「なにごとか」
障子のむこうから三成の声がして、左近は廊下で居住まいを整えた。
「姫様がお部屋にいらっしゃらないご様子、心当たりありませんか」

「む」

変な声が中から返って、左近は首を傾げた。
「・・・心配はいらぬ」
三成のその言葉に左近は気づいた。どうやら中に姫君も居るらしい。
「左様でしたら、結構でございます」
左近は立ち上がり、はけた。角を曲がったところまで来て、ふうと息をついた。
すると向こうから大谷刑部がやってくる。左近は呼び止める。
「大谷殿、殿のところへ?」
「ええ、おいででしたか」
「おられるにはおられるが、今はお忙しいようで」
「左様か、出直すことにいたします」
「それがよろしいでしょう」左近は応えた。
さもないと馬に蹴られますぞ、と心の中で付け加えた。
数歩歩いて、左近はぱっとの姿を思い浮かべていた。
この時期とはいえ姫君も奥様におなりになられたのか、と思って顎をなでる。
どうにも想像が付かない。あの二人はちゃんとやれたのだろうか。
こんな不条理な状況だというのに、ふっと脳裏に桜の花びらが散った。
思い出されるあの光景、あああれは。
春の日であった




「あの方は」

やってきて間もない頃、慣れぬ佐和山の城。
滅多に来ない離れのほうで見知らぬ娘を見かけて、思わず足を止めた。
隣にいた大谷刑部少輔吉継は離れのほうを見ただけで「ああ」と思い当たったようだった。
娘が居るのはわかるが、男三人に囲まれてどうやっても顔も全体も見えない。男三人はどうやら従者らしいが、娘の両脇と後ろを固めている。
よく見ようとしても風が吹くたびに桜の花びらが散って、視界を美しくさえぎった。目を細める。
「ご存知ありませんでしたか、我らの殿のお許婚です」
許婚、と繰り返して目を丸くした。あの朴念仁にもいい人がいたのかと。人は見かけによらないものだとうなってみるがまだ半信半疑である。大谷刑部はそれを汲み取ったのか「よい方ですよ」と微笑して離れの方角を見た。
それがいかにも愛しい娘を見つめる父親のような慈しむ笑みなので、よい姫君なのだろう、と思った。
ではいっそう、見たくなる。
しかしどうにも見えない。男三人が邪魔である上に渡り廊下から離れの庭まではかなり距離がある。
「あのお嬢さんはどちらのお生まれで」
大谷刑部は少し言いずらそうに苦笑してから、家の、と云った。
弾かれた。
の一門は滅んだ。
織田信長の命をうけた軍勢によって焼き払われた里である。
左近もまたその軍の中に筒井家家臣として刀をとっていたのだ。
その里の主家が織田軍筆頭である豊臣一派の許婚とは皮肉な話もあったものだ。あれは虐殺だったから。
さぞや憎んでいることだろう。
最初の印象はそれだった。
石田三成を憎んでいて、好きあらば殺そうとしている姫君か、
あるいは里を捨て民を忘れ、石田三成に取り入った処世術強かな姫君、どちらかではないかと左近は想像していた。しかし誰に聞いても許婚の悪い噂はきかない。そもそも話題に上らない。尋ねても「そういえば離れにおいでらしい」という具合だ。
大谷刑部は「よい方」と云った。
興味は湧く。

初めて姫君にお会いする機会に恵まれたは花見の席だった。
少し遅れて登場した娘は大谷刑部に手を引かれて、なんと見目の幼い。
着物ばかりは大人のそれだが、体つきも顔つきもまだ幼さが残っている。これが石田三成の許婚とは畏れ入った。だが将来有望であることは早くも明白だった。
娘は石田三成の横に用意された空間に腰を下ろした。三成とは黙礼をしたくらいであった。
いやによそよそしい。
姫君は大谷刑部とときおり話してころころと笑うくらいで、石田三成は別の臣下と酒を飲み交わしている。
喧嘩でもしているのかと思ったがどうもそうではない。“知り合い”くらいにしか見えない。
花見の席で四半刻ほど経ったころだろうか、姫君は顔をうつむかせていた。大谷刑部が背を曲げて覗き込んでいる。具合が悪そうなのだ。刑部は三成に声をかけた。何を言ったのかは聞こえない。
近くに寄る。殿の声がした。
「お悪いのならお戻りください」と一言。
姫君は顔を伏せて「お暇つかまつります」と殿に云った。顔を伏せっぱなしである。
「殿、左近がお連れしましょうか。丁度戻りますので」
「ああ」
石田三成はこれだけ。
大谷刑部にも頼まれて、左近はようやく対面した。
「ありがとうぞんじます」
これはこれは、間近で見ればおののくほど愛らしい。可憐な唇で、ああ、あまり大人を刺激するものではありませんぞ。
廊下の道中、
「わたくしはといいます、そなたはどなた」
「島左近と申します、殿の参謀など賜っておりまする、お見知りおきください」
「島殿」
「おや、言い難いでしょう。さこんとお呼びください」
「左近、言いやすい。よろしく頼みます、左近」
この娘はどうやら、左近が筒井家にあったことは知らぬようだ。
ともすれば父母を殺したかもしれぬ男に手を引かれているとは思いもよるまい。
熱っぽい頬が笑ったかと思うと足がついにもつれた。
猫の首をつかむように支えてやった。
「どっこらせ」
持ち運ぶのには抱き上げるほうが都合が良かった。
「す、すみません・・・」
「なんの」
「そちは、視線が高いの」
「へ?」
「桜が近い、よいな」
近づいた桜の木の枝に手を伸ばした。
「軍師と踏み台をご入用の際はいつでもおよびください」
「お人形遊びで呼んでも?」
「笑止。当代随一のお人形遊び師と有名な島左近清興をご存じないとは」
思えばあの時以来気に入られたのだった。
笑った子供の微熱の体温を今もなお覚えている。



<<  >>