太平洋戦争戦跡地
戦没者の60%強140万人は餓死であった
                              
                              2013年9月 Minade Mamoru Nowar



 

出典:藤原彰著 『餓死
(うえじに)した英霊たち』 
青木書店 2001年5月発行
第3頁・第4頁
はじめに−戦没者の過半数は餓死だった

第2次世界大戦(日本にとってはアジア太平洋戦争)において、
日本人の戦没者数は310万人、その中で、軍人軍属の戦没数は230万人とされている。

敗戦直後の1945年9月、東久邇内閣が発表した陸海軍人の戦没者数は50万7,000人に
すぎなかったが、調査がすすむとともにその数が増えつづけ、
1977年に厚生省が明らかにした数字では、「軍人・軍属・准軍属」の戦没者230万人、
外地での戦没、一般邦人30万人、内地での戦災死者50万人、計310万人となっている。

なお調査や遺骨収集はつづいており、正確な数は依然として明らかにされていないが、
現在では、日本軍人の戦没者230万人というのが、政府が明らかにしている概数である。

この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の過半数が戦闘行動による死者、
いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実である。

「靖国の英霊」の実態は、華々しい戦闘の中での名誉の戦死ではなく、
飢餓地獄の中での野垂れ死にだったのである。

栄養学者によれば、飢餓には、食物をまったく摂取しないで起こる完全飢餓と、
栄養の不足または失調による不完全飢餓があるとされている。

この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の
不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたことである。そして完全飢餓によって起こる
餓死だけでなく、不完全飢餓による栄養失調のために体力を消耗して病気にたいする
抵抗力をなくし、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出した。

この栄養失調に基づく病死者も、広い意味で餓死といえる。
そしてこの戦病死者の数が、戦死者や戦傷死者の数を上回っているのである。

戦死よりも戦病死の方が多い。

それが一局面の特殊な状況でなく、戦場の全体にわたって発生したことが、
この戦争の特徴であり、そこに何よりも日本軍の特質をみることができる。

悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と
特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。

大量餓死は人為的なもので、その責任は明瞭である。
そのことを死者に代わって告発したい。それが本書の目的である。

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第5頁〜第9頁
目次

第1章 餓死の実態
1.ガダルカナル島の戦い
@無謀な陸軍投入
A餓島の実情
Bガダルカナル戦が示したもの
Cガダルカナル以後のソロモン群島
D孤立したラバウル
2.ポートモレスビー攻略戦
@無謀な陸路進攻計画
Aスタンレー山系越えの苦闘
B退却戦とブナ、ギルワの終末
3.ニューギニアの第18軍
@現地を知らない大本営
A死の転進行軍
Bアイタベ作戦
C極限状況下の第18軍
4.インパール作戦
@20世紀の鵯越え(ひよどりごえ)作戦
A惨憺たる敗北と退却
Bシッタン河谷の後退
Cビルマ戦線の死没者の割合
5.孤島の置きざり部隊
@戦理に反した守備隊配備
Aとり残された守備隊
Bメレヨン島の惨劇
Cウェーク島の飢餓地獄
6.フィリピン戦での大量餓死
@揺れ動く決戦構想
A餓死への道程
Bフィリピン戦の特徴
C住民への加害行為
7.中国戦線の栄養失調症
@世紀の大遠征
A架空の兵姑線
B補充員の苦難
C中国戦線での死因
8.戦没軍人の死因
@戦没者の総数
A餓死者の割合

第2章 何が大量餓死をもたらしたのか
1.補給無視の作戦計画
@作戦が他のすべてに優先する
A情報の軽視
2.兵站軽視の作戦指導
@対米英開戦と兵站
A兵要地誌の調査不足と現地自活主義の破綻
B後方を担った馬の犠牲
3.作戦参謀の独善横暴
@幕僚が戦争も作戦も決めた
A作戦屋の強硬論
B人間性を欠いた作戦

第3章 日本軍隊の特質
1.精神主義への過信
@日露戦後の軍事思想
A白兵主義の欠陥
2.兵士の人権
@軍紀と服従
A無視された人権
B生命の濫費で勝利を購う
3.兵站部門の軽視
@差別されていた輻重兵科
A経理部への差別
B軍医部の地位向上策
4.幹部教育の偏向
@精神重視の教育と幼年学校
A幼年学校出身者の要職独占とその弊害
5.降伏の禁止と玉砕の強制
@日本軍の捕虜政策とその転換
A戦陣訓と捕虜禁止
B命令された「玉砕」

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第131頁〜第138頁

第1章 餓死の実態
8.戦没軍人の死因

@戦没者の総数


第2次大戦(日中戦争を含めてアジア太平洋戦争)における
日本軍の戦没者の総数、その中での戦死、戦病死などの割合は、
戦争が日本の敗北に終わったこともあって、正確に数えることは
きわめて難しい。

多くの戦場が玉砕(全員死亡)に終わるか敗退してしまったので、
記録がほとんど失われている。

さらに降伏の直後に、戦争犯罪の追及を恐れて、
組織的に関連書類の大量焼却が指令された。

このため陸海軍の各部隊どころか、
市町村役場の兵事関係書類まで焼いてしまったところも多い。
軍事と戦争に関する史料が、根こそぎ破棄されてしまったのである。
このため戦没者の数にしても、数字に大差がある状況で、
戦後日が経つにしたがって、調査がすすみ、
その数が増えていくという状況にある。

調査不十分の結果もあり、敗戦直後の1945年9月の
第88臨時議会に東久邇内閣が報告した数字は、
太平洋戦争の戦没者陸海軍人50万7000人、
一般国民の死者24万1,000人、合計74万8,000人
という少ないものであった。

その後調査がすすむにつれて数は増えつづけている。
77年に厚生省援護局があげた数字では、
37年7月いらいの、
日本の戦没者は、軍人、軍属、准軍属合わせて
約230万人、外地の一般邦人死者数約30万人、
内地での戦災死亡者約50万人、
合わせて約310万人となっている。

この軍人軍属の戦没者230万人という数字は、
それより13年前の64年に、
厚生省援護局が公表した地域別陸海軍人戦没者数の
合計212万1,000人よりは約18万人多いが、
それはその後の調査の増加分を含んでいるからであろう。

この地域別陸海軍人戦没者数を次に掲げる。

この数字は、地域別ではこれより新しい公式数字はないが、
1977年の数字より約18万人少ないだけでなく、
地域によっては現在判明している数よりも過少である。

日本人全体の戦没者総数についても同様である。
政府はそれ以後、ずっと戦争の犠牲者310万人という
数を使いつづけているが、原爆による犠牲者だけについてみても、
毎年、その数は増えつづけているのだから、
この数ももっと多く修正されるべきであろう。
調査をいっそう重ねて、正確な数に近づく努力が必要である。

この日本人の死者数310万人、そのうち軍人軍属の戦没者
230万人という数字は、その後、日本政府が、
毎年8月15日の戦没者慰霊祭などの場合に、
公式にいいつづけている数字である。

この戦没者数には、朝鮮、台湾などの植民地出身者約5万人が
含まれているので、正確にいえば日本人の死者総数ではない。
また実際には、この数字は過少だという批判がある。

また、日本人の死者数だけをとり上げるのも公平ではない。
日本の侵略の対象となったアジア諸国の膨大な戦争被害に
目を向けなければならないだろう。

ただしアジア諸国民の死者数については、日本人の場合以上に
正確な資料に乏しく、集計も困難である。
何の数字も発表されていない国もあるという状況の中で、
最大の被害国である中国では、抗日戦争期の軍人の死者
380万人以上、民間人の死者1,800万人以上、
計2180万人以上という政府見解がある。

フィリピンでは、死者111万1,938人という数字を
政府が公表している。

そのほかに、フランス領インドシナの餓死者200万人、
インドネシアの被害者100万人、
シンガポールの華僑(現地で帰化した中国人)虐殺の
被害者5万人という数字もある。

したがって、総計では約3,000万人の犠牲者が出ている
であろうと推定される。

つまり戦争犠牲者の総数は不明確であり、
さらに今後の調査が必要だということである。

A餓死者の割合

軍人の戦没者230万人のうち、戦死、病死などの
死因別はどうなっているかについては、
公式の統計はまったくない。陸上自衛隊衛生学校が編纂した
『大東亜戦争陸軍衛生史』は、公刊の衛生史に当たると
いえるものだが、その中では次のようにいっている。

今次大東亜戦争においては、敗戦により、特に統計資料は
いっさい焼却又は破棄せられ、まとまったものは皆無の状況である。
従って、全戦争期間を通じ、戦傷戦病はどの位あったかと
いうことは、全く推定するよしもないのである。

「推定するよしもない」としているこの衛生史は、
戦死と戦病死の割合については、ごく初期の対南方進攻作戦の
ものをあげるだけで、その後の状況については沈黙している。

とくに、後半期の南方の餓死者続出の惨状や、中国における
戦争栄養失調症の多発などについては、まったく触れるところが
ないのである。これは、病死が多数発生するのは軍医として
恥だという感覚からかも知れない。しかし戦争の衛生史としては、
もっとも重大な問題を欠落させているというほかはない。

くりかえしていうが、日本軍人の戦没者230万人の内訳は、
戦死よりもはるかに病死が多いのである。これは衛生、給養上の
大問題であり、戦争衛生史ならば第一にとり上げて、その原因を
分析すべき事態なのである。

それでは、一体、餓死者の割合はどの位だったのだろうか。
今までみてみた各戦場別に、その割合を推定してみよう。
そのさいの、各地域別の基礎数字は、厚生省援護局の
1964年作成のものを使うことにする。実数はこれよりは
いくらかずつ多いはずである。

@
「第1章1 ガダルカナル島の戦い」でとり上げたのは、
ソロモン群島のガダルカナル島とブーゲンビル島、それと
ビスマルク諸島の主島ニューブリテン島のラバウルの
諸部隊である。

厚生省の統計ではソロモン群島の戦没者
8万8,200人、ビスマルク諸島は3万500人、
計11万8,700人となっている。

ガダルカナル島の場合、
方面軍司令官は、戦没者2万人、戦死5,000人、
餓死1万5,000人と述べている。
ブーゲンビル島では、タロキナ戦以後の戦没者約2万人は、
ほとんど餓死であったと推察される。

そのほかの
ニュージョージア、レンドバ、コロンバンガラなどの

中部ソロモンの諸島の場合も、ほぼ同じような比率であったろう。

したがって、ソロモン群島の戦没者の4分の3に当たる
6万6,000人が餓死したと考えられる。ラバウルの場合、
ほとんど戦死はなく、栄養失調と薬品不足のためのマラリアに
よる病死であるから、ビスマルク諸島の3万500人の
戦没者の9割、2万7,500人は広義の餓死に数えてよかろう。

したがって、この方面の餓死者は9万3,500人を下らない
数に上るであろう。

A
「2ポートモレスビー攻略戦」と「3ニューギニアの第18軍」
でとり上げたのは、いずれも東部ニューギニアの戦場である。
厚生省の調査では東部ニューギニアの戦没者は
12万7,600人となっている。

各部隊の報告や回想では、いずれも戦没者の9割以上が餓死だった
としている。仮に9割として計算すると、実に
11万4,840人が餓死したことになる。
この多くの若い生命が、密林の中で万斛(ばんこく)の涙を
のんで倒れていったのである。

B
「4インパール作戦」のインパールはインド領だが、
作戦を担当したのはビルマ方面軍であり、ビルマ戦の一部といえる。
厚生省の調査では、ビルマ(含インド)の戦没者は
16万4,500人となっている。

これは4節であげた陸軍のみの戦没者18万5,149人と
異なっており、航空部隊、海軍を加えれば、さらに数が増える
はずである。そこで述べたように、この78%、
14万5,000人か、それ以上が病死者、すなわち餓死者で
あったと推定される。

C
「5孤島の置きざり部隊」では中部太平洋の島々とり上げている。
厚生省調査では、中部太平洋の戦没者24万7,200人となっているが、
この中には、上陸した米軍と戦って玉砕したマキン、タラワ、クェゼリン、
ルオット、ブラウン、サイパン、グアム、テニアン、ペリリュー、
アンガウルなどの諸島が含まれている。

玉砕した島以外の各島は、米軍にとって
不必要なために無視され、戦線の背後に取り残された。

その中では、比較的島の面積が広く、ある程度の農耕地もあり、
現地自活が可能だったポナペ、モートロック、ロタ、トラック、
玉砕した2島以外のパラオ地区、ヤップ地区の島の守備隊は、
とにかくにも敗戦時まで生き延びることができた。

しかし、いっさいの補給が絶たれ、自給の手段もなく、
餓死を待つばかりとなった島も多い。

45年4月14日の海軍軍令部調によると、この時点で餓死を
待つばかりだった島は、ウォッゼ、マロエラップ、ミレ、ヤルート、ナウル、
オーシャン、クサイ、エンダービ、バカン、メレヨン、ウエーク、南鳥島で、
なお3万6470人が生き残っていた。

その人々は、地獄の苦しみを味わった後に、6〜7割が
最後を遂げることになるのである。

全体として、この地域の戦死、病死の割合は半々とみてよいだろう。
すなわち、12万3,500人が病死、餓死していたといえる。

D
戦場別でみれば、もつとも多い50万人の戦没者を出したのが
フィリピンである。「6フィリピン戦での大量餓死」でも
述べたように、その8割までが餓死だったとみてよいだろう。

決戦場とされたレイテ島で戦った部隊でさえ、各隊の報告に
よれば、その半数は餓死だったのだから、そのほかの、
ルソンやミンダナオで持久戦を戦った大部分の部隊は、
住民がすべて敵の中で、飢えとの戦いを強いられた。

50万人の中の、40万人が餓死者だったとみることができよう。

E
中国本土。厚生省の分類で中国本土とされているのは、
日中戦争開始いらいの中国戦線での戦没者で、
フィリピンに次ぐ大人数の45万5,700人となっている。

37年の上海の戦いや、38年の漢口攻略戦などでは
相当数の戦死者を出したが、全体としてみれば、
戦線の広がりの割には戦死はそれほど多くはない。

「7 中国戦線の栄養失調症」で述べたように、栄養失調に
起因する、マラリア、赤痢、脚気などによる病死が、
死因の3〜4割を占めていた。

そして、もっとも多くの死者を出した44年からの
大陸打通作戦では、過半数が病死となっている。
全体としては、戦死と病死の比率は、ほぼ半々と考えられる。

すなわち、中国戦場では22万7,800人が、栄養失調を
原因とする病死であろう。

F
その他の地域の中で、沖縄の8万9,400人と
小笠原諸島(硫黄島を含む)の1万5,700人は、
玉砕したので、ほとんどが戦死である。

次に、ソ連、旧満州、樺太千島は、降伏前後のソ連軍との交戦で
大きな損害を出しているので、その死因の多くは戦死で、
病死はとくに降伏後に多く、2割の計2万1,000人と
見積もることにする。

さらに、モルッカ・小スンダ(含西ニューギニア)とされている
地域も、ビアク島をはじめ玉砕した島が含まれている。
戦闘によるのではなく補給の欠乏で戦力を失った部隊も多い。
この地域の病死者は全体の5割、2万8,700人と推定する。

それ以外の、日本本土、朝鮮、台湾、南方では仏領インドシナ、
タイ、マレー・シンガポール、ボルネオ・スマトラ、
ジャワ・セレベスの諸地域でも、合計で23万3,500人の
戦没者を出している。

これらの地域でも、戦争末期には栄養失調が広がっており、
とくに、降伏して捕虜になってから給養不足に陥った地域もあった。

この戦没者はほとんどが病死であるが、その半分は栄養失調に
基づくものと推定してよいだろう。すなわち、11万6,700人が、
広い意味での餓死である。

今までに、各地域別に推計した、病死者、戦地栄養失調症による
広い意味での餓死者は、合計で127万6240人に達し、
全体の戦没者212万1,000人の60%強という割合になる。

これを77年以降の戦没軍人軍属212人万という総数に
たいして換算すると、そのうちの140万人前後が、
戦病死者、すなわち、そのほとんどが餓死者ということになる。


中部太平洋諸島における太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約25万人といわれる。




ソロモン諸島国・ガダルカナル島ホニアラ(NASA衛星画像)
ソロモン諸島及びビスマ−ク諸島における太平洋戦争中の
日本軍軍人・軍属の戦没者は
約12万人といわれる。

2008年4月11日、NHK衛星第2放送から『兵士たちの証言 ガダルカナル
繰り返された白兵突撃』が放送された。日本陸軍が最も得意としたといわれる
【白兵突撃による夜襲】の悲惨な状景と、その後のジャングルにおける悲惨な
餓死の状景が、生き残った兵士たちの証言と共に放送された。

射撃なしで、相手を銃剣で刺し殺す、白兵突撃戦法
のあまりにもの愚かさ、
戦うための食糧すら準備せず、「敵の食糧を奪って食え」という方針
あまりにもの無謀さは、日本陸軍の最高指導者たちと、高級参謀たちの
【無謀と愚かさ】を端的に示すものである。かれらの【無謀と愚かさ】の犠牲
となってガダルカナル島で戦死した約5,000人、餓死した約1万5,000人
犠牲者たちに深い哀悼の意を表したい。

資料出所:吉田俊雄著『日本帝国海軍はなぜ敗れたか』 第308頁〜第310頁
                       文藝春秋 1995年12月発行
関連サイト:昭和戦争の惨禍の責任


フィリピン・レイテ島リモン峠所在図
フィリピンにおける太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約52万人といわれる。

研究文献:
『大岡昇平全集10:レイテ戦記(下)』筑摩書房1995年7月発行
『加賀乙彦氏の解説』第649頁〜第659頁の抜粋文

レイテ島の戦いは太平洋戦争でもっとも悲惨な激戦の一つであった。
日本軍の戦死者は7万9,000人、生還した人々は数千人に過ぎなかった。
米軍は戦死者3,500人戦傷者1万2,000人という数字がそれを示している。

日米両軍は、深山、熱帯雨林、湿地など複雑な地形と、雨期の長雨、
嵐の来襲などの苛酷な気候のなかで、大軍を動かし、死闘を繰り返した。

日本軍は強力な米軍の攻撃に、一方的に押されて撃破されて行ったのではなく、
地形を巧みに利用して米軍にしたたかな反撃を加え、ときには局地的な勝利を納めている。

小説家の腕前で臨場感溢れる描写と簡潔な文体で組み立て、
あたかも戦闘に参加しているかのような緊張を読者にあたえてくれるのが
大岡昇平の『レイテ戦記』である。
戦後、戦争についておぴただしい戦記が書かれてきたが、
この『レイテ戦記』は、それらと格段と違う完成度を誇っている。

兵土にとって戦争はなによりも肉体の苦痛である。
ずぶ濡れの行軍、大砲の部品の運搬、寒さと飢えと疲労、傷の痛みなどが、
再現されている。

飢えと疲労は、日本軍だけでなく友軍から孤立した米軍の支隊にもあった。
肉体の苦痛の極限に到達した米軍兵士同士が憎悪と憤怒で殺し合う。

リモン峠の戦闘において、日本陸軍の持つどうしようもない欠陥が明らかになる。
劣勢による攻撃という日露戦争時代の戦術、階級序列によって保守化した組織、
三八式銃のような旧式の武器、補給を忘れた現地調達主義、
玉砕を是とする戦闘精神だけでは、優秀な装備と豊富な弾薬を持つ米軍に
勝てるわけがなかった。

大岡昇平は、この旧日本軍の持っていた欠陥は、
当時の日本の持つ欠陥であったと述懐している。

歴史から教訓を汲み取らねば、
われわれは永遠にリモン峠の段階に止まっていることになる。
ただしこれは必ずしも旧日本陸軍の体質の問題だけでなく、
明治以来背伸ぴして、近代的植民地争奪に仲間入りした
日本全体の政治的経済的条件の結果であった。


フィリピン・レイテ島(NASA衛星画像)


北ボルネオ(NASA衛星画像)

北ボルネオ死の転進状況図

豊田穣著『北ボルネオ死の転進』(集英社文庫 昭和62年8月発行)
第437頁〜第440頁の豊田穣氏の『あとがき』、及び第442頁〜第446頁の横井幸雄氏の『解説』より抜粋転載

「世界第3の大きな島ボルネオの北部において、前人未踏のジャングルを東から西へ転進する
【死の転進】で、日本軍兵士は自滅といつた形でほとんど壊滅した。現地事情を知らぬ
旧日本帝国陸軍の参謀たちの机上の空論が悲惨な犠牲を生んだのである。

タワオ → サンダカン → ラナウ → ラブアン島は、およそ700キロである。
北ボルネオでの死者はおよそ18,000人。ジャングル内の転進で短期間に多数死亡した
例としてはガダルカナル、ニューギニア、ビルマに並ぶ悲惨な【死の転進】であった。」

【死の転進】を体験された、俳誌「杉」主宰者、森澄雄氏は日本経済新聞07年8月11日の
『私の履歴書』で、「ジャングルの湿地帯の後は2000b近い高地が待っていた。疲れきった
体には一歩一歩の、特に上りより下りのつらさは言いようもなかった。タワオを出て200日、
ようやくメララップにたどりついた。

この無謀な行軍で生き残ったのは、ぼくの中隊では200人中8人、小隊では50人中わずか
3人だった。皆、ジャングル内での飢えマラリア死亡したのである」と述べている。


フィリピン・ルソン島(衛星画像)

2007年8月16日、NHK衛星第1テレビから『証言記録 マニラ市街戦 〜死者12万人
焦土への一ヶ月』
が放送された。

1945年2月3日〜3月3日、牢固たる玉砕思想を持っていた【狂っていた】旧日本帝国海軍の
参謀たちは、わずか24,000人の装備劣悪なマニラ海軍防衛隊で、フィリピン人市民10万人を
巻き添えにして死亡させた【マニラ市街戦】【無理心中作戦】を強行したのである。

山下大将率いる旧日本帝国陸軍の第14方面軍は、100万人のマニラ市民に惨禍が及ぶことを
懸念して、マニラを放棄してルソン島北部の山岳地帯へ転進していた。

【狂っていた】旧日本帝国海軍の参謀たちが強行した【マニラ市街戦】【無理心中作戦】の、
地獄さながらのあまりにもの悲惨さに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

亡くなられた方々に深い哀悼の意を表すると共に、あまりにも【無知で愚か】であった
旧日本帝国軍部(陸海軍)の最高指導者たちが、最後の最後まで叫び続けていた
【本土決戦】=【無理心中作戦】が行われたならば、日本全土が地獄と化して、
日本民族は滅亡していただろうと考えざるをえない。

参考資料:
井口光雄著 『激闘 ルソン戦記』 光人社 2008年3月発行


ビルマ・インパール(NASA衛星画像)
ビルマにおける太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約17万人といわれる。

インパール作戦は、第15軍司令官・牟田口廉也陸軍中将が立案・強行した
【無知で愚かな無謀な作戦】であつた。
投入兵力
8万6,000人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2,000人であった。
退却路に沿って延々と続く、ウジの湧いた病死者・餓死者の白骨死体が横たわる
むごたらしい有様を、敗走する日本兵は
【白骨街道】と呼んだ。
赤痢などに罹患した病死者・餓死者の遺体や、動けなくなった敗残兵は、
衛生上、敗走する日本軍よりもむしろ危険であったため、
英軍は追撃途上で、生死を問わず、ガソリンをかけて焼却した。

無事、日本に帰還した牟田口軍司令官は、戦後、
この【無知で愚かな無謀な作戦】について何らの反省・懺悔することなく、
自己弁護に終始した。「自分に責任は無かった」旨を強調する話を、パンフレット、
ラジオ、テレビ、雑誌などで機会あるごとに強調していたという。
許し難い卑劣な行為である。

研究資料:
信濃毎日新聞 2007年12月11日第1面より抜粋転載
この抜粋文は著作権者と信濃毎日新聞社の許諾をいただいて転載しています。
コピー及び転載は禁止します。


語り継ぐ生還兵 「戦場は人を狂わせる」


1944年(昭和19年)、当時25歳だった友田浩(88)さんは、陸軍の中隊長として
大敗を喫したインパール作戦のただ中にいた。20日間分の食料と弾薬を入れた
20キロのリユックを背負い、約5カ月間ひたすらジャングルを歩いた。

友田さんの隊は200人。最初から前線にいて生き残った者は5人にすぎない。
死者の7割は餓死だった。
「自分がどうして生きて帰れたか、今でも分からない。狂っていました。」
友田さんは戦場で、逃亡しようとする部下に向かって銃を撃つ中隊長を見た。
「戦争は人をおかしくさせる。でも、そうでなければ戦争なんてできない。」

進めば死ぬ。逃げ出せば、さげすまれ、やはり死が待っている。
その境遇に追いやられ、命を差し出した者を「美しい」と言い始めた日本人。
「死んでいった友のためにも、自分の国をどう守るかは真剣に議論してほしい。」
「負けると分かっていて、どんなに悔しい思いで死んでいったか。
それを語り継ぐため、私は生かされた。」
戦争は人と人とがお互いに殺し合うことしか考えていない。
地上にこれほど無残な犯罪はない。

88歳の友田浩さんは体が動く限り講演に出掛ける。

丸山静雄著『インパール作戦従軍記』 岩波新書 1984年6月発行 第184頁〜第185頁

ビルマ方面軍兵帖参謀倉橋武夫中佐によれば第15軍の状況は次の通りである。

作戦前の総兵力15万5,000人
生還者総数3万1,000人
犠牲者総数12万3,000人
犠牲者率80%

また別の資料によれば、チンドウィン河を渡って作戦に参加した
総兵力は3個師団約10万人、戦闘の結果、戦死あるいは戦傷病死したものは約4万人、
再びチンドウィン河を渡り帰りえた者は約6万であった。
しかし、帰りえた約6万人の中、おそらく約2万人は傷病患者、残る約4万人も、大部分、
マラリア、赤痢に冒されていたであろう。

さらに別の資料によると、インパール作戦の死者は合計13万7,000人に達した
とする数字もある。

高い犠牲率
このように、資料によ.て数字には相違はあるが、共通して指摘されていることは、
犠牲者が驚くほど多かったことである。小部隊ならばいざ知らず、3個師団を擁する
大軍団で、これほど高い犠牲率を出した例が他にあるだろうか。
火器などの損粍についても、倉橋資料によると、チンドウィン河をこえて搬入した火砲、
車輌、馬匹、家畜は、その大半が破壊、殺傷され、あるいは戦場に遺棄された。

初期に退却した部隊は軽兵器(機関銃、郷弾筒、手榴弾、小銃)を持ちかえったが、
遅れて退却したものは小銃、帯剣をも捨て、水筒か飯盒を持つだけだった。
なかには、それすら持たず、杖一本にすがって退却したものも少なくなかった。
惨たる戦いの結末であった。



参考資料:高木俊朗著『インパール』 文春文庫 1975年7月発行


東部ニューギニア・ウエワク一帯(NASA衛星画像)
ニューギニアにおける太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は約13万人といわれる。


東ティモール・ディリDili(NASA衛星画像)
ティモール島、カリマンタン島(ボルネオ島)、及びスラウエシ島(セレベス島)における
太平洋戦争中の日本軍軍人・軍属の戦没者は
約8万人といわれる。


ニューブリテン島(NASA衛星画像)

07年8月12日、NHKから『鬼太郎の見た玉砕』が放送された。
太平洋戦争時、南太平洋・ニューブリテン島において、【狂っていた】
最高指揮官の無謀な玉砕突撃(=自殺突撃)から生き残り、
辛うじてセントジョージ岬にたどり着いた士官・兵士たちに対して、
彼らの上官であるラバウル兵団長(現地日本軍の最高指揮官)と参謀長は、
兵団参謀に、「彼ら全員を秘密裏に処分せよ(=殺害せよ))と命令する。

酷薄非情な兵団参謀は、軍医を射殺し、リーダーの士官2人を浜辺で自殺させ、
兵士77名を玉砕突撃(=自殺突撃)させ、自分一人、平然と司令部に帰っていく。
【狂っていた】非人道的な旧日本帝国陸軍の最高指揮官たちと参謀たちの
【思考と行動】を赤裸々に示す背筋が寒くなる怖ろしい場面が放送された。


沖縄(NASA衛星画像)
沖縄戦における軍人・軍属及び民間人の死亡者は20万人以上といわれる。

那覇市中心部:Photo by US Army

那覇市中心部:Photo by US Army

那覇市:Photo by US Army

出典:藤原彰著 『餓死(うえじに)した英霊たち』 青木書店 2001年5月発行
第233頁〜第235頁
むすび

日本軍戦没者の過半数が餓死だったという事実に、
私はあらためて驚きを感ぜざるを得ない。

しかもそれはある戦場の特別な事例なのではなく、
全戦場にわたって起こっていたのである。

補給の不足または途絶による戦争栄養失調症が常態化し、
それによる体力の低下から抵抗力を失って、マラリア、赤痢、脚気などによる病死、
つまり広い意味での飢えによる死、餓死を大量発生させたのである。

それも珊瑚礁の孤島や、
人の住まない熱帯性の密林などでなく、
人口豊富なフィリピンやビルマや、
さらに、中国本土においてでさえも発生して、死因の最大を占めているのである。

これは自然の条件によってもたらされた災害や、
偶然の事情が重なって起こった不可抗力の事件ではない。

日本軍に固有の性質や条件が作り出した
人為的な災害なのである。

もともと無理で無茶苦茶な作戦を計画して実行したり、
はじめから補給を無視して栄養失調が起こるのに任せたり、
これらは、故意に作り出された人的原因による結果だった
といわざるを得ないのである。

本書はそのことに焦点を置いて、
餓死発生の原因を追及してきたつもりである。

その結論は、おおよそ次の通りである。

餓死者の大量発生が特別な場合なのでなく、
日本軍の戦場ではどこでも起こっていたのはなぜか。

それは日露戦争以後の日本軍が、
積極果敢な攻勢至上主義をとり、
このための先制主導の戦略戦術が至上とされ、
作戦担当者は、この積極主義者によって占められた。

しかも、彼らは独善と専断を育てるエリート教育を受けていた。
彼らは作戦目的が至上で、兵站や補給、給養や衛生は、
すべて作戦に奉仕すべきだとしていたのである。

それを主要ないくつかの作戦で明らかにしてきた。

それによると、
まず第一に作戦目的があり、
目的達成のために計画が立てられるが、
そのさい輸送補給、給養や衛生といった
軍隊生存の必要条件までもが作戦優先主義のために
軽視または無視されたのである。

はじめから、補給をまったく無視して計画された
ポートモレスビー攻略戦やインパール作戦はもちろんのこと、
有史いらいの最大の作戦という中国の大陸打通作戦でも、
「糧を敵に借る」のがそもそもの方針で、
大軍にたいする補給の計画が立てられていなかった。

補給の目途がまったくない太平洋の孤島に
多数の陸軍を配備して、
みすみす餓死の運命に晒したことも同じ発想である。

つまり日本の作戦には補給の重要性についての
認識がまったくなかったのである。

このことは日本軍の特徴によってもたらされたものであった。
兵士の生命を病気や飢えで失うことへの罪悪感が欠けていた
のである。

それは、そもそも、
軍隊が兵士の生命と人権を軽視していたからであった。

当然問題とされるべき大量餓死の発生が、
特別の問題ともならずに
何回でもくりかえされたことにそれが現れている。

他国の軍隊に比べて、
日本軍では戦闘の主役として、
陸軍では歩兵、
海軍では戦艦が尊重され、
それに反して兵站や輸送、補給や衛生に関する部門は
軽視され差別されていた。
そのことも餓死と無縁ではないといえる。

こうした日本軍の特質をもっともよく示しているのが、
捕虜の否定と降伏の禁止である。

国際法を無視し、日本軍人は死ぬまで戦うべきで
捕虜は恥辱であるとする考えが主流となった。

日中戦争やノモンハン事件で捕虜の禁止は定着し、
捕虜帰還者は軍法会議で重刑を受けることになった。

この捕虜を認めず降伏を許さない日本軍の建て前が、
どんな状況の下でも通用したことが、
大量餓死や玉砕の悲劇を生み出したのである。

この戦争の日本軍の場合、孤立しあるいはとり残されて、
全体の戦況に何の寄与することもなくなり、
ただ自滅を待つだけとなった部隊でも、降伏が認められない以上、
餓死か玉砕以外に選ぶ道はないという場面が多かった。

もし降伏が認められていれば、
実に多くの生命が救われたのである。

そもそも、無茶苦茶な戦争を始めたこと自体が、
非合理な精神主義、独善的な攻勢主義にかたまった
陸海エリート軍人たちの仕業であった。

そして、補給輸送を無視した作戦第一主義で戦闘を指導し、
大量の餓死者を発生させたことも彼らの責任である。


無限の可能性を秘めた有為の青年たちを、
野垂れ死にとしかいいようのない
無惨な飢え死に追いやった責任は明らかである。


藤田嗣治・サイパン島


         


藤田嗣治・アッツ島玉砕
愛国洗脳教育が旧大日本帝国を滅ぼした!

アッツ島の玉砕(降伏者ゼロ、全員戦死)

 アッツ島は、アリューシャン列島の西端に位置し、北海道の知床岬から約2,200キロである。
北海道−沖縄間の距離に相当する。島の広さは、東西約56キロ、南北約24キロである。
海岸の95%は岩壁で、平地はツンドラの湿地帯である。気候は年間を通して霧が深い。
人はほとんど住んでいない。この島は米国の領土。

 日本がアッツ島とその隣りにあるキスカ島に部隊を駐留させることにしたのは、1942年
4月18日に、米軍のドウリットル航空隊によって東京爆撃が行われたためである。
両島から、日本本土爆撃機が出撃し、日本本土空爆が頻発すれば、国民の士気に影響する
と懸念されたためである。

 旧大日本帝国陸海軍は、1942年6月−7月、アッツ、キスカの両島を占領した。当初は、
航空基地の建設を考えたが、アッツ島は各種の自然条件が悪く、一旦、あきらめた。
しかし、その後、米軍の軍事基地がキスカ島の西方にあるようだとの情報が入ったので、
再びアッツ島で航空基地建設を行うことになった。

 1942年10月、この二つ島を守るために、北海守備部隊が新しく編成された。
部隊長は山崎保代大佐であった。この北海守備部隊の中のアッツ島守備部隊は、独立歩兵
303大隊、北千島要塞歩兵隊などのほか、高射砲、工兵、無線などの隊等、総勢2,500人で
構成された。

 アッツ島守備部隊は、資材の輪送が思うように行かない中で、航空基地の建設にあたった。
米軍の上陸・攻撃は予想しておらず、防御陣地の構築は行われなかった。

 米軍は、アリューシャン列島のひとつアムチトカ島に軍事基地を建設した。1943年に入って
からは、アッツ、キスカ両島へ資材・食糧を運ぶ日本の輸送船を狙い撃ちするようになった。
日本軍の制空権、制海権は、次第に失われていった。

 アッツ島への米軍の上陸攻撃は、1943年5月12日から始まった。アッツ島守備部隊の
山崎部隊長から、「5月12日未明、米空軍の猛烈なる爆撃が開始された。次いで、約1個師団の
地上部隊が上陸した。アッツ島守備部隊は既設陣地に拠り、この敵を反撃中」との電報が入る。

 米軍はアッツ島を奪取してアッツ島守備部隊が建設中の航空基地を奪い、自らの基地に
しようと考えたのである。北方の孤島とはいえ、アッツ島は米国の領土である以上、日本軍を
居座らせておくわけにはいかないとの面子(メンツ)もあって、なんとしても、この島を奪還する
との強い意思があった。



 米軍上陸から19日目の5月29日、山崎部隊長は、北方軍の樋ロ季一郎司令官に宛てて、
「思い残す事はない。現時点で使用し得る兵力は150名。一団となって、全員残らず討ち死する
決意である。私共は永遠の生命に安住する。祖国の栄光を祈る。天皇陛下万歳」との最後の
通信を送った。アッツ島守備部隊玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)を伝える電報であった。

 アッツ島に上陸した米軍は、船団29隻、完全装備の兵士数約15,000人という戦力であった。
兵士数が1,500人のアッツ島守備部隊が対抗できるわけがなかった。それが19日間も持ち堪えた
のは、夜戦に持ち込んだことと、最後の一兵まで戦えとの大本営の命令があったからである。

 米軍の『公刊アメリカ軍戦史』に米軍の中隊長の証言がある。
証言の中に描かれている日本軍兵士たちの最後の姿はいたましい。

「霧の中から300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。
右手に日本刀、左手に日の丸を持っている。どの兵隊も、どの兵隊も、ボロボロの服をまとい、
青ざめた凄まじい形相をしている。銃のない者は短剣を握っている。最後の突撃というのに、皆、
どこか負傷しているのだろう、足を引きずり、膝をするように、ゆっくりと近ずいて来る。

 われわれ米国兵は身の毛がよだった。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。
しかし、しばらくすると、むっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり、一尺、一寸と、這うように
米軍に迫ってきた。」

 玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)の最後は、このような鬼気迫るいたましい姿だった。


 北方軍の樋口司令官は、山崎部隊長に、米軍が上陸してきたら、すぐに、増援部隊を送ると
約束していた。実際、米軍が上陸したとき、樋口司令官は、逆上陸を企図して、旭川の第7師団の
一部で、増援部隊を編成し、大本営に、この部隊をただちにアッツ島へ派遣したいと申し出た。

 しかし、大本営の秦彦三郎参謀次長は札幌を訪れ、樋口司令官に対して、「残存の海軍艦艇の
現状からみて、増援部隊をアッツ島派遣することは無理。到底できない」と説明した。

 樋口司令官は、山崎部隊長に、増援部隊派遣は実行不可能と伝えて、
「一死、困難に殉ぜられたし」と打電した。
降伏を認めない以上、これは、
【死ね】という宣告であった。

卑怯・非情で無責任極まる大本営作戦参謀たち(戦後、だれも切腹していない!)

 アッツ島守備部隊玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)経緯から次の点が指摘できる。
@
大本営作戦参謀たちは、明確な戦略がないのに、安易に、アッツ島に兵士たちを送った。
しかも、目的は航空基地建設のため工兵隊が主体であった。(ガダルカナル島の場合もそうであった。)
A
大本営作戦参謀たちは、米軍の攻撃があった場合は増援部隊を送るとしながら、実際には
制空権も制海権も失い、増援部隊を送ることができなかった。
B
大本営作戦参謀たちは、増援部隊を送ることができないが、米軍に降伏して捕虜になる
ことは絶対に認めないから、最後の一兵まで戦い、全員戦死せよと、司令官、部隊長、
各隊長に厳命した。これが玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)の実態である。

 なぜ玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)かといえぱ、まさに、「戦陣訓」にある、
捕虜になることは絶対に認めないという強い国家意思を、
兵士たちのみならず、日本国民全員へ徹底するためであった。

万一、仮に、捕虜になって、その後、生きて日本へ帰ってきても、
日本の社会は、捕虜になった者の復帰は絶対に認めない。だから、戦闘で負けたら、
何が何でも、【死ね】というのが戦時中の強い国家意思であつた。
そのくせ、東条英機、嶋田繁太郎などの最高指導者たちと、大本営の作戦参謀たちは、
杉山元、阿南 惟幾、大西瀧治郎など数人以外は、だれも責任をとっての切腹はしなかった。
戦後、平和な日本で、年額800万円以上の超高額の軍人恩給を終生貰い続けた。

 アッツ島玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)は、戦時美談として、国民の士気を鼓舞する話に
すりかえられた。『戦争哲学』の著者であり、戦陣訓制定の陰の功労者であった中柴末純
(総力戦学会会長)は、アッツ島玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)を評して、「生きた戦陣訓が、
まざまざとここにある。この戦陣訓を胸に生かして、アッツ島二千幾百の英魂を死なせては
ならぬ」との談話を発表している。アッツ島守備部隊は、確かに、「戦陣訓の具現者」であった。

 アッツ島守備部隊の玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)は、大本営の作戦参謀たちの無責任に
端を発している。大本営作戦参謀たちは、自分たちの思いこみだけで兵士たちを派遣した。

 そのことに関して、玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)後も、寸分の検討・反省がなかった。
すべての責任は戦場で戦う部隊に押しつけるというのが大本営作戦参謀たちの無責任極まる
図式であった。

 大本営作戦参謀たちは、自分たちの無責任を糊塗するために、「大本営発表」でアッツ島
守備部隊を英雄視する内容を国民に伝えた。

1943年5月30日17時に発表された内容:
 「アッツ島守備部隊は、5月12日以来、極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対し
血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し、最後の鉄槌を下し、皇軍の神髄を
発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後、通信全く杜絶し、全員、
玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、攻撃に先だち、悉く自決せり。」

洗脳教育は、
洗脳する者と洗脳される者の双方の
判断力、思考力、道義心を大きく劣化させ、
国を滅ぼす


アッツ島玉砕後、旧大日本帝国・大本営の作戦参謀たちの玉砕戦術は、
戦況の悪化につれて、増幅され、際限なく続いていった。

アッツ島の玉砕(全員戦死、降伏者ゼロ)に続いて、タラワ、サイパン、
テニアン、ダアム、硫黄島、そして沖縄など、どこでも玉砕戦術がとられた。

戦時中、あたかも、これが日本的な戦いであると称揚された。

旧大日本帝国政府と大本営の、日本国民誑かし政策であった
【玉砕美化称揚】は、現在にいたるまで、厳密に検証・分析されていない。
民間人を巻き込んだ旧大日本帝国陸海軍の無理心中作戦である
玉砕戦術は、明確に、旧大日本帝国・大本営作戦参謀たちの戦争犯罪である。

筆者は、玉砕戦術が続いた状況、すなわち、客観的には、日本が太平洋戦争で
勝利する可能性が100%なくなった状況下においても、
旧大日本帝国陸海軍が米国に降伏することができなかつたのは、彼らが、
あまりにも徹底的な愛国洗脳教育を日本国民に対して行った
必然的結果であると考えている。

昭和天皇の「降伏する」という断固たる決意がなければ、
1945年、日本国も日本民族も、超完全に滅亡していたと思う。

1931年−1645年の日本は、軍隊と同じ様な閉鎖集団であった。

軍隊という閉鎖集団では、心理的にも、肉体的にも、上官に対する屈服や
隷属の度合いが激しい。自立や自律の思想や哲学は、リンチという暴力で
徹底的に排除される。閉鎖集団への心理的、肉体的隷属を受け入れなければ、
集団から肉体的に抹殺されるのである。

玉砕した兵士たちが残した手紙や特攻隊員たちの手記は、両親や、妻子や、
兄弟姉妹たちへの思慕だけでなく、徴兵される前に身につけた自らの価値観を
拠り所として生きて行きたかったとを訴えている。

閉鎖集団とは、非力な個人にとっては、冷酷・非情な存在であることを強く認識
することが、アッツ島玉砕から、我々が学び取らねばならない教訓である。

旧大日本帝国陸海軍の最高指導者たちは、昭和天皇から、統治権・統帥権を
簒奪して、日本国を乗っ取り、日本国民を戦争へと駆り立てた。

しかし、彼らに、一億総特攻とか、国民総玉砕などで、日本国を徹底的に
破滅させる権利、日本民族を徹底的に破滅させる権利がある筈がない。

2012年秋、愛国主義者と自称して、また、日本国民を誑かそうとする
右翼・軍国主義の政治屋が増えている。

くわばら、くわばら!

日本国民の洗脳に狂奔した旧大日本帝国陸軍

昭和天皇を傀儡化し、昭和天皇の意思をことごとく無視しておきながら、
不忠きわまる旧大日本帝国陸軍は、天皇崇拝、「天皇陛下のために死ね」教育、
神州不滅論、皇軍不敗スローガン、暴支膺懲(ぼうしようちょう)主張
(暴虐な
支那=中国を懲らしめる)「生きて虜囚の辱めを受けるな」洗脳等、
日本国民に対するさまざまな洗脳教育に狂奔した。

「生きて虜囚の辱めを受けるな」洗脳の先頭に立っていた東条英機など、
旧大日本帝国陸海軍の最高指導者たち18人は、
昭和天皇の意思をことごとく無視して、
日中戦争を拡大
し、
日独伊三国同盟を締結し、
あまりにも無謀な対米開戦に踏み切り、
筆舌に尽くしがたい
昭和戦争の惨禍を引き起こし、
挙げ句の果て、敗戦した。

しかるに、切腹して無謀な意思決定の責任をとることもなく、
おめおめと米軍に捕らわれて、
東京裁判に引き出され、
「生きて虜囚の辱め受け」言行不一致、すなわち、
日本の最高指導者として国民に教え込んだことと、
実際に自分たちがやったこととは、
まったく異なることを実証して、恥を全世界に晒した。



【戦陣訓】なるものがあった。
旧大日本帝国陸海軍は、徴兵した召集兵士たちに対して、
「捕虜になることは絶対に認めない」
万一、捕虜になって、生きて日本に帰ってきても、
日本の社会や家族は、捕虜になったものを絶対に受け入れない。
だから、「降伏して捕虜になるより、いさぎよく死ね」と徹底的に洗脳した。

この洗脳教育が徹底していたカウラ捕虜収容所にいた日本人捕虜たちは、
「日本が勝利して、戦争が終わり、万一、幸運にも、日本に帰国できたとしても、
家族に迷惑をかけ、社会からは迫害されるだろう。
それよりも、いさぎよく死のう」という絶望感から
「死ぬこと」を目的に集団脱走したのである。実に悲惨な事件であった。

現在、中国と韓国が行っている
愛国反日洗脳教育も両国を滅ぼす!!


関連サイト:本土決戦 1億総玉砕−国民を道連れに無理心中!




参考You Tube:ゆきゆきて神軍