近くの部屋からとってきた火鉢に火をいれてやる。
じんわりと手のひらが温まるくらいで身体全体にその恩恵を満たすには至らない。
火鉢をとってくる間にには身体を拭わせた。変態嗜好のほかに、まともな情交はあったのか知らないがともかく一刻も早く身体は拭いたいのだろうから。
半蔵は頭巾を取ったものの口布だけはしたままで南のかた、物置こと若君の側室御所に戻ってきた。
二十代も後半にさしかかる忍と十代半ばの半裸の娘が寄り添う姿は奇妙そのものであろう。
南の方に人の気配がないのがせめてよかった。
部屋に立てかけられた畳や木材の類を片付けてやることはしなかった。女の手で動かせぬような重いものが場所を変えていたともなれば、何者か若君秘蔵の遊び女を見つけたことに感づかれる。

「お脱ぎください」
「うん」

何事かためらう声のにごりがあったが、半蔵の目の前にうっとりするほど美しい背中があらわにされた。
その背中に傷、傷、傷。
軟膏を指で掬い取って肌にあてると、びくと震えた。痛んだのだろうか。
「申し訳ありません」
「いえ、もう本当に痛みはないのです、適当で結構です」
「刀傷は破傷風を呼びます」
「・・・刀傷ではない」

爪でやった、はずだ。
半蔵はそれ以上かけるべき言葉を見失い、沈黙の内にはあきらめに近い合意が在った。

埃くさい部屋に娘をおいていくのは良い心地はしないけれど、半蔵が肩入れした痕跡を残せば娘自身の身も危い。秀忠が側室に無体を強いている事実が外部にもれるのを恐れているのは秀忠本人だけではない。徳川の一門すべてが恐れている。
半蔵もまた、世を争う徳川の世継ぎの醜聞を、自ら広めるようなことはできない。

少し調べてみるとあの娘は確かに豊臣から輿入れされた娘であった。
殊、半蔵の主である徳川家康は地位の地盤を固めることに余念のない人であるから、豊臣の養女を一族に引き入れて不思議はない。
さらに調べると、娘はもとは石田三成の許婚であったそうだ。

新たに駿府の警邏も申し付けられた半蔵は、折を見て秀忠の側室を見舞った。
本来の目的から言えばそれは見舞いではなく、秀忠のその行いの度合いを観察していたのである。養女とはいえ豊臣の女に無体をはたいていることが知れれば攻撃の口実にされかねない。
物置だった部屋はだいぶ片付けられて、小ぶりながらも人の住む部屋らしくなっていた。
着物も清潔である。食事もとっているらしい。それにはほっと息をついた。
しかしまっさらの浴衣の首筋には、嗚呼。矢張り。
家康が城を空けている今はやりたい放題しているらしく、女の身体に刻まれる傷は五日のうちにそのすさまじさを増していた。
夜も明けやらぬ刻限に、またも背中の傷に軟膏を塗ってやる。
「はずかしい」
「浅い傷なれば」
言ったものの、かさぶたになる前に傷口を刀でなぞられている。
恥じているのは何か。半蔵は娘の心情を思いやるのは止めた。薬を塗ってやるが傾倒してやるまでは不要だ。
「忍の方」
まだ名を明かしてはいない。
「手当てをしてくれるのは感謝しております。しかし人に知れればそなたの立場を悪くする」
返す言葉を探している間に、合わせ貝のいれものは空になっていた。
「新しいものを取ってまいります」
苦笑のあとにありがとう、と声がした。






性懲りもなく、と自身にあきれたが七日間後に様子を見に行った。
明け方だから、穏やかに眠っているならばそれで帰ろうと思っていた。

は両頬を盛大に腫らしていた。

右の頬が青紫になっているのを見た途端、半蔵はその俊足を氷嚢をとってくるために活用した。
まさか眠っているのではなく気を失っているのではなかろうか。
頭など強く打ち付けたのでは。
頬を冷やしているとが薄く瞬きした。困惑している半蔵と視線が交わる。
半蔵にはが目元をわずかに和ませたように見えた。
「お怪我を」
「うん」
身体を起こしてやる。すると、さては口腔を歯で切ったらしく粘つく血を白い手のひらに吐き出した。
井戸水で口をゆすがせたころには意識ははっきりとしていた。頭は打っていないようだ。
これまでは意図的に見えないところばかりに刻まれていたはずが、今回は見えるところまで攻撃している。
変化が急激すぎる。
半蔵の怪訝な視線に、も気づいた。

「わたくしが秀忠様を叩きましたので」
「叩いた、とは」
「・・・」

はなにか言おうとして唇をあけて
言葉を飲み込んで
また何か言おうとして
飲み込んだ。
唇を噛む。こもった声がした

「・・・ちちうえとははうえのことを、悪く、言われ、て」

語尾は途切れ途切れの息が混じって、膝の上においた手がぎゅうと着物を握り締める。
父と母をけなされて、それで刀を持っている相手に向かっていったのか。
無謀で愚かだ。
秀忠の頬をひっぱたいた仕返しに木刀の柄で打ち据えられたという。これが刀で切りつけられていたら今頃命があったかどうかさえあやしい。
言うべき言葉はどれか。
”反抗してはならない、刀で小さな傷を刻まれるほうがまだましだ”
”危険をおかしてまでよく誇りをまもりました”
或いは、
”このような無体をせぬよう、私が根回しをしましょう”
なんだ、それは。
主家の世継ぎを更生させようと思うが故の言葉が、それとも目前の娘に傾倒しての言葉か。
では

毒を与えようか



まだ熱を持つ頬の腫れ
薄紫色の明け方に、深紫の頬、
黒衣の服部半蔵は美しい娘に傾く己を厭う
それでもなお、冴える布を浴衣の乙女の右頬へ



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