わたしの主殿と殿の話をしましょう。

殿はわたしをおおかみ、とお呼びになる。皆そう呼ぶけれど、あの美しい声で呼ばれることが嬉しくない獣はいないだろう。獣は人間よりも耳がずっとずっと良いのだ。
殿が我らを屏風の後ろにやって、身体を拭っておいでだったときのこと。
しばらく屏風の後ろにいたら泣くような息遣いが聞こえてきて、わたしもこかみも震え上がっておりました。小太郎様に脅されても笑ってかわしてしまわれるお方が、ひとりでに泣くなどよほどのことだと獣ながらに気づいたのです。
そこに外にでていた小太郎様が戻っておいでになって、その時には、主なのであまり多くは言えませぬがずいぶんと、その・・・小太郎様の心は”混沌”のご様子でした。
ここまで生かしておいて、しかも泣いた殿を前にあの混沌っぷり、あまりそういったことには疎いわたしでもピンときました。

昼の蝉の音のあとの夜には鈴虫の音がするようになった季節のこと。
殿はやわらかく煮た猪肉ならば食べられるようになられた。
上手に箸を使ってお召しになる様子を小太郎様が見ていると、きれいな声で微笑って
「おいしい」
「食えるではないか」
「前は生で出されたから吐いたのです」
「我は生で食える」
「そう、元気ね」
一言で片付けられて、小太郎様はふんと不服そうであらせられる。
殿はまた黙って肉を口に運ばれた。ゆっくりと咀嚼して、静かに飲む。
小太郎様と我らは牡丹肉を引きちぎって、ごりごりと食う。肉は生がよい。
「酒がある、飲むか」
「懲りましてございます」
「媚薬ははいっておらぬ、飲め」
「飲みませぬ」
「強情な」
「傷が赤く浮く」
「・・・面倒な女よ」
殿は苦く笑われた。
以来、小太郎様は殿に酒を勧めることは一度もございませんでした。
殿をはじめて抱いたあと、小太郎様はいっそう殿を慕わしく思われているらしくなにかと言えば豪勢な料理を出したり(理由は、もっとふくよかな女が抱きたい、とのこと)、北条の爺ともが使う上等の湯殿に招き入れてこっそり一番風呂を使わせてやったり(理由は、野菜も洗ってから食うだろう、とのこと)北条の妻らに反物を売りに来た商人にタダで着物を仕立て上げさせて殿に持ってきたりと、まあ主殿とは思えないほど甲斐甲斐しいのでございます。
しかし不思議なことに抱かないのでございます。
あの一度以来、強いることは一度もありません。
あれだけ何度もいたしたのに、具合が悪かったということもございますまい。や、これ以上は言及するには無粋でございましょう。
わたくしは”立派な殿方”の呼び声高い狼ゆえ。




ある秋の終わりの日のことでございます。
北条の爺どもが大阪にいる猿太政大臣の宴会に参加しなかったことから端を発する一連の騒動がついに戦にまで発展することとなったようでございます。なんでも真田の城を北条の者が留守をついて奪ったとのことで、猿がお怒りなのだそうです。
そんな中、悪い知らせを報告しおわった小太郎様がお戻りになられました。
「おもしろいことになった」
と小太郎様はまことに嬉しそうでおいででございました。
「小太郎」
殿が声をかけて、小太郎様の顔をじっとお見つめになられました。小太郎様は戦になることをお喜びであらせられましたがふっと驚いたご様子です。殿は手を伸ばして小太郎様の御髪についていたソレを手のひらにのせました。
「よい香りがすると思った」
どこかで金木犀とすれ違ったのでしょう。橙色の花でございます。
「もう秋なのですね」
鼻のよい我々には強すぎるその花の匂いも人には心地よいのでしょう。殿がこんなに喜んでおいでだ。
豪勢な料理を出したときよりも、一番風呂に入れて差し上げたときよりも、綺麗な着物を与えられたときよりも殿は嬉しそうにしておいでだ。
以来、小太郎様が小田原城へお戻りになるときにわざと木々の生い茂るあたりを、木の葉に
突っ込みながら帰るようになってお供の我々としては少々迷惑している次第でございます。



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