明くる、日、

恐れていたことが起きた。
白い背中全体が変色するほどに打ち据えられて横たわるを同じ部屋で見つけた。
いつもと同じ夜明け前
骨が折れているのかもしれない。
明日から、半蔵は奥州へと発たねばならぬ。主命なれば、違えることはできない。
身体を拭って布団に戻してやる。
痛みを忘れて眠る今が続けばよい。目覚めれば激しい痛みに美しい面をゆがませるのだろう。
そして
また
召される。
半蔵は息を飲み、顔を伏せた。

「ぐあいがわるいのですか」

はっと見れば横たわったが心配そうに半蔵見ていた。身体を起こそうとすると、身体をこわばらせた。
「動いてはいけません」
は背中が布団と触れないように、身体を横向きにかえた。ゆっくりと。半蔵も手伝う。
体勢を変えるのにもはぎゅっと眉根をよせた。
横向きになってもしばらくは重く鋭く走る痛みに、沈黙で耐えた。
痛みでにじんだあぶら汗を額や頬から拭う、それが心を傾けた女にできる半蔵唯一の気遣いとなった。
は慎重に呼吸を整え、再び半蔵の視線とまみえる。
庭で、
葉の表面から水滴がほたりと滑り落ちた。外は濃霧がかかり、手を伸ばした先さえ不明瞭である。
「肩たたき、へただったろうかの」
「お上手でした」
「でも、すこしまえ・・・からずっと元気がない」
彼女の前でも主君の前でも本多忠勝ら諸将の前でも、元気いっぱいに振舞ったことはないように思い出されるが、はたしてこの娘の前ではうかれた顔でもしていたのだろうか。
半蔵はやらわかく握られた形で布団に転がる白い手を、我知らず手のひらで包み込んでいた。
簡単に包めるほど小さく、幼いてのひら。
半蔵は手のひらに額を寄せ、伏せる。
うずくまった半蔵を見て、は不思議そうにまつげをしばたたいた。
「おなかが痛いの?」

半蔵は首を横に振った

殿」と初めて名を呼ぶ。
「・・・」
「治部殿のもとに」
「しのびのかた」
柔らかい声に半蔵の言葉はさえぎられた。
「そちは優しいからつけこむようなことを言わせておくれ」

がやわらかく、やわらかくいつものように微笑ったように見えた。
身体の外も内も壊しているけれど、瞳だけが凛と生きている色をしている。
微笑っている。


「もう、よい」


言葉は悲しみではなく、怒りでもなく、あきらめでさえないように聞こえた。
半蔵はその言葉に悲しむでも怒るでもあきらめるでもなく、驚いていた。
驚いたのだ。
深く言葉を思考できない。心の浅いところまでしか思考が及ばない。
心の振幅など忍にあるまじきこと。
いや、心は揺れてなどいない。
とまっている。

濃霧の中、ひやりとした風が流れた。

はっと、半蔵は鈍っていた感覚を瞬時に尖らせる。
「おや」
とあざける声。

「狸のねぐらに蛍が在るな」

霧に風魔

半蔵はを後ろへやり、脇差を低く構えた。
縁側のむこう、土塀さえ見えぬ濃い霧のなかに気配を探す。
一瞬の風を切る音を引いて三つの”くない”が来たがひとつは弾き、ひとつは外れ、ひとつは半蔵の左腕に突き立った。
半蔵は腕に浅く刺さったくないを抜くとそのまま霧へ横投げに放った。
それが弾かれたらしい高い金属音がした方へ、懐の飛くないを抜き放つ。

風魔の場所はわかれどもこの場を離れるわけにはいかない。
背後の人は逃げられない。
人を呼ぶか
呼べば
背後の人は背中に大怪我をしている、徳川の若君のうわさが広まる前に口封じに殺される。
必ず殺される。








風魔小太郎は霧から進み出て、対峙した。
半蔵は黙り、左腕からぽつ、ぽつと血が落ちる。
右手は脇差を構え、姿勢は低くいつでも動ける脚。
いつまでも動けない。

風魔小太郎の姿は掻き消えて、声だけが闇から闇へ響く。

「うぬの恋人か」

外にいる。
外からこちらを見ている。
動けない。
此処を動くわけにはいかない。
人を一人抱えたまま風魔から逃げおおせることはできない。
人を呼ぶことさえも、それでも
守る守る守る
”もう、よい”
それでも、どんな手をつかっても

「なぜ人を呼ばぬ」

半蔵の首を背後から小太郎の手が軽くなぜた。振り返ってもすでにそこに風魔の姿はない。
目下にはいつの間にすっかり目を閉じて、安らかに眠りに慈しまれる人がある。
また別の暗がりから、別の霧から声だ。

「呼べぬ理由はその娘か」

声は揶揄さえ含んでいる。





嗚呼、

この方の命だけ助ける方法がひとつある。





半蔵は立ち上がったかと思うと霧へ飛び込み、半蔵の脇差と風魔の篭手が鈍い音を立てて合した。
小太郎はようやくは向かってきた半蔵にきゅっと哂う。
風魔小太郎は半蔵の首を片手で掴むと横投げにした。
松の枝によもやぶつかるところを、半蔵は見事に幹を蹴ってバネのように返ってきた。
一合、二合、脇差と鉤爪が火花を散らす。
三合目で脇差の刃は半ばから砕け、半蔵は力任せに弾き飛ばされた。

半蔵は背から強く梁にぶつかり、着地したものの立ち上がることはできずに土に左手をつく。

小太郎は半蔵の前を通り過ぎ、庵の奥へ入った。
眠る女を見下ろして、そのあごをぐいと上向けた。
「ほう」
得心がいったように言い、かと思うと女を抱えあげた。

ど、と小太郎の頬を背後から飛くないがかすめ、傷を刻んだ。
「逃がさぬ」
ゆっくりと振り返った小太郎は、頬についた血を指ですくい舐めた。

「仕舞いか」
半蔵は手にくないを二つ持っていたが、構えたまま投げることをしなかった。
小太郎の腕の中で小さな身体はぐったりとしている。半蔵の苦しげな様子が小太郎には可笑しくてならない。
「よほど大事とみえるな」
「滅」

半蔵が印を結んだ直後、南の庵が吹き飛んだ。
爆風でそこだけ霧が晴れ、一瞬で瓦礫となった木材が折り重なっている。
「どこを狙っている」
風魔小太郎は堀と内を隔てる土塀の上に在った。吹き込む風に腕に抱える女の寝巻き、袖がはたはたと揺れる。俄かに城が騒がしくなり、何人もがこちらへ向かってくる音を聞く。
半蔵は印を結び、風魔が立つ土塀も跡形もなく吹き飛んだ。

また爆風にぽっかりと霧が消える。
半蔵の装束が爆風にはためくのをとめたころ、見張りたちが南の庵の吹き飛んでいるのを目の当たりにした。
「これは!服部殿」
「北条の乱波者が紛れた。追っ手をかけよ」
「はっ!」
「先に追う」
半蔵は壊れた土塀から堀を跳び、

城下を駆け、

小高い丘まできたときに城下を振り返った。

まぶしい。
朝が来ている。
霧は雨となって人々の住まいと城を濡らす。
路地を馬が駆けている。
半蔵が命じた追っ手であろう。
風魔小太郎の体格であれば子供ひとり抱えたところで、逃げおおせるのになんの障りにもならない。
馬で追いかけたところで無駄なこと。
風魔は小田原まで無事たどり着く



それでいい



雨だ。

半蔵は脚を止めたまま上をむいた。

槍のようにふる雨だ。



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