「それがとびきり見込みのある子でな」

もうずっと前、五年以上前のことだ。
孫市と飲み交わした日を慶次は思い出していた。

「俺は秀吉に言ったんだ、いらねーってんなら俺にくれっ、てな」
孫市は旧知であるから太閤を秀吉と呼んだ。「あのサル」とか呼んだりもする。
慶次も半ば寝ている状態で聞いていたので話の前後や仔細は覚えていない。
板の間に徳利をいくらも転がして、慶次も寝転がっていた。
孫市はできあがっていて、肩を時折しゃくりあげながらつらつらと”これまで出遭った美女列伝”を聞かせているのだ。
「光る源氏の君よろしく育てるつもりだったのかい」
「そのとおり!自分好みの女に育てるのもオツかなーと思ったんだが、あのサル」
「もう豊臣のお手つきだったわけか」
「もっと性質が悪ィ。美人だから大人になるまでとっといて殺しやすい人質にするんだといった」
「ふうん」
「美人は世界の宝だってのに、もったいねえったらなあ、オイ慶次!聞いてんのか」
「ふうん」
「おい、こら!てめ人の屋敷で寝・・・・・・・・・

この辺で記憶は終わるのだ。



慶次はむくりと身体を起こした。
身体は温まっていたが、ひどく寒い。
障子戸から顔をのぞかせてみれば、佐和のお山はみぞれが降っていた。
吐く息は真っ白い
芯まで凍らせるような鋭い寒さである。
馬が心配になった。

みぞれである。

雪よりも冷たく、雨よりもたちが悪い。
馬の様子を見に来た慶次が厩で見つけたのは薄桃色の綺麗な羽織をまとった子供だった。
松風が柵から首を突き出して心配そうに鼻先をよせている。
は膝を抱えてうずくまっていた。そのように身を縮めていると子供と言って違いない。
足袋をはいているが泥水でびしょ濡れになっている。
髪も雨に濡れてしっとりと羽織の上に降りている。











みぞれが降るよりも少し前までさかのぼる。

朝からに迫って枕で追い出され、閉じられた障子を不服そうに一睨み、
「昼にまた来る」と障子越しに言ったのは石田三成である。
実ははこのあとすこし笑ってしまった.
あとで会ったときには少し甘えさせてあげようと、そうしようと思って少し笑ったのである。
こんなに心は晴れやかなのに外の雲は暗いのが不釣り合いだ。
縁起の良い日に風邪などひかないように気をつけようと思う。
昼過ぎても
三成はの部屋を訪れなかった。忙しいのだろう。は身体を起こして鏡台の前に座った。
髪を整えて唇にはうっすらとべにを塗ってみた。暖かくしていないと怒られてしまうからと思い、着物も寝巻きからすっかり着替えた。
羽織は大き目で柄も華のあるもの。
鏡の前でくるりとまわる。外が暗いせいか、心のもちようか、良い出来栄えには見えなかった。
明日の婚約の報告のために今日のうちに豊臣家の使者がついているはずだ。少し早いが挨拶にいくのもよいだろう

お茶などお持ちしても怒られないかしら。
思い立ちは部屋を出た。湿った風が吹いている。もうすぐ雨だ。空全体が暗い。
屋敷の廊下でまんまと道に迷ったがは女中に案内されてようやく三成の執務室にたどり着いた。
行ったが、そこに石田三成の姿はなかった。側近によれば別室で豊臣の使者と話しこんでいるという。
ご婚礼の段取りでもお話なのでしょう、と側近はを喜ばせた。
「もう一刻以上も経つのですがまだお戻りにならないのです」
「お待ちになりますか」
女中がに尋ね、「待ってもよいでしょうか」とが側近に尋ねた。
明日にも三成の正室に決まろうという人に否やなどなく、側近は二つ返事で諾した。連れてきてくれた女中に丁寧に礼を述べてわかれた。はお茶をおいしくいれるコツをご教授いただけないでしょうかと側近に頼み、側近の青年は頬さえあからめて引き受けた。
と青年が茶道教室をひらいているころ、外はついに降り始めた。
遠くの空がごろごろと唸っている。
ひどい雨になりそうだった。








使者への挨拶が一刻以上も続き、左近が様子を見に行ったころに庭の池に波紋ができはじめた。
遠雷がきこえる。
身体が芯から冷える。
身震いするほど。
息など吐いたそばから真っ白だ。
応接の間に到着するまでもなく、左近はこちらへ歩いてくる三成と出くわした。
「殿」
縁側に雨の音きこえはじめた。ぴしゃぴしゃと派手に雨の散る音。

みぞれである。

廊下を音もなく進む三成が立ち止まった。左近は「ずいぶんかかりましたね」と声をかけようとして飲み込んだ。三成の顔がなにかを飲み込んでいる。それは怒りか憎しみか悲しみかとにかく負の感情であるには違いない。
「みぞれとは、どうりで寒いわけですな」
左近は緩衝のために言葉を発してみたものの、三成は返事さえしなかった。
返事はしなかったが、彼から話の口火を切った。

「婚約は破談になった」

「は・・・、それはどういう」
「身体が初産に耐えられない娘を俺の妻にはしてはならないとの命がくだった」
豊臣家の命令にそむくことはできない。それは左近も理解している。
しかし、秀吉と北政所、ねねとの間にさえ実子はないのである。
「意味がわかりかねまするな」
左近はきっぱりと言った。
「立春の期限を切ったことといい、この話といい、最早嫌がらせとしか思えませぬ」
「言った。だが命令は覆らぬという。のうわさを聞いた徳川の嫡子があれ欲しているのだそうだ」
「馬鹿な」
左近ははき捨てた。今徳川へ豊臣の娘をやるということは人質に他ならない。
「なにも石田三成ともあろうお方の妻を人質に出すことなどありますまい」
なぜ
その問いはいま少し前の段階からたびたび左近の心に浮かんだ。

なぜ一族を根絶やしにしておきながら、あの娘だけ生かしたのか。
なぜ亡国の女を石田三成の屋敷に預けたのか。
なぜ三成と婚約させて五年間もの間祝言をあげさせなかったのか。
豊臣は姫君をもっとも効果的に効率よく使うことが出来る日まで待っていたのではあるまいか。
大阪城ではなく、佐和山城に押し込めておけば他の有力大名の目に留まる機会は少ない。
豊臣の先見は恐るべし、生かした子供は思惑通り見事な傾城の君に成長した。
そのくせ世継ぎを易く成せる体力はないために、徳川にくれてやっても子はできぬ。
身寄りがないなら徳川と戦になっても簡単にあきらめることができる。禍根は残らない。
気味が悪いほど適している。
ああ、成程。
初潮も立春ももとから関係なかったのだ。
それらは別れさせるための単なる言い訳か
破談させられるべくして破談したのである。三成には秀吉の命令を拒否してを正室にすることはできないだろう。豊臣家臣の若手筆頭である石田三成が政略を破綻させるような真似はまかり間違ってもできまい。
強く握られて震える三成の拳は、決して豊臣秀吉に向けることはできない拳だ。

みぞれがふきすさぶ。風も強い。風が庭でうずをまく。
三成の息は熱く、吐くと白い。
左近は黙った。


「殿、殿様」

廊下をかけてきたのは石田三成の執務室においてきたはずの側近であった。
「執務室に様がおでましで、殿をお待ちです」
左近が三成にかわって「ご用向きは」と尋ねた。
「殿にお茶を炒れてさしあげたいそうで」
伝言の側近のほうが赤くなっている。が、どうも三成と左近の様子が重たいのに感づいてそれ以上の言葉はとめた。
「殿、かわりに参りましょうか」
「いや」
ふら、と三成は執務室のほうへ歩き出していた。側近はその異様な雰囲気にのまれ、その場から動けなかった。
側近の青年は自分が執務室に戻ってはならないことだけはわかった。







執務室にたどり着くまでの道は
暗く、
重く、
つめたい。
雨の音だ。
雷鳴は近づくし空が光るたびひどく屋敷の中は暗い影を落とす。
左近は三成の後ろを歩きながら彼の表情を思っていた。今、どんな顔をしているだろうか。
いつものとおりの無表情でいるだろうか。
三成が急に立ち止まったのでどうしたのかと思う。気づけばもう執務室の戸の前まで来ていた。
少し開いた戸のむこう、いつもよりも随分着飾ったの姿があった。三成の肩越しにその人を見つけて左近は少なからず衝撃を受けた。
は今も、明日には豊臣の使者に婚約の報告をしに行くものと思っている。

「お待たせました」
「急にお邪魔いたしましてすみません」
「いえ」
三成は短くこたえ、は少し表情を硬くした。急に来たから怒らせてしまったのかと思ったのである。
「左近、こんにちは」
「ご機嫌麗しく。今日は一段とおきれいでおいでだ」
「左近」
三成に言われ、左近は部屋へは入らなかった。
「隣室に控えております、なにかあれば呼んでください」


「どうぞ」
あたたかな湯気のたつお茶が三成の前に置かれた。
「きちんと淹れたのは初めてで美味しくできたかわからないのですが、三成様のおくちに合うと、嬉しゅうございます」
本で読んだか誰かに教わったセリフをそのまま言ったらしい。懸命ではあるが棒読みだった。
三成のために茶を勧めるときの言葉を探して、つまらずにいえるように覚えて練習して。
着飾って、
唇は珍しく化粧がされていた。
うつくしいと三成は思う。茶をすすめられてその水面を数秒間見つめた。
飲んでもらえるのを期待する視線が注がれている。
三成は手を出さない。
さすがに不安になった様子で、は唇を引き結んだ。頬が強張る。
三成はついに湯のみにふれなかった。
「婚約は破談になりました」
そう切り出して、左近に話したのとほぼ同じ内容を話した。淡々とした抑揚のない三成の声が告げる。
の表情が一言目ですでに凍結していた。それ以上顔を見つめることができない。
雨の音、雷が。
報告、は終えた。
三成が黙ってから十拍くらいあっただろう。そこでようやくの落ち着いた声が三成にしみこんできた。
「御意のままに」
三成は顔をあげ、目を見張った。聞き分けがよすぎる。
彼女はいつも亡国であるはずの自分の待遇を不思議に思っていた。
こういう使い方のためだったのかと、得心がいったのだろうか
どうか弁解を、
違う
私はあなたを本当に
違う!
私はを欺いた
「三成さまのお力になることでご恩をおかえしできれば、わたくしは、それで・・・」
青ざめた頬だ。
言葉を次げなくなった唇が震えている。



が部屋を飛び出していって、音を聞いた左近が直後に飛び込んできた。
「殿、姫様はどちらに」
三成は黙っている。放心しているのだ。
「姫は・・・っ」
左近は三成の返答をあきらめて、髪をぐしゃっとかき上げた。
策は成る。
輿入れの準備のため、石田三成の屋敷を出るのは明後日である。
豊臣の使者とともに大阪城へ行く。















みぞれである。

雪よりも冷たく、雨よりもたちが悪い。
馬の様子を見に来た慶次が厩で見つけたのは薄桃色の綺麗な羽織をまとった子供だった。
松風が柵から首を突き出して心配そうに鼻先をよせている。
は膝を抱えてうずくまっていた。
足袋をはいているが泥水でびしょぬれになっている。髪も雨に濡れてしっとりと羽織の上に降りている。
泣く女は好きでも嫌いでもない。ただ面倒だから関わりたくないとは思ったりもする。
関りたいと思ってしまったのはが女とか男とかそういう領域を超えて子供のようだからだと思う。
泣いている男は無視できて
泣いてる女を置き去りにするこもできて
泣いてる子供はほっぽっておくことはできない。
慶次はそういう男である。
それがであるならなおのこと。お稚児趣味はないが慶次は確かにが愛しいと思っていた。
ほら、慶次が入ってきても逃げていかないのは子供の証拠だ。
慰めて欲しいならそうしてやろう。
いくらでも優しくしよう。
叱咤して欲しいならいくらでもそうしよう、そのあとにことさら優しくしよう。
どんな前田慶次もおもいのまま。

心配する松風の鼻の筋を撫でてどかすと慶次はの前にしゃがみこんだ。

「どした」

うずくまって動かない。
「おお、おお、足袋も綺麗な羽織も台無しになっちまってるぜ」
慶次はの足袋を脱がせた。小さな素足は冷え切って外の石の温度そう変わらない。
は足の指をぎゅっとにぎりこんだ。そのしぐさがかわいくて慶次はますます抱っこしたくなってしまう。
”抱きたい”というよりは”抱っこ”したい、うん、今はそれが正しいと慶次は納得した。
慶次はの脇に手をいれて持ち上げた。そうしたいと思ったからだ。
手足がぶらんとなっての顔まではっきり見えた。
相変わらず美しい、悲壮さえもまた。
いや。
ちがう。
これは見てはいけない。
慶次はぞっと背筋を冷たくした。
この悲しみは抱き上げて暴いていいものではない。は袖で顔を隠した。
そして慶次はそのまま抱きしめた。
”抱っこ”ではない。今度は両手で背中に手を回してを抱きしめた。
何があった。
何を言われた。
何をされた。

「慶次殿、はなして」
「放せねえ」
「はなしてください」
「力ずくて引っぺがすんだな」
は慶次の肩をぐうで叩いた。びくともしないことはわかっていても、それをやめない。
このまま抱いてしまいたい、慶次は思う。
なにもかも忘れるくらい優しく抱いてやろう、何も考えられないほどに激しく抱いてやろう。
すべて殿のお心のままに。心の上辺でそう思ったけれどできそうにない。この小娘の泣き顔に戦慄しているような臆病者だ、できはしない。
「・・・」
だんだんと抵抗が弱まって、やがてこぶしが慶次の肩にあてられたままとまった。
「徳川へ輿入れする」
「なに言ってんだい。明日にも三成と婚約だろうが」
「婚約は破談となった、徳川家が婚約を申し込んできた。はそこへ行く」

殺しやすい人質

があの時、孫市が会ったという美しい娘であったとは限らない。しかしこれは同種のものなのか。
世継ぎを成せない身体と、美しい顔と、一族郎党根絶やしの身の上、使い勝手のなんとよいこと。しかし、そんな使い道とは思いもよらなかった豊臣家の重臣は五年も前からひどく不器用に慈しんでいた。

「三成様の妻になろうなどと思い上がっておりましたのでしょうか」

慶次は娘を黙らせるように強く抱きしめた。
力ずくで自分のものにしてしまわなかったのはそこに松風の批難する視線といななきがあったからか。
或いは、どうしたらいいのかのちっともわからなかったからか。



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