私は稲、稲姫と呼ばれていたものです。
今は真田に嫁ぎ、小松殿と呼ばれています。
私のよく知る徳川の末の姫君の話をしましょう。
未だ婿も定まらぬ幼姫であったのが昨日のことのように思えるけれど、もう幼姫ではなく、
美しく、茶会にも出ず、歌会にも行かず、屋敷でお気に入りの忍と戯れるばかりの姫君の話。
手の平に大きな傷の痕を持つ、手のひらの大きな傷しかもたぬかのような姫君の話。

”主の忍をたぶらかしてわがまま放題している徳川の末の姫がいるそうだよ”
この噂は沼田城の私の耳にまで届いていた。
けれどを叱りにきたわけではない。
「小松の君様」
「稲でよいのですよ」
末の姫はほっとした様子で「稲様」と挨拶をした。
「遠路のお運び、お疲れではありませぬか」
「大丈夫よ、鍛えていますから」
私が弓を引く真似事をしてみせるとぱっと笑った。
私も本多から徳川の養女となった身、年ははなれてはいるけれどこの子は妹にあたる。
「ややごもお健やにあらせられますか」
「ええとても元気。会いたい?」
私のややは今ニつ。の頬が少し赤らんで「会いとうございます」と三度もうなずいた。
「では次に戻るときにはきっと連れてくるわ」
「ややを抱っこしても」
「最近重いけれど大丈夫?」
「鍛えておりまする」
と袖などまくって弓をひく真似事をしてみせた。
「それにしても大人っぽくなって、私がややをつれてくる前にあなたのややを抱くほうが
先かもしれない」
「まさか、粗忽者なれば声をかけてくださるお相手もおりませぬ」
様、様」
突然に障子戸の向こうで子供の声がした。
「失礼いたします」と私に言い置いてからが戸を開けると殿のご側室の子が三人、庭に立っている。

「あ、お客様だ」
部屋の中に私の姿も見つけて童はしまったという顔をした。
「わたくしの姉君の小松の君ですよ」
が童に私を紹介した。三人はぴっと姿勢を正す。
「小松の君様、お邪魔して申し訳ございません」
「かまいません。に何か用があったのでしょう」
「は、はい!先生から字がうまくかけたとほめていただいたので、見せに参りました」
三人がそれぞれの手に半紙を持っている。
見て!見て!と三人三様に半紙に書かれたのを見せた。
「まあ、三人ともよく書けていること。もうこんなに難しいものが書けるようになったの」
に言われて童はもじもじと照れた。おや、まだ何か後ろ手に隠し持っている。
「じゃあこれ、様にあげます」
「先生がいないときにこっそり書いたから、先生と母上には内緒にしてください」
後ろ手に隠し持っていたものをに差し出し、は首をかしげながら受け取った。
「小松の君様、お邪魔しました。様、またね」
は渡された半紙を見て、くすくす笑いながら手を振りかえした。
「子らに好かれていますね、未来の旦那様?」
「そうかもしれません」
は謙遜せず言い、笑いながら半紙をこちらに見せてくれた。
書かれたものを見て、私もこらえきれずに笑った。
なにせ、最後に差し出された半紙には大きく「様」と書いてあるのだから。

はて、
とうてい思えぬ。
淫靡だ、性悪だ、と噂をたてらているのがこの子だとはとてもとても。

ひとしきり子らの振る舞いに笑い終わってから茶に口をつけた。
開け放たれた障子から入る風が心地よい。
さて、どう切り出したらよいものかしら。
と思っているとまだ笑った余韻の残る微笑のままでが切り出した。
「なにか、稲様のお耳にとどいておりますでしょうか」
目を見張った私の顔には確信を持ったよう。
「稲様は昔から嘘をつくのが弓ほどは上手くありませぬ」
まったく言うとおりで返す言葉もない。
「そうね、あなたがどうしてあんな噂を立てられているのか様子を見に来たのですよ」
「あんな、とは」
”茶会にも出ず、歌会にも出ず、お気に入りの忍をたぶらかして遊ぶ徳川の末姫”
淫靡、とまではさすがに本人の前で言えない。
は苦笑した。
「身に覚えがある噂ばかりです」
「歌会茶会はともかく、半蔵殿のことは潔白を示すべきだと思うの」
「あれはわたくしのわがままに逆らえないだけで、潔白を示す必要もないほど白です」
「手の火傷の理由を知らない者たちにそうは聞こえません。服部半蔵の名を貶めることにもなりかねない」
ここで、明らかといっていいほどにから表情が消え去った。
無意識に手をすり合わせて遊ばせている。
左手の親指で火傷の痕をさすっている。
「半蔵は何もしていません」
火傷の痕をさする。
さわり心地の違う傷痕が気になるらしく、この子は小さい頃から痕を指でさすった。
久しく見なかったが、その癖は未だに続いていたらしい。
半蔵殿と遊びたがる癖がやまぬのと同様に。
「わたくしがもう二度と会わなんだら・・・、あれへの醜聞はやみましょうか」
噂を止めるには会わないことが一番手っ取り早いだろう。
しかし二度と会わない、というのは思いつめすぎている
ここに来るまではを諭そうと思っていた。けれどああ、いけない。
大人のように振舞えるこの子が子供のように心を震わせる姿を目の前にして情が邪魔する。
「差し出がましいけれど、その・・・気持ちがあるのなら私からも殿にこっそり伝えしましょう」
なんだか私のほうが必死にそんなことを口走ると、はしばし呆気に取られた。
それからは静かに首を横に振った。
気持ちがないはずはなかろう。この子が噂どおりでないにしても半蔵殿を慕って
いるのは見て取れる。色の剥げたかんざしを後生大事につけている姿こそ。

「いえ、確かに私は半蔵を想うております。しかし半蔵はそうはゆきませぬ」
「半蔵殿はあなたよりずっと大人です。傷を負わせた負い目だけで女性に寄り添い
続けるほど浅慮な方ではないでしょう」

「あれはまずわたくしの手を見まする」

忍のくせに誤魔化すのが下手なこと、とこれは苦笑だった。
微笑んだ瞳は右の手のひらへ
右手のひら、手首から人差し指まで肌の色が違う。
「もう手などとうに治っております」
「ええ、ずっと前のことですもの」
「赤子の頃のことなど、痛みも恐怖も覚えてはいないのです」
「そうね」
「けれど物覚えがついた頃には半蔵は優しくしてくれたのです、今に至るまで」
「・・・」
「これはあの者をつなぎとめてくれた」

は火傷の痕をいとおしそうに撫ぜた。

「わたくしはこれが大好きです」


女の私でも見とれるような長い睫で、白い頬で、艶っぽい。
半蔵殿よりいっそこの子こそ右手にばかり気を引かれて、まるで半蔵殿に刻み込まれた呪詛のよう
は手を見つめてから指を閉じて、私のほうへ向き直った。
そして今はもう落ち着き払ってさえいる声音で言うのだ。

「けれどわがままが過ぎたようです。もう仕舞わないと」

子供の時間を仕舞う時がきたのですよと言いに来たのは私です。
の醜聞は今や教育係の側女やあなたの我侭に付き合っている半蔵殿にまで
及んでいるのです。人に迷惑をかけるほどあなたは子供ではないでしょう。
ここでがわーんと泣いて
反省したのね、って言う、はずだったのだけれど・・・。

「言いたいことをすべてに言われてしまったわ」
と白状してみると
「稲様は考えていることを隠すのも弓ほどはお上手ではありませぬ」
とさびしげな微笑が返ってきた。






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