季節は春を通り越し、梅雨の終わりに差し掛かっていた。
見舞う半蔵は流石徳川の忍の大将である。他の者に誰一人気づかれることなく
城の南の庵を訪れていた。

春がくるまでは毎日のように召されていたが、ここ二ヶ月は週に一度呼ばれる程度である。
風魔が駿府をうろついているという理由で、秀忠の警備が増えたのである。
寝所を守らせるごく一部のものにしかその悪癖を知られていない秀忠であるから、新参の近衛の前では控えているのだった。
頻度は減ったが、程度はとどまるところを知らない。
頬はすっかりもとの白い頬になっている。しかし生気は衰えている。
いつ、本当に殺されてもおかしくはない。この前などわき腹を深く切りつけられて大した手当てもされずに置かれ、高熱を発症した。
うわごとで「ははうえ」と。
一時、高熱の中で意識を取り戻し、覗き込んだ半蔵を見つけると熱にうかされた潤んだ瞳が、じ、と見つめてきた。
誰かの名を呼んだけれど、声は声ではなく息であった。
幼少より身につけた読唇術を、この時ほど呪ったことはない。
みつなりさま
唇はそう動いた。






明け方の寒さもおさまって、は縁側などに腰掛けて半蔵を迎えることもあった。

「痛みませぬか」
「うん。そちの薬はよく効く」
「重畳」

「これは痛くはないの」
は半蔵を見ながら、自分の鼻の上に一の文字を指で引いた。
半蔵の顔の傷のことである。もういつ付いたものかも忘れた。今よりずっと若いころ、どこぞでなんぞ無茶をしてつけたものだった気がする。
「痛みはありません。古い傷です」
「ぶしのほまれ、ですか」
半蔵は武士の誉れとは思ってはいなかったし、むしろ諜報活動で顔に特徴的な傷などがあるのは不利である。
まことに若気の至りによるものでしかない。
「左近が言っていたのです、これは武士の誉れだから残っていてよいのだと」
は生気のなかった顔にわずかに色を取り戻して小さく笑った。
この娘が、ここに来る前の話をしたのがそれが初めてのことだった。が嬉しそうにするのに心が和んで半蔵はできる限りの努力をして笑ったような顔をつくった。案外に難しく、から見たところそれは困った顔であった。
「・・・島左近殿」
「左近は有名なのですね」
「ええ」
「そう、左近は優しいから」
別に島左近が有名なのは”優しいから”ではないのだが、半蔵は困った顔を続けた。
はあの強面の参謀がいかに優しくて、気さくかを半蔵に説いた。半蔵は内心はらはらしながらその声に耳を傾けていた。
「そうしたら左近が連れ出してくれて、言いにくいだろうから島殿ではなく左近と呼んでほしいと言ってくれて」
「お料理も上手で、祝いの席で皆に振舞うこともあって」
「お風呂に入るとすごく大きな声で歌うのです、わたくしのいた離れまで聞こえるの」
はらはら
「あまり声が大きいから、三成様が怒って・・・」
ほら、言った。
言って止まった。
止まって困った。
お互い困った。
の唇の形はつごうとした言葉の形で固まって、やがて震えた。
「・・・石田治部少輔」
「そう、三成様も有名でおいでなのですね」
「ええ」
先ほどと同じやり取りで、しかしは先ほどよりも長く間をあけてむこうをむいた。
「あの方はおきれいだから」
声音もしっかりと、見事に感情を立て直した。
並ぶ半蔵にとっては目の前の人が心を立て直してしまったことが、なんとなくさびしいようにも思えた。






この二月からの四ヶ月余りは駿府の治安維持のために、この娘の住まう土地いたけれど、今年の終わり、あるいは来年には大きな戦があるだろう。
関東には未だ豊臣を成り上がりと批判し、秀吉の不興を買う北条がある。北条が落ちれば関東が徳川に預けられることになろう。
「心せよ」
徳川の重臣を集めた前で、徳川家康はそう切り出した。
「小田原総攻撃の号令があれば、我らは誰よりも早く動かねばならぬ」
誰よりもだ、と家康はかみ締めるように繰り返した。
小田原を封ぜられれば、徳川は関東一帯を手に入れることになる。
諸将が皆去った後、服部半蔵はその場に残され、内密の命令を賜った。
「御意」
半蔵はそれ以外に主命に対して返す言葉を持たない。戦に先立ち、情報収集が始まる。
女を見舞う暇はない。
夏は傷の腐食が早い。もし次、この前熱を出したような大怪我を負わされれば、そのまま誰にも看取られずに死ぬかもしれない。

「忍の方」

半蔵は声に弾かれた。南の庵の縁側に腰掛けて、ぼうっとしていたのをが心配して声をかけたのである。
「具合が悪いのではありませんか」
「いえ」
「わたくしのこの前の風邪がうつったということも」
「傷に由来する熱は伝播しないものです」
「そう、そうなのですか・・・」
やはり心配そうに半蔵の横に腰掛けた。朝日まではもう少し時間がある。
少し眠たそうなまつげが、ゆっくりとまばたきしているのに見とれた。と、が突然視線を返したのでかち合い、半蔵はへたくそに逸らした。忍の業も小娘相手にうまく行かない。
湿気の多い季節である。
見渡せどもあたりは白くけぶっている。
今宵は召されなかったようだ。
よかった

「そちが元気のないときにしてあげられることはないだろうか」
いえ、と短く曖昧に答えて、半蔵は顔を伏せた。
一瞬、身体を使っての営みが思い浮かんだのである。
身体をこわして血色が悪い、手足もおよそ魅力のある女の肉をもっていない。
「ああ・・・身体を使えばよいのですね」
「そ、そのようなことは!」
「遠慮はいりません。わたくしにできることといえばこれくらいだから」

狼狽する半蔵を無視して、は半蔵の背中に身体を寄せた。
「なりませぬっ」
と言いつつ跳ね除けることもできなかった。まったく期待していなかったと言えば嘘になる。
しかしまさかのほうから”いたす”とは思いもよらず、半蔵の首の辺りにつ、と細い指が触れた。
指先は冷たかったのに、半蔵はぞくりと一度震えたきり体温は上昇した。

「気持ちいいですか」
「・・・はい」
「固くなっている」
「は、はあ」

もちろん主語は「肩」である。
もちろん
半蔵は心なしかうなだれた背をに向けていた。
は半蔵の肩をたたいて嬉しそうにしている。
縁側で肩たたき
隠居するにはまだ早かろう。

「あれ、元気がでないだろうか」
「元気が出ましてございます」
「そう、それはよかった」

子供のようなことをするかと思えば、大人のように微笑う。
やはり美しい人だと思う。
さて
時は迫る。
痛みに震える顔を、恐怖に戦慄する身体を置いて行く。
何処に?
此処に

逃がそうか

何処へ?
何処かへ



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