姫君の話。
主君の末の姫の話。
手のひらに大きな火傷のあとをもつ、誠に美しい姫君の話。
私をからかって遊び、いたずらに振る舞う、手のひらに大きな傷痕を刻まれた姫君の話。

小さな手が南東の方角へ掲げられた。あっちからいこう、と。
私は思わず掲げられた手に目を留めた。必ず目がいく。
その白い手のひらの中央、手首から人差し指の付け根まで火傷の痕がある。
かつて服部半蔵という家臣が負わせた傷痕である。
「そちは桜が好きかえ」
武門にとって桜は「散るもの」として忌みものともされているが、この屋敷にはいくらか立派な桜が花をつけている。
「・・・見るのは好きでございます」
「そう、では桜の見える廊下を通っていこう」
「遠回りになりまする」
「わたくしが桜を見るのが好きだから遠回りするのです」
姫様の語調はやや鋭くなって、私は短く「は」と応えた。
姫様の三歩後ろを歩いていたが、いつの間にか歩みが並んでいた。姫が歩調を遅くしたのである。
並んで歩くと、手をつなごうとさり気なく手が寄ってきた。その手を手で制す。
「畏れながら」
もうあの日々のようにあなたは赤子ではない。姿かたちが御母堂の若い頃とよく似てきている。
まつげの揃った瞳がじっと、見上げてきた。
「“おそれながら”なんじゃ」
「・・・」
「わたくしに恥をかかせるのはそちくらいじゃ」
「申し訳ございません」
「うん、許す」
途端に足取りは軽快になって、怒ったふりをしてからかったのだとわかる。
先ほどの「庭へ出るまでだけでよいから、一緒に遊んでおくれ」の言葉どおり
私という堅物相手に遊んでおられる。
そうこうしている間に視界の端に淡い桃色の花弁が映った。
姫様も足を止めて、桜を楽しむ。
五部咲きといったところか
「きれいね」
「は」
「なにか詠めるか?」
「無調法にございますれば」
姫君は小さく笑った。
「そうか、わたくしも上手くないからよかった。練習しても歌会で的外れをいうのは恥ずかしくて」
私は言葉を返せずに桜に目を移した。このように話すときは誠に素直でおわすのに、
それ以外のなんと偽悪的なこと。私をからかってみせるのも、すねてみせるのも、わがままをいってみせるのも。
ひねくれているように見せようとすることこそ、ひねくれている。

ふっと気配がして

女中が二人、廊下の先で引き返すのが見えた。それぞれに袖口を口元にあてて姫と忍の組み合わせから遠ざかる。
まずさを帯びた空気を打ち消すように「今日はね」と姫が続けた。
「今日は稲様がお越しくださるのですよ、ややごもつれて来てくれるかしら」
稲姫は今は真田信之殿のもとに嫁ぎ小松殿と呼ばれてはいるが、同じ徳川の養女である。昨年長男が
生まれたと聞く。歌会にも茶会にも、公の場に出ようとしない姫にとってその義姉は唯一の友人であった。
「そちも来ぬか、その、昼過ぎに向こうの」
なにやら勢いをつけて姫君が言うが、
「畏れながらつとめがございます」
「そ、そうか。つとめとあらば仕方ない」
目がおよいで、語尾が弱弱しくなった。わずかに哀れみを覚えてなぐさめる心地で
「宜しくお伝えください」と私が付け加えると
「うん」
これもまた弱々しくうなずいた。
私がそれきり黙ると姫君はおとなしくなった。
前を見て、鴬張りの廊下を進むだけになる。
日の差さぬ廊下に入った。
誰ともすれ違わなかった。
遠くで井戸水をくみ上げる音がする。
近くでりんとかんざしが鳴る。
今度は歩調を合わせてこない姫君の整った後ろ髪を見る。
いつ会っても、いつ見ても、この方の髪に挿してあるのは私の贈ったこのかんざし。
まだ今ほど俸禄のない頃に買ったもので安物だ。徳川の姫にはよくない。
ほら、ところどころ塗りが剥げている。
この方のそういった嗜好をそしる声は実際にある。
“そういった嗜好”とは暗殺間諜だまし討ちを生業にしている忍の贈ったかんざしをつけたり、その忍と戯れようと
すること。

今は表情のない姫君の唇からぽつりと言葉が落ちた。
「わたくしが半蔵を誘ったのに、どうして側女はおまえを睨んだのかしら」
姫様の手はぎゅっと握り締められていた。

「服部半蔵正成は何一つそしりを受ける謂れはない、それはわかっておきなさい」

言い終わるまでは私を見ず、言い終わってからも私を見ず、気付けばここは庭にのぞむ廊下。
「ここでよい」とだけ言われると、姫様はひとり別の方向にきびすを返し、私はその場に取り残された。
後姿で垣間見た右手のひらはやわらかく握られていた。





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