私のお仕えする姫君の話をしましょう。
徳川家康公のご息女が一人、未だ婿も定まらぬ幼姫であったのは昨日のことのように
思えるけれどもう幼姫ではいることのできない御年。
茶会にも出ず、歌会にも行かず、屋敷でお気に入りの忍と戯れるばかりの姫君の話。
手の平に大きな傷の痕を持つ、手のひらの大きな傷痕しかもたぬ、姫君の話。

ある日、

「半蔵や」
庭へ向けて言う。
「半蔵や、来やれ」
今度は天井へ向けて
「そこに居るかえ」
「は」
「はよう来、相手をいたせ」
素直に降り立った忍は深く額づいている。

私ども側女は袖で口元と言葉を隠して様子を見やる。

ある日、

「半蔵、久しいの」
黙ってこうべを垂れる忍は「遊ぼう」といわれるままに
姫のあとをついていく。
姫は私どもの制止も聞かず、私どもは忍を睨みつける。

袖で隠していた言葉を噂として広める。

ある日、

「明日の歌会に出ますから着物の準備を頼みます」
姫が突然こんなことをおっしゃった。
「春の句を読むのでしょうね、むつかしいわ」
心なしか肩を落として。
様はお仕えする身としては、決して悪い方ではありません。
噂こそ悪いものがたったものの、側女に無茶や無理をいうことはなかったし、
よく労ってくれて、服部様にだけわがままに振舞うのが不思議なほどでございました。
はて、その日から姫様の「半蔵や」の声は一度も聞くことがございませんでした。

ある日、

初めて歌会にお出になられた。いかがでしたかと尋ねると淡淡と
「しどろもどろになりました」
とお応えになりました。
「きっと緊張なさっていたからでございましょう」
「次はもっと上手くできるかしら」
「できましょうとも」
「ありがとう」
羽織を脱ぐのを手伝って初めて、その髪にりんと鳴るかんざしがないことに
気付いたのでございます。

ある日、

三度目の歌会にお出になられて、いかがでしたかと尋ねると淡淡淡と
「しろどもどろになっておりましたら、助け舟を出してくださった方がいました」
「まあ、どなたです」
「奥州の伊達殿」
「・・・それはなんとも、良い方で」
良いご縁で、と口走りそうになって飲み込みました。
側女の私どもが主の婚姻に口をだせる立場ではございません。
その側女たちの口から生まれた噂が様から「半蔵や」の声とお気に入りのかんざしを
消滅させたのではありますが。


ある日、

四度目の歌会にお出になられて、いかがでしたかと尋ねると淡淡淡淡と
「うまく言えたと褒めていただきました」
「まあ、どなたです」
「奥州の伊達殿と加藤清正殿」
なんと有力なお方々。
驚きのあまり、私ども側女は揃って口元を袖で隠し、その奥で噂話を交わすのです。
それから噂話につぼみができて花が咲いて種を撒き散らしてみると、
「これは競争率の高いお姫様だ」と気付いた諸将方が色めきだったのでございます。
そんな中、いち早く殿に婚姻の約定を申し立て来た方がおわしました。










様、様」
「どうぞこのお城にいてください」

髪をすいていると、突然童が三人飛び込んできての膝にすがった。
が稲姫と会っていたときにやってきたのと同じ顔ぶれである。

「どうしたの、急に」
様がお嫁にいってしまわれると聞きました」
「まさかそのようなことはありませんよ。いったい誰に言われたのです」
あまりに突拍子もなくて、は笑った。
「皆が言っております、様、どうか行かないでください」
おのこのひとりがの右手をとって、ぎゅっと握った。
「母上と、こいつの母上とこいつの母上と、小松の君様が言ってたのです」
「”言ってた”じゃないよ、!おっしゃってた”だよ」
「あ!そう、おっしゃってたのです」
「あと父上もおっしゃいました」
彼らの父親はつまり徳川家康その人である。
これはどうやら本当らしい。
不思議と驚きはなかった。そのために歌会と茶会に出ていたのだ。
見事に奥州と豊臣方の有力株をひっかけた。
他人事のよう。
けれどこれで耳を塞ぎたい噂など掻き消えるのなら、それもよい。
口元を隠す袖口をあれが見ぬ日が来るのなら、それでよい。
それがよい。

いつまでも
いつまでも


ふうとため息をひとつ吐いて心を整える。子らに笑う。
「わたくしが誰と?」







「服部殿」



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