一旦、時は繰り上がる。

小田原の東、海からの風は生ぬるいものであった。
豊臣に包囲された北条はもはや風前の灯。
悠々と勝利を待つ諸将のなかにあって、なおも半蔵の意識は妙な冴えを持っていた。
こう着状態こそ忍の舞台
主命を賜り、夜に乗じて堀を越え、屋根を馳せる。
巨大な城壁の外と内では大違い、三ヶ月もの篭城を続ける小田原は疲弊している。
夏の月を背景にそびえる堅城は、敵城だに美しい。
松の太い枝に姿勢を低く留まった半蔵は、高い天守を仰ぎ見た。

あのひとは、ここにおられるだろうか。

美しい背筋から髪をかきあげてあらわになったうなじを思い出した。
うっとりとする情景に、官能せなんだと言えば嘘になる。

あのひとはここに
意識的に手足の感覚を研ぎ澄まし、雑念をはらった。

「戯れに来たか」

背後の声に飛び退ろうとした途端、長い腕に羽交い絞めにされていた。
哂うは風魔

「それとも恋人を探しにきたか」

揶揄するように言った風魔の大腿に、クナイがつきたった。半蔵はそのすきに風魔と距離をとって別の枝にわたる。
海から強い風が吹き込んで、木々をざわと揺らす。葉擦れの音が三の丸外苑の二人の忍の存在を隠していた。
「淡い期待をもっているようなら哀れ、教えてやろう」
向こうの三の丸の外壁に炎の影が揺らいだ。
警邏である。
半蔵は音もなく舌打ちし、地上の警邏と樹上の風魔へ意識を分けた。
耳は遠くの樹から揺らしはじめた強い風の接近を察知していた。
風魔は赤い舌を見せて、にいと哂った。

「あの女は我が犯してから殺した」

半蔵が見ずに振り下ろした短刀の刃は風魔の肩の骨に達した。
続けざまに轟、と吹いた風の後には風魔の目の前にはもはや服部半蔵の姿はなかった。
風の一瞬のうちに風魔の頬と腕に深い傷が残された。
北条の警邏は松の見事な枝ぶりにとまる風魔忍者にも気づかずに、その下を通りすぎていった。

あの女
あのひと
あの、
あの
と呼ばれる者は名をと言った。

小田原包囲の前年、その二月に駿府に輿入れしてきた娘である。
豊臣の養女であり、徳川家康が次男、秀忠の側室という名目の人質であった。








その人質が入城したころ、半蔵は主命により上杉領で諜報を行っていた。
しかし北条の忍、風魔の乱波者が徳川の根拠地たる駿府をうかがっているとの情報を得、急ぎ帰参したのであった。
夜明け前のことである。
北風が吹きすさぶ中、半蔵は城の南方から戻ってきた。
あたりが夜と朝に交じり合って紫に染まる時分、南の堀を飛び越えて土塀の屋根へ着地した。

着地の瞬間半蔵は身を低くし、松の枝の影から中の気配を探る。
夜も明けやらぬ刻限に何者か動いている。
女である。
南の朽ちかけた宮は物置にされていたはずだが。
半蔵は息と気配を潜めた。
井戸である。
女は井戸と対面している。
水音、
飯の支度にはまだ早かろう。
鬱そうとする庭は見通しが悪い。
”北条の乱波者が徳川の屋敷をうかがっている”
女であろうとも油断することはできない。
半蔵は土塀から松の木の枝へと音もなく移った。
北風に枝がざわ、と凪ぐ。

「だれ」

声が発せられ、半蔵は息をのむ。耳が良い。

「誰かあるのですか」

柔和な女の声ではあるが、慌ててもいた。井戸に何かしたか。
異変を感じたらしい女は後退った。
逃がさぬ。
「動くな」
半蔵は短い刀身を女の首の皮にあてた。後ろに立たれたことにも反応できなかった女は、口を半蔵の手のひらで覆われている。

「このような城のはずれに、女が何をしている」

若い女である。髪を解いている。
帯を手に掴んで、着物の前は開いている。まさか、まだ池の水の凍ることさえあるこの季節の最も凍える時間だ、水浴びをしようという酔狂はなかろうに。
半蔵は、背後から刀で女の首の位置を固定しているがうなじから背骨を追っていくと、細い傷があるのに気づいた。
半蔵の短刀は未だ女の皮を一枚とて斬りつけてはいない。
ついたばかりの新しい傷たちが、肩から下にもいくつも、いくつも。
薄い寝巻きの背には細い血のあとが滲んでいる。

冷えた肩が震えていて、半蔵は黙って刀を引いた。
女もすぐに半蔵から放れるが膝が笑って、井戸の囲いに肩を預けた。
半蔵はそこではじめて女の顔を確かめた。
美しい顔であり、知らぬ顔である。
「ここで何をしている」
女の腹にまで傷がある。半蔵の視線が腹部まで及ぶと、女は思い出して慌てて前を閉じた。
「怪我を、して」
体の震えがそのまま声に伝播している。
「洗おうと」
「女中か、見ぬ顔」
半蔵の短い問いにも娘は懸命に首を横に振り、白い息を唇からこぼしながら言った。
「秀忠様の室にございまする、六日前に参りました。と申します」
「これは」
半蔵は彼にしては珍しく動揺して、刀を納めた。
「若君の奥方様とは知らず、ご無礼仕りました」
御曹司秀忠が側室、よくもあの小督の方が許したものであるが、六日前といえば半蔵は雪深い越後に
いた。道理で見たことがないはずだ。
裸同然の婦人を目の前に、半蔵は深くこうべを垂れた。
女は手早く帯を締めなおして、乱れていたらしい髪にも手櫛をとおした。
「わたくしこそこのような格好で驚かせました、ごめんなさい。そなたは」
「城の忍にございます」
名をあかすほど信頼することはできない。
「畏れながら」
しかし聞かねばならぬことはある。

「お怪我を」

あ、と女の目に動揺が映り、女は苦笑して見せた。
「ああ、眠っている間に爪で引っかいてしまったのです」
「左様で」と半蔵は短く応えたが、彼は隠密、秀忠の異常な性癖を聞き知っている。
小督の方の目を逃れては若い娘に無体を強いて、”爪でひっかいたと言え”。
この娘も言いつけどおりにしている。
娘のほとんどは怖がって逃げ出そうとするか、あるいは家来に助けを求めた。しかし、おいたが正室や父君・家康の耳に届くのを過度に恐れた秀忠によってことごとく暗殺されていた。

「あまり多いから恥ずかしく、このようなところで傷を拭こうかと。寝相が悪いのです」
娘は震える頬で苦笑する顔を作ろうと努めたが、うまくいっていない。
は、と半蔵は短く言う。
「湯と軟膏をお持ちいたします」
「忍の方にそのようなことをお頼みするわけには参りません、気に病まず忘れてくださいまし」
外の凍える水で身体を拭いては風邪をひくだろうが、”忘れよ”と半蔵は介入を牽制された。
ではせめて
「これを」
半蔵は貝をあわせた形をした入れ物をの手の上においてきた。軟膏である。
「可愛らしい」
合わせた貝を見てと言う娘はわずかに笑った。
「ありがとう存じます、忍の方」
言いながらもがたがたと肩を震わせて、唇が紫に見えるのは何も夜明けだからというわけではあるまい。
あ、鼻水をすすった。
「では」
は手をひらひらと振って半蔵を見送る。去ろうとした半蔵の背中でくしゃみが二度連続した。
そこで振り返ってしまった半蔵は運のつき、鼻水をたらす若君のご側室を寒空の下に放置できなんだ。
「お部屋までお送り申し上げます」
「いえ、部屋はすぐそこなので」
は鼻をすすって顔を赤くした。あっち、すぐそこ、と指差した先は南の物置である。
使わなくなった畳や箪笥や木材が無造作に積まれている。
「そこは物置でございます」
「え・・・、ここが部屋、と言われておりまする」
申し訳程度に布団だけが置いてある。
「・・・」
「・・・」
「・・・お湯と手ぬぐいと雑巾と箒をお持ちいたします」

この服部半蔵という忍は、任務とあらば今にも事切れそうな男の足をへし折ることができて、命令とあらば豊満な身体で誘惑してくる美女に眉ひとつ動かさず火遁の術をかけることもできて、オフの日にふと散歩に出かけた浜辺でいじめられている亀は無視できない忍なのである。



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