妹



6    オペ 10月10日 雨
手術前日、朝から病院に出向き、詳しい術前説明を 義弟、妹と3人で聞いた。
 
手術当日、朝から、雨。
入院中、どれだけ雨が降っただろう。
バレーの練習を休んで、7時半、病室に向かう。
妹はすでに手術着に着替えていた。
8時15分、肩に注射。
私は、自分自身のしこりのようなものが気がかりで、妹のしこりを触らせてもらったが、奥のほうで、よくわからなかった。
父と妹も到着。
ストレッチャーに乗り、40分、病室を出た。
手術室前では、妹と、束の間の見送りだった。
ただ、手を握り、大丈夫だよ、と言う事しかできなかった。
 
9時15分、手術開始。
家族待合所で、遅い朝食を食べた。
母が、作ってくれたおにぎり、1個、食べるのがやっとだった。
待っている間に、コインランドリーに行き、洗濯もした。
外は激しい雨。
 
約2時間後、手術が終わり、「Sさんのご家族の方」と呼ばれ、術後説明を受けるために手術室のロビーに入った。
義弟と私は素通りしたが、父は、「どなたですか?」と尋ねられた。
そりゃそうだよね。
そこには、妹の肉体から切り取られた乳房が、銀色のバッドの上にあった。
「これ、なに?」って思ってしまった。ごめんね。
大切な乳房なのに、それはもう、生きてはいなかった。
血が通っていない乳房は、まったく違う色をしていた。
 
T医師が、乳房の奥の方にある癌を見せてくれた。
真珠のような乳白色だった。
そして、険しい顔で、赤黒く腫れたリンパ節を示し、肉眼で見ただけでも、リンパ節転移は8個あること、
しかも採れる限りの奥の奥まで転移していたことから、さらに奥までの転移が予想されること、
転移数は0個、1〜3個、4〜9個、10個以上と分類されること、それによって治療も予後も変わること、化学療法をすることなどが語られた。
 
しばらくして、病室に戻ってきた妹は、苦しげだった。
こちらの言葉には、反応するものの、気分も悪く、寒がった。
 
子供たちのこともあり、義弟は夕方帰宅した。
末妹と私は、消灯まで残った。
そして、同室の皆さんに妹をよろしく頼み、病院を後にした。
雨はますます強くなっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

7    手術にまつわるエトセトラ
病室を出ると、もう1人、一緒に手術室に向かう患者がいた。
手術室は北棟、その方は2階、妹は1階。
南病棟のエレベーターには、2台のストレッチャーと付き添う看護師さんでいっぱい。
もう一機は上に向かってる。
私達家族は、階段を駆け降り、1階へと回った。
南棟1階のエレベーターは、ごったがえした乳腺外来の前、こんなところをストレッチャーで運ばれるなんてイヤだな〜って思った。
しかし、エレベーターは2階で止まったまま、なかなか妹を運んでこない。
どうしたんだろう?
まさか?と、手術室の前に行くと、そこには家族を待ちかねた一行がいた。
2階から、北棟のエレベーターに移動したらしい。
最初から、言ってよね〜。
おかげで、ちょっとしか一緒にいられなかったじゃないの〜。
 
待ってる間に、妹の洗濯物を、例の不吉なコインランドリーへ。
術後説明の後、ちょうど乾燥機が止まった頃だと、取りに行くと、
北棟のエレベーターの1機が止まり、手術患者移動のために止まってる旨の札がかけられていた。
絶対、KAZちゃんだ! 急がなきゃ!
乾燥機から大急ぎで洗濯物を取り出し、袋に放り込み、駆け出した。
さっき止まっていたエレベーターは、上に向かっていた。
私は、階段を駆け上った。
おかげで、妹が病室に着く前に廊下で追いついたが、呼吸は、妹よりも荒かった。
日頃、鍛えてるとはいえ、地下2階から、4階までのダッシュは、きつい。
その後、大粒の汗が噴き出した。
 
 
 
 

8    その頃の私T
当時、息子は中3、受験生。
塾だの模試だの保護者会だのと忙しい日々だった。
また、私はPTA本部役員3年目、副会長なんぞをしていたものだから、文化祭の準備やら、講演会やら研修会もあった。
そして、バレー三昧の39歳、体重60キロの日々であった。
 
妹のことがあって、初めて自分の乳房を自己検診してみたら、何かあるのよ〜。
しかも両胸。
少し早いが、ちょうど40歳の検診があったので、あわせて乳がん検査もしてもらうことにした。
検診を受けたのが、10月15日(月)、その日のうちに血液、尿、便以外の結果を言われた。
心電図の結果がよくなかった。
不整脈が見つかったのだ。
 
19日、運動負荷心電図のひとつ、段階を踏んでスピードや角度がつくベルトの上を歩くことで運動負荷を行う「トレッドミル検査」を行い、その後、ホルター心電図を装着した。
それは、長時間の心電図が記録できる携帯用の機器で、24時間連続して記録を行い、コンピュータで解析、再生する。
最高、最低心拍数や不整脈の種類、数、発生時間や心拍数との関係などから、不整脈の診断をすることができる。
胸に心電図の電極をはりつけ、それを腰に固定した記録計に接続。
記録計には自覚症状があった時に押すボタンがあり、検査の最中は行動や自覚症状を書く日記帳をつけるものだ。
結局、運動しても何も問題は無かったし、このまま様子をみることとなったが、不整脈の回数が、1日に5千回もあった。
通常、脈は、1日10万回なので、私は20回に1回は脈が飛ぶことになる。
結局、その後、心電図には問題ない。
妹のことが、それだけ気がかりだったのだろう。
 
乳がん検診は、火曜日の乳腺外来。
自覚症状、また妹のことも話し、触診でしこりに触れたので、マンモを撮り、超音波もしてもらった。
良性のようだが、妹のこともあって心配だろうからと、同じ癌専門病院に医療連携で予約を入れ、希望通り、妹のG副主治医が担当する、月曜日にしてもらった。
妹からも、G医師には話が通じていて、診察が受けやすかった。
私と乳がんの付き合いが始まった。
 
妹の入院期間中、体重は、57キロになっていた。
 
 
 
 

9    緊急手術 10月17日
手術当夜は、吐き気をもよおし、同室のみなさんのお世話になったようだが、妹の術後の経過も順調、私は、ほぼ毎日面会に通った。
 
退院日は予定通り17日のはずだった。
前日、退院は義弟と2人でいいからと言われ、私は、またしても雨のその日、バレーの練習に行った。
休憩時間、携帯が鳴った。
末妹からだった。
 
妹が、内出血で、緊急手術をすることになったというものだった。
何回もの電話の不在着信履歴があり、メールも入っていた。
父の伝言もあった。
とりあえず、母も病院に向かったというが、私もバレーを切り上げて、ジャージにレインコート姿のまま向かった。
 
電車を降り、いつもは歩く道もタクシーで急いだ。
タクシー下車後も、病院の入り口に走って向かった。
自動ドアが開くよりも早く、入り口に飛び込んだ私は、おでこを思いっきり、ぶつけた。
ドアには、練習で汗をかいたままの私のおでこの痕がくっきり残された。
ドアが割れなくて、よかったよ。
 
病室に着くと、すでに義弟がいた。
同室のみなさんが、口々に状況を話してくれた。
朝、今日は退院だけど、なんだか気分が良くない、と言っていた妹は、突然、ふ〜っと意識がなくなった。
皆さんが慌てて、看護師さんを呼び、医師の診断の結果、手術した胸の中に血が溜まり、貧血を起こした、というものだった。
内出血を抜き、止血するためにもう1度、傷口を開くということだった。
私が到着したときは、意識もあり、胸の上からさらしのように包帯を巻いて、止血していた。
もう1度、あの手術台に向かうのが、恐い、もういやだ、と言った。
手術は昼からだった。
母も間に合った。
 
手術着に着替え、手術用の帽子を被った娘を見た母は、「あら〜、天使みたい」と一言、それなりに大きな声で。。。
おいおい。。。(^^;
病室の皆さんに聞かれてしまったよ。
 
手術はすぐに終わったらしい。
というのは、お昼ということもあり、すぐ前の喫茶店でパスタを食べていて、戻ったら終わっていたのだよ。(^^;
看護師さんも、K部長も、探してたよって、言われちゃった。
 
前日のドレーンを抜いたとき血管に傷がついたか、もしくは最初の手術時に傷ついたが、たまたまドレーンで塞がれていたのではないか、ということだった。
他の病院では、こういった例は聞いてますが、ここでは初めてです。
だとさ〜。
 
3リットルもの血液が溜まってたそうだ。
輸血はしないで済んだけど。。。
退院が5日、延びた。
 
 
 
 
 
 
 

10    退院
話は緊急手術の少し前に戻るが、CTの結果、肝臓に良性と思われるが、血管腫があったとG医師から告げられた。
退院後、MRIを撮りましょう、とのことだった。
 
また、化学療法は、25日からとなった。
この病院では、CMFはそのまま乳腺外科が担当するが、CAFは化学療法科となる。
入院中、化療科を受診した。
その初診で、治療の説明や問診等を担当したのが、今の私の主治医となっている。
当時、消化器外科を経て化療科にてお勉強、その後、乳腺外科にいる。
退院が延びたが、治療日は予定通りとなった。
 
やっと迎えた退院日は、22日(月)、私の初診日でもあった。
医療連携のおかげで、すぐに診察も検査も終わり、義弟と昼食。
午後、同室のみなさんにご挨拶して、退院。
妹は、私がプレゼントしたオレンジ色のブラウスを着ていた。
外は小雨が降っていた。
 



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