大晦日、は久しぶりに身体を起こした。
長く続いていた咳もおさまり、食事をとれるようになっていた。
伏せっている間に庭は真っ白い雪に覆われていた。
食事を運んできた佐和山城の女中が食べるのを手伝ってくれているところに、左近が忘年の宴会の準備を抜け出して見舞いにやってきた。


「おいしい」
「お口に合ってようございました」
「せっかくの大晦日に雑炊をお召し上がりとは・・・」
「ひどいおっしゃりようだこと!」

左近が雑炊を哀れむとたすき掛けに袖を捲くっている若い女中がむっとした。
彼女が作ったらしい。

「ずっとまともな食事をお召になれなかったのですから、急にたくさん食べると身体が驚いてしまうのですよ」
「姫の口に入れぬのでは馳走も哀れですな」
「ま!お嬢さん、こういうオジサンにたぶらかされてはいけませんよ」

は笑ってから汁を静かにすすった。

「気遣いありがとう。今宵はみなで楽しく過ごしておくれ、その声を聞いているだけで気が華やぐ」

生意気をおっしゃる、と左近はずいぶん嬉しそうに苦笑した。






夜は

いよいよひとりになった。

どこかとおくの寺から新年を祝う鐘が聞こえる。
宴の声はまだ聞こえていた。直江兼続や真田幸村も集まってきっと楽しい席になっていることだろう。はこれまで散々眠ったせいか夜は目が醒えてしまって眠れずにいた。
今宵は除夜の鐘があることに感謝した。鐘の音や宴の声に心を傾けていられるならばほかの事を考えずにすむ。



すとん、と音を聞いた。

つもっていた雪が枝から落ちたのかもしれない。
すとんすとん、音は続けざまに聞こえた。
悪寒が、背筋を物凄い速度で駆け上がった。
音を静かに聞いていた者でなければ気づかないような音量である。宴をしている母屋では誰一人決して気づくまい。
何かいる。
は音を立てないように立ち上がると羽織に袖を通し、戸棚から護身用に渡されていた小太刀を出した。小太刀は帯に納め、小ぶりの弓と矢をひと揃い軽くつがえる。弓には小さく家の家紋が刻まれている。
宴の声はまだ聞こえている。
はそっと障子戸をあけた。雪面の庭に臨む。塀の手前に松の木が植わっている。
廊下は凍てつく寒さ、素足で出たから足の裏がびくりと震えた。
意識だけはじっ、と外へ。
月夜の雪面に、石灯籠の影と松の影が落ちている。
明るい場所は雪のせいで青白く発光しているように明るかった。の部屋は離れの宮であり、隣接する部屋はない。静かに療養できるようにと三成が用意した場所であった。庭の見晴らしのいいところに立地している。
闇を見据えた。
松の木の影の中にいっそう深い影がある。
目を凝らす。
向き、音もなく足を肩の幅ほどにひらき、深呼吸
弓矢をつがえる。
矢と弦を引く手はぶる、と震えていた。

とすん、と枝から雪が落ちた。

木が揺れたからである。
なぜ揺れたか。
風はない。
影に何か
ばっと影から闇が飛び出してきた。数は五、
まさにがつがえた矢の先であった。
は震えもせず、ぐいと弦を引いた。
放つ。
キィイと甲高い音がはしる。
矢は曲者に射掛けられたのではなく、紺の空の月へ向かって放たれていた。
誤射ではない。






大晦日の宴の外でキィイと甲高い音がはしった。
泥酔していた者たちは気づかなかったが、少しでも正気をたもっている者ならばみな聞こえた。
こと、慶次と幸村は全く酒など飲んでいないかのように一瞬で顔をひきしめた。
音の方角へ全神経を傾ける。
慶次の手が太鼓と笛の楽を制した。

「かぶら矢」

直江兼続の声に石田三成も刀を取った。

「離れの方角です」

幸村の声と同時に、慶次は豪槍を掴んで障子戸を蹴倒していた。
次いで跳び出したのは石田三成だった。あの石田三成が草履もはかずに雪の中に跳び出したのである。






鳴り矢を放ったのちすぐに、迫ってきた影に弓ごと投げつけた。
弓は手で簡単に打ち払われたがその隙には渡り廊下を母屋のほうへ走る。
振り返った瞬間、最初の一人がの腕を横に薙いだ。
鈍い音がしては雪の上に弾き飛ばされた。斬られてはいない。幸いにも小太刀と相手の手甲がぶつかったらしい。
雪の中に倒れこんで小太刀は帯から落ち、の頭の少し上に転がっていた。
小太刀に手を伸ばす。
その手は別の影によって行く手を阻まれた。

「っ」

痛みに喘いだ瞬間、口腔に布を押し込まれる。
喉めがけ刀が振りかざされた。

「出あえ出あえい!」

ぱっと血しぶきが散った。
の身体を掴んでいた男の首に小刀が突き立ったのである。
は再び雪の中に倒れこんだ。
鮮血を噴き、体中の筋肉を弛緩させた男の手から刀が真下へ滑り落ちた。
真下には、






「出あえ出あえい!」

慶次がいち早く叫んだ。
離れに駆けつけたとき、白い娘が黒影に囲まれてるのを見つけた。
咄嗟、三成は手にしていた小刀を恐るべき正確さで投げ放った。
黒影の頸部に突き立つ。
白い娘が雪に倒れる。
黒影は刀を落とし、
その刀が倒れたの首に突き立つのを慶次と三成は目の当たりにした。
世界が破裂するような戦慄が三成の全身に走った。
逃走に転じた曲者に対して慶次の槍が放たれる。
ごうと風を切り黒い背中を貫通して、死を土塀に縫いとめた。
あとの三つの影は忍特有の跳躍で塀を越えていった。
わあわあと後から後から兵が追いついて来た。
「外へ逃げたぞ!」
「追え!」


刀はの首から一寸それた雪面に突き立っていた。
見た途端、三成はぐいと刀から遠ざけるように両手でを引き寄せた。
首は白いまま、傷はない。
の右の袖に血が飛び散っている。

、怪我をっ」

は三成の声にびく、と反応した。
金縛りにあったように瞳を見開いたまま動けないでいたのだ
ぎこちなく首を横に振る。瞳はまだ見開かれたままである。
三成は血の飛び散っている右袖をめくりあげ、怪我のないのをたしかめる。
すべて返り血だ。
眉根をよせて三成は唇を強く噛んだ。
は、三成の腕に抱えられたのはそれがはじめてのことだった。
三成の泣きそうな顔を見るのもはじめてであった。
決して親しいとはいえないのに、は三成の胸に額をおしつけた。
凍りついていた心が一気に溶けたように恐怖が襲ってきたのである。三成は自分で引き寄せて抱き上げておきならが一瞬両手のやり場に困った。すがりつくの背を抱きしめてみる。
冷えた背中がひどく手になじんだ。

慶次はその様子をぼんやり眺めていた。
吐く息だけが白くけぶる。

「忍か」

兼続が慶次に並んだ。彼も靴を履いていない。
「宴で警戒の薄くなるのを狙われたな」
「ん?ああ」
慶次はなんとも気のない返事をした。
「なんだ慶次。怪我でもしたのか」
兼続は慶次の視線の方向をたどる。三成との姿がある。

「いや、怪我はないさ。ちょっと馬に蹴られる予定があるくらいだ」

足が凍っちまう、と言うなり慶次は踵を返してしまった。取り残された兼続は首を傾げながらあとに続いた。






「殿!」

別の場所にいた左近らもかけつけてきた。
三成は立ち上がり、の着物についた雪を軽くはたくと縁側にあがった。

「姫様っ」
姫様!」

次いでの臣下の兵らが顔面蒼白で三成のもとに駆け寄ってきた。

「ご無事だ」

三成のその言葉に左近もの兵も顔に生気を取り戻した。

「左近、あの者どもの検分は任せる」
「御意」

「賊を逃がすな、ゆくぞ」
応、と統率されひきしまった声がいくつか返った。の兵である。彼らはなんと、忍の技であろう跳躍で土塀をこえていった。なるほど、八年前の伊賀攻めの生き残りである。
筆頭らしきひとりはまだ三成のもとにいて、三成を猛禽のような目で睨んでいた。
彼らはただでさえ三成を嫌っている。織田の系譜をことごとく憎んでいるのだ。さらに今宵、里をなくした彼らの最後のより所である姫君が、石田三成の屋敷で害されそうになったのである。
今にも斬りかかる形相であったが、やがてすっと深く三成に頭をさげた。

「姫様をお願いいたす」

牽制だけはしっかりしてから自らも土塀を越えていく。
彼らの姫様は三成の腕の中で気を失っていた。



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