ぼくは偏食人間

中島義道
2001年8月
新潮社

1月から12月まで日記形式で書かれている。たしかにひどい偏食である。食べるものに限らない。騒音や照明にもうるさい。非偏食家は一般化が大好きで、偏食であるのは個性的で、むしろこちらの方がノーマルだと、居直っているふうにもうかがえる。いやはいや、嫌いはきらいとはっきりしている。

奥さんはひとり息子とウイーンに住む。別居状態のようだ。大学の哲学の教授だろうか。著作の仕事の関係もあるのだろう。年のうち家族がそろうのは限られている。でもこれほど偏食になると、ひとりで住むほかないかもしれない。

食べられるものと食べられないものの、区別が複雑である。単純に魚とか野菜とか果物とかで割り切れない。素材だけでなく組み合わせでも変わってくる。人から偏食の理由を問われると、「あなたは飼っていた子猫を食べられますか」と答える。

ひとりでの食事だけだったら、あまり問題にならない。いやなものは食べなければいい。それでも自炊はないから、作る人は大へんだろう。外で食べるときも困るのは明らかだ。

食べ物でほかの人ともめ事が起こる可能性は少ない。ほかの人と共有する特に公共の場で、問題が起きる。騒音には耐えられない。照明も、明るすぎても暗すぎても妥協できない。

まず駅や電車の中で、お節介放送、マイクの音量に言いがかりをつける。駅員や車掌はいい迷惑だ。なにしろ、ただの人間ではない。さんざん抗議を受けて、その上「うるさい日本の私」の自分の著書を読めと、むりやり渡す。

圧巻は電車内で、携帯の女性とのいざこざ。一度ならず二度も、しつこく注意されて女性が切れる。「どうして、わたしにだけ...」と泣くように叫ぶ。騒動に車掌がやってきて中にはいる。それでもおさまらない。

とうとう二人は次の駅で降ろされる。駅長室にはいって、さらに口論が続くが、最後に女性が涙を流して謝る。さすが見上げた偏食人間である。

読者はこの「ぼく」のように偏食ではないが、たしかに電車などでのマナーで気にことが少なくない。立っている人がいるのに、席を少しでも詰めようとする思いやりに欠けている。堂々と二人分を占拠して平気だ。荷物をひざに載せるぐらいのことができないのだろうか。

病院に行っても気になることがある。名前を呼ばれても、だれも返事をしない。プライバシーで、名前が公になると困るのだろうか。あるいは、病気で声を出すのもつらいのだろうか。どこか変だ。

道でもどこでも公の場で、平気で物を捨てる人がいる。また煙害にも悩まされることが多い。偏食人間のように耐えられなくなれば別だが、大抵は見て見ぬふりをする。ひきょうだが、注意するのも相手によりけり、危険を覚悟しなければならない。('06.11.10)


彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。
コリント人への手紙第二 11章23節