は狼を犬と思って「おおかみ」「こかみ」と呼んで喜んだ。
風魔小太郎は彼女を外には一歩も出さなかったから、着替えを持ってきたり、湯桶を持ってきたりするのは狼どもの役目だった。引き摺って持ってくるものだから着物は破けるし、湯は大いにこぼれた。
今日も半ばまでこぼれたらしい湯を張った桶を持ってきた。これは”こかみ”の方である。
こぼしたことを反省するように、湯桶をの前に置くとお座りの格好で留まっている。
「嬉しいこと」
はわさわさとこかみの首を触った。
「此処は涼しいけれど、少し蒸すから」
ぬるい湯に手ぬぐいを浸し、肩から着物を脱いだでから胸で一度とめる。
「そなたらは向こうを向きなさい」
おおかみとこかみ。
「立派な殿方はそうするものです」
おおかみとこかみはのたのたと屏風の後ろへと入っていった。
「いいこ」

身体を拭いていく、刀で刻まれた傷はもう痛まない。わき腹の傷は醜く、危うく、まだ在るのだけれど。
姿見はない。故にはその背の有様を自分の目で確かめたことはなかった。
肘を後ろへひいて、そっと触ってみる。
熱をもっているところがある。
膨らんでいるところがある。
へこんでいるところが
ぞっとして、は電流が走ったように背から手をはなした。

変な形をしている。

急にきれいな顔の男を思い出した。唇も首も背も私のものだと言って、口付けをしたあとにとても恥ずかしそうにを抱いた人だった。懐かしいと思った途端にはたはたと涙がおちた。
はた、はた
下を向いたら鼻の先から床へ落ちていって、顔を両手で覆ったら音がした。
ガタと戸の音。

目を丸くした強面の風魔忍者が戸に立っていた。

















「吐きそうなのか」

風魔はしばらく戸にとどまって沈黙したあとに、そんなことをたずねた。
ああ、どこで聞いた問いだろう。
”吐きそうなんですか”
そうだ、初めて会った時だと思い出す。
あの時は熱が続いていて。
懐かしくてまた感情が高ぶった。
「吐きませぬ」
「ではなぜ、そのように奇怪な顔をしておる」
”なんで普通に泣きそうなんですか”
ばらばらと涙があふれてもう目の前の悪そうな忍がどんな顔をしているのかさえも見えなくなった。






女の背の色は白い色にもどってきていた。
今も変色したままの箇所はおそらくもうもとの色と形には戻るまい。
風魔小太郎が女をさらったのが梅雨の終わり、夏のはじまりの明け方で今はひと月たった。
女はまだ風魔小太郎に犯されてもいないし、殺されてもいない。ましてや狼の餌にもなっていない。むしろ狼に餌をやる立場になっている。
「おおかみ、こかみ、喧嘩をしては怪我をする」
ひとつの皿に盛られた牡丹肉を取り合って、二匹の獣が爪を立てあっている。
「こかみ、こっちへおいで。わたくしの分をあげるから」
そういってが膳を差し出すとこかみと、おおかみまで飛び掛ってきた。
「おもい」
狼に埋もれた女を無視して酒を手酌する風魔小太郎がある。じ、と見る。
女は背を床板にあてているからもう痛みはないのだろう。
あれから数度徳川屋敷に入り込んだが、服部半蔵と刃を交わすことはなかった。
勝手に女を預けておいて、どこぞでなんぞ諜報しているのか。
不服である。
気に入らぬ。
半蔵の行いが気に入らぬ。
女が狼どもを手懐けて居座るのが気に入らぬ
女を殺さぬのが気に入らぬ
音を立てて、風魔小太郎の杯が砕けた。狼は途端に女から離れてはしゃぐのをやめた。
が向けた視線と、小太郎の視線が合う。

「気に入らぬ」

は首をかしげ小太郎の手に目をとめた。陶器のかけらがわずかに傷をつくっている。
「どこへなりとも失せろ、我はおまえを縛った覚えはない」
「ああ、うん」
到底返事とはいえないような曖昧なことを言った。
「行くのか行かぬのか」
「・・・行かぬ」
小太郎は俄かに立ち上がり、の手元をむんずと掴んだ。
「ならば今この場で殺して半蔵の屋敷に首だけ放り込んでやろう」
「好きになさればよろしいと、これを言うのは二度目」
生意気な口ぶりに小太郎の中で糸が切れた。
ど、と鈍い音がしては一瞬脳震盪をおこした。視界と平衡感覚が戻ったときに
自分が床に倒されていてそれに大きな生き物がかぶさっているのだと理解したらしい。


白いのどに鉤爪の刃を当てる。柔肌に浅く食い込むが皮膚を破るには至っていない。
少しでも女が首をそむけるか、小太郎が刃を動かせばたちまちに血泡を噴くだろう。
だが女は首を背けなかったし、小太郎は刃を動かさなかった。
女が首を背けたり暴れたり、無様にもがくのを待っていたが機会は永遠にこないように思われた。狼に慣れ、風魔小太郎に慣れているのその様が気に入らない。
ここからどこへなりとも”行かぬ”と言った女が決して風魔小太郎を慕って留まっているのではないのが感じ取れるのが気に入らない。

女はひどくぼんやりとした調子である。
「お慕い申し上げていた方がいたのですけれど」
まだ脳震盪が続いているのか、勝手にしゃべりはじめた。
「わたくしはその方が愛しくてなりません」
「半蔵か」
「半蔵殿のように強い方ではありません」
女は目元を和ませて笑ってさえいた。
「あの方と離れたときは死ぬものと思って覚悟しましたのに、ひとたび逃げ出したら途端にまた会えるような気がして」
「知らぬ」
「教えて欲しい」
「知らぬ」
「この身体は厭われないだろうか」
「知らぬ!」
女の顔半面は炎の影になっている。目の近くは光が乱反射している。
小太郎の顔の横から遠くを見ているこの女の目が気に入らぬ。
首に刃をあてられているのに
刃をあてる者をなぜ見ない
「うっ」
肩に研いだ犬歯をたてる。

女の手足から温度が引いて、強張っている。小太郎越しに徳川屋敷での行為を思い出したか、息がひきつりはじめた。目は嫌悪を映す。
ちがう
「飲め」
身体を引き起こし、竹水筒の飲み口をの唇に寄せる。強い酒に媚薬を混ぜた風魔の毒である。
「すべて夢になる」
「ゆめ」
「我に抱かれていること以外すべて忘れる」
「ずっと?」
じ、と見入る。
なぜまた泣きそうな顔をするのか。
言いたくない。
続く言葉を言いたくない。

「ひとときのみ」
小太郎がそれだけ応えて筒を傾けると、の喉がやがて小さく動いた。
素直に飲み下したことに一瞬驚いてから、苦虫を噛み潰す。
忘れたくない、と。
わずかにこぼれた酒を唇ですくう。
みるみるうちに体温を高くして、触れた薄い皮膚の下の血潮がドク、ドクと流れるのが伝わってくる。
風魔小太郎は大きく無骨な手から刃を取り払って愛撫を重ねた。
熱にうかされた瞳を不意に閉じては呟く。
「あつい」
ぞく、と小太郎の背筋を何かが駆け上がって脳髄を焦がした。
板の間に背をこすりつけるのと、抱える不安定な姿勢で抱かれるのとどちらが痛むのか。
床を述べればよいのだろうが風魔にはその時間も惜しい。
「目を開けよ」
はたびたび目を閉じたので、そのたび開かせた。瞼の奥で誰かを見るな。
女の足の甲がぴんと張り詰めて、つま先が浮いたころにはそれらの懸念さえわすれた







何度目か、小太郎の果てたあとに見やればすでには寝ていた。
あれだけ痛がって引っかいておきながら、失神ではなくすやすや眠るとはなるほど強かな女である。
もう一回くらい、と思っていた小太郎はなんとも苦々しくその寝顔をにらんだ。
手ぬぐいを引き寄せて、いろいろに濡れていた手やら身体やらを拭いた。
着流しで肩から羽織るだけして立ち上がると、狼どもがそろそろと寄ってきた。
”おおかみ”は湯桶、”こかみ”はどこから取ってきたのか、女物の着物をはんでいた。
「なんだ」
湯桶と着物を小太郎の目の前に置くと、二匹はまたそろそろと屏風の裏に隠れた。
拭け
着せろ
と言葉なしで主に命令した。
「うぬら、この女に悪知恵をふきこまれたか」
屏風の奥からは物音ひとつ立たない。
小太郎はちら、とを見、その腹の辺りに白い飛沫が点々と・・・
とりあえず拭いた。
ふき取ると、酒を飲んだとき人の傷が赤く浮くのと同じに女の傷痕が赤く浮いている。
古い傷までぷくりと赤く、白い肌に散っているのをぼんやり見て着物の前を閉じた。

翌日からしばらく、下腹部の痛みに唸っては起きられなかった。
狼が屏風のむこうからこっちをじぃっと見ている。

あーあ
あーあ

「うぬら」
「い、いたい・・・」
「我の所為ではない、うぬが狭いのだ!」

おやおや
それ言っちゃうのかよ

獣二匹の視線は雄弁である。

「頭が・・・痛い」

”頭が”痛いそうだよ、おおかみ
何が”狭い”のかの、こかみ

直後、屏風が吹き飛んで二匹の狼が震え上がったのは言うまでもない。
その振動が下腹部と頭に響いてが苦しんで小太郎が怯んだのも、言うまでもない。



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