地の官憲が、日本人管理において悪かったということは、
結果的に言うことができます。

なぜそうなるかという問題でありますが、
それは二つの問題があると思います。

第一の問題は、制度上の問題であります。
これは日本人管理の制度上の問題であります。
規則上の問題であります。
その規則は現地が作るものではありませんで、
モスクワで作られるものであります。

一つの例を申し上げますれば、
日本人の収容所は、その経費は独立採算制をとっております。

言いかえますれば、日本人収容所は、
この受刑者の働いたその金によって、
収容所のソ連側職員の俸給をまかない、
日本人の衣食住をまかない、
建物の管理修繕費をまかない、
また私どもが作業に参りますときに、
うしろにくっついてきますところの監視兵の俸給もまかなうのであります。

そういう規則になっております。
これは現地の問題ではありませんで、
むしろモスクワの問題でありますが、
この問題が、やはり一つの大きな問題であります。

第二の問題は、
この制度を実際日本人に向って適用し、
運用していくのは現地官憲であります。
この適用し、運営していく上におきましてあの国柄上、
現地官憲は、自分自身が上からとがめを受けることがないように、
あまりにも規則に忠実な態度をとります。

この二つが総合されまして考えますと、
モスクワの考えよりも、
現地の方がどうしても、
日本人側から見ますと、
つらく当るというふうになって参ります。
以上であります。

○三鍋委員 
よくわかりました。
私がこれをあえてお尋ねしたのは、
えてして、これは何もソ連だけでなくて、
日本国内におきましても、
上の方できめたことを、あまりに忠実に守ろうとするがために、
上の方の考えていることと全然違った結果が、
地方において実施されるような場合があるわけなんですね。

それでちょっとお尋ねしたのでありますが、
それにいたしましても、私はやはり考えられるのは、
この政府当局が、
われわれも責任があるわけでありますが、
ハバロフスクの抑留生活者が
健康的に衣食住その他労働的に非人道的な取扱いを受けている事実を、
どのようにわれわれは把握したかという問題、
その把握した問題に対して
これをどのような方法で改善する努力をなされたかという問題、
先ほど受田委員からも質問があったのでありますが、
一片の通牒といったような、
そういう努力しかなされていなかったように思われることを、
非常に残念に思うのであります。

こういう点をもう少し私どもは
政治家として強く、
あくまで抑留されている人の気持を、
またその留守家族の人の気持をわれわれの気持として、
もう少し執拗に、
この問題解決のために努力すべきじゃないか、
その努力が足りなかったのじゃないかということを、
私たちは非常に申しわけなく思います。

参考人に対する質問は以上で終るのでありますが、
私は、政府当局、実は大臣か政務次官に聞きたいのですが、
今日おいでになっておりません。

おいでにならなければならないはずだと思うのです。
それがおいでになっていないのは、
何か公用その他の御事情だと思うのでありますが、
私は引き揚げてこられた方々の一番の問題は、
やはりいかにして生きていくかという就職の問題であると思います。

この点で、
私は一つ資料を要求したいのであります。

引き揚げ後のその方々の健康状態がどういう工合になっておるのか。
就職の状況はどのようになっているか。
それの対策、見通し、こういったものであります。

ハバロフスクにおるときは、
そういうものの詳細な調査とかあるいは情報を
つかむことができなかったかもしれませんけれども、
もう独立国日本の内地に引き揚げてきておられるのでありますから、
厚生省といたしまして、
あるいは引揚援護局といたしましても、
これらの方々がどのような生活をしておられるかということに、
強い関心を持っておると信ずるのであります。

であるがゆえに、
これらの方々のその後の状況はどうなっておるかということの調査も、
十分できておると思うのであります。

そしてまた、
問題はどこにあるかという点も考えられておると思いますから、
これは資料で、
この次の委員会までに御答弁をお願いしたいと考えます。

次に、同じく政府当局に、
しっかりと確かめることができないかもしれませんし、
この前と同じような形になると思いますが、
中共からの里帰りの方々の問題がどうなっておるか、
どれだけ帰って、どれだけの方がなお残っておられて、
そしてそれらの人がどのような滞在をしておられるか。
帰るときにどのような措置をしてあげることになっておるのか。

それからもう一つ、この前の委員会におきまして、
委員会の要望といたしまして、
現在なお四千名近く、
中国に、結婚しておられる日本の婦人、
これらの方々が希望して、里帰りをされる場合に、
その旅費、滞在費、これらに対して
どのような措置をとられることにきめられたか。
この点について答弁をしていただきたいと思います。

○田島説明員 
先般の中共引き揚げでお帰りになり、一時帰国の方のうちから、
六名の方が興安丸で再びお国の方にお帰りになりました。

そのほかの方々につきましては、都道府県を通じまして、
いろいろなこと、これは非常に微妙な関係があるものでございますから、
表面立って御調査ということもあれでございますが、
いろいろ事情を承わるということをただいまやっているところでございます。

実際その後の行動につきましてなかなか微妙なところがあるようでございますが、
まだその報告が集まってきてないように聞いております。
そのことによりまして、自後の処置をきめよう、
こういうことで研究をいたされていることを御報告申し上げます。

○三鍋委員 
微妙ということは、非常に含みのある言葉でありまして、
うまい答弁でありますが、大体どういうはらでおられるか、
お聞きしたいのですか……。

○田島説明員 
私が微妙と申し上げましたのは、
一時帰国をなされた方々の御心情について申し上げたわけであります。

そこで、予算等のことなんでございますが、
現在持っております予算から流用して、
いろいろして差し上げた方がよかろう、
大体の方針はそういうことでございます。

それには、大体どれくらいかかるかということは、
微妙な気持の次第でございまして、
大体どれくらいの方がいつごろお帰りになるかということは、
今、都道府県を通じて、
御本人についてお尋ねを申し上げている。

これはうっかりやりまして、
もう帰れと言わんばかりのように受け取られますと、
これも非常に心外でございますので、
そういう点特に注意してやるようにということで、
特別の注意をつけまして、いろいろお尋ねをいたしております。
こういう今の段階でございます。

○三鍋委員 
何もそんな、もう帰れといったような
変な意味にとられるという心配をされる必要はないのであります。

三カ月がたてば帰らなければならないのでありまして、
この点はあまり心配なさらなくてもいいと思うのです。

それから、この前のときも申し上げましたように、
里帰りでありますから、
僕は里帰りでないと言っているのでありますが、
かりに里帰りといたしますれば、
日本の国においては、
われわれの家庭におきましても、
やはり帰りの汽車賃くらい持たせて、おみやげを持たせて帰すのです。

ましてああいう中国に非常な迷惑をかけて、
そして現在まで生存されて、
苦しい中から、
中には非常な無理をして帰ってきておられる人もあるのでございますから、
内地におられるお嫁さんの里帰りよりも何倍か手厚い、
帰りやすい状態にしてあげる、
これくらいのことをやらなければ、
私たちは戦争の責任をとるなんて大きなことは言えないと思うのです。

これは予算に関係することでありますから、
実は大臣あるいは政務次官あたりに直接お聞きしたいのでありますけれども、
私からもこの趣旨をよく伝えておきますけれども、
またあなたからもよく一つお伝え願いたい、このように考えます。

○臼井委員長代理 
後段の問題につきましては、
今、引揚課長が時間でどうしてもやむを得ぬというので帰りましたので、
次の機会まで保留をさしていただきたいと思います。

なお、今、三鍋委員からの、引揚げ後の健康状態に関する調査、
それから就職の状況及び対策についての資料の提出要求がございましたから、
一つ至急に御提出のほどをお願いいたしておきます。

なお三鍋委員からの委員長に対する御質疑の問題につきましては、
まことに同感でありまして、
本日も委員部の方から政務次官並びに田辺局長の方にも、
本日の会合について、御通知、出席をお願いしてあったのでありますが、
政務次官はどうしても何かやむを得ない用事ということで御出席がございません。

なお、田辺局長は、在外財産調査会の方に出席のために
次長が御出席になったわけでありますので、御了承得たいと思います。

なお政府の説明員におかれましては、お帰りになりましてから、
三鍋君の御意見をよくお伝えいただいて、次の機会からは、
極力責任ある方の御出席を求めておきます。

なお、委員長から一言瀬島さんに申し上げておきますが、
御希望の中で、
ソ連訪間者はできるだけハバロフスクの抑留所に慰問するようにということ、
まことに御同感でありますが、
ただソ連の方でなかなか許可をいたさないのが実情でありまして、
昨年の訪ソ議員団も、
再三にわたってソ連当局に申し込んだにかかわらず、
結局は社会党の数名の方しか行かれないような事情に追い込まれて、
許可が非常におくれたということは、
まことに遺憾でございますが、
しかしこれは従来の事情でございますから、
今後においては、あるいは変化もあろうかと思いますから、
そういう趣旨に沿って行うべきものと考えます。

なお、内地の留守家族の方が慰問に参りたいという申し込みに対しても、
ソ連から何かお断わりのごあいさつがあったということにつきましても
まことに遺憾でございますが、この点を瀬島さんに一部御報告申し上げておきます。

それからもう一つ、瀬島さんにお伺いいたしたいのは、
漁業に関して抑留された者で、
ハバロフスクにいる者があるのでございましょうか。
何か先ほどのお話で、
ちょっとそのように受け取れたのでありますが、
その点を一言お伺いしたいと思います。

○瀬島参考人 
現在なおハバロフスクには
漁業のいわゆる密航によって刑を受けている者がおります。

○臼井委員長代理 
漁業の密航ということであると、
今度の漁業条約に違反しての抑留というような者は
入っていないのでありましょうか。
その点がちょっと私たちによくわからないのでございますが、
いずれにしても、漁業関係での抑留者で、
ハバロフスクに抑留されている者がある、
こういうふうに解釈してよろしいですか。

○瀬島参考人 
今度の五月十三日の河野協定による漁業条約違反者はおりません。
それ以前であります。

○三鍋委員 
関連して瀬島さんにちょっとお聞きしたいのですが、
その漁業協定ですか暫定協定ですか、
その以前の抑留者で、名前のわかっている万がありますか。
ありましたら、今すぐでなくてよろしいのですが、
お聞かせ願いたいと思います。

○瀬島参考人 
調べまして……。

○坂間参考人 
ちょっと……。
これはここで申し上げてよいかどうかわからぬのですが、
実は向うで、小包みの中に入っておりますグラフ等の写真を、
向うが検査をしてくれます際に、こういう問題が一つあります。
と申しますのは、これはいつでありましたか、
議会におきます騒ぎの写真が相当入っておったのであります。

それを向うの者が見て、これは何だ、これは何だといって聞く、
そうしますと、議会のあの騒ぎの写真が出てきた。
そのときに何と説明していいか、はなはだ――。

そこであちらにおります者は、ああいうことはどうも困るからと、
こういうような話があったのであります。あれはまことに困りました。

○臼井委員長代理 
他に御質疑はありませんか。
御質疑がなければ、これにて参考人よりの事情聴取を終ります。
参考人各位には、御多忙中のところ、
長時間にわたり事情をお述べ下さいまして、
本委員会として調査上非常に参考になりました。
ここに委員長より厚くお礼を申し上げます。

次会は公報をもってお知らせすることとし、
本日はこれにて散会いたします。午後四時四十一分散会

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
極悪非道なスターリンのソ連は、1945年8月9日〜9月2日の25日間の
【日ソ戦争(ソ連の対日参戦)】で、南サハリン、千島列島、北方四島を完全占領した。

満州にあった全ての産業施設と、金融機関が保有していた宝石・貴金属と
机椅子とうにいたるまでの、全ての財貨を強奪してソ連に運んだ。

70万人以上の日本人捕虜(軍人及び民間人)をシベリア、モンゴル、
中央アジア、極北地帯等へ拉致移送して、奴隷として、1日10時間以上、
強制労働をさせた。極寒期でも野外で強制労働させた。
数十万人の日本人捕虜がソ連の捕虜虐待で死亡した。

さらには、おびただしい数の、全く無実の、軍人及び民間人を、
戦犯裁判と称するエセ裁判で有罪として殺害した。
殺害されなかった者も、投獄され、強制労働を課せられ多数死亡した。

ソ連軍は満州及び北朝鮮において、1946年春に撤退するまで、
日本人民間人の日本への帰国を禁止した。
満州及び北朝鮮においては、日本人民間人の保護は全く行わなかった。
反対に、ソ連軍兵士は、日本人女性に、ほしいままに強姦、暴行、殺戮、
略奪を行った。

1945年〜1946年の満州での日本人民間人の死亡者数は約25万人である。

25日間の【日ソ戦争(ソ連の対日参戦)】は領土獲得、奴隷獲得、財貨獲得
のための、極悪非道なスターリンのソ連の帝国主義侵略戦争であった。

【日ソ戦争(ソ連の対日参戦)は、人道に反する、ソ連の不正義の塊】であった。

しかるに、ソ連政府、及びロシア政府は、【日ソ戦争はソ連の正義の戦い】と
ソ連国民、ロシア国民を徹底的に洗脳してきた。

これに対して、自民党政権は、過去60年間、日本人捕虜のシベリア等に
おける奴隷労働被害を【歴史の闇】に葬り去り、ソ連政府に対しても、
現在のロシア政府に対しても、ポツダム宣言第9項に違反する
【日本人捕虜の奴隷労働被害】に対する公式謝罪を求めたことはない。

自民党政権の指導によって、日本の中学・高校の歴史教科書には、
日本歴史上かってなかったこの悲惨な歴史事実は記載されていない。

自民党政府によって、日本の歴史から抹殺された
数十万人の犠牲者たちは成仏できず、
今もなお、シベリアや満州の荒野を彷徨っていると思う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第024回国会、第025回国会、第026回国会と、3回の国会において
海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会は多数の政府関係者
及び海外からの帰還者に証言を求め、引き揚げ問題に関する事実の解明に努めた。

第024回国会においては、調査特別委員会は、昭和30年(1955年)12月23日の
第1号から、昭和31年(1956年)10月29日の第21号まで21回開催された。

第024回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第18号
昭和三十一年八月二十九日(水曜日) 午後一時二十九分開議
出席委員:委員長代理理事 臼井 莊一君
理事:中馬辰猪君、逢澤寛君、生田宏一君、大平正芳君、内藤友明君、古川丈吉君、  
理事:坊秀男君
委員:眞崎勝次君、眞鍋儀十君、今村等君、受田新吉君、三鍋義三君
委員外の出席者:外務事務官 竹中祐一君、引揚援護局次長 美山要蔵君、
引揚援護局引揚課長 石塚富雄君、厚生事務官 田島俊康君、山田穣君
参考人:ソ連地区引揚者:坂間 訓一君、小日向和夫君、瀬島龍三君、木村忠男君
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本日の会議に付した案件
参考人出頭要求に関する件
派遣委員より報告聴取に関する件
海外同胞引揚に関する件(ソ連地区抑留同胞引揚に関する問題)
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関連サイト:シベリア奴隷労働被害

以上